l4_詞天王が詠う老計・死計 Feed

2021年5月12日 (水)

生前葬としての写経書展

 

 2016年12月8日、長崎県波佐見町で開催された「馬場恵峰卒寿記念写経書展」を撮影するため、福岡空港から高速バスで波佐見町を訪れた。この写経展は、大正・昭和・平成と、今まで誰も成し遂げていない。馬場恵峰師の90歳という年齢から考えると、この写経書展を今回開催された師の尊い想いが会場から伝わってくる。

 馬場恵峰師の人間としての歩みの証がこの写経展である。師はこの写経書展を己の生前葬として、自分の想い、書を通じて仏との語らい、宗派を超えての写経で歩みし生きざまを、参列の皆さんの人生への餞として開催したと語られた。

 

 人間は、父母、所、時を選ばずして、この世に生を受け、避けられない生老病死を経て、浄土に旅立つ。恵峰師は、生きている間に、どれだけ多くのお世話とご縁を頂いたか、その報恩感謝の気持ちをこの写経書展で示された。恵峰師は、それができるもの「今のうち、生きているうち、日の暮れぬうちで、感謝の表現をするなら、生きているうちにすべき」として卒寿記念の開催の決意をされた。

 恵峰師は、生まれ故郷で写経書展を開催できる仏縁、それに足を運んでくれる人との仏縁は、天の計らいであるという。生涯の旅をする皆様方が、写経書展で仏法の花の一端に触れていただき、現実の歩みの半生と先祖供養の一端として受け止めて頂けたら、恵峰師として本望だという。

 

運命のからくり

 「天之機緘不測」(菜根譚)、天が人間に与える運命のからくりは、人知では到底はかり知ることはできまい。「だからこそ心機一転、日々大切に、年々歳々、生き活かされる人生を大切に、余生を正しく生きよ」と恵峰師は力説される。

 人間の持つ生活模様の多様性が限度を超え、人生・生命観の実相、人間と動物を分ける生命の実相が、時代の喧騒の中で忘れられようとしている。恵峰師は、テレビ・スマホに代表される虚鏡の上に踊る虚花に惑わされて、人間として大切なことを忘れているのではと危惧される「時代の風潮に惑わされず、人間としての歩みを、一歩一歩しっかりと踏みしめて欲しい」と恵峰師は訴える。

.

 競争と道

 時代の流れで、世の書展は競書が多い。それは他人相手の闘いである。またその書展では、判別不能な抽象的書体を競い合う自己満足の世界に堕している例が多い。文字とは何かの原理原則を忘れた邪芸である。それに反して、写経書展は全くその対極にあり、自分との闘いの所業の展示である。それは仏道修行の一環であろう。「競争」という言葉は、明治以前には日本に存在しない。日本が開国して西洋の思想が入ってきて、福沢諭吉翁が翻訳時に創作した言葉である。西洋での弱肉強食の競争には必ず、勝者と敗者が生まれる。

 仏教にはその思想が薄い。東洋思想は共生である。日本で別の形で花開いたの形が「道」の思想である。武士道、書道、華道、等の芸事には勝者も敗者もない。日本の哲学は共生、利他、切磋琢磨、自己精進という言葉で象徴される。日本では、他人を蹴落として勝者になるのは美学とされない。それに写経はよく似合っている。西洋で、修行として聖書を写経するとも聞いたことがない。是非ではなく、そういう世界が存在するのを我々は認めるだけでよかろう。

 

 恵峰師は、この写経展を総括して「老人の身は従容として、時を刻む流れに任せる人生なれば、諸冊に学び、残れし人生、その所、時を大切に、余生を楽しむ歩みこそ大切なり」と写経展を回顧して漢詩を揮毫された。

 

自家のお墓改建

 ご縁があり、2015年11月に当家のお墓を三基再建した。その時、お墓の納めるため、毎日一枚のペースで、お墓の開眼法要前の四ケ月程で、為写経を百十枚ほど書き上げた。毎日、斎戒沐浴してからの為写経である。その後、三か月ほど中断したが、思いついて写経を再開して、今は5日に一枚のペースで為写経を継続している。

 写経をして体得したことは、写経は誰のためでもない、己の佛道修行なのだ、である。修業とは自分を見つめることである。謙虚になると自分の至らなさが見えてくる。ご先祖のご恩が見えてくる。恵峰師もそれを目指して写経をされてきたのだと思う。師は今までに2万字を写経された。それも半紙ではなく、軸や巻物に、である。半端な所業ではない。

 

佛縁

 今回、自分として写経書展を撮影する佛縁を頂いたことに感謝である。恵峰師との出会いの縁、書の撮影のため現代最高の撮影機材を買えたご縁、ここ数年間、恵峰師の書の撮影をしてきてベストの撮影技術を習得できたご縁、撮影のお手伝いのお弟子さんたちの協力のご縁があってこの写経展の写真集が完成した。どれが欠けてもこの写真集は生まれなかった。まさに佛縁である。

 

 「生前葬」では語感はよくないが、実際、生前葬は良いものである。渡部昇一先生もそれに類したことをして、良かったと感想を述べておられる。生前に親しい人たちと顔を合わせ、会食で今まで生きてきたご恩に報いる。生前葬をした後、恩師や友人の訃報に接せると、あのとき生前葬でお互い元気な姿で、昔を懐かしあえたのが何よりの供養だったという。死んでから葬式であってもその喜びはない。写経書展という生前葬で、多くの先生の知人が訪れてくれた。何よりの悦びであると思う。

 

 2016年12月8日の写経展から約4年後、2021年1月1日に恵峰先生は逝去された。先生が元気で良き時に、新型コロナも無き時に、生前葬として写経書展を開催されて良かった。生前葬は元気なうちに済ませるのが良いようだ。

11

12

 写経書展会場    2016128日(開場前夜)

 壇上に100m巻物、50m巻物が並ぶ

13

写経書展会場    2016129

2021-05-12   久志能幾研究所通信 2017 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年5月11日 (火)

ご縁のリストラクチャリング

 

悪手の山     

 米長邦夫元名人は、その著書で、「人は悪手の中を歩いている、一手間違えれば簡単に人生が暗転する」という。同じ意味で、人生には多くの縁が溢れているが、その多くが悪縁である。因果応報で、悪縁と交われば人生は下り坂である。悪縁の人は、悪縁を招く習慣と考え方とそれに纏わりつく人脈がある。その腐臭がすさまじいが、鈍感な人はそれに気が付かない。知らずに付き合うと、悪縁が心に染み込む。「君子危うきに近寄らず」でありたいが、宮仕え生活ではそれもままならない。サラリーマン時代はその回避が至難の業であり、かなりの被害を受けてきた。まるでタバコ副煙流の害毒如きである。

 しかし定年後に組織を離れたことで、寄ってくる縁を選別できるようになった。些細なことや対応ぶりから、友人、知人、業者の人生哲学が垣間見えて、縁の鑑定ができる。それが悪性の縁と分かった時点で、その縁を切ることにした。よき人生は良きご縁から始まる。悪縁を切ると、空いた空間に良きご縁がすり寄ってくる。組織を離れたら、縁は自分で選びたい。

 

人生のリストラ

 リストラとは、事業の再構築(restructuring)が本来の意味で、首切りは単なる一方法論である。還暦後の第二の人生を門出して、正しい道を歩むために、人生再構築のリストラが必要である。

 企業経営でも、不正をする人、業績を下げる人、定年になった人はお払い箱である。そういう新陳代謝をしないと会社が左前になってしまう。同じ考えで、自分株式会社に害をなす縁者はお払い箱にして、リストラをしないと自分の人生が傾いてしまう。切るべき縁を切らないから腐れ縁となる。腐った縁は、周りに害を及ぼす。人生経営の6Sをして縁の整理整頓をすべきである。

 

食のリストラ

 生きていく為には食べなければならぬ。その食料が、添加物まみれ、農薬まみれ、養殖魚の病気防止で抗生物質まみれ、ショートニング、マーガリン、植物油まみれの加工食品でもお腹は膨れるし、当面は生存が可能である。しかしその食物は遅延性の毒である。10年、20年のスパンで食の人生を考えた場合、そのツケを慢性病、成人病、ガンという病気という形で支払う日がやってくる。日本をはじめ先進国で加工食品が増えるに比例して、医療費が増大している。

 

ご縁のリストラ

 社会で生きていく上では、ご縁が必要だ。しかし質の悪い縁に囲まれると、それが遅延性の毒として人生を覆い、不運という人生生活病に侵される。

 約束を守らない人、こちらが散々お世話をしたのに、恩を仇で返す輩、信心深くても己だけの幸せを願う人、苦情対応で不誠実な企業、新興宗教にはまっている人、車検を依頼した車を私用で乗り回す修理工場社長(ドライブレコーダで露見)、人の迷惑を顧みず自慢話ばかりする元副社長、前職の不祥事の責任を回避する後任の長、先祖を大事にしない親類縁者……….よくこれだけいい加減な人がいるものかと呆れるばかり。そういう人と付き合うと血圧が上がるので、自分の組織を守るため、その悪縁を切ることにしている。

 

人生のご縁収支決算

 人生とは、集めた¥高を誇る競争ではない。円を集めた額を誇示するのではなく、ご縁に接し、その縁に報い、よき縁を人にどれだけ分福したかに価値がある。人生は集めたものでなく、どれだけ与えたかで評価される。

 いくら集めてもそれを喜ぶのは己だけでは哀しい。お金は、あの世には持っていけない。人から分捕った分、不幸になった人がいる。グローバル経済主義では、99人の富をたった1人が強奪独占する。強奪した富には多くの人の怨恨が籠っている。

 

与えるご縁

 人に与えたことは多くの人が評価してくれ、その結果として与えたご縁に花が咲き、実が結ぶ。それでこそ、自分の人生の意味がある。悪しき縁からは、良き人生は生まれない。その縁の選別眼が人生価値を左右する。

 

ご縁の生老病死

 どんなよきご縁も、歳月という名のリストラが襲ってくる。歳月はご縁を待ってはくれない。どんなご縁も偶然から生まれ、生まれたご縁も、その死は必然である。だからこそ大事に育てて、ご縁を見送りたい。後悔のない見送りをするため、尽くして尽くせば、悔いはない。

Img_44131s  馬場恵峰書

2021-05-11 久志能幾研究所通信 2016 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年2月16日 (火)

「死を経営する」 滅望のための死の準備 

 

 死ぬ前に、あれもやりたかった、これもやりたかったのにと、本当の願望を滅するために(滅望)、還暦を過ぎたら死の準備をしよう。死を前に絶望するには相応の準備が必要だ。死は人生最大の行事である。そのうち手が震え、頭がボケてきて、その準備ができなくなる。今からでも遅くない。頭と手足が動くうちに死の準備をしよう。死の準備をするとは、生を全うすること。最大限に生きること。準備不足の後悔の中で死にたくはない。死のプロジェクトを経営して世に貢献して死にたい。

 生は偶然だが、死は必然である。私が65歳の時、中学の同窓生の2割が他界していた。

 

死を経営しよう

 死にあたり、持てる資源を最大限活用して、逝こう。持てる資源を死蔵したまま死んでは、その資源が可哀そうだ。その資源にも魂が籠っている。

 経営とは持てる資源を最大限に活用して、世のために働くこと。自分の持てる資源を使い切って死のう。それが人生の経営であり、死を経営することだ。

 サムソンの総帥のように、72歳に倒れ、6年間も意識不明となり、数兆円の財産を残して死んでも、人生の経営がうまくいったとは言えまい。

 自分の死から産む付加価値を考えよう。そうすれば死が有意義になる。そうすればおちおち、死んでなんかいられなくなる?

 自分のためだけの金儲けは経営ではない。それは拝金主義者の餓鬼の行動。

 地位名誉に長年縛られていて、それが解放された途端に死んでは、何のために生きたのか。それは地位名誉の奴隷である。

 

死の戦略を立てよう

 人生とは限られた時間だ。あれもやりたい、これもやりたいでは時間が足りない。「何をやらないか(略)」を明確にしよう。それがないから、人生最後で後悔をする。死は突然やってくる。その時は従容として死のう。死ぬ時は死ぬのが世のためだ。それを寝たきりで生き永らえるから家族を不幸にする。

 

成仏しよう

 死ぬことが成仏ではない。此の世で佛になることが成仏である。多くの人はそれが出来ないから、死んで成仏する。できれば生前に成仏してから、旅立とう。だからその修行が大変なのだ。佛のようになれないから、なかなか死ぬわけにいかない。

 

いい人を止めよう

 あるがままに生きよう。恰好を付けるから疲れる。

 

戒名

 私は癌を患い覚悟をして2年前に戒名を導師から授かった。

 葬式の時に付ける戒名は、応急処置である。本来、生前に導師と相談して授かるのが正規である。私はその戒名を墓誌に彫り朱を塗った。準備万端である。

 戒名とは戒めの名前である。本名は、両親がこうあって欲しいと名付けたが、実際はそうでない生き方をしてしまった。あの世で、此の世では実現できなかった己の生きざまを目標として名付けたのが戒名である。生前から、あの世での生きざまを背負って生きて行けば、あの世の事前練習ができて、実際にあの世に行った時に楽である。

 

お墓

 人並みにお墓くらい準備をしよう。ハカない人生ではつまらない。墓がないと親戚から笑われる。

 自家のお墓は、耐震構造とした。デザインにもこだわってすっきりした形状にした。メンテナンスフリーで雑草が生えないようにもした。後の人のことを思ってのこと。

 

遺言

 癌の手術前に、遺品の遺言状も作成した。

 大事なものさえ押さえれば、後は野となれ山となれである。

 

遺品の整理

 人生は山を登るようにモノを集める。山を下るときは、少しづつ荷物を降ろしていこう。モノを持ち過ぎていると、着陸時に衝撃が大きい。

 

会いたい人にお別れを

 自分よりも相手の命がいつまでもあるわけではない。便りがないと思っていたら、新型コロナで死んでいたとう話が多い。

 新型コロナで外出を控えていたら、馬場三根子先生も馬場恵峰先生も亡くなられてしまった。

 その人はソウルメートかどうか、自問しよう。それで人間関係の真偽が見える。新型コロナと私の癌で、真の知人かどうかが識別された。

 

行けるときに行きたい場所に行く

 新型コロナで、行きたい海外も行けなくなった。良い時にウィーンに行って良かった。今ではとても行ける状態ではない。

 

立派に死ぬために、直前まで健康でありたい

 そのためにオダ佛教健康読本の執筆が忙しい。

 最後の1か月程は致し方ないが、それまでは健康で現役で頑張りたい。

 そのお手本が馬場恵峰先生であった。

 

やりたいことはやってしまう、買えるものは買おう

 やれなかったのではない。やらなかっただけ。やりたいことをやれば、それでツキモノが落ちる。

 私も前から欲しかったレクサスを買って、ツキモノが落ちた。買ってみれば、ああこんなものか、今までの憧れは何だったんだ、という気になった。

 そのうち金があっても買えなくなる。

 

美味しいものは食べておく

 そのうち病気になり、食べたいものも食べられなくなる。

 私も癌の手術をしてからたべられなくなった。

 

幸福度を最高に上げておく

 欲望が大きすぎると、幸福度が上がらない。

延命治療拒否を文書にしておく

 植物人間で生き永らえても、社会に迷惑をかける。

 

縁なき衆生とは縁を切っておく

 財産がある衆生に限って、生きざまが汚い。早めに縁を切ろう。

 

豊かな気持ちで逝けるように、身の回りは整理整頓

 不要なモノを整理して、良いものに囲まれ幸せになろう。

 

人生の最終チェックをするため、年に一度は山にこもる

 山ごもりはホテルでもよい。頭の整理ができる。

 人生をまとめる必要はない。整理すれば、自ずと答えが出る。

 何ごとも最終確認は必要だ。何が死の準備で未完は何かを確認しよう。

 

できるなら、自分が生きた証を残しておこう

 私は本の出版とブログの掲載である。

 ブロブも私が死んだらそのアカウントが消えるので、出版を計画している。

 

あの世で会う人を計画しよう。

 死が楽しく、怖くなくなる。あの世でならアインシュタインにも会えるだろう。松下幸之助さんにも会えるだろう。で、何を話すのか、今から計画しよう。その想定対談集を死ぬまでに書こう。

039a34431s  馬場恵峰書

2021-02-16   久志能幾研究所通信 1923 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月 4日 (火)

ご縁のリストラクチャリング

悪手の山     

 米長邦夫元名人は、その著で、「人は悪手の中を歩いている、一手間違えれば簡単に人生が暗転する」という。

 同じ意味で、人生には多くの縁が溢れているが、その多くが悪縁である。因果応報で、悪縁と交われば人生は下り坂である。悪縁の人は、悪縁を招く習慣と考え方とそれに纏わりつく人脈がある。その腐臭がすさまじいが、鈍感な人はそれに気が付かない。知らずに付き合うと、悪縁が心に染み込む。「君子危うきに近寄らず」でありたいが、宮仕え生活ではそれもままならない。サラリーマン時代はそれを避けることは、至難の業であったので、かなりの被害を受けてきた。まるでタバコ副煙流の害毒如きである。

 

ご縁の選択肢

 しかし定年後に組織を離れたことで、寄ってくる縁を選別できるようになった。些細なことや対応ぶりから、友人、知人、業者の人生哲学が垣間見えて、縁の鑑定ができる。それが悪性の縁と分かった時点で、その縁を切ることにした。よき人生は良きご縁から始まる。悪縁を切ると、空いた空間に良きご縁がすり寄ってくる。組織を離れたら、縁は自分で選びたい。

 

人生のリストラ

 リストラとは、事業の再構築(restructuring)が本来の意味で、首切りは単なる一つの方法論である。還暦後の第二の人生を門出して、正しい道を歩むために、人生再構築のリストラが必要である。

 企業経営でも、不正をする人、業績を下げる人、定年になった人はお払い箱である。そういう新陳代謝をしないと会社が左前になってしまう。同じ考えで、自分株式会社に害をなす縁者はお払い箱にして、身辺整理をしてリストラしないと自分の人生が傾いてしまう。切るべき縁を切らないから腐れ縁となる。腐った縁は、周りに害を及ぼす。人生経営の6Sをして縁の整理整頓をすべきである。

 

食料というご縁

 生きていく為には食べなければならぬ。その食料が、添加物まみれ、農薬まみれ、養殖魚の病気防止で抗生物質まみれ、ショートニング、マーガリン、植物油まみれの加工食品でもお腹は膨れるし、当面は生存が可能である。しかしその食物は遅延性の毒である。10年、20年のスパンで食の人生を考えた場合、そのツケを慢性病、成人病、ガンという病気という形で支払う日がやってくる。日本をはじめ先進国で加工食品が増えるに比例して、医療費が増大している。

 良薬口に苦し、医食同源を基本に、食べ物とのご縁を大事にしたい。

 

生きていくためのご縁

 社会で生きていく上では、ご縁が必要だ。しかし質の悪い縁に囲まれると、それが遅延性の毒として人生を覆い、不運という人生生活病に侵される。

 約束を守らない人、こちらが散々お世話をしたのに、恩を仇で返す輩、信心深くても己だけの幸せを願う人、苦情対応で不誠実な企業、新興宗教にはまっている人、車検を依頼した車を私用で乗り回す修理工場社長(ドライブレコーダで露見)、人の迷惑を顧みず自慢話ばかりする元副社長、前職の不祥事の責任を回避する後任の長、先祖を大事にしない親類縁者……….よくこれだけいい加減な人がいるものかと呆れるばかり。そういう人と付き合うと血圧が上がるので、自分の組織を守るため、その悪縁を切ることにしている。

 

ご縁のリバイバルプラン

 そのご縁が良いか悪いかは、誰にも分からない。悪だくみをしている人には、詐欺の話しがよい話になるだろう。善人にはその逆である。

 確実に言えることは、じっとしていて動かなければ、永遠にご縁はやって来ない。まず動いてみて、感触が良ければそれに手を出すことだ。今まで数十年間も生きてきて、直観という能力で物事を判断できるはずだ。それに素直に順うことである。来るものは拒まず、去る者は追わず。あとは佛様がよきに計らってくれる、と信じよう。信ずるものは裏切られる? 裏切られても良いではないか。それから、その縁を切ればよいのだ。それで一つ賢くなる。おだ仏教では、そうしている。

 

人生のご縁収支決算

 人生とは、集めた¥高を誇る競争ではない。円を集めた額を誇示するのではなく、ご縁に接し、その縁に報い、よき縁を人にどれだけ分福したかに価値がある。

 人生は集めたものでなく、どれだけ与えたかで評価される。いくら集めてもそれを喜ぶのは己だけでは哀しい。お金は、あの世には持っていけない。人から分捕った分、不幸になった人がいる。グローバル経済主義では、99人の富をたった1人が強奪独占する。強奪した富には多くの人の怨恨が籠っている。

 人に与えたことは多くの人が評価してくれ、その結果として与えたご縁に花が咲き、実が結ぶ。それでこそ、自分の人生の意味がある。悪しき縁からは、良き人生は生まれない。その縁の選別眼が人生価値を左右する。

039a15511s

2020-08-04 久志能幾研究所通信 1690  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2020年8月 2日 (日)

相田みつをが出逢った逆縁の菩薩

 相田みつを氏は学生の時、喫煙の濡れ衣を着せられ、不良学生と烙印を押された。そのため相田氏は、軍事教練の教官から徹底的に虐められた。結果として軍事教練の単位が、相田氏だけとれず落第となり、進学できなかった。

 当時、軍事教練の単位がないと進学できない時代である。氏はそのため寂しい青春を過ごすことになり、ある縁で在家ながら禅の道を学んだ。それが後に書の道に進む縁に結びつく。

 大学に進んでいたら、学徒動員で戦死していた恐れがある。氏はこの軍事教官を「逆縁の菩薩」と呼んでいる。なにが人生で幸いするか、人知を超えた天の計らいである。この軍事教官は、相田みつを氏には福の神であった。

 

馬場恵峰師の見た夢

福の神・貧乏神

 美しく着飾った女性が資料館を訪ねて来た。どなたでしょう…と聞くと「私は富を与える福の神だ」と答えた。館長は大喜びで奥へ迎え入れた。しばらくしてみすぼらしいなりをして色青ざめた女が訪ねて来た。聞くと、「私は貧乏神だ」と言う。驚いて館長は、貧乏神さまでもおことわりと、追い返そうとすると女は言った。「私を追い返すの…..愚かな事よね….と。先に迎え入れられた福の神は、私の姉で姉妹はいつも離れた事はないのだから、私を追い出せば、姉もいなくなりますよ….」と言って、みすぼらしい女は出て行った。間もなく姉の福の神もこの館から消え去っていた。

 館長は夢から醒めると、この様をよく考え直して見た。人間というものは一方的に都合の良いことのみを願っても、それは達成されるものではない。福があるから禍があり、良いことがあれば悪いこともある。生があるから死がある。相合う喜びあれば別れの悲しみあり。これが人生の真実。相反する禍福を超えて執着しないところにこそ堅実な人生の生き方と….地位が上がった、収入が増えた….そういう得意の絶頂で、禍の谷の深さを意識しない位あぶないものはない….館長は良い反省の夢と手を合わせた。資料館造って20年様々な出逢い喜び悲しみ別れ等々。落成記念写真の120名来賓の中、物故者も20名を超え、20名以上の人が病院そのほかでなかなか会えない。今この四曲の200余の和歌、日頃訪中の折々、いろは歌等々思い出多く自作たるもの、下記つづりしものにして、思いもよらず親愛なる新立大工の心配りのものにして、全長二米八十の屏風本体と共に、館落成20周年の得難き人情交友のあかしとして他に類なき尊いものと言えよう。戌子の上冬の夜も次第に深くなり。また齢82翁の今日も終らんとする。みかん園も活気づく頃も、もう20回。山里の四季の中で過ごす事の有難を感謝して手の痛みと付き合いながら重い深きひと時、天之機緘不測、即天が人間に与える運命のからくりは人知では到底はかり知る事はできない。残された人生に、唯一筋書芸三昧の歩みに餘念なく。館長の夢は大きな玉手箱と…今日も終らんとす。ここに随筆として一篇即興書きどどむ。

          平成20年10月21日三宝斎恵峰

 

 自分の人生を振り返り、谷があるから山がある。谷での試練が有るから、成長ができた。人生塞翁が馬である。いいことばかりの人生などない、が70近くまで生きてきて学んだ真理である。

Img_3618s

Img_3616s

 福の神・貧乏神の板書を解説する馬場恵峰師  図書館にて 2011年4月2日

 この板書は書の収納箱の蓋に書かれている。

2_2

1

2020-08-02 久志能幾研究所通信 1686 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年7月31日 (金)

人生の縁道で出会う福の神  生前火葬から逃亡

 来る縁が良い縁か悪い縁かは、棺を覆ってからしか分からない。還暦を迎えてから分かったことは、良い縁も悪い縁も全て己が招いたことで、それをどう解釈するかが問題で、どう対応するかは対処処方の小さな問題である。来る縁が良いものであるように生き様を変えるのが根本処方である。来る縁に善悪はない。全て選択の問題であるので、悪い縁と分かっていれば、選ぶまでもない。選択不能の事項なら、受け入れるしかない。それに無駄な抵抗をするから地獄を見る。不幸の時は、不幸を楽しめばよい。死ぬ時は死ねばよい。それも人生である。

 

生前火葬から逃亡

 定年延長して前職の会社に身を置いても、その扱いは派遣社員並みである。職位は剝ぎ取られ、部下はなく、人事権もない。能力の低い前部下の指示を仰がねばならぬ。その境遇は精神的に惨めである。定年後は、使用済み核燃料みたいな扱いで、生前火葬されると同じである。定年延長の期間を過ぎれば、精神がしっかりと焼かれてボロボロになる。

 私はこのありさまを、隣りの部署の元部長が定年延長で働いている姿を見てたので、定年延長を拒否して会社から逃げ出した。

 もし定年延長であと5年間を働けば、精神的に落ち込んで、新しい世界には跳べないだろう。

.

金太郎飴から桃太郎へ挑戦

 トヨタの社員は、金太郎飴のよう何処で切っても画一的だと言われる。それがトヨタの強みでもあり、弱みでもある。大量生産の製造業の在り方としては理想であるが、現代社会の多様性には少しミスマッチあるようだ。

 GAFA (Google,Apple,Facebook,Amazon)で代表される企業とは、企業価値額で、トヨタは負けている。GAFAはダイバーシティを武器に、多国籍、他民族、多価値観の人間がものを作っている。新しい産業には、異質の文化の融合が必用のようだ。

 私も会社時代は、トヨタ系の会社に勤めていたので、私は正にトヨタ金太郎飴社員であった。しかし私が定年になり、定年延長を拒否して会社を離れたので、その束縛から解放された。会社を離れることで、価値観の違う人たちの付き合いで、多くのご縁を頂いた。

  

新しい世界

 「障子を開けて見よ、世界は広いぞ」(豊田佐吉翁)

 私は、定年後、大垣に帰郷して、前職の閉じた世界から、障子を開けて広い世界に飛び出した。それは正解であった。そのお陰で、この10年間、下記の世界を飛ぶことができた。定年後、前職の会社に居れば経験できない体験である。

 その世界は、陰陽の原理で、明暗が分かれる。それが自然である。明の世界ばかりではない。両方の世界から学ばねばならぬ。

 

欧州の歴史探索旅行(3回)

リフォーム工事の世界(9年間)

シシリアシ島でのスケッチ旅行の世界

仏像彫刻の世界

経営者研究会の黒い世界

恐怖の新興宗教の黒い世界

国家資格取得の受験勉強の世界

拝金主義の銀行の手口を垣間見る世界

ピアノの世界

演奏会を撮影する世界

本を出版する世界

黒い会社を経営診断する世界

恵峰先生の書の世界

ブログの世界

大垣市の市政研究の世界

病気の世界(眼、血圧、心臓、ガン)

 

 老いることは、忌み嫌うべきではなく、喜ばしいことだ。「老」には「結ぶ」という意味がある。親子が生物の発展の形である。物事は結ぶことで生成発展する。結婚しかり、合併しかり、異質なものが結び合うことで新しいものが生成される。それを「化成」という。ニンベン「イ」は背の伸びた若者、「ヒ」は腰の曲がった老人の姿である。親子が結ばれて新しい価値が生まれる。それが「化」の意味である。

 

ダイバーシティ(多様性)へ

 老いるとは経験を練ることである。経験と幸福は、自分とは異質の人がその福を運んでくれる。時に、人の本気度を試すために、福の神が貧乏神の全く逆のコスプレで来るときもある。老心は百面相である。老心は異質なものの昇華体である。だからその衣装に騙されないようにしよう。人間界の投影が神の世界である。神の世界もコスプレが大流行である。

 神には、裕福も貧乏もない。それを決めるのは人間の欲というフィルターがかかった目である。来る人が貧乏神に見える時は、目が曇っている時。目が曇っていては、真実が見えない。そんな状態では、人生時間も稼げない。

 

縁を見る目

 人が罹る目の病気に白内障、緑内障がある。心の目が罹る病気の一つが「欲内障」である。良くない症状である。これは手術では直らない。火葬場で灰にならないと消えないといわれる業病である。禍があるから福が光る。人生の禍福の合計は、人生と言う長い尺度ではトータルゼロである。「不遇な時期は人生の貯金の時と割り切って自己充実を図れ」が佛様のメッセージである。

Photo

加藤梅香先生の書

 

2020-07-31 久志能幾研究所通信 1684 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年7月30日 (木)

人生道千曲がりでのご縁

 還暦を迎えて、歩いてきた過去を振り返えり、更にその後の10年を振り返ると、下っていた人生道千曲がりの道でも、自分の修行としての下り坂で、上に上るためには通らなければならない道であったと、今更ながら運命の悪戯に感謝している。

 悪路を歩いている間は、目先の試練で惑わされてそんな考えは浮かんでこない。しかし過去は考え方を変えれば、その悪い経験を自分の修行であったと、過去の見方を変えることができる。そうすれば自分の未来が変わる。過去を肯定せずして、自分の未来はない。

 逆縁の菩薩に出会わなければ会えない師とのご縁がある。新しいご縁は、縁あるもの死なくしては、生まれてこない。

 

過去の山道

 還暦前の会社時代は、いくら冒険だとしても、所詮、ガードレールの付いた道を歩いていた。還暦後、自由な世界で道を歩いていると、なんと今までが安全な世界で生きていたかと愕然とする。やはり障子は開かねば、広い世界が見えない。障子の外は広いのだ。

 もの心がついて50年、ひたすら頂上を目指して千曲がりの道を歩いてきた。時に坂を下るときもあったが、視線は頂上を見ていた。その坂も、古希を迎える間際になって、やっとその意味を悟る有様である。

 

地獄を見る

 私は健康オタクで頑張ってきたが、若い頃は仕事に目がくらみ、知らず知らず体を傷つけてきた。それに気がついたのは、古希も近いときで、癌が見つかったときだ。そのため終活準備、入院、手術、余命宣告、病後の養生で、多くの出会いと別れがあった。

 極限状態の地獄を見て初めて、その縁の真価が露見する。すべては仏様の導きであったと、今にして思う。地獄の道に入らねば、見えない世界がある。生死の境を超えることで、多くのご縁を授かった。そこから生還できたことに感謝である。

 人生道は千曲がりの坂道である。頂上に着くには、千回曲がらねば到達しない。無駄な曲がりはない。その曲がり角を1回ずつ超えるごとに、経験と知恵がご褒美で与えられる。それがお宝である。

 

 

参考  2017/07/18

人生は千曲がりの山道(改定) - 久志能幾研究所通信

Dsc002342

 

Photo

2020-07-30 久志能幾研究所通信 1683 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

 

2020年7月29日 (水)

死計 ―― 人生仕舞いを考える

 自家のお墓を改建した時のお話です。

 2015年11月、自家のお墓の改建工事中、まるまる4日間ずっと墓地で立ち会った。しかし石屋さんが作業中の側に常時いるわけにもいかず、多くの時間は墓地内の墓を見て回って時間を過ごした。そのお陰?で、墓地にある時代の経った多くの墓を熟視することになり、自分の人生仕舞いを考える機会を得た。静寂な墓地内を歩き回るのは、人生を考えるにはよい機会である。今までで、こんなに長い時間を墓地で過ごしたことは無い。また建築物の現場立ち合いは数多くしたが、お墓の建築での立ち合いは始めてであった。

2 菩提寺の墓地 

1

  水屋の向こう側でお墓の設置工事中 2015年11月16日

 

無縁墓

 菩提寺の檀家200家中で、約30%が音信不通である。東京に出て行ったまま、連絡先が分からない家、絶えた家、法事をしない家等である。その事実をこの眼で確認した。お墓は一家に2,3基もある例が多いので200基近くも無縁墓があるようだ。お墓の解体作業では一基10万円から20万円の費用がかかる。総計で3千万円も処理費がかかることになる。無縁の場合、その費用はお寺が持つが、最終的にはお寺を支えている他の檀家が負担する。それを考えると、お墓の後始末、自分の人生の後始末とその後を真剣に考えた。

 

無縁墓の迷惑

 無縁墓になっている家のご先祖は、決して今の状態を望んでいたわけではない。無縁墓になるとは、墓地の一聖地を無賃滞在するキセル行為となる。他の檀家にも迷惑をかける。別の檀家が新たに墓地を求めたくても、無縁墓が居座っているとそれも叶わない。お墓が新陳代謝をせず増え続ければ、日本中、無縁の墓だらけになってしまう。そうなるとお寺の没落と消滅である。そんな迷惑はかけたくないと思う。

 

お墓の生老病死

 自分の死後、50年間も供養をしてもらえば、お墓が無くなっても納得できる。50年間も経てばあの世でも転生があろう。来世にも諸行無常で、生老病死があるはずだ。この世のお墓にも生老病死があり、新しくお墓を建てても、墓石の寿命がきて、風化した墓石を何時かは改建しなければならない。お墓を守る家系にも生老病死がある。改建してくれる親族がいなくなれば無縁の墓となる。それは他人迷惑、お寺への営業妨害である。

 このことに思いが到り、私の死後の50年分の護持会費と永代供養費(50回忌まで)を来年納めると住職に話をした。それでも100万円ほどの話である。中古のベンツに乗ると、一回の車検で80万円も取られる(知人の伝聞)。それを思うと大した額ではない。お金を残して逝ってもお国が没収してしまう。その金をお役人が無駄遣いするだけだ。あと数十年経って、自分がヨイヨイの体になって、その段取りもできない状態になってからでは遅い。それで、今の時点で死後の段取りをする決断をした。今回のお墓改建の待ち時間で思いついた決断である。わずか2週間で2回も親族の骨を拾うというご縁が、自分仕舞いの道を拓いてくれた。(2015年10月記述)

 

後日談

 上記の3年後の2019年1月、私に癌が見つかり、2月に手術と決まった。その手術の前に、葬儀の段取りと、50年分の護持会費と永代供養費(50回忌まで)をお寺に納めた。お墓が出来ていたので、その決断は早かった。お墓も何時かは必要となる。早めに段取りしておいてよかったと思う。

 未だかって死ななかった人はいない。世界一の金持ちであったアップルのジョブズでさえ、56歳で死んでいる。金があっても死の前には無力である。

 何時までもあると思うな、親と自分の命。死を意識して覚悟すれば、怖いものはない。

 やりたいことを、やれるうちにやってしまおう。そのうち、金があっても体力も気力もなくなり、やれなくなる。人生はやったもの勝ちである。後は野となれ山となれ。

 

人の死

 人は二度死ぬ。一度目は肉体的・社会的な死である。二度目は、その人を知り、悲しんでくれる人や供養をしてくれる人たちがこの世にいなくなったときが、第二の死である。その死後までお墓が残っても、あまり意味がない。それは社会への迷惑となる。そのお墓が、限りある墓地を占有することになる。会社や組織から、老兵は静かに消えるように、お墓も時が来たら静かに撤去されて、墓地から去るのが美学である。お墓が老体の醜態を晒しては見苦しい。

 

危機管理

 50年か100年後、今回のお墓を守ってくれる人がいなくなる状態になった場合の危機管理として、今回の新設のお墓の撤去費用も預けようかと住職さんに相談したら、呆れられて、「次回お会いしたとき相談しましょう」という話になった。まだお墓の開眼法要も済んでいないのに、吾ながら用意周到すぎると呆れた。(2015.11.23)

 今回改建したお墓の撤去費用を検討したら、その費用は、設置費用よりはるかの少ないのが分かったのが救いであった。設置の場合は傷つけないように慎重に工事を進めるが、撤去時は砕いて搬出するとのことで、重機は不要とのこと。

 

2020-07-29 久志能幾研究所通信 1682 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年2月25日 (月)

死望校を死計する

 大学という世界に行くときに志望校の選定があるように、あの世という世界に行くときは、死因となる病の学ぶ校舎を選ぶ行為があってしかるべきである。志望校に受かるには、それ相応の努力が必要であった。一生で一回だけのあの世の門をくぐる入試に、希望する「死病」になるには、然るべき努力は必要である。その準備をしないから、悲惨な死を迎える。己の死に方は、仏様が試す入死試験なのだ。

 

死とは生きること

 死に方(死計)を決めるとは、人生を最大に生きること。就活も婚活も終活も、必死にやらねば成果は得られない。まして一生で一回限りの死なのだ。構えなければ、野垂れ死にである。あらかじめ死計があれば、死に接しても逍遥として、死を迎えることが出来る。死計が明確であれば、余命宣告を受けても、慌てることはない。

 

万物すべて活き物(佐藤一斎著『言志録』242

(万物には活きた道理が存在しているから)万物は初めから活きた物である。だから世事も総て活物である。(その道理からすると)生は勿論のこと死も活物と言える。(久須本文雄訳)

 

理想の死は老衰

 理想の死に方は、老衰である。しかし老衰で死ねる人は1%しかいない狭き門なのだ。せめて死の1週間前までは現役で活動して、1週間ほど体調を崩して寝込み、死ぬのが理想である。

 スイスの法学者ヒルティは、朝、いつものように散歩をして、帰宅後、少し疲れたといってベッドに寝て、妹が温かいミルクを持ってきたら、亡くなっていた。心臓麻痺で77歳の死である。彼は前日の夜まで執筆活動をして、現役での死で、理想的な死である。彼が亡くなったのは1909年で、現在に換算すれば90歳近い年齢であった。

私は、認知症、心筋梗塞・脳梗塞、糖尿病では、絶対に死にたくない。そのために、私は死にもの狂い(?)の取り組みをしている。

 

認知症

 現在、日本の65歳以上の人の15%は認知症である。認知症は脳死である。自分が自分で無くなるという悲惨な死に方である。認知症になると、本人は何もわからないから良いが、その家族は悲惨である。

 警察署長や校長先生は、認知症になりやすいという。気ばかり使って、頭を使わず過ごしてきたからだ。一日中、痴呆的なテレビ番組を見て過ごせば、認知症になりやすいだろう。

.

脳梗塞、心筋梗塞

 この病魔に襲われると、ほぼ即死状態である。死後の準備が何もできない。それだけは避けたい病気である。私はその防止で、4か月に一度、大垣市から久留米市の真島消化器クリニックに通院している。その真島院長の指導のお陰で、高血圧が改善し、この病気で倒れる危険性は減った。

 

糖尿病

 糖尿病にかかり失明でもすれば、私にはもう生きていく望みがない。目が見えない世界など想像できない。私は本を読み、書くことに生きがいを感じている。失明は致命傷である。

 糖尿病で人工透析に身になれば、1週間のうち3日の半日が、ベッドで透析を受けることになる。白い天井を見ながら半日を過ごす。命の時間が無為に過ぎていく。その費用も年間500万円という。保険がるので自己負担額はそんなに多くないが、多くの人の健康保険金を使うことになる。それが10年間も続く。国の財政を圧迫する罪である。

 

緩慢なる自殺という死計

 煙草を吸えば肺がんのリスクが上がるのは常識である。酒を飲めば、アルコールは肝臓でアセトアルデヒドに分解される。これは発癌性がある物質である。酒を飲み過ぎれば、肝臓がんや他のガンになる確率が増える。暴飲暴食をすれば、体の臓器に負担をかける。それが長年続けば、病気になるのは自然の摂理。

 世には人の健康は知ったことではない食品業界が跋扈している。止められない止まらないと、人の食欲を煽る嗜好品が氾濫している。人工甘味料、添加物、合成調味料を食べ続ければ、病気にならないのが不自然である。その嗜好品の誘惑に負けると、自分の死計が狂ってしまう。

 例えば、格安牛乳なら、狭い牛舎で密集して育てられ、病気予防で抗生物質、成長ホルモン入りの餌で、強制妊娠として女性ホルモンが多量に出た牛から、搾乳された牛乳が出回っている。その牛乳には抗生物質、成長ホルモン、女性ホルモンが含まれている。それがガンを誘発する原因となる。だから日本人にガンが増加している。他の食品も、人の健康は度外視して、効率化、金儲けのためだけに生産される。それが体にいいわけがない。

 

危機管理

人間の体は自転車操業である。歩くの止めれば倒れてしまう。適度な運動が病気を防いでくれる。

定期検診をさぼれば、病気が進行し、手遅れとなる恐れがある。どれだけ注意をしても、病気は避けられない。せめて早期発見、早期治療が緩慢なる自殺を防ぐ手段である。

 病気に対する知識を学ぶことが、緩慢なる自殺を防ぐことになる。それは危機管理としての死計である。自分の城は自分で守れ。トヨタの鉄則である。

Photo_2

馬場恵峰書『佐藤一斎著「言志四録」51選訓集』(久志能幾研究所刊)より

 

2019-02-25  久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年2月22日 (金)

「自分ノーベル賞 久志部門賞」を創設

私の夢はノーベル賞を受賞すること。しかしそれは叶わぬ夢の夢だ。しかし、自分で「自分ノーベル賞財団」を創設して、世に貢献している団体に基金を贈呈することは簡単だ。毎年なら大変だが、それも一生で一回、一団体だけに贈呈なら簡単である。私が死んだときに遺産を贈ればよいのだ。そうすれば今のノーベル賞の賞金額ぐらいは贈れるだろう。これは誰でもできること。現在、日本で家・土地・貯金と預金の遺産相続の平均金額は約4,700万円という。その額は、優にノーベル賞の金額に相当する。

 

子孫に美田を残さず

子孫に美田を残さず、功あるある団体に遺すべし。私の親戚でも、親の遺産があり過ぎて身を滅ぼした輩がいる。他山の石としたい。子供は汗水たらさず、棚ぼたで手にした金で堕落する。

 

遺産処理の条件

終活の一環の作業として、遺産処理をどうするかに悩んでいた。国に遺産を取られるの避けたい。それでは役人の無駄遣いされるのがオチ。両親と私が苦労して貯めた資産が、クズ役人に貪り食われるは、両親に申し訳がない。私も我慢が出来ない。公式の役所の団体に贈っても、そのトップが変われば、どうなるか分かったものではない。

 

創造的な活用

 援助として遺産を贈るとして、それが未来のためになる組織を対象にすべきである。日本赤十字社に義援金を贈ってもその総額の2割が経費としてピンハネされる。寄付金全体の会計報告の詳細は公表されない。大災害が起きると日本赤十字社本社のある飲み屋街が賑わるという巷の噂であう。大垣市では寄付金の一部は、寄付集めに駆り出された団体に、その額の7%がキャッシュバックされるという。本来、寄付した人の趣旨を踏みにじる行為が横行している。

今困っている人を助けるため寄付しても、一時的な対処療法である。助けても助けてもきりがない。助けなければならない状況にならないような施策の未来投資が必要だ。アフリカの病気に罹った子共達のためにカネを使うのは未来に対して創造的でない。火事になったら火を消すのは対処療法である。真の対策は、火事の起きない体制を作ることなのだ。病気で悲惨な状況にならない社会体制を構築するために金を使うのが根本対策なのだ。そういう方面に私の遺産を使って欲しい。

 

「久志」部門賞

 自分は、世に貢献できる分野で、志を久しく継続して貢献している団体に、この賞を贈りたい。今後の自分の生き方で、より多く稼いで多く残せば、より多く「自分ノーベル賞財団」の資金に充てられる。それはこれからの生きる励みとなる。そのためには、皆さんのために長生きせねばならぬ。これこそ終活の極意である。これも河村義子先生が亡くなられて、気が付いたご縁である。合掌。

 

2019-02-22  久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。