北尾春圃没後、283年後のハッピーバースデーツーユ
漢方医 船戸博子先生とのご縁
北尾春圃没後、283年後の8月16日、体調不調の為、漢方医師の船戸博子先生(養老町船戸クリニック)に診察してもらった。
8月26日、船戸博子先生の2回目の診察を受けたら、ハッピーバースデーツーユと博子先生と看護婦2名からお祝いを頂いた。病院で誕生日お祝いなど初体験である。
北尾春圃没月日と私の生誕月日が同じである。なにか因縁を感じる。自分は北尾春圃の生まれ変わりかとも思ってしまう。
2024年6月8日、「岐阜 生と死を考える会」の講演で、船戸博子先生のお話を聞いて、漢方に興味がわいた。5年前、船戸崇史先生からガン再発防止の治療をして頂いたご縁もあり(船戸博子先生は船戸崇史先生の奥様)、診察をうけるのに躊躇はなかった。
博子先生の診察方法から推察するに、北尾春圃は脈だけでなく、観相、手相、体全体の相から病名を診察したようだ。彼は単なる漢方医ではなさそうである。だから門前に市ができるほどの名医であったようだ。
下記の「道仙」は北尾春圃の三男で、私の祖母系のご先祖である。
名医 北尾春圃
名医、北尾春圃は万治2年(1659)に不破郡室原村の医家に生まれた。彼は青年の頃に発奮して医学を学び、大変成績も良く、大成して診察を請う者が次第に増え、春圃の名声は大いに上がった。大垣藩、戸田候は医家春圃に20人の扶持を与えて大垣船町、全昌寺のあたりに住まわせた。
彼が知られた最も大きなチャンスは、正徳元年(1711)6代将軍徳川家宣の就位を賀する為、朝鮮通信使節に随行した医官、奇斗文と春圃の会談が行われたときであった。全昌寺にて深夜まで及ぶ問答をし、これを「桑韓医談」と題して正徳3年(1713)に刊行した。使節は一行500余名の大集団で、一行が大垣に来た時、春圃は長男春竹、以下春倫、道仙を連れて、近江の儒者であり使節団の通訳を務めた雨森芳洲の紹介によって会談することができた。この時、通信使の奇斗文は会談の内容を絶賛して「東海に天民あり」と春圃のことを激賞したと伝えられている。春圃は名医で学者でもあったので著書も多く、11種に及ぶ書物を出版した。
安福彦七氏の著書「室原の歴史」P.76には文化13年(1815)12月に記された文書に百姓代として北尾春圃の名が「春甫」と記されていたとある。
以上は、下記のブログより
北尾春圃と室原 | タギゾウくんの養老ノート (tagizou.com)
https://tagizou.com/main/yoronote/?p=23859
北尾春圃は江戸時代の名医として知られた人物で、診察を受けようとした患者が門前に列をなしたことや、仙台藩が春圃を召し抱えたいと申し出たとき、それを惜しんだ大垣藩主が多くの蔵米を与えてとどまらせたといった逸話が残っている。
以上は下記のブログより
北尾春圃(秋峰)|郷土の先人|岐阜県養老町の歴史文化資源 (tagizou.com)
https://tagizou.com/main/ancestors/kitao.html
2024-08-31 久志能幾研究所通信 2926号 小田泰仙
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