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2020年10月18日 (日)

『極楽とんぼ』人力飛行機の頂点を目指して(2/2)

ポジティブシンキング(極楽とんぼ気質)

聞き手  逆に、会社の人に対してはプレッシャーみたいな感じを持たれることはありませんか。

鈴木  いや、ないですね。チームのルールで、「仕事中は一切飛行機をやっているという存在感を表すな」と徹底しています。あくまでアフター5の活動で、仕事ではないですから、業務中は飛行機の話題は聞かれない限りは一切アピールしないことが基本です。逆にそうしている方が、経験的に、結果が良かった時のインパクトは、非常に大きいですね。「あんな忙しい日々を送っていて、こんなこと、いつやれるわけ」とよく聞かれたりします。そうすると、「ああ良かった」と思いますね。

聞き手  じゃあ、もし今仕事を取るか、大事なイベントの飛行機の方とどちらを取るかと言った時は仕事ですか。

鈴木  間違いなく仕事ですね。だって私は仕事で飯を食っているわけで、人力飛行機で飯は食えませんから、仕事を取ります。会社は仕事をちゃんとやってないと、こうやってバックアップもしてくれないと思います。目的が達成しないとやっぱり不完全燃焼で気持ちが悪いとかいう性格を持っていますので、仕事も趣味も関係ないですよ。だから何ごとも、全力投球ですね。

聞き手  そうしないと記録を作れませんね。

鈴木  結構、疲れますけどね(笑)。 

聞き手  また不調の時もあるでしょうからね。

鈴木  浮き沈みでいくと、鳥人間コンテストで、僕は3年に一度しか優勝できないと言われていました。2年連続して没している時もあります。確かにテストフライトではよく飛んでいますが、気象条件やトラブルに遮られたりすると、次の結果を出せるのが翌年になるので、いかに気持ちを落ち込ませないで維持するかが、マインド・コントロールとして重要です。だから頂点に立ってもおごらない。そこで駄目でも落ち込まない。だから優勝しても、あまりどんちゃん騒ぎもしないで冷静に受け止めますし、祝勝の宴会とかもあまりやりません。

聞き手  逆に失敗した時の反省会とかは……。

鈴木  激しいですね。徹底的にやります。優勝しても対岸に行けなかった2、3年は、優勝しても激論を闘わせました。例えば、一度4,400mで前の日本記録を破った年に、鳥人間コンテストでも優勝しましたが、2kmしか飛びませんでした。その時に、回りのメンバーから、「なんで2kmしか飛ばないのだ。5km以上は飛ぶんじゃないか。何がそうさせているのだ」というような感じで、激しく議論します。

 良かった時は良かった時で、なんで良かったんだろうという反省、悪かった時はそれの何十倍もの、なんで駄目だったかという理由を必ず明確にして、それを次にフィードバックする。冷静に考えるということを身につければ落ち込んでも、次にそのフィードバックをかければ絶対いい結果が出せます。全部プラス思考で考えるようにしていますので、どんな失敗をしても落ち込みはないわけです。表向きには落ち込んでいるふりをする場合もありますけどね。落ち込んでもタイムロスになりますよね。そんな過去のことをくよくよしてもしようがないと。

 

オンリーワン技術

聞き手  反省会から生まれた技術はなんですか?

鈴木  大阪府立大学に記録で負けた時は、30分で没しました。その時に思いついたのが今のコックピット形状です。空気のインレットとアウトレットの問題を発見しました。コックピットの後に完全にスケスケのメッシュの布が張ってあります。それの効果を5分の1の風洞実験で確かめました。回りのチームが一生懸命、プロペラはどうするかとか、翼の形状はとかってやっている頃に、我々はもうそんなもん見向きもしないで、コックピットの課題に集中しました。要は30分持たない理由が人間の冷却でした。テストフライトでのデータ上は、250Wで飛んでいます。 250Wでパイロットの中山をベンチの自転車にかけると、1時間なんか楽勝で持続します。しかし30分しか飛ばないのはなぜという疑問に対して再現テストをした時に、コックピットに空気がきれいに流れてないことがわかって、コックピット形状を微妙に変更していきました。従来も強度解析にはCAEを使っていましたが、この対策には、コックピットの形状設計に三次元CADを使い、空力解析をしました。(図10)

聞き手  空気抵抗は速度の二乗に比例しますよね。機体速度が遅いから、コックピットはむき出しでは駄目ですか?

鈴木  駄目ですね。多分10km飛ぶ機体が1kmとか、そういうレベルまで落ちると思います。全体の抵抗値はものすごく少ないので、全体の抵抗値の中でここが大半の割合を占めています。学生達ってよく、慣れるまでコックピットっておろそかにしていますね。最近それが理解されて、学生たちもきちんとその辺を対策しています。それで突然、急激に飛ぶようになったわけですね。でも、こういうことって、克服してやったもん勝ちですね、だからやって真似しちゃうともう、何機も同じようなレベルに到達してしまい、そうすると価値観が薄れます。我々の価値観は、やっぱり誰も行ったことのない時に、対岸へ到達するという結果にあります。一番最初に実現した人間は誰かで、次に行ったやつが誰なのかは誰も知らない。そういう世界になりますね。

聞き手  コロンブスの卵と同じですね。

鈴木  それが前人未到という価値観です。1998年の琵琶湖横断の時、2位のチームは5kmぐらいしか飛んでいません。5kmに対して23kmという絶対的な差を生み出したプロセスは、やはり技術者としての百歩先を行った満足感で、技術者冥利の世界です。もう競争相手達が、翼の設計は何だ、材質は何がいいかと試行錯誤している頃に、我々は、5年前にそれを見極めて、コックピットの検討を始めていたのだという自負がありますね。

聞き手  それってありますよね、技術屋って。そういうオンリーワン技術を開発した誇りが。

鈴木  そうですね。隠し持っていてね、いざ製品化した時に、いつからその技術を開発していたのだ、と驚かす感じですね。

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 図8,9,10  コクピット形状と翼リブ形状

 

日本記録への道(計測技術の取り入れ)

聞き手  機体に計測機器を積まれていますが、その経緯と効果を教えて下さい。

鈴木  会社にいて20年の歴史がありますが、最初の10年間はヤマカン設計、ヤマカンテストですね。レベルが上がってきたら、そうは問屋が卸さない状況に気づいてきて、本格的にいろいろなアプローチを始め、風洞実験と計測技術の駆使を始めました。ちょうど1990年頃、制御系とか電気系に強いメンバーが加わった頃です。

 テストフライトは800m長の富士川滑空場です。我々の機体の滑空比は30から35ぐらいあります。要は10m 浮かぶと、350mまで滑空してしまいます。ということは 800mの滑走路でテストするとして、離陸で30m前後ロスをして、そこから上昇に入り、定常飛行に入り、定常飛行を終わるともう中間点まで来ています。約10秒か15秒だけ水平飛行の区間がありますが、そこでもう漕ぐのを止めないと降りられません。ということは 800mの滑走路の中で、最適のセッティングをその10秒間の中で見極めないと駄目ですね。そのためにデータを取り始めました。800mの滑走路では、今ぐらいの機体のポテンシャルになると、楽に飛べてしまって機体のセッティングができません。パイロットのコメントでは、「もう楽楽で、どこまでも行くぜ」ですけど、実際、最適値を見つけたわけではありません。だからその最適値を見つけるためにデータ取りが要る、という目標と目的意識に変わってきました。ですから毎回、全部パソコンにデータを落として、飛行機速度、回転速度、パワーの関係を見て最適値を見つけて、それをリリースします。

聞き手  逆境が極楽とんぼを育てたようですね(笑)。もし米エドワーズ空軍基地のように10Kmの飛行場があれば、データなんか取らないですよね。

鈴木  そうですね。飛行機の性能が悪い時は明らかに、違いは体で分かりましたが、極楽とんぼのこの機体になってから、全く分からなくなりました。私もパイロットとして乗っていたので、セッティングのずれやピッチの組み立ての間違などはすぐ見破れます。マラソンもそうですけど、途中いい調子で走っていてもガクンと突然来ますね。中山の例でいくと 260Wだと1時間持続できる。しかし 300Wになると、もう30分以下しか持続できないという境界線がはっきりしてきますね。そこに入らないような負荷の境界条件を一生懸命見つけるわけです。それこそが、データ取りの世界で重要ですね。

 

技術の進歩

聞き手  実物を見て感激したのですが、翼のリブも全部肉が埋まっているし、全体剛性も高そうですね。

鈴木  翼型が層流翼ですから、60%ぐらいまでは形状保持してないと空力性能がひき出せないので、ああいう構造にしてフィルムで覆っているわけです。昔の機体は、どっちかというとフィルムを覆っている部分が多くて、翼面積もとても大きくなって、もう本当に張りぼての風船が浮いているようなイメージでしたね。(図9)

聞き手  要は肝心の翼型の性能を出せるかですね。

鈴木  そうです。これですと、翼型の性能よりも、いかに軽く作るかが大きな要素となります。

聞き手  機体重量は34キロですよね。昔に比べて軽量化はされてないのですか。

鈴木  重量管理は設計コンセプトとして明確です。我々は長年、鳥人間に参加していますよね。その過程で、わざと年々翼を大きくしています。12mから始まって、12、14、18、25、27、30、32mと大きくしてきました。「極楽とんぼ」の最新機の翼長は32mです。機体重量はほとんど変わっていません。そこが技術の進歩なのです。大きくなっても、重さは変えない。(図11)

聞き手  具体的な技術革新の要素は何ですか。

鈴木  その軽量化に大きく寄与した技術革新は材料ですね。結局強度部材にはシンプルなパイプ材を使っていますので、カーボンのグレードが上がると軽く作る要素に大きく寄与します。20年前に比べると、カーボンの引っ張り強度が何倍にも上がっています。ただ難しいのが薄肉パイプですね。薄肉パイプ構造は、バックリングが入りますので、凹みます。変形を起こすと、それとのバランスが設計的に難しい。それこそ解析を普通の手計算の曲げ強度でいくと、断面積が薄くても大きければ大きいほど剛性が上がりますが、曲げが入ると断面がつぶれて、バックリングでやられてしまう。その辺の背反事象を、限られた翼型の大きさの中でいかに効率よく設計するかが強度設計の技になるわけです。

 その軽量化に大きく寄与したもう一つの技術要素が接着剤の進歩ですね。昔は接着剤の重さ管理と作業時間に大変な負荷がかかっていました。日大の初代人力飛行機リネットでは接着剤の重さが問題になりましたからね。今は瞬間接着剤ですから、重量上、強度上と製作期間の劇的な短縮になっています。つまり、昔のエポキシ系の接着剤ですと、凝固するまでに1日はかかりました。

 性能に大きく影響するプロペラは、当然コンピュータのプログラミングをして計算します。材料はカーボンです。その雄型はNC工作機械でワーカーブルの樹脂型を切削して、それを鏡面に仕上げてエポキシの型に転写します。それは社内で作りました。雌型は京都の友達のレーシングカー屋さんで作ってもらいました。プロペラを作るのはメンバーの一人でこの種の製作の達人なのです。

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 図11 極楽とんぼ号の飛行距離の年度経過

 

DNAの伝承

聞き手  会社のDNAとして、後進を育てるとか、会社の方向性とかをどう思われますか。

鈴木  当社の例では、性能とかユニークなデザインとか、すごく特化した魅力がある製品が多いわけです。ただ、今、環境の問題とかコスト競争力とかグローバル化の時流の中で、魅力ある商品を生み出すというミッションがあります。魅力ある商品って、何らかのDNAがそういう商品の方向性を作り上げていますね。ですから、若い世代とある経験者の世代とラップさせながら、マニュアルに書いた仕事を教えるだけではなくて、例えば僕らは非常に日頃馬鹿馬鹿しい話を部下にしていることも、部下が自然に影響を受けるとかね。だから、ある世代をラップさせながら、世代交代というのは絶対必要だし、改革も必要だし、それは文書には書けないですね。そういうユニークさとか、そのキャラクターの部分は、こういうことをやっている自由な風土さえ持っていれば自然に引き継がれるのかなあとは思います。何かがんじがらめの、ルール・マニュアルだらけの会社になってしまうとちょっと危機感を覚えますね。

聞き手  最近の勝ち組と称される好調な企業とその製品から発する魅力を見ると、明確に会社のDNAが影響していますね。まさにDNAの伝承ですね。

鈴木  会社のDNAは、自然に引き継がれるような気がします。上司から次の上司へ風土が伝承される。今自分でいいなあと思っているのは、こういうことをやってもあまり、反対する人間がいません。どっちかというと行け行けムードで、それだけでも幸せかなあと。

聞き手  日本記録を更新したチームの背景に、会社のDNAを感じますね。また鈴木さんのお話から、一つのことをやり遂げた人だけが持つ人生哲学と仕事のやり方に、共感と感銘を受けました。

本日はお忙しいなか、ありがとうございました。

 

写真提供 ヤマハ発動機株式会社、鈴木正人氏

 

2020-10-18 久志能幾研究所通信 1791  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2020年10月17日 (土)

『極楽とんぼ』人力飛行機の頂点を目指して(1/2)

 

 自動車技術会中部支部は会誌として『宙舞』を発行している。その会誌に技術者達の挑戦する姿を伝えるシリーズ「挑戦」のコーナがあり、そこに人力飛行機「極楽とんぼ」の取り組みを取り上げた(2003年)。その記事の再編集・加筆版を掲載する。

 私は会誌の編集委員として、そのインタビューへの参加で、飛行機好きの私は、真っ先に手を上げて参加した。

 このインタビュー後、リーダの鈴木さんの挑戦ぶりに惚れこんで、しばらく「極楽とんぼ」の追いかけになってしまった。試験飛行の見学のため、飛騨エアパークや、調布飛行場、鳥人間コンテストにも足を伸ばしたという顛末つきであった。今まで仕事一筋であったが、これを機に飛行機に再度目覚めた出会いであった。

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   図2  日本記録更新時 2003年8月

 

シリーズ  -挑戦-   インタビュー

人力飛行機『極楽とんぼ』

   人力飛行機の頂点を目指して

  

1  ヤマハ発動機株式会社MC事業本部エンジン開発室 主査 鈴木正人

聞き手:小田 、

    吉川 誠(三菱自動車エンジニアリング(株))

         山本 信成(スズキ(株))

 

 チーム・エアロセプシーの人力飛行機「極楽とんぼ」が、2003年8月3日に10.9 kmを飛んで、公認日本記録を更新した。これの背景にはチームリーダー鈴木さんの30年に近い取り組みがあった。

 

人力飛行機との出会い

聞き手 人力飛行機に魅了されたのはいつごろでしたか。

鈴木  1975年の中学生の時に、本屋で見つけた航空雑誌の表紙に、日本大学の人力飛行機ストークスの写真が載っていました。0.1gでも軽く、精度は1㎜以下に抑えてとか、ストークスの技術の解説記事が書いてありました。それを見てすごいなと思って、自分で作ってみたいなと思いました。(図1)

聞き手 運命の出会いですね。1枚の写真、言葉、人との出会いでその後の人生が大きく変わるといったところでしょうか。

鈴木 ちょうど進学を考える頃ですね、その航空雑誌を見て、魅了されたのがきっかけですね。ああ、こういうのをやっている所があるんだと。もうここしかないなと思ったわけです(笑)。やりたいというか、作ってみたいというのは、技術屋の本能ですね。

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 図1 ストークス(日本大学 1975年)

 

聞き手  大学で研究された人力飛行機を、社会人になっても続けられた経緯は何でしたか。

鈴木  ヤマハに入社して人力飛行機を続けられるとは当然思っていませんでした。ところがヤマハは挑戦という姿勢に対して、こだわりを持っていますね(笑)。「少しはお金を使っていいから作ってみたら。ただしプライベートな時間で」といった経緯から始めました。

 最初は無名で、細々とやっていました。それが鳥人間コンテストに出場してテレビに出ますよね。この番組は視聴率が高いので、 結果として社内のファンが増えていきました。当初は良い結果が出せませんでした。そうしたら、「もうちょっとバックアップしてやるから、勝つまでヤレ」とか言われまして(笑)、「はあ?」という感じで、「エッ、いいんですか」(ニコッ)ということで、始めました。上の方が理解をしているので、ある部署に、「ちょっと面倒みてやれよ」みたいな成り行きでしたね。

聞き手  会社の目指す方向と合っていたわけですね。社員に対して夢を与えてくれるという会社のメッセージになりますね。

鈴木  そうですね。夢を実現させてくれる会社とのイメージ作りにもなりますし、僕はやりたいし、ギブ・アンド・テイクですね。会社とのベクトルが合っていますから、 「我々も生半可な気持ちではやりません。頂点を目指します」と宣言しました。その目指す目標は、最初は鳥人間コンテストの頂点、次は人力飛行機の世界の頂点ですね。それでだんだんやっているうちに、飛行機がレベルアップしてきて、琵琶湖対岸まで行ける可能性が見えてきました。初めて鳥人間コンテストに出た時って、目の前の対岸なんか、もう本当に景色でしたよ。「ああ、琵琶湖ってこんな景色で雄大だなぁ」なんて言っていたのが、まさか対岸に到達するなんて思いもしませんでした。それこそ地球で月を見ているようなものですね。(笑)

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 図3 日本記録更新時 2003年8月

 

集中とOFF

聞き手  メンバーの皆さんも含めて、どういう目的で推進されましたか。やっぱり好きだという?

鈴木  まず好きだというのはありますけど、全員、技術屋集団なんですね。対岸へ到達するとか、高い目的意識があり、強い意思があるともうそこに突っ走らざるを得ない。自分たちが、今もトップレベルにいて、頂点を目指しているというプライドも重なっていますね。これがもうダメダメチームで、結果に対して正確な分析もできないようなフニャフニャのチームだったら多分続いてないと思います。かっちりしています、我々って。14人が活動する時は、決められた日時は全部守ります。我々は1年単位で、活動計画を決めて行動しています。

 製作期間でいくと、1月~4月末までは、「毎週金曜の夜と土曜の終日は全員参加で活動し、余程の理由がない限りは没頭する。それができないのならチームを去って下さい」というような暗黙の規約があります。そうやって集中して活動し、次の5~7月はテスト期間です。「金曜日の夜中とか土曜日の早朝1時に集まって、富士川でのテストフライトには 100%参加するように」と。そういうような徹底した中で、納得いくメンバーが残っています。自然とそうなりますね。目的意識が感化されますし、但しメンバーはすごくメリハリをつけて、それ以外のプライベートな関わり合いは、無いように心掛けているみたいです。チームワークというと、仲良し感覚やグループでの活動や、同じユニフォームを着てとかありますが、うちは違います。休みとか飛行機の集まり以外の時は、全くみんな勝手にやって、決められた時だけ集まって活動し、パッと去っていきます。(図5,6,7)

聞き手  まるで軍隊ですね(笑)。

鈴木  僕はプロフェッショナルな考え方と思っています。例えばスタジオミュージシャンは、電車でスタジオへ来て、さあ録音するよと言うまでフラフラしていて、ハイ、じゃあ今からやりますからと、譜面が配られると急に目つきが変わり、急にプロの顔になって、短時間でパーッと仕事を終えて帰っていくという姿ですね。「なんなんだ、あの人達は?」って言われてね。やっぱり1年中このことを考えていたら、自滅すると思います。だからOFFの期間と集中する期間との区別をハッキリつけています。

聞き手  私の聞いた話では、日本刀の切れ味の素晴らしさは、作る過程で、熱する時間と冷やす時間をおき交互に繰り返して鍛えるからだ。ずうっと熱してばかりだとおかしくなっちゃうと。人間も同じだよと。

鈴木  そうなんですよ。だから僕らも7月末の鳥人間コンテストに毎年出ている時は、その大会が終わると、帰ってきてすぐ反省会をやります。項目と失敗事項を書き出します。その課題の洗い出しが終わった時点で、「じゃあね」って言って2ヵ月か3ヵ月ぐらい、もうみんな勝手に散らばって、気持ちをすっきりさせます。

 そろそろ来年の計画でも立てるかって、冬ぐらいに次モデルの機体設計とか改良点を検討して、年明けから作り始めます。それの繰り返しをやってきました。だから年間のうちの3ヵ月間ぐらいは、飛行機から離れています。人力飛行機の関係で、一流のスポーツ選手と自転車選手と一緒だった時期がありました。その辺からこの知恵を学びました。だから1年中練習していれば、強い選手になるとは言えないようです。やっぱり、気持ちの切り替えが必要で、OFFを何ヵ月か取ると、本当に好きで、やりたいなあという想いがあると、「俺はやっぱり飛行機をやりたい」という気持ちがふつふつと湧いて来ます。そういう気持ちの時に始めて、また暫く、ちょっと辛いけど集中してやれるようになるわけです。

聞き手  でもOFFの時は意外と潜在意識があって、いろんなアイデアが湧きますよね。

鈴木  当然歩きながらも考えていますよ。ただ辛い日々とか、拘束された日々からは解放されますからね。

聞き手  あれって、辛いですか。

鈴木  結構入り込んでやっている時は、辛いと思うことはありますね。仕事が忙しくて板挟みになっている時や、突発の事柄が入ったりすると結構辛いですね。でもやりたいとの想いが大きなエネルギーですね。

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  図5,6,7  早朝のテストフライト(富士川)

 

2020-10-17 久志能幾研究所通信 1790  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月24日 (月)

ラジコンヘリで昔にタイムスリップ

加齢なる美学(華麗なる美学)

 

 定年まで真面目に働き、義務としての社会の務めを終えて、定年後に自分の時間をもてるとは何と素晴らしいことか。

 定年後の時間は平均寿命80年としても、20年間もある。私の予定は108歳まで? 残り20年としても、一日12時間×365日×20年で87,600時間の広大な宇宙が広がっている。22歳から60歳まで年間2000時間を働くと、約76,000時間を会社に拘束されて働いてきたことになる。しかし定年後はそれ以上の宇宙が広がっているのだ。その時間があり、意識すれば、一仕事が出来る。そう思って、私は毎日精進している。だから現役以上に忙しくて仕方がない。

 今まで40年近く、自分の技を磨いてきたのだから、新しい道は無限に広がっている。一つの道に5千時間も投じれば、飯を食えるプロになれる。その時間はあるのだ。そう思えば、定年後はバラ色である。

 

定年後の闇世界

 世には定年後の生活が地獄の人もいる。国立大学の工学部長まで勤めて、定年退官後、私立大学の学長まで勤めた人が、現在の処遇を泣いていた。「定年まで仕事一筋で働いて、気が付くと家に私の居場所がない。家内が家の中を総て取り仕切っていた」である。その人は認知症になってしまった。

 定年後、契約社員として働いても、能力の低い元部下の元で働くのは地獄である。部下は無く、肩書権限もなく、社外工と同じ扱いである。精神的に参ってしまい、65歳まで勤める人は稀である。

 定年になってまだ家のローンが残っているので、老体に鞭打って働いている人もいる。それでは電話代も奥さんに管理され、電話一つ自由にはかけられない状態になる。お小遣いもままならぬ。自由に外出もままならぬ。趣味もなく、家ではやることがなく、奥さんや子供からは、粗大ごみ扱いである。

 定年後、家で何もせずぶらぶらしていると、奥さんや子供から邪魔者扱いである。人格を高めていないと、父の権限などどこにもない。

 私が昔、一緒に仕事をした人に電話をしたら、奥さんが電話に出て「あんたー、オダって人から電話!」と怒鳴っていた。それでその人の家庭内の扱われ方が露見した。それ以来、その人に連絡はしていない。

 そうならないように、現役時代に準備を怠るな、が教訓である。一番の修養は、己の人格の向上である。

 

若い時にタイムスリップ

 若い頃、やりたくてもお金が無く、時間がなく、世間体があり、親の許しが出なくて諦めたことが、定年後の今なら出来るのだ。そんな素晴らしい時間が、第二の人生である。

 

昔の趣味が復活、人生再生

 私の学生時代の趣味は飛行機であった。当時はお金もなく、勉強も忙しかったので、精々、ソリッドモデル作り、Uコン作り、ゴム動力飛行機作りが精々であった。ラジコン飛行機など夢の夢であった。

 昨日、ご縁があり欲しかったラジコンヘリコプターが舞い込んできた。私の先生が骨董品屋で、激安の値段で売っていたラジコンヘリを見付け、手配してくれた。気に入って早々に居間に飾った。50年前の心境にタイムスリップである。生きていてよかったと思う。癌などで死んでなんかいられない。これが命の泉である。これこそが大人のオモチャの楽しみである。これをバネに新しい仕事が出来る。

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2020-08-24 久志能幾研究所通信 1718  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年7月18日 (土)

洗頭零吾 宇宙眺めて 夢離陸

セントレア 宇宙眺めて 夢離陸

 

 2020年7月16日、半年ぶりにセントレアに行き、頭を空っぽにして展望台で大空を眺めながら、夢を見てきた。時には広い場所で、大空が見える場所で、人のいない静かな場所に、身を置かないと、良き発想も生まれない。家に閉じこもっていてはダメなのだ。

 そのついでに、飛行機の写真を撮った。先日、望遠レンズのテレコン1.4倍を入手したのでその試撮りも目的である。残念なことは、国際線の飛行機が全く飛んでいない。

 

大空は宇宙に通じる

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 馬場恵峰書「佐藤一斎「言志四録」五十一選訓集」久志能幾研究所刊

   2018年10月31日書

 大空は宇宙に通じている。「宇」とは限りなく大きなもの。「宙」とは限りなく長い時間の流れ。共に見極められるものではない。頭を空にして、己の心を俯瞰すると、心に宇も宙も感じられる。現世の俗な争いと比較すると、なんと愚かな些細なことで大騒ぎをしているかが分かる。世には些細な財産争いで大騒ぎをしている事件が頻発である。その真理が分かれば、何事も達観できる。己の心が宇宙なのだ。

 己の命が生まれた確率は、一億円の宝くじが連続で百万回当たると同じ確立である。連綿と続く命の連鎖で、己はご先祖の代表として、現代を生かされている。その命の役割は何かを考えると、おちおち寝てなどいられない。だから私は昼寝を欠かさない(?)。

 

使命達成のため、大きな夢を見る

 大脳生理学では、「人間の脳は、決めた目標までしか頑張らない」という性質がある。だから夢を見るなら、できる限り大きな夢を見るべきなのだ。一生かかっても実現できないような大きな夢を持つべきだ。夢は棒ほど願って針ほど叶う。だから私は、ダメもとで大きな夢を見るようにしている。

 人が1億円稼ぎたいと思うなら、私は10億円稼ごうという気持ちにしている。トヨタ生産方式を作った大野耐一は、「物事を10倍で考えよ、費用を10分の1にせよ」と部下を叱咤激励した。そうして彼は大田舎のトヨタを世界のトヨタに育てた。

 

夢をみるとは生きること

 夢を見ることは人間にだけ許された霊力である。動物は夢など見ない。しかし今の若い人を観ていると、夢を見ることなどないとしか思えない。ましてや還暦を過ぎた人間は、会社人生でエネルギーを吸い取られ、抜け殻のようになった人が多い。まるで飼いならされた家畜か奴隷である。私は、そんな社畜のような生き方をしたくないと、今まで生きてきた。それで今の私がある。

 夢を見るとは、人生に責任をもつことだ。おちおち死んでなんかおられない。

 

ドリームリフターを撮る

 2015年からセントレアに通い出してから、今回初めてドリームリフターの飛行姿を撮影できた。ドリームリフターは、三菱重工で製作したB-787の胴体部品等をシアトルのボーイング社に運ぶための輸送機である。この機は夢をシアトルに運んで、現地で夢の組み立て工場に渡して、任務が終わって無事に日本に帰ってきたところである。

 長年、夢を追ってきて、今回初めてドリームリフター(夢の離陸機)を撮影できたことは、象徴的である。嬉しくなった。私の夢もドリームリフターで運ぶことにした。夢の実現には、相応の設備が必要だ。

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2020-07-18 久志能幾研究所通信 1670 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年7月17日 (金)

銭湯レア 太陽浴びて ガン予防

 2020年7月16日、半年ぶりにセントレアに行き、展望台で思い切り太陽光を浴びて、ガン予防をしてきた。南雲吉則先生の指導で、ガン予防のためには、太陽を浴びる療法が必用だ。そのついでに、飛行機に写真を撮った。(本当は飛行機撮影が目的。それも望遠レンズのテレコン1.4倍を入手したのでその試撮りが主目的である)

 しかしセントレアを見て、日本経済の惨状に目が行った。やはり現地現物で現場を見ないと実態が見えない。家に閉じこもっていてはダメなのだ。

 

飛行場の惨状

 現在、国際線は週にフィリピン航空が2便だけで、他は閉鎖である。カウンターが総て閉鎖され不気味である。国内線カウンターのみが閑散として開いていた。

 国内線は9割ほどが運行されているようだ。しかし客は少ない。

 エプロンの海外線用駐機場には、海外機が一機も駐機していない。

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レストランの惨状

 いつもは満員のお店が閑散としている。お店の半分はシャッターが下りている。今日は名古屋コーチンのお店でお昼の親子丼を食べたが、カウンターが、アクリル板で区切られている。そのため席が5席しか取れない。また客は私一人である。

 いつもセントレアに来ると利用するお握り屋で、店頭に、「お握りは完売しました」で商品がない。これでは商売になるまい。

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P1130863s  閑散とした出発ロビー

展望台の惨状

 いつもは数十人が飛行機を見るため集まっている。望遠レンズを付けたカメラを担いでいる人が10数人はいる。

 ところが、今日はカメラを担いでいるのは4名のみであった。15時くらいになると、私を入れて展望台には、2名しかいない。こんなことは初めてである。

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名鉄特急の惨状

 帰りにセントレア駅15時37分発の特急μスカイに乗ったが、その指定の車両に乗客は私一人であった。行きの電車の乗客も少なかったが、帰りが貸し切りになるとは想定外であった。

P1130867s    乗客は私だけのミュースカイ

日本の景気展望

 この状況では、日本の景気が良くなるはずがない。空港は日本の景気の最先端を表している。金が余っているので、株式市場しか金の行き場がなく、株価が乱高下している。それは経済のあだ花である。経済の実態は、どん底に向かってスパイラル降下になると思う。早急に経済対策が必用だ。今の安倍君にその能力があるだろうか。安倍君の外交はそこそこだが、経済面の施策では落第である。さらに増税の計画もあるとかで、狂気の沙汰である。

 

大垣の経済展望

 大垣では、小川敏が大垣市の経済政策を放り投げ、自分の選挙事前運動で忙しい。コロナをかこつけて、市民から寄付贈呈式をかこつけて売名行為に大忙しである。それのツーショットの写真を御用新聞に載せまくっている。寄付するほうが主役なのに、受ける側の小川敏が主役のように振舞っている。オカシイ。これでは大垣の経済が良くなるはずがない。

 大垣の歴史の証人である創業265年(1755年創業)の菓子どころ「つちや」が、息も絶え絶えで、旗艦店の駅前商店を閉めたままである。それが大垣経済の没落を象徴している。

 私が7月6日に法事のお供えを「つちや」に買いに行ったら、「当分閉店します」との看板で閉店である。大垣駅前の旗艦店でのことだ。呆れて、また縁起が悪いので、今後、法事関係のお供えは、金蝶園で買うことにした。

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真因はどこか?

 中国共産党がこの惨状の真因である。それなのに自民党の二階俊博議員はそれの肩を持って習近平の来日に力を入れている。公明党も同罪である。習近平は、尖閣諸島、沖縄に領空侵犯、領海侵犯を毎日繰りかえしている国の元首である。いわば、燐家の人間が、毎日、刃物を持って自宅近辺を隙あらば盗もうとうろうろしているのと同じなのだ。聞けば同居人(ウイグル族)を監禁して臓器売買をしているとのうわさもある。隣家の商店は、同居人を奴隷のように使って、激安の商品で安売り攻勢を当商店にかけている、と同じである。

 

ニューズウィーク日本版

ウイグル人根絶やし計画を進める中国と我ら共犯者

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/07/post-93982_1.php

 

産経ニュース

【主張】「国賓中止」の決議 自民の及び腰に失望した

https://www.sankei.com/column/news/200710/clm2007100002-n1.html

 二階俊博議員も公明党も中共の手先になって裏工作をしている。それなら日本共産党に鞍替えすればよい。まさに売国奴である。そんな議員を次の選挙で落とさないと、日本の未来はない。

 だれがこんな日本にしたのだ。政治を勉強しない国民が、無知に付け込まれて利権あさりの政治家に投票しているのだ。全て我々の責任である。我を滅ぼすのは吾である。国民が目を覚まさないと日本の未来はない。

 大垣経済の没落の真因は、小川敏の無為無策の経済政策である。大垣市民が目を覚まさないと、大垣の復活はあり得ない。

 

2020-07-16 久志能幾研究所通信 1667 小田泰仙

累計閲覧総数 188,304 

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2020年7月 5日 (日)

ブルーエンジェルスは使命で飛ぶ。愚人は保身で地べたを這う

天使からのメッセージ

 終活として昔のフィルムを整理していて、1971年のブルーエンジェルスのカラースライドを見付けた。当時、まだカラーフィルムが高価であったので、白黒とカラーフィルムの使い分けをしていて、このカラーフィルムの存在をすっかり忘れていた。

 

医療関係者への感謝と敬意の編隊飛行

 日本のブルーインパルスは、5月29日、新型コロナウイルス患者に治療をする医療関係者への感謝と敬意を表すため、東京都心の上空を展示飛行して話題となった。ただ残念ながら、この展示飛行はアメリカの真似である。真似でも皆さんが喜んでくれたので、良いことだ。

4k8a1284s  ブルーインパルスの飛行 2018年11月18日 岐阜航空祭にて

 日本のブルーインパルスの展示飛行の1か月前、4月28日~5月15日、米国の2大曲技飛行チームのサンダーバーズとブルーエンジェルスは、全米各地(21か所)で、新型コロナウイルス患者に治療をする医療関係者を表敬するため展示飛行をした。日本とは規模が桁違いである。

  日米の曲技チームは、命をかけてコロナと闘った医療関係者に、自分達の命をかけて敬意を表したのだ。

 

半世紀前のブルーエンジェルス来日

 1971年10月、国際航空宇宙ショー(会期1週間)に米海軍のブルーエンジェルスが曲技飛行を披露するため、名古屋空港(小牧)に来日した。ブルーエンジェルスは、国際航空宇宙ショーでの展示飛行を行うため、前日、その練習飛行をした。私は当時、大学生で、学校をさぼりカメラを担いで出かけ、撮影に没頭した。

 

汚名を着せられる

 しかしF-4はジェットエンジンが双発で、出力が大きく、それが4機で編隊を組み、超低空を舞い、エンジン出力を最大にしてアクロバット飛行すると、轟音と振動で近隣住民から「窓ガラスが割れた」「屋根瓦がずれた」などの苦情が同基地に殺到した。そのため、翌日の曲技飛行は中止となり、大人しい展示飛行が1回のみとなった。

 「国際航空宇宙ショー」事務局の当初計画では、ブルーエンジェルスの展示飛行が最大の見せ場であった。それが肝心の曲技飛行が中止となり、単なる編隊飛行の披露だけになった。少し演技飛行をしたが、騒音防止で高度を取り、エンジン出力を上げない大人しい飛行であった。前日に迫力ある練習飛行を見た私には、拍子抜けする演技飛行であった。まるで仕事の鬼が、単なる作業をイヤイヤしているようなものであった。

 

抗議表示

 その飛行も着陸ギアを出しての飛行である。戦闘機が着陸ギアを出すとは、相手に対して降伏の意思表示を意味する。半世紀を経って初めてこのことに気がついた。ブルーエンジェルスは、この行動で自分達の抗議を表示していたのだと。

 

仕事と作業

 仕事とは事に仕えることだ。それに命を賭けることだ。それを使命感という。

 作業とは、活きるための生活費を稼ぐためのルーチンワークである。お役所の「おしごと」である。「仕事」と「おしごと」とは、似て非なるものだ。

 

青い天使の仕事、愚人の作業

 ブルーエンジェルスのクルーたちは、ファントムの狭いコクピット内で拘束されて(酒も飲めず、寝られず)、長時間かけて太平洋を横断して日本に来た。日本の観客のため、命を賭けて、持てる技量を最大に発揮して、事前演技練習をした。ところが、それが小牧の地では問題になった。ブルーエンジェルスには、全く落ち度がない。

 ブルーエンジェルスは、航空宇宙ショーの華々しい主役の座を拒絶された。世界最高の技術を持つと自負する彼らには、最大の屈辱である。日本事務局は彼らに恥をかかせた。日本事務局の役人は、仕事でなく作業をしていた。騒音が出ることは当たり前のことで、それを苦情が来たからと中止にするのは、己の保身に徹した行動である。なぜ命を賭けて、「ブルーエンジェルスを呼んだという仕事」に命を賭けられなかったのか。

 

作業しかしない会社は淘汰される

 まるで最近の会社の不祥事を見るようだ。単なる作業をして、自分の保身に窮境としているから、会社が問題を起こす。そして市場から淘汰されていく。

 ブルーエンジェルスのメンバーは「日本になんかもう二度と来ねぇよ!」と言い残して、日本を去った。その心情がよく理解できる。

 世界最高の技量を持つ彼らでも、そういう非合理を受けることが日本社会の現実である。この事件は49年前であるが、半世紀たっても、その状況は変わっていない。

 

愚人の「おしごと」

 会社での仕事とは、経営理念に沿って、会社の命を賭けて業務を全うする。それができず、金儲けややっている振りだけで邁進した会社や組織が世間を騒がせている。

 日産、東芝、東電、三菱自動車、JR西日本、パナソニック、ソニー、大垣市政等の会社・組織で、東大出の社長が使命感を忘れ、その座に居座って日本社会に跋扈している。ある日、不祥事が露見して栄光の座から消える。

 日米の曲技チームが、命をかけて新型コロナと闘った医療関係者に、自分達の命をかけて敬意を表している。それに対比して、小川敏は、新型コロナ騒動に便乗して、業者から寄付の贈呈式で岐阜新聞に頻繁に記事を掲載させて、6選へ向けた事前選挙活動をしていた。これでは大垣が没落して当然である。

 

天網恢恢疎にして漏らさず

天之機緘不測  (菜根譚)、

 天が人間に与える運命のからくりは、人知では到底はかり知れない。

 

以下は、ブルーエンジェルスが正式の演技飛行を撮影した写真である。前日の練習飛行に比べて、編隊飛行が主体の大人しい飛行であった。

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04img0150s  脚を出して飛ぶブルーエンジェルス

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11img0141s  超低空をフライパス

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19img0174s  一番機が背面

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2020-07-05 久志能幾研究所通信 1655 小田泰仙

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2020年6月13日 (土)

ブルーエンジェルズ、窓際族にされ悔し涙

 1971年10月、国際航空宇宙ショー(会期1週間)に米海軍のブルーエンジェルズが曲技飛行を披露するため、名古屋空港(小牧)にやってきた。

 ブルーエンジェルズは、国際航空宇宙ショーでの展示飛行を行うため、前日、その練習飛行をした。しかしF-4はジェットエンジンが双発で、出力が大きく、それが4機で編隊を組み、超低空を舞い、エンジン出力を最大にしてアクロバット飛行すると、轟音と振動で近隣住民から「窓ガラスが割れた」「屋根瓦がずれた」などの苦情が同基地に殺到した。そのため、翌日の曲技飛行は中止となり、大人しい展示飛行が1回のみとなった。

 

左遷

 「国際航空宇宙ショー」事務局の当初の計画では、ブルーエンジェルズの展示飛行が最大の見せ場になるはずであった。それが肝心の曲技飛行が中止となり、単なる編隊飛行の披露だけになった。少し演技飛行をしたが、騒音防止で高度を取り、エンジン出力を上げない大人しい飛行であった。前日に迫力ある練習飛行を見た私には、拍子抜けする演技飛行であった。まるで仕事の鬼が窓際族になったようなものであった。

 

抗議表示

 その飛行も着陸ギアを出しての飛行である。戦闘機が着陸ギアを出すとは、相手に対して降伏の意思表示を意味する。この一連の飛行写真を整理していて、50年経って初めてこのことに気がついた。ブルーエンジェルズは、この行動で、自分達の抗議を精いっぱいの抗議をしていたのだと。

 

天の人事、左遷人事

 ブルーエンジェルズのクルーたちは、ファントムの狭いコクピット内で拘束されて(酒も飲めず、寝られず)、長時間かけて太平洋を横断して日本に来た。日本の観客のため、命を賭けて、持てる技量を最大に発揮して、事前演技練習をしたら、それが小牧の地では問題になった。ブルーエンジェルズには、全く落ち度がない。

 ブルーエンジェルズは、航空宇宙ショーの華々しい主役の座から窓際族に追いやられた。世界最高の技術を持つと自負する彼らには、最大の屈辱である。日本の事務局は彼らに恥をかかせたのだ。

 

地の人事

 まるで自分の会社生活での人事を鏡でみているようだ。会社のため、全力で仕事に取り組んだら、それが一部の人間のご機嫌を損じ、告げ口をされて閑職に飛ばされた。自分としては、正しいことをした。役員会で承認されプジェクトを別に対象に適用したら、私の行動に不満を持つ輩がそれを告げ口した。それと同じである。

 ブルーエンジェルズの隊員達は「日本になんかもう二度と来ねぇよ!」と言い残して、日本を去った。その心情がよく理解できる。

 世界最高の技量を持つ彼らでも、全く落ち度がなくても、そういう不遇を受けることが人間社会の葛藤だと分かると、自分が受けた理不尽な人事など、長い人生では不思議でない事件だ。最近、そう達観できるようになった。

 

三流会社の人事

 会社での人事は、所詮、好き嫌いだけのことである。役員は、自分の大学の後輩が可愛いのだ。どうしてもその後輩を依怙贔屓する。そういう人事が横行すると、会社は傾いていく。それで前職の会社は市場から消えた。

 日産、東芝、東電、三菱自動車、JR西日本、松下電器、ソニー等そういう会社が、東大出の社長を筆頭に日本社会に跋扈していたが、ある日、不祥事が露見して栄光の座から消えた。

 当時、私の職場でエリートとして依怙贔屓を受けた輩は、ひいきしてくれた役員がいなくなり、閑職に飛ばされた。彼も近いうちにその職場で定年を迎えるようだ。もう一人は、大学に逃げて帰った。

 会社の人事という些少な事には気を止めず、自分は自分の信じた道を歩めばよいのだ。

 天網恢恢疎にして漏らさず

 天之機緘不測  (菜根譚)、

  天が人間に与える運命のからくりは、人知では到底はかり知れない。

 

 以下は、ブルーエンジェルズが正式の演技飛行を撮影した写真である。編隊飛行のみの大人しい飛行であった。

 その翌日は雨であった。ブルーエンジェルズが流した悔し涙のような雨であった。

 

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00060007s  1971年11月1日撮影  Canon PEPLLIX  FL200mmF3.5

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雨の中のブルーエンジェルズ

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00060036s   1971年11月2日撮影  Canon PEPLLIX  FL200mmF3.5

  

2020-06-13 久志能幾研究所通信 1630 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年6月11日 (木)

ブルーエンジェルズの初来日、天使の激怒

 1971年10月、国際航空宇宙ショー(会期1週間)に、米海軍のブルーエンジェルズが曲技飛行を披露するため、名古屋空港(小牧)にやってきた。私は当時大学生で、大学の授業を1週間まるまる欠席して、カメラを担いで名古屋空港に毎日通った。

 1971年10月28日、国際航空宇宙ショーの前日、ブルーエンジェルズが練習飛行を小牧の空で繰り広げた。私は一眼レフに200mm望遠レンズを装着して構えて、写真を撮りまくった。私は、その曲技飛行を目の前で見られて幸せであった。

 

終活

 添付の写真は、当時のフィルムネガからデジタル化をしたばかりである。終活として家中を整理整頓していたら、当時のフィルムが100本ほど出てきて、それを、デジタル化した。それにブルーエンジェルズが写っていた。50年前のことですっかり忘れていた。

 

苦情殺到

 ブルーエンジェルズは「国際航空宇宙ショー」での展示飛行を行うため、前日、その練習飛行をした。しかしF-4はジェットエンジンが双発で、出力が大きく、それが4機で編隊を組み、超低空を舞い、エンジン出力を最大にしてアクロバット飛行すると、轟音と振動で近隣住民から「窓ガラスが割れた」「屋根瓦がずれた」などの苦情が同基地に殺到した。そのため、翌日の曲技飛行は中止となり、大人しい展示飛行が1回のみとなった。

 

鬼の怒り

 「日本になんかもう二度と来ねぇよ!」とブルーエンジェルズのクルーらはこう言い残して、日本を去ったと伝えられている。

 私も当時のB747ジャンボ機のビジネスクラスで、酒を飲み、寝ながら太平洋を横断した(仕事で、1985年)が、それでも、12時間の太平洋横断飛行では疲労困憊になる。それをブルーエンジェルズのクルーらは、狭いファントムのコックピット内で過ごし、太平洋を横断してきた。それが日本の観客のため喜んでもらおうとした演技飛行が、前日に拒否された。「国際航空宇宙ショー」事務局に、そんな対応をされたクルー達の怒りと失望の心境が、よく理解できる。

 

仕事の鬼

 ブルーエンジェルズのクルーらは、曲技飛行を「仕事の鬼」として、「天命」として命を賭けて演技をしている。それも米国の威信と名誉をかけての曲技飛行である。日米の友好の絆としての曲技飛行である。事実としては、この一件以来49年間二度と来日していない。

 時の「国際航空宇宙ショー」事務局が、飛行中止とさせた対応は、最悪であった。役人の事務員は、住民の声に恐れを抱き、曲技飛行を中止とした。もっと大きな観点での判断ができなかったのか。役人どもは、保身に汲々として、ドタバタの対応をした。彼らは、世界の冷酷な現実が何もわかっちゃいない。50年前は、まだまだ自衛隊も日陰者扱いである。駐留する米軍の存在も、当時活動が盛んな学園紛争の攻撃材料であった。今にして振り返ると、あの学園紛争は何だったんだ。

 もし、米軍が日本に駐留していなかったら、中国の侵略を受けていて、今頃、沖縄は中国領となっていたかもしれない。今でも竹島は韓国に占領されたままである。北方四島は帰ってこない。国連憲章では、いまだ日本とドイツは敵国扱いである。

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  1971年10月28日撮影、Canon PELLIX   FL200mmF3.5

2020-06-08 久志能幾研究所通信 1629 小田泰仙

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2020年6月 4日 (木)

観察記:スミソニアン航空宇宙博物館と大垣市狂走(1/2)

冷酷な技術展示

 1984年8月13日、スミソニアン航空宇宙博物館を見学した。ここは大人も子供も興奮の大人のビックリ箱(大人のオモチャと言うと語弊がある?)。26のテーマブースに分かれた部屋は、飛行機、宇宙船の夢の世界である。飛行機マニアの私は、どこから見ていいのか目ウチュウりして、困るほど。

 各ブースでは各テーマのビデオ画面が10~20程あり、エンドレスに上映されている。この建物の全ビデオ数は200~400はあると推定される。まともに見入ったいたら日本に帰れなくなるほど。ここは1回来ただけではとても、スミソーニぁないほど量・質が高い。(初稿 1994年8月)

 

B29エノラゲイ号  RESTORATION OF THE ENORA GAY

 26の部屋に分かれたテーマブースの一つが、第2次世界大戦の戦闘機、爆撃機である。ここの入口のビデオコーナが、広島に原爆を投下したB29エノラゲイ号の記録であるのはこの大戦の象徴である。

 その内容は、原爆投下までの記録、被災者の治療中の映像、広島市街、被爆後の広島ドーム、階段に写った死者の影等の映像が淡々と映し出して、単に記録の映像に徹しているので不気味である。特に原爆投下直後の機上からの映像で、画面が爆発の衝撃で大きく揺れるのは無言で不気味な迫力がある。

 あと後半に現在、8000時間をかけて、展示の準備復元中の映像があった。この入り口の展示に多少のアメリカの特別なる配慮を感じた。結構多くの人が足を止めて見入っていた。

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    図⒌10   B29エノラゲイ号のビデオ 

 

後日談

 帰国後に見た1994年9月2日付、日本経済新聞紙面で、このエノラゲイ号の展示をめぐってもめている話が掲載されていた。来年にこの博物館での特別展示「最終章 原爆と第2次世界大戦の終わり」のテーマブースにこの機を展示する計画だが、その内容が日本側の戦災にだけ焦点をあて、バランスを欠くとの抗議が米退役軍人や議会からのクレームが来て一騒動を起こしていた。歴史としての冷静な観点で展示したい博物館側と自分の不利益に直結するのを嫌がる軍政界人との衝突である。米国内でもこの話は統一がされていない。

 非戦闘員を対象にした原爆投下が犯罪なのは説明するのもけがわらしい。当時日本国内で終戦工作のためソ連に働きかけている動向が米国に筒抜けで、敗戦必至の日本に原爆を投下したのはソ連への牽制であったのは現代史に係わる人には常識の話である。50年経っても真理の分からない軍人は世界のお荷物である。人間の生死に係わる歴史にたずさわる以上は軍人・政治家は後世の批判を仰がねばならないし、自己弁護は許されないと思う。後世に伝えうるのは事実だけだ。その厳しさを、米国のボンクラ共はちっともワカッチャーいない。米国が世界の指導者の立場で、今一番求められるのは謙虚さである。ちなみに、この機は1984年から35,000時間と百万ドルの費用をかけて修復されているそうだ。

 

零戦

 第2次世界大戦の戦闘機、爆撃機のブースに入ってすぐの頭上に零戦52型が宙に浮かぶ形で展示してある。中二階に上がると目の前に零戦が「飛んで」いる。ここにあるメーサーシュミットM109、ムスタングP51 、スピットファイア、B26等に比べて破格の展示処遇である。これを零戦の技術の高さへの敬意と、私は理解して嬉しくなった。展示の機体はかなり程度の良いものである。

 しかし、防備の貧弱な零戦は、終戦近くには米軍機の恰好の餌食にされた。脚を上げて展示してあるこの零戦は、その点で足をすくわれたことを象徴していると見るのは、皮肉好きな私の考え過ぎかしら?

 技術者の目で零戦を見ると、いつも極限設計の意味を考えさせられる。零戦は極限までの限界設計をして、当時としては最高の性能を誇った機体であるが、その限界設計がその後の発展に大きな制約になったことは考えさせられる。零戦出現後に米国で開発された機体は全て「おおらかな」設計(余裕のある設計)をしている。逆にこの事がエンジン乗せ替え等の性能向上の改造設計にどれだけ貢献したかわからない。極限設計した零戦はあまり後の設計変更が効かなかった。極限設計には「余裕」がない。

 そのことは機械設計だけでなく、人生すべてに言える事だと思う。なにごとも余裕がないとその後の進歩は知れたもの。無駄のない張り詰めた設計には美しさがあるが、日々の技術革新が求められる世界では、その緊張は永くは続かない。人生の真理だろう。

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    図⒌11   零戦52型

  二階に上がると目前に飛ぶように浮かんでいる

 

アポロ11号の母船

 この宇宙船が1Fのメインブースに展示されている。この宇宙船の外側や脚は熱反射用の銀紙、金紙で覆われているので、まるでオモチャのように見える。これを見ると、アボロ11号の偉業も、米国のどこかの砂漠で模擬演習したのを、あたかも月に行ってきたように見せた嘘のショーだと言う説が、もっともらしく見えるからおかしい。

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    図⒌12 アポロ11号の母船

  

飛行機用コンピュータ

 航空機用の1958年開発のIBMのコンピュータのメモリーは、たった4Kバイトで、2,400 ㎏の図体である。知識として知っていても、実物を見ると感慨にふけさせられる。ENIACの例もあるが、あれは大きすぎて実感として分かりづらい。航空機の発達はコンピュータの発達と歩調を合わせて進んできた。それの進歩の激しさを各コンピュータボードの展示で見せるので興味深い。ジェミニの小さな宇宙船の中で、大きなスペースを占めるコンピュータボードを小さくするのが如何に重要なテーマだったかが理解できる。

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    図⒌13  4Kバイトのメモリー

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    図⒌14  ジェミニとアポロのコンピュータボードの比較

 

2020-06-04 久志能幾研究所通信 1618  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年5月29日 (金)

英国戦争博物館 ゼロ戦の落日 

 1991年6月に英国戦争博物館を見学した。この英国戦争博物館には、日本の零戦のコクピット部のカット展示がされていた。昔からこの博物館の零戦はその筋では有名で、飛行機キチガイの私は見学することが長年の夢であった。しかし実物に接して本来嬉しい筈が、何故か悲しいとか、虚しいとか、なんとも言い難い心境になってしまい、予定外の心境に陥ってしまった。先の英国科学博物館での技術の歴史への感激とは全く異質の心境である。

 この展示を見て感じたのは、当時世界最高の戦闘機と呼ばれた零戦の、航空雑誌の写真では分からなかった工作技術の意外な低さであった。まるで出来の悪いブリキ細工のオモチャみたいに見えて、私は悲しい思いにさせられた。こんなものに命を託して、お国のために戦わなければならなかった当時の人々の哀愁が漂ってきて、先に見た大英博物館でのエジプトのミイラ棺を連想してしまった。

 

技術の並列展示

 この零戦を単独で見ればそう感じなかったかもしれないが、並列して展示してある同時代のランカスター爆撃機(英)、スピットファイア(英)、フォッケウルフ(独)、ムスタング(米)と比較すると当時の日本と欧米の製造技術の格差が認識でき、戦争に負けた一端の理由が技術者として理解できる。

 例えば、操縦席のガラス(キャノピー)を比較すると、ゼロ戦は金属枠で囲われたガラス構成である。それに対してムスタングやフォケフルフ、スピットファイアのキャノピーは一体型で金属枠が無いか少ない。これは日本に高性能のガラスを製造する技術がなかったから、金属枠で補強をせざるを得なかったためである。小さな技術の積み重ねで航空機はできている。それが航空機の部品の隅々に現れる。それが国力の差である。

 

工作機械はマザーマシン

 零戦を見たのはこれが最初ではなく、日本でも航空ショーで見ているのだが、こういう製造技術のレベルで比較観察したのは初めてであった。工作機械はマザーマシンと呼ばれてその国の技術の基盤をなすものだが、それがこういった兵器の形の最先端の工業製品にその底力が現れるものだと、歴史の証拠として示してくれた。ゼロ戦だけ地上に晒しの者のように展示してある。そういった事をさり気なく、この差が分かる者には明白に示す英国人の意外と冷酷な性格もヒンヤリと感じた。

 この零戦は当時としは世界最高水準の設計であったが、その設計技術に製造技術が追いつけ無かった例としては良い実例であると私は思う。しかし歴史は皮肉なもので、今欧米がこのギャップの手痛いしっぺ返しを日本から受けていると言うと言い過ぎだろうか。今や日本の工作機械、電子技術なしには米国の最先端兵器が生産出来ないのはアメリカ政府のジレンマであろう。

 

東芝機械ココム違反事件

 その苛立ちの象徴がココム違反事件である。東芝機械ココム違反事件とは、1987年に日本で発生した外国為替及び外国貿易法違反事件である。東芝機械がソ連に輸出した工作機械は、潜水艦のスキュー加工の精度が上がり、海中での騒音の低減になった。そのためソ連の潜水艦技術が進歩して、アメリカ軍に潜在的な危険を与えるようになった。それが日米間の政治問題に発展した。

 工作機械業界は有る面では3Kの一面を持っているが、基礎製造技術として技術国家にとってかけがいの無いもので、今後この面の軽視は許されないと感じた。この事を示唆してくれたこの博物館の意義は大きい。

 

戦争博物館の本領

 なおこの博物館は兵器ばかりでなく戦争の悲惨さを描いた絵画、写真、映画、青年を徴兵に誘う当時のポスター、ヒットラーの歴史上の記録も2階、地階に同時に展示してある。日本の防衛庁等が設営している飛行機博物館とは一寸趣を異にしている。

                        初稿1991年6月

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 零戦

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 フォッケウルフ(ドイツ)

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 ムスタング(米国)

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 スピットファイア(英国)

 

2020-05-29 久志能幾研究所通信 1611  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。