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2017年9月29日 (金)

書聖 日下部鳴鶴の生き方

 日下部鳴鶴(1838~1922)は数奇な運命に弄ばれた。しかし逆境に負けなかった偉人である。普の人間なら、その境遇に絶望して道を誤ったかもしれない。彼は安政6年(1859)、22歳のとき彦根藩士・日下部三郎右衛門の養子になり、その長女・琴子と結婚して日下部家を継いだ。万延元年(1860)桜田門外の変で義父・日下部三郎右衛門は闘死する。日下部家の当主が非業に死を遂げたので俸禄が激減して、生活に困窮することになる。明治になり政府に仕える身となり、才能を認められて大久保利通の側近として太政官書記官にまで出世して日本の国づくりに尽力した。大久保利通を父のように慕うが、明治11年(1877)に大久保利通が暗殺された。その暗殺を誰よりも早く目撃したのが鳴鶴自身であった。大久保利通の非業の死の翌年、彼は突如官を辞し一介の浪人として書を志すことになる。

 

馬場恵峰師のご縁

 それは鳴鶴が42歳の決断であった。馬場恵峰師(11代)が窯元を廃業し、書の道に転じたのは43歳の時で、鳴鶴とほぼ同じなのは偶然ではない。論語に曰く「四十而不惑(40歳にして惑わず)」。恵峰先生に窯元廃業の引導を渡したのが鳴鶴の書を手本とした原田観峰師(1911~1995)である。原田観峰師は日本習字の創立者である。

 

政治から芸術の世界へ

 実の父のように慕う二人の非業の死に巡りあう数奇が運命に、鳴鶴はどんなにか嘆いたことか。ドロドロした政治の世界から身を引き、芸術の道に入り、その哀しみを書に昇華した。その結果、日本の三大書家の一人として名を残すことになる。恵峰先生も日本書道界のどろどろした人間模様に嫌気がさし活路を中国に求め、今の業績がある。佛様の人智を超えた差配で、二人の非業の死がなければ、鳴鶴も偉大な書家にはなれなかったのかもしれない。偉大なる仕事をする人間には、それに相応した苦難が、彼を試すために襲いかかる。それなくして、人間の内なるダイヤモンドは磨かれない。

 陰があるから陽がある。陽ばかりの人生はありえない。全てバランスの問題である。そう思うとき、不運に出会ったのは、今までの悪縁の業が消え、新しい運命が開くときと感謝するべきである。そう思い、運命に従えば、佛様が一番良いようにしていただける。

 

お金の舞う世界

 現在の書の世界は、変に崩して読めない字を、これが芸術だとして持て囃されている。日展や他の展覧会も賞を取るのが目的のような「競争」の場と化して、裏でお金が動く世界となっているようだ。芸術に競争という言葉は不似合いである。しかし審査員の気に入られなければ、入選は難しいので、相応のことが裏でドロドロした人間模様が起こりがちである。最近、その裏話の事件が新聞を賑わしたのは記憶に新しい。以前、デパートの画商から叙勲書家の先生の作品だといって、1本の軸を見せられたが、すこしも感動もなく何処がいいのかも分からないが、叙勲の先生の作品だからと百万円だという。これは書道界が作る上げた換金できる手形である。芸術作品ではないと思う。

 恵峰師は、そんな世界を離れ、何時でも何処でも誰にでも分かる美しい字を書くことを心がけてみえる。師は崩して読めない字を芸術だとしては認めない。また金で動く競争社会の日展などには応募されない。賞を取るのが目的で、書を書いて見えるのではない。後世にお手本として残す作品を書いてみれる。その書体は、日下部鳴鶴の書とそっくりである。

 

日下部鳴鶴と原田観峰の写真、経歴等は下記をご覧ください。

日下部鳴鶴(1) http://www.shodo.co.jp/blog/souseki2/2017/05/25/post-125/

原田観峰  https://www.nihon-shuji.or.jp/about/profile.html

 

図1 本来面目 馬場恵峰先生書 2015年 本書のために書いて頂いた

 

2017-09-29

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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