文書道・テクニカルライティング Feed

2020年3月25日 (水)

磨墨知151-1 無意にブログを読み漁らない

結論が最初に書いていないブログを読まない。

付加価値がないブログを読まない。

自分の人生に影響しないブログを読まない。

それはTV番組でも本でも、行事や人との付き合いでも同じである。

題名に、話題(topic)と目的語(purpose)のないブログを読まない。

 

 「ブログはあくまでも個人日記。金の粒が落ちている可能性はありますが、金の鉱脈はありません。特にネット検索初心者にとってブログを熱心に読み漁るのはネットサーフィンにもつながる不毛な行為だと思います。」

  『内藤式「ザ・検索術」』の著者で心理学者の内藤誼人氏のコメント

  『プレジデント』2007.3.19号 p59

 

 人のブログを見ると、上記のコメントに納得させられる。そのブログの記事で何を言いたいのか、何を伝えたいのか、それが曖昧なブログが氾濫している。文書を読む以上、そこから得られる情報で自分の行動が変わらなければ、テレビを時間つぶしに眺めると同じで、時間の無駄である。時間は命なのだ。

 それはバラエティーショー番組で、見識のかけらもない芸人が、コメントを垂れ流す番組を見ると同じで、人生の無駄である。時間は有意に使わないと、人生が無意に過ぎてしまう。

 

無意から有意へ

 人は白紙で生まれてきたので、一番多く見たり、聞いたり、読んだりしたことしかできない。無意な情報に多く接せると、無意な行動しかとれなくなる。それは洗脳教育と同じである。それが認知症への階段を上ることになる。無意な情報を避け、有意な情報に接するべきなのだ。

 

情報の提供

 私はブログ記事を書く場合、読み手に何らかの付加価値を提供する意図で書いている。私は単なる日記としては書いていない。将来の行動にフィードバックできるように、事件の記録として書いている。

 私のブログでは、結論を最初に書き、ビジネス文書として構成している。それで何を伝えたいかを明確にしている。私が一番大事にしていることは、タイトルである。そこに文書の全てを表すタイトルにすることに注力する。次に大事なトピックセンテンス(核文)にも最大の注意を注ぐ。

 記事を読んでいただくことは、相手の時間を頂くことなのだ。自分の意見が正しいことを教えて頂いたのだと考える。人の時間を頂く以上は、倍返しで価値ある情報を提供することで、それに応えたいと思う。読んでよかったな、と思う記事を目指している。その情報で、少しでも読者の人生が変われば本望である。

 その情報で、読者の生きざま、行動、行く末に修正を加えて、皆さんの志、夢の実現に向けて、0.01歩でも前進すれば嬉しい。それで社会が良くなる。毎回のブログが私の遺稿なのだと決意して書いている。将来はこれを編集して出版予定です。

 

知りたることを教えざるは、金を借りて返さざるが如し(お釈迦様の教え)

Img_64031s  馬場恵峰書          時間は命なのだ。

 

2020-03-24 久志能幾研究所通信 1512 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年2月 8日 (土)

「当ブログへの悪意あるコメント」を検証

 2020年1月23日付けの当ブログ記事「狂った大垣教育行政、働き方改善、児童を犠牲」に対して、匿名(ひまころ)のコメントが寄せられた。内容的に悪意ある妨害コメントである。彼は大垣市のまわしものと推定される。彼は大垣市を良くする運動の敵である。

 

道元禅師の教え

 「しるべし仏家には数の殊列を対論することなく、法の浅深を選ばず。ただ修行の真偽をしるべし」 道元禅師「正法眼蔵・辯道話」

 道元禅師は、教えが優れているかとかいないとか、そんな些細なことを討論するのではなく、その事の真偽、本質を問うべきで、それが正しかどうかだけを問いなさいと述べておられる。そんなことよりも自分が真実を行じ得ているかだけを問え、と教えておられる。

 

「ひまころ」氏は当ブログの主張を曲げて解釈

 この「ひまころ」氏のコメントの結論は、私が主張した「大垣の子供の教育環境が悪い」の論文の主旨を捻じ曲げ、論理を別に変えて論じている。要は著者の主張を妨害しているコメントである。

 「ひまころ」氏は、教員の給与は低いほど良いとの考えのようだ。1972年に総理大臣に就任した田中角栄元総理は、1974年、日本の小学校教育の質を高めるため小学校の教員の「人材確保法」を制定して、一般職員よりも25%も高い給与にする政治を行った。そうやって日本の未来を背負う子供たちのために教員を集めるため金をつぎ込み日本の未来のために「投資」をした。

 今の経済停滞の日本で、最優先課題は教育である。それなのに、教育行政に無能な小川敏は、田中角栄元総理と真逆の政策を執り、大垣市の教員の給与を県下最低レベルに落とし、一般職員の給与を県下一の高さに引き上げた。今は岐阜市のそれより200万円以上の差がある。それでは大垣市の子供の教育は他市に負ける。これでは大垣の子供達は、将来、正社員になれる人の数が減るはずだ。一生、フリータ、派遣社員では、生涯収入で正社員のそれとで2億円の差が発生する。

 「ひまころ氏」は、小川敏の肩を持つようだ。子供を持つ親に対して、恥ずかしくないのだろうか。大垣の未来を破壊する小川敏を擁護して、恥ずかしくないのだろうか。田中角栄が草葉の陰で泣いている。

 

コメント分析

 このコメントの内容を一文ずつ分析すると下記になる。要は、結論がない。思いついたことを書きなぐった。支離滅裂の出鱈目の論理構成である。何が言いたいか、全く分からない。悪意があり、文書の途中で論理をすり替えて、自分の都合の良い結論を出している。つまり当ブログを誹謗して妨害している。要は悪質な妨害メールであると結論付けられる。

 

ひまころ氏のコメント全文の検証

第一文  大垣の教育は低コスト体質でよい。

      (「ひまころ」氏は、大垣市の教員の給与が岐阜市のそれより232万円(ひまころ氏のデータで)も低くても問題とは思わないようだ。)

第二文  大垣市の人件費が一番安いと提示

(「ひまころ」氏は、教育に金をかけないのが素晴らしいと褒めている。要は大垣市の教員の給与や低いほど良いという考えである。それから推定すると、氏は教育行政以外の大垣市の行政関係者のようだ。普通の市民なら、こんな教員の年収データを出してこない。よほど深い関係のある関係者であると推定される。)

第三文  少ない予算で成果を出すのが評価される

      (「ひまころ氏」は、大垣市の教育の低コスト体質を褒めている。田中角栄元総理が知ったら激怒するだろう)

第4文  教職員の給与データ

       このデータの出典が明らかでなく、信憑性にかける。何時のデータで、誰が保証したデータなのだ。ここから分かることは、「ひまころ」氏は、緻密な仕事をしたことがない、仕事の出来ない人である。これでは出世は無理。)

第5文  大垣市職員の給与が一番高いが、微差である。

      (「ひまころ」氏は、だから大した問題ではないとしている。ここで論理が破綻している。だから「ひまころ氏」は、大垣市の行政関係者と推定される。)

第6文  大垣市の財政は県下二位

       (「ひまころ」氏は、だから大垣市職員の給与は高くて当然で、大垣市の教員の給与が低いのは知ったことではないと論理をすり替えた。)

第7文  大垣市職員の給与が高いのは時間外手当が多いだけ。

      (「ひまころ」氏は、だから大垣市職員の給与が県下一高くても知ったことではないと問題をすり替えた)

第8文  だから「久志能幾ブログは間違いだ」

      (「ひまころ」氏は、この一文を言いたいだけで、要は当ブログを妨害したいだけであると断定できた。)

 

 

コメント原文(ひまころ IP 221.45.6.2.)

児童一人当り教育予算が高いと一見良いように見えますが、逆に言えば高コスト体質ということなんですよね。

主な各市の教職員の平均年収を比較したら、大垣市が一番人件費が低いわけです。教育予算って大部分が先生の人件費ですから。大事なのは予算をたくさん使うことより、少ない予算でどれだけ成果を出せているかではないでしょうか。

 

■教職員の平均年収

 

大垣市 545万円

多治見市 585万円

岐阜市 787万円

可児市 667万円

各務原市 804万円

 

あと大垣市職員の年収が岐阜市より高いと言っても僅かな差ですし、内訳を見れば時間外手当てが多いだけですからね。

大垣市役所は岐阜市役所より労働の拘束時間が長いだけなのです。それがいいか悪いかはその人次第です。

 

あと財政力指数番付でいえば、大垣市は岐南町に次いで県内2位ですからね。岐阜市より全然いいわけです。

 

この記事は、都合のいいデータだけを持ってきて、都合のいい主張をしているだけだなと思いました。

 

投稿: ひまころ | 2020年1月27日 (月) 20時42分

 

コメント・メールの迷惑

 どんなメールでもコメントでも、それが掲示され、当方にメールで来ると、読まないといけない。それが妨害メールでも、である。その論理が出鱈目なら、それは仕事の妨害で時間泥棒である。それが今回の「ひまころ氏」のコメントに当てはまる。

 コメントを読むのは私だけではない。累計140,000回余を読んでくださった読者の時間を無駄にしているのだ。時間コスト一分100円で計算すると膨大な時間ロスである。いわば犯罪である。

 

IPアドレスは全世界で唯一

 IPアドレスは、各パソコンに付けられた全世界で唯一の名前である。だから、いくら匿名だとしてもその個人を特定することは技術的に可能である。ネット上に、そのアドレスで、各種のHP登録、アンケート投稿、商品購入、いいね」等のクリックで、そのアドレスの履歴が残り、それからその人の性格分析まで可能である。我々はIT技術の進化で、プライバシーが裸にされた世界に住んでいるのだ。「ひまころ氏」は、それさえ知らないIT音痴と推定される。文体も幼稚、論理構成もダメ、文書スタイルも幼稚なスタイルである。これでコメントをブログに流すと社会に害毒を流すことになる。こんな文書では、組織で出世もできまい。私が上司なら、左遷対象とする。

 なにより怒りが沸き起こるのは、大垣市と大垣市の教育、大垣市の未来を良く良くしようとしている活動を妨害したことである。要は「ひまころ氏」は大垣市の敵である。

 

2020-02-08 久志能幾研究所通信 1475  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年1月25日 (土)

アウトプットはスピード最優先 「非事勿主義」

 私のアウトプットは文書である。その出力の付加価値を上げるためには、スピードを最優先として処理している。

 私の文書に誤字脱字が多いと指摘する人がいる。過去の仕事仲間では、そういう人は、仕事の出来ない人が多かった。末梢的な事にこだわり、仕事の本質を後回しにする人である。文書を書いて仕事をしていない人たちである。

 

雑誌原稿のチェック体制の例

 私が前職で技術広報誌の編集業務をしていた時(実質的に編集長)、最終原稿を校正者5人ほどで集まって校正するのだが、それでも誤字脱字が見逃されることが多い。人は活字になるとそれが正しいと思い込んで、そのミスが発見されにくい。ましてやPCの画面上ではミスは発見できない。他人でも発見できないのに、本人ではなおさら発見が難しい。

 またその英文原稿を現地人に校正・添削してもらったが、その校正レベルが酷かった。現地人が英文の正しい英語に精通しているわけではない。英文でも、テクニカルライティング的にしかるべき書き方がある。それが印刷だと正しく見えてしまう。

 特にチェック者がいなくて自分だけで作る資料は、そのミスが多い。私もブログにアップする前に印刷して4,5回は紙でチェックをして修正をするのだが、それでも一人だけのチェックではミスを見逃すことが多い。ミスを無くすことにかかる時間は膨大である。

 それよりも、多少のミスを覚悟して、スピードと量で世に問うほうが、結果として良質な仕事が出来る。完全無欠の文書を作成するために、誤字脱字の校正に時間をかければ、その生産量は半分以下になるだろう。それでは仕事が回らない。

 

私の文書作成方針

 私がこだわるのは、文書の論理構成と文書の伝達意図の明確化、分かりやすい文言、スタイル、構成である。如何に早く理解してもらう文書構成にするかに心血を注ぐ。

 他人が私の文書で、誤字脱字を指摘するからには、その意味は通じているので、それをヨシとしたい。意味が反対に取られなければヨシとしたい。私はカネを貰って文書を書いているわけではない。出版する場合とは別である。多少の誤字脱字は愛嬌であるとしている。人は神ではないのだ。早く情報を伝えるのが最優先である。

 

な言葉よりも正しい論理構成

 往々に誤字脱字のない正確な文書は、竹下登元総理のような言語明瞭・意味不明の文体が多い。「誤字脱字のない文書でも、それで何を言いたいのだ」との文書にそれが顕著である。

 それより多少は言い間違いが多い田中角栄元総理の論法が、愛嬌があり、私は好きだ。それで角栄の言いたいことは理解できる。だから田中角栄総理は竹下登総理より多くの仕事をした。

 仕事でも多少のミスを覚悟して、前に進めた方が、多くの仕事と己の成長が出来る。石橋を叩きすぎて、その石橋を壊してはならない。それはお役人の世界である。

 

正確を期して何もしない役人

 だから役人に支配された日本はデフレ経済から脱却できない。間違えないように、指摘をされないようにと、慎重すぎて、役人は仕事をしないからだ。仕事を変えないからだ。そうやって、大垣の役人が何もせず、大垣を衰退させていく。

 

私の決断

 私が物事を決める場合、スピードを優先して決めている。決めて、間違っていることが分かれば、修正すればよいのだ。経営上の最大のミスは、間違った階段に上ったら、メンツで降りて別の階段に行くことをしないことなのだ。間違いは誰でもする。その間違いは早い方がよい。早い方がその軌道修正が楽だのだ。始めなければ、その間違いも気が付かない。命の時間は有限である。その時間を無為に過ごしてはならない。

 

アイデアが大事

 私はブラインドタッチで、頭に思いついたことを、消えないように早くキー入力することに全神経を使ってる。早くタイプするので、タイプミスも多い。当時、オアシスの親指シフトキーボードを使っていた時は、人の2倍の速度で入力をしていた。今は環境の変化で、しぶしぶローマ字入力だが、それでも超スピードで入力である。

 

スピードが優先

 1980年当時、私はローマ字入力、かな入力、親指シフトキーボード入力を入力速度を上げるために習得した。パソコンが出始めた1980年頃、高速キー入力を習得するため、BASIC言語でタイピングソフトも自作して練習に励んだ。全てはスピードを上げるためである。スピードを上げるとタイプミスも多い。そのミスよりも、浮かんだアイデアを大事の育てることを優先して仕事をしてきた。

 

人物鑑定

 それを文書内の枝葉末節である誤字脱字を自慢げに指摘する輩に出会うと哀れに見える。その人が仕事の出来ない人だと分かるからだ。文書を書いたことのない人だと分かるのだ。仕事の優先順位を考えることができない人なのだ。それも私が人物鑑定をするときのデータである。

 

人生はスピードによって決まる

 私は昔からよくいわれる「石橋を叩いて渡る」ということはやらない。石橋だったら叩かずに渡ってしまう。大丈夫だと思ったら時間をかけない。スピードを重んじる。私はスピードによって人生というものは決められると信じている。

 我々には神様から与えられた一定の人生しかない。それゆえ、与えられ、限られた間に、自分の要求をどれだけ満たすかといことが人生最大目標であるかから、それはスピードが絶対必要である。----本田宗一郎談

                 1995.07.22の書き抜き

 

 石橋を叩かずに渡ることによって被るデメリットよりも、人生をスピードアップすることによって得られるメリットのほうがケタ違いに大きい。

城山三郎・他著『本田宗一郎の「人の心を買う術」』(プレジデント社 1991年)

 

2020-01-24 久志能幾研究所通信 1460  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年12月18日 (水)

マスコミの劣化が日本を滅ぼす

 私は以前、新聞や週刊誌を真剣に読んでいたが、最近は色眼鏡をかけて眺めるようになった。特に週刊誌はほどんど買わなくなった。私が新聞を買う時は、事件を異常な観点で記載してある場合、比較対象の資料にしたいので買う。

 以前の週刊誌は、世相を切る記事が多くて、読みごたえがあったように記憶している。今は、扇情的な記事やマッチポンプ的記事が多く、日本の存亡に影響する世界情勢から目を逸らすような記事の氾濫が多いようだ。

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  サクラは見飽きたし、愚かな薬物患者のことなど知ったことではない。

 2019年11月21日に日本経済新聞に掲載された『週刊文春』の広告 

 

世界情勢

 米中覇権戦争、北朝鮮の核実験挑発、韓国反日運動、英国EU離脱、移民問題、少子高齢化問題、憲法問題、尖閣・沖縄への中国の領海領空侵犯事件、日本景気を減退させる消費税増税等と大きな問題が目白押しである。

 それなのに、マスコミはその大事な要件から眼を逸らさせるような記事ばかりである。野党も本論を避け、わき道の議論ばかりである。マスコミも消費税の話しは肯定論ばかりで、それを避けるようにサクラ問題一色である。下劣な沢尻エリカのクスリ問題で大騒ぎである。一河原乞食芸人の犯罪など、日本の存亡には影響しない微々たる問題である。それが週刊誌では大騒ぎである。ワイドショーでも大騒ぎだろうと思う(私はテレビを見ないので推定)。

 

「非武装中立」論

 2019年12月9日、非武装中立論を主義とした日本社会党の石橋政嗣元委員長が亡くなられた。彼は非現実的な理論で日本を迷わせた罪人である。チベットが中国に併呑されたのは、平和憲法がなかったためではなく、軍隊がなかったためである。それでチベットの120万人(人口の20%)が虐殺された。日本人に換算すれば2千万人が虐殺された。戦後、竹島が韓国に奪われたのは、当時、自衛隊という組織がない時期であったためだ。韓国は敗戦のどさくさに紛れて竹島を強盗した。今でも中国は軍事を前面にフィリピンの領域で覇権争いを繰り返している。中国は東シナ海に空母を配置して、虎視眈々と沖縄を狙っている。非武装中立の空論では、日本は滅ぶのだ。非武装中立を謳った社会党が滅んだのは自然の理である。

 

間違った道への誘導作戦

 日米のマスコミはフェイクニュースを堂々と展開している。大事なニュースは報道させない細工をしているようだ。外国の意を受けた陰謀で日本人をノー天気にさせる作戦としか思えない。サヨクはよほど日本が嫌いで、日本を共産化したいとしか思えない行動である。マスコミには、外国の意を受けた工作員がいるとしか思えない。そんな記事を掲載して、誰が利を得るか、考えないと騙される。

 我々は、何が問題かを、冷静な目で見ないと、戦前のようにプロバカンダ作戦で、間違った方向に誘導される。ご用心、ご用心。

 それは優秀な人材がオウム真理教に洗脳教育されて大量殺人を犯したのと同じステップなのだ。オウム信者は、暗室で何度も何度も麻原の暗示をガンガンされて、麻原の盲目的信者になった。同じように、何度も同じ記事を繰り返されると、普通の人間は洗脳されてしまう。

 韓国の若者が政府の教育で、何度も反日教育を受けるから、反日韓国人が出来上がる。それと同じである。

 この手法は、米軍が開発した洗脳教育の方式である。これはベトナム戦争で心の病になった兵士を治療するために開発された心理学の治療法なのだ。それを麻原彰晃は悪用したのだ。私も自己啓発セミナーで、この手法の洗礼を受けたので、その効果の凄さを実体験した。だから私がこの解説を出来る。

 

報道とは解釈

 どんな事件も、事実ではない。それを見て報道する人間の解釈なのだ。事件とそれを見る人間の衝突が、解釈である。その人間がどう解釈したかで、事件は色付けされる。中国寄りの人間が報道すれば、サクラ問題で大騒ぎを報道して、領空侵犯問題や憲法問題から目を逸らさせたいだろう。中国との経済活動を推進したい日本経済新聞社は、中国寄りの報道をするだろう。それが世の掟である。そのように報道しないと、記者は首になってしまう。記者も家族もあり家庭があるのだ。社命には逆らえない。

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自然淘汰

 だから自分の価値観と見識を高めて、起きた事件を観ないといけない。それが学びである。今の報道姿勢のままではマスコミは滅ぶだろう。マスコミが自分の偏向報道で自分の首を絞めている結果である。世の中で存在の必要が無くなった時、その種は滅ぶ。それは自然淘汰である。インターネットがその代わりをしつつある。だから新聞社の部数の減少傾向は止められない。若者がテレビを見なくなった。見る価値、読み価値がないのだ。

 

2019-12-18 久志能幾研究所通信 1428  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年9月21日 (土)

岐阜新聞、御用新聞社の洗脳報道

 岐阜新聞社の紙面を見ていると、「大垣市の教育は日本一」だと勘違いをさせられる。岐阜新聞社は、読者が勘違いするように紙面の文言を配置して、大垣市民を真実から目を逸らす画策をしている、としか私には思えない。

 

 2019年4月16日の岐阜新聞の紙面で(大活字で)

 大垣市議選候補者26人アンケート

  「教育・子育て」注力19人 

 「市長の市政運営は「評価」9割」である。

 

 私が大垣市の教育の実態を実際のデータで検証(2019年9月1日、文末に掲載)する前は、私も大垣の教育への取り組みは素晴らしいと勘違いをして、当時(2019年4月16日)、この新聞記事に騙されてしまっていた。騙された私が愚かなのだ。

 上記の表現は、あくまで大垣市議候補者26人のアンケート結果であって、実際に教育・子育てが、高く評価されたわけではない。岐阜新聞紙面は、新聞読者に誤解を与えるような表現で紙面が構成されている。

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   岐阜新聞   2019年4月16日

無責任なアンケート

 紙面には「市議として注力したい分野について、市総合計画「未来ビジョン」や過去の市議会一般質問の内容から14分野の中から3つ選択してもらった。」とあるが、誰がその3つの選択をさせたかは、明記されていない。主語が隠されている。詐欺まがいの文面である。「~してもらった」という受動形は、主語のない無責任さを表す表現で、テクニカルライティング上で、厳禁の表現である。

 これは、あくまでもお任せのアンケートで、岐阜新聞社が、問題点を市民から聞き込んで、もしくは自主的に取材をして、主体的にテーマを選択して実施したアンケートではない。結果も実績値ではない。その3つに大垣市政が注力しているわけではない。それは市議会議員候補が注力したい「願望の」分野であるにすぎない。それをいかにも大垣市政が注力していると、紙面を見て私が勝手に思ってしまっただけだ。そういう風に思わせる洗脳風の紙面である。

 

あるべき姿

 本来、新聞社が、大垣行政の問題点を抽出して、アンケートを取るべきである。しかし、御用新聞が自ら墓穴を掘るような愚かなことはしない。それが御用新聞の真骨頂である。新聞紙面に証拠を残さない頭脳ハンのごときである。

 本来なら、例えば教育関係で、実際のデータで検証して、そのデータを他市と比較して、その結果の問題点を市会議員にアンケートとして問うべきなのだ。それに対しての小川敏市政の評価をアンケートで調査するべきであった。

 

悪いのは読者

 それをすると、御用新聞として、小川敏市長に裏切りとなるのでしないだけである。御用新聞社は、嘘を言っていない。本当のことを報道しなかっただけだ。そうすれば後ろ指は指されない。勝手に勘違いをした読者が悪いのだ。勝手に勘違いをした私が愚かなのだ。

 

真の大垣市の教育の姿

 実際に、大垣市の児童生徒の一人当たりの教育費は県下最低レベルである。そのことは、岐阜新聞は口が裂けても一言も報道しない。大垣市長は、「子育て日本一を目指す」とは言うが、「日本一になった」とは、言わない。だから嘘ではない。小川敏市長は口先の魔術師である。それを岐阜新聞社は、読者が誤解するように誘導して報道している。

 

偏向した評価を、勘違いさせる

 市議会議員候補も、当選後は、地域の利権代表者として小川敏大垣市長から覚えを良くしてもらわないと、小川敏市長から意地悪をされるので、猫を被る。そうしないと地域へ利権の誘導が出来ない。

 「長期政権の絶対権力は、絶対に腐敗する」と日露戦争当時の米大統領が明言した。だから当時の米国は、帝政ロシアに歯向かった日本の味方になってくれた。それで日本はロシアとの戦争に勝てた。日本人自体が勝てるとは思っていなかったのに。

 だから、大垣市会議員の誰も、5期長期政権の絶対権力者の小川敏市長に盾突かない。だからアンケートで、小川敏市長の行政評価が、「大いに評価」と「評価する」が9割を占める結果となる。これだけ大垣市が没落したのに、その現実に目を逸らして小川敏市長にゴマを擦っている。つまり大垣市会議員候補者の評価は、現実に正しい評価ではない。小川敏市長に媚びを売るような評価となる。それを岐阜新聞社は、いかにも正しい評価のように報道する。それは御用新聞社の洗脳報道である。それ故、私も勘違いをしてしまって恥をかいた。敵は上手である。

 

大垣市民の皆さん、現実を見よう

 同時に紙面に掲載されている「キッズピア」の写真も、忖度の誘導報道である。それを報道するなら、なぜ81%が閉店した大垣駅前商店街の写真を掲載しないのか。それが現在の大垣市の大きな問題である。小川敏市長が政権を取って大垣市の平均地価は半値以下に暴落した。9月20日付の新聞でも、近隣都市の基準地価は軒並みに上昇しているが、大垣市だけは下落である。

 大垣市の子育て支援のレベルは全国都市中で30位前後である。大垣市は、普通の子育て支援レベルで、日本一ではない。それを口先の魔術師の小川敏市長が「子育て日本一を目指す」と言葉巧みに言うだけである。児童生徒一人当たりの教育費は、県下最低レベルだが、それは口が裂けても言わない。岐阜新聞社も報道しない。小中学校のエアコン設備率も県下最低であったが、国に金を出してもらって整備を進めている。本来、子供たちのために出すべき金は、大垣市職員の給与に化けて、岐阜市を差し置いて県下一の給与水準となっている。

 我々が目を覚まさないと、小川敏市長に生活を破壊される。大垣の未来がなくなる。すでに半分は破壊された。

 

偏向報道の末

 そういう偏向報道で、戦前の新聞社は日本国民を扇動して太平洋戦争に追い込んだ。今の岐阜新聞や大手新聞社とあまり変わらない。ネットやSNSがなければ、アメリカもフェイクニュースばかりの旧メディアに支配され、トランプ大統領が誕生することはなかっただろうと言われる。

 

参考記事

「無知に付け込む小川敏市政 教育投資は県下最低」

  久志能幾研究所通信 2019-09-01

   http://yukioodaii.blog.enjoy.jp/blog/2019/09/post-6da0.html

 

各市の教育費比較(児童生徒一人当たり)

教育費は大垣市が県下最低レベル。

小川敏市長は、子供の教育軽視が日本一。教育の破壊者。

     一人当り予算  児童生徒数 大垣市100で

          千円    人

 多治見市    735   8,862   158

 岐阜市     529   32,074   114

 可児市     517   8,352   111

 大垣市     465   14,400   100

 各務ヶ原市   445   12,525    96

参考

 刈谷市(愛知県)918   11,120   197

Photo

2019-09-21   久志能幾研究所通信No.1344 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年6月21日 (金)

プロの声に値段差あり。あなたの声は売れますか?

4か国語のアナウンス

 九州新幹線「さくら」に乗車して、新たに発見したことは、東海道新幹線「のぞみ」では、日本語と英語のアナウンスだけであるが、九州新幹線のアナウンスは日本語、英語、中国語、韓国語である。そのアナウンスの声と、アナウンス時間に問題があり、少々耳ざわりである。なんでも国の指導で4か国語のアナウンスを指導されているという。

 中国語、韓国語は不要である。日本に来る外人(中国人でも)は、ほとんど英語は分かる。中国語、韓国語は騒音みたいで無駄である。日本の敵国みたいな行動を取っている国のアナウンスが、本当に必要なのかと疑問に思った。

 

英語のアナウンサーの下品さ

 もう一つ問題なのは、英語の女性アナウンサーの声のトーンである。なにか不快感を与える声のトーンであった。これは以前にJR東日本の特急「ひたち」の英語アナウンスでも感じたことである。

 「のぞみ」の女性アナウンサーの上品なトーンとは、なにか違う喋り方である。ここに一流と二流の差があると感じた。日本語のアナウンスでも、人によって受ける印象が大きく違う。英語でも同じである。例えば北朝鮮の海外向けのニュース番組のアナウンサーの声は、攻撃的で、独特のトーンである。あの調子で対話をさせられたら、辛いだろうと思う。

 それは商品としてのアナウンサーの声に「値段の差」があるからなのだろう。その金額が、「さくら」の方が「のぞみ」より安いはずである。私がそのアナウンスシステムの製作会社の営業担当なら、「のぞみ」のアナウンスと同じ値段では、JR九州に「商品」を提示できない。JR九州がこんなところで金をケチるから、九州新幹線の全体が下品に見えてしまう。出すべき金を出して、日本の印象を良くしてほしい。

 声の質は、人の印象を決定付ける大きな要素である。それ故、声のトーンが相手に大きな影響を与える。

 

人が他人から受け取る情報の比率では、

 話す言葉の内容            7%

 声の質(高低)、大きさ、テンポ   38%

 顔の表情              55% 

   アメリカの心理学者 アルバード・マレービアン博士の説

 

 声も人生で、己を売り込む商品の一つである。己の声が他人に不快感を与えていないか、反省したい。

Photo

2019-06-21   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年5月23日 (木)

「感動」とは動くこと(改定)

 芸術、仕事において、「理動」、「知動」はない。あるのは「感動」だけ。人を感動させる仕事をするには、動かないと感動はさせられない。

 

合理的とは

 いくら合理的に考えて行動しても、それは合理的の範囲でしか判断できない。合理的とは、ごく狭い範囲の中でしか考えられない偏った考えである。「理」では、創造はできない。創造は、感動から生まれる。「理」を破壊してこそ、創造はある。芸術は爆発なのだ。芸術は理を超えた存在である。

 

魂の叫び

 人の不幸や喜びに「不感動」では、音楽や芸術で人を感動させる音楽家・芸術家には大成できまい。電話やメールでいくら言っても、情報は伝わるが、魂の叫びは伝わらない。足を使って、わざわざ動いてくれた。だから感動する。芸術家なら、特に心すべしである。感動は魂の叫びである。感動がない芸術家は、感動の音楽を奏でられまい。

 

映画監督の魂の声

 「マイク、拡声器では情報は伝わるが、魂の叫びは伝わらない。(黒澤明映画監督)」 

 黒沢明監督は、ロケ現場でも拡声器を使わず足で動いて、役者のところまで行き直接、指示をした。大林亘彦監督は、余命3ヶ月を宣告されたステージⅣの癌の身でも、それの教えを忠実に守って映画を作っている。

 

航跡

 船が港から出ていくと、船の後の波の航跡が続く。大きな船であるほど、航跡は長く続く。人が去っても、その想い出がいつまでも心に残る。言葉で美辞麗句を並べても、それはすぐ忘れられてしまう。その人が、「動いて」感動を与えてくれたことは、長く心に残る。動かなければ、相手の心に響かない。

 冷酷無比で残酷な織田信長の心を動かしたのは、サルと呼び捨てされていた木下藤吉郎が信長の草履を懐で温めたからだ。

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 馬場恵峰書 「佐藤一斎著「言志四録」五十一選訓集」

 久志能幾研究所刊

 

あるエピソード

 年初に、懇意にしている音楽家に、病気の件があり、それを前提に飯でも食おうとメールを送った。ところが、それは無視されて、返信はなかった。病気の事情を話して、しばし音楽関係の雑談でもしようと思ったわけである。入院先が、彼の住居の近くだったのも、その理由である。

 私の退院後、彼は知人から私の病気・手術のことを聞いて、慌てて電話をしてきた。私は、とりとめのない話をして、電話を切った。

 なぜ、そんなに私の病気が気になるなら、すぐ「動いて」、自宅に見舞いに来ないのか。電車で、わずか1時間の距離である。私ならそうする。口先では何とで言える。それでは相手に、心配している感動は伝わらない。彼が、芸術家として「感動」する心を養わないと、音楽家として大成出来ないのではないかと危惧している。

  

動くとは感動

 ある友人は、私のために、わざわざ伊勢神宮、豊川稲荷に行って、お守りを貰ってきてくれてた。それをそれぞれ2回、自宅に届けてくれた。彼は体調不良の身でありながら、「動いて」くれて、私は感激した。

 彦根の知人は病院にも、自宅にも、計6回も見舞いに来てくれた。感謝、感激である。

 

2019-05-23   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年5月17日 (金)

「感動」とは動くこと

 芸術、仕事において、「理動」、「知動」はない。あるのは「感動」だけ。人を感動させる仕事をするには、動かないと感動はさせられない。

 

合理的とは

 いくら合理的に考えて行動しても、それは合理的の範囲でしか判断できない。合理的とは、ごく狭い範囲の中でしか考えられない偏った考えである。「理」では、創造はできない。創造は、感動から生まれる。「理」を破壊してこそ、創造はある。芸術は爆発なのだ。芸術は理を超えた存在である。

 

魂の叫び

 人の不幸や喜びに「不感動」では、音楽や芸術で人を感動させる音楽家・芸術家には大成できまい。電話やメールでいくら言っても、情報は伝わるが、魂の叫びは伝わらない。足を使って、わざわざ動いてくれた。だから感動する。芸術家なら、特に心すべしである。感動は魂の叫びである。感動がない芸術家は、感動の音楽を奏でられまい。

 

映画監督の魂の声

 「マイク、拡声器では情報は伝わるが、魂の叫びは伝わらない。(黒澤明映画監督)」 

 黒澤明監督は、ロケ現場でも拡声器を使わず足で動いて、役者のところまで行き直接、指示をした。大林亘彦監督は、余命3ヶ月を宣告されたステージⅣの癌の身でも、それの教えを忠実に守って映画を作っている。

 

あるエピソード

 年初に、懇意にしている音楽家に、病気の件があり、それを前提に飯でも食おうとメールを送った。ところが、それは無視されて、返信はなかった。病気の事情を話して、しばし音楽関係の雑談でもしようと思ったわけである。入院先が、彼の住居の近くだったのも、その理由である。

 私の退院後、彼は知人から私の病気・手術のことを聞いて、慌てて電話をしてきた。私は、とりとめのない話をして、私は電話を切った。

 なぜ、そんなに私の病気が気になるなら、すぐ「動いて」、自宅に見舞いに来ないのか。電車で、わずか1時間の距離である。私ならそうする。口先では何とで言える。それでは相手に、心配している感動は伝わらない。彼が、芸術家として「感動」する心を養わないと、音楽家として大成出来ないのではないかと危惧している。

 

動くとは感動

 ある友人は、私のために、わざわざ伊勢神宮、豊川稲荷に行って、お守りを貰ってきてくれた。それをそれぞれ2回に分けて、自宅に届けてくれた。彼は体調不良の身でありながら、「動いて」くれて、私は感激した。

 彦根の知人は病院にも、自宅にも、計6回も見舞いに来てくれた。感謝、感激である。

 

2019-05-17   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年5月16日 (木)

ごきげんよう 人の道なき ケモノ道

 ある知人から、「ごきげんよう」という「お見舞いもどき」のメールを受け取った。この40年間で、私のPCには多くのメールが襲来するが、年下の者から、こんな「上から視線」のメールが来たのは初めである。この人は小学校の教師からも、クレーマーペアレンツとして恐れられているという。

 

人の道

 この人には、私が愛知県がんセンターに入院する前に、病状を話し、遺産の一部の相続者として遺言状まで作成した人である。彼はお見舞いに来ると言っていた。しかし、彼は義理があるのに来なかった。人の道に外れている。

 私が手術後の3ヶ月目に、この「ごきげんよう」のメールが来た。「順調にご回復されていることを信じております。」とあり、人が術後の絶不調で苦しんでいるさなか、その無神経さにカチンときた。

 「絶不調です。手術後3か月で15キロ痩せて、今だ3日に一度の頻度で嘔吐しています。余命2年と宣告されました」と返信したが、それに対してなんの返信もない。普通の人なら、何らかのお見舞いの言葉を返信するのが、人の道だろう。それを考えると呆れた。この件で交際レベルを見直すことにした。

 この人の文面から性格を分析すると、自己中心的な文面である。勝手に決めつけて、相手のことは、全く考えていない。

 私なら「病気お見舞い」、「ご体調はいかがですか」の題名でメールを出す。それよりメールより手紙、直接のお見舞いである。それが人の道。

 

ごきげんよう

小田様

 ご無沙汰しています。お加減はいかがですか? 最前にお電話した折にはあまり具合がよろしくなかったようなのでご連絡差し上げるのを様子見しておりました。術後の経過はいかがでしょう。まだ病院ですか? それとも自宅療養? 順調にご回復されていることを信じております。お加減よかったら連絡ください。

 

「ごきげんよう」の語源

 思いついて「ごきげんよう」の語源を調べた。これは上流社会のお言葉で、ごく一部の上流社会でしか使われていない用語である。下々の私には、縁のない言葉であった。道理でこの60年間、身近で一度も聞いたことがなかった。

 

 ごきげんよう :日本語の挨拶で、出会った時や別れの際に相手の健康状態を伺う意味合いを込めて交わされる。元は京都の宮中で発生した御所ことばで、女官が両陛下に会う際にまず両陛下のご機嫌伺いから始まることから、「お揃いあそばされましてご機嫌よう」という挨拶が行われた。身分によっては「ご機嫌よう」ではなく「ご機嫌さんよう」と、より遜る必要があった。近代以降は主に山の手言葉として使われるようになったが、これは当時皇族や華族・上流階級の女子が多く学んでいた跡見女学校に淵源を発し、一般に広まっていったものといわれる。1950年代頃には、様々な古い言葉遣いがなくなっていく中で、「ご機嫌よう」はまだ旧公家・華族の間で使用されていた。21世紀現在も、学習院女子中・高等科や学習院女子大学、東洋英和女学院、聖心女子大学などの一部の私立学校では挨拶として日常的に用いられている。

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 

コミュニケーションとは、情報の伝達

 コミュニケーションとは、情報の「伝達」である。コミュニケーションとは、「伝える」だけではない。相手の心に「達して」初めてコミュニケーションが成立する。多くの人は情報を「伝」えるだけで、その心が「達」していない。情報とは情けの報せなのだ。

 同時期にドイツのドレスデントリオのメンバーから、病気見舞いのメールがきた。心温まる文面で泣けてきた。

 「計り知れない河村義子さんを失った後に、小田さんという友を失いたくない」とあった。

 

Dear Mr. Oda-San,

  I heard from M, that you had very bad diagnosis about a lethal illness and you of course were really sad and without great courage. I told Heike and Ulf immediately and we all were deeply touched and upset about these bad news. After Yoshikos immense loss, we don’t want to lose another Japanese friend – if I may be allowed to name you so!

 (中略)She wrote, that now you have a good chance to stay some more years, live and enjoy your life and so we deeply hope to see you next year!

 (中略)From 26th of February till the 5th of March 2020, we are travelling around Nagoya and it would be very nice to have the opportunity to see you again in and after a concert enjoying some food with our dearest friends.

  Best wishes from Heike and Ulf dear Oda-San, we think on you and your health, stay strong and optimistic!!!

For the Dresden Philharmonic String Trio,

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Dsc04341 ドレスデントリオ&河村義子  2018年1月13日

 クインテッサホテル大垣にて

 

2019-05-16   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年3月28日 (木)

小川敏市長の対話「拒否」能力は、赤軍なみ

高島宗一郎市長のスタイル

 高島宗一郎市長は、前職のアナウンサーとして、事件をいかに簡潔に短時間にTV視聴者に分かってもらうかに、心血を注いだ。それが聴衆にどう受け止められたかを考えて喋っている。それは直ぐ視聴率で突きつけられる。視聴率、聴衆の電話反応、メールですぐその結果の反応が出る。それで高島氏は鍛えられて、コミュニケーション能力を鍛えた。それを元に福岡市民との会話を重視して、福岡市を日本一の街にした。

 

小川敏市長のスタイル

 小川敏市長は、政治屋として、いかに曖昧に、言葉尻を捉えられず、どうでも解釈できる言葉を選んで、いかにも内容があるかに見せるため冗長に時間をかけて話すように19年間、勤めてきた。政治屋として小川市長は、聴衆に、己の言ったことを理解してもらうなど、考えていない。一方的に己の考えを話すだけである。自分は市で一番偉い市長なんだ。まさに自己中心的である。大垣市民との会話を拒否して、大垣市を最低の街に貶めた。

 

論理構成無しの挨拶

 私はテクニカルライティングを学ぶことで、いかに情報伝達において、論理構成が大事かを認識した。それがないリーダは、上に立つリーダとして資格はないと思う。小川敏市長の演説は、昔の全学連のアジ演説と同じで、支離滅裂である。知識はあっても、知恵がない内容である。

 小川敏市長の演説を例えれば、「大垣の春の温度は20度です。夏は35度です。冬は5度です。さようなら」という文体のようで、結論がなく、何が言いたいのかが全く分からない。市民を馬鹿にしている。秘書室が演説の原稿を作るが、市長は秘書室を馬鹿にして、その原稿をほどんど見ないという。

 

顔出しなし

 例年、大垣駅前商店街のお祭り(十万石祭り、水都祭り等)で、開催本部が設営される。そこに、毎年、大垣市長は挨拶に顔出しをしていた。ところが2年ほど前から、この顔出しをしなくなった。商店街の幹部との会話など、知ったことではないとの姿勢である。

 

神様を無視、大垣市長の不敬

 2017年10月8日10時より、大垣十万石まつりに先立って、常盤神社にて神事が執り行われた。最初に常盤神社に祀られている戸田公の廟例に祝詞が上げられた。続いて神楽の舞が奉納された。

 この神聖な神事の間、小川大垣市長は居眠りをしていた。神事の最中、小川大垣市長が偶然写りこんだ写真53枚中で、2,3枚を除き、後は全て目を閉じて居眠りしていた。神意が授けた醜態写真である。この事実は、大垣藩の発展に心魂全霊を捧げ、大垣を深く憂う戸田公の霊の神意であると思う。午後の疲れた時ならともかく、朝10時の十万石まつり最初の神事である。その神事は、戸田公への大垣発展の報恩として執り行われる。神様の前で、公衆の面前での居眠りである。多くの素人カメラマンも、神事の様子を熱心に写真に撮っていた。大垣の恥さらしである。

 舞楽でも、神様に扮した舞人が「コラ、大垣市長、目を覚ませ」と怒っている様な舞であった。小川敏市長は市民とも神様とも、会話拒否である。上から戸田公が情けなさそうに眺めておられる(騎馬姿図)。

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2017年10月8日10時、常盤神社にて神事中に居眠りの小川敏市長

右隣の氏子が心配そうに横目で見ている姿が痛々しい。

 

 

条例で市の行事の使用用途は公開禁止

 これも市民との会話の拒否である。大垣市制100周年記念行事の3億4千万円の使用用途も不正の匂いがプンプンである。

 

待っている議員を無視

 大垣市役所の市長室前に、待合の部屋がある。そこで某市会議員が、市長が帰ってくるのを待っていた。そこに小川敏市長が帰ってきたが、待っている議員をまるで無視して通り過ぎて行った。その議員は怒り心頭であったという。やあ、ちょっと待って、とか挨拶するのが人としての常識である。小川敏市長にはそれがない。

 

会合で市民の発言禁止

 1年ほど前、ある部落で小川敏市長との懇談会が開催された。ところが事前に市の幹部が来て、「予定された質問以外は発言禁止」と申し渡された。当日、小川敏市長は30分も遅刻して現われ、謝罪の言葉一つなく、一方的に喋って去って行った。その住民は怒り心頭であったという。

 

商店組合との懇談会

  2000年、小川敏氏の市長初当選直後に、大垣駅前商店街組合が、市長との懇談会を開催したが、それはサクラをいれた懇談会で、真の発言は封鎖された会合であった。それを一回だけ開催して、住民との会話をしたとの名目の実績を謳い、以降、全くやっていない。2016年の4選前に、商店組合が商店街のシャッター通り化が進んでいるので、陳情の懇談会を市長に申し入れたら、小川敏市長は「今はその時期ではない」と拒否した。それ以降、現在まで開催されていない。

 新年互礼会の聴衆無視の挨拶

 今年の新年互礼会の寄り合いで、小川敏市長が来賓の挨拶をした。それも30分ほど遅刻して表れて、3分50秒ほどの挨拶をして、終わったら、次の会場があるとかで、一目散に逃げるように退席していった。その内容は無意味な形式的で時間の無駄であった。内容が支離滅裂で、何が言いたいのか理解不能であった。それも最後の1分ほどは、呂律が回らず聞き取り不能であった。あちこちの会場の掛け持ち祝辞のハシゴが原因だ。要は出しゃばりたいだけだ。

 以下、小川敏市長の挨拶文。見事なほど、論理構成がない。

 「新年互礼会の開催、おめでとうございます。今日は雨で、明日は大寒です。昨年は災害の多い年でありました。

 百周年記念行事も75を超えました。

 新市庁舎の建て替えが計画通りに進んでいます。一見遅いようですが、基礎工事が大切なのです。

 私は、お天気を晴れにするのが仕事だと思っています。(何を言いたい?)今のところ順調のようです。

 今年も順調に新しいスタートを切ろうとしています。新市庁舎はITを活用した市庁舎づくりに取り組んでいます。ITは日進月歩で、早すぎると陳腐化してしまう。

 (以降一分間ほど、市長の呂律が回らず、眼もうつろで、ほとんど聞き取り不能であった。)

 今後の皆さまの発展を祈念して挨拶としたします。これでお祝いの言葉とします」(以上で3分40秒)

Photo

目も虚ろで、呂律もまわらない挨拶をする小川敏市長

 

2019-03-28 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。