桜田門外ノ変の検証 Feed

2017年9月30日 (土)

「桜田門外ノ変」の検証 (28)極楽とんぼ

 自動車技術会中部支部報『宙舞』の挑戦というコーナで、2003 年に人力飛行機で日本記録更新の人力飛行機開発者ヤマハ発動機(株)エンジン開発室の鈴木正人さん(当時)に、インタビューをした。鈴木さんは1979年からほぼ毎年、20年に渡り彦根市の琵琶湖で鳥人間コンテストにチャレンジしている(2005年現在)。彦根とのご縁である。

 その時のご縁で、技術者として記録に挑戦する真摯な姿にほれ込み、しばらく鈴木さんのチーム「エアロセプシー」の「極楽とんぼ」追っかけをしたことがある。長野県の農業飛行場や東京の日本航空学園の飛行場まで足を伸ばした。前の勤務先の会社では、技術部門の教育担当責任者として鈴木さんの講演会を企画し、講演をして頂いた。

 

創造とは

 この鈴木さんとのインタビューを通して、ヤマハ発動機の感動・創造・挑戦という社風に興味を抱いた。その縁でヤマハ発動機前社長の長谷川武彦著『感動創造経営』を読み感銘した言葉が、創造の「創」の字の解説である。

 という文字の偏である「倉」には、傷という意味がある。つくりの「リ」(りっとう)は、文字通り刀のことである。つまり「創」という字は、刀傷を表しているということだ。私は「創造」という文字をみたときに、刀で切られた傷を思い描いてしまう。

 刀傷というのは、自分を刀で斬る人はいないから戦闘状態のときに他人に切られるのが自然である。もちろん刀傷だから、深く切られれば死ぬことになるが浅く切られたキズは、時代劇の一場面のように、焼酎を吹き掛け、晒をまいて「死んでたまるか!」と気合を入れれば傷跡に肉が噴き、治っていく。そしてその新しい肉と皮膚は、以前に増して強固なものになってくる。これこそが人間の生命力であり、創造の「創」につながる。(長谷川武彦著『感動創造経営』PHP研究所刊 より)

 

井伊直弼の決断の結末

 井伊直弼公が新しい日本国の創造のため、「千古を洞観し、古今を一視する」として断固たる決意でとった行動は、結果として日本国として、傷だらけ、血みどろの闘争になり、多くの犠牲者の中から後を継ぐ新しい芽を噴きださせ、幕末の争乱を経て明治維新となり、工業国家を目指す近代国家が成立する。

 井伊直弼公が斃れた後150年余を経て、世界の冠たる工業国家となった今日、彦根の空を人力飛行機で世界一を目指して挑戦している自動車技術者の夢が舞っている。井伊直弼公は文武兼備の才人であった。時代が彼を要求しなければ、市政の一文化人として名を残しただけであろう。文化人としての彼は茶道の書も著している。その井伊直弼公の眠る地(菩提寺の清涼寺の門は琵琶湖の方向を向いている)で、人力飛行機の技術の花と20年に渡る若人の技術者の志の華が、鳥人間コンテストとして、琵琶湖の上空で舞っている。感慨深いものがある。

 

現代の黒船来襲

 若人が平和な琵琶湖上空で技術を競う中、それに海の外では、北朝鮮問題、尖閣問題、韓国の反日運動と問題が押し寄せている。その折、国内では、反日思想の新聞、テレビ、雑誌のマスコミ、政党が日本を跋扈している。幕末の騒乱の折は、幕府と討幕の対立はあったが、反日の動きはなかった。幕末の騒乱に乗じて、日本での利権を確保しようとした英国、フランスの画策はあったが、それを退けて明治政府への政権交代が実現した。

 しかし、現代は身内の虫が獅子を食らい「日本打倒! 安倍政権打倒! なんでも反対!」と叫んで蠢いている。それも代案を出さずに反対だけを叫ぶ。私は安倍政策に全面賛成ではないが、サヨクの日本打倒には賛成しかねる。それを異常と考えないで見過ごしている日本人が情けない。アサヒ等の反日の新聞を購入し、反日のテレビ番組の反日報道をなんとなく見ているのは、敵に塩を送っているのと同じである。今は第二の国難の時である。座していれば日本は亡ぶ。日本を亡ぼすのは、日本国内の害虫である。

 

図1 「極楽とんぼ」の飛騨エアパークでのテスト飛行

    2004年5月29日

図2 鈴木正人さんとパイロットの中山さん

   鳥人間コンテスト会場で  2004年8月1日

  この日は、台風接近の強風のため、飛行機を無駄に壊すだけになる飛行を取りやめの決断をする。やめるというのも、1年かけて作った大事な飛行機を無駄に壊さないための未来に対する大きな決断である。猪突猛進は愚かである。その決断の経緯をまじかで観察できた。同席していた長谷川武彦ヤマハ発動機前社長も賛成であった。多くのチームがメンツの為、飛行を強行して強風にあおられて墜落していった。

図3 長谷川武彦ヤマハ発動機前社長と

   鳥人間コンテスト会場で  2004年8月1日

   チームのシャツを贈呈されてご機嫌な私

図4 琵琶湖での鳥人間コンテスト風景  2005年7月17日

 

2017-09-30

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2017年9月29日 (金)

書聖 日下部鳴鶴の生き方

 日下部鳴鶴(1838~1922)は数奇な運命に弄ばれた。しかし逆境に負けなかった偉人である。普の人間なら、その境遇に絶望して道を誤ったかもしれない。彼は安政6年(1859)、22歳のとき彦根藩士・日下部三郎右衛門の養子になり、その長女・琴子と結婚して日下部家を継いだ。万延元年(1860)桜田門外の変で義父・日下部三郎右衛門は闘死する。日下部家の当主が非業に死を遂げたので俸禄が激減して、生活に困窮することになる。明治になり政府に仕える身となり、才能を認められて大久保利通の側近として太政官書記官にまで出世して日本の国づくりに尽力した。大久保利通を父のように慕うが、明治11年(1877)に大久保利通が暗殺された。その暗殺を誰よりも早く目撃したのが鳴鶴自身であった。大久保利通の非業の死の翌年、彼は突如官を辞し一介の浪人として書を志すことになる。

 

馬場恵峰師のご縁

 それは鳴鶴が42歳の決断であった。馬場恵峰師(11代)が窯元を廃業し、書の道に転じたのは43歳の時で、鳴鶴とほぼ同じなのは偶然ではない。論語に曰く「四十而不惑(40歳にして惑わず)」。恵峰先生に窯元廃業の引導を渡したのが鳴鶴の書を手本とした原田観峰師(1911~1995)である。原田観峰師は日本習字の創立者である。

 

政治から芸術の世界へ

 実の父のように慕う二人の非業の死に巡りあう数奇が運命に、鳴鶴はどんなにか嘆いたことか。ドロドロした政治の世界から身を引き、芸術の道に入り、その哀しみを書に昇華した。その結果、日本の三大書家の一人として名を残すことになる。恵峰先生も日本書道界のどろどろした人間模様に嫌気がさし活路を中国に求め、今の業績がある。佛様の人智を超えた差配で、二人の非業の死がなければ、鳴鶴も偉大な書家にはなれなかったのかもしれない。偉大なる仕事をする人間には、それに相応した苦難が、彼を試すために襲いかかる。それなくして、人間の内なるダイヤモンドは磨かれない。

 陰があるから陽がある。陽ばかりの人生はありえない。全てバランスの問題である。そう思うとき、不運に出会ったのは、今までの悪縁の業が消え、新しい運命が開くときと感謝するべきである。そう思い、運命に従えば、佛様が一番良いようにしていただける。

 

お金の舞う世界

 現在の書の世界は、変に崩して読めない字を、これが芸術だとして持て囃されている。日展や他の展覧会も賞を取るのが目的のような「競争」の場と化して、裏でお金が動く世界となっているようだ。芸術に競争という言葉は不似合いである。しかし審査員の気に入られなければ、入選は難しいので、相応のことが裏でドロドロした人間模様が起こりがちである。最近、その裏話の事件が新聞を賑わしたのは記憶に新しい。以前、デパートの画商から叙勲書家の先生の作品だといって、1本の軸を見せられたが、すこしも感動もなく何処がいいのかも分からないが、叙勲の先生の作品だからと百万円だという。これは書道界が作る上げた換金できる手形である。芸術作品ではないと思う。

 恵峰師は、そんな世界を離れ、何時でも何処でも誰にでも分かる美しい字を書くことを心がけてみえる。師は崩して読めない字を芸術だとしては認めない。また金で動く競争社会の日展などには応募されない。賞を取るのが目的で、書を書いて見えるのではない。後世にお手本として残す作品を書いてみれる。その書体は、日下部鳴鶴の書とそっくりである。

 

日下部鳴鶴と原田観峰の写真、経歴等は下記をご覧ください。

日下部鳴鶴(1) http://www.shodo.co.jp/blog/souseki2/2017/05/25/post-125/

原田観峰  https://www.nihon-shuji.or.jp/about/profile.html

 

図1 本来面目 馬場恵峰先生書 2015年 本書のために書いて頂いた

 

2017-09-29

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2017年9月28日 (木)

日下部鳴鶴とのご縁

 2015年7月、松居石材商店の松居さんと話をしていたら、彦根出身の有名な書家がみえて、その特集の小冊子(図2)を見せて頂いた。見れば日本の三大書家の一人とある。彼の義父は、桜田門外の変で闘死をした日下部三郎右衛門である。日下部は井伊直弼公の籠のすぐ側で護衛をしていて、襲撃された時、闘って力尽きて斃れた。日下部は護衛武士の組頭である。桜田門外の変の後、他の彦根藩士と同じく日下部鳴鶴は俸禄が激減し、生活に困窮したという。それでも義父は闘死であるので、日下部鳴鶴は家名を継ぐことができた。(図1)

 今までご先祖の「黄鶴」を探していたご縁で、松居さんが「鳴鶴」という名の書家を教えてくれた。これも縁でしょう。

 

日下部鳴鶴と恵峰師とのご縁

 2015年8月24日、自家の墓石の揮毫をして頂くため先生宅を訪問した時、恵峰先生に鳴鶴の小冊子を進呈した。そうしたら日下部鳴鶴は恵峰先生の師である原田観峰師がお手本とされた方だと恵峰先生はいう。その冊子をお贈りできたご縁のめぐり合わせに驚いた。父の長兄の小田礼一は原田観峰師から書道教授の免許を授かっている。それは恵峰先生が観峰師に師事した時より少し前の時であるので、恵峰先生と小田礼一とは面識がない。礼一の甥の私は恵峰先生に師事している。不思議なご縁である。

 

お盆の萬燈供養

 2015年8月15日、長松院でお盆の萬燈供養の法要があり、初めて参加をした。お盆には、8月13日にお墓にお参りをして、ご先祖の霊を自宅にお連れする。お盆の間、自宅で過ごしていただき15日にお墓に帰る。その時の道案内として古い瓦を使った燈篭でお送りする。それが萬燈供養会である。この歳になって初めて知った作法である。

 萬燈供養会の後の小宴で、隣に座った真下良祐氏(千葉県)が書家で、日下部鳴鶴の話題で話が盛り上がった。そこで長松院の床の間に掛けてある井伊直政公の軸に書かれた書が日下部鳴鶴書であることを教えてもらい驚きである。この20数年、何回も見ているが、そんな意識が無いので全く気がつかなかった。もっとも新任の住職様も知らなかった事実ではある。書のサインである「日下東作」は日下部鳴鶴の若いときの雅号である。

 

図1 「桜田門外の変」時の供揃図 『彦根市市史』より

図2 『日下部鳴鶴コレクション』国宝・彦根城築城400年祭実行委員会発行

2007年3月21日発行 全61頁

図3 長松院 正門

図4 長松院 境内

図5 長松院 萬燈供養 

図6 長松院 萬燈供養 古い瓦を使った燈籠

図7 長松院 座敷 井伊直政公の騎乗姿の書画

図8 井伊直政公の軸の日下部鳴鶴(日下東作)署名

 

2017-09-28

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2017年9月26日 (火)

「桜田門外ノ変」の検証 (27)国友鉄砲

 2003年10月、自動車技術会中部支部報『宙舞』のインタビュー記事のため、長浜城内で鉄砲伝来と国友の鉄砲のお話を市立長浜城歴史博物館の太田浩司氏に伺った。その時に印象に残っている話は、「日本のハイテクの要として国友の鉄砲が長浜で栄えたが、産業としては技術進歩もせず衰退して、江戸末期に外国の技術の前に滅亡する」、であった。そこで氏は、井伊直弼公のリーダーシップについて話が及んでいる。それを太田氏は、下記に述べている。

 

鉄砲の育成

 「国友が生れた時は家康という人がいました。技術者だけでは産業にならないのですね。一貫斎は技術を世に普及させたいという企業的な面も多分にあった人間です。気泡もかなり売り込んでいるし、天体望遠鏡をも70両とか60両で大名に売っています。ただ基本は技術者ですから大々的にはできませんでした。あそこで誰かが、例えば彦根の殿様がバックについて、「俺が資金的なことをやるからお前はどんどん技術開発をやれ」というふうに言っていたら、一貫斎を中心に大きな産業に成長していったかも知れません。井伊直弼がいたら違っていたかもしれませんけど、ちょっと時代が数十年違いました。」

(自動車技術会中部支部報『宙舞』2004年54号 P10)

 

歴史のもし

 武器を生産するとは、その防御方法も開発することになる。旧態以前たる防御で、最新の武器で攻めて来る敵を防ぐには、当方も最新の防御が必要となる。いくら井伊直弼公が北辰流の免許皆伝でも、短筒で籠の中に打ち込まれては、手の出しようがない。もし井伊直弼公が鉄砲の生産に政治力を発揮すればとの、歴史上の「もし」を言いたくはなる。

 

国の外は魑魅魍魎

 徳川家康は、戦乱に明け暮れた時代を終焉させ、平和な世を作るため、幕府の仕組みの変更を禁じて265年の治世を維持した。それは一つの成果ではあった。しかし、どんなものにも生老病死があり、体制の死も起こる。その死への備えがないと危機状態に陥る。江戸末期、鎖国をして国体を守ろうとしても、血に飢えた列強欧米諸国が、平和な日本の扉をこじ開けにきた。その対応で日本古来のよき多くのモノを失った。

 その危機状態は今も変わっていない。攻めてくる役者が変わっただけである。近隣には北朝鮮のようにミサイルをぶっ放す国がある。尖閣列島強奪作戦や領海領空侵犯を繰り返す国が存在する。竹島を不法占拠する国が現在も存在する。サヨクは本件を全く非難しない。平安時代でもシナからの侵略を防ぐ防人として、恋人と別れて九州で国を護ってきた先人がいる。性善説は国内ではよいが、対外的には通用しない。足るを知る、利他を愛する高潔な国民は世界でも稀である。きれいごとでは生きていけない。正しい防衛力を持たないと殺される。その国難の大事なことを無視して、ありもしない問題を新聞第一面に掲げて、国難解散を非難する新聞が存在する。自分の城は自分で守れ。最大の敵は、自身の怠慢、身内のサヨクの獅子。何が正しいか、自分の頭で考えたい。魑魅魍魎の跋扈する世界とわたりあうには、自分の価値観をしっかりもつことだ。世には金に飢えたグローバル経済主義者が跋扈している。それを鏡として、日本の役割を考えたい。

 

図1 国友鉄砲の里資料館の掲示板

図2 国友の鉄砲 (国友鉄砲の里資料館)

 

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2017年9月22日 (金)

「桜田門外ノ変」の検証 (26)文書道神様

テクニカルライティングの神様との出会い

 早稲田大学篠田義明教授のテクニカルライティング(科学工業英語)のセミナーを社内受講して、まるでダイナマイトを食らったような衝撃を受けた。それは今まで学んできた日本語の書き方とは、一線を画する文書作成の論理構成を教える講義であった。先生の講義に出合えたおかげで、会社創立50周年記念論文募集で最優秀賞を受賞でき、ご褒美で欧州に行かせていただいた(稟議費用100万円)。それをご縁に、1994年にミシガン大学夏季テクニカルライティングセミナーに自費参加し、3回目の挑戦で科学工業英語試験1級(TEP1級)に合格し、作っていただいた会社の制度で1997年に再度、ミシガン大学の夏季セミナーに出張参加ができた。

 

企業内の教育現場の姿

 篠田先生はいつも、研修担当が講義に顔を出さないことに怒っておられた。一流企業だと必ず、役員や部長が先生の講義ぶりと生徒の受講状況を視察に来るとか。多くの企業を観察をするとそういう企業は成長している。それに反して、教育に無関心なトップの企業は、衰退や消滅している例を私は身近で多く見てきた。

 それを教訓に、私が運営した新人・中堅技術講座では、必ず講師の講義振りを評価するために顔を出して、翌年度の講師依頼の可否のデータとしていた。講義姿をみれば、その人の仕事のレベルと人格は分かる。今はそんなことまで配慮する事務局がないことが哀しい現実である。またそんなことを教えてくれる先生もいないのが現実である。そんなことまでを、体で教えていただいた篠田先生とのご縁に感謝です。先生とは20年来のお付き合いをさせていただいている。先生から学んだテクニカルライティングの手法がどれだけ仕事の役に立ったか計り知れない。文書は仕事とコミュニケーションの基本である。

 この学びでの浮かび上がる問題は、文書での言い方がきつくなることである。特にメールでのやり取りでは、けんか寸前になることがよくあった。欧米の単刀直入の言い方、書き方は、日本文化にそぐわない場合が多々あり、使い分けが必要であることを、何回もの痛い経験から学んだ。言葉とはその国の文化なのである。日本語ではあまりダイレクトに言わなくても分かってくれるはずとの前提で文書が構成される。日本語では「私」という主語がない方が、当たり前の文法で、「私」を前面に出すと押しつけがましいとの印象が持たれる。ビジネス文書と私的文書のバランスの取り方が難しいと今でも感じている。

 

人財育成を推進

 技術部門の担当部署でその長のときは、部下の文書の書き方について、こだわりを持って部下を指導してきた。企画部門に異動してからは、部品事業部全体を考える立場になったので、その事業部に配属になった新人、中堅技術者に対して、技術教育講座を開設し、日本語のテクニカルライティングの講義・添削指導を8年間することになった。人に教えることは、自分への良い勉強の機会である。その時に痛感したことの一つが、そういう教育の場に社長はおろか、直属の長さえ顔をださないことで、自分の会社の行く末を案じた。その危惧は悲しいが当たった。多くの研修講師と話をしたが、その研修会場に顔をだすトップはごく少ないとのこと。一流の会社ほど、トップがそういう教育現場に顔を出すようだ。多くの経営者は教育は大事だと、口先で言うが、それを後ろ姿で実際に示す経営者は少ないのが現実である。これも成果主義の弊害であろう。教育の成果は10年後なので、目先の成果に囚われる経営者は見向きもしない。

 

図1 名古屋キャッスルホテルにて(2000年8月24日)

   前列左から二人目が篠田先生、一人置いて後藤悦夫先生、著者は左端

 

2017-09-22

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2017年9月21日 (木)

「桜田門外ノ変」の検証 (25)文書道

現代に繋がる井伊直弼公との縁

 テクニカルライティグのご縁

 2004年3月11日、テクニカルライティングの世界的権威であるミシガン大学スチーズンソン教授との再開の機会があり、その席で、彦根市とミシガン大学のあるアナーバー市が姉妹都市であることを初めて知った。このアナーバーには1994年と1997年の2回、計20日程滞在したことあり、ずいぶん縁と言うのは深いもので、いかにそれに気付かず過ごしているかと感慨を新たにした。

 私のテクニカルライティングの師である早稲田大学の篠田義明名誉教授は、アナーバー市の名誉市民でもある。1994年に初めて私はアナーバー市の地を踏んだ翌年、先生は長年のテクニカルライティングの普及の功績で、アナーバー市の名誉市民の栄誉を受けた。深いご縁である。私がこの面の能力を身につけるきっかけも、篠田先生との出会いが縁である。先生の講義はまさに私にとって衝撃的なメッセージとなり、この面の勉強を始める縁となった。コミュニケーション力とは、データmと加速度αで伝える力Fが決まる。それを実感させて頂いた講義であった。その先生も2004年、古稀のお祝いを受けられた。

 

文書という武器

 昔の武士は刀で戦った。現代のビジネス戦士はペンで戦う。ペンは刀より強し。文書はときには人を切り、情報戦争の上で戦いの武器ともなる。その武器としての文書構成方法がテクニカルライティングである。その技法を学んだご縁は、その後の仕事に大きな力となった。新人教育の講師としても、この文書作成手法や文書デザインを新人に教えた。

 

事例:大垣駅前商店街の衰退研究

 多くの人に事実を伝えるのは文書の力である。その伝え方には、「道」がある。何が問題か、何が原因か、真因は何かを明確に論理的に展開して、伝えないと、相手に伝わらない。論理性がないと、声を大きくして相手にえても、相手の心にしていない。こちらの情報が、相手に伝達されないのだ。その真因が何かを明確にして追及しないと、対策もポンボケとなる。現在、大垣駅前商店街の衰退について研究している。今まで漠然と衰退を議論して、大変だ大変だと騒いでいても、具体的な現実のデータと原因と対策で示さないので、無責任な為政者が動かない。相手も責任逃れに必死である。

 

論理的な解決策

現状把握

 どれだか商店街が衰退したか、そのデータを示す。

  現在の閉店数の調査、図示

  公式データで、実際の状況を明確にする。

  産業従業員数等で、時間的な推移を示す。

 視える化

  話しだけではなく文書で視える化して、冷静に解析する。

 何が原因か、「何故なぜ?」を5回繰り返して追及する。

 真因の追及

  表面的な原因ではなく、真因を明確にする。

  対処療法ではなく、真因を明確にして、手を打つ。

 責任の明確化と対策

  曖昧に責任の所在を明確にしないから、解決ができない。責任者は多額の報酬をもらっていて、多くの人の命・生活を守る責任がある。それを個人攻撃になるかと遠慮して、曖昧にするから問題が解決しない。

 責任者とは

  責任者とは決断すること。責任者とは主座である。責任者には、報酬に見合った大きな責任が発生する。それを曖昧にするから、ますます大垣市が衰退する。責任者には、大垣市民の生活と命がかかっている。

 

大垣市の開国

 井伊直弼公が、米国のペーリ総督の黒船の大砲の武力という脅しで開国を迫られた。井伊直弼大老は開国という正しい選択としたが、桜田門外の変で、世界情勢を理解できない偏狭的な日本人に殺された。敵は本能寺、である。現代の我々ビジネスマンは、危機状態に論理的な対応しないと、身内に殺される。今は、敵は外国や県外の商人ではなく、事なかれ主義の何もしない市の役人が、我々の敵なのだ。何もしないし声も出さない、サイレント殺し屋である。業務改革では、何もしないのが最大の罪なのだ。市民が声を出さないから、大垣駅前商店街が静かに20年かけて殺される。もう商店街の61%が殺された。自分の城は自分で守れ。自分達も改革しないと生き残れない。

 図1 『武道としての情報設計』

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2017年9月20日 (水)

「桜田門外ノ変」の検証 (24)長松院

 恵峰先生を案内して彦根の各所の碑文を見て回ったため、すっかり遅くなって2015年11月29日16時過ぎに、長松院に辿りついた。当初の予定の彦根城博物館と彦根城は見学の時間がなくなってしまったのが心残りである。清涼寺での参拝の時間が想定外であった。しかしよきご縁出合ったのが救いである。長松院では、最初に恵峰先生を改建したお墓に案内をした。やっと今回のお役目が半分かたづいたようだ。

 

日下部鳴鶴書の軸

 長松院の奥座敷にある直政公の騎馬武者姿「井伊直政公出陣之繪圖」に日下部鳴鶴の署名が記されている。その軸のところに先生を案内したら、恵峰先生が数分間じっと眺めておられた事態に驚きである。日下部鳴鶴は恵峰師の宗師にあたる。日下部東作と署名があり、それは日下部鳴鶴の若い時の雅号である。私も2年前(2013年)のお盆のとき、東京の書家からそれを教えてもらって知った。実にこの書を法事の度に見ていたが、日下部鳴鶴の書であることを知ったのは、その時である。お宝は足元に埋まっていた。

 

「井伊直政公出陣之繪圖」

 この軸は井伊直政公没後300回忌(明治34年、1901年)に合わせて描かれた。井伊直政の赤備えの凛々しい騎馬姿を描いた縦2.7×横1.65mの大きな掛け軸である。赤備えは武田家の由来で、恵峰先生のご先祖の馬場春信公にご縁がある。長松院は、井伊直政公の幼名、虎松の一文字を取って長松院となった。井伊直政公没後、300回忌には火葬した場所に供養塔が有志の手で修繕整備された。そのおり、この絵が長松院に寄贈されたという。左下に彦根藩士で明治時代の書家日下部東作(日下部鳴鶴)が記した漢詩が揮毫されている。絵は日本画家の青柳琴僊(1867~1962)の作である。

 

奥山に紅葉踏みわけ

 その後、住職さんとしばし歓談をした後、私の運転で大垣のホテルに向った。 その夜のホテルの食事会で、お膳下敷の美しさの目を引かれ、早々に万葉和歌を揮毫された。私がいつも写経をしている筆ペンで、色紙の絵柄に沿った和歌をさっさと揮毫された。弘法筆を選ばず、である。

 

「奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき」

           猿丸太夫(5番) 『古今集』秋上・215

(現代語訳:人里離れた奥山で、散り敷かれた紅葉を踏み分けながら、雌鹿が恋しいと鳴いている雄の鹿の声を聞くときこそ、いよいよ秋は悲しいものだと感じられる。)

 

図1 改建したお墓の前で

図2 日下部鳴鶴書の軸の前で恵峰先生

図3 「井伊直政公出陣之繪圖」長松院

図4 長松院の喫茶室で恵峰先生の歓談 2015年11月28日17:00

    頭上の「和敬静寂」は恵峰先生書(寄進)

図5 井伊直政公の供養塔 長松院

図6 お膳下敷の美しさの目を引かれ、早々に万葉和歌を揮毫される恵峰先生

   11月28日19:00 ロワジールホテル大垣 「あじさい」にて

図7 揮毫された色紙

 

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2017年9月18日 (月)

「桜田門外ノ変」の検証 (23)龍譚寺、天寧寺

龍譚寺の鳴鶴石碑

 清涼寺に隣接した龍譚寺は、井伊家の菩提寺で、奈良時代行基によって遠江国(現静岡県)井伊谷に開基された、臨済宗妙心寺派の寺院である。石田三成公の供養塔がある。寺院裏山の墓地には、彦根御前とうたわれた井伊直弼の母の墓や、直弼の側室であった里和の文塚など、多くの史跡が残っている。そこに日下部鳴鶴の学問の師である田中芹坡先生を顕彰した碑が建っているので、馬場恵峰先生ご夫妻をご案内した。碑の書は日下部鳴鶴である。この石碑は東北の仙台石である。

 日下部鳴鶴は、中林梧竹、巌谷一六と共に明治の三筆と呼ばれる近代書道の確立者の一人である。馬場恵峰師は、原田観峰師の第一弟子である。原田観峰師は日下部鳴鶴の書をお手本として日本習字を創立した。だから、恵峰師の書は、日下部鳴鶴の書体とそっくりである。私は恵峰師の方が名筆だと思う。私は弟子として恵峰師の書を世に問いたいと写真を撮り、出版の準備をしている。

 

天寧寺の鳴鶴石碑

 その後、天寧寺に行き、馬場恵峰師を日下部鳴鶴の書の墓、碑文に案内した。石黒太郎氏の墓石の彫られた日下部鳴鶴の書体の彫り方を見て、恵峰師はその彫り方の解説をされた。石の彫り方にも高度な技法がある。石黒太郎の墓は無縁の墓として墓地の奥のほうに置かれており、誰も訪ねるものもない。石黒太郎の墓の裏面には勝海舟の弔辞を日下部鳴鶴が書にして彫ってある。この墓石は文化財としても貴重であるが、今は捨てられたように置かれている。恵峰先生が石黒太郎の墓石の裏に彫られた鳴鶴の字体をなでるように慈しまれたのには驚きであった。(碑の詳細はNo12「明治の墓標」を参照)

 

図1 田中芹坡先生顕彰の碑

図2 田中芹坡先生顕彰の碑 部分

図3 大東義徹氏の顕彰の碑  日下部鳴鶴書

図4 大東義徹氏の顕彰の碑  部分

図5 大東義徹氏の顕彰の碑  部分

図6 石黒太郎氏の墓 

      日下部鳴鶴書を愛でるように触れられる恵峰師

図7 石黒太郎氏の墓  日下部鳴鶴書

 

2017-09-18

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2017年9月11日 (月)

「桜田門外ノ変」の検証 (22)寺院経営

恩師への御奉公

  2015年11月24日、吉田松陰のお墓にお参りをしていたおり、その境内で女子学生30名ほどが掃除の奉仕活動をしていた。お参りをした後、隣接の墓地を見学していたら、女子学生たちが「恩師の墓」の前に整列して校歌を静かに合唱して、引率の教師と思われる方の講話と生徒の代表のスピーチが始まった。昭和女子大学の創業者や恩師のお墓に定期的にお参りをして創業の精神と恩師への感謝を伝える教育の授業のようだ。日本の美しい伝統を守る教育を目の前で見て、少し嬉しくなりシャッターを切った。学問の神様の松陰神社に、大学の創業者のお墓があるとは羨ましい。

 

神社・寺院の経営

 神社としては珍しく、松陰神社に隣接して、墓地と葬祭場が併設されていた。世田谷区のど真ん中で、すぐ横には国士舘大学、豪徳寺がある超一等地である。きっとお墓の一聖地もド高いのだろうと推察した。そこにお墓を持てるのは、一種のステータスのように思う。松陰神社の墓地や井伊家の菩提寺の豪徳寺の墓地には、ステータスとしての付加価値がある。お墓を持つにしても、競争率が高い墓地を経営しないと、お寺もやっていけない。現在は廃寺の問題が各地で起きている。高い付加価値を出せるお寺なら、廃寺の憂き目にもあわなくてすむのだろう。

 

地域密着型の経営

 もともと、お寺は地域の役所のような役割を担っていた。地域の住民と共にあった組織である。どれだけ地域住民に融けこんで、寺院経営が出来るかが問われている。お寺での集会が価値ある内容でないと、お寺で法要を開催しても人は集まらない。それと日頃の住民との交流があるかどうかである。その交流も住職の人格によって決まる。それは、ある人の交友関係が、その人のご縁と社会交際実績を作るのに良く似ている。

 

住職の法話の魅力

 昔は住職といえば、その地区の最高の知識人であり、人格者であって人々の相談相手や指導をしていた尊敬されるべき方であった。現在は情報がマスコミを通して溢れ、一般人の方が、知識レベルが高い場合もある。住職として俗世間とは離れた面の指導や知識がないと檀家は魅力を感じない。企業でも社長を観れば、その会社のレベルが分かるように、住職を観れば、お寺の経営状況が分かる。企業でもその社長以上の部下は育たない。法事でお経を上げるだけで、法話一つしない僧侶では尊敬されまい。葬式坊主と言われては、お寺経営も衰退の一途である。組織としての寺院のトップにお寺の興亡がかかっている。そのお寺が衰退して困るのは檀家である。

 あの住職の法話を是非聞きたいと思わせるオーロラ、話術、内容が伴う法話を話せる能力が求められる。私はこの5年間に、塩沼亮潤大阿闍梨の話を聞きたくて、その講演会に東京に3回と京都に1回と計4回も行ったことがある。それだけの魅力のある人格と法話であった。今は年に10回ほど、九州の馬場恵峰先生宅を訪問しているが、その目的は先生のお話を聞くのが大きなウエイトを占める。そういう魅力を寺院のトップは持たないと、寺院経営が成り立たない。

 テレビ真理狂軍団でも、あの手この手で視聴者を洗脳させようと必死である。なにせテレビ局は拝金主義教に染まっているから。そんなコンペチータに洗脳された檀家を引きつけるためには、お寺も相応の手段が必要とされる。 

 「結局一つの団体、組織の運営がうまくいくかいかないかは、ある意味ではその指導者一人にかかっているともいえましょう。その責任はすべて指導者一人にあるといってもいいと思うんです」(松下幸之助著『指導者の条件』)

 

図1 松陰神社 掃除の御奉公をする女子学生たち

図2 松陰神社 前方の鳥居の右奥が吉田松陰の墓所

図3 昭和女子大学の恩師の墓(松陰神社内の墓地)

図4 昭和女子大学の恩師の墓の前でお勤め

図5 松陰神社内の墓地  左手の石塀内が松陰の墓所

図6 松陰神社内の墓地  奥が葬祭場

 

2017-08-11

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2017年9月10日 (日)

「桜田門外ノ変」の検証 (21)松陰神社

松陰神社に参拝

  2015年11月24日、PHP主催の山本七平賞受賞式と祝賀パーティが帝国ホテルで開催されたので、上京した折、そのパーティに出席する前に松陰神社と豪徳寺に参拝した。このパーティでは、生前に渡部昇一先生の姿を見る最後の機会となった。会話を交わす機会を逸して、今にして残念に思う。

 松陰神社は豪徳寺から500mほど離れた近距離にある。2015年10月5日に豪徳寺に参拝したとき、元彦根藩家臣の末裔の方が参拝に見えており、松陰神社の存在を教えていただいたので、今回、ご縁があり参拝できた。

 吉田松陰は安政の大獄で連座してこの地で刑死したが、高杉晋作らが奔走して、その亡骸をこの地に改葬した。その後、松陰神社として祭られた。長州の萩にも松蔭神社があり日本には2つの松陰神社が存在する。

 今回、参拝する気になったのは、父の弟の小田五郎氏が、昭和19年、ビルマで戦死された。その戒名「護国院戦訓至誠居士」の「至誠」とは吉田松陰が好んで使った言葉である。また吉田松陰は、大老井伊直弼公により、刑死させられた因縁もあり、今回のご先祖探しのご縁としてお参りをした。

 

松陰神社と大垣とのご縁

 この吉田松陰先生の墓所の中央が吉田松陰先生のお墓で、その右側2つ目が幕末に思想家頼山陽の三男・頼三樹三郎の墓であることを説明看板で知って、大垣とのご縁の繋がりに驚いた。頼三樹三郎は安政6年(1859)に、安政の大獄に連座して、刑死した幕末の志士である。

 頼三樹三郎は、梁川星巌がコレラに罹り死亡する時、側にいて看取った縁がある。梁川星巌は、江戸時代後期、学問の大垣といわれた時の漢詩人で、現在の大垣の代表的文人である。

 梁川星巌(1789年~1858年)は、美濃国安八郡曽根村の郷士の子に生まれ、文化5年(1808年)に山本北山の弟子となり、同3年(1820年)に女流漢詩人・紅蘭と結婚した。紅蘭は江馬細香の妹である。星巌は紅蘭とともに全国を周遊し、江戸に戻ると玉池吟社を結成した。

 梁川星巌は、梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内らと交流があったため、安政の大獄の捕縛対象者となったが、その直前(大量逮捕開始の3日前)にコレラにより死亡した。星巖の死に様は、詩人であることにちなんで、「死に(詩に)上手」と評された。妻・紅蘭は捕らえられて尋問を受けるが、翌安政6年(1859年)に釈放された。

 歴史上の「もし」として、細香女史が望み通り頼山陽の妻になっていたら、安政の大獄で死罪になっていたはずである。井伊直弼大老が統括した安政の大獄での厳しい追求は、彼女の言動を見逃すはずが無い。そうなると女性漢詩人、画家としての江馬細香は存在しない。この頼山陽と結婚できなかった不幸なご縁は、彼女の才能を惜しんだ神様のご配慮かもしれない。

 

 梁川星巌の資料や経歴の書画は、「奥の細道むすびの地記念館」(大垣市船町)に展示されている。

 

図1 松陰神社

図2 松陰神社 奥が本堂

図3 吉田松陰像

図4 吉田松陰像説明パネル

図5 吉田松陰の墓所

図6 吉田松陰の墓所

   中央が吉田松陰のお墓、その右2つ隣が頼三樹三郎のお墓

   両端の2つの燈篭が、明治になり徳川家から謝罪の意味で奉納された。

図7 松下村熟の再建(オリジナルは萩にある)

図8 「洗心」と命名された手水場

図9 山本七平賞授賞式での渡部昇一先生 2013年11月27日

   この時、改めて名刺交換をさせて頂いたのは幸いであった。

図10 山本七平賞授賞式  2015年11月24日

図11 山本七平賞授賞式で乾杯の音頭をとる渡部昇一先生 2015年11月24日

   これが生前の先生の姿を見る最後となった。

 

2017-08-10

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