l4_詞天王が詠う老計・死計 Feed

2021年11月30日 (火)

玄関のリフォーム完成、来る人行く人、皆福の神

 

 2015年12月30日、玄関のリフォーム工事が完成した。「来る人行く人、皆福の神」と思えば、玄関とトイレは、おもてなしの心が表れる家の顔である。それが死のお迎え佛であっても、ご縁としてお迎えしたい。

 

玄関は顔

 玄関は家の顔である。顔がよくなれば、家が良くなる。人間の顔は、全人格の現れである。顔がよくなれば人生が開ける。人生に前向きの人の顔は、精気に溢れており、笑顔に満ちている。渋い顔をして人生を送る人は、玄関に髑髏(どくろ)をぶら下げると同じである。それでは暗い人生を歩むしかない。

 家のリフォームは金がかかるが、自分の顔を造るのに、大金はいらない。精進あるのみである。学び続けることである。志を持つ事である。

 

玄関改築

 今回、トイレと玄関を改築した。また同時にお墓の改建でお墓の蓋も新しくした。だから現世での玄関も、お客様に気持ちよくしていただけようお出迎えをしたい。

 框(かまち)も大工さんの手で、鉋をかけてもらい、新品同然となった。流石が宮大工である。今回、宮大工さんにリフォーム工事の一部を担当して頂いたのは、幸運であった。

 天井も側面壁も張り直して、ライトも入れ替えた。人感センサで自動点灯である。

 玄関左奥がトイレである。その横の収納庫をトイレに統合してトイレを広くした。玄関奥の左手がトイレドアである。

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   リフォーム後  2015年12月30日撮影

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    リフォーム前     2013年7月23日撮影

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  馬場恵峰先生宅で見つけた色紙     2015年12月14日

 

2021-11-39  久志能幾研究所通信 2224号  小田泰仙

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2021年11月29日 (月)

老計・漏計  誤悦同臭をぶっ飛ばせ

 

 男子が洋式トイレで立ったまま用をたすと、1日に2,300滴の小水の飛まつが便器の周辺に飛び散る。高さは1m、範囲も1m四方に及ぶ。こびり付いた尿滴が尿石となって匂いと黄ばみの原因になる。その尿滴を栄養として細菌が増殖して悪臭であるアンモニアを発生させる。

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 トイレ掃除の基本(LionのHPより)

http://lifeon.lion.co.jp/cleaning/04/01.htm     2016/01/21

 

 この話をトイレのリフォーム後に業者から聞き、ネットでそのデータや映像を確認して驚嘆した。それから早々に座りションに姿勢を改めた。またそれ以降、毎朝、トイレ掃除をする習慣となった。毎朝トイレを掃除するのでいつもピカピカなので、掃除も苦にならない。掃除が楽しいとも思うくらいである。

 

誤悦同臭

 上から視線で自慢話を聴衆に放出すると、思いもよらぬ所までその言葉の害毒が飛散する。自分のズボンにも小水の飛まつが付着すると同じように、自分の言葉の影響を最大に受けるのは自分自身である。自分が吐いた言葉が回りにどんな悪影響を与えているか、自省したい。大事なご縁が人生という器から漏れていく。

 元エライさんが偉くなった経緯の自慢話をすると、聞かされている人の心を汚す汚染物が飛まつとして飛散する。人を押しのけて出世するのがよき価値観と思う人との付き合いは避けたい。出世は努力と運のめぐり合わせの結果であって、能力の成果ではない。出世を目的にする生き方をする人と付き合うと、尿滴のような不潔なものが心に沁み込み、言動が小便臭くなる。誤悦同臭である。ブラック企業も暗い家庭も同じように汚腐のしずくを周囲に撒き散らす。それが知らず知らずに身に染み込んでくる。還暦を過ぎた身なら、そんな腐臭が飛び交う生臭い会合の場所からは遠ざかるのが賢明な老計である。そこは心ある人には縁無き場所である。お墓に入る前には、心身を綺麗にして旅立ちたいものだ。

 

下座行

 自分が謙虚に座って所用をすませると、視線が低くなり、自然と吐く言葉も謙虚な言葉になる。立っていれば気がつきないことが、座れば見えてくる。それが下座行である。トイレのリフォームをしての最大の発見であった。65にして初めて体得した境地である。

 

P10500041 馬場恵峰書

 

2021-11-29  久志能幾研究所通信 2223号  小田泰仙

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2021年11月28日 (日)

トイレのリフォーム完成、雪隠詰めを避ける

 

 暮れの押し詰まった2015年12月30日、玄関とトイレのリフォームがほぼ完成した。今回のリフォームでは、耐震補強を兼ねて玄関の壁とトイレの壁に合板を2枚重ねて貼る手法で、耐震強度を上げた。その成果として、家屋の前後方向の耐震強度が1.7、横方向が1.0とほぼ満足できる状態になった。築45年で傷んだ家屋を復興させた。この家を建ててくれた両親も喜んでいると思う。今の家を全部壊して新築したほうが安かったが、思い出の詰った、また母の想いが籠もった家を壊すのがしのびず、リフォームで対処した。

 

 トイレも自分がヨイヨイになってからリフォームするよりも、元気なうちに将来を見越して改築した。現状の倍の広さに拡張して、最新のトイレ機器に入れ替えた。毎日のことであるので、気持ちよく過ごしたいし、来客者にも気持ちよくしていただきたいとの目的である。

 近所の方の話しによれば、介護をしなければならない家族がいるので、狭いトイレではその介護が大変だという。自分が介護を受ける身になっても、介護する人のためにも、トイレは広いほうが良い。

 

不浄の世界を変える

 人が一生の間に利用するトイレの回数は15万~20万回で、トイレで過ごす総時間は3年に及ぶ。それを思うと、少し遅かったがトイレのリフォームはやってよかったと思う。御不浄だからこそ、不浄でなく過ごしたい。意志さえあれば不浄の世界を清浄の場に変えられる。

 

雪隠詰めを避ける

 狭いところに追い詰められて、用をするより、土俵のど真ん中で、勝負をした方が、良い結果が生まれるし、巻き返しもできる。人生の勝負も雪隠詰めでは後がなく、巻き返しも難しい。

 勝負するため、早め早めの手を打つ。期限一杯で勝負するからうまく行かない。狭い場所で勝負するから、うまく力を出せない。

それを防ぐため雪隠詰めになる場所を避け、大広間で勝負する。そうすれば「ウン」が向いてくる。そう考えて、今まで半坪のトイレを2倍の1坪に拡張した。

 トイレは一日に10回弱使用する場所である。物事の余裕が生まれて、人生を快適快便開放的になった。思わぬ効果である。

 住宅メーカの展示場を新家屋建設の調査の為に回っているが、ここまで広いトイレは見たことがない。広げて良かったと思う。

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 リフォーム後のトイレ  2015年12月30日

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 リフォーム前のトイレ

 

2021-11-28  久志能幾研究所通信 2222号  小田泰仙

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2021年11月26日 (金)

死天王の萌し

 

いたるとこころに“萌し”はある

 すべて事には“萌し”がある。その小さな萌しを鋭敏に感じ取り、対処しなければ大事に至る。ヒト・モノ・カネがあるべき姿にないときはピンと直感し、原因をつきとめなければならない。変質の萌しをつかんでこそ、真の仕事といえよう。

           松下幸之助翁

 

死の萌しと現実

 先日、前職のОB会総会案内が届いた。そこにこの一年間の訃報者の名簿が記載されていた。そこに仕事仲間の4名の名を発見して愕然とした。明日は我が身かと….。

 

 一番縁の深かった元上司の名があった。2年年上の方である。運動好きで、日本各地のマラソン大会やハワイマラソンにも出かけた人で、健康優良児であった。それが早くも亡くなられてしまった。

 

 もう一人は、前職の時の隣部署の部長で、私と同い年である。関連会社の社長を務められた。体格の良い方で、元気いっぱいの人で、そんなに早く亡くなられるとは想定外である。

 

 13歳上の元副社長も亡くなられているが、まあ年功序列で自然である。私がスウェーデンの自動車工場に出張の時、上司として激励に現場に来てくれた方であった。

 

 5歳上の方で、電気屋の元課長さんも亡くなられた。我々の宴会会場に「お前らは象牙の塔でぬくぬくしている」と酔って喧嘩を売りに来た人だが、本音で言いあったら、その後、逆に仲よくなったという因縁があった。寂しい限りである。

 

 冒頭の2人の死は、人ごとでないと感じて、死の萌しを感じざるを得ない。

 

世の中の萌し

 人が人になるのを目指していても、現代では拝金主義者の死天王が徘徊している。死天王の萌しに気がつかないと、人が人と成る前に、成仏させられてしまう。その萌しに気づくことが、人としての目覚めである。

 過食、過酒、飽食、添加物まみれの食、過剰医療により認知症、ガンに犯された人は増える一方である。40年前に10兆円であった日本の医療費は4倍に増えたが患者も4倍になっている。だれが儲けているのか。その根本原因になる健康に害のある食品を拝金主義の業者が世に溢れさせている。

 

認知症の萌し

 認知症患者は65歳以上の15%にも及ぶ。自分が自分でなくなってしまう恐ろしい病気である。認知症とは生きまま仏になることである。本人は極楽であるが、家族は地獄である。私は意識明瞭の人としてあの世に旅立ちたい。

 

世も末

 グローバル経済主義病のブラック企業の経営者から生血を吸われて鬱や病気に犯される人も多く、自殺に追い込まれる若者も多い。ブラック企業に就職をせざるを得なかった己の学業の怠慢が一因である。

 

立っている土台の崩壊

 グローバル主義に犯された企業の経営者も格差の拡大で企業基盤と国家基盤が揺らいでいる。企業と従業員は運命共同体であることを忘れていると、昔の王侯貴族のようにその存在自体が崩壊するのは歴史の証明である。その兆がEUの移民問題、欧米の格差社会である。

 偏向報道、洗脳番組、痴呆番組に取り付かれると、自分で考えることが出来なくなり、国の誤った政策に押し流されて、老計、死計も砕かれ下流老人に成り下がる。

 

自分の城は自分で守れ(石田退三)

 自分の健康は自分で守れ。命を全うして、現世では人として命を永らえるべし。あの世に行ってから、佛になるべく佛道に励めばよい。あの世では時間は一杯ある。現世では人として最期まで現役で社会に貢献すべし。それが「成人」(じょうじん vs 成仏)になる修行である。あるべき姿でないことを教えてくれるのが宗教である。今は成人になれず「小人(ことな)」のまま成仏する人が多い。せめて大人になって欲しい。人生最大の仕事は、己の命の全うである。

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  馬場恵峰書   日中文化資料館蔵
 

2021-11-26  久志能幾研究所通信 2220  小田泰仙

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2021年11月25日 (木)

色は匂えど散りぬるを

 

 人の器官には寿命があり、結果として人には限られた寿命しか与えられていない。いつもは忘れているその原則を、私の30年来の英語の師である後藤悦夫先生の病気で思い知らされた。

 2016年7月15日、後藤先生に連絡を取ったら、背骨が疲労骨折して安静治療中とのことで驚いた。別にどこかで打ったわけではなく、寝ているだけで疲労骨折をしたという。治療は安静にしているしか手がないという。寝たきりになると足腰が弱って、ますます体力が減退するので心配であるが、私には、アドバイスを為す術さえない。

 先生は現在82歳、食事、運動にも特に気を付けて生活を続けてこられて、血圧も薬を飲まれてはいるがほぼ正常、頭脳明晰、目も近視以外は正常である。先年、心臓の手術をされた際、大量に投薬された薬のせいで、体調がおかしくなったという。それも影響しているかもしれない。

 

 2016年7月の馬場三根子先生からハガキの文言で「梅雨はまだ開けきれず曇ったりのお天気で私ども高齢者は体のあちこち痛みます」を読むと、ドキッとする。いくら健康管理に注意を払っても、もって生まれた個体差と加齢には如何ともしがたいのを、自分の体と後藤先生の病状で痛感した。

 

 100歳の伊與田先生、92歳の今川順夫会長、89歳の馬場恵峰先生、今まで元気であった後藤先生を間近に見ていると、健康管理をしっかりすれば、誰でも90歳までくらいは楽勝だと勘違いをしていた。人間は生物である限り、いつかは寿命が来る。(2016年当時記)

 それが2021年初には、河村義子先生を含めて6名の師が此の世を去ってしまった。

 

仏壇の花の命

 そんな意識で仏壇に供えた花を見ると、同じ花でも1週間も経つと、まだシャキッとしている花、萎れて首を垂れている花とその差が歴然とあるのに考えさせられる。いくらお水を替えても植物毎の寿命の差は如何ともしがたい。まるで人間の寿命の差を見るがごときである。ご先祖様は仏壇に供えたお花で人生を教えてくれている。

 

人生は、色は匂えど散りぬるを

 である。どんなに美しく咲き誇っても、どんなに栄華を極めても、生ある者はいつか散る運命である。そのなかでどうやって生きていくかが問われる。その中で一番大事なのは健康管理である。死んでもいいから健康管理最優先である。生死は佛様が決めてくれる。これこそが老計・死計である。

 健康の「健」は体の健やかさであるが、「康」は心の健やかさである。ストレスへの耐力がないから、タバコや食べ過ぎ、運動不足に陥る。その根本原因を無くさないと、健康管理もままならぬ。寿命に個別差があるのは致し方ないが、せめて頂いた寿命は100%を全うしたいと思う。

 

緩慢なる自殺

 もって生まれた寿命の個体差を、更に拡大する因子がタバコ、大食・飲酒、運動不足、ストレスである。若いときは寿命など意識にも上らないが、還暦を過ぎると、あちこちと体の不調が痛切に意識させられる。そんな大事な寿命を、煙草や大食、過度の飲酒の習慣で短くしている人は、命と医療費の無駄使いをしている。火葬場で灰になる前に、タバコで約10年間の命を煙にしている。

 ガンになる人が全体で62%に達する現代で、その原因が、タバコ30%、大食・飲酒30%、運動不足5%の影響因子だという。分かっていて、体に悪いことを続けるのは緩慢なる自殺である。そんな命があるなら、金を出すから売ってくれと言う難病の人がごまんといる。タバコは心の病気である。いくら忠告をして禁煙を説いても、ニコチン地獄に堕ちた人を、素人では救い上げられない。ニコチン中毒症という病気なのだから、医師の治療を受けないと禁煙はできない。病院に行くか行かないかは、己の命に対する慈しみがあるかどうかである。

 

命の認知症

 肥満も自分の命の認知症なのだから、心を直さない限り、肥満は治らない。食べても食べても満腹感がない飢餓地獄は、過度なストレスが生きる目的を喪失させ、諦め細胞を増殖している。根本原因を除去して心のガン細胞の増殖を防がないと地獄から抜け出せない。何の為に生まれてきて、頂いた命をどう生かすのか。なぜ死に急ぐ。息をしている内は、未だやるべきことが残っている。生き急げ。やるべきことに命をかけよ。それが死計である。

 

 

ニコチン地獄に落ちた衆生

 ニコチン地獄に堕ちた衆生を救い上げることは、慈悲深くとも非力なオダ佛様にも難行である。死神が、禁煙できない弱い心を爪で掴んで手放さない。

 

肥満地獄

 肥満は佛様からのイエローカード

 

細胞の窓際族

 適度な運動をしないのは、体の細胞が適度な運動を欲しているのを無視する自分への冷酷な仕打ちである。適度な運動をしないのは、自分の細胞を窓際族にするようなもの。その先は自分株式会社からの早期退社、細胞の早期死滅しかない。頭も使わなければ、脳細胞の死滅で認知症になる。「使わない器官は退化する」が生物の鉄則である

 

2021-11-25 久志能幾研究所通信 2219  小田泰仙

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2021年5月12日 (水)

生前葬としての写経書展

 

 2016年12月8日、長崎県波佐見町で開催された「馬場恵峰卒寿記念写経書展」を撮影するため、福岡空港から高速バスで波佐見町を訪れた。この写経展は、大正・昭和・平成と、今まで誰も成し遂げていない。馬場恵峰師の90歳という年齢から考えると、この写経書展を今回開催された師の尊い想いが会場から伝わってくる。

 馬場恵峰師の人間としての歩みの証がこの写経展である。師はこの写経書展を己の生前葬として、自分の想い、書を通じて仏との語らい、宗派を超えての写経で歩みし生きざまを、参列の皆さんの人生への餞として開催したと語られた。

 

 人間は、父母、所、時を選ばずして、この世に生を受け、避けられない生老病死を経て、浄土に旅立つ。恵峰師は、生きている間に、どれだけ多くのお世話とご縁を頂いたか、その報恩感謝の気持ちをこの写経書展で示された。恵峰師は、それができるもの「今のうち、生きているうち、日の暮れぬうちで、感謝の表現をするなら、生きているうちにすべき」として卒寿記念の開催の決意をされた。

 恵峰師は、生まれ故郷で写経書展を開催できる仏縁、それに足を運んでくれる人との仏縁は、天の計らいであるという。生涯の旅をする皆様方が、写経書展で仏法の花の一端に触れていただき、現実の歩みの半生と先祖供養の一端として受け止めて頂けたら、恵峰師として本望だという。

 

運命のからくり

 「天之機緘不測」(菜根譚)、天が人間に与える運命のからくりは、人知では到底はかり知ることはできまい。「だからこそ心機一転、日々大切に、年々歳々、生き活かされる人生を大切に、余生を正しく生きよ」と恵峰師は力説される。

 人間の持つ生活模様の多様性が限度を超え、人生・生命観の実相、人間と動物を分ける生命の実相が、時代の喧騒の中で忘れられようとしている。恵峰師は、テレビ・スマホに代表される虚鏡の上に踊る虚花に惑わされて、人間として大切なことを忘れているのではと危惧される「時代の風潮に惑わされず、人間としての歩みを、一歩一歩しっかりと踏みしめて欲しい」と恵峰師は訴える。

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 競争と道

 時代の流れで、世の書展は競書が多い。それは他人相手の闘いである。またその書展では、判別不能な抽象的書体を競い合う自己満足の世界に堕している例が多い。文字とは何かの原理原則を忘れた邪芸である。それに反して、写経書展は全くその対極にあり、自分との闘いの所業の展示である。それは仏道修行の一環であろう。「競争」という言葉は、明治以前には日本に存在しない。日本が開国して西洋の思想が入ってきて、福沢諭吉翁が翻訳時に創作した言葉である。西洋での弱肉強食の競争には必ず、勝者と敗者が生まれる。

 仏教にはその思想が薄い。東洋思想は共生である。日本で別の形で花開いたの形が「道」の思想である。武士道、書道、華道、等の芸事には勝者も敗者もない。日本の哲学は共生、利他、切磋琢磨、自己精進という言葉で象徴される。日本では、他人を蹴落として勝者になるのは美学とされない。それに写経はよく似合っている。西洋で、修行として聖書を写経するとも聞いたことがない。是非ではなく、そういう世界が存在するのを我々は認めるだけでよかろう。

 

 恵峰師は、この写経展を総括して「老人の身は従容として、時を刻む流れに任せる人生なれば、諸冊に学び、残れし人生、その所、時を大切に、余生を楽しむ歩みこそ大切なり」と写経展を回顧して漢詩を揮毫された。

 

自家のお墓改建

 ご縁があり、2015年11月に当家のお墓を三基再建した。その時、お墓の納めるため、毎日一枚のペースで、お墓の開眼法要前の四ケ月程で、為写経を百十枚ほど書き上げた。毎日、斎戒沐浴してからの為写経である。その後、三か月ほど中断したが、思いついて写経を再開して、今は5日に一枚のペースで為写経を継続している。

 写経をして体得したことは、写経は誰のためでもない、己の佛道修行なのだ、である。修業とは自分を見つめることである。謙虚になると自分の至らなさが見えてくる。ご先祖のご恩が見えてくる。恵峰師もそれを目指して写経をされてきたのだと思う。師は今までに2万字を写経された。それも半紙ではなく、軸や巻物に、である。半端な所業ではない。

 

佛縁

 今回、自分として写経書展を撮影する佛縁を頂いたことに感謝である。恵峰師との出会いの縁、書の撮影のため現代最高の撮影機材を買えたご縁、ここ数年間、恵峰師の書の撮影をしてきてベストの撮影技術を習得できたご縁、撮影のお手伝いのお弟子さんたちの協力のご縁があってこの写経展の写真集が完成した。どれが欠けてもこの写真集は生まれなかった。まさに佛縁である。

 

 「生前葬」では語感はよくないが、実際、生前葬は良いものである。渡部昇一先生もそれに類したことをして、良かったと感想を述べておられる。生前に親しい人たちと顔を合わせ、会食で今まで生きてきたご恩に報いる。生前葬をした後、恩師や友人の訃報に接せると、あのとき生前葬でお互い元気な姿で、昔を懐かしあえたのが何よりの供養だったという。死んでから葬式であってもその喜びはない。写経書展という生前葬で、多くの先生の知人が訪れてくれた。何よりの悦びであると思う。

 

 2016年12月8日の写経展から約4年後、2021年1月1日に恵峰先生は逝去された。先生が元気で良き時に、新型コロナも無き時に、生前葬として写経書展を開催されて良かった。生前葬は元気なうちに済ませるのが良いようだ。

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 写経書展会場    2016128日(開場前夜)

 壇上に100m巻物、50m巻物が並ぶ

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写経書展会場    2016129

2021-05-12   久志能幾研究所通信 2017 小田泰仙

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2021年5月11日 (火)

ご縁のリストラクチャリング

 

悪手の山     

 米長邦夫元名人は、その著書で、「人は悪手の中を歩いている、一手間違えれば簡単に人生が暗転する」という。同じ意味で、人生には多くの縁が溢れているが、その多くが悪縁である。因果応報で、悪縁と交われば人生は下り坂である。悪縁の人は、悪縁を招く習慣と考え方とそれに纏わりつく人脈がある。その腐臭がすさまじいが、鈍感な人はそれに気が付かない。知らずに付き合うと、悪縁が心に染み込む。「君子危うきに近寄らず」でありたいが、宮仕え生活ではそれもままならない。サラリーマン時代はその回避が至難の業であり、かなりの被害を受けてきた。まるでタバコ副煙流の害毒如きである。

 しかし定年後に組織を離れたことで、寄ってくる縁を選別できるようになった。些細なことや対応ぶりから、友人、知人、業者の人生哲学が垣間見えて、縁の鑑定ができる。それが悪性の縁と分かった時点で、その縁を切ることにした。よき人生は良きご縁から始まる。悪縁を切ると、空いた空間に良きご縁がすり寄ってくる。組織を離れたら、縁は自分で選びたい。

 

人生のリストラ

 リストラとは、事業の再構築(restructuring)が本来の意味で、首切りは単なる一方法論である。還暦後の第二の人生を門出して、正しい道を歩むために、人生再構築のリストラが必要である。

 企業経営でも、不正をする人、業績を下げる人、定年になった人はお払い箱である。そういう新陳代謝をしないと会社が左前になってしまう。同じ考えで、自分株式会社に害をなす縁者はお払い箱にして、リストラをしないと自分の人生が傾いてしまう。切るべき縁を切らないから腐れ縁となる。腐った縁は、周りに害を及ぼす。人生経営の6Sをして縁の整理整頓をすべきである。

 

食のリストラ

 生きていく為には食べなければならぬ。その食料が、添加物まみれ、農薬まみれ、養殖魚の病気防止で抗生物質まみれ、ショートニング、マーガリン、植物油まみれの加工食品でもお腹は膨れるし、当面は生存が可能である。しかしその食物は遅延性の毒である。10年、20年のスパンで食の人生を考えた場合、そのツケを慢性病、成人病、ガンという病気という形で支払う日がやってくる。日本をはじめ先進国で加工食品が増えるに比例して、医療費が増大している。

 

ご縁のリストラ

 社会で生きていく上では、ご縁が必要だ。しかし質の悪い縁に囲まれると、それが遅延性の毒として人生を覆い、不運という人生生活病に侵される。

 約束を守らない人、こちらが散々お世話をしたのに、恩を仇で返す輩、信心深くても己だけの幸せを願う人、苦情対応で不誠実な企業、新興宗教にはまっている人、車検を依頼した車を私用で乗り回す修理工場社長(ドライブレコーダで露見)、人の迷惑を顧みず自慢話ばかりする元副社長、前職の不祥事の責任を回避する後任の長、先祖を大事にしない親類縁者……….よくこれだけいい加減な人がいるものかと呆れるばかり。そういう人と付き合うと血圧が上がるので、自分の組織を守るため、その悪縁を切ることにしている。

 

人生のご縁収支決算

 人生とは、集めた¥高を誇る競争ではない。円を集めた額を誇示するのではなく、ご縁に接し、その縁に報い、よき縁を人にどれだけ分福したかに価値がある。人生は集めたものでなく、どれだけ与えたかで評価される。

 いくら集めてもそれを喜ぶのは己だけでは哀しい。お金は、あの世には持っていけない。人から分捕った分、不幸になった人がいる。グローバル経済主義では、99人の富をたった1人が強奪独占する。強奪した富には多くの人の怨恨が籠っている。

 

与えるご縁

 人に与えたことは多くの人が評価してくれ、その結果として与えたご縁に花が咲き、実が結ぶ。それでこそ、自分の人生の意味がある。悪しき縁からは、良き人生は生まれない。その縁の選別眼が人生価値を左右する。

 

ご縁の生老病死

 どんなよきご縁も、歳月という名のリストラが襲ってくる。歳月はご縁を待ってはくれない。どんなご縁も偶然から生まれ、生まれたご縁も、その死は必然である。だからこそ大事に育てて、ご縁を見送りたい。後悔のない見送りをするため、尽くして尽くせば、悔いはない。

Img_44131s  馬場恵峰書

2021-05-11 久志能幾研究所通信 2016 小田泰仙

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2021年2月16日 (火)

「死を経営する」 滅望のための死の準備 

 

 死ぬ前に、あれもやりたかった、これもやりたかったのにと、本当の願望を滅するために(滅望)、還暦を過ぎたら死の準備をしよう。死を前に絶望するには相応の準備が必要だ。死は人生最大の行事である。そのうち手が震え、頭がボケてきて、その準備ができなくなる。今からでも遅くない。頭と手足が動くうちに死の準備をしよう。死の準備をするとは、生を全うすること。最大限に生きること。準備不足の後悔の中で死にたくはない。死のプロジェクトを経営して世に貢献して死にたい。

 生は偶然だが、死は必然である。私が65歳の時、中学の同窓生の2割が他界していた。

 

死を経営しよう

 死にあたり、持てる資源を最大限活用して、逝こう。持てる資源を死蔵したまま死んでは、その資源が可哀そうだ。その資源にも魂が籠っている。

 経営とは持てる資源を最大限に活用して、世のために働くこと。自分の持てる資源を使い切って死のう。それが人生の経営であり、死を経営することだ。

 サムソンの総帥のように、72歳に倒れ、6年間も意識不明となり、数兆円の財産を残して死んでも、人生の経営がうまくいったとは言えまい。

 自分の死から産む付加価値を考えよう。そうすれば死が有意義になる。そうすればおちおち、死んでなんかいられなくなる?

 自分のためだけの金儲けは経営ではない。それは拝金主義者の餓鬼の行動。

 地位名誉に長年縛られていて、それが解放された途端に死んでは、何のために生きたのか。それは地位名誉の奴隷である。

 

死の戦略を立てよう

 人生とは限られた時間だ。あれもやりたい、これもやりたいでは時間が足りない。「何をやらないか(略)」を明確にしよう。それがないから、人生最後で後悔をする。死は突然やってくる。その時は従容として死のう。死ぬ時は死ぬのが世のためだ。それを寝たきりで生き永らえるから家族を不幸にする。

 

成仏しよう

 死ぬことが成仏ではない。此の世で佛になることが成仏である。多くの人はそれが出来ないから、死んで成仏する。できれば生前に成仏してから、旅立とう。だからその修行が大変なのだ。佛のようになれないから、なかなか死ぬわけにいかない。

 

いい人を止めよう

 あるがままに生きよう。恰好を付けるから疲れる。

 

戒名

 私は癌を患い覚悟をして2年前に戒名を導師から授かった。

 葬式の時に付ける戒名は、応急処置である。本来、生前に導師と相談して授かるのが正規である。私はその戒名を墓誌に彫り朱を塗った。準備万端である。

 戒名とは戒めの名前である。本名は、両親がこうあって欲しいと名付けたが、実際はそうでない生き方をしてしまった。あの世で、此の世では実現できなかった己の生きざまを目標として名付けたのが戒名である。生前から、あの世での生きざまを背負って生きて行けば、あの世の事前練習ができて、実際にあの世に行った時に楽である。

 

お墓

 人並みにお墓くらい準備をしよう。ハカない人生ではつまらない。墓がないと親戚から笑われる。

 自家のお墓は、耐震構造とした。デザインにもこだわってすっきりした形状にした。メンテナンスフリーで雑草が生えないようにもした。後の人のことを思ってのこと。

 

遺言

 癌の手術前に、遺品の遺言状も作成した。

 大事なものさえ押さえれば、後は野となれ山となれである。

 

遺品の整理

 人生は山を登るようにモノを集める。山を下るときは、少しづつ荷物を降ろしていこう。モノを持ち過ぎていると、着陸時に衝撃が大きい。

 

会いたい人にお別れを

 自分よりも相手の命がいつまでもあるわけではない。便りがないと思っていたら、新型コロナで死んでいたとう話が多い。

 新型コロナで外出を控えていたら、馬場三根子先生も馬場恵峰先生も亡くなられてしまった。

 その人はソウルメートかどうか、自問しよう。それで人間関係の真偽が見える。新型コロナと私の癌で、真の知人かどうかが識別された。

 

行けるときに行きたい場所に行く

 新型コロナで、行きたい海外も行けなくなった。良い時にウィーンに行って良かった。今ではとても行ける状態ではない。

 

立派に死ぬために、直前まで健康でありたい

 そのためにオダ佛教健康読本の執筆が忙しい。

 最後の1か月程は致し方ないが、それまでは健康で現役で頑張りたい。

 そのお手本が馬場恵峰先生であった。

 

やりたいことはやってしまう、買えるものは買おう

 やれなかったのではない。やらなかっただけ。やりたいことをやれば、それでツキモノが落ちる。

 私も前から欲しかったレクサスを買って、ツキモノが落ちた。買ってみれば、ああこんなものか、今までの憧れは何だったんだ、という気になった。

 そのうち金があっても買えなくなる。

 

美味しいものは食べておく

 そのうち病気になり、食べたいものも食べられなくなる。

 私も癌の手術をしてからたべられなくなった。

 

幸福度を最高に上げておく

 欲望が大きすぎると、幸福度が上がらない。

延命治療拒否を文書にしておく

 植物人間で生き永らえても、社会に迷惑をかける。

 

縁なき衆生とは縁を切っておく

 財産がある衆生に限って、生きざまが汚い。早めに縁を切ろう。

 

豊かな気持ちで逝けるように、身の回りは整理整頓

 不要なモノを整理して、良いものに囲まれ幸せになろう。

 

人生の最終チェックをするため、年に一度は山にこもる

 山ごもりはホテルでもよい。頭の整理ができる。

 人生をまとめる必要はない。整理すれば、自ずと答えが出る。

 何ごとも最終確認は必要だ。何が死の準備で未完は何かを確認しよう。

 

できるなら、自分が生きた証を残しておこう

 私は本の出版とブログの掲載である。

 ブロブも私が死んだらそのアカウントが消えるので、出版を計画している。

 

あの世で会う人を計画しよう。

 死が楽しく、怖くなくなる。あの世でならアインシュタインにも会えるだろう。松下幸之助さんにも会えるだろう。で、何を話すのか、今から計画しよう。その想定対談集を死ぬまでに書こう。

039a34431s  馬場恵峰書

2021-02-16   久志能幾研究所通信 1923 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月 4日 (火)

ご縁のリストラクチャリング

悪手の山     

 米長邦夫元名人は、その著で、「人は悪手の中を歩いている、一手間違えれば簡単に人生が暗転する」という。

 同じ意味で、人生には多くの縁が溢れているが、その多くが悪縁である。因果応報で、悪縁と交われば人生は下り坂である。悪縁の人は、悪縁を招く習慣と考え方とそれに纏わりつく人脈がある。その腐臭がすさまじいが、鈍感な人はそれに気が付かない。知らずに付き合うと、悪縁が心に染み込む。「君子危うきに近寄らず」でありたいが、宮仕え生活ではそれもままならない。サラリーマン時代はそれを避けることは、至難の業であったので、かなりの被害を受けてきた。まるでタバコ副煙流の害毒如きである。

 

ご縁の選択肢

 しかし定年後に組織を離れたことで、寄ってくる縁を選別できるようになった。些細なことや対応ぶりから、友人、知人、業者の人生哲学が垣間見えて、縁の鑑定ができる。それが悪性の縁と分かった時点で、その縁を切ることにした。よき人生は良きご縁から始まる。悪縁を切ると、空いた空間に良きご縁がすり寄ってくる。組織を離れたら、縁は自分で選びたい。

 

人生のリストラ

 リストラとは、事業の再構築(restructuring)が本来の意味で、首切りは単なる一つの方法論である。還暦後の第二の人生を門出して、正しい道を歩むために、人生再構築のリストラが必要である。

 企業経営でも、不正をする人、業績を下げる人、定年になった人はお払い箱である。そういう新陳代謝をしないと会社が左前になってしまう。同じ考えで、自分株式会社に害をなす縁者はお払い箱にして、身辺整理をしてリストラしないと自分の人生が傾いてしまう。切るべき縁を切らないから腐れ縁となる。腐った縁は、周りに害を及ぼす。人生経営の6Sをして縁の整理整頓をすべきである。

 

食料というご縁

 生きていく為には食べなければならぬ。その食料が、添加物まみれ、農薬まみれ、養殖魚の病気防止で抗生物質まみれ、ショートニング、マーガリン、植物油まみれの加工食品でもお腹は膨れるし、当面は生存が可能である。しかしその食物は遅延性の毒である。10年、20年のスパンで食の人生を考えた場合、そのツケを慢性病、成人病、ガンという病気という形で支払う日がやってくる。日本をはじめ先進国で加工食品が増えるに比例して、医療費が増大している。

 良薬口に苦し、医食同源を基本に、食べ物とのご縁を大事にしたい。

 

生きていくためのご縁

 社会で生きていく上では、ご縁が必要だ。しかし質の悪い縁に囲まれると、それが遅延性の毒として人生を覆い、不運という人生生活病に侵される。

 約束を守らない人、こちらが散々お世話をしたのに、恩を仇で返す輩、信心深くても己だけの幸せを願う人、苦情対応で不誠実な企業、新興宗教にはまっている人、車検を依頼した車を私用で乗り回す修理工場社長(ドライブレコーダで露見)、人の迷惑を顧みず自慢話ばかりする元副社長、前職の不祥事の責任を回避する後任の長、先祖を大事にしない親類縁者……….よくこれだけいい加減な人がいるものかと呆れるばかり。そういう人と付き合うと血圧が上がるので、自分の組織を守るため、その悪縁を切ることにしている。

 

ご縁のリバイバルプラン

 そのご縁が良いか悪いかは、誰にも分からない。悪だくみをしている人には、詐欺の話しがよい話になるだろう。善人にはその逆である。

 確実に言えることは、じっとしていて動かなければ、永遠にご縁はやって来ない。まず動いてみて、感触が良ければそれに手を出すことだ。今まで数十年間も生きてきて、直観という能力で物事を判断できるはずだ。それに素直に順うことである。来るものは拒まず、去る者は追わず。あとは佛様がよきに計らってくれる、と信じよう。信ずるものは裏切られる? 裏切られても良いではないか。それから、その縁を切ればよいのだ。それで一つ賢くなる。おだ仏教では、そうしている。

 

人生のご縁収支決算

 人生とは、集めた¥高を誇る競争ではない。円を集めた額を誇示するのではなく、ご縁に接し、その縁に報い、よき縁を人にどれだけ分福したかに価値がある。

 人生は集めたものでなく、どれだけ与えたかで評価される。いくら集めてもそれを喜ぶのは己だけでは哀しい。お金は、あの世には持っていけない。人から分捕った分、不幸になった人がいる。グローバル経済主義では、99人の富をたった1人が強奪独占する。強奪した富には多くの人の怨恨が籠っている。

 人に与えたことは多くの人が評価してくれ、その結果として与えたご縁に花が咲き、実が結ぶ。それでこそ、自分の人生の意味がある。悪しき縁からは、良き人生は生まれない。その縁の選別眼が人生価値を左右する。

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2020-08-04 久志能幾研究所通信 1690  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2020年8月 2日 (日)

相田みつをが出逢った逆縁の菩薩

 相田みつを氏は学生の時、喫煙の濡れ衣を着せられ、不良学生と烙印を押された。そのため相田氏は、軍事教練の教官から徹底的に虐められた。結果として軍事教練の単位が、相田氏だけとれず落第となり、進学できなかった。

 当時、軍事教練の単位がないと進学できない時代である。氏はそのため寂しい青春を過ごすことになり、ある縁で在家ながら禅の道を学んだ。それが後に書の道に進む縁に結びつく。

 大学に進んでいたら、学徒動員で戦死していた恐れがある。氏はこの軍事教官を「逆縁の菩薩」と呼んでいる。なにが人生で幸いするか、人知を超えた天の計らいである。この軍事教官は、相田みつを氏には福の神であった。

 

馬場恵峰師の見た夢

福の神・貧乏神

 美しく着飾った女性が資料館を訪ねて来た。どなたでしょう…と聞くと「私は富を与える福の神だ」と答えた。館長は大喜びで奥へ迎え入れた。しばらくしてみすぼらしいなりをして色青ざめた女が訪ねて来た。聞くと、「私は貧乏神だ」と言う。驚いて館長は、貧乏神さまでもおことわりと、追い返そうとすると女は言った。「私を追い返すの…..愚かな事よね….と。先に迎え入れられた福の神は、私の姉で姉妹はいつも離れた事はないのだから、私を追い出せば、姉もいなくなりますよ….」と言って、みすぼらしい女は出て行った。間もなく姉の福の神もこの館から消え去っていた。

 館長は夢から醒めると、この様をよく考え直して見た。人間というものは一方的に都合の良いことのみを願っても、それは達成されるものではない。福があるから禍があり、良いことがあれば悪いこともある。生があるから死がある。相合う喜びあれば別れの悲しみあり。これが人生の真実。相反する禍福を超えて執着しないところにこそ堅実な人生の生き方と….地位が上がった、収入が増えた….そういう得意の絶頂で、禍の谷の深さを意識しない位あぶないものはない….館長は良い反省の夢と手を合わせた。資料館造って20年様々な出逢い喜び悲しみ別れ等々。落成記念写真の120名来賓の中、物故者も20名を超え、20名以上の人が病院そのほかでなかなか会えない。今この四曲の200余の和歌、日頃訪中の折々、いろは歌等々思い出多く自作たるもの、下記つづりしものにして、思いもよらず親愛なる新立大工の心配りのものにして、全長二米八十の屏風本体と共に、館落成20周年の得難き人情交友のあかしとして他に類なき尊いものと言えよう。戌子の上冬の夜も次第に深くなり。また齢82翁の今日も終らんとする。みかん園も活気づく頃も、もう20回。山里の四季の中で過ごす事の有難を感謝して手の痛みと付き合いながら重い深きひと時、天之機緘不測、即天が人間に与える運命のからくりは人知では到底はかり知る事はできない。残された人生に、唯一筋書芸三昧の歩みに餘念なく。館長の夢は大きな玉手箱と…今日も終らんとす。ここに随筆として一篇即興書きどどむ。

          平成20年10月21日三宝斎恵峰

 

 自分の人生を振り返り、谷があるから山がある。谷での試練が有るから、成長ができた。人生塞翁が馬である。いいことばかりの人生などない、が70近くまで生きてきて学んだ真理である。

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 福の神・貧乏神の板書を解説する馬場恵峰師  図書館にて 2011年4月2日

 この板書は書の収納箱の蓋に書かれている。

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2020-08-02 久志能幾研究所通信 1686 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。