l6_自分の人生と言う本 Feed

2023年4月10日 (月)

憎っくき相手も老いる 恨みは恩讐の彼方

 

命は光陰に移されて暫くも停め難し、紅顔いずくへか去りにし、尋ねんとするい蹝跡なし

 「修証義」第一章 総序

 

 先日、6年前の会議で非常識な言動で会議を混乱させた相手と、同じ会議場で再会した。私は6年前の仇を取ろうと手ぐすね引いて準備していたら、再会した相手がよぼよぼになっており、準備した「言葉」が雲散霧消した。相手は80歳を超えており、歩くのも支障がでている。往年の元気さは全くない。

 人は75歳を超えると急速に老いる。日本人の平均寿命は81歳でも、健康寿命は72歳である。世間では人生100年時代とはやし立てているが、100歳以上の人数は、全国で9万526人(2022年9月15日現在)で、全体の0.075%でしかない。要は、100歳以上の人は、千人に一人の確率で、稀有な存在である。殆どの人は72 歳で老化が顕在化して、80歳でよぼよぼになるのだ。

 いくら壮年期は元気はつらつで組織の頂点に立ち、我儘独裁的に過ごしても、老いは冷酷に襲い掛かる。その時、自分の人生のツケをはらうのだ。

 

人生は恩讐の彼方

 そこに人生を見た。相手の姿が、明日は我が身で、それが未来の自分の姿なのだと思い至った。だからこそ、人生での謙虚さと健康と若さを維持する努力が大事だと改めて思った。人生と言う入れ物も頑丈でなければならない。人生と言うライフフレームの剛健さと、人生の精神状態が健やかにするように心がけよう。傲慢に過ごすとライフフレームに早くガタが来る。

 

馬場恵峰先生の人生

 それに併せて馬場恵峰先生の93歳の時の元気さを思い出し、生涯現役を心がけた恵峰先生の偉大さに改めて感銘を受けた。馬場恵峰先生が寝込まれたのは、死の直前の1か月程であった。

 下記の写真は、馬場恵峰先生が卒寿(90歳)記念で写経書展を開催され、その開催式に挨拶をされたときの写真である。

 

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 馬場恵峰卒寿記念 写経書展 2016年12月9日 長崎県波佐見町

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 馬場恵峰書

 

2023-04-10  久志能幾研究所通信 2664号  小田泰仙

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2019年8月24日 (土)

「自己チェックリスト」という仏様(3/5)

---惜福*1---

報酬以上のサービスをすること。必ず報われる

具体的願望に対して、「代償」を差し出したか? 期限を決めたか?

念ずれば花開く

  「夢」に対して「思い・目標」があるか?

 行動しなければ,全てはただの夢。

  目標さえあれば、「政策・戦略」が出てくる。

過去の延長線での思考は「対策・戦術」。

  諦めさえしなければ夢は叶う。

     それを阻止するのが自分の心に住む「鬼」。

   ⇨ 道は後からついてくる

  一番入れこんだ者が勝つ。

  自分が一番入れ込んでいるか、貪欲だと断言できるか?

  夢は大きくしているか?   棒ほど願って針ほどかなう。

10倍の目標に。

  何も咲かない冬の日は、下へ下へと根を延ばせ。

   ⇨ 常に自己啓発しているか?

  年間目標,10年後の目標を(チェックを毎日)

TF式情報処理システムを

     T(今日),W(今週),M(今月),F(今年,将来、願望)

     を4つに物事を別けて、P→M→W→Fの順に考えていけ。

楽天的に過ごしたか? 

否定的言葉を使わなかったか? 自分が運がいいと信じているか?

  「自分は成功する」との自己確信の強さが成功への鍵。

楽天思考が自己の力を倍増する。

  明るく振る舞え。

ぶっちょう面や落ち込み状態では,来ているチャンスさえ見えない。

量より質に重点をおいているか?

  しかし,最後を決めるのは時間の絶対量。

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  馬場恵峰書 

2019-08-24   久志能幾研究所通信No.1312  小田泰仙

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2019年5月19日 (日)

冷や飯を食わされ、命拾い

 1990年、私は主流である事業部署から、非主流の部署に飛ばされた。その原因の一つは、私が上司Uからの縁談の話しを断わり、上司の心証を害したこと。宮仕えは辛いものだ。古い体質の会社の人事とは、上司の露骨な好き嫌いである。結果として、この上司と縁が切れたことで、命を拾うことになる。

 

自己防衛

 この上司Uは、1年下の同僚Dを好き嫌い人事で、欧州の海外担当に飛ばして、死に追いやった過去がある。同僚Dは、純粋な技術畑の人間で、営業には向かない性格である。それが明白なのに、彼は上司Uに、パリに飛ばされた。当時、パリの現地法人は経営的に悲惨な状況となっていた。彼はそこで心労で心身疲弊して、帰国後、病魔に襲われ、50台半ばで帰らぬ人となった。私や仲間は、上司Uが殺したと思っている。私が現地で彼に再会した時、疲れた顔をしていて、愕然とした覚えがある。その時、我々が日本から来ているのに彼は多忙で、一緒に飯を食う時間も段取りできなかった。

 私の母はこの上司に盆暮れの付け届けを欠かさずにしてくれた。だから海外に飛ばされるまでの悲惨な人事異動は免れた。私も多少は智慧があり、表だって上司には逆らわなかった。今にして母に感謝である。

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 馬場恵峰書 2006年

 

冷や飯部署

 その部署は通産省の出先機関(NEDO)の委託研究プロジェクトであった。その仕事の成果は、当社の利益に反映されない。政治的な意味合いを含めての会社の業務である。立場的には、社内出向のような立場である。そのため仕事を現場にお願いしても、現場の人は、その仕事が会社の利益に直接反映されないことを知っているから、露骨に仕事を後回しにされる。回りの目も、今までのカンバン商品の開発を担っていた設計者への目とは、明らかに軽んじた扱いの目に変わていた。私の冷や飯食いの時代が始まった。

 それでも上司が変わると、こうも職場の雰囲気が変わるのかと思うくらいの変化があった。今までがあまりに異常であった。

 

冷や飯という御馳走

 この部署では、社外の一流の会社との交流があり、その面で遅れている当社のレベルをいかにそれらしく見せるかの苦労をしながら、社外の会社の実態を見させてもらった。共同研究会社は、キヤノン、ニコン、横河電気、不二越という一流会社ばかりである。

 キヤノンは、この国のプロジェクトをうまく活用して、社員の育成と技術開発の応用に展開していた。そういう会社の経営例を見せ付けられた。

 経営層がこの国のプロジェクトを軽視した咎は、30年後、キャノン、ニコン等が世界的な企業に発展成長をしたが、当社は吸収合併され、世から消えたことで明らかになった。ここに経営の差の全てが現れていた。

 私の上層部の経営者の口ぶりや当部への扱いを見ると、お荷物の部署に飛ばされたのを悟った。私がこの部署に異動する以前に、当時の上司Mが、「この部署は国とのお付き合いでお荷物だ」と明言していた。あるプロジェクトをお荷物として扱うか、技術開発のご縁にして成長の糧にするかの差で10年後の会社が変わる。正に人生と同じである。その扱いは経営者の責任である。この上司はやり手で、超スピードで役員までかけ上ったが、その後、仕事以外の不祥事で会社を追われた。

 各会社の相互見学会もあり、自社を他社の鏡として観る勉強になった。それに対して、その面の利用が薄い当社であった。一流の他社の設備、研究姿勢、体制を垣間見たことは、後年の経営の勉強になった。

 

国の仕事

 仕事的には、とんでもないレベルを要求される技術開発ではあった。従来の1桁も2桁も違う加工精度が求められ、サブミクロン、表面あらさのレベルがオングストローム、加工時間が数日の世界である。機械を作る前に温度管理がいるクリーンルーム相当の建屋を造ることにもなる。またお役所の関係業務のため、報告書作成ややり方の勝手が分からず、訳の分からない世界であちこち頭をぶつけ、恥をかき、部長に笑われながらの日々であった。社内では絶対に経験できない仕事ではあった。

 

あるはずのない欧州出張が、実現したご縁

 そのご褒美として欧州の大学、研究所への報告出張が降ってわいて来た。本来、部長が出張する予定であった。その前年に、生産技術部のK係長が米国の自動車会社に納入出張中に心臓麻痺で事故死をされていた。そのため、海外出張前の医師の診察が厳しくなり、上司の部長Sがドクターストップで出張不可となり、私にお役が回って来た。

 私は、前年に論文最優秀賞で欧州に出張したので、パスポートはある。時期的に今からパスポートを取る時間はない。英語の素養はある。担当係長として開発内容は熟知している。部内のメンバーではその全てで適任者がいなかった。昔の元上司Uは、私を出張させたくなかったようだが、どうしようもない。

 亡くなられたK係長も私が開発に関係した機械の納入時での事故である。それも北欧の自動車会社での機械の納入実績があって実現した受注での納入業務であった。今にして、不思議な巡り会わせだと思う。これは冷や飯を我慢して頑張ったので、ご褒美で咲いた花だと思う。

 

言志四録からの学び

 この時から28年経って、馬場恵峰師による「言志四録」を出版した。その中に「已むを得ざるに薄りて而る後に諸を外に発する者は、花なり」を発見して、この欧州出張ができたご縁の意味を確認した。冷や飯の時代でも、黙って努力をしてきた精進が、「欧州の報告会出張」という花を咲かせたのだ。

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 馬場恵峰書 「佐藤一斎著「言志四録」五十一選訓集」

 久志能幾研究所刊

 

欧州出張

 欧州での国の研究成果報告会として、パリ大学、英国国立物理研究所、クランクフィールド大学研究所、ベルリン大学、アーヘン工科大学、オランダ国立研究所で、研究成果報告会を経験できたのは、何ものにも代えがたい経験となった。それも「飛ばされた」お陰である。

 英国国立物理研究所では、ニュートンが万有引力の法則を発見したりんごの木の二世が植えられていた。ここは普通では足を踏み入れられない聖地であった。

 

大名旅行

当時「日本は欧米から技術を盗むばかりで世界に貢献していない」というバッシングが盛んであった。通産省の技官から「こせこせした研究成果報告会ではなく、獲得した技術を欧米に教えてやるとの心意気で行け」との指示と、単なる報告出張ではなく、「欧州の文化もゆっくり見て来い」との配慮があった。2週間で4カ国7つの大学・研究所を訪問する余裕の大名旅行をさせて頂いた。これは仏様からのご褒美としか言いようがない。

Photo  英国国立物理研究所でのプレゼン後の記念撮影。私が撮影したので私は写っていない 

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 ニュートンのりんごの木の二世

 左端が著者、右から二人目は団長の井川阪大教授

 

ベルリンの壁崩壊の跡

 1989年11月10日にベルリンの壁が壊され、1990年10月3日に東西ドイツが統一された。その1年後に我々はドイツを訪問した。統一間もない東ドイツに足を踏み入れ、その歴史の風を垣間見るご縁を頂いた。なんとも不思議な歴史的な出会いであった。

 そこで路上の止められていた東ドイツ製の車のレベルの低さを見て、如何に共産主義社会では、技術が進歩せず、停滞するお粗末さを垣間見た。やはり自由な競争がないと、技術も文化も進歩しない。

 

Photo_3   ブランデンブルク門(東ドイツ側より撮影) 

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  20年間時間が止まっていた東ドイツ市街

当社の共産党体制

 それと対比されるのが、当時のわが社であった。当社の役員の世界は、学閥優先で、人格的に劣悪な人間が、役員でのさばっていた。仕事の上の実力での競争がないから、経営がおかしくなっていった。特定の学閥の人間しか偉くなれない。まるで共産党の密室人事である。同じような体質の会社が、現在でも世にはばかり、世間を騒がし、没落していっている。日産、東電、三菱自動車等である。日本経済停滞の元凶である。

 当社は、その弊害で業績が上がらず、多くの社員を死に追いやり、最後は吸収合併されて、消えた。ダーウィンの法則で、市場の変化に対応ができなっかたので淘汰された。それは自然の理であった。同僚のD君は、その犠牲者の一人であった。その他にも、私が一緒に仕事をした仲間が、在職中に20人以上も死んでいる。異常である。私がその毒牙にかからなかったのが、仏様のご配慮と今にして思う。

 

2019-05-19   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

 

2019年5月11日 (土)

渡部昇一著『95歳へ!』は、吾が人生の燈台

「白川静の世界」への旅 ――人生の燈台としてあがめて

 私は、白川先生を第二の人生の生き様の模範にしている。ある意味で、人生の航海での燈台のような方と認識している。その薫陶を受けたいと思い、先生の市民大学講座『白川静 文字講話』記録DVDを購入した(126,000円)。

 氏は1999年3月(88歳)から2004年1月(94歳)まで、地元京都の市民大学講座で、「文字講話」を2時間、年4回ペースで全20回開催し、講演内容を『白川静 文字講話』(平凡社全4巻)にまとめられた。続編の希望が相次いだので、新たに4回行なわれた。

 2006年10月初頭に、氏はその著作校正を済ませ入院、同年10月30日、内臓疾患(多臓器不全)により逝去。享年96。(結果として遺著となった)『白川静 続文字講話』は、翌年刊行された。氏は、生涯現役を通された。氏は死の直前まで講演をされ、資料も見ずに古典を紹介されていた。床に伏し、苦しんだ期間、知的活動ができなかった期間は、ほとんどなかった。

 

字源

 私がこのご縁で、気を付けるようになったこと、漢字を見ると、その象形文字として漢字が作られた字源を漢字辞書で調べるようになったこと。その字源を知ると、言葉の奥深さを知るようになった。それで漢字の奥の深さを知ることになった。

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  『白川静 文字講話』記録DVDより

 

2019-05-11   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

書抜き  渡部昇一著『95歳へ!』

  飛鳥新社 2007年 1200円

1.レス・フーリッシュな選択をしよう

 定年を迎える年齢になり、子どもも成人したということは、社会人として課せられた義務の大半から開放されたということです。「賢明さ」より「楽しさ」に重きを置いて「レス・フーリッシュ(愚劣度が多少低い)でいい」という生き方を検討してみてはいかがでしょうか。「過度に賢明であってはならない(ne supra modum sapere)」というラテン語の格言もあります。(p14)

2.95歳まで生きよう   p15

 昨秋、漢字学者の白川静氏が96歳で他界されました。私は、先生が92歳の時に対談をさせていただき、本(『知の愉しみ 知の力』)を出しましたが、その時、先生は矍鑠たるものでした。

 5時間の対談中、休息もとらず、大半を先生が語られました。若輩の私が聞き手、白川先生が話し手という形になったからです。対談を終えて日本料理店に向かう時もスタスタととても90代には思えない足取り。出てきた料理は次々にきれいに召し上りました。そして、デザートの小さな羊羹を半分だけ残されました。

 不思議に思って「先生、それはどういう意味なんですか?」と伺ってみると「ちょっと、糖尿の気があってね」。私も92歳になって、そう言ってみたいものだと思いました。

9.人は何を幸福と感じるか   p55

 人間の内側を満たす重要なものの一つに私は「自分の能力が生かされているか」と言うことがあると思います。

 どんな職であれ、生き生きと働けるということは、その仕事が自分の能力に合っているということでしょう。ですから、男は自分にあった仕事ができていれば幸せだと思います。

10.誰にもやりのこしていることがある

 人間万事塞翁が馬。95歳まで生きるなら、あと30年くらいあります。若い頃に諦めたこと、できなかったこと――それは後悔すべきこと、不幸なことではなく、もしかしたら豊かな晩年のための「貯金」だったかもしれません。(p62)

11.内なる声に耳を澄ませ

 内なる声を聞くには、顕在意識が活動を休止あるいは低下している状態――ウツラウツラしている状態が適しているのです。

 そういう時、「自分がしてみたいことは何だろう」「自分は何をしていれば楽しいだろう」と静かに自問してみるのです。別に思い浮かばなくてもいいや、どうせ寝てしまうのだから――というくらいの軽い気持ちでかまいません。今日思い浮かばなくても、また明日聞いてみればいいのですから――。(p66)

15.「未だ生を知らず」と考えよう

 「学問で成功するのは、頭のよしあしよりも、むしろ心的態度の問題である」

 繰り返しますが、95歳まで生きるなら、今60歳の団塊の世代にはあと35年あります。15歳の少年はこれからかなりの時間を勉強に割かなくてはなりませんが、60歳の人はすでにそれを済ませ、多くの経験を積んできたはずです。15歳の心的態度になったら、大抵のことはできるのではないでしょうか。

 16.本当の自分とは何か   p87

 「病気はあなたの肉体の故障であって、意志の故障ではない。その病気があなたの意志によって呼び寄せられたものならば別だけれども、足が不自由な人は、足が悪いのであって、その人の意志に故障があるのではない。何事かがあなたに起こるたびに、必ずこのように考えよう。そうすれば、どんなことでも決して、あなたに障害を与えないだろう」(ヒルティ『幸福論』)

 エピクテトスは「自分とは何か」という問いの答は「意志」であるという結論に至ります。あくまでも自分の自由になるもの、それは意志である、それ以外は自由にならない、故に意志こそが自分自身であると――。

18.将来のことを考えなくなったら要注意

 志や、何かをしようという意志が希薄になり、漫然と時を過ごすようになってはいけない。それは体力の衰えや物忘れより、ずっと怖ろしいことです。10年後、20年後、30年後を視野に入れているか。そのために何をしようという意志があるか。私は60歳少し前に、それがなくなっていることに気付いて愕然としたのです。

19.高齢でも記憶力は強化できる   p102

 いずれにせよ、私は「記憶力は筋力と同じで、鍛えれば強くなる」ことを体験しました。しかも60代半ばでも、です。

20.人生はたくさん覚えているほど豊かになる   p107

 戦後教育の大きな間違いのひとつは暗記を軽視したことでした。「独創性」とか「個性」といった耳障りのいいキャッチ・フレーズに惑わされて、暗記することの重要性を忘れてしまったのです。

 「独創性」や「個性」は蓄積された記憶から生まれるもので、記憶の絶対量が少ないと何も生まれてきません。数学者として世界に勇名を馳せた文化勲章受章者の岡潔先生は「とにかく十代の頃は反吐が出るほど暗記したほうがいい」とおしゃっていました。

21.記憶こそ人生そのもの

 突き詰めて言えば、人生とは記憶です。もし全ての記憶が失われたら、肉体はその人であっても、人格はその人でなくなります。晩年を生きるにあたって、最も大切なことは記憶力を鍛え、多くの記憶を持ち続けることではないでしょうか。(p115)

23.言語のトレーニングを続けよう

 記憶と言語を論じて明治維新に至りましたが、ことほどさように、人間にとって記憶と言語は重要です。ボケないために(記憶を失わないために)何が必要かと問われたら、私は「言語のトレーニングを怠らないこと」を第一に挙げます。(p124)

26.老いて学べば即ち死して朽ちず   p136

 江戸時代後期の儒学者・佐藤一斎の著書『言志晩録』に「少にして学べば即ち壮にして為すあり。壮にして学べば即ち老いて衰えず。老いて学べば則ち死して朽ちず」という言葉があります。

  一斎の言う「壮にして学ぶ」とは、仕事以外のプラス・アルファを勉強することです。現職の時に頑張って働くのは当然のこと、それは別に何かプラス・アルファの勉強をしていると、「老いて衰えず」になると言っているのです。

28.歩行禅――歩きながら瞑想しよう   p146

 先に紹介した『タイム』の「いかにあなたの精神をシャープにするか」という特集で面白かったのは、「黙想の効果」を取り上げていることでした。ウォール・ストリートの株取引の大物が胡坐をかいて黙想している写真が掲載されており、「こういう黙想を毎日続けていると、部分によっては大脳皮質が厚くなることがあり、その厚くなる部分は決断力、注意力、記憶力に関係している」と書いてありました。

 また、マサチューセッツ・ジェネラル病院のセイラ・ラーザは「加齢ととも薄くなってゆく大脳のその部分の変化は、毎日40分の黙想で遅くすることができるのではないか」と言っています。

 歩きながら、私は過去を憶い起こして懐かしんだり、未来の希望を考えたりします。外気を胸一杯に吸い込みながら歩を進め、自分の内面と向き合うのは、まことに人間らしく、本質的に知的な行為のよう思います。

32.睡眠時間を増やしなさい   166

 西原克成先生は、哺乳類の進化学的見地から重力の大切さを指摘しておられます。人間は1日8時間ぐらい横になって背骨を重力から解放してやると免疫力が高まると言っておられますが、私の実感から言えば、西原説は正しいと思われます。

 私たちが眠たくなるは、メラトニンという脳内ホルモンの働きによるそうです。このホルモンは暗くなると分泌量が増え、明るくなると減少します。つまり太陽の動きに合わせて、人間を眠らせる働きをしていのです。

 そして、子供に対しては成長ホルモンとして働き、老人には老化抑制ホルモンとして働くと言われています。また、最近の研究では、免疫系とも深く関係しており、実験動物にメラトニンを与えるとガン細胞を攻撃するNK細胞の数が増えたり、ウイルスを殺傷する食細胞の破壊力が高まったりすることが報告されています。

 33.授けられたものから恍惚を得よう   p171

 自分に恍惚を感じさせてくれるものは何で、それはどこにあるのか。人生の後半において最も大切なのはそれを発見することかもしれません。

 近代人の心に宿った一つの病癖は「努力すなわち価値である」と思い込んだことです。これはカントの認識論の影響とされるのですが、大きな間違いだと思います。努力の結晶かもしれないけれど、価値のないものもあるし、逆に価値あるものだけれど、努力の結晶ではないものも、この世には多く存在します。

 最もわかりやすい例は生命です。私たちにとって生命は非常に大切なもの、価値あるものですが、それは自分で努力して獲得したもの、あるいは作り上げたものではありません。父母から、あるいは神様から、あるいは天から授けられたものです。その生命の維持に必要な食物も、もともとはみな、自然からの贈り物、授かったものです。

 

2019-05-11   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年5月10日 (金)

生きる指針  渡部昇一著『95歳へ!』

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  渡部昇一著『95歳へ!』  飛鳥新社 2007年 1200円

  大事な箇所が多く、多くの付箋を貼った愛読書。

[要旨]

 何事かをなす時間は、まだたっぷり残されている。60歳から35年間を設計する、中高年のための実践的幸福論。ボケずに健康で95歳を迎えるため、氏は何人もの矍鑠たる高齢者と対談し、教えていただいたノウハウを氏なりに租借して、この本にそのエッセンスとしてまとめた。

 

読書所感

 本書では老後に焦点を当ててはいるが、世代を超えて人生観・生活の方法の見直しとして多くの示唆があり、私は熟読した。

 渡部昇一師は、60歳の人に95歳を目指して、あと35年間、がんばろうと主張している。しかし個別の内容は、どの世代でも応用できる生き方のヒントや氏の人生観が多くあり、中年だけではなく、全ての世代に伝えるべき良く生きるためのエッセンスである。若い人ほど、人生の計画を立てる上で、早く読むことをお勧めする。

 歳月は人の背後より迫り、無常にも追い抜いていく。誰にでも訪れる死。その死を受け入れ、死までの人生を充実して過ごす術を知ることは大事である。よく生きた人生は、よく働いた日と同じように、安らかな永遠の眠りにつながる。

 95歳まで生きようと思わないと、70歳までも生きられないだろう。蒲柳の質で幼少のころは養護クラスに入れられた渡部師だが、80歳代でも幅広く活躍をされていた。95歳まで生きると言われた師は、残念だが2017年〈平成29年〉4月17日に心不全のため86歳で永眠された。95歳までは時間があったが、最後まで、現役で活躍された師は、『95歳へ!』の内容を実行されていた。

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 渡部昇一先生(当時84歳) 第24回山本七平賞授与式で・帝国ホテル

 私はPHP研究所より招待されて出席した。   2015年11月24日

 

松下幸之助翁の場合

 蒲柳の質の松下幸之助氏は、「20歳までも生きられない」と医者から言われた。しかし本人は「120歳まで生きるんだ」と周囲に言っていた。結果として94歳の天命を全うされた。凡人の我々が、95歳まで生きる目標・職務を見つける努力をするのも、安逸な生活を避ける方法である。

 

白川静氏の場合

 この書で、白川静氏の生きかたを紹介されている。氏は88歳から94歳まで京都の市民大学講座で24回も講義をされている。それの収録DVDが発売されていることを知り、購入した。これを観ると生きる力が湧いてきる。

 

生きるための言語能力

 また、生きるには言語能力の維持の必要性に気づかされ、音読を習慣にすることにした。今まで音読のよいことは理解していたが、よい教材がなく実行できてなかった。この書を読んで思いついたのが、今までに書抜きをした資料である。本一冊を音読すると間延びがして飽きがくるが、自分で選別した図書で、かつその中からの書き抜きなので、興味が持続する。また、何回も音読することで、内容が頭に刻み込まれる。今までは、本を読んでそのときは感銘しても、すぐに忘却の彼方の例が多くあった。なかなか何回も読めないが、抜書き資料なら意外と長続きする。『脳に悪い7つの習慣』の著者林成之教授も、大事なことは何回も頭に叩き込むべきとの説にも合っている。

 

本書との出合いの9年後

 私は、この本には2010年に出会い、熟読してその後の人生の生き方のバイブルの一つにしてきた。しかし2019年初にガンが発見され、医師より余命2年と宣告された。それで当初の95歳まで生きる目標値が少しぼやけてきた。しかし生きていく姿勢は、当初のままである。余命2年とならないように、日々取り組みをしているが、この本はその糧として役立っている。

 

2019-05-10   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年5月 5日 (日)

吸血鬼が日本上空を舞う

悪魔のサイクル

 日本の劣化が止らない。アメリカ、中国、アジア諸国は成長しているが、日本は相対的に衰退である。日本人の給与は下がる一方である。少子化も止まらない。若い人の給与が下がって、結婚もできず子供が産めない。子供の数が増えたのは東京だけで、他はすべて減少である。若者が増えず、老人ばかり増えて、年金、介護費用、医療費がうなぎのぼりである。日本社会は悪魔のサイクルに陥っている。

 一億総中流化は昔の高度成長期のお話しだ。今は若い人が車も買えない。企業も目先の金儲けに忙しく、基礎研究を放置し、技術論文数も増えず、中国や新興諸国に負けている。それでいて、日本だけがガン死が急増である。それに政府は手を打たない。政府の官僚も利権に目が眩み劣化したのだ。

 

悪魔のサイクルの原因

 その原因は、若い人の生き血を吸う吸血鬼が繁殖してきたからだ。吸血鬼とは、拝金主義者、利己的官僚、国のことを思わない官僚・役人、成果主義・グローバル経済主義の経営者・中間管理職である。

 

衰退の原因 = 吸血鬼の繁殖

 現在の日本企業が衰退した原因は、社員への教育投資を怠ったためである。1992年、バブル経済が崩壊し、経営者は未来の投資を放棄した。教育を放棄した現場責任者は、未来のある若人の生き血を吸って、自分達の成果にしていた。これを吸血鬼という。これでは会社の未来は暗いし、この弊害はボディーブローで効いてくる。気づいたときは手遅れである。だから日本経済は、バブル崩壊以降、成長なき27年間が流れた。成長するには、教育に投資をしなければならない。

 

昔の人事部の教育 

 私が入社した高度成長期の1973年は、会社も教育が充実していた。入社時、人事部主催の入社時の導入教育以外に、職場配属されて約2週間の技術部での受け入れ教育があった。当時は教育部もあり、人材に育成に力が入っていた。時は流れて、現在(2005年)は人事部に人材育成グループがあるだけである。それは2019年でも変わらない。

 

新人技術者教育を担当

 2000年、私は部品企画部に異動になり、技術部門の新人技術者教育として、約2週間のカリキュラムを組み、新人教育システムを立ち上げた。6年間、その教育を継続した。私も9講座を受け持ち、教壇の先頭に立った。その一つが「修身」であった。ビジネス文書の書き方(テクニカルライティング)にも力を入れた。2006年の合併後も2年間はそれを継続した。

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初級技術講座カリキュラム(青部が私の担当)

開講式、オリエンテーション 

ビジネス文章の書き方       

IT時代のナレッジと自己研鑽        

製図規格  (選択講座)   

安全作業の基本    

**技術概論 ポンプ及び流体理論     

**技術概論 ギヤ・バルブ  

**技術概論、設計技術   配管・**

**技術概論 電磁弁・その他バルブ   

3D-CAD教育  (選択講座)       

3D-CAD教育  (選択講座)       

3D-CAD教育  (選択講座)       

2D-CAD教育  (選択講座)       

2D-CAD教育  (選択講座)       

配管プログラム     (選択講座)      

2D-CAD教育  (選択講座)       

3D-CAD教育  (選択講座)       

3D-CAD解析教育  (選択講座)   

3D-CAD解析教育  (選択講座)   

**J技術概論    

**技術概論/車両駆動システム動向   

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修了式・役員講話 

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 「修身」の講義 2004年  講師は著者

 

崩壊

 しかし私がその職を離れた後、後任のT室長はその新人教育システムを破壊した。彼は教育に極めて不熱心で、自分が楽をするため、その教育プログラムが多すぎるとして、K事業所の研修センタでの泊り込み研修をやめ、テレビ会議システムで講義をすませ、講座数も激減させた。現在は技術管理部署としては、半日の担当だけの受け入れ教育に激減させ、あとは全社のテレビ会議システムの技術教育プログラムに乗っかり、新人教育を放棄した。

 

テレビ会議システムでの講義の弊害

 講義や講演のビデオでは、テーマの裏にあるパッション(情熱)は、受講生に届かない。ナレッジはビデオでも伝えられるが、パッションは直接相手と対峙しないと届かない。人はナレッジだけでは動かない。それにパッションが加わると、大きな力となり、人に考えるきっかけと行動する力を与える。

 

成果主義の弊害

 我々の世代は、先輩が新人のために、汗をかいて手取り足取りで教えてくれていた。ところが成果主義、成果主義が浸透し、部下に教えると、自分の時間を無くなるし、自分の職が脅かされるとして、教えなくなる傾向が増えた。

 特に日産では、ゴーンの経営方針で、激烈な成果主義が浸透し、部下に教えると、自分の職位が脅かされる危険を感じて、部下を教えなくなっていった。昔の日産の風土が無くなったとОBが嘆いていた。それが日産衰退の原因であった。 

 個人の最適化で、私の後任のT室長は、自分は楽をして、全体不最適化の体制としてしまった。これを経営用語で「合成の誤謬」という。そういうことをうまくやる人間が偉くなっている。なにせ教育に力を入れても管理課の室長として、手間ばかりかかり、出世には邪魔と考えるからである。

 

グローバル経済主義・成果主義という病

 欧米のグローバル化とは、他人に面倒な仕事を押し付け、自分は楽をして成果だけ貪るシステムである。教育とは、自分の世代には決して成果とはならない損な役回りの仕事である。私はその損な役割をお役目として受け入れていた。誰かがやらないと、未来の会社が回らない。不幸なことに、直ぐには問題が顕在化しないので、それですんでしまう。成果主義では、教育の成果は次世代なので、やった教育者は、決して評価されない。だから誰もやらない。そういう悪循環で、私が32年間勤めた会社は左前になってゆき、2005年に吸収合併され、消えた。

 

吸血鬼経済

 今の教育を放棄した技術管理部の責任者は、未来の若人の生血を吸って、自分達の成果にしているのと同じである。これを吸血鬼という。これでは会社の未来は暗いし、若人に申し訳がない。この弊害はボディーブローで効いてくる。気づいたときは手遅れである。

 私が会社の技術広報誌の編集責任者として原稿を集めていたが、基幹の事業部の技術部からの原稿が全く出てこない。今までの体制がそれを生んでいると思う。それが一因となり前任者は長期休職に逃避した。このため私が編集責任者にさせられた。これが、成果主義での技術開発での結果である。

 

人に投資をしない日本企業

 この現象は日本がグローバル化の波に表れ、人に教育投資をしない。それが全企業に及んでいる。そこに日本の不況の一因がある。教育に金をかけている企業は伸びている。

 肝心の投資を海外(中国、アジア)に投資をして、日本への投資を削減すれば、ブラーメンのようにその経済力が日本に及んでくる。ますます日本は衰退していく。それが分からない経営者が、日本企業を経営している。世も末である。

 

ご神託の愚

 毎年の会社経営方針で経営者は、「教育は大事である」と御託を述べる。しかし不況のとき、真っ先に削減となるのが教育訓練費である。この40年間、その傾向は変わっていない。私は管理部門の長としてずっと泣きを見てきた。

 それは日本の企業が、1992年のバブル経済崩壊以後に取った経営方針なのだ。バブル崩壊までの高度成長期は、教育費は増えていた。だから日本は成長した。

 バブルがはじけ、日本経済はデフレになり、成長できなくなった。人の投資をしなくなったので、成長できないだけなのだ。この当たり前のことが、わからないアホな経営者が経営するから、日本企業の成長が止ったのだ。それが原因で私を育ててくれた会社は消滅した。

1    日本経済新聞 2013年4月10日

2

    日本経済新聞   2017年12月17日

 

日本政府の怠慢

 日本の教育への公的支出は6年連続で、先進国中で最下位である。途上国等含めても123位と異常な下位にある。(2015年)

 政府が教育に投資をしない。先進国で、一人当たりの公的教育費は、日本が最低である。いくらアベノミクスで経済政策を進めても、子供への教育投資を科学技術の予算を増やさないので、景気が回復しないのだ。未来もないのだ。それはヤベえミックスである。

 日本の官僚は、未来に子供に投資をせず、抗がん剤の認可や添加物の認可で自分の保身のため、天下り先等に心を奪われている。それでいて日本の未来をつぶす増税に血眼になっている。国の未来のために働く義のある役人が減ったのだ。厚生省のデータ改ざん問題は、その体質が露見した事件である。それは子供への教育が貧困になったため、その教育環境下で育った役人が堕落したのだ。悪循環である。

 

衰退の責任

 こういうみじめな日本にしたのは、下劣な議員に投票した国民にもある。戦後教育が貧困であったので、国民自身が劣化したのだ。それで民主党の言葉に騙されて、民主党が政権を執ったら、益々日本は衰退した。今、安倍政権はそのしりぬぐいをしている。選挙では、教育に力を入れる人に、日本の未来に投資する人に投票しよう。

 

自分への教育投資

 会社はどうでもいい。国もどうでもいい。自分に自分で教育投資をすることだ。それが、変革の時代を負けないで生き延びる手段である。一人一人が目覚めて、一燈を灯して歩く。それが万燈になれば、日本は再生する。私はそう信じて自己投資を続けている。今でも自分への教育投資に年間100万円は使っている。今日は子供の日だ。日本の子供の未来のために精進をしよう。

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  馬場恵峰書 岩村に寄贈    寄贈者 弘前市 新戸部八州男氏

 

2019-05-05   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年5月 1日 (水)

天皇皇后両陛下の大垣行幸啓(3/3)

御料車がトヨタへ変更

 歴史上で「もし」があれば、今回の御料車は日産車かロールスロイス製であったかもしれない。

 従来は日産車が御料車であったが、ルノーの外国資本が入ったため、2004年に御料車も日産製からトヨタ車に変更になり、今回の写真撮影のご縁となった。

 表面的には、2004年、日産が宮内庁に当時の御料車の日産・プリンスロイヤルの経年劣化が進んだ上、部品の調達が困難等を理由に用途廃止を申し入れ、引退が決まった。その裏では、ゴーンの非情なコストカット政策があったのだろう。本来なら、御料車の採用は名誉なことである。部品調達など、どうでもできるのに、だ。

 御料車の採用メーカという名誉な行幸を自分で放り出した日産は、表むきはゴーンの手腕で業績回復したように見えるが、内面的には坂を転がるように衰退していく。

 

日産との薄縁

 1933年にダット社を買収した日産の鮎川義介氏は、車で金を儲けるため、一千万円を持って渡米して、図面、中古の工作機械、生産技術の全てを輸入し、アメリカの技術者をも連れて帰り、車の生産を始めた。

 彼の師は明治の元勲・井上馨である。鮎川は、井上馨の姪を母として生まれた。井上馨は日本に産業を興すことを鮎川に諭し、鮎川義介に技術の世界に進むこと勧めた。鮎川は、帝国大学を卒業後、米国で鋳物職人として働き、技術を取得した。その経験を活かして、井上の支援を受けて、技術を知った実業家として、日本で最初に鋳物産業を興した。それが現在の日立金属株式会社である。その技術は米国から導入した。日産の祖先の会社である。その初めは米国の技術の導入である。

 

日産の思想

 自分で作らないで、安易に技術は他から借りてくるという思想が、後の経営までルノーから導入するという失態を招いた。なんで、自分で自分の会社の経営を立て直すという発想ができないのか。自分が病気になったら、その原因を追究して、自分で治さないと、再建屋(ゴーン)に食い物にされる。

 

トヨタの思想

 豊田喜一郎氏の車でお国に尽くすため、技術は全て自社で創るという志とは対照的である。トヨタはトヨタ生産方式を作り出し、世界のトヨタに成長した。そして半世紀が経って、その志の差が、日産がルノーに乗っ取られる差取り(悟り)を得る結果になる。

日産の病状

 日産には労働組合の塩路天皇というガン細胞が長く居座っていた。自動車評論家の徳大寺有恒は塩路を「日産の足を引っ張れるだけ引っ張った」と批判している。日産の広報室課長の経験がある川勝宣昭(元日本電産取締役)は、「生産現場の人事権、管理権を握り、日産の経営を壟断。生産性の低下を招き、コスト競争力でトヨタに大きく水を空けられるに至った元凶」と批判している。塩路は、2013年2月1日、食道がんにより死去した。86歳没。

 日産の労働組合と経営層との争いは、トヨタの労使協調路線と対照的である。日産は、そいうガン組織を生む日産の体質を自分達で治せなかった。それで外部の経営者(ゴーン)を招くことに落ちぶれた。それが、日産の今日を招いた。

 

日産の衰退

 その結果が、1999年3月に日産のCEОに就任したゴーンは、主力車であった「青い鳥(ブルーバード)」を籠から放った(2001年製造中止)。ゴーンは、日産が蓄えてきた信用と財産を切り売りし、短期で利益が出たように見せかけ、自社のみが儲かる体制つくりに専念することになる。そして二人で育てた「愛」の「スカイライン」はメタボ化して、昔の熱烈な「愛」は冷めてしまった。30年前、ケンとメリーのスカイラインには、私も憧れの車であった。そこには開発者である桜井眞一郎リーダーの情熱があった。

 

ゴーンに付け入られた日産

 ルノーの拝金主義経営に染まった日産からは、情熱は消え、魅力的な車が生まれなくなった。それでいて日産のゴーン社長の年俸は10億円に迫り、平均役員報酬は1億円を超え、トヨタのそれの数倍もある。それに対して一般社員の平均給与は、トヨタよりも低い。ゴーン氏はそれを「恥じることはない」と恥さらしな言葉を豪語する。何かおかしい。(2014年当時の私の思い)

 そのおかしさが2018年末にゴーン被告が逮捕され、その不正が白日の下に晒され、私の疑問が氷解した。

 

ゴーンのリバイバルプランは「抗がん剤治療」

 ゴーンが打った手は、ガン患者に抗がん剤を投与するようなものであった。ゴーンの打った手は、人員整理、資産売却、下請けの切り捨てである。抗がん剤のように、一時的に効果が出るが、患者(会社)の体力を殺ぎ、開発力を下げ、モチベーションと愛社精神を破壊して、会社を衰退させる。儲かったのは、製薬会社のように、ゴーンだけである。後は死屍累々であった。

 

グローバル経済主義

 一部の人だけが富を独占して幸せになり(本当に幸せかどうかは別にして)、99%の人が不幸になる社会を、我々は本当に目指してきたのだろうか。この構図は共産中国の党幹部だけが、富を独占している姿に似ている。グローバル経済主義=拝金主義社会である。

 豊田佐吉翁・豊田喜一郎の顔と鮎川社長・ゴーン社長の顔を比較すると、人相学的に後者の顔は下品で人徳に薄いように見える。特にゴーンの顔は強欲の野獣的に見える。私の見方が偏っているのだろうか。ゴーン社長の言葉も人相も傲慢であるように見える。人格は顔に凝縮される。

Photo_4  豊田佐吉翁

Photo_5  豊田喜一郎創業者

Photo_6  鮎川義介創業者

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 世界経済フォーラム2008で講演を行うカルロス・ゴーン

 Wikipediaより

トヨタ自動車の志

 そのトヨタ自動車が今あるのは、明治時代初期に豊田佐吉翁が自動織機の発明に没頭し、豊田式自動織機の特許の売却資金で、新事業への展開したことにある。

 豊田佐吉翁は、トヨタ自動車の創業者の豊田喜一郎氏に、「俺は織機で御国に尽くした。お前は自動車で御国に尽くせ」と言い残した。企業・産業を起こすものは、志が必要である。単なる金儲けが目的では、目指す次元に差がでる。御国(公共)に尽くすためには、材料、設計、工作機械、生産技術の全てを自前で国産化しないと、当初の理念が達成できないとの考えから、車作り、人作り、会社のしくみ作りを始めた。そこに今のトヨタ自動車の礎がある。

Aa トヨタ初の純国産乗用車トヨダAA型     1936年

Photo_7 日産初の乗用車ダットサン12型      1933年

100年後の差

 国の産業の発展を目的に全て自分達の手で開発したことから、トヨタ生産方式、カンバン方式、現地現物といった日本のモノづくりの原点、手法が生まれてきた。実際に手を汚し、苦労をしないとモノつくりの技は手に入らない。日産からはそんな開発の苦労話から生まれたノウハウの伝承は聞こえてこない。企業DNAの影響の恐ろしさは、50年後、100年後に影響する。

 二つの初代乗用車を並べてみると、技術は未熟ながら純日本文化の繊細な造りこみをした車と、欧米式のがさつな車つくりの差が一目瞭然である。それが今回のゴーンのスキャンダルで明らかになった。ゴーンが日産の脇の甘さにスキを見付けて、食らいついたのだ。

ボルボのDNA

 写真の右はVOLVO初代の車。角ばった1927年のデザインは、その後のVOLVO車を象徴する。会社のDNAは遺伝するのがよく分かる。左は、私が担当した研削盤が研削するクランクシャフトを搭載したVOLVO740。

Photo_8 1985年のVOLVO出張時に、現地担当者から贈られたVOLVO車の模型。

 

『自分の人生という本』p106より

 

2019-05-01   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

天皇皇后両陛下の大垣行幸啓(2/3)

新型センチュリーとのご縁

 天皇陛下が乗られた御料車は、トヨタの新型センチュリーである。1995年頃、私はこの車のダンパープーリの開発のため、トヨタ自動車の開発部と開発担当課長として、打ち合わせをした。たまたま1995年頃の2年間、私はダンパープーリの開発担当の課長であった。当時、私の勤務する会社はトヨタ車の50%のダンパープーリを生産していた。

 センチュリーのようなVIPを乗せる車は、走行時間より待機時間の方が時間は長い。エンジンは低速回転時の振動が大きいので、そのためダンパープーリにも相応の耐久性が求められる特殊な仕様になっていた。

 

当社とダンパープーリのご縁

 当社がダンパープーリ等の自動車部品の生産を始めたのは、昭和27年(1952年)冨田取締役(当時)が、工作機械事業だけでは経営が安定しないとの洞見で、経営の二本柱として自動車部品事業に参入のため、一人奮闘した経緯にある。当時、その新規事業は、冨田取締役以外の全役員が反対した新事業であった。それがなければ、今回の写真もご縁がなかった。当社は昭和16年(1941年)、トヨタ自動車から分離独立して創業された。

 昭和27年は私が満2歳の年である。父の転勤の関係で、彦根市より大垣市に転居して1年目である。また冨田社長は、私の入社時の社長である。冨田社長は昭和45年(1970年)から昭和50年(1975年)まで社長を務められ、その後会長として昭和56年(1971年)まで勤められた。私の入社後、8年間がご縁のあった時期である。

 平成2年(1990年)12月、冨田環最高顧問(当時)の葬儀では、お手伝いをさせて頂くご縁があった。関係ある各部で各1名の幹部が、葬儀のお手伝いに参上した。

Photo

冨田環社長(当時) 「人格は顔に表れる」を実感  

Photo_2   参考 エンジンの構成図   イメージ図(ホンダの取説より)

冨田家とのご縁     

 冨田家は岡崎市の名家で、世界的なシンセサイザー奏者の冨田勲氏もこの家系である。私は若いころヤマハジャズクラブでのスタッフ活動で内田病院の内田修院長先生にお世話になった。先生は、日本のジャズ界の父とかドクター・ジャズと呼ばれている。その奥様が冨田家の親戚であった。内田先生宅での集まりで夜遅くなると、奥様に内田病院の病室に案内していただき、泊めていただいた。

Photo_3  内田先生と私(奥側) 演奏会後の打上会で(1978年ごろ)

 

2019-05-01   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年4月30日 (火)

平成最高の写真は、天皇皇后両陛下の大垣行幸啓(1/3)

 私にとって平成の最高の想い出写真は、平成天皇の大垣行幸啓の時の写真ある。2012年12月5日、天皇皇后両陛下が21年ぶりに、大垣に行幸啓された。当初、岐阜国体の後の訪問予定が、台風19号の影響で中止になっていた。天皇陛下はそれを覚えておられ、京都で明治天皇の100年の祭事をされた後、帰京途中でのご訪問が決まった。

 

大垣に行幸啓

 沿道には大勢の市民が出迎えて、何処にそんなに人がいたのかの大騒動であった。大垣市の人口は16万人余、静かな中核都市で、昼間は街中をそんなに人は歩いていない。ところが市民28,000人のお出迎えと物々しい警備の警察官1,000人の出現である。両陛下はスイトピアセンターの学習館で昼食をされて、以前に叙勲をされた方などとお会いになり、その足で「奥の細道結びの地記念館」を見学された。皇后陛下が「奥の細道」の史料に興味を示され、そのための訪問であった。

 記念館では塩村耕教授が大垣と松尾芭蕉の関わりなどを説明し、皇后陛下は奥の細道の写本に興味を示され、季語に日本の良さが表れる俳句の魅力のお言葉を述べられた。

 

最初で最後の写真

 平成天皇は、全国をくまなく2回、巡幸されているというが、この30年間で、私には最初で最後の拝顔の機会であった。それでカメラを携えて沿道に並んで、旗を持ちお迎えをした。10時より15時までの5時間を要したが、寒風の下、二度、3mの至近距離でお顔を拝顔できたのは、幸運であった。特に皇后陛下の気品には、圧倒された。まるで観音様の趣でした。まさに日本国の父と母であると改めて実感した。早々にA3サイズにプリントして額に入れて自宅玄関に飾った。

 

ベストショットは1枚のみ

 お出迎えとお見送りの二箇所で、約百枚の写真を撮影した。警備の警察官の説明では、お迎えの人達の前は低速で走るとのことであったが、撮影にとっては結構早い速度であり、デジカメTZ30では、1回しかベスト撮影ができなかった。急遽、家にとって帰り、連写毎秒8コマの一眼レフEOS 7Dを持ってきた。しかしお見送り撮影時では、場所的に逆光で、構図的にもピント的にもよい写真が取れなくて、結局、最初の1枚のみがベストショットの写真となった。その一枚も、自分がシャッターを押したのではなく、仏様が勝手にシャッターを押して下さったとしか思えない出来栄えであった。

 ご縁を感じて、購入したばかりのレーザカラープリンタで、A3サイズにプリントしてご縁のあった皆さんに配布した(約30枚)。

 

写真の意味

・両陛下が車窓の中に入っている。撮影時が0.05秒でもずれていたら、車のセンターピラーが邪魔してどちらかの陛下のお顔が隠れてしまう。

・両陛下が程よい明るさで、逆光でなく柔光の中に写っておられる。

・右下の旗も意図せずに写っていて、日の丸も欠けていない。

・皇宮警察の白バイもベストの位置である。御料車とラップしていない。

・車の位置もベストである。(車の全景が入ると御料車の写真となる)

・菊の御紋章の旗もベストである。

・背景に3本の楠木(大垣市の象徴の木である)の配置もベスト。

撮影する時は、無我夢中で周りには気が回らなかった。

1

お出迎え時の注意を説明する警官

 説明の警官が、沿道に10m間隔で配置されている。

 10分間ほどの頻度で、下記の注意事項を繰り返し説明する。

  1. 御料車通過時は、前に出ない・押さない
  2. 御料車を追いかけて一緒に走らない、
  3. 旗の振り方は上品に小ぶりに(横の人に迷惑にならないように)、
  4. Z車が通過するまでその場を動かない(怪我防止)

 天皇皇后両陛下が行幸啓される地では、このような対応がされている。

25  ご到着5分前通報車

33  ご到着3分前通報車

41  ご到着1分前通報車

5 先導の皇宮警察白バイと先導車

6p1040192

 スイトピアセンター・学習館の西側にて 

7

 次ショットでは後姿しか撮れない

81  報道関係者バス1号

92  報道関係者バス2号

10_3  随走車

10_2

 Z車が通過まで解散禁止

撮影場所の選択のご縁

 本来、スイトピアセンター学習館前の歩道から両陛下が降車される所を撮影したかったが、2時間前には人垣ができており、やむなく学習館西側の道路に移動をした。それが結果として幸いした。当初の場所は、逆光になりうまく撮影できない。移動した場所は順光となり、幸いであった。また場所的にも8階建の学習館の日陰となり、ライティングとしても柔らかな配光で、両陛下のお顔がうっすらと浮かび上がる厳かな雰囲気となった。これも仏様のご配慮であろう。毎日の散歩と学習館隣接の図書館学習室へ毎日通っているお陰で、撮影地点の地理に明るいのが幸いした。

 

後日談

 写真の出来が良かったせいか、この御真影を贈呈した知人から、「奥の細道むすびの地記念館」に提供して掲示してはどうかとの意見があり、早々に記念館の窓口に行き、写真を提供した。後日、自宅に責任者からお礼の言葉と共に展示スペースの関係で展示できない旨の断りの電話があった。展示スペースの言い訳は、明らかな方便であることが分かった。記念館の壁一面に今回の行幸啓のお写真が、36枚展示されていた。スペースの問題ではない。

 今回のイベントでは、市の職員かプロの写真家が、天皇皇后両陛下の写真を撮るお役目が決まっていたようだ。そこに素人が撮った写真が提供されては困るのだ。いくら良い写真でも。市の撮影担当者と展示写真の選択をした担当者も、立場がなくなる。彼らも生活がかかっている。

 面子を重んじ柔軟性に欠けるお役所仕事ぶりが、大垣駅の駅前通りのシャッター通り化防止の取り組み等の遅々とした現状や、行政指導で行うべき日本経済活性化のネックになっている。

 

本記事は、2017年8月26日に掲載した「天皇皇后両陛下の行幸啓」の改訂版です。

今回、「自分の人生と言う本」のカテゴリーを追加しました。

 

2019-04-30   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。