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2023年5月 5日 (金)

私の墓じまい

 

 私が2015年にお墓を改建したとき、2家の墓じまいを行った。それも計5基のお墓の墓じまいである。私の墓じまいは、前向きの理由で行った。ご先祖のお墓の統合、改建であった。5基のお墓を3基に統合して改建した。当初は6基の墓じまいの予定であったが、親戚との確執でそれは叶わなかった。それはお墓の耐震対策、耐寒対策、保守の省人化を兼ねての改建である。お墓の改築は、家の改築と同じである。

 

世情

 2018年度の日本全国の墓じまい件数は115,000件である。10年前に比べて5割も増えたという。墓じまいの理由として「後継者がいないから」が5割を占める。なにか情けない思いである。墓を守る後継者がいないくても、墓を守る手断はある。私の場合は前向きの墓じまいで、ご先祖様に自慢できる。

 

お墓のお守り、拓本取り

 今までは私が墓参りに行くと、6基のお墓の手入れとお花をお供えせねばならなかった。それで結構なお金と時間がかかる。またお墓も60年も経つと、石が風化して痛んでくる。ましてや100年も経つと墓石に刻んだ文字も風化して読めなくなってくる。

 そのお墓は祖母の家系で、叔母の代で家が絶えたので私がそのお墓のお守りを引き受けた。私がその墓のお守りを受け継ぐ義務はなかったが、ご縁を感じて引き受けた。叔母は京都の尼寺の住職であった。100年も経った墓石の文字を確認するため、お墓の拓本を取った。拓本取りには大垣市拓本同好会の皆さんの協力を頂いた。感謝です。

 それでご先祖の姿が浮かび上がった。それが「黄鶴北尾道仙の墓」の名前であった。それと過去帳から推察すると、ご先祖は謡の師匠であったようだ。また大垣生まれで、彦根で1734年没と墓石に刻まれていた。当時の封建社会で、一介の町人が大垣から彦根に移動とは不思議な経緯である。その経緯までは不明である。

 

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右から2つ目のお墓の文字が風化して読めなくなっていた

かすかに「北尾道仙」の文字だけが読める

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    お墓の拓本を取る      大垣市拓本同好会さんの協力   2015‎年‎6‎月‎1‎日

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    お墓の拓本を取る   「黄鶴北尾道仙の墓」が確認できた


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 墓じまい法要      2015年11月7日

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 墓じまい跡の更地

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お墓の環境

 特に冬に雪が積もる彦根のような寒冷地では墓石は傷みが激しい。それは墓石が雪の水を吸い、夜に墓石の中の水分が凍結して膨張し、昼間にその凍結が溶ける。その繰り返しで石がぼろぼろになる。それで自家の墓石が目立って痛んできた。墓じまいと改建は、その対策の改築が主要な目的であった。

 お墓だって生老病死である。ぼろぼろになったお墓をそのままにしておくのは、ご先祖に対して罰当たりである。ご先祖をボロ屋敷にすまわせるようなものだ。使用期間の終わったお墓は、懇ろに弔ってあげるのが筋である。それが正しい墓じまいである。

 

墓じまいの作法

 墓じまいの時は、住職様に墓じまいの法要をしてもらってから、お墓の撤去工事である。その墓石は、大阪の特別の処理場で粉砕されるとのこと。墓じまいをした墓石は不用意には廃棄できないようだ。

 墓じまいした時に出てきたお骨を回収するのは、血のつながった親族である。手術用の薄いビニール製の手袋をはめて手で拾って回収する。それは業者に任せるわけにはいかない。お墓から回収したお骨や土を般若心経の印刷された袋に入れて、保管し、それを後日、新しいお墓に収める。私が回収した4基のお墓は、以前にお墓の改建されたお墓であったので、お骨はなかった。供養として、その墓の土だけを回収した。もう一基は、外地で亡くなられた英霊のお墓であったので、お骨は入っていなかった。しかしそのお墓を建てた妻のお骨は残っており、それを回収した。本来、私がそのお骨を回収する義務はなかったが、因縁で私がお骨を拾う羽目になった。ある意味、良いことをしたと言える。その因縁で、本来骨を拾うべき人は、後年不幸な死にかたをした。またこのコロナ禍で葬式もだせなかった。ご先祖を大切にしない人は、自分も大切にしないようだ。まず自分が生まれたご縁を理解していない。だから不幸な死にかたをすると感じた。仏様のお裁きを感じた。

 お墓を改建して、ご先祖を大切に、自分自身も大切にしていこうと決意を新たにした。

 

お墓の機能

 お墓の役目はお骨を土に還すこと。お墓に安置したお骨は、約80年間で土に還る。人は土から生まれて土に還る。それが大自然の循環である。人間は大自然の中では小さな存在だ。墓じまいを2度も経験して、大自然の営みを感じた。お墓だって生老病死である。

 

 あるお墓では古い墓石がそのまま重ねて並べられおり、誰の墓かもわからないほどだ。それでは逆にご先祖様に失礼だと思う。まるでゴミ屋敷がそのまま放置されているように見える。だからきちんとお墓の後始末をして差し上げるべきだと思う。現代の住宅地で、100年前の家が修理もされずそのまま放置されていると同じだ。お墓とはご先祖の来世の家なのだ。いつかは自分も住む家である。

 

 

2023-05-05  久志能幾研究所通信 2680号  小田泰仙

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2022年11月10日 (木)

佛様のはからい

 

 2015年3月3日(火)、両親の13回忌、23回忌の法事を決めたのは、私の仕事の都合と、参列してくれる親戚の3家の都合であった。また火曜日は大垣市立図書館が休館日であるのが、一番の決定要因であった。

 

 当日、法事の前に、明慶先生に作っていただいた釈迦如来座像の開眼法要を菩提寺の住職様にして頂き、仏壇に納めた。

 その釈迦如来座像の台座が華板付であった。これは想定外で、嬉しくなった。なんでも「小田さんだから特別仕様」だとか。当然、価格も相応である。また材質が白檀であるので、価格が跳ね上がる。この釈迦如来座像は毎日、手を合わせるご本尊様だ。これでご先祖様も喜んでいただけると思う。

 

3月3日とは

 その約1ヶ月後、お墓の件で松居石材商店と打ち合わせをしていたとき、松居店主から、その日は井伊直弼公の桜田門の変での法要の日だと言われて、驚いた。私はそれに気がつかず、偶然に法事の日を設定したことになる。彦根では3月3日は特別の日として多くの人が知っていて、各お寺では法要が執り行われているとか。大垣住まいの私は、そのことは全く知るところではなかった。

 その後の、この書に記載した不思議なご縁の連続に、佛様のはからいを感じるばかりである。昨年に納佛された虚空蔵菩薩坐像と今回の御本蔵様のお陰と毎日手を合わせている。

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   松本明慶先生作 釈迦如来座像  白檀  

 

2022-11-10  久志能幾研究所通信 2537  小田泰仙

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2022年11月 9日 (水)

お墓の完成予想図

 

 新しいお墓の建立は、当初、現北尾家の場所に4つある北尾家のお墓を2つに合祀して、旧小田家の墓を移転・改建する予定であったが、想定外の事態が頻発して、僅か2ヶ月間で大幅な計画変更になり、新規の場所に新しいお墓を建立する顛末になった。場所も入り口に近い一等地を提供して頂けるご縁が発生した。お寺様も墓地に入って直ぐに目に入る場所のお墓となるので、見栄えのする良い環境になるとお喜びである。これもご縁の賜物で、佛様のはからいに感謝です。

 

 当初は北尾家の先祖供養塔の改建とする予定であったが、家系図を作って眺めると小田家にも不幸が多いことが分かり、両家の供養塔とすることに変更した。

 

 墓誌も新設して、その裏面にこのお墓の経緯を記載する。散雪という表現で、井伊直弼公の死と江戸時代の終焉の兆しを表現した。「仙」には観音様の意味も有り、「音を観た」との表現とした。

 

 私の雅号「泰仙」は平成24年(2012年)に馬場恵峰先生に付けて頂いたが、当時、道仙とは全く縁のない状況でつけていただき、その巡りあわせの不思議さを感じている。

 お墓の完成は2015年10月の予定。

    (以上は2015年8月時点の推定で、後日別の事実が判明する)

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2022-11-09  久志能幾研究所通信 2536  小田泰仙

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2022年11月 8日 (火)

お墓内部の梵字 ご先祖様の寝室を飾る

 

 墓の文字は馬場恵峰先生に書いて頂くことにし、ご快諾を頂いた(2015年)。並みの書家は、頼まれても墓の字を絶対に書かない。それは己の字のまずさが長く後世に残るから嫌がるのだ。

 馬場恵峰先生のご先祖は、武田家の武田四天王といわれた馬場信春公である。武田三代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、「長篠の戦い」(1575年6月29日)までかすり傷一つ負わなかったという。このため「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」と評されている。井伊家の赤備えは、もともと武田信玄軍団の赤の装備に由来する。徳川家康が、徳川四天王と称された井伊直政の武功を称えて、赤備えを許したというご縁である。

 

梵字

 お墓や卒塔婆には、仏教の五大要素である「地水火風空」にあたる梵字が彫られている。その梵字は、仏教で大切な五大要素や宗派のご本尊を意味している。梵字は、一つ一つに象徴する如来や菩薩などを象徴している。

 墓石に梵字が使われている場合、その宗派のご本尊への敬意や、「守ってほしい」という願いが込められている。例えば、真言宗では大日如来を表す「ア」と言う梵字が用いられる。

 本来、お墓の納骨室内部に般若心経を彫ろうと思ったが、納骨室の狭い内部側面には物理的に難しい。そこでその五面には梵字を彫ることにした。ご先祖様に安らかに眠っていただく環境を作るためである。

 何時かは自分も入る寝室である。この発想は、2015年3月12日に馬場恵峰先生宅で、三重塔と五重塔の写真撮影をした時のことが頭にあり、今回の発想となった。その時は今回のお墓建立の話は全くない状態である。これも恵峰先生とのご縁の賜物である。

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 三重塔  馬場恵峰先生書

 三重塔製作は新立広美氏  恵峰先生宅で  2015年3月12日撮影

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 恵峰先生と管主寛旭和尚 

 寛旭和尚は将来の中国仏教界のトップに立つ方

   2014年6月26日      福田琢磨氏撮影

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2022-11-08  久志能幾研究所通信 2535  小田泰仙

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2022年11月 4日 (金)

墓誌と院号、佛の世界の裏道

 

 昔は一人一墓であったが、お墓の土地供給の問題もあり、一家で一つのお墓となってきた世である。いわば一戸建てから集合住宅になったようなものと解釈している。それで問題になるのは、誰がそのお墓に入っているかである。前のお墓はそれが曖昧であったので、今回、新しいお墓を建立するので、墓誌も併設することになった。

 

墓誌

 墓誌で色んな書き方があり、戒名、命日、俗名、享年に更に叙勲の有無まで書くような例も見受けられる。当初、父の弟で五男の方が勲八等を叙勲されており、それを記入する方向で話が進んでいた。

 しかし、死ねば沸の前では全て平等であり、俗世間の位など何の意味もないのではないかと思い直して、記入は取り止めとした。

 また命日もそれを見て喜ぶ人がいるかどうかであり、両親の命日は子供が一番知っている事項である。あえて墓誌に書く必要もなく、個人情報の類であるので、止めることにした。

 

墓誌での命日

 弥勒菩薩は現在仏であるゴータマ・ブッダ(釈迦牟尼仏)の次にブッダとなると約束された菩薩(修行者)である。弥勒菩薩はゴータマの入滅後56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされる。弥勒菩薩が来訪するという56億7千万年の尺度からいえば、40年や80年の享年に差があるわけもなく、誤差範囲である。この世に生を受け、しかるべきこの世のお勤めをして旅立った人に、寿命の多少で偉さに差がないと思い、命日を記すのを止めた。結局、戒名と俗名だけを記した墓誌とすることになり、簡潔な美しい墓誌となる。

 石田家の墓誌は、石田退三氏の戒名だけで、俗名さえ記されていない。石田退三氏は旧勲一等瑞宝章(瑞宝大綬章)を授与されている。ご遺族が故人の意思を継いで、戒名だけの墓誌を作られた。倒産寸前のトヨタを立て直した大番頭に相応しい墓誌である。

 

院号

 現在、父の五男に当たる小田五郎氏に戒名に院号が付いていないので、今回の墓誌を新設するにあたり、英霊への後供養として院号を付けて頂いた。夫を亡くし二人の子供が戦死をした当時、祖母は院号を付ける経済的余裕がなかったと思わる。当初、祖父小田成健の戒名にも院号がなく、叔父が祖母の亡くなった時に、祖母と一緒に院号を付けてもらった。

 

 戒名とは引導をされる僧侶が弟子にするために授ける名前である。院号とは贈り名とも言われ人の死後にその徳を称えて贈る称号である。業績のある方のためにお寺を建てると同じように、亡くなられた方の心の中にお寺を建て、来世の名前を戒名として授け、佛として修行をしてくださいと供養する意味である。

 

 院号はお金を出せば付けてもらえるものでもなく、相応の功徳ことがないと付けてもらえない。お寺によっては、いくらお金を積んでも付けてもらえない場合がある。

 

英霊の院号

 父の弟の小田五郎氏はビルマで昭和19年に戦死された英霊であり、「戰勲至誠居士」と立派な戒名が付けられている。至誠とは吉田松陰が好んで説いた『孟子』離婁上の言葉である。今回、お寺さんのご意向で、「護國院戰勲至誠居士」との立派な院号を付けていただくご縁を頂いた。

 院号についても今ままではあやふやな知識で、今回初めて詳細な知識を得ることが出来た。人生知らないことばかりである。

 

院号の裏道

 格式あるお寺では、その人に徳がないと、カネを積んでも院号は付けてもらないようだ。しかしあるお寺のお墓を拝見した時、殆どの墓に院号が付けられいたのを見て驚いた。要はそのお寺ではカネさえ出せば院号がもらえるお寺であるようだ。

 格式あるお寺でも、院号を付けられた人に人徳があったとは思えないのに、院号が付けられている例は多くある。私の推察では、故人の徳ではなく、その故人の葬儀を司った人の徳が高い場合に、院号が付けられるようだ。まあそういう後継者を育てた個人の徳と言ってもよいようだ。徳が高いとは、お寺に貢献した人(寄進を多くした人?)であるようだ。信仰深くなく、お寺にお参りにもあまり来ない人は、親の死後に院号を頼んでも院号は授けてもらえないようだ。お寺さんも良く見ている。お寺さんは仏様の代理人なのだ。

 

生前に戒名授与

 懸念があるなら、自分でお寺さんに御願いして生前戒名を授かることだ。私はがんを患い、退院して落ち着いた後、住職から戒名を授けてもらった。そして墓誌にも戒名を彫った。その彫った字に朱をいれた。まだ私が生きているからだ。

 戒名は生前に授かるのが、正式の手順である。亡くなってから葬儀の際に戒名を授かるのは、緊急応急処置である。その場合は、住職さんが家族からその人のことを聞き込んで、名前を付ける。だから生前に本人が住職と打ち合わせをして、最適の名前(戒名)を付けてもらうのが理想である。それで安心して死ねる(?)。

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 馬場恵峰書

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2022-11-04  久志能幾研究所通信 2532 小田泰仙

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2022年11月 2日 (水)

お墓に蓮華の模様  泥沼の蓮華の教え

 

 お墓つくりで最後まで悩んだ案件が、蓮華の模様の有無である。「簡素に華美に走らず」の基本方針で、お墓つくりを進めたが、蓮華の模様をつけるかどうかで最後まで悩んでしまった。最初は蓮華の模様無しで進めたが、親戚の助言や蓮華の意味を考えて、伏せ蓮華の模様を付ける事に変更した。受け蓮華だと結構目立つのだが、伏せ蓮華ならそんなにも華美とは見えないことを確認して決断した。ご先祖供養としての気持ちとして伏せ蓮華の模様も許されると判断した。

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 泥中之蓮 六根清浄

 蓮華とは蓮の花のことで、蓮は仏教の世界で最高の花である。蓮の花は泥の沼の中に美しく咲く。それに対してワサビは清純な山の中の清流の中に咲く。人間社会の中で正義を貫きすぎると自身はワサビの存在となってしまう。正義とは狭義な存在である。神仏の身でない人間は、清濁併せ呑む大きな度量が必要である。清らかな環境で育って清純な心を持っても、人としてワサビの存在になっては佛になれまい。それを仏教は蓮華の花で教えている。

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六根清浄

 六根清浄とは、人間に具わった六根を清らかにする修行である。六根とは、五感(眼根(視覚)、耳根(聴覚)、鼻根(嗅覚)、舌根(味覚)、身根(触覚)、意根(意識))と、それに加え第六感とも言える意識の根幹である。

 六根は人間の認識の根幹である。それが我欲などの執着にまみれていては、正しい道(八正道)を往けない。そのため執着を断ち、心を清らかな状態にする修行が六根清浄である。そのため不浄なものを見ない、聞かない、嗅がない、味わわない、触れない、感じないために俗世との接触を絶つ修行が行なわれた(山ごもりなど)。

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 馬場恵峰書『百m巻物』  日中文化資料館蔵 

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自然に学ぶ

 四季の自然のつるといの中様々に学び気付く事多し、ふと見ればはきだめに南瓜の芽がいくつも出て、せい髙あわだち草が菜の花畑のおうに泥沼から蓮の花咲き可憐さ華麗言葉を失う。それらの自然存在に気付く時、自然はこの事以外においても野采果実等々物を造り育てる名人でその物を最大限に活かすのが人間である。

 人間皆それぞれすばらしい種子であり、明日、否、今どんな何とした花が咲くのか貴重な宝を人間持っている。何事も縁を活かし勇気出して新しい自分の道を進もう。

 「そのうちって‥‥」「いや今のうち、今でしょう」そのうちのいいわけはいいわけに結ばらぬ。 人生チャンス二度なしの受けとめ、今そこからです。耳で見て、目で聴く心眼を開いて行きましょう。 智学び仁もって人の道守り勇気出して大切なあなたの人生、私の生涯明日を念じ今大切にと。

        文:馬場恵峰

 

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 馬場恵峰書『百m巻物』  日中文化資料館蔵 

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 人は泥沼の人間社会の中で、いかに美しい人生の華を咲かせるかが問われる。人は汚れた世界で生きていく。しかし汚れたままではいけない。自分を美しくする環境や人との出会いを求めなさい、が仏教の教えである。

     

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 蓮の花  Wikipedia 「ハス」より引用 
                                                                                                       

 蓮(LOTUS)は、古代エジプト、インド、ギリシア、ローマの神殿にもさりげなく彫刻されている。西洋でも高貴な花として認められている。ギリシア神話では、その実を食べると現世の苦悩を忘れるとされた。ギリシア神話の世界では、神の世界にも現世のギリシアとされ、生々しい神の恋愛話や武勇伝が神話を彩っている。

 私も2010年、2011年とローマやシシリア島に20日間の旅行をしたが、当時はそんな意識が無いので、目に入らなかったが、写真で神殿等を見ると確かにLOTUSの模様がある建築物が多くある。

 その後、2017年に戸田極子公爵夫人の足跡をたどるためウィーンへの旅した。そこの楽友協会の「黄金の間」でそのロータスの飾りを発見した。

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2022-11-02  久志能幾研究所通信 2531  小田泰仙

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お墓の改建

 

 今回(2015年)のご縁で、ご先祖の北尾道仙の墓、ご先祖の供養塔、小田家の墓を改建することにした。お墓を改建する過程で、様々なことが起き彦根市、岐阜市、京丹後市、養老町、京都市、長崎県大村市、大津市、金沢市に何回も足を運ぶことになった。お墓作りがこんなにも大変とは想像外であった。親戚からも横槍が入り、その対応で頭を痛めた。親戚とは物別れのようになったが、後からとやかく言われないような段取りを整えた。お墓造りは家系図作成との相乗効果で良い経験となった。一生の間でお墓作りに出会うのは、1回あれば上等である。私には52年前(2015年当時)に父と父の兄が今の墓を建立して以来である。それも3基同時のお墓造りである。そのご縁に巡りあっただけでも幸せと思う。

 

基本方針

 お墓の建立で意識したのは、仰々しいお墓でなく、小さくても品のあるお墓になるように松居石材商店(創業文政12年)の6代目当主にお願いをした。

 

石の材質

 現在のお墓の石材が柔らかい石(安価な石)を使っていた。墓石が50余年の風化で傷みが目立つようになったので、今回は一番硬い石を選定することにした。インド産の御影石を選定した。国産品はブランド力があり高価であるが、硬さではインド産に及ばない。

 

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     琵琶湖畔近くにあるお墓

  琵琶湖からの風雪により激しく劣化している。雪の降る寒冷地では、柔らかい石は雪と雨で水を吸い、夜の零下の気温で水分が凍結して膨張し、昼に気温が上がりそれが融解して収縮する。その繰返しで石の劣化が進む。

  1935年建立(2014年6月8日撮影) 建立後80年でボロボロになっている。

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 水を吸った状態の墓石 。下側が水を吸った状態。

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 阪神淡路大震災での住吉墓地のお墓の倒壊写真を日本石材工業新聞の紙面で見て、その耐震性を考慮して、お墓の構成要素の竿、本体、足を一体構成とした。お墓の外見から一体構成とは素人が見ても分からない。

 予算的に3つのお墓全てにはとても対応できないと最初は諦めたが、後から後悔するよりはと思い直し、全て一体構成とした。それで当初の予算より6倍ほどに高騰して、ベンツ車が買えるほどの費用となったが、不思議と後悔はない。

 普通のお墓の耐震構成は、阪神淡路大震災後から採用されてきたが、それでも未だ半数位しか適用されていないようだ。一般的な耐震構成は、竿石と本体の2つの石がステンレスの心金でズレないように固定されている。この松居石材店のように3つの石に全て心金を入れているような例は少ないそうだ。

 一体構成に変更することに思い直したのは、石田退三氏(トヨタ中興の祖、トヨタの大番頭)の師である児玉一造氏の言葉を思い出したからである。

 

「何でも悪いことに使う金でなければ、後からそいつは何とでもなる。金のことでトヤカク考えていて、やらねばならぬことの時期を失するなぞ、おおよそ馬鹿げている」(石田退三著『トヨタ語録』)

 

  

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 阪神淡路大震災後の住吉墓地(日本石材工業新聞)

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  経年変化で隙間の出来た芝台

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 石芝台は一般的な砂利を敷くと、その隙間から草が生えてくると無様で除草の手間も大変なので、一体構成の石芝台とした。要はメンテナンスフリーである。また一体構成の石芝台なら経年変化で枠石がずれるようなこともなく、耐震構成ともなる。一体構成の御影式の石芝台の大きさでは、個人建立のお墓では滋賀県内で一番の大きさとか。たまたま今回3基のお墓を改建することで出合ったご縁である。

 

納骨室の通気口

 納骨室内が密閉では中が蒸れる。骨が土に帰るのに環境のよい状態で、枯れる様に土に返してあげたい。その室に風通しが無いのでは居心地がわるかろうと、通気穴を設けることにした。お墓とはお骨を土に帰す装置である。その点で納骨室に通気があるのが理にあっている。これは松居石材商店のご先祖のお墓を見せてもらったご縁の賜物である(2015年6月21日)。

 通気穴からご精魂がお墓間で自由に行き来できるのも、ご先祖様への慮りである。

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   側面に通気穴のある松居家菩提

  本稿の初稿 2015年12月9日

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 2022年の今、この2015年のお墓造りを回想して、その時決断してよかったとつくづくと思う。今、このお墓を造ろうにも、私の体力、資金力、ご縁もなく、作れないだろう。ましてやこのコロナ禍のおり、先祖の調査のために走り回れない。このお墓の字や墓誌を揮毫して頂いた馬場恵峰先生も亡くなられてしまった。児玉一造氏の言葉に感謝である。

 お墓を建立して4年後、私はガンになり生死をさ迷ったが、なんとか生き延びられたようだ。ご先祖さまが助けてくれたと感謝している。(2022年11月2日追記)

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2022-11-01  久志能幾研究所通信 2530  小田泰仙

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2022年10月30日 (日)

死天王の教え 叔母の墓を守り、明徳を遺す

叔母の死

 親や近親者の死は、人生の儚さと人生の後始末についての最期の教えである。京都の格地の尼寺で住職をされていた叔母が2008年に亡くなった。私がそれを知ったのは2015年である。人間国宝であった日本舞踊四世家元 四代目井上八千代の葬儀(2004年3月)では、この安寿様が導師を勤められた。舞妓さんたちがお参りする尼寺である。叔母は、祖母の出の北尾家の最後の人であり、叔母が逝去された事でご先祖のお墓をどうするかの問題が表面化した。北尾家は井伊直弼公にご縁のある人であった。

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 東景寺 京都八坂神社の南側

 

見えざる手

 私は何かに背中を押される気がして、その墓のお守りを受け継ぐことを決意した。叔母の墓を受け継いでも、出費ばかりかさみ、何も得のない。受け継ぎをしなくても、私にはなんら道義的責任はない。私が受け継がなければ、お墓は撤去され、お骨は無縁塚に埋葬される。本来なら、父の兄の家族が受け継ぐのが正統である。しかし敢えて私が引き受けたが、それに後悔はなかった。

 菩提寺の檀家の中には、墓を受け継いで30年間、一度も墓参りに来ない家もあるとか。そういうお墓が菩提寺の墓地には50基ほどあり、お寺さんも困っていた。私はそんな不義理人にはなりたくなかった。

 

北尾家

 北尾家は私の父の母方の祖先で、北尾道仙は1860年3月3日の「桜田門外の変」の時、井伊直弼大老の行列の一人として歴史に関与したと推察されていた(本件は後日に真実が明らかになる)。この北尾道仙の墓を、粟野自孝様が守ってみえた。その御先代の粟野自照様(2003年1月90歳でご逝去)は、永平寺73世管長熊沢禅師(祖学泰禅禅師)に師事された。自孝様は私の父の従姉妹にあたる人である。自孝様は愛知専門尼僧堂の青山俊董堂長に師事された。2003年、私は青山堂長の講話集のCD「天地いっぱいに生かされて」等を数多く聴いていた縁があり、そのつながりに驚いた。

 私は自孝様より青山俊董堂長のサイン入り著書を数多く頂戴して、愛読書の一つとなっていた。

 北尾道仙の件は、自孝様も父の兄も調査をしたが、真実にはたどり着けなかった。

 

Photo_2 北尾家の墓 右から2つ目が北尾道仙のお墓

 叔母がこのように立派に整備し直した。

  2015年に私が小田家のお墓を改建して、既存のお墓の統合整理したため、現在(2022年)は更地になっている。

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叔母の死

 2015年3月に母と父の23回忌、13回忌を執り行った折、叔母が平成20年(2008年)に逝去していることが判明した。慌てて京都に走って確認したところ昨年(2014年)に7回忌が終っていた。叔母は財産やお墓のことも何も言わずそのまま、永平寺に東景寺大和尚として納骨されていた。戒名は「東景七世 大透自孝尼大和尚」という立派な戒名である。

 

 叔母はいつも何も言わない方であったが、意図があって親戚に連絡をしなかったのかもしれない。自分の代で家が途絶えることで、お墓の件で、菩提寺の住職にしかるべき対応をお願いしていたようだ。

 しかしその住職も昨年(2014年)、アル中・認知症で施設に入院してしまった。それで安寿様がどういうお願いをされたか不明である。安寿様もこれには想定外であったろう。その住職は私と同じ歳である。人ごとではないが、前住職の認知症はなるべくして発病した業である。天網怪怪疎にして漏らさず。それも20年のタイマー付きである。

 

回向のお経をあげる

 2015年4月27日、私は大本山の永平寺に出かけて、回向のお経を上げていただいた。親族控え室で小一時間ほど待ち、本堂に入った。その日は3家の納経の儀があり、8名の僧侶により読経を上げていただき焼香と拝礼をした。

 叔母は曹洞宗のお寺の住職であったので、永平寺の住職専用のお墓に納骨されていた。

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 永平寺  2015年4月27日

旅立ち

 自分も何時かは旅立たねばならない。その時、後の人に自分の意思が正確に伝えられるかは分からない。死人に口なしで意思が捏造されることもある。明日、不慮の事故や脳梗塞、心筋梗塞で倒れるかもしれない。この3つの死因の比率は約30%である。死後の準備の間もないまま、来世に旅立つ人が数多いのが現実である。今回の事象でそれの現実を教えてもらった。

 これらの事件が家系図の作成、遺言状の作成をする決断のご縁となった。

 つい最近も、ご近所(5軒先の家)で、孤独死され、死後10日ほど後に腐敗した状態で発見された事件が起きた。まだ60歳前の独居者であった。突然死はひと事ではないのだ(2022年10月30日追記)。

 

啓示からの決意

 今回の件はご先祖からの啓示である思った。私が叔母の先祖代々のお墓をお守りし、この機会に50年余を経過した小田家の墓を再建し、祖母方の先祖代々のお墓を統合・合祀する決断をした。同時に彦根藩に関係した北尾道仙の墓を再建する。

 50年余を経過すると、墓石の品質が明かになる。質の良い石は50年くらいでは劣化しないが、品質の悪い石は10年程でも劣化が目立つようになる。墓石のほころびが、魂を込めた仕事の大切さを教えてくれた。松居石材商店(文政12(1828)年創業)の松居保行店主が、本件で墓参りに行った時、たまたま仕事で墓地に来ていて、現物の墓石でその石の質の差を説明してくれた。

 

師天王の教え

 今の自分の仕事の品質(徳)が10年、100年、1,000年後に明らかにされる。それが明徳の現れである。今の仕事にどれだけの徳を込めるかである。松本明慶先生が高野山中門の四天王を納佛された。松本明慶先生が今後の1,000年間の高野山中門の守り佛に思いを込めて造立した志が伝わってきた。この明徳の教えこそが師天王の教えである。

 自分は明徳として、死んだ後、何を後世に残すのか、それが問われる。凡才の私は日々、その問いに苦闘している。

 

039a0677s松本明慶大仏師作 増長天 高野山中門 2015‎年‎4‎月‎25‎日撮影

039a0679s 松本明慶大仏師作 広目天 高野山中門  2015‎年‎4‎月‎25‎日撮影


2022-10-30  久志能幾研究所通信 2528  小田泰仙

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2022年10月29日 (土)

「いのち」とは「胃脳血」、霊止、自衛力

 

胃  食材

脳  考え

血  全身を巡る

 

霊止

 先祖、親、師、友のご恩があって今の自分がある。夢ゆめ「自分が」ではないと思うべし。自分の人生を謳歌するのが人間の生き方ではない。人として後に続く子孫のために生きるのが人の道。「ひと」とは「霊」が「止」まると書く。縁あって人間に生まれたのだ。豚に生まれなかった幸せを考えよう。

 

 自分がいま何故、この世に存在するか。ご先祖の中には、水子や夭逝した人たちが沢山いる。その人たちは、悪縁、悪病、を他の子孫のために一身に背負い亡くなってくれた。そのお陰で今の自分がいる。

 先の戦争で戦死された方や、特攻で命を国に捧げた英霊がいるから、今の日本がある。国のために命を投げ出す勇気を持っている自衛官がいるから、中国やロシアは攻めるのに躊躇している。だから今でも英霊は国を守っている。

 

命の自己防衛力

 人の体は、ガンを一箇所に悪腫を集めることで、全身に病巣が散るのを防いでいる。これは生物が持つ最高の防御システムである。その癌の病巣を取り除けば、癌は他に転移せざるを得ない。癌になった真因を取り除かないから、また癌になりやすい。元を断たなきゃダメなのよ。

 体の免疫細胞は、体に入ってきた細菌と戦って熱を出し、死んで膿として体外に出ていく。自分のために戦って死んでくれた免疫細胞に感謝をしよう。それを対処療法の解熱剤で発熱を止めるから、免疫力が弱くなる。ワクチンも良いが、それよりもまず、自分の免疫力を上げる取り組みをすべきである。

 KK息子もKM子も甘やかして育てられたから、精神的に成熟せず、我儘だけが強くなり、KK問題が起きた。ノブレスオブリージュを忘れて、国民を敵視する行動に走り、国体を危機に陥れたのだ。これをC国に付け込まれたら、国体という命が危い。国民の皇室への敬愛が無くなれば、国体を束ねる絆が崩壊して、日本国という命が死ぬ。皇室は、日本国民を束ね、一丸とする絆なのだ。それこそが日本の自衛力である。

 三田圭子は次男を甘やかして、毎月50万円もの小遣いを与えれば、良い子に育つと考えて、人間形成の教育を放棄した。その結果が、次男の麻薬所持容疑で5度目の逮捕となるのだ(2020年10月21日)。三田佳子は次男が逮捕された時、「息子には毎月50万円もお遣いを与えているから、不良などになるわけがない」と警察に怒鳴り込んだ。その子にしてその親ありである。

 彼女の良妻賢母の姿は、女優の演技だけの虚像の世界である。彼は正常な人格が育っていないので、自分で自分を制御できなくなっていた。自省力こそ、社会で生きていくための力である。社会のルールを守る。それが社会で生きていくための最低の自己防衛力である。自省力がないと命が危ないのだ。彼の社会的生命は終わったようだ。

 トヨタ経営の鉄則は、「自分の城は自分で守れ」である。私の前職の会社が左前寸前になった時、幹部が親会社に資金援助で泣きついた。そうしたら親会社からこの「自分の城は自分で守れ」の言葉だけをありがたく援助された(笑)。まあ厳しい言葉で、会社は持ち直したが........。

 コロナ対策でワクチンだけに頼るから、感染拡散がとまらない。それに付け込んで、コロナ対策で不正な金儲けをする輩が跋扈するのだ。必要なのは各人の自己免疫力の強化である。正しい経済政策である。それを間違えているから、経済が瀕死の状態である。岸田首相は、まさに決断なき検討死である。

 国の防衛を米国だけに頼ろうとするから、自立が出来ない。サヨクに付け込まれる。サヨクという獅子身中の虫こそが、がんである。サヨクは隣国の赤い手先である。日本の自衛力が弱まれば、隣国が大喜びである。尖閣諸島と沖縄への攻撃への邪魔がなくなるからだ。サヨクは売国奴である。

 

我とは何か、自分とは何か

 「我」とは稲(禾)を刃先がぎざぎざしたほこ(戈)で刈って、自分のものにしている様を表わす。「私」とは稲(禾)を腕(ム)で自分のものとして抱える姿を表している。「自分」とは、生かされている全体の中で、「自ら」の「分」である。己は世の中の一部として考える姿である。その反対が「利己」である。己のことだけしか考えないから、囚われの闇の世界に落ちていく。自分の一族の中での位置づけを考えよう。

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 「修身」の講義資料

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 馬場恵峰書

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2022-10-29  久志能幾研究所通信 2527  小田泰仙

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2021年7月21日 (水)

墓の納骨室は、人が土に還るための宇宙船

 

 今回(2015年)改建したお墓の文字は、馬場恵峰先生に書いて頂いた。先生には、ご快諾して頂いた。普通の書家は、お墓や石碑等への揮毫は、永遠に残るので嫌がり、まず書いてくれない。恵峰先生に揮毫していただいたことは、ありがたいことです。

 馬場恵峰先生のご先祖は、武田家の武田四天王といわれた馬場信春公である。武田三代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという。このため「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」と評されている。井伊家の赤備えは、もともと武田信玄軍団の赤の装備に由来する。徳川家康が、徳川四天王と称された井伊直政の武功を称えて、赤備えを許したというご縁である。

 

納骨室内部に梵字を彫る

 お墓の納骨室内の五面に梵字を彫ることにした。ご先祖様に安らかに眠っていただく環境を作るためである。何時かは自分も入る寝室である(予定では38年後?)。

 この発想は、2015年3月12日に馬場恵峰先生宅で、三重塔と五重塔の写真撮影をした時のことが頭にあり、今回の発想となった。その時は今回のお墓建立の話は全くない状態である。これも恵峰先生とのご縁の賜物である。さすがに石芝台の狭い内部側面に般若心経の字を彫るのは難しく梵字とした。

 

 納骨室内の5面に刻む梵字は納骨室内が一つの浄土であることを象徴する文字である。下図のように梵字を5面に配置することで、金剛界曼荼羅の世界を作る。

 供養塔で外側に梵字を配置した例は多いが、内部に梵字を配置した事例は本邦初ではないかと、石屋さんは言う。完成してお墓を封印すれば、納骨室内部は見えない。これは私のこだわりである。

 これは恵峰先生宅で、三重塔と五重塔の内部に書かれたお経の撮影をして思いついた事項である。恵峰先生とご縁が無く、この三重塔と五重塔に出会わなければ思いつかなかった。恵峰先生とのご縁に感謝である。

 

お墓は人が土に還る宇宙船

 納骨室内に敷いた土は山土である。お墓とはお骨を土に還す装置である。土の上の置かれたお骨は、80年経つと自然と土になる。お骨を納骨用の陶器の壺に収めただけでは、土に還らない。お墓は浄土へ旅立つ宇宙船なのだ。

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納骨室内の梵字

 納骨室内の側面まで磨いているので製作工数が大変である。普通は、納骨室は外から見えない場所なので、磨いて仕上げることはない。その分、コストが上がるから、石屋さんはやらない。6年後の今(2021年)、これを回想して、よくやったと呆れる思いである。今でもやっておいてよかったと思う。将来の自分の居場所を造ったのだ。ご先祖様も喜んでいただける。

 今、このお墓を作ろうとしても、やれない。馬場恵峰先生は今年亡くなられたし、私の体力も気力も金力もない。新型コロナ禍で外国から材料も輸入できない。このお墓の建立の打ち合わせの為、石屋さんは数回、中国に出張された。思いついた時、やるべきことをやってよかったと思う。

 

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三重塔と清龍寺・寛旭和尚から贈られた観音像(2014年6月26日)を納めた三重塔(恵峰先生宅で撮影 2015年3月12日)

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 恵峰先生と管主寛旭和尚       

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寛旭和尚は将来の中国仏教界のトップに立つ方  福田琢磨氏撮影

 

 2021-07-20   久志能幾研究所通信 2095  小田泰仙

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