l2_志天王が観る世界 Feed

2017年12月25日 (月)

人生の原点復帰

 自分は何処から来て、何のために生きて、何処に行くのか、それが分からないと人生で迷いの世界に入り込む。人生の不動の原点とは、ご先祖様のお墓である。お墓は、改建等で場所が移動することもあるが、原則的には不動である。それが今回のお墓作りと20年間の研削盤開発設計の経験から得た結論である。何時かはご先祖と一緒にお墓に入る自分である。それが分かればこの世の覚悟ができる。その墓がない人生とは、はかない人生である。人生の岐路に立ち向かったとき、ご先祖のお墓の前で手を合わせると、心が落ち着き、迷いの無い決断が下せるのにはワケがある。ご先祖様が背中を押してくだっている。

 

研削盤と人生

 私は円筒研削盤設計開発に20年間従事した。研削盤とは、砥石を高速で回転させその切れ刃で、主軸の取り付けられた工作物を回転させながら工作物を真円に加工する工作機械である。いまになって、研削盤での加工とは人生の縮図であるとの思いに至った。

 砥石は自分自身である。工作物は自分のやるべき仕事である。工作機械のベッドは己の社会的基盤である。研削液は社会との潤滑剤としての社交性である。土台がしっかりしていないと、わずかな振動や事件に揺れてビビリの原因となる。それは自分の基盤も工作機械のベッドも同じである。

 砥石が固定金具で偏荷重なく正確に固定されていないと、高速回転中に砥石割れの事故を起こす。人間がきちんとした自立心がなく育つと自殺や事故に会うのによく似ている。

 

人生の剛性

 自分の人生も研削盤も、仕事への体制は、こなす仕事や加工物への計算上のモデルとして、バネで支えられた剛体として例えられる。支えるバネが弱いと、加工する反力に負けて、効率的に加工ができない。自分を支える思想や体力がないと大きな仕事に対処できないと同じである。

 

振れ止め

 剛性の小さな工作物(例:クランクシャフト)を加工する場合は、加工する砥石の反対方向に、振れ止めという装置で支えをする。そうしないと工作物が撓んで、精密に加工ができない。人生で捉えどころがない対象物に取り組む場合は、目に見えない社会のご援助を頂いて取り組むから成功する。それは己の人徳とご先祖の力がなせる業である。

Photo  研削加工の数学モデル図

 

潤滑剤

 いくら切れ味のよい砥石で研削しても研削液がないと焼けの原因となる。いくら頭が良くて頭が切れても、世の中を渡る潤滑剤としての社交性を持たないため、世の中に受け入れられない輩が多いのも現実である。

 砥石で加工すると表面が荒れて磨耗するので毎回、ドレス(目立て)をしなければならない。その度ごとに砥石は小さくなっていく。自分の体を消耗させ寿命を短くしながら人間社会で仕事をしていく己の姿である。

 

自分の位置検出

 砥石が磨耗すると、砥石が工作物と接する最先端の位置が分からなくなる。遮二無二働いて、何のために働いているか自分を見失うとき、自分の位置づけが分からなくなると、仕事への真摯な対応が出来なくなる。同じように、加工する砥石最前端位置が分からないと正確な寸法に工作物を仕上げることができない。砥石自体は砥粒とボンドと気泡でできた石の結合材である。まるで人の心のように掴み所のない存在である。そのままではとても鉄を削れない。鈍角を持つ砥粒が高速で回転すると、鋭角の刃物のように鉄を削ることができる。心が志を持つと社会を動かす力があるのに似ている。

 その砥石の表面は高速で回転しているので、直接には砥石寸法を測れない。そのためAE(アコーステックエミッション)センサーを用いてその位置を検出する。センサーが砥石と当たり破断する音を感知して間接的に位置を割り出すのである。人間も仕事や試練との遭遇で、自分の対応や結果で、自分の心の成長を悟り、その社会的位置を確認するのと全く同じである。

 

原点復帰

 砥石の直径が分かり、砥石の最先端位置が分かって、砥石台がどの位置にあるかが不明である。そのために機械原点を設けて、加工をする前に原点復帰をして自分の位置を確認して、あるべき位置まで前進して研削加工を始めることが出来る。それが原点復帰である。時としてCPUが暴走して機械位置が分からなくなることがある。迷ったら原点復帰が必要なのは、機械も人間も同じである。

 今日は12月25日、クリスマスでキリスト様が生まれた日。キリスト様の原点は天国です。キリスト様は天国に生まれて、天国に帰って行かれた。この世で2000年にわたって人々の心に残る大きな仕事をされた。宗派の違いは、単に国の文化の違いである。どの宗教もその教えの本質は同じである。少しでも世のためになる仕事を残して旅立ちたいもの。

Photo_2  馬場恵峰書

たまたま、今回が第500通目の記事となりました。感謝。

2017-12-25

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2017年12月23日 (土)

いろはにほへと

 お墓を作る過程で、2014年に家系図を作成した。その家系図上を俯瞰すると、華々しい人生模様を形作るツワモノどもも、いつしか香も色も消え、全て墓石に記録を留める様は、勝者必滅を示す如きである。自分の人生を振り返り、青春を謳歌し体力に任せて無理を重ねた時もある。若い時には夢多き青春を謳歌したのに、何時しか時も過ぎ、体のあちこちに不具合を感じる頃になって、平家物語の祇園精舎の鐘の声や弘法大師の作と言われる「いろは歌」が自分に迫ってくる。

 

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、紗羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。(『平家物語』)

 自分の肉体と心を持つ自分自身は、自分のものではない。沸様の預かり物と思うこの頃である。いつかは沸様の彼岸に返さねばならない。自分を含めて全ての一族は沸心一体として家系図を彩る様こそが、沸のなせる技である。自分は小さな存在であるが、この世で出来ることを夢見て過ごすことが、夢見ず無為に過ごす人よりも人らしい生き方であると思う。その夢が破れて涅槃に逝っても、夢見た証があれば、その後を追う子孫が生まれてくる。ご先祖が何時かは歩いた道を、生まれ変わった自分が歩いている。

 

諸行無常、諸法無我、涅槃寂静

 三法印の「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」とは仏教のあるべき姿を現した標語である。「いろは歌」はそれを踏まえた歌として詠まれている。佛と自分が一体となってこそ人の人生である。

 

いろは歌

 色は匂へど散りぬるを わが世誰ぞ常ならむ

 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔いもせず

 無常なこの世の中を今まで歩いてきた。誰一人永遠の繁栄を遂げた人はいない。「今」まさに越えにくい深山に入ろうとしている(有為とは佛語で、直接間接の諸条件、即ち因と縁の和合によって作られている恒常でないもの)。軽薄な夢などは見ず、正気になって涅槃に逝く覚悟である。浮世の幸不幸や貧富の差は夢の如し。有為ではなく無為(因縁によって作られたものではなく、常住絶対の真実である悟り)の世界に向って歩くことが修行である。それが身沸一体の境地となる。今の世を夢と思わずに大きな夢を見つつ、その実現に向けて、一歩一歩絶えまず人生の旅を精進したい。

 

いろは歌とのご縁

 私が「いろは歌」の意味を知ったのは、高野山伝燈大阿闍梨中村公隆著『いのち耀いて生きる』を読んだ2014年7月(64歳)の時である。これも今川順夫氏が中村公隆師の米寿のお祝い会に招かれ、その時の中村公隆師贈呈の御本を私に贈って頂いたのがご縁である。その本を読み、他の著書も手に入れて得た知識である。今川順夫氏とのご縁がなければ、出会わないご縁であった。

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Photo  馬場恵峰書 2012年

24k8a0759  馬場恵峰書『百尺巻頭書作選集』より(久志能幾研究所刊)

2017-12-23

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2017年12月22日 (金)

志天王とは

 「欲」とは、生あるものが「谷」に蹴落とされても「欠」けないものである。最大なる欲が生存欲である。宇宙にも沸様にも欲がある。宇宙にも理にそった順法という欲がある。人間の理念が作り出した佛様にも人を救いたいという欲がある。欲のなくなったとき、それは無機質なものに変わり、死を迎える。

 人として欲がある以上は、できるだけ大きな欲を持ちたいと思う。金儲け、性欲、食欲、権力欲、名誉欲などの小さな欲ではなく、人類に貢献するような大きな欲を持ちたいもの。その大きな欲こそが「志」である。その志が夢を作る。志なき人は、単に生存欲のみの畜生の存在でしかない。

 

欲箭清浄句

「欲箭清浄句」と「般若理趣経」にある。宇宙を生かし、宇宙を生み出してきたほどの大きな欲を持って生きよと説かれる。薄汚れた小さな欲ではなく、世の中を良くしていこう、充実して生きようという大欲を持てという。そうすれば自ずと清浄になっていくはずだと。

 

経済

 「経済」はもともと仏教用語であり、「経」とは全ての人が助かる真理を束ねた紐のことである。「済」とは「救う」ことである。つまり「経済」とは世の中の人を救うために沸が行う活動である。経済観念の無き、企業経営は戯れである。理念なき金儲け活動は畜生の餌漁りである。

 

志天王

 志天王とは、人が誰でも持っている沸性である。それの存在に気がつくかどうかだけの問題である。佛はどこにもいない、己の内におわします。誰でも志天王になる素質を持つ。「志を持って世に尽くせ」と佛が背中を押す。右手に「志」を掲げ、左手に「ソロバン」を持ち、背中に「我慢」を背負って歩むのが菩薩行である。

 

図2 馬場恵峰書「般若理趣経」 

師は三歳で死別した母のために、77歳、祥月命日供養として写経をされた。

真言宗のお寺では、理趣経読誦されますが、長文のため写経文として第17節の終わりにある百字の啓のみとすることもある。この恵船を三回繰り返せば、理趣経一巻読誦と同じ功徳があるといわれている。合掌。南無大師遍照金剛。

『報恩道書写行集 三寶齋恵峰』より

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2017-12-22

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2017年12月19日 (火)

お墓とは生の証し

 お釈迦様は、あの世があるとは言われなかった。ただ「死ぬまで精進せよ」とだけ言われた。お釈迦様は最期まで精進の旅を続けられて、旅の途中で涅槃に逝かれた。

 

お墓の起源

 太古からお墓は存在した。それが動物と人間を分ける印である。太古の時代は、人間が死後に化けて出てくるのが恐ろしく、化けて出てこないように足や腕を折って埋葬した形跡も見受けられる。それだけ死を恐れたのだろう。

 人は弱い存在で、何か目に見える形に手を合わせ拝みたいようだ。空中に手を合わせるのでは、掴みどころがない。その拝む対象を形にしたのが仏像であり、お墓ではないか。その故人を偲ぶ形を表す形態として、お墓が存在すると思う。だからそのお墓には、祭る人の意思が明確に表われる。

 文は人なりと言うように、お墓に建立した人の人格や家風が表われる。祖先を大事にする家は、それに見合ったお墓が建立される。

 

自家のお墓の再建

 2015年、ご縁があり100年は持つと保証されたお墓を再建した。埋葬された人の骨は80年で土に帰るという。お骨を大自然の大地に返す装置がお墓なのだ。それを知って、ご先祖様が土に帰るまで安心して眠りに付けるようなお墓にした。大地震が起きてもお墓が倒壊しないように、竿、本体、足が一体の墓石構成とした。お墓のベースも一枚板の石芝台とした。それは、芝台に雑草が生えないようにして、メンテナンスフリーにする目的もあった。

 

死の意識と生への希望

 人生はお墓を作ってからが本当に人生だと思うようになった。ミッチェル女史も『風と共に去りぬ』のラストシーンを書いてから、他の章を書き始めた。お墓に入る自分を想像して、お墓の格や先に入っているご先祖様に対して、恥ずかしくない人生を送りたいと思う。お墓建立は、自分の人生への決意表明なのだ。

 お墓を意識することは、当然、死を明確に意識することだ。死を意識するからこそ、今の生が明確に浮かび上がる。疎かにはできないご先祖から頂いた命である。近直の縁者だけでも、赤い8本の糸で繋がった吾が命。その糸が一本でも切れていれば、この世には存在し得ない吾が命である。そんな大事な命だからこそ、これからの命を日々輝かせる精進は、ご先祖への恩返しなのだ。

 

夢が己の墓標 

 自分の夢や人生目標が、死後に残る墓標である。それが自分の足跡を残すお墓と考えると、生きていくうえで励みになる。頑張ってその夢が実現できれば、それは人生の生きた証となり、金字塔となる。二度とない人生、己が建てる墓標は立派にすべし。

 

戒名

 今度、戒名を授けてもらう計画である。戒名は生前に導師より付けてもらうのが正式だと今回初めて知った。戒名とは、導師が弟子のために来世で自分用の寺院を建て(院号)、そこで修行に精進するために授ける名前である。お葬式のときに戒名を付けるのは、緊急的、簡易的な処置である。人生は知らないことばかりである。65にして64の非を知るである。

 

各界ごとの生老病死

 生物の死だけが、死ではない。どんなものにも生があり死がある。学校での界での生が入学であり、死が卒業である。学校での通信簿や卒業証書が墓標である。会社での生が入社であり、死が定年である。ある会社に就職すれば、必ず40年後に、定年という会社人生の死が訪れる。その期間に世に対して仕事で成し遂げたことが己の墓標である。その墓標を誇れるものにして、会社を去りたいもの。その後に、第2、第3の人生があり、それぞれに生があり死があり、その期間の精進の程度によって相応の墓標が残る。少しでも世のためになる墓標を残してその界に実績を残し、その界を去りたいもの。

1039a12111  馬場恵峰書 伊勢神宮ご神水で磨僕

2017-12-19

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2017年11月21日 (火)

縁は方円の器に遵う

 一円が集まり五円となる。一縁が集まり五縁となり、ご縁となる。一発勝負で宝くじのような縁を漁って歩いても、却って身の毒となる。一円、されど一円である。一縁を大事にする心構えが多くのご縁を頂くことになるのを65の年輪を重ねて、7世代の家系図を作って実感した。宝くじに当たって不幸になった人は多い。家の財産を独り占めにするのは宝くじにあたるようなもの。その結果として、家を衰退させた親族も多い。小さな器に、溢れんばかりのご縁、財宝を入れても器が破綻するかこぼれるだけである。器以上には水は入らない。溢れた水は凶器となる。まず己の器作りから、ご縁は始まる。

 

自分創り

 己の器作りとは、自分の人間性、人格の育成である。それをせずに、金儲けや、地位を先に求めるから、人生で失敗する。己の能力以上に地位を求めると、多くに人に迷惑をかける。学歴が高い、頭がいい(記憶力が高い)のを、人間性・実務能力が高いと勘違いすると、失敗する。人生経営で必要な能力は苦い経験から生まれる智慧である。全ての運命に、順う素直さである。上に立つ人間で必要な能力は、できない己をサポートしてくれる人材の発見と活用である。自分一人がガンバっても成果には限界がある。人のご縁と神仏の加護がないと、いくら才能やお金に恵まれても、世の中で押しつぶされる。それが我が家のお墓つくりの過程と我が家系図と大垣市政を俯瞰して得た私の智慧である。

 

涙と血の汗の経験

 日本の最高学府を出て、有名大商社に就職したが、わずか6年で退職して地元に帰った人がいる。我慢、忍耐が足りないのか、実務で使いものにならなかったのかである。

 入社6年目と言えば、やっと仕事を覚えて、仕事と会社の状況の回りが見えてくる時期である。私が主任に昇格したのは、やっと11年目であった。私が今にして、前職に就職して良かったと思うのは、大きな会社であったので、色んな部署の人と付き合えたことだ。技術部と研究開発部に配属されたので、会社の最先端の情報と多くの人に出会えた。海外経験もさせてもらえた。それが大企業で長く勤めたメリットであったと回想できる。

 それが6年間しか大企業で我慢ができない性格では、経営者として使い物にならないのではないか。その大事な経験という財産を放棄して、実務経験が不十分のまま、地元地方都市で東京の最高学府を出たというブランドだけで、市商工会等でちやほやされたのが、彼の不幸の始まりであったようだ。苦労もせず、若くして高台に登るというのは、人生三大不幸の一つである。市商工会等は、所詮サロン活動で経営のままごと遊びの世界である。涙と血の汗とを流す生々しい実務経営の勉強は、経営者仲間のお遊びサロン活動では経験できまい。

 京セラの創業者稲盛和夫氏や松下幸之助翁は、人生の辛酸を舐めて経営の経験を積んだ。仲良しクラブのサロン活動をして会社を大きくしたのではない。同じ汗と血の混じった涙を流した仲間が稲盛氏や幸之助翁を助けて、会社を大きくした。失敗や屈辱が、二人を大きくした。地方都市のサロンでちやほやされた人間には、理解できない経験である。

 地方の名人といわれた剣士でも、江戸の町道場主と勝負をすれば、簡単に討たれるという。それが地方では、多くの剣士との勝負の経験が積めないからだ。どんな分野でも、多くの血の滲む経験が無くては、名人にはなれない。

 

名経営者の墓標

 鉄鋼の町、ピッツバーグに眠る鉄鋼王カーネギーの墓石に刻まれた言葉;

 Here lies one who knew how to get around him men who were cleverer than himself.

「己より優れた部下を持ち、共に働ける技を知れる者 ここに眠る

   

Andrew Canegie (1835-1919)

 アメリカの実業家。英国スコットランドからの貧しい移民で、線路工夫から身を起こす。後に世界最大の鉄鋼会社となるユナッテッド・スチールを創業する。アメリカ資本主義発展期を代表する企業家、鉄鋼王とも称される。晩年、ニューヨークに音楽殿堂といわれるカーネギーホールを建設するなど公共事業に力を注いだ。

 

私は、いつの日かカーネギーの墓所で、彼の魂の謦咳に接したいと思う。

 

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2017-11-21

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2017年11月20日 (月)

人生の危機管理

 ある日突然、脳梗塞、心筋梗塞に襲われ、後始末の言付けさえ言えず、旅立たねばならない事態が多くある。そのことを我が家の家系図を作ってみて、身内に多く見た。いくら自分の健康に自信があり、身内に名医を抱えていても、心筋梗塞という閻魔様の一撃(ぎっくり腰は魔女の一撃という)には、全く手の施しようがない。

 桜田門外の変で命を落とした井伊直弼公も、なまじっか北辰一刀流免許皆伝の腕があったため、襲撃の予告があったが、そのまま江戸城に行列を進めた。組織で動いているので、護衛は部下に任せるのが上に立つ人の務めである。襲撃側の最初の一撃である短筒の一発が直弼公の腰を貫き、籠の中で身動きができなくなった。いくら腕があっても、後はなす術がない。時代の最先端の武器が、旧態依然たる防衛側の隙をついた。

 

佛の警告

 日頃から高血圧という佛様からのメッセージを無視すると、脳梗塞、心筋梗塞に襲われる。高血圧という体の警告が出ているのに、生活習慣を正さない愚かな人間が悲惨な結末を迎える。井伊直弼大老暗殺は、300年続いた泰平に世の歪が噴出して結末である。泰平の歪を直そうとして直弼公は荒療治をしたが、世の末の本質を理解しない暴走徒が、桜田門外の変を起こした。急激な治療が人間の体を痛めると同じで、江戸幕府の体制も瓦解に進んでいった。

 

己はブラック企業の社長?

 ブラック企業の経営者は従業員の健康を無視して過重な労働を強いる金儲け亡者である。それが原因で過労死になる従業員も多い。その家族が企業を訴える時代となり、問題が顕在化してきた。同じ理屈で、体に必要以上の食べ物やアルコールを摂取すれば、胃も腸も肝臓も大忙しで、己の細胞に深夜勤務の過度の労働を強いて食べたものの消化・分解の仕事をしなければならない。体の臓器が超過勤務をしても処理しきれない残物が、体のあちこちに脂肪として堆積される。それが体の閻魔帳である。だからその人の体を見れば食生活の全てが自明である。神佛は食べ物が体に入ってこれば、えり好みせず消化をするするという体のしくみを造られた。そんな大事な体に、ブラック企業のような仕打ちをすれば、病気という罰があたるのも自然界の「理」である。それが最高の結果なのだ。それを「なんで私だけが」というのは不遜である。

 

己は主

 「主」とは「王」座に立つ自分の姿「、」である。それは蝋燭台の炎を象徴している。どんな蝋燭も何時かは燃料が切れて消える。燃えて燈をともしている間に、何を照らすかが人生で問われる。自身の60兆個の細胞の王として、己は体を支配して、何を食べようと飲もうと夜更かしをしても自由であるが、その横暴な行いは全て自分に返って来る。

 

2017-11-20

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2017年11月 4日 (土)

祈りとは感謝

 祈りとは、頭を冷静にして自分と対峙し、謙虚に反省する修行である。神佛やお墓の前で祈ることは、自分に与えられた神佛・ご先祖のご恩に感謝し、ご恩に報いる決意をすることだ。生存欲だけで生きていると犬畜生レベルに成り下がる。それでは魂の成長は、感謝の域には達しない。魂の浄化があってこそ、祈りと言う行為になる。犬猫が祈っているのを見たことは無い。

 

祈りの姿勢

 お祈り時間の長い人は不幸な人が多い。幸福な人はお祈り時間が短い。それはお祈りではなく、神仏・ご先祖への感謝の報告である。不幸な人が、自分のやるべきことを放棄して神仏へのお願いに時間をかける。そんな時間があれば、公園の草取りでも、家の前の道の掃除でも人様のお役に立つことをやればよい。お祈り時間の長い人は全て他力本願である。それで幸福になれるはずがない。

 「まず自分のやるべきことをやってくれ。そうすれば10年後に利子をつけて返してあげよう」が神佛の御心である。それを「お賽銭を入れた。人様以上に長くお祈りをした。直ぐに配当をくれ」では神も仏もあったものではない。神社仏閣は、お願いをしてお賽銭を入れれば、ご利益が出くる自動販売機設置場所ではない。そう信じている人は、お祈りの時間が長い。

 仕事とは祈りである。幸福な人は、仕事をすることで、社会に貢献している。そして儲かれば税金を納めて、社会のお役にたっている。幸せな人は奪う人ではなく、与える人である。祈りの長い人は、棚ぼたを信じて口を空け、待つだけの人である。

 

お祈り教の我儘

 図1の老女のお祈り時間は約20分間余と長い。ご丁寧にお寺の入り口に自転車を置き、入口を封鎖してのお祈りである。お参りにくる人に迷惑になるので注意したが、「片方が空いているので問題ない」と意地になって反論する。人様へのご迷惑は、己のお願いの祈りに没頭して眼中にはない。こうなっては仏様もお手上げだ。自己の祈りが利己的に埋没すると、祈りという行為が社会への奉仕という意味から乖離してしまう。社会の一員としての祈りであってこそ、真の祈りである。新興宗教団体の祈りも、同じようにその宗派だけの利益を願う。哀しい祈りである。

 その後、彼女は隣の八幡神社でも同じように長時間のお祈りをしていた。ここでも東口鳥居下のど真ん中に自転車を置いての他人迷惑なお祈りである。南園堂の不空羂索観音様や大日入来様、延命地蔵菩薩様だけでは心もとないので、八幡神宮の天照大神様にも二股をかけている。二股をかけられては、観音様も気を悪くするでしょうに。祈りに没頭すると、回りが見えなくなる。オウム真理教徒も、同じようであった。

 

「苦 → 滅」のショートカットキー

 人のことは笑えない。己が勤めるブラック的な「〇〇利益万能教会社」への盲従で、反社会的行為に手を染めていないだろうか。グローバル経済主義教に染まり、己の企業の利益だけを追求する経営をしていないだろうか。最近は有名企業の不正事件が後を絶たない。それは、成果主義の過大なノルマから逃れる為、正しい研究開発工程や正規の検査工程、正規の材料選択の工程(苦)を放棄して、苦労のない手抜き・データ改竄・不正で、目的を達成(滅)するというショートカットキーを使っているからだ。

 老女の姿から自らも反省をしたいもの。信心なきお祈りは、ショートカットのお守りのお札を貼るようなもの。フォルクスワーゲンの排ガス不正、日産の検査不正、近隣諸国の技術パクリなどは、拝金主義教が生み出した。

 

祈りとは修行

 祈りとは自分を謙虚にするための修行である。謙虚と感謝の気持ちがなければ、周りが見えなくなる。大義名分に囚われると、見えるものも見えない。あれども見えず、である。

 エネルギー総量一定の法則で、自分だけ幸せのエネルギーを独占すると、他の人は不幸になる。その落とし前はどこかでせねばならぬ。家系図で見えた結論は、その落とし前を子供や孫が被っている。人を不幸や苦労を自身が背負ってこそ、徳ある人の道である。

 他力本願の祈りとは、全能の神仏を超越し、ニュートン法則や相対性理論の宇宙法則を捻じ曲げて、己のためだけの欲望を願う行為。(アンブローズ・ビアス著『悪魔の辞典』)

 

 図1 お寺の入り口を塞いでの祈り

 図2 神聖な鳥居のど真ん中に自転車を置いての祈り

 図3 般若心経 馬場恵峰書

    無苦集滅道は般若心経の真ん中に書かれている。

 図4 苦集滅道とはPDCA

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2017年11月 2日 (木)

明徳を観る

 信心深い人が、必ずしも徳がある人ではないことを知った。信心深いのは、己の利益のための方便であったのを発見したのは、良き学びであった。オウム真理教の教徒や新興宗教団体の信者も、信心深かったが、それが利己的な妄信であったことに思い至った。

 

明徳の露見

 日本の未来を背負う子供達にための音楽会を河村先生が企画をされて、お手伝いとして私がその協賛金のお願いをするため、あるお店の主人を訪問した。それがケンモホロロに断られてしまった。お願いしに行ったのにはワケがあり、近直に息子のために数百万円のホンダのスポーツカーを買い与え、自身はこの夏(2015年)に欧州に、100万円の予算で10日間の写真撮影旅行に行くのである。裕福な家であるので、家族のためにお金を使うのは良いことだが、その1%でも日本の子供の未来のために、お金を出してもらえば徳になると思ったからだ。私はそのお店の常連で、贈答品を含め年間でかなりの額の商品を購入している。しかし、私に人を見る目がなく、今回空振りをした。彼が信心深いのは、あくまで自分の幸せのためであり、世の人のためではないことを発見した。利己のためだけの信心しかなく、義理やご縁を大事にしない人と付き合うと、当方もその悪い影響を被ることになると思い、以後、付き合いとそのお店で購入することを止めた。

 

佛の目で人を観る

 自分が佛様の立場になって観ると、どんな人に幸せを授けたいかが分かる気がしてきた。魂の浄化をした人で、世のため人のために尽くす人にこそ、佛縁が授かるのではと思う。そんな人には、倍返しでご恩のお返しをしたいと思う。我が家の家系図を見て、遺産の独占や、教育の機会を独占した結果として、他の兄弟を戦争に送り出すことになった家族の悲惨さが、顕在化している。佛様は50年単位でその閻魔帳の収支決算をされているようだ。

 

お陰様のご縁と魂の成長

 明徳とは、己に備わった徳に光(ご縁)が当てられて、その徳が明らかになることである。多くの人が光を当てられるご縁に出会っても、その縁を遠ざけて、光らせずに人生を送る人が多い。まるでブラックホールのように、光を吸収するだけである。それで幸せにしてくださいでは理に合わない。「お陰様」とは、真っ暗な宇宙の56億7千万年後の未来から、佛様が照らす光明がご縁として届き、陰が出来てその真の姿が浮かび上がることである。光に当てられなければ、陰はできない。真っ暗なままである。その光とは出会ったご縁である。そのご縁とは、その人ならば、と期待をして訪ね来るご縁である。その期待を裏切るのは、裏切り者である。怖いのは、そのご縁が黙って去っていくこと。二度とは帰ってこない。魂の成長とは、全ての人を許す清濁併せ呑む佛心になることであるが、まだ私はそこまで達していないことが分かったのは成長である。

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2017年10月29日 (日)

人生の便り

 食が体を作り、縁が人生を創る。食の排泄物が、体の健康状態と食の正悪を現し、運命が出会ったご縁の正悪を示す。

 

食生活の乱れがポリープの原因

 2009年ごろ体調を崩したため、病院で検査を受けたら大腸ポリープが出来ており摘出手術をした。5個のポリープが出来ており、その4個までは良性の腫瘍であったが、そのうち1個が悪性と良性の中間の腫瘍であった。当時、会社の合併後のドタバタで業務上で精神的に追い詰められて最悪の状態であった。食生活も良くなく、その結果として大腸ポリープに罹患したようだ。当時は便通も悪く、排便後に紙で拭いてもなかなか汚れが取れなかった。精神的に追い詰められて一時的に鬱状態にも陥っていた。

 そのままでは将来、大腸がんになるとの恐怖から、生活習慣と食生活を反省して、バランスの良い食事として、野菜が多くし肉食が少なくして、間食を少なくした食生活に変えた。それからは、気持ちのよい便通となった。現在は、便通もよく、紙で拭いてもほとんど汚れがつかない状態である。栄養過多の、野菜の少ない西洋式の食事を多く取れば、便秘、大腸ポリープ、大腸がんになりがちなのも自然の理である。

 

悪縁の穢れが不運の原因

 悪縁に取り巻かれ、それの消化をする羽目になると、人生の行動の成果(排泄物)である運勢が悪くなるのは自然の成り行きである。消化に時間のかかる喰えない輩と付き合うと、その悪縁の穢れをとるのにエネルギーを使い、人生を正しく歩めなくなる。結果として病気や事故との遭遇である。人のご縁の選別には、厳しい人物鑑定が必要である。孟母三遷はその典型の故事である。

 私は「信用金庫」という人物鑑定手法で、人を観察して、これはと思ったら躊躇無く交際を絶つようにしている。お陰で悪縁の人との付き合いを無くすことができた。今まで危ない目にあってきたが、早めに縁を切ってよかったと思う事例が数多くある。

 良き師を探すのも大事であるが、悪縁に捉まらないようにするもの大事な人生を歩む心得である「人生は悪手の山の中を歩いているようなもの」とは将棋名人の米長邦夫氏の言葉である。我が家の家系図を俯瞰して悪縁に捉まって不幸になった親戚が多いのを見て、上記の事例を再確認している。特に嫁がその家を潰した例が多く見受けられるのが哀しい。

「信用金庫」という人物鑑定手法

  自分は財閥□□家の「信用金庫」頭取である。この世で一番価値のある財産は「信用」で、これがたまらなければ、お金もたまらないし運命は拓けない。なおかつ自分の人生目標が実現できない。自分の志は、一人だけでは達成できない。その達成のためにご縁を得る交通手形が「信用」である。

 人が死を目前にしたとき、納得できる人生であったと思えるのは、交友関係の厚さではないか。多くの人が近づいてきて、離れていく。一体何人の人が残るのか。それが生きざまの証である。多くの恵みを多くの人に与えて、数パーセントの人が残る。その数パーセントの人が人生の宝である。その蓄財を決めるのが「信用」である。

 カナダの実業家キングスレイ・ウォード氏は『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』(城山三郎訳 新潮社刊1987年)の中で、「ビジネス」を次のように定義した。

 「ビジネスは壊れやすい花瓶に似ている。無傷であればこそ美しいが、一度割れると二度と元の形には戻らない。」

  Business is like a fragile vase - beautiful in one piece, but once broken, damn hard to put back together again to its original form.

   “Letters of a businessman to his son" by G.KINGSLEY WARD

 

ビジネスとは信用

 この「ビジネス」という言葉は、「人間関係」すなわち「信用」の意に置き直される。茶道の「一期一会」にも通ずる言葉である。人との付き合いは大きな財産である、その価値を高めるためには、信用を守ることが最優先だ。そのためには、小さな約束を確実に果たすことが最優先である。なにせ、大きな約束は嫌でも守らざるを得ない。例えば、大金の貸し借りに事故は少ないが、 100円とか1,000円の金の貸し借りでは、とかくルーズになりやすい。この小さなお金が、その人の信用を傷つける。この100円の借金は10万円より大きいと認識することが、人生の信用という蓄財になる。自販機のコーヒ等のため100円を借りるくらいなら、返し忘れを考慮して我慢すべきだ。それより奢ってもらったほうが、よほどスッキリする。小さいことの約束の実行の可否が、大きな約束を果たす練習となる。

 お金に無関係の小さな口約束を守ることが、信用という財産を増やし、その金利を上げる。小さい約束を確実に守ることは、その人の事務処理能力が高いことも示し、信用度の指標として高い相関関係にある。一事が万事である。だから、この小さな口約束をどれだけ実行してくれるかも、私が人を評価する基準の一つにしている。「こんど一緒に飯を食おう・・」等の軽い口約束を守る人は、実に少ない。特に酒の席での約束を重視する人は、皆無に近い。だから、外交辞令まがいの挨拶を乱発し、口だけ調子のいい人とのお付き合いは、避けるべきた。心にもない外交辞令は、「信用金庫」の不渡手形である。不渡りを出すようでは、「信用不安」である。 他人に厳しくする以上は、それ相応に自分自身の言動に厳格さが求められる。この心がけが己の人生を護る。

 

2017-10-29

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年10月 5日 (木)

未来を見据えて

 部下を持つ長に対する講話は、未来に希望をつなぐ話にしたい。しかし往々にして大学教授の話にはそれがない。俺が何でも知っている、教えてやっている、と上から視線の話しが多い。

 大学教授は学生相手に話している習慣なのか、教室内で己を批判する人間がいないので、往々にして独善的になりやすい。それ故、時間の大事さを知らない。そんな教授が歳をとり経営者の前で話をすると、皆自分より年下なので、いつもの自説の押し売りの地が出てしまう。そこには未来につなぐ話しではなく、大昔の自分の成功体験なのだ。それは現代では陳腐化していて、何を今更という感じである。それでその話しから、我々はどういう方向に進めばいいのか、という話は全くない。

 

過去の自慢話

 松下幸之助経営塾のOB会が2015年4月24日、高野山で開催され、開眼後の四天王像を撮影する目的も兼ねて泊り込みで高野山にでかけた。その時のプログラムの一つである元教授の講話が、上記の類であった。氏は経営の神様から認められて企画課長として会社時代は腕をふるったようだが、50年前の成功体験を自慢話からは、得るものが無かった。それで我々は今何をすれば良いのか、がなかった。在るのは過去の事件の情報(知識)と自慢話で、そこから得られた智慧は何か、どうすれば智慧がつくのかの未来志向の話は無い。

 

時間泥棒

 参加者の予定を考えて講話を30分繰り上げるように事務局は段取りしたのだが、講話を時間内に纏められなかった講師は、「30分早く始めたのだから、時間延長してもいいだろう」と終了時間が来ても一方的に話を続けた。時間は命である。それも聴衆が30名ほど参加した講演会である。聴講の社長達の時間給は1万円ではきかない。単純計算で数十万円の損害である。その人達の予約した飛行機や新幹線の乗車に大きな影響が出ることには気が回らない。そんな考えの人の話しは、聞く価値の無いと思った。

 最後に司会者も「久しぶりに○○節を聞きました」と嫌味タップリのシメをしたが、本人は全く気がついていない。人皆我師である。この講師から晩年を汚してはならないという教えを頂いた。人間は最期まで謙虚でなければならない。経営の神様の松下幸之助翁も、最期まで謙虚であったのに。弟子が節穴の目ではいかんとも致し方ない。

 

最高学府を出て頭は良くても智慧と耳がない

 大垣・元気ハツラツ市も、学歴が高い人が頭だけで考えた案を実行するので、少しも上手くいかない。年老いれば駿馬も騾馬に劣る。市民税を無為に使って他市が潤い、大垣の衰退の速度を加速させている。商店街がその被害をこうむり、ますます衰退している。プライドのお高い市長はそれを認めず、回りのヒラメも本当の民意を伝えず、裸の王様になっている。何事も、実行は3分、目で見て3分、耳からの4分の要素が大事である。多くの耳に痛い意見を聞いて、それを反映して初めて物事がうまくいく。それに耳を塞いでいるのが、大垣駅前商店街組合、大垣行政、大垣市長である。すばらしい反面教師役を務めてくれている。一冊の「大垣市政 経営の失敗」という本が書ける経営の題材を提供してくれている。

 

増長天のトンボと広目天のセミ

 松本明慶先生による修復、新造の四天王像は2015年4月2日に開眼法要をされて、今後千年先を見据えて訪れる衆生の前にそびえ立つ。四天王は未来を見据え過去を振り返らない。過去を振り返る愚か者とは死天王である。狭い視野でしか観ず、慢心の心では、見れども観えず。増長天の胸のトンボは、過去を振り返らず、後ろ向きには飛ばない決意の象徴である。広目天の胸にとまるセミは、その声が遠くまで響く佛の声の象徴である。それに耳をふさいでは、成仏できない。松本明慶師は従来の伝統仏像にはない、トンボと蝉を創作した。松本明慶師の仏像は多くのことを教えてくれる。

 

宇宙根源の理

 最高学府を出たという過去の栄光にしがみ付く限り、未来は変えられない。そのこだわりが、未来への飛躍の足を引っ張るのだ。声なき仏の経は、自然界に満ちている。その佛の声を素直な心で聴かないと、成仏はできない。松下幸之助翁は「宇宙根源の理にあった経営をせよ」と言った。理に合わないことは「無理」なのだ。今の経済学者や経営者や行政の長は、頭だけで考えた、理に合わない無理なことばかりしているから、日本経済がデフレから脱却できない。経済学者は、理に合わない理論ばかりを政府に進言して、現実の景気が少しも良くならない。それが正しければ、経済学者は、全員大金持ちになるはずだ。経済学者は貧乏である。その高い給与が税金から支払われている。経済学者は「理論はあっている。現在の経済が間違っている」と放言するのでは、仏さまも救いようがない。

 

自分を捨てよ

 「自分は何者なのか」と道元禅師は問い続け、その著書の中で「朝、人の道を聞くことができれば、その日の夜に死んでもかまわない。仏教の修行とはまさにこれだ」、「自分とは、すべての存在・環境の中の一部だ」と述べる。自分という一個の存在だけの意味はない。それに気づいたとき、自分へのこだわりは消える。仏教の修行とは、この「自分とは全体の中の一部分」を悟るのが目的である。道元禅師の思想は、「自我を捨てよ」という教えである。

 最高学府の学歴にこだわる限り、自我を捨てられず、利己主義の世界に埋没する。周りのヒラメがそれを増長する。それが今の大垣市長の姿勢である。世に跋扈するグローバル経済主義者と同じ思想である。人のことなど、知ったことではない、である。他人の意見は聞かないのにはワケがある。

 

下の写真は高野山中門の増長天の胸のトンボと広目天の胸の蝉。松本明慶大佛師作。2015年10月8日撮影。

書は、馬場恵峰師書 2017年夏。オリジナルの文書を見て、希望のサイズで新規に揮毫をしていただいた。

1039a1192

2039a1200

3p1030160

2017-10-05

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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