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2019年4月 9日 (火)

広目天が、発ガン性物質を拒否

 高野山の中門の四方に、四天王が中門を通る悪鬼を防ぐため、守りの姿勢で睨みを聞かせている。中門の中の御本尊を守るためである。佛の世界にも、悪鬼が跋扈している。それと同じように、高野山の中門に相当する目、鼻、耳、口、舌で、己の体に入る毒の食品の侵入を防がねばならぬ。それなのに、人間の贅沢で怠惰な本性が、毒の情報を得ず、美味なら毒でも平然と取り入れている。だから病気が絶えない。ガン死が激増しているのだ。

 筆と巻物を持った広目天は、世の毒の知識を得て、悪魔侵入を防ぐため中門を守っている。己も広目天になりきって、世の毒物(発がん性物質)の記載された巻物を読み、自分の食生活を記録して、自分の体を俯瞰して、自分の城(体)を守らねば、ガン・マフィアに殺される。

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高野山 中門 広目天  大仏師松本明慶先生作

 

河村義子先生の訃報

 2018年12月25日に河村義子先生がガンで亡くなられて、師を殺した原因への怒りから、そのガンを発病する原因を調査している。下記はその途中結果である。

 太古の昔は、ガンで死ぬ人はなかった。1830年の産業革命当時でもガン死は2%である。アメリカの1900年代でも4%である。ところが、現在の日本では30%の人がガンで死ぬ。それだけ食事が贅沢になり、知らないうちに毒が盛られたことになった。特に日本は戦後、食生活が欧米化で大変貌を遂げた。それが、日本でガンが増加した最大の要因であると推定される。

 

ガンの本質と間違った治療

 ガンとは、血液の浄化装置である。悪い食生活や生活習慣で出来た「体毒」を一カ所に集めて血液を浄化し、最悪の敗血症を避けるためにできた自己防衛の装置である。それを食生活や生活習慣を改めず、患部だけを手術等で除去すれば、体は自己防衛として、別の場所のガンを作るのは自然の理である。

 ガンは、体の外からきたウイルス等ではなく、自分自身の細胞が変身した存在なのだ。「ガンが突然変異でどんどん増殖していく」という説では、寄生先(己の体)を殺しては、ガン自体も死んでしまうことになり、自然界の法則に反する。ガン患者が死ぬのは、ガン自体で死ぬのではなく、抗がん剤や放射線治療、手術等で体の免疫力が弱まり、肺炎や合併症等で死ぬ割合が80%である。だから、ガンを治すのは、食事と生活習慣を直さねば治らない。

 だから、抗がん剤や放射線療法、手術ではがんは治らない。それは厚生省・抗がん剤の担当技官が「抗がん剤でガンを治せないのは常識です」と断言している。

 厚生省保険局の医療課長・麦谷眞里氏が「・・・抗がん剤について、(健康)保険で支払う必要はない! なぜなら、いくら使っても効果がないからです」2005年10月20日、『医療経済フォーラム』にて)

 

抗がん剤の原料

 抗がん剤が効かないことが分かっていながら、業界(製薬会社、医療機器メーカ、医療機関)の利権保護の為、現在もガン治療として使われ続けている。なにせ莫大な利益を生む金の卵だから。抗がん剤は、第一次、二次大戦で大量に使用された大量殺戮兵器のマスタードガスを原料とし、作られている。大戦後、平和になって毒ガス兵器が大量に余ってしまった。その在庫処理として使われたのが、抗がん剤の原料である。戦争の狂気は、戦後、医療の狂気に変身した。これはブラックジョークではなく、悪魔の本音である。それで金を稼いでいる業界が存在する。それがガン・マフィアである。彼らは、ガン患者が増えれば、喜ばしいのだ。だから、日本のガン死が減らない。

 

日米の差

だから日本は1970年以降、ガン患者が急増している。なにせがん患者を減らそうとは、日本政府の官僚も製薬会社も医療機関も思っていないのだ。アメリカの政府は、正しいがん撲滅の取り組みをして、ガン患者は年々3000人ずつ減ってきている。日本の比例的急増と対照的である。すべて政府の方針の差である。

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発がん性食品を調査

 その発がん性食品を、船瀬俊介著『あぶない抗がん剤』を元に下記にまとめた。食品の発がん性が明白でも、国もマスコミもそれには目を背け、利権団体を守るが如く、臭いモノには蓋をするが如く、積極的には啓蒙活動をしない。明らかに業界と癒着して、業界の利益を損なわないようにしている。それこそが現代社会のガン組織である。

 

肉と腐乱

 肉は最強の発がん性物質である。お肉を常食する人間の大腸がん死亡リスクは、5倍に跳ね上がる。

 「五臓六腑にしみわたる」という言葉があるように、六腑とは内部が空白の臓器のことで、つまり消化器である。「腐」という漢字は、消化器に肉が入ると腐ると警告をしている。

 その臓器の中で一番腐敗しやすい場所が大腸で、そこには善玉菌、悪玉菌、日見菌が大繁殖している。悪玉菌は動物性食品を好んで食べて大繁殖する。そのとき、インドール、スカトール等の有害物質を排出する。これが強力な発がん性物質で、それが腸膜を刺激して、大腸がんが5倍も多発する。肉自体に毒があるわけではないが、腸内に入ると、強烈な発がん性物質に変身する。

 肉の多食によるガン発病の問題の以前の問題として、アメリカ男性の心臓発作による死亡率は、中国人の17倍、アメリカ女性の乳がん死亡率は中国女性の5倍である。つまり動物性たんぱく質は、ガンを誘発し、心臓発作等の死病を作る。日本では、この40年間で、ガン死2倍、乳がん死が4.7倍である。この異常値は、明確な原因があることを示している。

 

加工肉は最強の発がん性物質

 WHОは2015年にハム、ソーセージ等の加工肉は、5段階評価で最強の発がん性物質であると発表した。それでもマスコミはその扱いを、大スポンサーに遠慮して、大きくは扱わない。マスコミは、ガンマフィアに気兼ねをして、偏向して報道しているのが明白である。マスコミは、国民の命を守らない。

 

牛乳も強力な発がん飲料

 牛乳タンパク(カイゼン)は、小麦タンパクのグルテンに比べると8倍の発がん性を持つ。

 牛乳を4倍飲むと20倍の発がん性が現われる。全食品中に占める牛乳タンパクの割合を、10%から20%に増やした場合のガン細胞の増加率を見た実験で、ガンは11倍に激増した(コリン・キャンベル博士)。

 実験動物ラットに強力な発がん性物質アフラトキシンを投入して、さらに牛乳タンパク、カイゼンを5%から20%と4倍に増加させて、ガンの増加率を調査した。カイゼンを5%では発がん性物質の投与にも関わらず、ガンは横ばいで増加しない。ところが、カイゼン摂取を4倍にすると、ガンは20倍に激増した。牛乳は史上最悪レベルの発ガン飲料であった。

 

 お酒は少量でも発がん性物質である。先年、英国の学会がそのことを研究成果として発表した。「酒は百薬の長」は嘘である。食物は胃で「消化」されるが、お酒のアルコールは、肝臓で薬物と同じ工程でしか「分解」されない。その過程でアセトアルデヒドが作られるが、これが発がん性物質である。WHОは、お酒を「薬物」と認定している。だから普通の宴会は、薬物パーティである。だから私は、2年前に完全禁酒とした。

 その昔、私も歓迎会で無理やり酒を飲まされて、嘔吐したことが度々ある。それこそ、野蛮な殺人リンチである。今、思い起こすと怒りが湧き起こる。

 新聞、テレビ等でお酒の宣伝が大氾濫である。いかにマスコミが視聴者、国民の健康に気を使わず、スポンサーに顔ばかり向けているかの証明である。だから私はマスコミを信用しない。

 

タバコ

 説明するまでもなく、発癌性物質である。それを知っていて煙草を吸う人を私は信用しない。私の付き合う人で喫煙者は、一人の例外以外に居ない。それが私の一番尊敬する師なので、悩みが尽きない。

 

砂糖

 ガン細胞は糖分が大好物なのだ。だからガン治療で断糖療法がある。

 ガンになりたくなければ、スィーツ等の砂糖たっぷりのお菓子は避けるべきだ。

 

ストレス

 現在の成果主義、拝金主義、グローバル経済主義狂の氾濫で、サラリーマンは過激なストレスに晒されている。100%完璧主義の人が自律神経が侵されて、免疫力が低下して、ガンになると推定される。もっと人間らしい生活を送るべきなのだ。成果主義で金を稼いで、ガンになって早死にしたら、ブラックジョークである。

 締め切りがあると2日も3日も徹夜をしてやり遂げる「真面目な」人がガンなる。NHKの「プロジェクトX」中でも一番の頂点に立つ人が、ガンで死んでいる。100%完璧主義の仕事ぶりでは、過酷な条件に体の自律神経が耐えられないのだ。

 

抗がん剤

 抗がん剤は、強力な発がん物質で、ガンの増進剤である。抗がん剤では、ガンは治せない。それは厚生省・抗がん剤の担当技官が「抗がん剤でガンを治せないのは常識です」と断言している。

厚生省保険局の医療課長・麦谷眞里氏が「・・・抗がん剤について、(健康)保険で支払う必要はない! なぜなら、いくら使っても効果がないからです」2005年10月20日、『医療経済フォーラム』にて)

 

治療用放射線

 放射線も、ガンの増進剤である。放射線では、ガンは治せない。

 検査用の放射線もガンを発生させる。CT検査では、その10%は、浴びた放射線が原因でガンになったと推定される。

 CT検査は、通常のレントゲン撮影の600倍の放射線を患者に浴びせる。それを年間2回受けると、年間許容放射線容量を超えてしまう。医師はそんなことは、一言も言わない。

 

 本記事のデータは船瀬俊介著『あぶない抗がん剤』(共栄書房)から引用・編集した

 

2019-04-09   久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年4月 3日 (水)

追悼 河村義子先生 

死刑囚として生きる  大きな未完成を求めて 

 「芸術に完成はあり得ない。

  要は、どこまで大きく、未完成で終わるかである。

  1日を大切に精進したい。」 奥村土牛画伯

 土牛画伯は、富士山をテーマに多くの絵を残した。画伯の死の1年前、100 歳の時に描いた「100歳の 富士」は有名だ。とても、100 歳の時の作品とは思えない。その画風は単なる美しい富士山ではなく、白い雪化粧の中に、宗教的雰囲気と精神的葛藤を漂わせている。画伯が100 歳を超える長寿で、かつ現役であり続けえたのは、「大きな未完成」を求めるため、前向きの意思と芸術へのこだわりを持っていたためでしょう。画伯の上記言葉は、芸術に限らず人の全ての分野に当てはまるのでは。人は意思と目標がなければ、長生きはおろか、人生の全うもできまい。

 人は必ず死ぬ。人は生まれた時に、神様から死刑宣告をされている。それゆえ、死刑囚としての人の生きざまは、死をどの様に認識するかで、100 年間の残り少ない(?) 日々を送る時、そのアウトプットが大きく異なる。特に、後世にその作品を託す芸術家は、限られた時間をいかに作品に昇華すべきかに心血を注いでいる。

 

芸術の価値

 美術品や骨董品が、何故価値があるかは、それの壊れていない姿にある。だからこそ、人は有り難がり、大事な物として床の間や美術館に飾るのである。これが少しでも欠損していると、全く価値がなくなる(それは歴史博物館向き)。人を骨董品に例えると失礼だが、人が100 歳まで生きて、なおかつ現役であることに、その偉さがある。壊れた骨董品に価値が無いように、いくら長生きしても「創作」活動を停止したのでは、人としての存在価値が半減する。長くその地位にあること、長くその仕事を継続していることは、それだけで価値がある。長く続けるだけでも、それ相応の情熱と努力がなければできない。人並み以上の時間の継続は、現状維持で良い、との安易な姿勢では達成できない。人生での現状維持は、即後退を意味する。それは残存時間をカウントする時限タイマーを早送りモードにすること。その気持ちになったら、後進に道を譲るべきでしょう。

 

死刑囚とは

 作家で精神科医の加賀乙彦氏が、興味ある報告をしている。彼は刑務所で多くの受刑者と面接して、終身刑の囚人と死刑囚との間で、その生き方に明白な差を見いだした。終身刑の囚人が、なんとなく元気がないのに対して、死刑囚は元気でキビキビしている。両者の差で明白なのは、前者の眼は死んでいるが、死刑囚は眼が輝き、澄んでキラキラと輝いていることだという。終身刑の死が不確定なのに対して、死刑囚は明日にも死刑執行があるかもしれない。その緊張感の有無が、この差を生むらしい。それは死刑囚が死を避けて通るより、避けえない事実として、1日1日を有意義に過ごそうとする意識が働くためのようだ。

  「死を見つめる意義」大阪大学人間科学部教授 柏木哲夫

                   『日本経済新聞 夕刊1996.10.12』

 

100歳の奥村画伯

 100 歳を越えた画伯が、有限の時間を意識しないはずがない。その日々の心情は、ある意味で死刑囚と同じかもしれない。だからこそ、限られた時間内で、緊張感を持って生きる大事さを認識していたのでしょう。それが冒頭の言葉に顕れている。だらだらとした日々を送る終身刑の囚人より、緊張感のある死刑囚として生きたほうが、有意義で前向きの人生が送れるようだ。生きているのと、生き永らえるとの差は限りなく大きい。

 そんな(100 歳の)画伯の筆使いが、雪化粧の富士山を美しくそびえさせつつ、成長するかのように描かせている。しかし、その美しさは、絵葉書等に登場する「単に」美しい富士山のそれではない。富士山の頂上の美しさは、それの歴史を示す中腹部の崩れゆく暗い岩肌の対照として、輝きとして存在する。まるで人の古傷や生きざまを表した縮図であるかのように。これは長年(?) 、人間家業をしてきた画伯の醍醐味かもしれない。この芸当は、80歳の鼻垂れ小僧にはできまい。死刑囚としての私の死刑執行は、明日か30年後.....

                     

エピローグ 

 ある本で土牛画伯の言葉に触れた数カ月後の1996年10月11日、あるご縁で、この『百歳の富士』のリトグラフが、で目の前に提示された。あるご縁を感じた私は即決購入し、この絵を土牛画伯の命の具現化として、自宅に飾った。この絵は試刷りのリトグラフで、土牛画伯のサインはないが、本物のリトグラフである。

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義子先生の死計

 河村義子先生は5年前に、難病のガンが発見され、余命宣告された。義子先生は、根本治療をすると、ピアニストとしてやっていけなくなることが分かり、手術を拒否して最期までピアニストとして生きる道を選ばれた。義子先生は最後の最期まで、ピアニストとして命を輝かせて生きた。

 その輝きは、欧州への演奏会旅行、TIMM との演奏会、ドレスデントリオとの演奏会、カナデノワコンクールへの立ち上げ、クリスマスコンサートの企画、音楽監修、後進の指導等で、死期が迫っている素振りを全く見せず、その素晴らしい音楽活動を遺された。芸術家として、未完の完成を目指して命を燃やされたと思う。その時期が享年61歳として少し早かったが、活動に悔いはなかったと思う。それがせめての慰めである。だから1000人余の弔問客が押し寄せたと思う。

 その病気を知らない多くの人が、その訃報の愕然とした。私も見事に騙された一人である。先生のレッスン中でもその気配は見せなかった。たまに雑談で、死を予感する言葉を示唆されたが、冗談だと思い、鈍感な私はそれに気がつかなかった。

 

死の示唆

 「この写真は私の遺影に使うの」、「ヨーロッパの演奏旅行を完遂できて、もう思い残すことはない」(帰国後の発言に当時、何を大げさな!と私は呆れた)、「白木の箱でなく帰宅できました」、等を考えれば、先生の心情が理解できたのにと悔いが残る。なぜあれほど、ドレスデントリオとの演奏会開催にこだわって、実現に精力を注がれたのか、当時は分からなかったが、逝去されて初めて悟る愚かさを痛感する。

 私の玄関に飾ってある「百歳の富士」を見るたびに、未完の完成を求めて死の間際まで音楽堂に求道された義子先生を想いだし、先生を偲んで、追悼の言葉としたい。

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シュッガルト楽団と共演(シュッガルトのHPより)

ドイツにて 2016年5月

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TIMMとの演奏会(大垣市音楽堂)‎2017‎年‎9‎月‎29‎日

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「世界で一流の音楽を楽しむ会」に呼ぶ予定のサラ・ディビスさんの演奏会で。(多治見市) ‎2018‎年‎5‎月‎29‎日、

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最後の公式演奏会「ドレスデントリオとの共演」大垣クインテッサホテル

2018年1月13日

2019-04-03     久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年3月22日 (金)

磨墨智624. お坊さんと仲良くなろう

 いつかはお世話になるお坊さんです。後に残る人のために、お坊さんと仲良くなっておこう。後に残る人の時間が助かる。

 お坊さんは、その人の生前の言動から、本人に一番適した戒名を付ける。それが葬式の時、慌てて戒名をつけると、親族からその人の生前の姿を聞き込んで、その人にあった戒名を付けねばならぬ。

 私は今年か来年に戒名を授かる「受戒会」をしようと計画している。生前に戒名を授かると、安心して旅立てる。自分で自分の戒名に納得して、受けることが出来る。死んでから戒名を付けてもらっても、本人は知らず、である。戒名を授かるとは、その戒名に込められた「戒律」を背負って生きていくことである。あの世での仏道修行の前修行なのだ。

 

戒名のトラブル

 私の家でも住職が、祖父と母の戒名を付け間違えて、位牌と墓誌を作り直した痛い経験がある。墓誌だけでも100万円の損害である。お寺に苦情を言うわけにもいかず、泣き寝入りである。住職は、その責任を先代住職に押し付けて、お寺としての責任を取らなかった。私は腹に据えて、よほど怒鳴りつけて菩提寺を変更しようかと思ったほどだ。

 間違いはだれにでもある。問題はその事後策である。それはお寺と言う組織の問題である。今のお寺の責任者は誰なのだ。組織としての問題は、先の住職の問題でも、お寺として現在の責任者の責任なのだ。そういう状況で、責任者として、どう責任を取るのだ。お寺は別世界で、危機管理が全くできていない。お寺の世界は、一般の企業理論が通用しない。

 

義子先生の戒名

 河村義子先生は、お寺で演奏会をしたり、ピアノを寄付したりと、生前にお寺さんに多大の貢献をして、その人柄もお寺さんが熟知していたので、「聖観音院教音義愛大姉」との立派な戒名を贈呈された。この戒名は、まとものお寺さんなら100万円は請求されそうである。それだけ義子先生の貢献が大きかった。

 

2019-03-22 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

磨墨智623. 「死にそう~」と言わない

 でも貴方は本当に死ぬわけではない。不治の病で本当に死を目前にした人がいる。そんな人の手前「死にそう~」など甘えの言葉! 甘えの気持ちから時間は創れない。死ぬ覚悟でないと、時間は創れない。

 河村義子先生の死の直前の10日は辛かったと思う。義子先生は、体力的に家事ができなくなり、家族に迷惑をかけるので、大垣音楽堂でのクリスマスコンサートが終わった次の日、2018年12月16日、近所の緩和病棟に入院された。その連絡のメールでは、そんな緊急事態とは思えない文面であったので、私は油断した。生前にお見舞いをされた親友のAさんは、義子先生の手を握ったが、握り返す力が全くないのに愕然として、年内は持たないだろと感じたという。義子先生の場合、内臓全体が機能不全に陥っていった。「死にそう」とは、それほど、辛い状況なのだ。義子先生は、12月25日に逝去された。

 

2019-03-22 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年3月21日 (木)

磨墨智604. 死ぬな

人生の目標を持たないから早く死ぬ。

朝起きて、寝るまで、特にやることがないから、認知症になる。

到達点を見極めないから路半ばで死ぬ。

己の命の期限を悟らないから、老計も死計もなく無計画に生きる。

生きたいという願望がないから死ぬ。

生きたくない人の命は、捨てられた命。堕落した生活に堕ちる。

生きたいという強い願望があれば神様が生かしておいてくれる。

河村義子先生は、2018年9月7日に余命1週間と宣告されたが、最後の後進への指導の願望があり、奇跡的に回復し、退院して1か月のレッスン時間と12月8日、15日のクリスマスコンサートの音楽監修の時間を創った。その後、12月16日に再入院して12月25日に亡くなられた。

生かされていることを感謝して働いて時間をつくろう。

Dsc01825   2017年12月2日、一年前のクリスマスコンサートで、愛弟子の小林朱音さんのリハーサルを厳しい眼で見つめる義子先生。愛があるから厳しく教えられる。手に持つ鉛筆が印象的。大垣フォーラムホテルにて。

 

2019-03-21 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年3月16日 (土)

仕事は自分を写す鏡、義子先生の命の仕事

 宗教も仕事も、自分の魂を昇華させる燃料である。自分の心の状態がプロジェクターで投影されるように、宗教や仕事に反映される。みほとけとは自分の心のある考えの象徴である。仕事を通して完成されるのが自分の魂である。未完の自分をいかに高めて次のステージに移るかが、この世で問われる課題である。人生に完成はない。いかに理想に近づけるかが、腕(魂)の見せ所である。出あった仕事をどう解釈するかで、その人の生き様が変わる。

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雑用

 言いつけられた用を雑にするから、雑用になる。その仕事だけを取り組んでいる人にとって、雑用はない。その「雑用」で、心を込めて取り組めば神聖なご用となる。どんな雑用も人のためになる「仕事」なのだ。

 渡辺和子シスターが、若い頃アメリカの修道院で修行をしたとき、食事前の準備でテーブルに皿を並べる「雑用」を言いつけられた。彼女がその雑用をそこそこにこなしていると、それを見ていた修道院長から、「何を考えて皿を置いていますか」、何も考えていません」、「お皿を置くときに、なぜ、その席に座る人の幸せを祈れないのですか。お皿を置くごとに、「お幸せに、お幸せに」とお祈りしながらお皿を置きなさい」と叱られたという。皿をテーブルに並べるという雑用が、心を込めることで神聖な仕事に昇華する。

 

解釈

 師や上司からある用を言いつけられた時、その用をどう解釈するかである。修行と見るか、罰と見るかで、その後の人生が変わる。過去の苦役・不運を、自分を高める修行と見ることができれば、未来は明るい。

There is no facts, only interpretenstion.

事実はない、あるのは解釈だけ。  ニーチェ

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命をかけた最期の仕事

 河村義子先生は、2018年12月8日(米原)、12月15日(大垣)のクリスマスコンサート(白鳥の湖)の音楽監修を最後の仕事としてされた。12月25日の死の2週間前の病床で、私が撮影したビデオ映像を見ながら、病をおしてその音楽監修をされた。それを12月15日の大垣音楽堂でのコンサートに反映できるように、音楽監修でその修正指示をされた。12月16日は再入院であった。12月17日に、義子先生の自宅に大垣公演の編集無しのビデオを届けた。

 12月15日の大垣でのコンサートをビデオで見て、「素晴らしかったよ」と愛弟子の小林朱音さんのピアノ演奏ぶりに涙を流して喜ばれた。それが義子先生への餞となった。義子先生の後継者育成の仕事が終わった。

 義子先生の命をかけた魂の仕事ぶりが、クリスマスコンサートに反映されたのを嬉しく思う。多くの子供たちも喜んでくれた。コンサートの写真撮影、ビデオ撮影で、そのお手伝いの一部をさせて頂いたのは光栄である。撮影当時は、そんな状況とは露知らずであった。そういう撮影のご縁を頂いたことに感謝です。

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2018年12月8日 米原公演、リハーサル

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2018年12月15日 大垣公演、リハーサル

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2018年12月15日 大垣公演、本番

出演は、林葉子バレエアカデミーの皆さん

         『命の器で創る夢の道』P103より

 

 2019-03-16 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年3月15日 (金)

肉なしサンドイッチを探し回って八百里

ソーセージ、ハムなどは「確実な発がん物質」

 2019年3月12日、お江戸に行ったとき、ハムなしのサンドイッチを食べたいと弁当売り場に行ったが、それが無いのである。名古屋駅の新幹線弁当売り場でも、新幹線車内販売でも、東京駅コンコースの弁当売り場でも商品がないのである。最後の最期に、新宿駅西口のパン売り場でやっと一種類だけ、卵と小エビのサンドイッチを見付けて購入できた。他の大多数のサンドイッチは、カツとかハムとかベーコンとか、必ず肉類が入っている。

 

日本の食の安全性は?

 これで日本の食の安全性を考え込んでしまった。食べる食材の知識を持ち、自己防衛しなければ、我々は食品メーカに殺される。

 1975年からこの40年間で、ガンは3倍に増え、乳がんは4倍に増えた。年間で、日本人の99万5千人が、ガンに罹患する。昨年度の日本の新生児は94万人、死亡者は137万人である。99万5千人とは、ほぼ年間の新生児の数に相当する。

 河村義子先生は、日本の食の安全性不備で殺された。

 

加工肉は確実な発がん物質

  世界保健機関(WHO)が、2015年10月、ベーコンやソーセージ、ハムなどの加工肉は「確実な発がん物質」であると発表した。その確実性はタバコやアスベストと同じ程度の確実性としている。これらを何年もたくさん食べていると、大腸がん、膵がん、胃がん、乳がん、などのリスクが上がる。世界保健機関は、赤肉についても「恐らく発がん物質」だろうと指定している。

 

赤肉も「恐らく発がん物質」

 加工肉と赤肉の摂取は動脈硬化症や糖尿病との関連もある。動脈硬化症は脳梗塞、心筋梗塞、下肢の動脈閉塞、大動脈解離、動脈瘤などの最も多い原因である。オックスフォード大学の試算では、加工肉と赤肉の摂取が原因となって起こる人々のがん、動脈硬化症、そして糖尿病などを世界全体で試算すると、2020年には2850億米ドル(約28兆円)もの経済損失となるだろうと指摘している。損失分のうち、約3分の2は加工肉である。

 

啓蒙活動の怠慢

 日本人の死亡原因の1位はがん、2位は心臓病である。こういう「確実な発がん物質」や心臓病の遠因となる食材を食べないように啓蒙活動することは、政府や報道機関の役目だと思うが、政府はメーカに気兼ねをして、マスコミは食品メーカに気兼ねをして、そんなことは、さらさら考えていないようようだ。なにせ食品メーカは、広告収入の大スポンサーなのだ。メーカも己の利益追求が最優先で、人の命など知ったことではないのだ。これが拝金主義経済、グローバル経済主義である。

 

以上は、「加工肉は「確実な発がん物質」の衝撃。医師が「加工肉税」を提唱 2019.03.06 by ドクター徳田安春『ドクター徳田安春の最新健康医学』」を参考にしました。

https://www.mag2.com/p/news/382858/2

 

2019-03-15 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年3月14日 (木)

死の床で会いたい人

死の床に呼んでもらえますか?

  その昔、大病を経験し死を覚悟したことがある。その時、病院の死の床で会いたいと思った人(肉親等は除く)を思い浮かべると、60年間も生きてきて、数人しかいないことに気が付いて、愕然とした覚えがある。

 同じ質問を知人にすると、一番の親友はゼロだという。他の知人の数人に聞いても、やはりその数は数人止りのようだ。

 

死の床に呼びたい人の条件

 会っていて毒気や嫌味を感じない人。

  毒気のある人は変なオーラが出ている。

 素直な人、明るい人

  会っていて、こちらが楽しくなる人。

  こちらが相手の毒気の影響を受けて、陰鬱になる人は除外である。

  会っていてこちらが元気をもらえる人。

 いつも温かく見守ってくれた人

 魂のきれいな人、純粋な人

 恩義を感じてくれる人、義理堅い人

  飯を食わせたり世話をしたのに礼状一つよこさない人はお断り。

 師には会いたくない。

  なにか畏れ多くて、自分が死にそうなとき、気が重く負担になる。

 人が良くても、何もない人は駄目。

  生きている付加価値を感じる人でないとダメ。

 

自分は「あの人」の死の床に呼ばれる資格があるか?

 自分の言動、性格を俯瞰して、そういう死の床に呼んでもらえる人かどうか自省したい。そうなるように精進をするのも、魂を昇華させる一手段であろう。

 

河村義子先生の場合

 河村義子先生は、2018年12月25日に逝去された。その死の10日前の12月16日に、「体調が戻られたら、退院お祝いで一席でも」との返信で、

「それが、、Uターンです。岐阜清流病院の緩和病棟601にいます。17.18.19はいません。またお近く通られましたらのぞいてください。  クリコン、撮影などありがとうございました。病院でもみれるようにポータブルのものを買いました!やはりまだまだブルーレイは広まってないようです。^^大垣のもの、お待ちしてます。私の自宅へおくってくださる?  河村義子」

というメールが来た。これが義子先生の最後のメールとなったが、鈍感な私は、義子先生が死の床のあるとは夢想だにせず、退院されたらお祝いをしようと思っていた。「緩和病棟」という文字を見落とした。悔いである。またやつれた女性の方の病院見舞いは男性として躊躇があり、華やかさのある先生もそんな姿を見せたくないはず。義子先生のご夫君の意見としても、会わなかったのが良かったようだ。この世では、義子先生の「死の床」のご縁がなかったと思う。私としては、何時までも元気な義子先生の面影を心に抱くことができてよかったと思う。

 義子先生が、死の床で、私を会いたい人の一人に選定してくれたことを嬉しく思う。自分の体験と照らし合わせて、それを実感した。

 

死の床での出会い 

 死の床で会いたい人とは、仏様のような人だ。もし幸いにして死の床から復帰できたら、その後の人生で、大事にしていくべき人なのだ。その人を手本として生きていくべきだ。

 死の床に来てくれた人、来なかった人、そこから多くの学びがある。

 

転衣

 転衣とは仏教の学びの結論である。転衣とは、生まれ変わる、あるいはよりどころが変わる、価値観が変わるという意味である。死の床を経験することで、「転衣」して良き友をよりどころにして生きていくと、新しい人生が開けてくる。

 

2019-03-14 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年3月 7日 (木)

魔法の薬入り牛丼は美味い、だから禁止

「佛は牛丼を我慢する」(2017/6/4)を改定

 誰が河村義子先生を殺したのだ?

 

ファーストフード禁止令

 ロワジールホテル大垣の料理長・齋藤さんは修行時代に親方から「牛丼、カレー、ホンだし入りの味噌汁は食べてはいけない」と指導された。牛丼が世に出回り始めた頃の話である。

親方曰く「牛丼はあまりに美味しすぎて味覚が麻痺するので、料理人として食べてはならない」普通の料理方法では、あれだけの魅力的な味は出せないという。魔法の調味料(味覚を麻痺させる化学調味料)を多量に入れてあるからだという。だから味覚も確実に劣化する。多量に食べ続ければ、何時かは体がおかしくなる。またそんな美味しいものが280円で食べられることが異様である。安いものにはワケがある。

 

牛丼の添加物の発がん性

牛丼が美味く、安いのには訳があった。その牛丼のタレには粘り気を出すために増粘剤が使われている。その増粘剤には、発癌性が疑われているものもあるという。増粘剤の一部は、EUが幼児用食品に禁止している。なおかつ、スーパー等で売られている食品はその成分の表示が義務付けられているが、食品表示法において、外食事業者は使用する添加物を明らかにする義務がない。

「週刊現代」の編集部が、外食産業にその添加物の内容を聞き込み調査しても、殆どの外食産業は回答を拒否したという。各企業は他社との価格競争に打ち勝つために、料理の質を向上させるよりも、コストダウンが最重要課題である。外食産業は人手不足で、人件費は高騰している。また魚などの原材料費が値上がりしている。だから各企業はコストを下げるために、添加物で味をごまかしている。(この項、『週刊現代 「あの有名牛丼屋でも発がん性物質が使われていた」2019316日号』をもとに記述)

 

ガン患者の急増の怪

牛丼が世に出回り始めた40年前の日本の医療費総額は、10兆円ほどであったが、現在は40兆円を超える。医療費総額の最高額の更新は12年連続である(20159月現在)。医療が発達しても患者は増え、医療費は増える一方である。最近はガン、認知症、糖尿病の急増である。今では若年性認知症まで蔓延している。当時は、認知症など話題にも上らなかった。何かおかしい。その医療費の増加は、日本のファーストフードの普及の歴史と重なる。ファーストフードに含まれる、糖分、劣悪油、添加物、抗生物質や成長ホルモン、女性ホルモン(牛や鶏の餌に含まれる)を多量に日本人が摂取しはじめたせいではないかと私は推定している。

河村義子先生は、10年まえに乳がんを患い、それは完治したが、5年まえに腹部にガンを発症させ、2018年12月25日に亡くなられた。日本の食品に含まれる添加剤、抗生物質、成長ホルモン、女性ホルモンが原因だと私は思う。これは、行政の規制の怠慢である。全て利権につながっているので役所も及び腰だと思う。これは日本のガンである。

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乳がんの激増

 1975年から2018年で、乳がんが21人から98人(10万人あたりで)に増加である。実に4.7倍の増加である。子宮がんは2倍、大腸がんも2倍の増加である。(愛知県がんセンター調査)。何かおかしい。それは1970年頃からの高度成長期、急速に進んだ食の欧米化で、乳製品、肉類の消費量増加が原因と推定される。特に女性ホルモンの混入した乳製品を消費しだしたのが原因と私は推定している。大腸がんの増加も食の欧米化で野菜類の消費が減ったのに起因する。

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カップラーメンの怪

私は若いころ、胆石症を患って、胆のう摘出手術を受けた。その後、カップラーメンを食べると、てきめんに下痢をするようになり、カップ麺を食べなくなった。油を消化する酵素を濃縮して出す胆嚢がないので、体がカップ麺の油を受け付けないようだ。つまり、カップ麺には人間の体に合わない油を使っているようで、私の抵抗力のない体が正直に反応したようだ。お陰で、この40年間、カップ麺とは縁のない生活をしている。

 

カップラーメンは毒?

当時、カップ麺を食べた後、そのカップを後から容器として使おうと流しの水に漬けて置いたら、いつの間にか大きなムカデがそのカップに入って死んでいて、気持ちが悪く、ぞっとした記憶がある。要は、カップ麺のカップに残った汁を吸って、ムカデが死んだのだ。それは人間にも、体に良いわけがないと悟った。

 

体の門番

とは口という門から入る食物を毒見する六根の一佛である。六根とは六織を生ずる六つの感官(眼・耳・鼻・舌・身・意)の称である(佛語)。そのお役目は体の防衛である。しかし化学調味料はその六根の門番さえも騙してしまう魔物である。

 

 カレーは、いつ何処で食べても美味しく食べられるので、味覚が麻痺させられる。カレーには香辛料が多く入っている。香辛料とは胡椒等の本来の味を誤魔化す調味料である。胡椒とは保存技術の無い中世ヨーロッパで、腐りかけた肉を少しでも美味しく食べるために、腐臭を誤魔化すために使った調味料である。腐った肉が体に良いわけが無い。その腐臭を誤魔化すための香辛料も体に良いわけが無い。

胡椒が宝石のように高価なインドの特産品であったので、奴隷商人のコロンブスは、胡椒の新しい運搬航路を求めて新航路を探す旅に出て、新大陸を発見した。その後、アメリカ原住民のインディアン600万人が、アメリカ人(イギリス人)により虐殺された。カレーとは、そんな曰くつきの料理である。

 

ホンだしも化学調味料であるので、同じ理由で不可である。齋藤さんがある土地でメチャウマのラーメンに出あった。その料理をするところを見ていたら、小さじ一杯の白い粉を汁に入れていた。白い粉は、味の素に相当する化学調味料の何かであったようだ。

 

我慢とは煩悩である

我慢とは七慢の一つである(佛語)。七慢とは、過慢、慢過慢、我慢、増上慢、下劣慢、邪慢を言う。慢とは「忄」(心)+「曼」〔音〕で、「心が伸びたるんで怠る」を意味する。「我慢」の意味は、①我をよりどころとして心が高慢であること、②我を張ること、③じっと耐え忍ぶこと、である。当初の意味の「自分自身に固執する」ところの①の意味から②に転じ、さらに③の意味となった。

 七慢は人が持つ煩悩である。その煩悩を断ち切るのが不動明王の持つ宝剣である。佛法、佛像を作り出した古代の賢者は、人の持つ慢心を知っていた。慢心を持つ人の本質は、2千年前から少しも変わっていない。それが、今でも不動明王が現役で活躍する所以である。

 

2019-03-07  久志能幾研究所 小田泰仙

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2019年3月 4日 (月)

目は命を語る

モジリアーニの描く女性の顔は、極端に引き延ばされ、空白な目が虚ろにこちらに目を向ける。黒い眼は外をみつめ、黒目のない空白の眼は、自分自身の内面を見つめている象徴である。自分自身を内観をして自分を見つめ直そう。自分を見つめる事で、未来の時間が創造できる。答えは自分の中にある。

 

目の修正のお願い

  昔、高塚省吾画伯にイメージを伝えて絵を描いてもらったら、完成した絵の目が気に入らなかった。その目は、今まで高塚画伯が描いてきた澄んだ、真っすぐ前を見ている目ではなかった。それで、お願いをして修正してもらった。そのとき、画商に、絵の目の意味を教えてもらった。同じ絵でも、たった一つの瞳の描写如何で、顔の印象が劇的に変わる。今にして、大画伯に大それた厚かましいお願いをしたものだと思う。それを快く修正して頂いたことに感謝である。

 

目のメッセージ

人間の目も同じである。自分の目の輝きというメッセージを相手に伝えよう。目の輝きが人生の希望を示す。若者でも、未来の希望を失い目の死んだ者がいる。老いても、目が輝いている人もいる。

河村義子先生は、命の期限を切られてから、最後の日まで音楽の夢を実現するため一歩でも前進しようと目を輝やかせて生きた。義子先生は志半ばで、走りながら斃れられたが、その志の灯は弟子に受けつがれた。義子先生は、青春の時間を過ごしたのだ。

 自分は時間を真剣に見つめる目を持ちたい。自分を見つめる目、過去と現在、そして未来の自分を見つめる目はどんな目?

Photo

高塚省吾 「新涼」  10号

   『命の器で創る夢の道』p210、『磨墨智383-1.モジリアーニを演じよう』より

 

2019-03-04  久志能幾研究所 小田泰仙

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