m_河村義子先生の歩んだ道 Feed

2019年9月14日 (土)

大垣の没落でホテルも衰退。食い物の恨みは….

 大垣駅前にあった「ロワジールホテル大垣」が、2年前に別会社に売られて「クインテッサホテル大垣」に変わった。当初は良かったが、だんだんと質が落ちていき、現在は最悪になった。大垣の没落と同時進行であった。大垣がよくならないと、ホテルも利用するのが恥ずかしいレベルに下がる。

 

朝食バイキングを利用する目的

 私がホテルの朝食バイキングを食べる理由は、食での健康管理と精神の「修行」の為である。バイキング料理は、多くの種類の食材をバランスよく食べることが出来る。食での健康管理上で、最適である。

 また精神の「修業」とは、美味しい食い物が数多く目の前に並んでいても、それの誘惑に負けず、腹七分目しか食べないように心を鍛える場としている為である。私の意思の鍛錬場である。元を取ろうとして、食べ過ぎは毒になる。

 だから私は朝食バイキングの定価の7割分しか食べない。目の前にご馳走が数多く並んでいても、あえて食べない訓練をしている。お代わりは原則禁止である。スィーツも禁止である。揚げ物、油分の多い食材、肉類、ジュース類も食べない。パンもほとんど食べない。

 その昔(15年程前)は、休日にホテルの朝食バイキングレストランに行くのが楽しみで、その場で2,3食分を食べていたこともある。しかし2009年、大腸ポリープの病気をして、大腸がんになる恐怖心から、食の健康管理として、ダイエットとして、食べ放題(バイキング)に通う方針に変えた。

 食べ放題レストランで、食欲を抑えて食べないで済ませるのは、最高の贅沢である。出来そうで(?)、できない。難しい行である。

 

2年前の状態

 その昔の、前のロワジールホテル時代は、質のよいホテルで、朝食も質も良かった。その前の昔はチサンホテルであった。そのホテルが2017年10月1日にクインテッサホテル大垣にリブランドした。その直後、ここで河村義子先生の最期の公式演奏会となったドレスデントリオの「新春コンサート(2018年1月13日)」を開催できた。想い出のホテルである。

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 ドレスデントリオの「新春コンサート」2018年1月13日

 クインテッサホテル大垣

 

大垣の没落後

 このホテルも大垣駅前商店街も衰退し、大垣が没落して、大垣に来る客層が変わってきた。大垣が衰退したので、高い金を落とす客が減り、中国や近隣アジアからの団体客が増えた。ホテルの客単価が下がって、ホテルも採算が合わなくなって、身売りをした。それで安いビジネスホテルのレベルに格下げとなった。そのせいで、朝食もレベルが下がった。それは大垣の没落と歩調が合っている。

 風が吹けば桶屋が儲かるように、大垣が没落すれば、ホテルの朝食の質もホテル自体の質も下がるのだ。

 

2年前の朝食の状況

 朝食会場のレストランでは、料理人が目の前で、好きな食材をトッピングのある卵焼きや焼き魚を「炭火」で焼いてくれた。味噌汁も、他のホテルでは見かけることが稀なほど、具沢山の味噌汁であった。それは斎藤料理長がこだわりを持って、料理内容を改革したためであった。

 齋藤料理長がこのホテルに来る前は、朝食バイキングは、並みのレベルでひどいものであった。当時は、私は月に1度くらいしかこのホテルの朝食バイキングに行かなかった。しかし齋藤料理長が内容を改革して、ピカ一の朝食バイキングに変えた。斎藤料理長が、腕を振るった料理が数多くあった。私は齋藤さんと懇意になり、週に6日も朝食だけに通うようになった。

 その齋藤料理長が2年前に、理不尽な会社都合で辞めさせられてから、料理の質が目に見えて悪くなった。全国のクインテッサホテルの中で、大垣だけ突出して料理の質が良いので、それが格安ホテルとして問題になったようだ。なんでも、性能(味)がよければよいわけではない。世の中は難しい。

 この朝食が楽天のグルナビで高得点であったのが、齋藤さんの自慢であった。齋藤さんがホテルを去ってからは、そうではないようだ。

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 目の前で料理をしてくれる齋藤料理長 2015‎年‎1‎月‎18‎日、‏‎7:56

 

河村義子先生との思い出

 齋藤料理長が腕を振るう料理が素晴らしいので、河村義子先生との会食でもこのレストランを利用して、懐石料理を数回、ご馳走させていただいた。河村義子先生が病気になり、退院後、先生の快気祝いで会食を楽しみにしていたが、昨年末の急なご逝去でそれが叶わなくなったのが哀しい。

 河村義子先生が、出された懐石料理で、特に美味しかった料理の調理方法を齋藤料理長から聞き込んでいる姿が懐かしい。河村義子先生は単なる専業ピアニストでなく、家庭を預かる主婦として、美味しい料理の料理方法の研究に熱心であった。家族思いの研究熱心な先生であった。

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河村義子先生と齋藤料理長 2017‎年‎11‎月‎15‎日

 

質の低下 現在の朝食バイキング

 以前は手づくりの料理がメインであったが、今は、出来合いの業務用のパック詰めの総菜を暖めて出している。ホテルで自前の料理品は激減した。今は、パックから出して、温めるだけで出せる業務用の総菜が、何でもある。しかしそのパック品の総菜は、防腐剤や、添加物が多いと推定され、私は食べない。

 味噌汁も以前は、具沢山であったが、今はシャビシャビの味噌汁である。

 パンも以前は、料理人が「炭火」で目の前で焼いてくれた。炭火で焼くと味が違うのだ。いまは三流品のトースターで、自分で焼かねばならない。

 出される魚の質も悪くなった。

 以前はあった「うどん」、「そば」も無くなった。

 以前は、特色あるこだわりのスィーツもあったが、今は無くなった。

 以前は切りたてであった生のパイナップルも、缶詰製に変わった。とても食べる気になれない品物である。

 以前はドリップコーヒであったが、自販機タイプに変わった。

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 総菜の種類は多く、見た目は良いが、ほとんどがパック品の業務用総菜である。手作り品がほとんどなく、私は食べない。防腐剤、添加物が怖い。

 

中国人団体と同席

 以前は、中国人の団体と日本人は食べる部屋が分かれていた。しかし今は、同じ部屋で中国人の団体客と同席して食事をせねばならぬ。無作法な人が多く、傍で食事をすると非常に不愉快である。だから私は、時間をずらして、中国人団体客と同席しないようにしている。

  

全国統一の愚

 ホテル側の説明では、この改革で、全国のクインテッサホテルのチェーン店と同じサービスに統一したという。つまり最低のレベルに統一したのだ。これではチェーン店の同じ名のホテルに泊まる気になれない。

 

東京本社のホテル幹部の傲慢さ

 2年前、ホテルがクインテッサホテルに名前が変わり、東京の幹部が視察に来て、朝食会場で仲間同士が食事をしていた。私はその場で、隣に同席していた。彼らの下品な振る舞いを目のあたりにした。買収した側の会社の幹部達者が新しいクインテッサホテルの朝食会場で、傍若無人の振る舞いであった。静かであるべきレストランで、大きな声で話していた。彼らは、携帯電話禁止の朝食会場で、携帯電話をしまくっていた。興ざめであった。それで新しい会社のレベルが露見した。

 

レストランの懐石料理

 私は以前、自宅にお客さんが来ると、昼食や夜の会席で、このホテルのレストランを利用していた。当日に2名でも可であった。

 しかしも、ホテルが変わり、4名以上で、2日前に予約をしないと懐石料理が食べられなくなった。今までだと、当日に、2名でも懐石料理を頼めたが、それが駄目になった。

 この9月末に、客人が大垣に来るので、別のホテルのレストランで会食の予約をした。とてもこのホテルのレストランでは、物理的にも心情的にも頼めない状態になった。食い物の恨みは怖ろしいぞ。

 

エピソード1

 私は、ドレスデントリオの新春コンサートで、メンバーをこのホテルに泊める段取りをした。ホテルが気を利かせて、リーダのアンドリウスをスィートの部屋にしてくれた。それは良かったのだが、そのバスルームのお湯が出ないという失態をホテルはした。その後始末の対応がお粗末であった。

 私は、それをアンドリウスから聞いて、ホテルにクレームを付けたが、その後始末が接客業としてお粗末すぎて、なっていなかった。クインテッサホテルのせいで、私たちの客人のドレスデントリオに恥をかかしたのだ。河村義子先生の最期の客人であるドレスデントリオに無礼を働いたのだ。

 私は二度とこのホテルでは演奏会も宿泊も使うまいと決めた。

 

エピソード2

 数か月前、自宅の鍵をどこかに落として家に入れなくなったことがあった。当日は休日で鍵屋にも連絡が取れず、仕方なくその夜はホテルに泊まることにした。それでクインテッサホテルに連絡をしたら、満室との理由で断られた。通常、満室でも絶対に予備の部屋をもっているのがホテル業である。私は、このホテルの大のお得意さんであるのに、その扱いに怒りがでた。それで別のホテルに行った。二度とクインテッサホテル大垣には泊まるまいと心に決めた。

 

経営改善

 レストランの従業員が、料理の質の低下を一番よく知っている。従業員は、なじみの客から苦情を言われて、ぜひ、ネットで暴露して欲しいと訴えられたという。従業員が会社に改善を言っても聞いてもらえないという。従業員の声を聴かない経営者の会社は、市場から淘汰される。

 私も今までは週に6日もこのレストランに通っていたが、現在は週に1日か2日しか行かない。それがゼロになる日も近いかもしれない。

 

大垣が没落すると大垣の顔も退化

 安ければよいという経営の会社が増えれば、大垣はますます没落である。安ければよいとは、それだけ質が悪いのだ。安いものにはワケがある。貧乏神が貧乏神を呼び寄せる。悪魔のサイクルである。それでは、大垣は発展できない。デフレ経済では、付加価値を上げないと、ジリ貧である。それは大垣駅前商店街の衰退ぶりを見れば明白である。大垣が寂れたので、金持ちではない東南アジアの団体客が多く来るようになったのだ。その客達は、大垣に金を落とさない。夜は近くのホカ弁店に大勢で押しかけ、大声を張り上げて、静かな住宅地を騒がしている。

 

大垣の恥

 大垣駅前商店街は大垣の顔なのだ。以前は、格式あるホテルがあったが、それがなくなり、そこに安売りのホテルが出来るのは、大垣の恥である。安かろう、悪かろうである。他市はともかく外国からの客を招いても、そのレベルで大垣人が恥をかくことになる。まるで自宅が貧乏な作りの玄関に変貌して、客に対して恥となったと同じである。衰退した大垣駅前商店街は、大垣の没落の象徴なのだ。

 小川敏市長は、それが18年間も認識できず、平然としている。大垣の地価は半値以下に暴落し、大垣の防災は最低になり、子供の教育も県下最低レベルになった。大垣市民の命、財産、子供を守れない市長は、最低である。大垣を没落させた主犯の原因は除かねばならぬ。

 

2019-09-14   久志能幾研究所通信No.1337 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年9月 5日 (木)

いろはにほへと

 吾が家系図上で、華々しい人生模様を形作るツワモノどもも、いつしか香も色も消え、全て墓石に記録を留めるさまは、勝者必滅を示すごときである。

 歴史上でも、現代社会でも、栄華を極めたツラ厚きものどもも、いつしか化けの皮がはがれ、姿を消していく様は、天地が春夏秋冬、盛者必衰の経を唱えるごときである。

 自分の人生を振り返り、青春を謳歌し体力に任せて無理を重ねたときもある。若いときには夢多き青春を謳歌したのに、何時しか時も過ぎ、体のあちこちに不具合を感じる頃になって、平家物語の祇園精舎の鐘の声や弘法大師の作と言われる「いろは歌」が自分に迫ってくる。

 

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、紗羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。(『平家物語』)

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   馬場恵峰書 「100m巻物」 日中文化資料館蔵  2014年4月17日撮影

 

諸行無常

 自分の肉体と心を持つ自分自身は、自分のものではない。沸様の預かり物と思うこのごろである。いつかは沸様のいる彼岸に返さねばならない。自分を含めてすべての一族は沸心一体として家系図を彩る様こそが、沸のなせる技である。自分は小さな存在であるが、この世で出来ることを夢見て過ごすことが、夢見ず無為に過ごす人よりも、人らしい生き方であると思う。その夢が破れて涅槃に逝っても、夢見た証があれば、その後を追う子孫が生まれてくる。ご先祖が何時かは歩いた道を、生まれ変わった自分が歩いている。

 三法印の「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」とは仏教のあるべき姿を現した標語である。「いろは歌」はそれを踏まえた歌として詠まれている。佛と自分が一体となってこそ人の人生である。

 

 色は匂へど散りぬるを わが世誰ぞ常ならむ

 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔いもせず

 無常なこの世の中を今まで歩いてきた。誰一人永遠の繁栄を遂げた人はいない。「今」まさに越えにくい深山に入ろうとしている(有為とは佛語で、直接間接の諸条件、即ち因と縁の和合によって作られている恒常でないもの)。軽薄な夢などは見ず、正気になって涅槃に逝く覚悟である。浮世の幸不幸や貧富の差は夢の如し。有為ではなく無為(因縁によって作られたものではなく、常住絶対の真実である悟り)の世界に向って歩くことが修行である。それが身沸一体の境地となる。今の世を夢と思わずに大きな夢を見つつ、その実現に向けて、一歩一歩絶えまず人生の旅を精進したい。

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  馬場恵峰書  2012年

  

今川順夫氏、中村公隆師、河村義子先生のご縁

 私が「いろは歌」の意味を知ったのは、高野山伝燈大阿闍梨中村公隆著『いのち耀いて生きる』(春秋社)を読んだ2015年7月の時である。これも今川順夫氏が中村公隆師の米寿のお祝い会に招かれ、その時の中村公隆師贈呈の御本を今川氏が頂いた。私が河村義子の演奏会の案内を今川氏にしたら、中村公隆師の米寿の祝賀会があるので、出られないという。その中村公隆師の著書を今川氏から頂いた。

 その本を読み、感銘を受け、他の著書も手に入れて得た知識である。今川順夫氏に河村義子先生の演奏会の話しをしなければ、ご縁がなかった本である。

 その今川順夫氏もこの2019年6月に他界された。河村義子先生も昨年の2018年末に他界である。「いろはにほへと」をしみじみと感じる。

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2019-09-05   久志能幾研究所通信No.1329  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年8月31日 (土)

未来計画10 音學堂「久志能サロン」開設

 大垣駅に近い場所で、20畳くらいの店舗を借り、コンサートピアノを置いて音學堂「久志能サロン」(仮称)を作る計画を温めている。大垣の地価が下がっているので、安く借りられそうだ。その目的は、自分もピアノを楽しみ、人生を學ぶためである。芸事を習うとは、人生を習うこと。それ以外に、大垣の若い人や、海外の演奏家にコンサートの事前リハーサルや練習の場を提供することにある。大垣の音楽活動の底上げの一助になればと計画している。

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  ヤマハCF6  ヤマハカタログより

 

 2018年初にドレスデントリオが来日した時、彼らは、本番の演奏前に、金山駅の近くのマンションの一室で、事前の音合わせの練習をした。ピアノの先生が所有しているマンションの一室を提供された。

 河村義子先生も、ここで2018年1月13日のクイッテサホテル大垣での新春コンサートの事前音合わせをした。その時に何故か、河村義子先生は、私の同席をさせてくれず、練習演奏の写真を撮らせてくれなかった。今にして思うと、河村義子先生は自身の死を予感して、ドレスデントリオと内密に病気の話しをしてから練習をされたと推定される。鈍感な私は、それに思いが行かなかった。

Dsc03379s ドレスデントリオ&藤本真実 2018年‎1‎月‎11‎日

 

私の夢

 私の長年の夢は、コンサートピアノを入手して音楽ホールを作ることだ。そのために、2017年4月にオーストラリアのベーゼンドルファー工場も視察した。

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P1010035s    ベーゼンドルファー本社工場  2017年4月26日

 しかし今から、土地を買い、建屋を造り、ピアノを買うには道が遠すぎる。でも部屋を10年間限定で借りて、小さな音楽サロンを作るなら、できないことはない。10年経ったら、部屋を返せばよいのだ。私もそんなに長くは生きられない。せいぜい39年(?)である。その期間が、できるだけ長くが、生きがいと生きる糧となるはず。

 今から10年も経てば、私も80近い。それから後の29年(?)は、別の取り組みをしたい。その頃はオダ仏教の教祖(?)として、忙しいかもしれにない(?)。

精子1トン

 夢は人を騙して(他人を動機付けして)実現するものだ。最初に騙すのは、自分自身である。自分ならできると暗示をかけて、猪突邁進迷走する。精子一トン何事かならざらん(精神一統何事かならざらん)。精子を一トン放出するくらいの精力をかければ(?)、何でも実現可能である。迷走してあちこちに頭をぶつけ、多くの失敗をして、知識を智慧に昇華させて、身魂を磨く。それで皆さんが幸せになればよい。自分も幸せになれる。悪いことをするわけではない。悪いことに使うのでなければ、お金は何とかなるものだ。結果オーライである。あとは得意技の踏み倒し(?)である。

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 馬場恵峰書 智慧

 

2019-08-31   久志能幾研究所通信No.1323 小田泰仙

新しい大垣を育てる階  連絡先 080-3102-1284(SNSで連絡ください)

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年8月20日 (火)

未来計画-8「久志能文化財団(仮称)」設立

概要

 大垣市の文化芸術活動を支援する「久志能文化財団(仮称)」を設立することが私の未来計画(夢)である。その財団を通して大垣の未来を創るため、若者を育てる文化芸術活動に、資金援助をする。

 

現状の問題点

 現在の大垣市には、芸術音楽活動を支援するシステムがない。特にこの20年弱は、小川敏市政の芸術への無知無理解で、大垣市は芸術活動の支援がなく活動が衰退した。このままでは大垣は文化芸術の不毛地帯になってしまう。小川敏市長のように、芸術が分からない人間が増えたら、日本は下品な文化の国に没落である。金勘定しか興味のない人間が増えるから、人心が荒廃し、街が寂れ、凄惨な事件が頻発する。だから大垣市は没落した。芸術活動を教養として、世界の人たちと交流をする人材を育成するのが、我々年長者の責務である。

 

大垣の歴史

 昔から大垣は文化芸術の都として栄えた。江戸末期に、藩医であった江馬蘭斎が江戸で西洋医学を学び、彼によって蘭学医術が大垣にもたらされた。それは、京都に西洋医学がもたらされるよりも早かった。それだけ当時の大垣は進歩していた。江馬蘭斎の娘・江馬細香は教養のある芸術家であった。だから幕末の思想家・頼山陽が惚れたのだ。芸術は世の中を変える。今の若者が日本と大垣の未来を背負ってくれる。年長者はせめてその支援をしたい。

 

江馬蘭斎、江馬細香に関しては、下記の記事をご参考

当ブログのカテゴリー「桜田門外ノ変の検証」

記事  「桜田門外ノ変」の検証 (20)冬夜(改定)

 

滋賀県の例

 滋賀県では、平和堂の夏原氏が創設した平和堂財団がある。その財団では、音楽芸術関係の若手を育てるプロジェクトに支援をするシステムである。それで「カナデノワコンクール」にその支援をしてもらおうと、応募方法の調査をしたら、対象は滋賀県の芸術活動に限定されていて、応募資格なしであった。それなら大垣にもその種の財団を私が作ろうと思いついた。

 故河村義子先生も、音楽活動の資金集めで苦労をされた。その苦労を若い芸術家に背負わせてはならない。

 

設立する支援財団案

 本来、大垣市が文化芸術関係の支援をしてくれれば、問題がないのだが、現在は小川敏市政の芸術への無理解の影響で、それが困難な状況である。それが18年間も続いている。前の故小倉満市長とは大違いである。芸術文化は、パトロンの支援がないとやっていけない。それはヨーロッパのルネッサンス期の状況を見ても明らかである。

 大垣でも一人の財産だけで平和堂財団相当の文化活動の支援は難しいが、多くの企業や有志が共同で資金を出し合って、同類の支援組織を作ることはできる思う。

 その財団で、毎年、芸術活動に関する活動に関する資金援助を募集する。その提案案件を、委員会で審査して、合格した活動案に50万円(仮)なり、然るべき支援金を提供する支援システムを作りたい。

 これから、私はこのプロジェクトに賛同して頂ける企業を探しに、各企業を回る計画をしている。皆さんも協賛いただける方は、金額を問わず協賛金をお願いしたい。

 

実情

 若手の育成事業のカナデノワのコンクールを開催するにも、大垣市の音楽堂を1日借りると、平日で15万円、休日なら30万円の使用料が必用となる。せめて、大垣文化事業団は、その支援だけでもしてくれるとありがたいのだが。今は、その支援がない。その他に審査員、司会者、スタッフへのお礼、賞金、パンフレット費用等でお金がかかる。入賞した子供たちに副賞のお菓子を配るにもお金がかかる。現在は、その多くがボランティア活動として無償で協力を頂いているのが実情である。

 

2019-08-20   久志能幾研究所通信No.1303  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年8月15日 (木)

カテゴリー追加「m_河村義子先生の歩んだ道」

 2019年8月13日、故河村義子先生の初盆に当たり、先生宅のご霊前にお参りをしてきた。ご主人とお話しをして、河村義子先生の生前を偲び、「音楽の道で、やりたいことを全てやり切って幸せだ」と言われたことを二人で思い出して、改めて感慨にふけった。4年前、義子先生がドイツ演奏旅行から帰国後「やりたいことをやり切ったので、もう死んでもいい」と言われたのを聞いた時、何を大げさなと思ったが、ご逝去後、その病気のことを知り、その言葉に納得したことを思い出した。

 このブログで、河村義子先生に関する記事を書いてきたが、先生の病気のことを知らないでよかったと思う。知っていれば、書くトーンが変わっていたと思う。

 

自分の人生に重ねて

 河村義子先生の人生を振り返り、自分の人生と重ね合わせると、私も人よりも多くの仕事の機会に恵まれ、それをやらせてもらって、幸せだと思う。日本の高度成長期、会社も儲かっていたので、やりたいことがやれた。その成果を手に入れることが出来た。バブル崩壊後に入社した若者と比較して、自分は幸せだと思う。

 定年後もほぼやりたいことやれた。会社生活の後遺症で今年癌になったが、名誉の病として誇りに思う。還暦近くで多くの仲間がこの世を去っていった。若い人も入れると一緒に仕事をした仲間の24人が世を去った。サラリーマンで中間管理職の病死は多いのだ。それだけ体を酷使して、ストレスに晒されて働いてきたのだ。私は最悪の状態の寸前で、あの世への階段を踏み止まれたのは仏様のお陰だと思う。

 

原稿

 ご主人に現在作成中の写真集「河村義子先生の歩いた道」のゲラ版を見てもらった。年末に完成予定で進めている。

 今回、その原稿の元のブログの原稿を、カテゴリー「河村義子先生の歩んだ道」に集約しました。

添付ファイル 記事リスト「河村義子先生の歩んだ道」_20190815.pdfをダウンロード

 読みたい記事は「タイトル名」「タイトル名 久志能幾」で検索してください。

 順次、カテゴリー「m_河村義子先生の歩んだ道」に集約します。現在、集約中につき1週間ほど時間猶予をください。

 

2019-08-15   久志能幾研究所通信No.1297  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年8月11日 (日)

第5回ナデノワのコンクール 夢と課題

 2019年8月8日、故河村義子先生が創立された第5回カナデノワのコンクールが大垣市スイトピアセンタの音楽堂で開催された。このコンクールは、若手の人材育成の場である。私は、河村義子先生を偲んで10時から17時までコンクールを視聴した。

 カナデノワのコンクールは、故河村義子先生が5年前に思いを込めて立ち上げたコンクールである。その時には、ご自身に癌が見つかり、余命5年程であることを知っておられたようだ。そのため、死後のことを考え、このプロジェクトの後継者も育成しての取り組みであった。

 カナデノワコンクールでは、河村義子先生の弟子たちが優遇されると勘違いされるのを恐れて、義子先生はこのコンクールには一度も顔を出さなれなかった。

 本来なら河村義子先生が昨年に亡くなられて、その中止が懸念されたが、審査員長で名古屋音楽大学学長の佐藤先生から助言があり、「今まで4回まで開催してきて、ここで止めるのは残念」との温かい励ましの声で継続が決まった。河村義子先生の意思を、後継者が受け継ぎ、今年の5回目の開催にこぎつかれた。

 昨年までは私はスタッフとして写真撮影を担当したが、今年は体調の都合もあり写真撮影は遠慮した。

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 2019年8月8日 大垣市音楽堂 カナデノワコンクール

 

カナデノワとは

 「奏での輪【輪・和・羽】を意味し、アンサンブルを通して、心の・和、響の・和を大切にしながら豊かな心で大きく羽ばたいて欲しい、という願いがこめられています。

 ピアノは一人で演奏することの多い楽器ですが、連弾や歌とピアノなど、誰かと一緒に演奏することで、2倍も3倍も楽しむことができます。家族やお友達同士など音楽を愛する仲間が、ともに感じること、ともに表現することの新たな喜びを分かちあい、さらに絆を深めるきっかけとなりますように。

 HP: http://www.kanadenowa.jp

 E-mail: info@kanadenowa.jp

  カナデノワのホームページより

 

カナデノワでの協奏

 カナデノワの演奏コンクールでは、ペアで音楽を協奏する技が問われる。小さい子供から、高校生、大学生まで協演の技を競う。歌の部門では、二人で踊りながら歌ったり、先生の伴奏に合わせて歌うなど、そのハーモニーの表現はさまざまである。

 2019年の第5回のコンクールでは65人が協奏を披露した。

 

子供とのデュエットを眼で奏でる

 ピアノの先生がリードをして、小さい子とデュエットをする姿は微笑ましい。子供と先生のデュエット演奏では、やさしく子供を見守りながら演奏する先生の姿に安心して、二人の演奏を観ていられる。先生は、子供の音量、ペースに合わせて弾かないと破綻する。子供の弾く音量・音質に合わせて叩く鍵盤も加減をして音も出さねば、デュエットの意味がなくなる。主役は子供なのだ。先生が子供を見つめる目が美しい。

 同世代の仲間とピアノを弾くよりも難しかろう。子供も先生を全面的に信頼しての演奏であるが、そんなことを考えている余裕はないかもしれない。それが人生だ。師は黙って見守ってくれている。

 

掛け合いの協奏

 今回の課題曲で「とうりゃんせ」が心に響いた。小さな子供が先生と「とうりゃんせ」を歌うが如くピアノで弾き合う様は微笑ましい。聴いていて楽しくなる。

 

人生のデュエット

 世の物事は陰陽、プラスマイナス、白黒である。デュエットの演奏でも、一人が高音部をもう一人が低音部の鍵盤を担当する。当然、弾き方も違う。それが横から見ていて、二人の姿のハーモニーが美しい。それから演奏の実力がわかる。

 

ピアノの相性

 ピアノデュエットでは、一台のピアノの低音部、高音部を二人で担当して弾く場合と、2台のピアノで協奏する方式がある。今回、最後の二組が2台のピアノで協奏をした。それで驚いたのが、スタインウェイとベーゼンドルファーのピアノの協奏となったこと。設備的にスタインウェイのピアノを2台も持っているホールは皆無に近い。必然的に今あるピアノで協奏しようとすると、音楽堂のようにスタインウェイとベーゼンドルファーのメーカの異なる2台となる。しかし音色の違うピアノであるが、違和感なくその協奏が聞けて拍子抜けをした。

 後で演奏者に聞いても、二つのピアノの音色まで気を使う余裕はないとのことで、また拍子抜けした。

 

ベーゼンドルファーの選択

 今回も2台あるピアノで、ベーゼンドルファーのピアノを選択した参加者はゼロであった。昨年と同様に全員、スタインウェイのピアノを選択した。ベーゼンドルファーのピアノは、鍵盤が97鍵あるモデル290インぺリアで、横幅が普通の88鍵のピアノとは微妙に違うため、コンクールではミスタッチが怖ろしいらしく、選択が敬遠される。また音の出方が微妙に遅れるので、弾き方に習熟が求められるようだ。

 

カナデノワコンクールの

 このコンクールの視聴者が、参加者とその親御さんだけのようで、本来、もっと一般の人の参加が望まれる。浜松国際ピアノコンクールのように一般の人たちが盛り上げて、大垣のカナデノワコンクールを全国レベルのコンクールにしたいと願う。

 

カナデノワコンクールの課題

事前のPR活動不足

 今回は河村義子先生のご逝去もあり、開催できるかどうかの問題もあり、その準備が大変であった。そのため開催の案内も不十分で、その内容をもっと一般に広報すべきであったと思う。

 

協賛金の不足の課題

 こういう音楽活動には資金が必用だが、協賛金を出してくれる企業が数少ないのが大問題である。私もこのコンクールを含めて、河村義子先生主催の音楽会の協賛金を集めに走り回ったことがあるが、結局、2件で計15,000円の協賛金が集まっただけで、挫折した。資金集めに奔走された河村義子先生の苦労がしのばれる。最後は私も協賛金を提供した。

 今後、この活動をもっとPRして協賛金を集めたいと思う。

 

運営スタッフの不足

 この運営スタッフもボランティアであるが、その数も少なく、大垣市の協力があると良いと思う。

 大垣市民病院で定期的に開催されている「院内ふれあいコンサート」も当初は河村義子先生の持ち出しで孤軍奮闘して運営していたが、途中から大垣市が援助を始め、電子ピアノも購入してくれて、市役所から応援のスタッフも出してくれるようになった。感謝。

 現在は、カナデノワコンクールに大垣市からの支援が全くないに等しい。大垣の子供たちの情操教育の場であるので、市の協力が必要である。今の大垣市の文化軽視の体制では無理なのだ。それが残念だ。

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 大垣市民病院 院内ふれあいコンサート ‎2017‎年‎6‎月‎5‎日

 バイオリンの天野千恵さんと河村義子先生

 

記念撮影の必要

 昨年は私が撮影担当であったが、今年は事情があり、撮影なしである。やはり表彰の記念撮影だけでも記録に残すべきだろう。お母さんのスマホの撮影では、後年、後悔することになるだろう。スマホのカメラと一眼レフフルサイズの比較では、画質が全然違うのだ。

 

支援と広報の課題

 こういう二人で演奏する形式のコンクールは全国でも数少ないので、これを育てていきたい。私はその支援をする予定である。

 現在は、参加者の関係者しか聴講者がいないが、もっと一般の人の参加者を増やしたい。それには広報活動と市の協力が必要だ。現在の大垣市の体制ではそれが難しいので、悩みの種である。せめて大垣財閥も資金面で協力をお願いしたい。

 

大垣の未来のために

 なぜか大垣市はこういう音楽活動の文化行事にお金を出さない。大垣市長が芸術に無理解であるためである。ノーベル賞受賞者の大村智先生は、昨年8月7日の大垣市の講演会で、哲史と山本周五郎の言葉を引用された。

「芸術を楽しむことによって、情緒が高められたり、品性が陶治される(哲史)」

「すべて芸術は人の心をたのしませ、清くし、高めるために役立つべきもの(山本周五郎)」

 大村智先生は、北里研究所病院で芸術作品を教育に活用されている事例を紹介された。この講演会の場に大垣市長も同席して、挨拶で大村先生の講演に感銘を受けたと吹聴していたが、実際の行動が大村智先生とは逆で呆れる。

 カナデノワコンクールは、ボランティア活動で、子供達の未来のための投資である。こういう文化教育の行事に、大垣市は金を出さないのは、不合理である。大垣市制100年記念事業の愚劣な行事には3億4千万円余も浪費である。そのお金には腐臭が感じられる。その使用用途と会計報告は条令でマル秘なのだ。哲史が言うように、それから見ると確かに大垣市長の品性は高くない。

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 北里研究所病院内の芸術作品に囲まれての教育 

 2018年8月7日 大村智先生の講演スライド

 

大垣の未来演奏

 大垣市の未来のために、行政と市民が奏でる活動が、大垣の未来を創る。悲しいことだが、行政の指揮者の大垣市長が大垣市民とは遊離して、行政だけが勝手に自己満足の演奏を凶行して、暴走している。その影響で、大垣市は衰退していて消滅寸前である。小川敏市長の演奏は、あぶく銭の金切り音がやかましい行政毒奏である。新しい市長に期待をしたい。

 

2019-08-11   久志能幾研究所通信No.1292 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年6月 5日 (水)

人生の譜面をめくる佛様(改定)

 譜めくりは、黒子である。多くの譜めくりは、黒い服装をしている。舞台では決して目立たない。しかし譜めくりは、人生の陰の立役者である。それなくして、自分の人生はない。

 

譜面のめくり方

 今まで、多くの演奏家の写真撮影をしてきて、譜面めくりのやり方に、多くのやり方があったことを発見した。一番美しい姿は、そのぺージの演奏が終わる少し前に構えて、少し次のページをめくり、そのページの演奏が終わったら一気にめくる、である。

 卒業発表演奏会では、ピアニストと目で合図をしあって、お互いに、うなずいて譜面をめくっていた例もあった。そんな暇があったら、演奏に集中せよ、である。

 

小林朱音さんの場合

 大垣での音楽堂でのチェリストTIMMと河村先生の協奏(2017)、クインテッサホテルでのドレスデントリオと河村先生の協奏(2018)では、小林朱音さんが譜めくりを担当した。二人には師弟関係で、深い信頼関係があるために、そんなお互いの合図もなく、小林さんは、しかるべき時に、スーッと横に立って構え、次のページを少しめくり、そのページの演奏が終わったら一気に音もたてずめくる。河村先生は、譜面を小林さんに任せっきりで演奏に集中である。

 学生の卒業演奏会の譜めくりでは、直前に急ぎ譜面に近づき手を伸ばし、観客席にまで頁をめくる音が聞こえるようなめくり方をする人もいた。頁をめくる甲高い紙音が、美しいピアノの演奏を興ざめにした。

譜めくりが舞台から去る時

 演奏が終わると、ほとんどの譜めくりは、演奏者が観客に礼をしている間に舞台から、黒子のように静かに去っていく。これが正式のマナーのようではある。小林さんは、二人が観客の拍手に礼をしている時、小さく拍手をして、譜面を片付けて静かに舞台を去っていった。まるで黒子の佛様のような姿であった。

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3p1020351   TIMM & 河村義子先生 

4dsc04336  ドレスデントリオ & 河村義子先生

 

人生の譜面をめくる佛様

 人の人生では、時が来ると人生の頁が自ずとめくれていき、その頁の内容に合わせて、両親や祖父祖母がランドセルの準備や学校への入学の手続きをしてくれた。当時は、それに対して感謝の念もお礼も十分ではない。今振り返ると、情けない思いである。それでも時が流れて、学校卒業までは、両親や恩師が人生の頁を黙ってめくってくれた。まるで佛様が我が人生の本の頁を捲ってくれたようだ。その佛様も、いつの間にか私の前から去っていった。「私の亡きあと、一人で人生を頑張れ」と拍手をしながら逝ってしまったのだ。

 会社生活では、必死に人生の頁を自分でめくってきたと思うが、振り返るとその歩みの頁は、佛様が事前に書いた曲を、なぞって弾いてきたように思う。自分の力ではない。周りの仲間が己の曲を演奏させてくれた。感謝。

 会社生活38年間終えたら、定年後の人生で、自分の意思で新しい第二の人生の頁をめくる時なのだ。そのぺージを自分でめくれずに、一日中、テレビの前に座っているのでは、白紙の譜面を眺めて、ピアノの前で座っているが如きである。

 

人生は暗譜演奏

 人生の人生という曲を演奏する原則は、暗譜演奏である。自分で、自分の人生の曲を描いて自分で弾く。その曲は自分が作曲した楽譜に書いてある。誰に頼るのでもなく、自分で作曲して、曲を弾かねば良き人生は創れまい。そして今は、自分が黒子として、後進の譜面をめくってあげる番なのだ。

 生きている以上は、自分独自の人生の音色を出さねばならぬ。観音菩薩様がその音を観ている。そうでないと、見守ってくれている観音菩薩様やご先祖様に申訳がない。

 

最期の譜面をめくる

 一日中、テレビの前に座っているのでは、バックグランドに無伴奏葬礼行進曲が流れなか、白紙の譜面を眺めて、無為に過ごしているようなものだ。その葬礼行進曲を演奏しているのは、一日中、何もやることのない己なのだ。「おくり人」とは、自分自身である。

 日暮れて道遠し、フィナーレは近い。演奏会と違い、人生にアンコールはない。人生二度なし。全ては一期一会だ。うかうかしていると、指の下にある次のページには、葬礼の曲が書かれているやも。人生の道を急げ。

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6039a34461  馬場恵峰書

2019-06-05   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

 

2019年6月 2日 (日)

河村義子先生への弔辞(改定)

Rregret to Mrs. Yoshiko Kawamura

 2018年12月27日の故河村義子先生の葬儀で、「世界で一流の音楽を楽しむ会」事務局長田中重勝さんが弔辞を述べられた。私はそれを聴いて、初めて河村義子先生の活動の偉大さを知った。

 

功績

 河村義子先生は、ドイツのシュッツガルト弦楽六重奏団、ドレスデントリオ、チェリストTIMMとの親交があり、大垣とドイツを音楽で橋渡しをされた。義子先生は、世界レベルで大垣の文化を高めることに貢献された。

 義子先生は、戸田極子伯爵夫人の「ウィーンの六段の調べ」を舞台で再現して、大垣とウィーンの音楽交流の歴史を我々に教えてくれた。そのご縁で、私はウィーンの楽友協会を訪問して、30年前に大垣を訪問された楽友協会記録室長のビーバー・オット博士を表敬訪問することができた。

 義子先生は、カナデノワコンクール、子と音、「世界で一流の音楽を楽しむ会」、院内ふれあいコンサート、保育園コンサート等の音楽活動で、大垣の音楽文化を開拓された。義子先生は、大垣で多くの音楽遺産を築き上げ、後進を育てられた。

 

総括

 河村義子先生の戒名「聖観院教音義愛大姉」は、観音様のような眼で弟子を見守り、音楽を教えて愛のために義に奉じた、という意味である。義子先生は、人生の辛い時、雨宿りをさせてくれるような温かい人であった。この戒名は、義子先生の人生を総括した素晴らし戒名である。河村義子先生のご冥福をお祈りします。合掌。

 

 

下記は田中重勝さんの弔辞

弔辞

義子先生

 こんなにも早く、悲しい別れの言葉を述べなければならないなんて、とても残念でなりません。

大垣市スイトピアセンターの音楽堂をこよなく愛した義子先生。

私が文化事業団事務局長の時には、音楽の専門家としてサポートをお願いしたところ、快く文化事業団アドバイザーを引き受けていただきました。

 スイトピアをいつもピアノが響き渡っているところしたいとの思いに賛同していただき、ロビーでも使えるピアノを浜松へ購入に行った時は、この子が来たがっていると、小躍りするようにピアノを選定していただきました。

 また、文化ホールと音楽堂のスタウェイをオーバーホールした時には、多くの人が演奏した思い出のピアノのハンマーを皆さんにプレゼントすることを一緒に考えていただきました。大垣市民病院でも、ロビーコンサートでのピアノを購入していただくよう一緒にお願いをしてきました。どれも義子先生に選んでいただいたピアノが設置されています。

  また小さな子ども達にも本物の音楽を聞かせたいとの願いから、かすみの会の活動の一つとして保育園コンサートを続けておられたました。子ども達に夢を与えるこうした事業を文化事業団の芸術の贈り物事業として取り組む事とした時には、教え子達を次の指導者に育成するプログラムを加えるなど人材育成に余念がありませんでした。

 さらには、小さな子どもにもクラシックをとの思いから、クリスマスコンサートを音楽堂や文化ホールで行っていただきました。しかもこれまで行ったことのない飲食を伴うもので、音楽を聴いてお菓子を食べ、ジュースをのみ、また音楽やバレーを楽しむものでした。文化ホールでは、ロビーでキャラメルポップコーンを楽しむこととしたため、ロビー全体がキャラメルの匂いと子ども達の歓声に包まれることとなりました。こんな事が出来たことを楽しい思い出として何回も何回も聞かせていただきました。

  こうした子ども達を育てようという活動の中で、子と音の立ち上げ、子と音キッズへと発展させ、次の世代への橋渡しもなされてきました。

  私が文化事業団事務局長を辞したのち、世界で一流と言われた演奏家の招へいと子ども達に本物の生の演奏を聴かせたいとの願いを受けて、世界で一流の音楽を楽しむ会を立ち上げ、多くの企業の方にも応援していただいてあしながコンサートを開催してきました。このコンサート後の感想文集には、子供たちの感動があふれており、開催してよかったと一緒に喜びあいました。

 本年の2回目のコンサートでは、途中から病により入院を余儀なくされ、手術の前日で、苦しいなかでプログラムを作成していただくこととなってしまいました。しかもコンサートを聴いていただくこともできませんでした。しかし、感想文集を届けたときには本当に喜んでいただくことができ、ホットしたところです。

  先日、病室に伺ったときには、来年9月に予定の3回目のコンサートについて、輝くばかりの目でお話をいただきました。演奏者としてヘンシェルはどうかと言って、早速メールをされましたので、私は東京芸大の澤学長にプロモーションをお願いする手紙を出しました。

 でも、ヘンシェルから9月は無理で十一月ならとの返事に、それまでは私はもたない! 重勝さ―ん とメールで言ってこられた義子先生。

  あまりにも早い旅たちで驚いています。

  音楽を通して人を育てる夢に全力で立ち向かわれた義子先生。

 いま、どんな音色の中におられるのでしょうか。ブラームスと六段の調べをきいているのですか?

  多くの教え子達の心には、素晴らしい音色が刻まれ、音楽とともに生きる力が育っていくに違いありません。音楽は心の糧です。

成長する教え子の皆さんの姿を見守り続けてください。

義子先生本当にありがとう!

平成三十年十二月二十七日

世界で一流の音楽を楽しむ会

田中重勝 

 

英語でのメッセージ作成のため、見直し改定しました。

2019-06-02   久志能幾研究所 小田泰仙

KUJINOKI Institute Taisen Oda

Blog: http://yukioodaii.blog.enjoy.jp

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年5月25日 (土)

磨墨智417. 人を育てる

 自分の代役を育てるほど、自分の時間が豊かになることはない。理想は自分を乗り越えて自分以上に成長してくれること。そういう想いで、私は自分教育と部下教育を重視して会社生活を送ってきた。私が技術管理部の課長となってからは、技術者教育体制も整備した。問題はそれに応えてくれる部下も「上司」も少なかったこと。だから私を育ててくれた会社は市場から消えた。

 勝負の世界でも、師匠を乗り越え、師匠を打ち負かすことが恩返しなのだ。

 私が70歳を前にして思うことは、持てる智慧、知識は来世に持って行けないという焦りである。それを後世に伝えたい。せめて文書で後世に残したいと、文筆活動をしている。

 

義子先生の後継者

 河村義子先生は、残された5年という時間を意識して、後を受け継ぐ後継者を育て来た。「世界で一流の音楽を聞く会」、カナデノワコンクール、子と音、等の音楽プロジェクトを立ち上げ、それを運営してくれる人を育てて、それを見届けてからこの世を去っていった。「人を育てる」とは、素晴らしい遺産である。

 

2019-05-25   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年5月21日 (火)

「追悼写真集 河村義子先生」の製作に着手

 河村義子先生が2018年12月25日に亡くなられて、半年が経った。当初、もっと早く追悼写真集を出す予定であったが、私が癌で倒れ、寝込んでしまったので、最近まで取り掛かりができなかった。

 最近、やっとそれに着手する元気が出てきた。まだまだ体力的には回復せず 、まともには動けないが、編集作業ならと少しずつ取り組んでいる。

 

先生とのご縁の始まり

 私は先生が亡くなる5年前にグランドピアノを買い、義子先生からピアノを習い始め、そのご縁で義子先生の演奏活動の写真を撮り始めた。その演奏会の写真数は8,000枚ほどに達した。お弟子さんに聞くと、それ以前の写真は、スマホで撮った写真くらいしかなく、本格的な写真は皆無という。私がプロ用の機材で写真を撮り溜めたのもご縁と思う。

 撮影用カメラも、この5年でCANON7DⅡ、CANON5DⅣ、SONYα9と三代も変わった。α9は、演奏会用の無音シャッターで、暗い舞台でも撮影が可能なカメラである。演奏会を撮影するのでなければ、買わなかったご縁である。

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  馬場恵峰書 人生六詞

 

ご縁

 今にして、一番脂ののった時期の義子先生の活動を撮影出来て、よきご縁であったと思う。遅からず、早からず、義子先生とご縁ができたのは、運命かもしれない。それこそ一期一会である。

 私の癌が見つかったのも、義子先生の死で、何か胸騒ぎがして検診を受けた経緯による。いわば義子先生の霊が教えてくれたと言える。もし検診があと半年遅れていれば、手遅れの恐れもあった。感謝です。

 

人生を完全燃焼

 義子先生もピアノが華やかに盛り上がった時代に、演奏家として活動できた。享年61で、見た目の若さを保ったまま、多くの人から惜しまれて亡くなられたのは、一面では幸せであった。現在は、ピアノ市場は衰退傾向である。義子先生がよぼよぼになって、往年の美しさが色あせてから亡くなられたら、こういう状況にはならなかっただろう。義子先生は、音楽で人のために役立つことを夢見て、人の2倍も3倍もの情熱をかけて、やりたいことをやり切って、命を全うされた。だから弔問客が、通夜と本葬で計1,000人を超えた。ある意味で羨ましい人生であった。私はその最盛期の記録を写真として残せたことを幸せと思う。

 私はその姿を私の母にダブらせて見ている。母は戦後、シベリア抑留から帰国した父と結婚して、裸一貫で、戦後の日本高度成長期を駆け抜けた。市内のある会社の社長から、「お前の母親は、大垣市内の社長を集めても、太刀打ちできる者はいない」と言われるほどの傑物で、その社長から一目を置かれていた。母は高度成長期、頑張ってその成果を手にして、日本経済のバブルがはじけた後、静かに世を去った。やりたいことをやり遂げた後で、幸せな人生であったと思う。

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  馬場恵峰書 人生六詞

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2019-05-21   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。