o-大垣の歴史 Feed

2019年8月20日 (火)

未来計画-8「久志能文化財団(仮称)」設立

概要

 大垣市の文化芸術活動を支援する「久志能文化財団(仮称)」を設立することが私の未来計画(夢)である。その財団を通して大垣の未来を創るため、若者を育てる文化芸術活動に、資金援助をする。

 

現状の問題点

 現在の大垣市には、芸術音楽活動を支援するシステムがない。特にこの20年弱は、小川敏市政の芸術への無知無理解で、大垣市は芸術活動の支援がなく活動が衰退した。このままでは大垣は文化芸術の不毛地帯になってしまう。小川敏市長のように、芸術が分からない人間が増えたら、日本は下品な文化の国に没落である。金勘定しか興味のない人間が増えるから、人心が荒廃し、街が寂れ、凄惨な事件が頻発する。だから大垣市は没落した。芸術活動を教養として、世界の人たちと交流をする人材を育成するのが、我々年長者の責務である。

 

大垣の歴史

 昔から大垣は文化芸術の都として栄えた。江戸末期に、藩医であった江馬蘭斎が江戸で西洋医学を学び、彼によって蘭学医術が大垣にもたらされた。それは、京都に西洋医学がもたらされるよりも早かった。それだけ当時の大垣は進歩していた。江馬蘭斎の娘・江馬細香は教養のある芸術家であった。だから幕末の思想家・頼山陽が惚れたのだ。芸術は世の中を変える。今の若者が日本と大垣の未来を背負ってくれる。年長者はせめてその支援をしたい。

 

江馬蘭斎、江馬細香に関しては、下記の記事をご参考

当ブログのカテゴリー「桜田門外ノ変の検証」

記事  「桜田門外ノ変」の検証 (20)冬夜(改定)

 

滋賀県の例

 滋賀県では、平和堂の夏原氏が創設した平和堂財団がある。その財団では、音楽芸術関係の若手を育てるプロジェクトに支援をするシステムである。それで「カナデノワコンクール」にその支援をしてもらおうと、応募方法の調査をしたら、対象は滋賀県の芸術活動に限定されていて、応募資格なしであった。それなら大垣にもその種の財団を私が作ろうと思いついた。

 故河村義子先生も、音楽活動の資金集めで苦労をされた。その苦労を若い芸術家に背負わせてはならない。

 

設立する支援財団案

 本来、大垣市が文化芸術関係の支援をしてくれれば、問題がないのだが、現在は小川敏市政の芸術への無理解の影響で、それが困難な状況である。それが18年間も続いている。前の故小倉満市長とは大違いである。芸術文化は、パトロンの支援がないとやっていけない。それはヨーロッパのルネッサンス期の状況を見ても明らかである。

 大垣でも一人の財産だけで平和堂財団相当の文化活動の支援は難しいが、多くの企業や有志が共同で資金を出し合って、同類の支援組織を作ることはできる思う。

 その財団で、毎年、芸術活動に関する活動に関する資金援助を募集する。その提案案件を、委員会で審査して、合格した活動案に50万円(仮)なり、然るべき支援金を提供する支援システムを作りたい。

 これから、私はこのプロジェクトに賛同して頂ける企業を探しに、各企業を回る計画をしている。皆さんも協賛いただける方は、金額を問わず協賛金をお願いしたい。

 

実情

 若手の育成事業のカナデノワのコンクールを開催するにも、大垣市の音楽堂を1日借りると、平日で15万円、休日なら30万円の使用料が必用となる。せめて、大垣文化事業団は、その支援だけでもしてくれるとありがたいのだが。今は、その支援がない。その他に審査員、司会者、スタッフへのお礼、賞金、パンフレット費用等でお金がかかる。入賞した子供たちに副賞のお菓子を配るにもお金がかかる。現在は、その多くがボランティア活動として無償で協力を頂いているのが実情である。

 

2019-08-20   久志能幾研究所通信No.1303  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2018年7月18日 (水)

手に血のりを付けたミッキーマウス

 大垣市政100周年記念行事で、東京ディズニーリゾート(TDL)は、35周年記念で「感謝の気持ちを伝える為」として、ミッキーマウスを始めとするディズニーの仲間のスペシャルパレードを10月7日に開催する。TDLは出演料を請求しないが、その見返りとして、大垣市民税で600万円を負担して警備をせよという。何が「感謝の気持ちを伝えるため」なのだ! お笑いである。これではネズミ小僧根性である。

 ミッキーマウスが、この100年の大垣の発展のために、どんな貢献をしたというのか。大垣市政100周年を祝うのなら、この100年間の大垣の歴史を振り返らねば、ご先祖様に申し訳ない。非道な大垣大空襲を支援したウォルトディズニーをなぜ儲けさせるのか。なぜ大垣市政100年記念行事で、TDLの宣伝金儲けパレードを支援する必要があるのか。なぜその警備費で、市民税600万円を使うのか。

 

パレードは、TDLの単なる営業宣伝活動

 本来なら、営業利益 947億円(2018年3月期)も儲けているTDLの宣伝活動なのだから、参加費として600万円とか1,000万円を大垣市に寄付しろと要求すべきである。947億円も利益を上げているTDLにとって600万円は、0.01%にしか過ぎない端金である。いつから大垣市は、TDLの下請けになったのか。なぜそんなにも親の仇に卑屈なのか。

 

大垣大空襲

 ミッキーマウスの生みの親の米国は、昭和20年7月29日、大垣市に米空軍B29が、90機が飛来して投下焼夷弾約20,000発の無差別爆撃をして、大垣市を焼け野原にした。その被害は、死者50名、負傷者約100名、全半壊戸数約4,900戸、罹災者約30,000人。(当時の人口約56,000人)。国宝大垣城も燃え、市街地の大半は焼失した。都市に対する無差別爆撃は、国際法違反である。

 ミッキーマウスの手は血のりで汚れている。ミッキーマウスの生みの親のウォルトディズニーには、「白人至上主義者」、「人種差別主義者」の批判が付きまとう。ウォルトディズニーは、反日戦意高揚映画で、国からの要請ではなく、ミッキーマウスが操縦してゼロ戦を撃墜するアニメまで製作している。彼は核実験のプロパガンダ映画作成にまで熱を上げていた。

 この空襲で殺されたご先祖が、ミッキーマウスの大垣駅通りのパレードを見れば、草葉の陰で泣くだろう。こんな企画をした役人どもは親不孝者だ、と。

 

大垣空襲での死傷者が少ない理由

 この空襲での死傷者数は他の都市の空襲と比較して極端に少ない。当時は防空法により、空襲を受けた場合は退去せず消火活動にあたることが義務付けられていたが、岐阜空襲の惨状を目の当たりにし「焼夷弾に対して火たたきやバケツリレーで火を消せるわけがない」と考えていた少年兵らが、本来ならば非常線を張って逃げる市民を押し戻して消火を命じる立場にあったにも関わらず、軍紀に反して率先して市民を避難させ、その結果人的被害を激減させていたことが、元少年兵の1人の証言によって明らかとなった。

 

大垣空襲の生き証人

 大垣城の直ぐそばに店を構える石屋の石寅の叔母さん(当時は幼少)は、空襲で我が家と大垣城が燃えていく様をなす術もなく、今は埋め立てられてないお堀に身を隠して、首だけ出して情けない思いで眺めたという証言をしている。

 室村町4丁目地蔵菩薩像は、周りが火の海になり、ナパーム弾を浴びて真っ赤になりながらも、逃げる住民を見守り続けたという。ある自治会役員さんは、その姿を見て涙が止まらなかったという。その痕跡が全身に痛々しい。お地蔵さまは2017年に105年間のお勤めを終わられて世代交代された。

 大悲院禅寺(寺内町)の谷汲観世音菩薩像もナパーム弾を浴びて、偶然横に積んであった薪木が燃え移り真っ赤になったという。その痕跡が今でもわかる。

 戸田公を祀る常盤神社の境内にある獅子と狛犬の石像も、ナパーム弾を浴びており、その痕跡が今でも見える.

1039a2000  室村町4丁目地蔵菩薩像  石寅さんの作   2017年5月引退された

24k8a2719   大悲院禅寺(寺内町)の谷汲観世音菩薩像 石寅さんの作 2018年現在で御健在

34k8a2746  常磐神社の境内  2018年現在で御健在

岐阜空襲の概要

 1945年7月9日午後11時頃、熊野灘から進入したB-29の編隊135機は、午後11時34分(米軍資料による)、空襲を開始して約45分間で、岐阜駅周辺から全市にかけて、岐阜市中心部はほぼ焼け野原となった。使用されたのはE46集束焼夷弾、M47焼夷弾であり、計907.5tが投下された。

 岐阜市中心部に投下された爆弾の量あたりの被害は甚大であった。被災面積は約5km2といわれている。被害状況は諸説あるが、主な資料によると、

 死者:863人(戦災復興誌(建設省))、負傷者:1,059人(約500人~5,000人の資料もあり)、全半壊家屋:20,476戸、罹災者:86,197人

 

プロパガンダ映画の制作

 ミッキーマウスの生みの親のウォルトディズニーは、戦争プロパガンダ映画の熱狂的制作者である。1941年12月8日の太平洋戦争と第二次世界大戦へ参戦したアメリカは、戦時体制への協力を映画産業に対しても要請するが、高度に資本化された映画産業は、当初、利潤追求を優先させて協力的ではなかった。

 しかし、ディズニーは大衆の関心の変化に気が付き、「反ドイツ」の色を薄めた「反ナチス」の形で戦意高揚のプロパガンダ映画を制作した。ディズニーが孤立主義から友邦の援助へ大衆意識が変化したのを見抜いて、統合の象徴としてミッキーを選択させた点や、彼が没した今日でもミッキーマウスは「アメリカの象徴」として自己増殖を続けている旨を指摘する研究者もいる。

 

戦争好きで核兵器大好きのミッキーマウス

 政治家や政府のプロパガンダにより、大衆を説得することは難しい(出典『心理戦争』)。しかし大衆自身が願う形へミッキーを変身させることでディズニーは成功を収め、同時にアメリカ政府を顧客とすることにも成功した。当時のウォルトディズニー社は、興行の失敗で膨大な借金を抱え、さらに欧州への戦争中で映画の輸出もできなくなり、倒産の危機にあったが、プロパガンダ映画の制作により、経営再建に成功した。戦後もディズニーは経営安定のため政府の核実験、原子力開発キャンペーンとして「Friend the Atom(我が友原子力)」という映画を作成するなどプロパガンダに参加している。

 要は、ミッキーマウスの親は、大量殺戮兵器の推進に手を貸したのだ。ウォルトディズニーは、現在の北朝鮮の将軍様と何が違うのだ。

 大戦当時に製作された映画には、ミッキーマウスが戦闘機で日本軍の零戦を撃墜するシーン、アニメ映画「総統の顔」には東條英機を風刺するシーンがあるが、これらは国の要請や強制ではなく、ウォルトが積極的に自ら制作した。

 

太平洋戦争の真因

 太平洋戦争の原因は、米国による日本に対する経済封鎖が真因で、日本は死活問題で、自衛のために立ち上がった戦争である。それはマッカーサー元帥が、帰国後に米国議会で証言している。もともとは、中国を植民地にしてその利権を得ようとしていた米国が、その利権を日本に邪魔されて、その仕返しとしての経済封鎖である。それには、当時のルーズベルト大統領の黄色人種蔑視があった。

 

人種・性差別姿勢

 ウォルトに対する「白人至上主義者」、「人種差別主義者」との批判は、生前も死後も浴びせられ続けた。ウォルトは『南部の唄』では封切りイベントに主演の黒人俳優を出席させなかった。彼は、ミッキーマウスやミニーマウスがアフリカで野蛮で猿のように描かれた黒人を差別的に扱う民族侮辱的な漫画を出版しており、現在も批判の対象となっている。また、彼は生前中、ウォルト・ディズニー社の要所に黒人と女性を雇い入れなかった。彼の制作した作品群のほとんど全てに、様々な民族に対する彼の白人中心視点から成る人種差別、および男尊女卑的な性差別が指摘されている。

 

著作権・商標権

 アメリカ合衆国の著作権法は“(皮肉を込め)ミッキーマウス保護法”とも呼ばれており、「ミッキーマウス」および他の「キャラクター名」や「作品名」も含め一律に「商標」として保護され、半永久的に保持できる。当初50年であったが、ご都合主義でその期間が変更になった米国著作権法である。

 著作権は国ごとに保護期間が違い、日本では1953年以前の映画で団体名義の場合著作権保護期間は公表後50年である。ミッキーマウスが初登場した「蒸気船ウィリー」は保護期間が1989年の前後に終わっていると推定される。

 ウォルト・ディズニー・ジャパン社は「著作権に関する方針や見解は公表しない」方針で、自社のウェブサイトでもキャラクターや作品に対する知的財産権の方針を明確にしていない。

 

ミッキーマウス、ウォルト・ディズニー、大垣大空襲、岐阜空襲の項目は、wikipediaの資料を編集、加筆しました。

 

2018-07-18  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2017年11月10日 (金)

第37回 霊山顕彰会研修旅行

 2017年11月10日、7時前出発、20時帰宅で、第37回霊山顕彰会岐阜県支部の研修旅行として、東福寺と旧三井家下賀鴨別邸、京都霊山墓地、霊山歴史館を訪れるバスツアーに行ってきた。今年、私が公益財団法人霊山顕彰会岐阜県支部に入会して、初めての研修旅行であった。

 京都霊山墓地は明治元年(1968)5月8日、太政官布告により、7招魂社(京都、山口藩、水戸藩、鳥取藩、福岡藩、熊本藩、高知藩)が建立された。そこに明治維新に命を捧げた志士368柱(3116柱合祀)が祭られている。

 京都へのバスの途上で、横幕孜先生から、京都霊山墓地の経緯等の歴史の講義を受け、基礎知識を受けたうえで参列した。この霊場には、岐阜県招魂場とて梁川星厳と所郁太郎の碑が建てられている。今回は碑の碑前祭を中心に報告する。

 

岐阜県招魂場で慰霊祭

 京都霊山墓地では、梁川星厳と所郁太郎が祭られた岐阜県招魂場で厳かに慰霊祭が執り行われ、霊山顕彰会岐阜県支部の44名が参列した。慰霊祭の前に慰霊碑を掃除をして、お花、お水を手向けて、住職による読経、梁川星厳作の詩吟を大垣詩吟の会の皆さんが慰霊として吟じた。その後皆さんが新しい日本のために命を捧げた偉人に合掌した。私は初めて参列して感銘を受けた。

 この周りの土地全ては、以前は白居家の神道のお墓であったがそれが全て維新の志士のための墓地として提供されたという。岐阜県招魂場には、梁川星厳に縁ある人達のお墓が取り囲んでいた。

 

梁川星厳

 梁川星巌(1789年~1858年)は、美濃国安八郡曽根村の郷士の子に生まれ、文化5年(1808年)に山本北山の弟子となり、同3年(1820年)に女流漢詩人・紅蘭と結婚した。紅蘭は江馬細香の妹である。星巌は紅蘭とともに全国を周遊し、江戸に戻ると玉池吟社を結成した。

 梁川星巌は、梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内らと交流があったため、安政の大獄の捕縛対象者となったが、その直前(大量逮捕開始の3日前)にコレラにより死亡した。星巖の死に様は、詩人であることにちなんで、「死に(詩に)上手」と評された。妻・紅蘭は捕らえられて尋問を受けるが、翌安政6年(1859年)に釈放された。

 東京の松陰神社内の吉田松陰墓所の右側2つ目が幕末に思想家頼山陽の三男・頼三樹三郎の墓である。頼三樹三郎は安政6年(1859)に、安政の大獄に連座して、刑死した幕末の志士である。頼三樹三郎は、梁川星巌がコレラに罹り死亡する時、側にいて看取った縁がある。梁川星巌は、江戸時代後期、学問の大垣といわれた時の漢詩人で、現在の大垣の代表的文人である。梁川星巌の妻は江場細香の妹である。江場細香は、頼山陽の永遠の恋人であった。

 梁川星巌の資料や経歴の書画は、「奥の細道むすびの地記念館」(大垣市船町)に展示されている。

 

大垣の偉人 金森吉次郎

 京都霊山墓地は、明治100年を経て荒れ果てていたが、松下幸之助翁が尽力をされ、整備をされた。同時に明治維新の志士の業績をたたえる為、霊山歴史館を建てられた。日本の未来を懸念され、過去の偉業に光を当てた松下さんは偉い。

 それよりも、今回初めて知ったのが大垣の偉人である。松下幸之助さんが大金を投じて整備された時よりも、50年も前の明治41年9月に、大垣の金森吉次郎が、京都霊山招魂社社表を寄贈し、社前四辻角に大道標建立を願い、大森府知事に設計を依頼、極上長崗岩、尺角高六尺二重台、表面に「霊山招魂社道」。「風致と維持資金のため、扁柏(桧)千本・杉500本寄付」との記事が『大垣青年会誌』に記載されていることだ。

 

金森吉次郎

 元治元年(1864年)~昭和5年(1930年)、大垣輪中(現:大垣市魚屋町)に生まれる。父の金四郎は篤志家として外国貿易や製糸業を手がけた大垣屈指の資産家である。明治21年、25歳の時、大垣輪中が揖斐川の洪水で一面湖となった時に、人々の推挙により救済委員となり、治水事業に関わり始める。その後、県会議員、衆議院議員などを歴任した。「治水のもとは治山である」が持論で、水害の根本解消のため、木曽三川改修の実現を生涯の目標として、父から譲り受けた全財産と一生を治水と山林事業に使い尽す。また、治水の先人である平田靱負ら薩摩義士の事績を掘り起こし、記念碑を建てるなど、薩摩義士の顕彰にも貢献した。現在、大垣城の前に顕彰の銅像が立っている。

 今日まで、こんな偉人が大垣にいたことを私は知らなかったのが恥ずかしい。今回の旅行で、横幕先生のバス内講義で初めて知った次第です。今回は良きご縁の出会いであった。また戸田極子伯爵夫人のご縁も、今回の京都霊山墓地で見つけた。これは次回の報告です。

 

図1 京都霊山護国神社

図2 京都霊山墓地

図3 岐阜県招魂場

図4 岐阜県招魂場 読経

図5 岐阜県招魂場 読経

図6 岐阜県招魂場 慰霊の詩吟

図7 霊山歴史館

 

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2017-11-10

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2017年11月 8日 (水)

大垣城の歴史とトイレ不敬

大垣城の経歴

 大垣城は天文4年(1535)、宮川安定が築城したと言われる。大垣市内を流れる水門川を外堀に利用して築城され、天然の水門川を掘りの一部として使って、四層四階建ての総塗りごめ様式である。現在では想像がつかないほどの四層の掘りがめぐらされた広大な難関不落の城で、大層優美な巨鹿城、麋城と言われた名城である。関ヶ原の戦いの時は、西軍の石田三成が本拠地とした。

 

関ヶ原の戦い

 関ヶ原の戦いに伴って発生した攻城戦の一つが大垣城の戦いである。9月14日から9月23日まで続いた戦いで、実質的にこれが天下分け目の戦いという史家もいる。この戦いは、西軍が本拠地としていた大垣城を主力が関ヶ原へ移動した後に、東軍の部隊が攻撃したことで発生した。大垣城に駐留していた西軍は9月14日夜、大垣城に守備兵として福原長堯以下7,500名を配置して主力を関ヶ原へ移動した。守備に携わる武将の中に山田去暦がおり、その娘おあんが残した「おあむ物語」がこの戦いの城内記録として残っている。

 9月15日払暁に東軍が三の丸に攻撃を開始した。三の丸はその日のうちに陥落したと思われる。また、関ヶ原の戦いもこの日で決着がついたので、大垣城は敵地に取り残されることとなる。9月16日夜に場内の主要戦力が東軍に寝返り、9月18日に守将達を謀殺し、残存の武将福原長尭のみとなった。福原長尭は二の丸が陥落した後も抗戦を続けたが、徳川家康の使者の説得により9月23日に松平康長に降伏を申し入れ、開城した。福原長尭は剃髪後に伊勢浅熊山にこもるが許されず後に切腹した。

 

関ヶ原の戦い後

 関ヶ原の戦いの後、寛永12年(1635)に戸田氏鉄公が入城して、戸田十万石の居城となった。以後明治維新まで戸田公の治世が続いた。戸田公は名君として、教育や藩の産業の育成に務め、大垣の発展に寄与した恩人である。その功で、大垣は教育の街、博士の街とまで謳われる名声を得た。その文化の発展ぶりは、江戸末期に江馬蘭斎が導入した西洋医学が、京都よりも早く西濃地区の展開されたことで示される。大垣城は昭和11年に国宝に指定されたが、昭和20年7月29日の米軍B29大編隊の大垣大空襲で焼失した。昭和34年に外観はそのままでコンクリート製に再建され、今は大垣のシンボルとして観光名所の第一の拠点となっている。

 

大垣城の敷地内のトイレ

 その観光名所の看板である大垣城の敷地内にあるトイレが汚く、大垣城の経歴からみて恥ずかしいのだ。大垣の恥である。大垣城は大垣藩主戸田公の居城である。大垣の発展に貢献されたその遺徳、ご恩ある居城である。トイレのひどさは、その戸田公の顔に泥を塗るようなものだ。

 大垣城の敷地内のトイレ外観は、一見、お城の一部のようで素晴らしい。しかし内部は不潔な状態である。サビさびのトイレドア、蛍光灯むき出しの下品さ、配線むき出しの無様さ、天井の蜘蛛の巣、表壁の見苦しいセロテープの跡、錆さびのトイレの男女標識、のっぺらぼうの幽霊のような下品なデザインの男女標識等は、観光都市大垣の恥さらしである。いかにご先祖を大事にしていないかの表れである。大垣市長が鶴の一声で、直せば済む話である。それが無い。

 大垣市の職員が「大垣市の公衆トイレの汚さは日本一」というのが実感できる。

 

ご先祖に不敬

 今の大垣市長は、まるで養子に入ったドラ息子が、ご恩ある先祖の廟を埃だらけにして、祭りごとを疎かにして、先祖が残した金で、豪邸としての新市庁舎を建てるようなものだ。だから戸田公を祭る神事で、居眠りをしているかに見える振舞いをするのだ。一市民としての私の思いは、戸田公の居城であった大垣城のトイレとして、豪華でなくてよいから、他市の人に恥ずかしくないレベルの普通の状態にして欲しいだけである。平成21年完成予定の大垣新市庁舎建設費用121億円のわずか1万分の一のお金を掛ければ、このトイレは並みの状態になるのだが、節約がモットーで、ケチな大垣市長は、びた一文金を出さない。その結果が現在の恥さらしな姿である。ご先祖の戸田公に不敬である。私はご先祖を敬わない人間を信用しない。いずれバチが当たるでしょう。

 

図1、2 大垣城

図3 トイレ外観

図4 セロテープ跡が見苦しい白壁

図5 錆びだらけで見苦しいトイレドア

図6、7 錆びだらけの不潔な男女標識

     のっぺらぼうの顔が、幽霊の様で不気味

図8,9 配線むき出しの蛍光灯

図10 蜘蛛の巣だらけの天井

図11 新市庁舎の姿  工事中の市庁舎の前に掲示

    大垣城敷地内トイレとの美観の対比が凄まじい。

    もののあわれである。

 

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2017-11-08

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2017年11月 3日 (金)

連絡 カテゴリー「o-大垣の歴史」を追加

表記カテゴリーを追加し、今までカテゴリー「歴史」にあった記事を一部含めました。

2017-11-03 小田 泰仙

たらい舟川下り

 関ヶ原の戦い(1600年)のとき、大垣城が石田三成の西軍本拠地であったため、大垣城は徳川家康が率いる東軍に包囲された。その時大垣城内にいた石田三成の家来山田去暦の娘「おあむ」(当時16歳前後)が、落城寸前に、城の堀をたらいに乗って密かに大垣城を脱出して戦火を逃れた。おあむの父山田去暦は、娘と共に大垣城に籠っていた。大垣城落城前に、矢文が大垣城に打ち込まれ、「去暦は家康様の手習師匠であったので逃がす」とあった。それで去暦が娘とたらい舟で逃げたという。やはり師匠というのは偉いもの。家康も戦時で敵方であっても、昔の師匠には恩で報いた。その歴史伝承に由来する「たらい舟川下り」行事が、2003年から大垣の水門川で行われている。現在は春秋の2回実施されている。それに由来する松の木が大垣城内にそびえている。

 図1 おあむの松

   当初の松は昭和の終戦前に枯れたため、現在は第二世代である。

 図2 大垣城

 図3 大垣城とその前に戸田氏鉄公の騎馬姿像

 

戦時の武士の娘の務め

 そのおあむも父と大垣城内に籠城していて、敵方の討ち取った首を洗ったりお化粧をしたりするお役目をしていた。戦いの後の論功行賞で、討ち取った敵方が偉い侍であるように、武士の娘たちが駆り出されて生首のお化粧を担当していた。大垣城内では、若い娘たち(おあむは16歳前後)がその生首の山の横で寝泊まりをしていた。それが、当時の戦場での日常茶飯事の姿であった。今の平和な世界を当たり前と思ってはなるまい。ほんの400年前の話である。

 

戦争が起きない体制つくり

 狸親父とも陰口を叩かれる徳川家康が偉いのは、戦争の悲惨さを何度も体験して、戦争の起こらない巧妙な体制を構築して、戦乱に明け暮れた戦国時代を平和な280年間の治世に移行させたこと。それ以前の天下人は、だれも戦争のない社会を作る意思などがなかった。家康は我慢に我慢を重ねて、家康は天下を取り、国内の戦争ができなくなる平和の仕組みを作った。その家康の訓言の書を恵峰先生宅で見つけて、何か感じるところがあり、入手した。歳をとると、三英傑のうち、家康の偉さが見えてきた。その秘訣は「まず長生きをする。そのための健康管理に精進である。また我慢に我慢を重ね、無為な戦いはしない」である。それが家康を最終的な勝者にした。織田信長は49歳で、短気が原因で本能寺に斃れた。秀吉は天下統一をしながら、欲を出して海外に戦いを求めて、それが滅亡の遠因となった。秀吉は才覚があったが、真の知恵者ではなかった。

 図4 東照宮訓言 馬場恵峰書

  1999年に揮毫された軸であるが、私が2015年に目に付くまで、誰も買わなかった作品である。その時、なにかご縁を感じた作品である。

 

彦根とのご縁

 家康は石田三成を徹底的に抹殺した。あまりの三成の頭が良すぎて恐怖心を感じたのだろう。今後の平和を乱す男として見たのかもしれない。そのおあむも幼いときは、彦根に住んでいた。父去歴の主君の石田三成が彦根の佐和山城で居を構えていたためである。私の生まれ故郷は、その佐和山のある古沢町である。ここには井伊家の菩提寺清凉寺が建っている。

 

脱出の体験

 この伝承にあやかり、その脱出の感触を記録に残すために自分もたらい舟に乗舟した。その記録として知人に写真を撮ってもらった。乗舟した最初の2011年は単なるもの珍しさだけであった。地元大学の学生アルバイトが舟頭であった。学生アルバイトでも、この行事に直前にたらいを漕ぐ猛訓練をして船頭を務める。この記録の時の2012年の舟頭さんは、朝日電気の取締役会長さん(75歳)であった。心がけが変わると人生の船頭さんも変わる。舟頭さんはお宮の氏子代表や高校のOB会の総幹事も勤めてみえるとか、東京で執り行われた守屋多々志画伯(大垣出身の文化勲章受賞画家)の葬儀にも地元から参列した4人のうちの一人であるとの話しまでをたらい舟上で聞いた。社会奉仕活動として、たらい舟頭になるのも一興である。

 図5 たらいの運搬

  終着点からクレーンで釣り上げて、出発点に運ぶ。

 図6 たらい舟の準備 2012年

 図7 船頭さん達の朝礼 2015年

 図8 舟くだり 2011年

 図9 舟くだり 2011年

 図10 舟頭さんは朝日電気の取締役会長さん 2012年

 図11 舟上から 興文橋を見上げて 2012年

 図12 舟上から 前方は終着地点  2012年

 図13 舟くだり 終着地点 上側は船町燈台 2012年

 図14 舟くだり 2013年 ライフジャケット着用

  2013年からライフジャケットの着用が義務付けられた。これは天竜川川下り船の転覆事故(2011年)を受けての対応である。今まではライフジャケットなしである。水門川の水深が浅いので問題はないのだが。

 

たらい舟川下りの乗船

 たらい舟川下りには、大垣市観光協会に事前予約が必要だが、いつも早くから満席である。しかし朝一番に行って、枠があいていれば乗船できる。私はいつもそうして乗船している。たらい舟に二人乗船で一人1,000円で、一人乗船の場合は2,000円である。約2kmの水門川水路を約30分で下る。ほぼ歩く速度と同じである。天竜川川下りでの船の転覆事故を踏まえて、2013年からライフジャケット着用である。しかし水門川は人の立てないような深い場所はない。少々やり過ぎである。この行事のために、水門川の船着き場の先で堰を作り、水かさを上げる段取りをしている。そうしないと、たらい舟の底が川底の浅瀬についてしまう。舟をうまく操らないと浅瀬に乗り上げてしまうので、そのかじ取りが難しい。舟着場は船町の燈台の真横である。

 乗舟時に観光説明のうまい舟頭さんに当たると、直々に周りの景色を見ながら歴史の解説を聞ける。それに外れると、たらいで下る間にテープに録音した観光案内の声が流れる。普通の専門の船頭さんは無口で、ほとんど喋らない。私の場合、朝日電気の取締役会長さんが船舟を担当されて幸せであった。

 

たらい舟川下り運行の準備活動

 たらい舟川下り、船川下りも、水門川の水深が浅いので、そのままでは船の底がつかえて運行できないので、この行事の間だけ、堰を設けて水位を上げる段取りをしている。市民のボランティア活動や大垣青年クラブ、業者の協力で、水門川の藻や掃除活動をして、このたらい舟川下りと船川下り行事の準備活動がなされる。こういう陰の支援があって成り立っている行事である。水門川は大垣市民の川として皆で守っている。水門川の水は、都市の川としては素晴らしく清らかである。水門川には30万匹の鯉が生息していると言われる。

 

 図15 水門川の堰き止め

 図16 水門川掃除 大垣青年クラブの奉仕活動

 図17 水門川掃除 大垣青年クラブの奉仕活動

 図18 水門川掃除 業者 

    水門川を堰き止めなければ、水深は浅い。

 

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2017-11-03

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2017年7月18日 (火)

辰姫の菩提寺に参拝

 辰姫は石田三成公の三女として誕生した。慶長3年(1598年)ごろの豊臣秀吉の死後、秀吉の正室・高台院(ねね・北政所)の養女となる奇縁を持つ。石田三成公は三女を北政所の養女にする深慮遠謀を図っている。北政所は徳川家康とも良好な関係にあり、戦国の世を生き延びる保険として養女の縁組をしたようだ。それが関ヶ原の戦いの後の子孫の延命につながったようだ。

 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで辰姫の父・石田三成が徳川家康に敗れた。その直後に、豊臣家中で親しくしていた津軽信建によって兄・重成とともに津軽へ逃されたとも、高台院の保護下で高台院の側近・孝蔵主に従って江戸に下り縁組を整えたともいわれる(孝蔵主は三成の娘で辰姫の姉である某(岡重政室)を通じて石田家と姻戚関係にある)。

女人の関ヶ原の戦い

 慶長15年(1610年)ごろ、辰姫は弘前藩2代目藩主の津軽信枚に嫁いだ。2人の仲は良好であったとみられるが、慶長18年(1613年)に徳川家康は、家康の養女・満天姫(家康の異父弟・松平康元の娘)を津軽信枚に降嫁させた。これに対し津軽家は、徳川家をはばかって満天姫を正室として迎え、辰姫は側室に降格となる悲運を迎える。この経緯を直木賞作家の葉室麟は『津軽双花』』(講談社)として小説に描いている。輿入れした満天姫は、徳川家康におねだりをして大阪城に飾ってあった「関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)」を嫁入り道具として津軽に持参した。辰姫にとって父・三成の負け戦を描いた屏風を津軽家に持ち込むのは、今まで正室であった自分に対する挑戦であると感じたのだろう。彼女の胸に浮かんだのは「父の仇」という言葉であったとして、『津軽双花のお話は展開する。この屏風は弘前市でも常設ではなく、企画展のときしか実物は見学できない。その実物大の屏風の写真が、大垣市郷土館に展示されている。

辰姫のその後

 辰姫は弘前藩が関ヶ原の戦いの論功行賞として得た上野国大舘(群馬県太田市)に移され、大舘御前と称された。その後も、津軽信枚は参勤交代の折は必ず大舘に立ち寄って辰姫と過ごし、元和5年(1619年)1月1日、信枚の長男・平蔵(後の信義・第3代藩主)が誕生する。この殿様は「じょっぱり殿様」と言われるくらい我が強い藩主であった。祖父が家康に挑んだあの三成であるという自負から来ているようだ。ご先祖がやるべきことを命をかけて為したことは、負けても子孫の誇りである。

 元和9年(1623年)、辰姫は大舘で死去した。享年32。墓所は群馬県太田市の東楊寺、青森県弘前市の貞昌寺にある。幼い平蔵は江戸の弘前藩邸に引き取られ、信枚の熱意により嗣子と認められ、信枚の死後藩主を継いだ。

辰姫の菩提寺に参拝

 その辰姫の廟が、弘前市の長勝寺に建立されている。2016年5月16日、新戸部さんの案内でそのお寺を訪問した。立派なお寺の構えで、辰姫の廟は荘厳な造りで圧倒された。その正面に葵の御紋が入った御印があった。辰姫は家康の計らいで側室に落とされることになったが、本来は正室であった証として飾ってあるようで、津軽信枚の辰姫への慈しみを感じた。

貞昌寺の庭園

 辰姫のお墓は市内の菩提寺である貞昌寺にあり、立派な五輪の塔が辰姫の墓として建立されていた。お墓に参る前に、お寺のお庭を見学させて頂いて、驚嘆した。京都にあったとしても不思議ではない高いレベルの庭の造りである。こんな立派な観光資源が、あまり人知れず放置されているのは、地元の損失であると新戸部さんが嘆いていた。その新戸部さんも今回が初めての訪問であった。それが発見できた今回の旅に感謝である。地元には観光資源のお宝が埋まっている。このお宝を、歴女たちにももっと広報すべきでしょう。

 

図1 長勝寺

図2 長勝寺山門の説明

図3 辰姫の廟。その奥に弘前藩主の廟が5つ並び重要文化財に指定されている

図4 辰姫の廟の軒先に葵の御紋が飾られている

図5 辰姫の菩提寺 貞昌寺の庭

図6 辰姫のお墓(左より2つ目) 貞昌寺

 

2017-07-18

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2017年7月17日 (月)

石田三成公の孤軍奮闘

石田三成の人相鑑定

 石田三成家の末裔である杉山家に伝わる石田三成の肖像画は、各種伝わる肖像画の中で、一番信頼のおける肖像画と言われている。石田三成公の地元の彦根市民族歴史課でも、最近はこの肖像画を使っている。この肖像画から人相鑑定をすると、三成公は反っ歯ではあるが鼻筋が通った細面の端正な顔つきである。顎も張っていないので、温厚な性格である。狡猾な印象はなく、相手を威圧するような目つきもなく、真面目なお役人といった風貌である。豪傑風な戦国大名とはかけ離れている。実務面でも、彦根佐和山の城主であったときも、質素な城造りで名君として領民から慕われていた。実戦面でも華々しい戦いの武勇伝はなく、後方支援、兵站、実務処理と豊臣秀吉がまき散らしたトラブルを黙って後始末して歩いた人物である。それが肖像画からもうかがえる。そんな実直な仕事ぶりは、武勇伝に長け豪放な戦国武将の加藤清正や福島正則とはそりが合わないだろう。三成公の公務員のような実直な性格では、人望も少なかったようだ。

三成と家康の戦い

 しかし豊臣家に対しては、彼は真の忠臣であった。福島正則も関ヶ原の戦いから大阪夏の陣に至る過程で、豊臣家が徐々に滅ぼされていく様を眺めていて最後は「石田三成が豊臣家の一番の忠臣であった」と言わしめた。福島正則は石田三成に対抗して結果として豊臣家を裏切り、徳川家に加勢をした。家康の真意が分かった時は手遅れであった。それだけ家康の狡猾な手口に、単純な福島正則は騙された。

 石田三成公は、負けを悟りながらも、窮鼠猫を咬むが如きの行動が関ヶ原の戦いである。国力の差から言って、開戦前から負けるのが分かっていたのが日米戦争である。それでも敢えて戦いに向かった。戦争でも、正義が勝つことはない。タヌキと狐の騙しあいで、正義を嘘で捏造する戦略に長け、勝つための戦略を緻密に練った方が勝つ。家康が勝ち、米国が勝った。お釈迦様の王国も、無抵抗のまま釈迦様の目の前で、敵に滅ぼされるのを見せられた。

 石田三成公の歴史を調べていくうち、米国のアイゼンハワー大統領と徳川家康が、石田三成と戦前の日本がダブって見えてきた。なぜ徳川家康は、石田三成を切腹ではなく、刑場で罪人として処刑して、京都三条河原に首を晒したのか。正々堂々と戦いをして敗れたのだから、武士としての尊厳を保つべきであった。その尊厳を無視したのには、家康の後ろめたさがあったとしか思えない。奸計と言いがかりで豊臣家を追い落とし、天下を盗ろうとした家康の動きを石田三成公は見抜き、豊臣家の忠臣として命を投げ出して動き、結果として天下分け目の戦いの関ヶ原の戦いで敗軍の将となる。それゆえ徳川家康にとって石田三成は悪者でなければならなかった。それが罪人扱いの処刑と三条河原での首の晒しになる。江戸時代も幕府体制を守るため徹底的に石田三成公は悪者でなければならなかった。それは勝者側の歴史の都合であった。

日本と米国の戦い

 なぜ米国は今までの慣例を無視して国際法上で違法の東京裁判で日本の指導者を晒し者にして絞首刑にしたのか。太平洋戦争で米軍と戦ったご先祖は、アジアを植民地にして帝国を拡張して植民地の生き血を吸うために戦ったのではない。米国こそが、フィリピンやハワイを植民地にして住民の生き血を吸っていた。米国はその悪魔の触手を中国に伸ばそうとしたが、日本に邪魔されたので、仕返しに奸計を用いて原油等の経済封鎖を敢行した。そのままでは、失業者が日本中に溢れて経済破綻をする。それを防ぐため、自衛のために立ち上がったのが日米開戦の経緯である。一時期、日本は全世界(白人の植民地帝国主義)を相手に戦ったことになる。そんな国は歴史上で存在しない。それは戦後、マッカーサが米国議会で証言をしている。その米国が戦争に仕向けた奸計が露見しては、米国にとって不都合なので、徹底的に日本が悪かったとする茶番劇を東京裁判で開演して、指導者を絞首刑にした。国際法違反の裁判である。まるで無法地帯の侵略者アメリカ人が、先住民インディアンを虐殺して邪魔者を絞首刑にした無法者の所業である。そして占領軍として、日本が再度、米国に刃向かわないように、徹底的に戦前の日本の土台を壊していった。米国にとって日本の指導者は悪として置かないと、米国の「正義」の立場が崩れるからだ。広島原爆投下の戦争責任を封じ込める必要があった。

 まるで家康が石田三成公を抹殺して、豊臣家の影をこの世から消すがごときの所業である。江戸時代も石田三成悪者説が続いたのは、大阪の陣で豊臣家の結束の恐ろしさを身に染みて感じて、二度と豊臣家の亡霊が出てこないようにしたためである。それと同じように、日本軍との戦いで、特攻や玉砕、勇猛なる日本兵の恐ろしさに震え上がった米軍と似ている。戦いに勝利した後の殲滅作戦では、徳川家康と米国占領軍がダブって見えるように、石田三成公の行動は日本とダブって見える。

獅子身中の虫

 そんな米国の洗脳教育に侵された左翼が、自衛隊を「人殺し集団」と、選挙でわめいている。自衛隊が大震災の時、国民を助けた。左翼は批判だけでなにもしない。隣国は日本の不幸に喝采を上げた。左翼は人として忘恩の冷血漢である。左翼は毎日、日本国土に領海侵犯をしてくる隣国の横暴には口を閉じる。反対だけして国を滅亡の方に押しやっている。せめて日本の進むべき道の邪魔をしないでほしい。強欲主義の帝国主義はいまだ健在である。それはグローバル経済主義と美しい名に変身して繁殖中である。その害毒に気づいて、英国国民はEUからの脱退に票を入れた。大資本家がバックのマスミは、EU脱退に批判的な記事を展開している。マスコミは日本人を痴呆化する番組を垂れ流し、毒になる嗜好品の食品・菓子・清涼飲料水類のCMを流し、日本人を半病人にして、またそれに対する薬のCMを流し、スポンサーから二重のうまい汁を吸っている。

 

図1 杉山家に伝わる石田三成肖像画

 

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2017年7月16日 (日)

石田三成次男と弘前

 新戸部さんと種差海岸に行く車中の世間話で、石田三成の子孫の墓が弘前市内のお寺にあるという。石田三成公は関ヶ原の戦いの時、大垣城を作戦本部にした武将であり、彦根の佐和山城主として、井伊長政公が彦根に入城する前に彦根を治めた武将でもある。不思議なご縁を感じて、翌日(2016年5月16日)、お墓参りをすることにした。

石田三成の次男の運命

 そのお墓は宗徳寺の中に建立されていた。子孫の方がその墓所を守っている。その墓石に「豊臣家家臣」とあったので、当時の徳川の威光が全国に届いていた時代になんと大胆なことかと目を引いた。徳川の時代は豊臣氏の名が徹底的に排斥された。それが津軽では、豊臣の家臣の石田三成の子孫が家老として存命し、墓に「豊臣家家臣」と明記があるのには、歴史の錯綜を感じてしまう。家康は存外と心が広いようだ。

 1600年の関ヶ原の天下分け目の戦いで、石田三成は戦いに敗れ刑場で首を刎ねられた。刑場での罪人扱いの処刑は、戦国時代の戦いの結末としては異様である。戦国の時代でも、徳川家康は石田三成に対してこだわりがあったようだ。その次男が関ヶ原の戦いの後、津軽に落ち延びて、津軽藩の家老になり生涯を全うした。それを大目に見た徳川家康の対応に興味が湧く。本来なら、石田三成家の一族郎党の皆殺しが筋ではあるが、なぜか家康は石田三成の子孫を見逃している。次男の石田重成は、関ヶ原の戦い後、津軽信建の助力で畿内を脱出した。家康は深追いをしていない。石田重成は津軽氏に匿われ、杉山源吾を名乗り、後に家老職となり、子孫は津軽家臣として数家に分かれた。

石田三成の長男の運命

 長男の石田重家は、関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され出家した。父・三成と親交が深かった春屋宗園の弟子となり、宗亨と名乗って104歳(または103歳)の天寿を全うした。宗亨に帰依した弟子に祖心尼がおり、祖心尼は宗亨の甥にあたる岡吉右衛門に娘おたあを嫁がせている。

石田三成の人間の器

 石田三成の天敵というべき徳川家康の人柄と比較すると、石田三成の人間の器を考えざるを得ない。石田三成は豊臣秀吉に見いだされて、出世街道を驀進したエリートである。頭は切れた合理者である。朝鮮出兵でも後方の支援(ロジスティックス)の重要性を認識して対応して、そつなく仕事をこなした優秀な能吏であった。実戦より兵站を重視して論功行賞に当たったことが、人情に厚く戦に苦労した戦国武将の反感を買った。彼は豊臣家の為に、関ヶ原の戦いという事業を計画・遂行した。三成が豊臣家のお家大事との義と理は正しい。しかし現実の世界は、豊臣家の時代が終わっており、石田三成は理屈と現実が乖離している現実に納得できす、大人の対応ができなかった。もっと大人の対応を講じていれば、豊臣家が滅亡せず、大大名ではないが、徳川家康の時代にも生き延びる術はあったはず。勝つのではなく、負けない戦略が必要であった。

徳川家康の人間の器

 それに対して、徳川家康は、幼少時代は今川家の人質、戦国時代は織田信長の命令で、妻と長男を自らの手で殺させられた。世のあらゆる辛酸を舐めて、待ちに待って、我慢に我慢を重ねて天下を盗った老獪な知恵者である。苦労人の家康には、才覚はあるが苦労の薄い石田三成の敵ではなかった。石田三成の理想論には世の武将はついてこなかった。

 舛添元東京都知事のように、東大法学部を首席で卒業するほどの頭の良さだけでは、人はついてこない。頭がいいだけでは、世の中を動かせないのを徳川家康公の人生家訓が物語っている。合理的に考える能力の高い人は、合理的にしか考えられにない欠点を持つ。それでは人生を戦えない。私も還暦を過ぎてから、この人生の根本原則にたどり着いた。随分と遅い悟りではある。

 

図1 宗徳寺の山門(弘前市)

図2 宗徳寺 本堂

図3 杉山家の墓所

図4 杉山家の墓所の奥に石田三成の次男・重成のお墓

   豊臣家臣と字が彫られている

 

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石田三成公からの学び(改定)

 私は前職の会社に1973年入社し、数年後、私の二人目の指導員はM主任(当時)であった。Mさんは、石田三成の末裔の某課長から薫陶を受けていた。

「オレは、君が仕事のしやすいように環境は全て作ってやった。あと、君が仕事をするかしないかは君の自由だよ」とは、M主任の元上司であった生産管理部課長の指導の言葉である。

 私はその課長と数回だけ口をきいたことはあるが、明確には覚えていないのが残念である。太ってずんぐりした方との印象だけである。しかし、指導された言葉は大変キツイ。そうやって上司から言われると、大変である。私もMさんから、その言葉を暗に突きつけられて冷や汗をかいた。そこから学んだ私が部下に言うもっとキツイ一言は、「(体を張って)がんばらなくてもいいよ。(頭の汗をかいて)成果だけ出してくれればいいよ」。

ロジスティク重視 ⇒ 三成出世

 石田三成は、当時重要視されていなかた兵站(ロジスティク)で才能を発揮して、頭角を表した。言うなれば、「戦いの準備・後方支援は全て整えてやった。後の戦でどう戦うかは、おぬし達の頑張り次第だ」と三成は思っていたのだろう。「後方支援など、武将のやる仕事ではないわい」と思って三成を見下していた武将たちに、三成の評判は良くなかった。会社組織でも最前線の営業や開発部隊が偉いのではない。それを総合的に運営・管理する部隊があってこそ会社が存在できる。

ロジスティク軽視 ⇒ 日本敗戦

 第二次大戦での日本兵戦死の6割以上が餓死である。父の弟の小田五郎氏は、昭和19年、ビルマのインパール作戦中に戦死であるが、現実は食料、医療品の欠乏による、餓死、病死である。日本軍部はロジスティクスを軽視した。米英軍の兵站の戦力(兵站も戦力)をみると、日本は負けるべくして負けた。石田三成が苦労したことは、300年経った第二次大戦でも日本では教訓にされていない。歴史に学ばない民族は敗れる。戦争とは資源の配分の頭脳戦である。陸軍学校で何を教えていたのか。

 現代の経営では、ヒト、モノ、カネ、情報をいかに効率的に、タイミング良くビジネス戦地に投入できるかが問われる。それの効率を極限まで高めたのが、トヨタのカンバン方式である。その生産システムで、たった一つの部品の欠品で、30万人が働くラインが止まる。そのため生産管理システムの構築は精緻を極める。だからトヨタでは生産管理部門の権力は強大である。だから世界のトヨタとして君臨している。急成長したクロネコの足が絡めとられたのは、お粗末な配達人の手配の問題である。人の対応に失敗してその出鼻をくじかれ、2017年、赤字に転落した。

歴史に学ぶ

 経営も戦争である。石田三成に末裔の某課長も生産管理部で手腕を発揮したのはご先祖返りである。そんな石田三成のDNAを引き継ぎ、当時から部長の風格があった某課長であるが、そりの合わない家康の性格を悪くしたような上司が実権を握ると、次長にもなれず即、子会社に飛ばされた。知性があっても、きれいごとだけでは生きていけない。ある程度奸性も必要である。サラリーマンの人生は上司次第でもある。その上司も後日不祥事で会社を追われた。出世競争の苛烈さは戦国時代も、今も変わらない。

親と上司に贈られた環境を感謝

 自分の今の環境が、あって当たり前と思っている間は、人間としての成長はない。親も上司も師も、自分のために働ける環境や生きていく環境を、黙って整えてくれた。その中で恩を感じてどう働くか、どう生きていくかは、自分の責任である。うまく行かないのを人や環境のせいにするから、醜い争いが絶えない。それでは幸せはやってこない。

自家の兵站整備

 人生という戦いで、勝利に大きく影響するのは、兵站である。まず手近なことは、己の仕事がやり易い環境整備である。自宅の書斎とか睡眠の部屋の環境整備である。ハード面は、自分でお金をかければ誰にでもできる。それに設備投資をするかどうかだけである。もう一つが人間関係の整備である。気持ちよい人間関係を構築してこそ、財産である。そのためには、心理学・人相学・経営学・歴史の勉強が欠かせない。後方支援として、良き医師の友人と人生の師があれば、鬼に金棒である。

自社の兵站整備

 貴方が会社の経営者として、兵站に相当する、教育部、管理部、調達部、社内医局、資料室、渉外部、知財部の間接部門に目が届いているだろうか。営業部ばかりに注力して接待費を湯水のごとく使えば、会社は土台から腐っていく。前職の会社は、「教育は大事だ、大事だ」と念仏の如く唱えていたが、景気が悪くなると、真っ先に教育費を削減した。教育こそが、10年後に必要な兵站である。当面なくてもすんでしまうので、真っ先に削減して、10年後の危急存亡の時には、活躍してくれる人材が払拭している。兵站からの復讐である。

英霊への追善供養

 2010年、大垣に帰郷後、父の遺品を整理していて小田五郎氏の天皇陛下からの勲八等の表彰状(昭和41年7月30日発行)を発見した。時の佐藤栄作総理大臣の名が入っている。供養として、それを額に入れて座敷に飾った。五郎氏は英霊であるが、50回忌は終わっていた。この叙勲の表彰状を眺めているうち、また石田三成の兵站のことを思い出し、その苦労に報いる為、お墓を改建したおりに位牌を新作して仏壇に納めることにした。英霊への追善供養として院号を付けて頂くことにした。夫を早く亡くし、二人の子供が戦死をした当時、祖母は院号を付ける経済的余裕がなかったと思われる。不憫である。

 戒名とは引導をされる僧侶が弟子にするために授ける名前である。院号とは贈り名とも言われ、人の死後にその徳を称えて贈る称号である。業績のある方のためにお寺を建てると同じように、亡くなられた方の心の中にお寺を建て、来世の名前を戒名として授け、佛として修行をする名とする供養である。院号はお金を出しても、相応の功徳ことがないと付けてもらえないという。お寺によっては、いくらお金を積んでも付けてもらえない。

 小田五郎さんはビルマで昭和19年に戦死された英霊であり、「戰勲至誠居士」と立派な戒名が付けられている。至誠とは吉田松陰が好んで説いた『孟子』離婁上の言葉である。今回、お寺さんのご意向で、「護國院戰勲至誠居士」との立派な院号を付けて頂いた。院号についても今ままではあやふやな知識で、今回初めて詳細な知識を得た。人生知らないことばかりである

 

図1 死亡通知書

 

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久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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