m_河村義子先生の歩んだ道 Feed

2020年7月 8日 (水)

神様仏様ご先祖様、河村義子先生様

新型コロナウイルス騒動で自分の癌を振り返る

 

 もし私が河村義子先生の死に接しても、胸騒ぎも覚えず、癌の検診を受けずに過ごして、昨年の癌の発見が1年遅れていたら、今年の新型コロナウイルス騒動に巻き込まれて、手術もしてもらえなかったかもしれない。癌の治療で、体の免疫力が低下して、新型コロナウイルスに負けて死んだかもしれない。新型コロナウイルスで死んでいるのは、高齢者や病気持ちの人が過半である。入院しても、ガンセンターが面会禁止で、面会者も来てもらえない状況になったかもしれない。癌の発見が遅れ、それで転移もして、手遅れとなったかもしれない。

 勝手な想像だが、私は神様仏様、ご先祖様や河村義子先生の霊が私の命を守ってくれたと信じている。

 目に見えないものを信じることができるのは、素晴らしいことだと思う。それで心の平安が保てるなら安いものだ。見えないものを信じるか信じないかが、動物と人間を分ける境界である。

 

運の良し悪し

 自分は運がいいと信じている人とそうでない人との運の良しあしは変わらないとの統計的データがある(脳学者・中野信子氏の講演で)。それならば、運がいいと信じて、前向きに信念を持って仕事に邁進した人の成功率は、絶対に高いはずだ。私はそう信じて生きてきた。

 

根源様

 松下幸之助翁も、人が見たら当たり前のことを、自分は運がいいと確信して、仕事に邁進した。彼は超零細の松下商店を世界の松下電器に育てた。松下幸之助翁が信じたのは、宇宙根源様である。松下幸之助翁は、京都の迎賓館の庭に根源様の社を作り、そこの前で沈思黙考をして、経営の決断をした。

 それと同じ社を、京都のPHP研究所ビルの八階にも設置してある。松下幸之助翁はそこで同じくお参りをしていたそうだ。私も松下幸之助経営塾に参加したおり、それを真似てお参りをさせて頂いた。

P10605101s

  PHP研究所ビルの「根源様の社」  参拝者は著者 2013‎年‎5‎月‎18‎日

 

2020-07-08 久志能幾研究所通信 1659 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2020年5月 5日 (火)

写ッシー君は魂(オニ)を睨む

芸術とは

 音楽とは音を素材に使った心(魂)の会話なのだ。芸術とは心の表現とそれに接せる人との会話である。絵画、彫刻、写真等は、全てその会話の媒介物(仏)でしかない。介在仏の芸術作品には魂が籠っている。私はそれにこだわって美術作品、芸術作品に接している。私の撮る写真には魂を込めている。だから名画と呼ばれる作品は、人の命と同じ価値がある。

 「魂(オニ)」とは己のうちにある「鬼」が「云う」と書いて魂である。

Dsc03535s

 松本明慶大仏師作 「魂(オニ)」、背景は馬場恵峰書

 

Dsc04554s

裏切り行為

 私はこの5年間、多くの演奏中の写真を撮ってきた。しかし、その写真を撮ってプリントやCDを進呈しても、相手は当然と思い、感謝の言葉を言ってくれる人など皆無に近かった。カメラマンとは黒子の存在で、人扱いをされていないようだ。

 河村先生からはその都度、お礼が来ているので、気にならなかったが、それ以外の人は、礼状もお礼の言葉さえ全くない。たまに忘れたころに年賀状が届き、ついでのようにお礼が書いてある。お礼を期待して写真を撮っているのではないので、今まで気にも留めなかった。しかし河村先生が亡くなられて、その問題点に疑問を感じるようになった。

 

 

人間性の問題

 ある音楽関係者は、写真を送っても礼一つ言わず、その写真の出来映えに文句さえいう有様である。私に写真を撮ることを要求して、撮らせて当然と思っているようだ。私もカメラマンのプロとしてプライドがある。

 ある人は先生の名声を利用して事前の演奏会宣伝で売名行為に走っている。それに地方紙が悪乗りして記事を掲載しても、肝心の本番の演奏会の記事は掲載がない。売名行為が明白である。その人からも、以前にある演奏会の写真送付の依頼があり、その写真を送っても、礼の言葉の一つさえない。

 地方紙に私の撮影した写真が著作権違反で引用されたこともあった。それも勝手にトリミングされての掲載であった。私が魂を込めた作品を踏んづけたのだ。

 それに対照的なのが馬場恵峰先生の書友達である。写真を送ると書友の方だと、必ず手紙、それも毛筆かペンでも直筆の礼状が来る。その差は顕著である。

 

芸術家とは

 芸術家は、自分の才能に惚れて、往々に我儘な性格になるようだ。小さい頃からちやほやされ、プレゼントされても当然の世界に浸るのかもしれない。芸術家は華やかな世界だが、離婚者も多い。自分の稀有な才能に自惚れて、我慢が出来ない性格になるのかも知れない。

 芸術家である前に、一人の人間としてありたい。河村義子先生はピアニストである前に、人間味のある主婦であり、母であり、教育者であった。しかし、そこまで弟子達を指導できなかった先生が不憫である。河村先生に群がった人の中には、そうでない人が多くいたようだ。

4k8a3404s_2

 チェリストTIMMとの共演 音楽堂 2017年9月29日 

 

2020-05-05   久志能幾研究所通信 1569 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年4月 5日 (日)

「河村義子先生、何故そんなに頑張るの?」

「つなげたいから」がその答えであった。

 

 どんな偉大な人でも、その事業やプロジェクトは一代限りである。後継者で、創業者と同じかそれ以上の能力、熱意がある人が存在することは稀である。つなげようというのは儚い希望である。後継者の誰にも、そんな能力はない。どんな帝国、会社、宗派、学閥、芸道門でも、同じである。

 

後は野となれ山となれ

 一代で栄華を極め、全てを置いて消えていく。誰からも認められなくても、真っ黒になり働き、静かに消えていく「後を継ぐ人はいない」と覚悟するからこそ、自分で出来る限りのことをして、あの世に旅立つ。後は野となれ山となれ、である。それが世の常である。無常こそがこの世の定めである。その人の能力が高いほど、熱意が多き程、その落差は大きい。

 今回、河村義子先生がご逝去された後の事象を見ていて、つくづくと無常を感じた。今川順夫最高顧問のご逝去後の状況も同じであった。後進で付き合うに値する人がいないのだ。それを利用しようとする人も存在することを知っただけ、賢くなった。私は煮え湯を飲まされて、その人たちと縁を切った。

 

生き方の再確認

 自分の事業も後進に託さず、自分で自分の道の後始末をして旅立ちたい。人生は一期一会である。期待するから裏切られる。人知れず世のためになる事に全力で尽力し、あるがままに生きる。ご縁のあった人に清風を感じてもらえば、それでよい。それが河村義子先生の最期の教えであった。死を覚悟して、力を振り絞り最後の頑張りをする河村義子先生と出会えたことに感謝である。

Dsc04341s  河村義子先生の最後の公式公演 ドレスデントリオとの共演

 クインテッサホテルでのニューイヤーコンサート  2018年1月13日

Img_64091s

Img_64141s

 

Img_64111s

 馬場恵峰書 2006年

 

2020-04-05 久志能幾研究所通信 1524 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年3月26日 (木)

磨墨知33-1 タイマツを掲げよう(2)

 タイマツとは、志・夢・憲法・方針である。それが自分の行き先、組織の目指す先を示す。暗夜の中、タイマツが行き先を照らす。ニューヨークの入り江に建つ「自由の女神像」の掲げる燈火が、アメリカに移民してきた人々に勇気を与え、心を鼓舞させて、自由の国を造った。

河村義子先生の夢が、大垣の音楽芸術活動のタイマツとなった。大垣の未来を背負う子供たちに夢を与えた。 4k8a3399s  チェリストTIMMを招いてのコンサートに、120名の子供たちを「あしながチケット」で招待して、子供たちに一流の音楽に接しさせた。演奏会の前に挨拶をされ、子供たちのためにベーゼンドルファーのピアノをやさしく解説された河村義子先生。子供たちをこよなく愛した先生であった。(2017年9月29日 大垣音楽堂で)

今川順夫氏のシベリア抑留で生まれた負けじ魂の炎が、大垣の恒久平和の願いとなった。氏は子供達の為に多くの寄付をされた。Dsc04619s  地獄のシベリア抑留の講演会で、支給されていた一食分のパンの量を説明する今川順夫最高顧問。これで極寒の中の重労働に耐えて生還した。「この地獄を生きのびて日本に帰り、会社を創るのだ。こんなところで死んでたまるか」と、その負けじ魂で、シベリアから帰国後に会社を創立して、5000人の会社を作り上げた。(2014年8月14日 大垣興文地区センターにて)

安岡正篤師や渡部昇一師の著書や多くの偉人の書が、私の心に灯をともした。 

憲法の威力

 日本国憲法が戦後の日本の行動を決めてきた。日本憲法は、アメリカが二度と日本が立ち直れないようにした自己縛りの憲法である。70年前の敗戦の混乱のさなかに作られた憲法で、アメリカから押し付けられた憲法である。賞味期限が切れている。北朝鮮、韓国、中国からの侵略行為に対して、国を守るには無力の憲法である。ドイツでも戦後、数回の憲法改正を行っている。改憲しない方がおかしいのだ。

 大垣市民憲法が、大垣の行く末を決めてきた。大垣市民憲法も、小川敏が2009年に大垣市民憲法を改悪してから、大垣の没落が始った。必然の流れである。

 

行き先明示

 後に続く人が先頭を走る人が斃れても、先人が掲げたタイマツの方向が分かっていれば、後進がその方向に進路を向ければ、何時かは目的地に到達する。行き先が分かっていれば、部下は安心してリーダについていく。

 自分の行先の目的地をタイマツで明確にしよう。そうすれば寄り道をしなくても済む。寄り道が最大の時間ロスである。タイマツを掲げれば、周りからの援助もある。仏様からの援助もある。何処へ行くか分からない放浪人を、誰も援助はしない。

 己の人生の行き先は、天命、使命に示されている。

Dsc004751s

 馬場恵峰書

 

2020-03-26 久志能幾研究所通信 1514 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年12月29日 (日)

河村義子先生を偲んで

 河村義子先生が逝去されたのは2018年12月25日であった。先日、一周忌法要があり、私はその命日の数日前に先生宅を訪問してご霊前にお参りさせていただいた。

 そこでご主人といろいろお話をして、お参りされる皆さんが私と同じ感想を持たれていることを知った。皆さんが、義子先生と知り合いになり、普通では叶わぬ世界一流の音楽家達と交流が出来たと感謝である。それは皆さんが異口同音に感謝されていた。大垣の片田舎で、世界を相手に活躍された義子先生の偉大さが実感できる。ご逝去後一年経っても、先生宅にお参りにこられる人が絶えないのも、先生の人徳であろう。葬儀では約1000人の方が参列された。

 

先生との出会いのご縁

 思えば河村義子先生とのご縁も稀有なご縁である。もし私が定年延長をして大垣に帰郷していなければ、このご縁はない。前職の、上からと下からのいじめの軋轢で、かつ実質吸収合併された会社の中間管理職の立場で、宮仕えの延長は嫌だと辞める決断したのがご縁の始まりである。

 大垣に帰郷後、酔狂にも長年の夢であったピアノを入手して、防音室まで作って始めたピアノである。公式の言いわけは、「ボケ防止でピアノを習う」である。若いころ(1970年)、平塚市でピアノ殺人事件が起こり、その影響でサラリーマン生活・借家住まいではピアノは無理と諦め、ピアノを始めるなら防音室が必用と覚悟をしていた。ピアノもグランドピアノと、決めていた。それは定年後でしか、実現しなかった。

 定年後、購入したピアノもこだわってチッペンデール形式の猫足のピアノを選定した。ヤマハの販売課長が、この30年間で中部地方では、このピアノを含めて2台しか見たことがないという代物であった。

 そのこだわりがあったから、その販売課長さんの紹介で、個人レッスンの講師として、河村義子先生を紹介して頂いた。ド素人の還暦後のおじさんの個人レッスン引き受けを快諾された義子先生も偉いと思う。このこだわりのピアノでなければ、河村義子先生とのご縁はなかったかもしれない。そういう点で、この猫足のピアノは、ご縁の招き猫ピアノである。この猫ちゃんを粗末に扱うと化けて出そうである。

Dsc03493s 

 猫足のピアノ

 

音楽家とのご縁

 義子先生とご縁ができて、世界の一流の音楽家や関係者と親しくなった。それはドイツ、米国、ウィーンの音楽家とのご縁である。義子先生とのご縁で、ウィーンの楽友協会の資料館館長のビーバー・オット博士にも表敬問する機会を頂いた。これも義子先生がライフワークで戸田極子伯爵夫人の研究をされていたご縁に起因する。私も義子先生とご縁がなければ、ウィーンになどに飛ばなかっただろう。

 

演奏中の撮影

 先生のご縁があったから、音楽活動の写真を5年間にわたり撮影する機会に恵まれた。いくら写真が好きでも腕があっても、演奏中の写真を自由に撮れるわけではない。河村義子先生からの依頼がないと、音楽家の写真は勝手には撮影できない。そのご縁で、無音シャッターのミラーレスsony α9を設備投資して臨むことができた。それで私の新しい分野への挑戦が出来た。たまたま写真歴50年の経験を活かすことが出来たのは幸いであった。

 

義子先生の覚悟

 義子先生は5年前に癌が見つかり、手術をするとピアニストとして生きていけなくなる恐れがあると言われ、癌の手術を断念されて、最期までピアニストとして生きる覚悟をされた。丁度、私が先生と知り合ったころである。

 私が先生とお会いしたころ、いつも部屋に掲示されているご自身の写真は「気に入っていて私のお葬式にも使うの」というので、何の冗談かと呆れた思い出がある。

 また4年前に先生がドイツへ1か月ほど演奏旅行に行かれて、帰国後、「やりたいことは全てやったので、いつ死んでもいい。幸せ」というので更に呆れた思いである。鈍感な私は義子先生の決意に気が付かなかた。

 先生は人生の賞味期限の意味を知っておられたのだ。義子先生は、人生を最期まで、全力で駆け抜けていかれた。

 

ドレスデントリオの最後の演奏会

 2018年1月13日に、ドレスデントリオを招いて先生最後の公式演奏会をクインテサホテル大垣でされた。私や周りは病気の事情は知らないので、何を焦って年に2回も大きな演奏会を企画するのかと、半ば呆れていた。先生が資金的に困っておられたのを援助できたのが、今にしてよいことをしたと思う。

 この少し前に、チェリストTIMMの演奏会を開催したばかりで、市内の大手企業に協賛金のお願いに回れない事情があった。それを陰で支援できたのは功徳であった。私の支援があり、先生がこの講演会をする決断をされた。

 このお陰で、私はドレスデントリオに密着して音楽家チームのご縁ができた。飛行場へのお出迎え、数日間のリハーサル会場での撮影、支援、大垣でのサポートをできてよき経験を得られた。普通の人ではこんな経験はできまい。義子先生に感謝である。お陰で、ドレスデントリオと義子先生の新春演奏会は大成功であった。これが義子先生の公式演奏会の最後となった。 

Dsc04341s  ドレスデントリオとの共演 クインテッサホテル大垣 2018年1月13日

花が咲いた

 義子先生が長年、大垣の音楽の普及活動で尽力をされていて、それが花開いた結果である。準備万端、実践万端すれば、後は花が開くしかないのだ。それを佐藤一斎は、「已むを得ざるにせまりて、しかる後のこれを外に発する者は、花なり」と表現している。まさに「縁ありて 花ひらき、恩有りて 実を結ぶ」である。

064k8a10851s

 馬場恵峰書「佐藤一斎「言志四録」五十一選訓集」(久志能幾研究所刊)よ

 

命の恩人

 河村義子先生が亡くなられて、私が葬祭場でその病名を知り、少し胸騒ぎを覚えて、その翌年の年初に精密検査をしたら、癌が見つかった。あと半年発見が遅れていれば手遅れであったろう。義子先生のご家族から、地元の病院は野戦病院のようで、それより義子先生が入院された病院(愛知県がんセンター)がよいと推奨された。それで即、入院・手術を受けた。有りがたいご縁であった。義子先生のお陰で命拾いができたようだ。

 すべてご縁の連鎖であった。これは仏様のご配慮としか思えない。どこか一つでもご縁が切れていれば、こんな状況にはならなかっただろう。人智を超えた何か大きな力だと思う。

 

夕焼け小焼けで日が暮れて♪

 最近、義子先生のことを思い出すと、童謡「夕焼け小焼け」の歌詞が聴こえる。義子先生は、自分の夢を大きく燃やして、大きな夕焼けを作り出して、人生を全うされた。その夕焼けが多くの弟子を照らしている。自分も相応した小さな夢を燃やして、人生の小焼けを作り出して、人生を全うしたいと思う。先に逝かれた義子先生だが、先生の遺志を継いでそれを全うし、「皆で仲良く帰りましょう♪」で、先生の後を追い浄土に還るのだ。人は必ず死ぬ。早いか遅いかは、大した問題ではない。人の偉さは、死ぬ時に、後進にどんな「大きな金の夢♪」を残せるかである。それが人の課題である。

 

戒名

 義子先生の戒名は「聖観院教音義愛大師」である。童謡の中の「まるい大きなお月さま♪」とは、「皆さんを優しく見守り、衆生の助けの叫び声を観れば助けに駆けつける『聖観音菩薩』」であると私は解釈している。私が大垣に帰郷して、最初に大仏師松本明慶先生の作品に触れたのは、聖観音菩薩像である。私には、ご縁の仏様である。

Img_32292s

 大仏師松本明慶作 聖観音菩薩像

 

2019-12-29 久志能幾研究所通信 1438  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年9月14日 (土)

大垣の没落でホテルも衰退。食い物の恨みは….

 大垣駅前にあった「ロワジールホテル大垣」が、2年前に別会社に売られて「クインテッサホテル大垣」に変わった。当初は良かったが、だんだんと質が落ちていき、現在は最悪になった。大垣の没落と同時進行であった。大垣がよくならないと、ホテルも利用するのが恥ずかしいレベルに下がる。

 

朝食バイキングを利用する目的

 私がホテルの朝食バイキングを食べる理由は、食での健康管理と精神の「修行」の為である。バイキング料理は、多くの種類の食材をバランスよく食べることが出来る。食での健康管理上で、最適である。

 また精神の「修業」とは、美味しい食い物が数多く目の前に並んでいても、それの誘惑に負けず、腹七分目しか食べないように心を鍛える場としている為である。私の意思の鍛錬場である。元を取ろうとして、食べ過ぎは毒になる。

 だから私は朝食バイキングの定価の7割分しか食べない。目の前にご馳走が数多く並んでいても、あえて食べない訓練をしている。お代わりは原則禁止である。スィーツも禁止である。揚げ物、油分の多い食材、肉類、ジュース類も食べない。パンもほとんど食べない。

 その昔(15年程前)は、休日にホテルの朝食バイキングレストランに行くのが楽しみで、その場で2,3食分を食べていたこともある。しかし2009年、大腸ポリープの病気をして、大腸がんになる恐怖心から、食の健康管理として、ダイエットとして、食べ放題(バイキング)に通う方針に変えた。

 食べ放題レストランで、食欲を抑えて食べないで済ませるのは、最高の贅沢である。出来そうで(?)、できない。難しい行である。

 

2年前の状態

 その昔の、前のロワジールホテル時代は、質のよいホテルで、朝食も質も良かった。その前の昔はチサンホテルであった。そのホテルが2017年10月1日にクインテッサホテル大垣にリブランドした。その直後、ここで河村義子先生の最期の公式演奏会となったドレスデントリオの「新春コンサート(2018年1月13日)」を開催できた。想い出のホテルである。

Dsc04332s

Dsc04341s

 ドレスデントリオの「新春コンサート」2018年1月13日

 クインテッサホテル大垣

 

大垣の没落後

 このホテルも大垣駅前商店街も衰退し、大垣が没落して、大垣に来る客層が変わってきた。大垣が衰退したので、高い金を落とす客が減り、中国や近隣アジアからの団体客が増えた。ホテルの客単価が下がって、ホテルも採算が合わなくなって、身売りをした。それで安いビジネスホテルのレベルに格下げとなった。そのせいで、朝食もレベルが下がった。それは大垣の没落と歩調が合っている。

 風が吹けば桶屋が儲かるように、大垣が没落すれば、ホテルの朝食の質もホテル自体の質も下がるのだ。

 

2年前の朝食の状況

 朝食会場のレストランでは、料理人が目の前で、好きな食材をトッピングのある卵焼きや焼き魚を「炭火」で焼いてくれた。味噌汁も、他のホテルでは見かけることが稀なほど、具沢山の味噌汁であった。それは斎藤料理長がこだわりを持って、料理内容を改革したためであった。

 齋藤料理長がこのホテルに来る前は、朝食バイキングは、並みのレベルでひどいものであった。当時は、私は月に1度くらいしかこのホテルの朝食バイキングに行かなかった。しかし齋藤料理長が内容を改革して、ピカ一の朝食バイキングに変えた。斎藤料理長が、腕を振るった料理が数多くあった。私は齋藤さんと懇意になり、週に6日も朝食だけに通うようになった。

 その齋藤料理長が2年前に、理不尽な会社都合で辞めさせられてから、料理の質が目に見えて悪くなった。全国のクインテッサホテルの中で、大垣だけ突出して料理の質が良いので、それが格安ホテルとして問題になったようだ。なんでも、性能(味)がよければよいわけではない。世の中は難しい。

 この朝食が楽天のグルナビで高得点であったのが、齋藤さんの自慢であった。齋藤さんがホテルを去ってからは、そうではないようだ。

Dsc00893s

 目の前で料理をしてくれる齋藤料理長 2015‎年‎1‎月‎18‎日、‏‎7:56

 

河村義子先生との思い出

 齋藤料理長が腕を振るう料理が素晴らしいので、河村義子先生との会食でもこのレストランを利用して、懐石料理を数回、ご馳走させていただいた。河村義子先生が病気になり、退院後、先生の快気祝いで会食を楽しみにしていたが、昨年末の急なご逝去でそれが叶わなくなったのが哀しい。

 河村義子先生が、出された懐石料理で、特に美味しかった料理の調理方法を齋藤料理長から聞き込んでいる姿が懐かしい。河村義子先生は単なる専業ピアニストでなく、家庭を預かる主婦として、美味しい料理の料理方法の研究に熱心であった。家族思いの研究熱心な先生であった。

P1030898sjpg

河村義子先生と齋藤料理長 2017‎年‎11‎月‎15‎日

 

質の低下 現在の朝食バイキング

 以前は手づくりの料理がメインであったが、今は、出来合いの業務用のパック詰めの総菜を暖めて出している。ホテルで自前の料理品は激減した。今は、パックから出して、温めるだけで出せる業務用の総菜が、何でもある。しかしそのパック品の総菜は、防腐剤や、添加物が多いと推定され、私は食べない。

 味噌汁も以前は、具沢山であったが、今はシャビシャビの味噌汁である。

 パンも以前は、料理人が「炭火」で目の前で焼いてくれた。炭火で焼くと味が違うのだ。いまは三流品のトースターで、自分で焼かねばならない。

 出される魚の質も悪くなった。

 以前はあった「うどん」、「そば」も無くなった。

 以前は、特色あるこだわりのスィーツもあったが、今は無くなった。

 以前は切りたてであった生のパイナップルも、缶詰製に変わった。とても食べる気になれない品物である。

 以前はドリップコーヒであったが、自販機タイプに変わった。

P1130099s

 総菜の種類は多く、見た目は良いが、ほとんどがパック品の業務用総菜である。手作り品がほとんどなく、私は食べない。防腐剤、添加物が怖い。

 

中国人団体と同席

 以前は、中国人の団体と日本人は食べる部屋が分かれていた。しかし今は、同じ部屋で中国人の団体客と同席して食事をせねばならぬ。無作法な人が多く、傍で食事をすると非常に不愉快である。だから私は、時間をずらして、中国人団体客と同席しないようにしている。

  

全国統一の愚

 ホテル側の説明では、この改革で、全国のクインテッサホテルのチェーン店と同じサービスに統一したという。つまり最低のレベルに統一したのだ。これではチェーン店の同じ名のホテルに泊まる気になれない。

 

東京本社のホテル幹部の傲慢さ

 2年前、ホテルがクインテッサホテルに名前が変わり、東京の幹部が視察に来て、朝食会場で仲間同士が食事をしていた。私はその場で、隣に同席していた。彼らの下品な振る舞いを目のあたりにした。買収した側の会社の幹部達者が新しいクインテッサホテルの朝食会場で、傍若無人の振る舞いであった。静かであるべきレストランで、大きな声で話していた。彼らは、携帯電話禁止の朝食会場で、携帯電話をしまくっていた。興ざめであった。それで新しい会社のレベルが露見した。

 

レストランの懐石料理

 私は以前、自宅にお客さんが来ると、昼食や夜の会席で、このホテルのレストランを利用していた。当日に2名でも可であった。

 しかしも、ホテルが変わり、4名以上で、2日前に予約をしないと懐石料理が食べられなくなった。今までだと、当日に、2名でも懐石料理を頼めたが、それが駄目になった。

 この9月末に、客人が大垣に来るので、別のホテルのレストランで会食の予約をした。とてもこのホテルのレストランでは、物理的にも心情的にも頼めない状態になった。食い物の恨みは怖ろしいぞ。

 

エピソード1

 私は、ドレスデントリオの新春コンサートで、メンバーをこのホテルに泊める段取りをした。ホテルが気を利かせて、リーダのアンドリウスをスィートの部屋にしてくれた。それは良かったのだが、そのバスルームのお湯が出ないという失態をホテルはした。その後始末の対応がお粗末であった。

 私は、それをアンドリウスから聞いて、ホテルにクレームを付けたが、その後始末が接客業としてお粗末すぎて、なっていなかった。クインテッサホテルのせいで、私たちの客人のドレスデントリオに恥をかかしたのだ。河村義子先生の最期の客人であるドレスデントリオに無礼を働いたのだ。

 私は二度とこのホテルでは演奏会も宿泊も使うまいと決めた。

 

エピソード2

 数か月前、自宅の鍵をどこかに落として家に入れなくなったことがあった。当日は休日で鍵屋にも連絡が取れず、仕方なくその夜はホテルに泊まることにした。それでクインテッサホテルに連絡をしたら、満室との理由で断られた。通常、満室でも絶対に予備の部屋をもっているのがホテル業である。私は、このホテルの大のお得意さんであるのに、その扱いに怒りがでた。それで別のホテルに行った。二度とクインテッサホテル大垣には泊まるまいと心に決めた。

 

経営改善

 レストランの従業員が、料理の質の低下を一番よく知っている。従業員は、なじみの客から苦情を言われて、ぜひ、ネットで暴露して欲しいと訴えられたという。従業員が会社に改善を言っても聞いてもらえないという。従業員の声を聴かない経営者の会社は、市場から淘汰される。

 私も今までは週に6日もこのレストランに通っていたが、現在は週に1日か2日しか行かない。それがゼロになる日も近いかもしれない。

 

大垣が没落すると大垣の顔も退化

 安ければよいという経営の会社が増えれば、大垣はますます没落である。安ければよいとは、それだけ質が悪いのだ。安いものにはワケがある。貧乏神が貧乏神を呼び寄せる。悪魔のサイクルである。それでは、大垣は発展できない。デフレ経済では、付加価値を上げないと、ジリ貧である。それは大垣駅前商店街の衰退ぶりを見れば明白である。大垣が寂れたので、金持ちではない東南アジアの団体客が多く来るようになったのだ。その客達は、大垣に金を落とさない。夜は近くのホカ弁店に大勢で押しかけ、大声を張り上げて、静かな住宅地を騒がしている。

 

大垣の恥

 大垣駅前商店街は大垣の顔なのだ。以前は、格式あるホテルがあったが、それがなくなり、そこに安売りのホテルが出来るのは、大垣の恥である。安かろう、悪かろうである。他市はともかく外国からの客を招いても、そのレベルで大垣人が恥をかくことになる。まるで自宅が貧乏な作りの玄関に変貌して、客に対して恥となったと同じである。衰退した大垣駅前商店街は、大垣の没落の象徴なのだ。

 小川敏市長は、それが18年間も認識できず、平然としている。大垣の地価は半値以下に暴落し、大垣の防災は最低になり、子供の教育も県下最低レベルになった。大垣市民の命、財産、子供を守れない市長は、最低である。大垣を没落させた主犯の原因は除かねばならぬ。

 

2019-09-14   久志能幾研究所通信No.1337 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年9月 5日 (木)

いろはにほへと

 吾が家系図上で、華々しい人生模様を形作るツワモノどもも、いつしか香も色も消え、全て墓石に記録を留めるさまは、勝者必滅を示すごときである。

 歴史上でも、現代社会でも、栄華を極めたツラ厚きものどもも、いつしか化けの皮がはがれ、姿を消していく様は、天地が春夏秋冬、盛者必衰の経を唱えるごときである。

 自分の人生を振り返り、青春を謳歌し体力に任せて無理を重ねたときもある。若いときには夢多き青春を謳歌したのに、何時しか時も過ぎ、体のあちこちに不具合を感じる頃になって、平家物語の祇園精舎の鐘の声や弘法大師の作と言われる「いろは歌」が自分に迫ってくる。

 

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、紗羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。(『平家物語』)

Photo

   馬場恵峰書 「100m巻物」 日中文化資料館蔵  2014年4月17日撮影

 

諸行無常

 自分の肉体と心を持つ自分自身は、自分のものではない。沸様の預かり物と思うこのごろである。いつかは沸様のいる彼岸に返さねばならない。自分を含めてすべての一族は沸心一体として家系図を彩る様こそが、沸のなせる技である。自分は小さな存在であるが、この世で出来ることを夢見て過ごすことが、夢見ず無為に過ごす人よりも、人らしい生き方であると思う。その夢が破れて涅槃に逝っても、夢見た証があれば、その後を追う子孫が生まれてくる。ご先祖が何時かは歩いた道を、生まれ変わった自分が歩いている。

 三法印の「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」とは仏教のあるべき姿を現した標語である。「いろは歌」はそれを踏まえた歌として詠まれている。佛と自分が一体となってこそ人の人生である。

 

 色は匂へど散りぬるを わが世誰ぞ常ならむ

 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔いもせず

 無常なこの世の中を今まで歩いてきた。誰一人永遠の繁栄を遂げた人はいない。「今」まさに越えにくい深山に入ろうとしている(有為とは佛語で、直接間接の諸条件、即ち因と縁の和合によって作られている恒常でないもの)。軽薄な夢などは見ず、正気になって涅槃に逝く覚悟である。浮世の幸不幸や貧富の差は夢の如し。有為ではなく無為(因縁によって作られたものではなく、常住絶対の真実である悟り)の世界に向って歩くことが修行である。それが身沸一体の境地となる。今の世を夢と思わずに大きな夢を見つつ、その実現に向けて、一歩一歩絶えまず人生の旅を精進したい。

1

2

  馬場恵峰書  2012年

  

今川順夫氏、中村公隆師、河村義子先生のご縁

 私が「いろは歌」の意味を知ったのは、高野山伝燈大阿闍梨中村公隆著『いのち耀いて生きる』(春秋社)を読んだ2015年7月の時である。これも今川順夫氏が中村公隆師の米寿のお祝い会に招かれ、その時の中村公隆師贈呈の御本を今川氏が頂いた。私が河村義子の演奏会の案内を今川氏にしたら、中村公隆師の米寿の祝賀会があるので、出られないという。その中村公隆師の著書を今川氏から頂いた。

 その本を読み、感銘を受け、他の著書も手に入れて得た知識である。今川順夫氏に河村義子先生の演奏会の話しをしなければ、ご縁がなかった本である。

 その今川順夫氏もこの2019年6月に他界された。河村義子先生も昨年の2018年末に他界である。「いろはにほへと」をしみじみと感じる。

Photo_2

2019-09-05   久志能幾研究所通信No.1329  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年8月31日 (土)

未来計画10 音學堂「久志能サロン」開設

 大垣駅に近い場所で、20畳くらいの店舗を借り、コンサートピアノを置いて音學堂「久志能サロン」(仮称)を作る計画を温めている。大垣の地価が下がっているので、安く借りられそうだ。その目的は、自分もピアノを楽しみ、人生を學ぶためである。芸事を習うとは、人生を習うこと。それ以外に、大垣の若い人や、海外の演奏家にコンサートの事前リハーサルや練習の場を提供することにある。大垣の音楽活動の底上げの一助になればと計画している。

61

  ヤマハCF6  ヤマハカタログより

 

 2018年初にドレスデントリオが来日した時、彼らは、本番の演奏前に、金山駅の近くのマンションの一室で、事前の音合わせの練習をした。ピアノの先生が所有しているマンションの一室を提供された。

 河村義子先生も、ここで2018年1月13日のクイッテサホテル大垣での新春コンサートの事前音合わせをした。その時に何故か、河村義子先生は、私の同席をさせてくれず、練習演奏の写真を撮らせてくれなかった。今にして思うと、河村義子先生は自身の死を予感して、ドレスデントリオと内密に病気の話しをしてから練習をされたと推定される。鈍感な私は、それに思いが行かなかった。

Dsc03379s ドレスデントリオ&藤本真実 2018年‎1‎月‎11‎日

 

私の夢

 私の長年の夢は、コンサートピアノを入手して音楽ホールを作ることだ。そのために、2017年4月にオーストラリアのベーゼンドルファー工場も視察した。

P1010031s

P1010035s    ベーゼンドルファー本社工場  2017年4月26日

 しかし今から、土地を買い、建屋を造り、ピアノを買うには道が遠すぎる。でも部屋を10年間限定で借りて、小さな音楽サロンを作るなら、できないことはない。10年経ったら、部屋を返せばよいのだ。私もそんなに長くは生きられない。せいぜい39年(?)である。その期間が、できるだけ長くが、生きがいと生きる糧となるはず。

 今から10年も経てば、私も80近い。それから後の29年(?)は、別の取り組みをしたい。その頃はオダ仏教の教祖(?)として、忙しいかもしれにない(?)。

精子1トン

 夢は人を騙して(他人を動機付けして)実現するものだ。最初に騙すのは、自分自身である。自分ならできると暗示をかけて、猪突邁進迷走する。精子一トン何事かならざらん(精神一統何事かならざらん)。精子を一トン放出するくらいの精力をかければ(?)、何でも実現可能である。迷走してあちこちに頭をぶつけ、多くの失敗をして、知識を智慧に昇華させて、身魂を磨く。それで皆さんが幸せになればよい。自分も幸せになれる。悪いことをするわけではない。悪いことに使うのでなければ、お金は何とかなるものだ。結果オーライである。あとは得意技の踏み倒し(?)である。

4k8a9378s

 馬場恵峰書 智慧

 

2019-08-31   久志能幾研究所通信No.1323 小田泰仙

新しい大垣を育てる階  連絡先 080-3102-1284(SNSで連絡ください)

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年8月20日 (火)

未来計画-8「久志能文化財団(仮称)」設立

概要

 大垣市の文化芸術活動を支援する「久志能文化財団(仮称)」を設立することが私の未来計画(夢)である。その財団を通して大垣の未来を創るため、若者を育てる文化芸術活動に、資金援助をする。

 

現状の問題点

 現在の大垣市には、芸術音楽活動を支援するシステムがない。特にこの20年弱は、小川敏市政の芸術への無知無理解で、大垣市は芸術活動の支援がなく活動が衰退した。このままでは大垣は文化芸術の不毛地帯になってしまう。小川敏市長のように、芸術が分からない人間が増えたら、日本は下品な文化の国に没落である。金勘定しか興味のない人間が増えるから、人心が荒廃し、街が寂れ、凄惨な事件が頻発する。だから大垣市は没落した。芸術活動を教養として、世界の人たちと交流をする人材を育成するのが、我々年長者の責務である。

 

大垣の歴史

 昔から大垣は文化芸術の都として栄えた。江戸末期に、藩医であった江馬蘭斎が江戸で西洋医学を学び、彼によって蘭学医術が大垣にもたらされた。それは、京都に西洋医学がもたらされるよりも早かった。それだけ当時の大垣は進歩していた。江馬蘭斎の娘・江馬細香は教養のある芸術家であった。だから幕末の思想家・頼山陽が惚れたのだ。芸術は世の中を変える。今の若者が日本と大垣の未来を背負ってくれる。年長者はせめてその支援をしたい。

 

江馬蘭斎、江馬細香に関しては、下記の記事をご参考

当ブログのカテゴリー「桜田門外ノ変の検証」

記事  「桜田門外ノ変」の検証 (20)冬夜(改定)

 

滋賀県の例

 滋賀県では、平和堂の夏原氏が創設した平和堂財団がある。その財団では、音楽芸術関係の若手を育てるプロジェクトに支援をするシステムである。それで「カナデノワコンクール」にその支援をしてもらおうと、応募方法の調査をしたら、対象は滋賀県の芸術活動に限定されていて、応募資格なしであった。それなら大垣にもその種の財団を私が作ろうと思いついた。

 故河村義子先生も、音楽活動の資金集めで苦労をされた。その苦労を若い芸術家に背負わせてはならない。

 

設立する支援財団案

 本来、大垣市が文化芸術関係の支援をしてくれれば、問題がないのだが、現在は小川敏市政の芸術への無理解の影響で、それが困難な状況である。それが18年間も続いている。前の故小倉満市長とは大違いである。芸術文化は、パトロンの支援がないとやっていけない。それはヨーロッパのルネッサンス期の状況を見ても明らかである。

 大垣でも一人の財産だけで平和堂財団相当の文化活動の支援は難しいが、多くの企業や有志が共同で資金を出し合って、同類の支援組織を作ることはできる思う。

 その財団で、毎年、芸術活動に関する活動に関する資金援助を募集する。その提案案件を、委員会で審査して、合格した活動案に50万円(仮)なり、然るべき支援金を提供する支援システムを作りたい。

 これから、私はこのプロジェクトに賛同して頂ける企業を探しに、各企業を回る計画をしている。皆さんも協賛いただける方は、金額を問わず協賛金をお願いしたい。

 

実情

 若手の育成事業のカナデノワのコンクールを開催するにも、大垣市の音楽堂を1日借りると、平日で15万円、休日なら30万円の使用料が必用となる。せめて、大垣文化事業団は、その支援だけでもしてくれるとありがたいのだが。今は、その支援がない。その他に審査員、司会者、スタッフへのお礼、賞金、パンフレット費用等でお金がかかる。入賞した子供たちに副賞のお菓子を配るにもお金がかかる。現在は、その多くがボランティア活動として無償で協力を頂いているのが実情である。

 

2019-08-20   久志能幾研究所通信No.1303  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年8月15日 (木)

カテゴリー追加「m_河村義子先生の歩んだ道」

 2019年8月13日、故河村義子先生の初盆に当たり、先生宅のご霊前にお参りをしてきた。ご主人とお話しをして、河村義子先生の生前を偲び、「音楽の道で、やりたいことを全てやり切って幸せだ」と言われたことを二人で思い出して、改めて感慨にふけった。4年前、義子先生がドイツ演奏旅行から帰国後「やりたいことをやり切ったので、もう死んでもいい」と言われたのを聞いた時、何を大げさなと思ったが、ご逝去後、その病気のことを知り、その言葉に納得したことを思い出した。

 このブログで、河村義子先生に関する記事を書いてきたが、先生の病気のことを知らないでよかったと思う。知っていれば、書くトーンが変わっていたと思う。

 

自分の人生に重ねて

 河村義子先生の人生を振り返り、自分の人生と重ね合わせると、私も人よりも多くの仕事の機会に恵まれ、それをやらせてもらって、幸せだと思う。日本の高度成長期、会社も儲かっていたので、やりたいことがやれた。その成果を手に入れることが出来た。バブル崩壊後に入社した若者と比較して、自分は幸せだと思う。

 定年後もほぼやりたいことやれた。会社生活の後遺症で今年癌になったが、名誉の病として誇りに思う。還暦近くで多くの仲間がこの世を去っていった。若い人も入れると一緒に仕事をした仲間の24人が世を去った。サラリーマンで中間管理職の病死は多いのだ。それだけ体を酷使して、ストレスに晒されて働いてきたのだ。私は最悪の状態の寸前で、あの世への階段を踏み止まれたのは仏様のお陰だと思う。

 

原稿

 ご主人に現在作成中の写真集「河村義子先生の歩いた道」のゲラ版を見てもらった。年末に完成予定で進めている。

 今回、その原稿の元のブログの原稿を、カテゴリー「河村義子先生の歩んだ道」に集約しました。

添付ファイル 記事リスト「河村義子先生の歩んだ道」_20190815.pdfをダウンロード

 読みたい記事は「タイトル名」「タイトル名 久志能幾」で検索してください。

 順次、カテゴリー「m_河村義子先生の歩んだ道」に集約します。現在、集約中につき1週間ほど時間猶予をください。

 

2019-08-15   久志能幾研究所通信No.1297  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。