m_河村義子先生の歩んだ道 Feed

2021年8月20日 (金)

お経の暗唱はダメ、読経を。読経より写経を。

 法要では僧侶は必ず読経である。たとえそれを暗唱できても、僧侶は、目の前に経典を置いて、読経として「お経」を「読んで」いる。暗唱ではない。

 お経を読んでいると、一字一字が目に焼き付いてくる。声で心に響いてくる。読経の目的は、自分自身への説法である。自分が仏として、お経に書いてあることを一心同体で実現するための教えとして読む。現世で己が佛となり(成仏)、世の中に利他の心で奉仕をするためである。それが読経の目的である。それが暗唱では、その力が弱いのだ。

 

偲ぶ会で般若心経を暗唱に絶句

 ある人の偲ぶ会で、ある弟子が師の思い出を語ったが、その冒頭で般若心経を暗唱した。その時間が、約3分間も要した。多くの人が時間を無駄にした。私は偲ぶ会にふさわしくないと違和感を覚えた。なにか般若心経の暗唱を自慢しているかのようにも思えた。

 偲ぶ会に参列した人は、僧侶でない素人からの般若心経の暗唱など聞きたくはない。僧侶は修行をして得度をしている。その僧侶の暗唱ならまだしもである。その僧侶でもお墓等の場所以外では、お経の暗唱などはしない。偲ぶ会では、葬式ではないので読経はやらない。ましてや般若心経の暗唱などもってのほか。それよりも、偲ぶ会なのだから、その時間を参加者のために師の想い出話に充てて欲しかった。

 

写経

 読経より良いのは、写経である。一字一字を丁寧に書いていると、その意味や響きが心に響く。それが故人への一番の供養となる。

 

命を頂く

 我々が日常的に仕事や個人的に面会の約束を取り付け、面談する相手とは、仏さまである。一期一会で会う仏さまである。もう二度と会えないかもしれない仏様である。その佛様のような相手と面談するとは、相手から有限の時間(命)を私のために頂くのだ。だからその佛様とは、心して向き合うべきだ。それをスマホの画面に気を取られて会話をするから、ご縁が結ばない。面談中にスマホをいじる人は、面談者のお話し(お経)を読んでいないのだ。それは相手との会話を上の空で、暗唱しているようなものだ。暗唱なら上の空でも唱えることが出来る。相手の言うことを一言一言、読まねば、心は読めない。そういう人では、幸せを掴めまい。私は、面談中に私の目の前でスマホをいじる人とは一線を引いている。

 

芸術と仏道

 演奏会の公式ピアノ演奏では、必ず暗譜である。私は河村義子先生からそう指導を受けた。その書かれた楽譜(お経)を頭に叩き込み、自分の解釈を盛り込んで演奏する。楽譜を見ながら演奏しては、楽譜に振り回された顛末となり、芸術の演奏ではなくなるからだ。だから芸術に教科書はない。

 「芸術」の「芸」の字は、草冠(匂い草)に、「云(立ち上る)」で構成された会意象形文字である。匂いは時代や環境、人によってその評価が変わる。だからこそ芸術である。

 お経を読むとは、宗派を開かれた導師の教えを忠実に従う事である。時代が変わっても真理は変わらず、一つである。その道から外れれば、外道である。しかし芸道は解釈が無限にある。それが仏道と芸道の違いである。

 自分が今、創っているものが、芸術品か規格品(真理)かを考えよう。

 

P10504321s_2 馬場恵峰書

2021-08-20   久志能幾研究所通信 2126  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年7月27日 (火)

猫足ピアノ、天上界を目指して4mジャンプ

 

 懸案であった猫足ピアノの移動が、1年がかりでやっと今日(2021年7月27日)、完了した。コロナ禍の非常事態宣言での延期、台風8号接近といろいろと邪魔が入ったが、今日(大安)無事に別宅に移動できた。

 当初の一階の部屋から別宅に移動して、猫足のピアノが約4mの高さまでジャンプ(クレーンで吊り上げ)して、無事二階の極楽音楽室に納まった。猫ちゃんには極楽浄土のような天上界である。

 ピアノ運送専門業者の手際の良さに感心である。重さ350キロのピアノを2人で荷造り、移動させたのには驚嘆である。さすがプロである。

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移動のための分解

Dsc00400s  梱包してトラックに積み込み

Dsc00414s クレーンで4mも持ちあげる

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移動先の部屋に仮置きになりホッとする

Dsc004281s 設置完了

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 今から、3年ぶりにピアノレッスンを思い出して再開しようと思う。防音工事等も考えなければならないが、ボチボチとやって行こうと思う。

 2018年春、河村義子先生が病気で入院されたため、個人レッスンが中断となった。2018年12月25日、突然の訃報に茫然であった。私も胸騒ぎを覚えて検査をしたら、翌年1月に癌が発見された。急遽手術をしたが、2年半経っても体調が完全には戻らず、ここ3年程ピアノに全く触っていない。リハビリをかねて、元気を付けるため、ピアノを再開する計画である。

 この猫足ピアノは、自分が構わなくて勝手に鳴くので(自動演奏付き)、それを聴くのも楽しみである。この猫足ピアノには、華がある。よい買い物をしたと思う。

 

猫足ピアノの鳴き声

 このピアノはヤマハC2がベースである。河村義子先生宅でのレッスンピアノはC6である。サイズが違うだけ、やはり大きなサイズのC6の音は、響きが違う。そのため今までC2に少し物足りなさを感じていた。ある時、河村義子先生が来宅して、この猫足ピアノを弾かれた。「調律もきちんとされているし、いい響きね」と褒めてくれた。何時も私が出している音と違い、その響きの差に驚嘆した。「どうしてそんなすごい音が出るの?」と聞いたら、義子先生はさりげなく「(私は)プロですから」。私はギャフン! 音の良し悪しは、ピアノの差ではなく、腕の差であることを思い知った。腕を上げるには、天上界を目指して地道に練習する以外にはない。

 

2021-07-27   久志能幾研究所通信 2102  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年6月29日 (火)

ブラームス 老いのピアノ演奏

 

 2016年、私が戸田伯爵夫人のウィーンでの琴の演奏エピソードを調査する過程で、ビデオ「ブラームスのロウ管」(北海道放送)が、私のピアノの師である河村義子先生から送られてきた。

 そのブラームスは戸田伯爵夫人の琴の演奏を聴きながら、六段の演奏をピアノ楽譜にした譜面に朱を入れた。戸田伯爵は、大垣藩最後の殿様である。明治になり、ウィーン公使としてウィーンに赴任した。

 そのビデオから分かったことは、天才のブラームスにでも、老いは襲ってくる冷酷な事実である。その時の対応の如何に人間性が露見する。

 

ブラームスの老い

 ブラームスは音楽の3Bと称せられる存在である(バッハ、ベートベン、ブラームス)。その大作曲家、ヨハネス・ブラームスが自作「ハンガリア舞曲第一番」とJ・シュトラウス「とんぼ」のピアノ演奏をロウ管シリンダーに録音したのは、エジソンの発明から約12年後の1889年12月2日である。

 この歴史的なロウ管は、ボーゼ博士によるSPレコード(1938年 TELEFUNKEN製 78rpm)は、録音・保存状態の悪く、最新のレーザー再生装置でもうまく再生できない。「ハンガリア舞曲」の旋律は、ピアノというよりアタック感の無いヴァイオリンの音に近く、「とんぼ」に関しては凄まじいトレース・ノイズで、最新の技術を使ってもほとんど聞き取れない。

 これはロウ管の保存状態の悪さと、録音時の条件の悪さに起因する。ロウ管に入ったヒビは第二次世界大戦の責任で、マイク・セッティングのミスはブラームス本人の思惑だった。

 ブラームスは、この録音セッションの為に自作「ラプソディ作品79-2」を用意したが、その練習中に自分の技量の衰えに気付き、後世に自分の老いの露見したピアノ演奏を残すこと躊躇を覚えたようだ。ブラームスは完ぺき主義者であった。

 親しい友人であるフェリンガー家でのセッション当日、神経質になっていたブラームスは、録音技術者に対して非協力的だった。突然「フェリンガー夫人がピアノを演奏します!」と自嘲気味に叫びながら、ブラームスは録音技術者のマイク・セッティングが終わらないうちにピアノを弾き始めた。フェリンガー氏は慌てて「ピアノ演奏はブラームス博士です!」(この部分から録音は開始)とアナウンスを録音に被せた。

 ブラームスは録音を嫌がっていた事は、その記録から明白だ。彼の代表曲「ラプソディ」でなく、ハンガリア民謡をベースに作曲(編曲?)した「ハンガリア舞曲第一番」を弾き飛ばした事や、その後にシュトラウスの「とんぼ」という超軽い曲を弾いた事から見ても明らかだ。

 ブラームスの人生は、この録音事件の頃から急速に陰り始める。もともと自分の才能に対して懐疑的だったブラームスは、書き溜めていた楽譜を河に捨てたり、演奏活動から遠ざかったり、ついには遺書の用意まで始める。

 そして1896年、最愛の人クララ・シューマンが急逝し、その埋葬に立ち会う為に40時間もの汽車旅をした事で体調を崩し、1897年にあの世へ召される。

 本稿は、「ブラームスのピアノ自作自演」© 2016 Hisao Natsume. All rights reserved. Designed by Sakuraphon.( http://www.78rpm.net/column/brahms-plays-brahms.html)を参考に加筆編集。

 

 

録音技術とのご縁

 老いてもまだまだ技量もある世界3Bの一人と称せられるブラームスである。老いは神の御心、それに従ってありのままを受け入れて、67歳のピアノ演奏を残し欲しかった。ブラームスの技量の絶頂期とエジソンの録音機の本格的普及の時期が少しずれてしまった。それもご縁である。

 自分にできることは、その時のご縁を大切にしたいである。私は馬場恵峰先生の書の撮影で、最新鋭最高級のカメラ機材を揃えて撮影した。今にしてよくやったと思う。

 

健康管理

 ブラームスは写真等から推察すると、かなりの肥満で、老化の進展が速かったと推定される。天才はその芸に没頭して、自分の体のことは後回しになるのかと残念に思う。天才モーツァルトも、35歳で連鎖球菌性咽頭炎から合併症で亡くなっている。天才だからこそ、宝石のような才能を支える健康を大事にして欲しかった。

Strauss_und_brahms ヨハンシュトラウスとブラームス  ウィキペディアより

 

 馬場恵峰先生は老いを隠さなかった。しかし自分の体の健康には大変気を使われた。だから94歳まで現役で活躍することが出来た。

 馬場恵峰先生に、「先生の90歳の時の書と70歳代の時の書の差は何ですか」と聞いたら、「70歳代の書には勢いがある。90歳の書には艶がある」である。人は老いても相応の作品が出来上がる。老いを隠す必要はない。

 

 ご縁があり、2017年4月、ウィーンを旅した。戸田伯爵夫人のウィーンでの琴の演奏エピソードを発見された楽友協会のビーバー・オット博士と面会し、ブラームスの墓参りをした。

 良きご縁からはよきご縁が生まれる。今は、コロナ禍で、海外には行けない。良き時にウィーンに行けて、その報告を河村義子にできて良かったと思う。その時は河村義子先生も元気であった。

P1000934s1 ブラームス像の前でビーバー・オット博士とツーショット 2017年4月24日

 楽友協会にて

P1000812s  楽友協会 ウィーン   2017年4月24日

 P1000721s ウィーン市立墓地  2017年4月20日

P1000779s 音楽家たちの墓地エリア

P1000848s

P1000849s ブラームスの墓地

P1000776s 音楽家たちの墓地エリア 左がモーツアルト、その左がベートベン、中央がヨハンシュトラウス、右手がブラームスのお墓である。

『佛が振るチェッカーフラグ』 p94

2021-06-29   久志能幾研究所通信 2074  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年6月19日 (土)

エイリアン(異世人)との遭遇

 

「宇宙では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない」

 In space no one can hear your scream.         

        映画「エイリアン」のキャッチコピーより

 現代社会という宇宙では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない。周りは価値観の違う異星人ばかり。あなたの魂の悲鳴を、誰も聞いてはくれない。

 私が周りの人間を異星人・異世人だと思うのは、私だけだろうか。私が異星人なのだろうか。違う世界に住んでいる価値観の違う異世人が、回りには多くいる。そのエイリアンが私の人生を脅かし、襲ってくる。

 

金満界に住む異世人

 2017年12月、河村義子先生が主催する演奏会チケットを売るため、義子先生と仕事で関係の深い人を訪問した。その人の回答が、「その演奏会は日曜日で、私の住む街から、休日にわざわざ電車に乗って行くほど価値があるのですか?」であった。チケットは買ってもらえなかった。

 それを河村義子先生に話すと、義子先生は、「あの人は住む世界が違うのよ」と達観して言われた。義子先生は、良く人を見ているなと、感心した。今までその人と一緒に仕事をしていたが、その人は、単なる仕事として付き合っていただけのようだ。その演奏会が、義子先生の最後の演奏会となった。

 私もその人とかなり懇意にしていたが、その後、その人から煮え湯を飲まされる事件もあり、付き合いを疎遠にした。確かに住む世界が違うのだ。

 

葬儀で本性が露見

 その人は、河村義子先生の通夜の時、焼香には来たが、着席もせず、焼香が終わったら逃げるようにすぐ帰っていった。義理で来たとしか思えない雰囲気であった。私はその人と顔を合わせたくなかったので、葬儀会場の2階に「避難」して、そこからその人の行動をずっと観察していた。

 

私がエイリアンを識別する観点

その人はどういう価値観の世界に生きているのだ?

価値観の違うエイリアンが、自分の人生を食い殺す。

人格

 本箱を見れば、その人柄がみえる。本箱がないのは、絶句。

 その人の友を見れば、その人の人格がわかる。

 親をみれば、本人の根性が分かる。

 師を見れば、その人の人格がわかる。

学び

 その人は勉強が好きか?

 その人は自己投資をしているか?

 その人は10年前から進歩しているか。

 行動を見ていれば、利己か利他の人かはすぐわかる。

 頼みごとに対する反応で、本性が露見する。

  期待して行ったのに拒否されると、期待に対して裏切り者である。

 こちらの好意に対して、その礼を見れば根性が露見する。

人間性

 人が病気の時、どう振舞ったのか。人間性が露見する。

 見舞いに行く、行くと言ってこないのは、人間性が疑われる。

 人が死にそうな病状なのに、無視されると、その本性が露見する。

 死に対する考え方を見れば、その人の人生観が分かる。

 法事やお墓や菩提寺に対する考えをみれば、人間性が見える。

ITへの見識 

 スマホの扱いを見れば、人間性が見える。

 運転の仕方を見れば、その人の人生観が分かる。

 ITツールの使い方を見れば、人間性が見える。

 電話代を妻に管理されていて、相手からは決して電話をかけてこない人とは、付き合うのに嫌気がさす。

生活スタイル

 食事を見れば、人間性が見える。

 買うものを見れば、金銭感覚が分かる。

 仁を説法しながら、違約金を踏み倒す論語教師、人間性が分かる。

 

2021-06-19   久志能幾研究所通信 2064  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2020年12月24日 (木)

人生深山の峠、義子先生の深山の峠

 

 芭蕉の「奥の細道」の旅は、最上川の急流を舟で下り、霊山巡礼登山で旅の峠を迎えた。芭蕉は、山岳信仰の霊山で知られる出羽三山の一つである月山に登った。元禄2年(1689年)6月6日、頭を白木綿の宝冠で包み、浄衣に着替えて、会覚阿闍梨と共に、宿泊地の羽黒山南谷の別院から山頂までの8里(約32km)の山道を登り、弥陀ヶ原を経て頂上に達した。時は既に日は暮れ、月が出ていた。山頂の山小屋で一夜を明かし、湯殿山に詣でた。他言を禁ずとの掟に従い、湯殿山については記述がない。唯一、阿闍梨の求めに応じた句として、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」で秘境の感銘を詠んでいる。現代でも、湯殿山での撮影は禁止されている。

 『奥の細道』の作風は、この峠を境に雰囲気が大きく変わる。芭蕉三百年恩忌(1994年)で『奥の細道全集』(上下巻)を揮毫された馬場恵峰師も、この峠の記述を境に巻を分けて構成された。

 

人生の峠

 小さな人生にもドラマがあり人生の峠がある。しかし、その峠にもたどりつけず鬼門に入った仲間が身近で10名余にも及ぶ。還暦を迎えて、無事に人生の峠に辿り着けた有難さを強く感じる。還暦を迎えてからも仕事仲間の5名の訃報に接した。還暦は人生の峠である。

 還暦後に出会った音楽の師の河村義子先生にもドラマがあった。私が還暦を迎えた直前に義子先生は癌にかかられた。それが治癒した後の5年後に癌が再発され、余命5年と宣告されたようだ。手術をするとピアニストとして生きていけないと分かると、ピアニストとして最期まで生きたいと決断されたため、手術を拒否され、音楽道の深山に進まれた。その当時に、私とご縁ができたのは、仏様の差配だろう。

 

人生の深山

 人には、語れぬ人生の深山がある。人生で、いつかは足を踏み入れねばならぬ深山である。芭蕉は死者としての白木綿の宝冠で包み浄衣に着替えて、山に入った。人は経帷子に身を包み、人には見せられぬ醜い自分を見るために、山を登る。人生で一度は越えねばならぬ峠である。その峠で、過去の自分の臨終を見送る。

 死者として深山を上り、新しく生まれた赤子になって、上ってきた山道を下る。「他言を禁ず」の戒律は、人には語れぬ醜い己の臨終への佛の経なのだ。峠を下れるだけ幸せである。峠を下れずに、山腹で骨を埋める仲間も数多い。自然が唱える不易流行の経の声を聴き、己が神仏に生かされていることに感謝を捧げる。

 義子先生も癌を患ってから、弟子に真の病気状を知らせたのは、限られた人だけであった。義子先生は、黙々と人生の音楽深山の石段を一歩一歩登って深山に分け入り、後進を育て、後世に残る仕事をされた。しかし義子先生はその深山の峠で、越えねばならぬ峠を越えられず、帰らぬ人となった。享年61歳。若すぎる死である。明日の12月25日は命日である。ご冥福をお祈りします。

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 出羽三山の一つ 羽黒山 ニの坂   20191024日撮影

  合計2,446の石段が続く

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  馬場恵峰書 『おくのほそ道』上巻 最終頁  日中文化資料館蔵

 

2020-12-24 久志能幾研究所通信 1872  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年12月23日 (水)

明日死ぬる気配も見せず蝉の声(芭蕉)  磨墨知123

 

 今を精一杯生きているからこそ、鳴く声に生命力を感ずる。明日の命は分からない。今やるべきことをなせ。やりたいことではなく、やるべきことを成せ。交通事故、天災、新型コロナウイルス禍で、明日がどうなるかも分からない世の中だ。

 蝉は土中で成長し、成虫となって地上でたった1週間の命を輝かせる。その間に子孫を残すために全力を尽くす。人ならば、死を前にして世に残すものに全力をかけて臨みたい。それが出来なければ、蝉にも劣る存在になってしまう。

 

明日は死

 日本では、お風呂で年間2万人が死ぬ。自殺で2万人、一時は自殺者が3万人を超えていた。交通事故死で3千人だが、一時は1万人を超えていた。新型コロナやインフルエンザに罹り突然に3千人が死ぬ。心疾患で20万4,387人(2017年)が死ぬ。そのうち3万7,222人(2015年)が急性心筋梗塞の即死同然で死ぬ。それがこの20年間で2倍に急増している。死は他人ごとではない。

 人は遅くても50年後には死ぬのだ。10年20年は誤差範囲である。

 

余命宣告

 私も河村義子先生の葬儀後に、胸騒ぎを覚えて検診を受けたら癌が発見された。その癌の5年後生存率が51%だと医師から言われた。5年後に半分が死ぬ。余命2.5年の宣告と同じである。だから私は残された時間を大事にしている。時間は命なのだ。

 河村義子先生は余命5年と宣告され、手術をするとピアニストとして生きられないと分かると手術を拒否して、ピアニストとして音楽道を全力で生きる道を選択された。私には死ぬ気配も見せなかった。だから義子先生の突然の訃報に茫然自失である。

 人生で余命20年も5年も、人生の長さから言えば、誤差範囲である。余命1ヶ月なら、金を使いまくり毎日楽しく過ごせばよい。しかし1年以上も余命があるなら、人生で一仕事が出来る。虚楽的な生き方では、娯楽が逆に苦痛になる。だから余命宣告された人は、命をかけて世に残す仕事に全力をかける。

 

不死の者

 多くの人は時間などいくらでもあると思って時間を無駄して生きているが、今日が人生最期の日かもしれないのだ。余命を意識して一日一日を大事に生きている者から見ると、他人は不死の者であるかのように振舞っている。しかし、いくら頑張っても後50年は生きられないのだ。だからこそ無為に生き永らえるよりも、限りある命を輝かせて、今を全力で生きたいと思う。

 

時間の伝教師

 私は見送られるよりも、知人を見送ってあげたい。だから私は時間の大切さを皆さんに伝教している。

 

 12月25日が河村義子先生の命日である。河村義子先生の追悼写真集(全134頁)が完成し、明日、印刷会社から自宅に届く。河村義子先生を覚えている人がいる限り、この記録がこの世に残る限り、義子先生は皆さんの心の中で生きている。明日、義子先生のご霊前にこの追悼写真集を届けます。

Dsc09866s 『追悼写真集-河村義子先生に音楽道を學ぶ』

 2020年12月24日、10時半に自宅に届いた

2020-12-23 久志能幾研究所通信 1871  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年12月15日 (火)

脱稿 河村義子先生 ― 追悼写真集

 

 昨日(2020年12月14日)、河村義子先生の追悼写真集の原稿を脱稿して、印刷会社に渡した。12月23日に製本が自宅に届く段取りである。12月25日の義子先生の命日に間に合うようで安堵している。

 人は3度死ぬ。一度目は、その人の肉体的な死。2度目は、その人を知っている人が亡くなる時。3度目は、その人の記憶が此の世から無くなる時。義子先生はまだ友人、門下生の間では思い出として生きている。その思い出を長く残すために、追悼写真集を記録として作成した。この追悼写真集作成が、大垣の音楽の育成に尽力した河村義子先生への供養である。

 本書はA4版、全頁カラーで、全134頁である。この書はプライベートな写真集なので、正規出版物のように市販はしない。関係者・希望者だけに譲渡予定です。

 写真集の内容は過去のブログの記事をベースにした。その記事のカテゴリーは「m-音楽道」「m-河村義子先生の歩んだ道」「m-ピアノ殺人事件」。

 

追悼写真集『河村義子先生に音楽道を學ぶ』

目次                   頁

弔辞                      6

大学時代                   16

ピアノ騒音殺人事件              17

眼で聞き、耳で見る              20

増築開始                   21

改築後 本の収納後              22

見せびらかしのご縁              23

クルミの木とのご縁              24

河村義子先生とのご縁を招いた招き猫ピアノ   25

正しい道を考えながら歩く           27

ドイツ演奏旅行                28

河村義子先生の本気と覚悟           37

今、すなわち臨終               38

院内ふれあいコンサート            40

ピアノ勉強会                 46

人生能舞台という音楽発表会          50

カナデノワコンクール             56

人生の譜面をめくる佛様 TIMM演奏会      64

「子と音」                  76

ドレスデン・トリオ & 河村義子 in 大垣   84

為写経が奏でる「美しき青きドナウ」      90

サラ・ビュックナー ピアノの調べ       92

サラ・ビュックナー  in 大垣         94

サラさまは、実は「魔女」だったんです♪    97

命をかけた最期の仕事             84

義子先生の命、人生の大事を急げ        102

タイマツを掲げよう              104

行き先明示                  105

河村義子先生の航跡、ピアノが奏でる人生    106

義子先生の懐に抱かれて雨やどり        108

春風秋雨                   110

禁初詣、初詣も叶わぬ哀しみ          112

仕事は自分を写す鏡、義子先生の命の仕事    114

ピアノと人生    調律と整音        115

聖観音菩薩が観る声              116

聖観音菩薩の慈愛               118

河村義子先生の中陰を供養する         119

河村義子宅へタイムスリップ          124

国破れて山河在り               129

義子先の志を継ぐ               130

あとがき                   132

 

2020-12-15 久志能幾研究所通信 1862 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年12月14日 (月)

あとがき 河村義子先生--追悼写真集

 

 河村義子先生が2018年12月25日に亡くなられて、2年が経った。当初、もっと早く追悼写真集を出す予定であったが、私が大病で倒れ、寝込んでしまったので、最近まで取り掛かりができなかった。

 

 最近、やっとそれに着手する元気が出てきた。まだまだ体力的には回復せず 、まともには動けないが、編集作業ならと少しずつ取り組んでいる。

 

先生とのご縁の始まり

 私は先生が亡くなる5年前にグランドピアノを買い、義子先生からピアノを習い始め、そのご縁で義子先生の演奏活動の写真を撮り始めた。その演奏会の写真数は8,000枚ほどに達した。お弟子さんに聞くと、それ以前の写真は、スマホで撮った写真くらいしかなく、本格的な写真は皆無という。私がプロ用の機材で写真を撮り溜めたのもご縁と思う。

 

 撮影用カメラも、この5年でCANON7DⅡ、CANON5DⅣ、SONYα9と三代も変わった。α9は、演奏会用の無音シャッターで、暗い舞台でも撮影が可能なカメラである。演奏会を撮影するのでなければ、買わなかったご縁である。

4k8a93741s    馬場恵峰書 人生六詞

ご縁

 今にして、一番脂ののった時期の義子先生の活動を撮影出来て、よきご縁であったと思う。遅からず、早からず、義子先生とご縁ができたのは、運命かもしれない。それこそ一期一会である。

 私の癌が見つかったのも、義子先生の死で、何か胸騒ぎがして検診を受けた経緯による。いわば義子先生の霊が教えてくれたと言える。もし検診があと半年遅れていれば、手遅れの恐れもあった。感謝です。

人生を完全燃焼

 義子先生もピアノが華やかに盛り上がった時代に、演奏家として活動できた。享年61で、見た目の若さを保ったまま、多くの人から惜しまれて亡くなられたのは、一面では幸せであった。現在は、ピアノ市場は衰退傾向である。義子先生がよぼよぼになって、往年の美しさが色あせてから亡くなられたら、こういう状況にはならなかっただろう。義子先生は、音楽で人のために役立つことを夢見て、人の2倍も3倍もの情熱をかけて、やりたいことをやり切って、命を全うされた。だから弔問客が、通夜と本葬で計1,000人を超えた。ある意味で羨ましい人生であった。私はその最盛期の記録を写真として残せたことを幸せと思う。

 

 私はその姿を私の母にダブらせて見ている。母は戦後、シベリア抑留から帰国した父と結婚して、裸一貫で、戦後の日本高度成長期を駆け抜けた。市内のある会社の社長から、「お前の母親は、大垣市内の社長を集めても、太刀打ちできる者はいない」と言われるほどの傑物で、その社長から一目を置かれていた。母は高度成長期、頑張ってその成果を手にして、日本経済のバブルがはじけた後、静かに世を去った。やりたいことをやり遂げた後で、幸せな人生であったと思う。

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  馬場恵峰書 人生六詞

 

2020-12-14 久志能幾研究所通信 1861  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年12月13日 (日)

河村義子先生の志を継ぐ

私の夢 ミニ音楽堂の建設 

 私の夢は自宅にミニスタジオ(音楽堂)を作り、そこで世界や国内の一流の音楽家に、リハーサル会場の提供やミニコンサートを開催することだ。

 現在、コンサートホールで演奏する音楽家は、そのリハーサル会場に困っている。正規のホール会場を1日借りると、賃料で30万円は取られる。大垣に来る音楽家は、宿泊先のホテルで、「近くにリハーサル会場はないか」と必ず質問する。

 

ドレスデントリオの想い出

 2018年1月13日、河村義子先生がドイツからドレスデントリオを呼んでコンサートを開催した。そのリハーサルは、金山駅近くのマンションの一室で行った。その部屋で、河村義子先生も一緒にリハーサルをされた。

 その部屋は、ピアノの先生が個人のピアノレッスン用に借りている。その部屋は完全な防音設備がないので、気兼ねして練習をするようだ。

 私は、そのその場に同席して、リハーサル風景を撮影させてもらった。休憩時、一緒にお菓子を食べながら楽しくお喋りをした。それが良き想い出である。それを自宅で出来れば幸せと、自宅にミニ音楽堂の建設を夢見ていた。

大人のおもちゃ

 私はそれの実現のため、2020年2月に「大人の玩具」(家)を買った。それはこの8年ほど探し回っていた要件にピッタリであったので即決した。それも朝、物件を見付けて夜に買うことを不動産屋に報せた。我ながら狂気である。

 それで、まず第一歩として、ミニ音楽堂の入れ物は準備が出来た。今すぐには改造工事費が工面できないので、手が付けられないが、近い将来、そこにミニ音楽堂を完成させる計画である。ミニ音楽堂の建設と言っても、防音工事費がかかるし、コンサートピアノも家庭用のピアノの数倍と高価である。これからの資金繰りが大変だ。でもそれも生き甲斐の糧になる。

 この歳で、新しい家を買ったので、友からは狂気の沙汰だと呆れられている。人は狂気の時こそ、大きな仕事できる。まともな神経では、プロジェクトは進められない。だから医師からの余命宣告通りには、死ぬわけにはいかない。医師を信じれば、余命宣告通りに死ぬことになってしまう。

 

 「人間は本質的に狂の部分を持っている。

  狂っているときが一番正常で健全だ」

      ギリシャの哲学者セネカ

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 ドレスデントリオの練習風景  2018‎年‎1‎月‎8‎日、

 河村義子先生との共演の為、来日したドレスデントリオもマンションの一室で、隣りに気兼ねをして練習だ。この練習が終わった翌日、下の住民から嫌味を言われたとか。

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  ミニ音楽堂のイメージ図

 

2020-12-13 久志能幾研究所通信 1860  小田泰仙

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2020年12月12日 (土)

国破れて山河在り 義子師去りて音楽在り

 

 義子先生の死を思うと、なぜか李白の「国破れて山河在り」の詩が頭をよぎる。義子先生が活躍していた「音楽の国」が破れてしまった。義子先生が亡くなっても音楽を愛する人たち、友人、門下生が変わりなく生きている。大垣の山河も変わりなく四季の移り変わりを演奏している。自然は声なき音楽を奏でている。

 

 私も老いて髪も白く薄くなったが、音楽を愛する気持ちは変わらない。義子先生の志を継いで、大垣の「音楽の国」の再建に向かって、一助として精進したい。朝起きて、まだ息をしていれば、「この世でまだまだやるべきことがある」との仏様からの啓示である。「起きたけど 寝るまでやることなし」ではない境遇に感謝である。

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2020-12-12 久志能幾研究所通信 1859 小田泰仙

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