ap_飛行機 Feed

2023年12月 6日 (水)

『航空情報』誌の歴史に人生を重ねる

 

 雑誌も生老病死である。54年間、購読してきた雑誌『航空情報』(せきれい社)がこの12月号を最後に休刊となってしまった。この雑誌を、私は中学生の時から購読してきた。感無量である。飛行機の発達史は、私の成長と共にあった。

 

黒歴史

 途中、2001年、父が亡くなった時のドタバタと、定期購読をお願いしていた本屋の不誠実が重なり、2か月分が欠落している。しかし1969年4月号(2549号)から最終号2023年12月号(963号)までは、全て揃っている。2冊分の欠落分を後でバックナンバーとして取り寄せようとしたが、入手が叶わなかった。その号がないことは私の黒歴史である。

 1961年7月号から1969年3月号までは欠落はあるが、バックナンバーとして50冊を揃えた。約4年分である。

P10900361

 書棚になら58年分の『航空情報』誌
 

 定期購読していて、欠品の不手際を出した本屋はすぐ解約して、別の本屋で定期購読を始めた。その数年後、先の本屋から定期購読を再開して欲しいとの連絡がきた。私は36年間もその本屋で『航空情報』を定期購読していたのに、父が亡くなった時の不誠実な対応に怒り心頭で、私は再開を拒否した。その後、その本屋は大垣市から消えた。本屋として、商売道を間違えていたと思う。

 

 休刊は残念だが、購読を68年と10か月間も続けてきたことを、自分で自分を褒めてやりたい。当初は、両親がくれたお小遣いからの出費である。それを許してくれた両親に感謝である。

 継続は力なり。2冊欠本があることで、私が神ではなかった証?である。すこし安心である? 

 神とは完全無欠で「人ではない」存在である。要は「人でなし」である。人は神を目指してはならない。ちなみに「佛」の漢字も、「人」偏に、「非」を組み合わせた象形文字である。人に非ずと書いて「佛」である。

 人は、人間的な成長をして人間になることを目指すべきだ。人は動物として生まれて人間になる。人として欠点を持ったまま、長所をさらに良くして、人間としての円熟味を出す。そうすれば、欠点が人間味となる。

 

10年、偉大なり。

20年、畏るべし。

30年、歴史なり。

50年、神の如し。

 (中国の格言)

.

 人生飛行の着陸

 飛行機は飛び立てば、何時かは必ず着陸せねばならぬ。そのとき美しい姿勢で着陸したい。生物も飛行機も生老病死である。

196531

 1965年3月号 この号から購読を始めた。当時 定価250円

 今、事故で話題のオスプレイと同じタイプである。

 垂直離陸技術はもう70年近く前からの技術である。

2023121

 2023年12月号 この号で最終号 定価 1400円

196171

 

 1961年7月号 バックナンバーで集めたうちで一番古い号

 

2023-12-05  久志能幾研究所通信 2783号  小田泰仙

「久志能」↖ で検索

著作権の関係で、無断引用を禁止します

2023年2月11日 (土)

「何処でもヘリ」と「愚かの素」で山路台を飾る

 

 私の家の玄関には、ラジコンヘリコプターと勤続20年記念時計、40年前のドットプリンターが展示してある。もう使わないからと断捨離などとんでもない。自分史の一頁を飾る品である。今でも大事に保管している。

 それを置く芸術的な展示台は、山路徹先生がプレゼントしてくれた。その台は、自分が人生の山有り谷ありの山路(やまみち)を歩いてきた象徴である。

 

ラジコンヘリコプター

 私はドラえもんの「どこでもドア」が大好きだ。そうありたいと身軽にあちこちに出かけて、どこでも出没している。人様も、私のフットワークの軽さに驚いている。その行動の象徴として、「どこでもヘリ」としてラジコンヘリコプターを玄関に飾った。これは山路徹先生が紹介してくれた骨董屋で入手した。このラジコンヘリは飛行可能のはずだが、飛ばす予定はない。あくまでインテリアとして1万円で購入した。それを眺めていると幸せホルモンが噴出してくるのを感じる。元気になる。

Dsc02320s 

記念時計

 時計は勤続20年記念として会社から1993年に贈呈された。勤務中のことで「会社を辞めてやる」と思ったことは多かった。宮仕えとは辛いものだ。しかし20年間も勤続すると、よくやったねと自分で自分を褒めてあげたい気持ちになる。その年、私は課長に昇格した。前年に母が亡くなり、課長昇格と同時に別工場の別事業部に異動させられた。私の激動の時代の始まりを象徴した時計である。その直後、リーマンショックが起き、リストラが始まった。異動した部署は仕事が忙しく、会社の稼ぎ頭であり、リストラどころではない。以前の職場からは、「良い時に異動したね」と羨ましがられた。何が幸いするか、まさに塞翁が馬である。

 その後、私は定年まで勤めることが出来た。ところが、その勤めた会社は創業65歳で挫折して、合併して会社名が変わってしまった。何事も永続するとは、苦難の道なのだ。この時計を見ると、それを思い出す。

 Dsc02329s

プリンター

 テーブル下のドットインパクトプリンターは、40年前に購入したパソコン(オフコン扱い)のプリンターである。パソコン一式は定価500万円40Mの外付けハードディスクが100万円、このプリンターは40万円であった。定価500万円は当時の私の年収に近い。

 当時、初めて5Mのハードディスク付きで発売されたPC9001M3が40万円であった時代である。同時に40Mの外付けハードディスクを100万円で購入した。今なら100倍の容量の4テラバイトのハードディスクが1万5千円である。この性能のプリンターは、今なら2万円ほどで手に入る。当時の標準機扱いのPC9001との性能差は、軽自動車とベンツの差である。だから使っていて極楽であった。それで私はコンピューターにのめり込んだ。

 科学技術の進歩は、必ずしも先駆者を幸福にしない。しかし安くなるまで待っていては、時代に乗り遅れる。当時は、自分がこんな高いPCを買ってしまい、何と愚かなことをしたのかと、後悔半分で、買った勇気も褒めてやりたい気持ちであった。しかし愚かだからこそ誰よりも先に時代の最先端を行ける。ジョブズがスタンフォード大学でのスピーチで、「ハングリーであれ。愚かであれ  “Stay hungry, stay foolish.”言った。それが当時の自分であった。その勇気と愚かさを思い出させてくれる私の技術後悔遺産である。

.

バタフライエフェクト

 このPCを買って、プログラミングに熱中したため、コンピューターに強くなり、構造化言語もマスターし、機械語もかじり、フローチャートにも精通出来て、仕事に役立てることが出来た。そのお陰でこのPCを使って実施したSQC研究事例で、論文を書くことになった。それは私の業務外の仕事で、上司も驚いたようだ。その論文を掲載した図書が、日本経済新聞社の1992年度の日経図書賞を受賞し、それで社内で社長賞を受けることになった。

 人生の成功とは、カネが貯まったことではない。仕事の達成感を味わうことだ。幸せになることだ。人生経営は、芸術なのだ。そして自分史に刻んだ思い出こそ、人生なのだ。その思い出が何もないなら、真剣に生きてこなかったことになる。

 

Sqc1


.

2023-02-11  久志能幾研究所通信 2612  小田泰仙

「久志能」↖ で検索

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2023年2月 9日 (木)

童地蔵とタービンブレードの展示台 山路徹作

 

 写真の展示台は山路徹先生作で、童地蔵とタービンブレード用である。山路徹先生から贈り物であった。

 

 童地蔵は、東京で開催された松本明慶仏像彫刻展で、300体の中からお見合いをして決めた童地蔵である。毎回の松本明慶仏像彫刻展で約300体が売れるという。その300体の童地蔵だが、それぞれ微妙にお顔を違う。その中から選んだ仏さまである。

 

 

 タービンブレードは、2019年にセントレアで購入した。河村義子先生が逝去されて1週間たった2019年1月1日、友人とセントレアの「FLIGHT OF DREAMフライトパーク」に出かけた。そのショップに展示してあったボーイング707のジェットエンジンのタービンブレードカットモデルに、河村先生の面影を発見して、そのカットモデルを購入した。

 そのボーイング707エンジンの誕生年が河村先生の生まれ年が同じで、ジェットエンジンのブレードの役目が、ピアノの鍵盤を叩くことに重なって見えたから、ご縁を感じて購入を決めた。私が飛行機マニアであることも重なった。

 その1週間後、私にがんが見つかり、生死をさ迷うことになった。

 

Dsc02317s

Dsc02319s

 

 

縁の下の力持ち

  日本と欧州間の飛行を年間150回するとして、タービンブレード寿命が5年間として計算すると、ジェットエンジンのタービンは約5億回転して、旅客機の推力としての空気を後方に送ることになる。それで多くの海外旅行客を運ぶ仕事を陰で支えている。

 ピアノをモノにするには、一日8時間、10年間続けないと一人前のピアニストになれないという。単純計算で一秒に1回鍵盤を叩くとして計算すると、それを30年間続けると、3億回も鍵盤のキーを叩いてきたことになる。ひたすら鍵盤を叩いて、人びとに安らぎと喜びを与える音楽を世に送り続けているのがピアニストである。

 そのエンジンの製造年が河村先生の生まれ年と同じだと気が付いて、ご縁として購入を決めた。

 

河村義子先生の分身に出会う

http://yukioodaii.blog.enjoy.jp/blog/2019/01/post-d0c9.html 

 

賽の河原の石積み

 三途川の河原は「賽の河原」と呼ばれる。賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積み石による塔を完成させると供養になると言うが、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうという俗信がある。このことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。

 しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。

この項wikipedia より

 

 賽の河原の石積とは、親の供養のための童子の願行ではない。それは己が成仏させられなかった己の願行である。「禁煙・禁酒をしよう、毎日散歩をしよう、毎日勉強しよう、毎日ピアノの練習しよう」と願をかけ、最初の数日間だけは実行する。しかし、内なる鬼が「そんなしんどいことは止めて、もっと気楽にしなはれ」と天使の声の如く耳元に囁きかける鬼が出てくる。

 

 今まで積み上げてきた禁煙・禁酒、散歩・勉強の継続という名の「石積の供養塔」を壊すのは、鬼ではなく、怠惰な自分である。成就させることのできず、途中で投げ出した供養塔が、人生でどれほどあることか反省したい。

 幼くして死んだ子は、自分が投げ出した三日坊主の象徴である。賽の河原の石積はあの世ではなく、己の「人生という大河」の両岸にある。チャレンジしては、途中でおっ放り出した死屍累々の山に手を合わせたい。

 

 積み上げた石積を壊す鬼を止めるのが、己の内なる地蔵菩薩である。佛像は己の心を現す鏡である。自分の心には鬼も住めば、佛も宿る。場面ごとに鬼と佛が心の鏡の中に交互に現れる。堕落に誘う鬼の時もあれば、己を厳しく裁く裁判官の時も、救いの佛さまのときもある。すべて自分の心が決める。

 自分の心に住むのは「鬼」である。賽の石積みをしながら、それを壊すのは己の「鬼」である。そんな鬼を誰が育てたのか、自省したい。賽の河原の積み石の「地蔵和讃」は、子供に対する寓話ではなく、怠惰な大人への説法である。「三途川の河原の石積」はあの世ではなく、己の怠惰な心が作る現世の己の姿である。地獄に堕ちる前に、自分を救ってくれるのは、地蔵菩薩という名の自分である。菩薩とはひたすら修行道を歩く佛様である。 

 そんな思いを込めて、このブレードと童地蔵を玄関に飾った。

 

2023-02-09  久志能幾研究所通信 2610  小田泰仙

「久志能」↖ で検索

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2022年12月20日 (火)

300枚の飛行機図面でヒコー少年に

 

 家中の6Sとして、この50年間、紙箱に保管していた約300枚の飛行機の図面を整理してB4クリアファイルに収納した。合計で20冊となった。今までは箱に入っていたので閲覧に手間がかかりあまり見ていなかったが、ファイルすることでそれが容易になった。50年前の青春が目に見える形で蘇った。

 飛行機の図面は、1960年頃の雑誌『航空情報』、『航空ファン』に添附されていたソリッドモデル作成用の図面である。私はそれを見て楽しんでいる。飛行機の図面を見て、何が楽しいのか。それが趣味だからだ。理屈などはない。私は飛行機の図面を見ていると楽しい。養老孟子先生は、昆虫を標本にして集め、見るのが趣味である。同じく、何に興味を持ち取集するかは、蓼食う虫も好き好きである。私はそれにのめり込んで、非行にも走らず、真面目に飛行機好きの子供になったが、勉強もしっかりした。親は私が勉強もしっかりしているので、それに関して何も言わない。

                                  

トレース図面を発見

 その整理の中で、私が飛行機図面をトレースした図面を発見して、感慨が深かった。私はその存在をすっかり忘れていた。トレーシングペーパーが一部ぼろぼろになっていた。

 当時、ソリッドモデルを作るために、原図をトレーシングペーパーに「カラス口」でトレースをして、それを青焼きして製作図としていた。1980年ごろまでに工業高校を卒業した人間は、「カラス口」を理解できるが、普通の人には縁がなく理解不能だ。多くの知人に確認したが、工業系の学校に行った人でないとその存在を知らない。私は進学校の普通高校に通ったが、趣味で「カラス口」を手に入れ、飛行機の図面をトレースして楽しんでいた。当時はそういう趣味があったのだ。

 飛行機の外形の曲線は、雲形定規を使ってトレースである。雲形定規は30cm物差しを加工して、自作した。カラス口も使っていると先端が摩耗してくる。それを砥石で研いで再生した。

 その成果として、図面を見る眼、図面から立体的にモノを把握する力が付いた。今は3次元CADが主流だが、私は二次元図面を見れば、対象物を立体的に把握できる力が付いた。

 

カラス口:(英語: ruling pen)は、製図用の特殊なペンで、ペン先の形状が烏のくちばしに似ていることからこの名で呼ばれる。二枚の細く加工された鉄板からなるペン先を持ち、ネジによって鉄板の間隔を調整することで線の太さを変更することが出来る。ペン先をインク、もしくは、塗料等に漬け、間に保持しながら線を引く。細く、均一で、ある程度連続した綺麗な線を引くことができるので、ポスターや図面の線描、版下の罫線、フィルムへの書き込み、漫画の枠線、模型への着色などに用いることが多い。特に定規との併用により、均質な直線を手で引く際に用いられることが多いが、コンパスに装着し、円または円弧を描く事も出来る。インクを付けすぎるとボタッと滴り落ち画を台無しにしてしまうので気を付ける必要がある。現在では、より扱いが簡単な製図ペンの登場や、電子化(電算写植、DTP化)によりあまり利用されなくなってきている。

 この項、wikipedia「カラス口」より

P1090847s

 図面をB4クリアファイルに収納した状態(1冊20ポケット、合計20冊)


P1090848s

 作図して50年が経ち、一部ボロボロになっている

Scan0206

 私がトレースした図面

P1090844s

P1090845s

 カラス口 50年前に購入品で価格1330円

 

2022-12-20  久志能幾研究所通信 2571  小田泰仙

「久志能」↖ で検索

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2022年11月11日 (金)

かがみがはら航空宇宙博物館、命の美しさ

 

 私は飛行機を見ているだけでも幸せな気分になれる。2022年11月9日、4年ぶりに「岐阜かがみがはら航空宇宙博物館」を訪問した。各務ヶ原市の「那加福祉センター」を見学に行った後、帰りにこの博物館に寄った。「那加福祉センター」のレポートは後日にお送りします。

 

極限の姿

 飛行機とは空気の抵抗と重力に抗って飛ぶ機械である。その姿は贅肉を削ぎ落し、空気力学的に美しい。特に軍用機は国と国民を、敵から守る責務がある。

 太平洋戦争で活躍したゼロ戦は、堀越二郎技師が機体設計でグラム単位の軽量化を図り、世界最高性能の戦闘機に仕上げた。それは資源のない日本が、その弱点を設計という武器で戦った武勲である。設計者もゼロ戦の設計に心血を注ぎ、命を賭けて図面上で戦った。設計者は図面に書く一本の線に命を賭ける。私も機械設計者として20年間、図面と格闘したから、それが分かる。だからこそ、その任務に徹するための姿は、研ぎ澄まされて美しい。無機物の飛行機だって、設計者の魂が籠った命なのだ。

 現代社会は拝金主義に汚染されている。利権にまみれた世界を飛びまわる政治屋は、醜い贅肉を晒している。それに反して、ひたすらその任務の飛行のために徹して設計された美しい姿に私は惚れる。

 

着陸

 飛行機は一度飛び立てば、平和な着陸か墜落、死しかない。車はエンジンが止まれば、その場で停止するだけだ。死ぬわけではない。船も同じである。しかし重力に逆らて飛んでいる飛行機はエンジンが止まれば墜落して、死である。

 人間も生まれて、この世に羽ばたけば、後は必ず着陸せねばならぬ。生あるものは必ず死がある。だからなにか飛行機に魅了される。

 今回は説明を省き、単に写真だけを掲載します。

 

Dsc09719s

Dsc09713s

Dsc09716s

Dsc09722s

Dsc09718s

Dsc09720s

Dsc09723s

Dsc09724s


Dsc09725s

Dsc09726s

Dsc09727s

Dsc09731s

Dsc09732s

Dsc09735s

Dsc09737s

Dsc09739s

Dsc09742s

Dsc09743s

Dsc09744s

Dsc09745s

Dsc09747s

Dsc09749s

Dsc09751s



2022-11-11  久志能幾研究所通信 2539  小田泰仙

「久志能」↖ で検索

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2022年6月21日 (火)

58年分『航空情報』保管、断捨離拒否、商売外道

 

 私のお宝は、58年分の『航空情報』という航空関係の月刊誌である。10冊ほどの欠品は有るが、1965年から現在まで58年間のバックナンバーとして揃えてある。これは私の人生と一緒に歩んできた雑誌で、自分の歴史でもある。私の戦友としての大事なお宝である。いまさら捨てられず、定期購読も中止できない。幸い、保管スペースを確保したから、今からも大切に保管していきたい。

 58年間の雑誌のバックナンバーの分量は、書棚の7セルに納まっている。その全長は、幅76cm×7セル= 5.32mである。

 

空間財産

 空間も財産である。その空間を確保するとは、財産の増加である。今流行の断捨離など、ガキの行動である。何故、自分の歴史をゴミ箱に捨てて楽しいのか。断捨離と5S(整理整頓清潔躾)とは、別物である。断捨離をせざるを得なかった原因は、今までの空間蓄財能力と5S能力が欠如していたのだ。モノを保管するスペースを創出するのも、蓄財能力である。

 

人生とは想い出の記憶

 人生とは想い出の集積なのだ。愛する人と一緒に過ごした思い出まで忘れてしまっては、認知症である。それでは、自分の人生は無いことになってしまう。その思い出の品こそが、自分の人生なのだ。その思い出の品を整理整頓して保管するのが、自分の人生の歴史だと思う。間違った断捨離はすべきではない。

.

欠品の痛み

 このバックナンバーの内、2002年に3冊分が欠品である。後の7冊は、バックナンバーを過去に溯って集めていたが、出版元で在庫切れになって手に入らなかったためである。

 その3冊の欠品の原因は、父が亡くなり、そのドタバタの対応で入手を失念してしまったためである。すぐ注文すればよかったが、何故かそのままになってしまい、今にして後悔している。

 大垣駅前商店街の書店から、『航空情報』を30年来、買っていた。私が三河地区に就職してからは、父に頼んでその書店から買ってもらっていた。それで実家にその『航空情報』を蔵書として保管していた。ところが父が倒れたため、その書店から買えなくなった。その書店は、その後、取り置きしてた『航空情報』を出版元に返品してしまった。父の葬儀の後、後始末でその件に気が付いた時は遅かった。その時、再度、バックナンバーとして注文すればよかったのだが、私は気が滅入っていて、できない状況であった。

 その時の書店の対応が、商売道に反していると感じ、その書店との付き合いを止めた。30年間も継続して『航空情報』を購読したのに、単に1か月買いに来ないからと、出版元に返品してしまった商売のやり方に疑問を感じたのだ。

 その後、その書店は、売上が減ってきたようで、『航空情報』の定期購読再開を打診してきた。私は拒否をした。その時期は、大垣駅前商店街の衰退と時期が一致している。

 58年分の『航空情報』に欠品があることも、その時の自分の人生の黒歴史を表している。そこを見ると、父の死とその時の自分の心境を思い出してしまう。その時の書店の対応に不満があり、その書店との定期購読の取引を止めた。その書店も今はない。大垣駅前商店街の衰退と同時である。バックナンバーがないことと書店が閉店になったことも黒歴史なのだ。そこにもドラマがあり、獲得した知恵がある。

 

P1090036s1

書棚に7セル分の『航空情報』、幅76cm×7=全長 5.32m

P1090037s

 『航空情報』最新号

.

2022-06-21  久志能幾研究所通信 2412号  小田泰仙

「久志能」 で検索

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2022年5月21日 (土)

セントレア 飛んでもない 飛惨な風景

 

 新型コロナ騒動も多少は落ち着いたかと思い、先日(5月19日)にセントレア(中部国際空港)に、2年ぶりで飛行機の写真撮影に行ってきた。この2年間でセントレアが激変していた。まず飛行機が飛んでない。広大な敷地が有効活用されず、飛行機が飛んでいないのでは、様にならない。これが日本の惨状を象徴していた。

 

Dsc09381s

  閑散とした国際線駐機スポット   2022‎年‎5‎月‎19‎日、‏‎9:55

Dsc01782s

Dsc01785s



.

名鉄ミュースカイ(空港行き特急)

 この電車には、以前は無料の雑誌が置かれていた。しかし今回乗ったら、それが無かった。それでセントレアの惨状を予兆していた。

 

セントレアホテルの朝食

 今日はたまにはホテルで朝食もいいなと、中部国際空港駅を降りてから、駅横のセントレアホテルへ向かった。ところがその値段を見て驚いた。値段が2600円に値上がりしていた。以前は、確か1800円であったはずである。その値段にビビッて入るのを止めた。

 利用客数が減ったので、値上げのようだ。

 

おにぎり屋

 それで2階のロビーのおにぎり屋に向かった。それでいつもの2個のおにぎりと汁物を注文した。ところが2年前はセットで500円だったのが、今回は720円である。どうもお店が変わったようだ。良く見ると店名が変わっている。内容的には同じ経営者のようだが、以前と状況が激変である。客が激減して、こういう状況になったのだろう。これが新型コロナウイルス禍の現実である。

 以前はお客で繁盛していたが、今日は客は私一人だけであった。

 

セントレアの惨状

 マスコミ情報では、国際線は全滅だが、国内線は80%ほどまで回復したという。それを信じてセントレアに出向いたが、空港は閑散たる惨状である。

 国際線のカウンターはほぼ全て閉まっている。人気がない。国内線もたむろっている人が少ない。

 

Dsc09386s

P1150277s

P1150278s

2022‎年‎5‎月‎19‎日、‏‎8:50

.


時刻表

 時刻表を見ると、国際線と国内線の差が一目瞭然である。国内線でも、以前よりはかなり便数が減っている。

 5月21日の新聞報道では、今期の中部国際空港の決算は3期連続赤字で、旅客数は国内線はコロナ禍前の7割程度、国際線は1割弱にとどまるようだ。

 当日、滞在した時間帯で飛来した海外機は韓国機、タイ機、中国貨物機機だけであった。

 

Dsc09388s

Dsc09387s

Dsc02113s
  飛来した中国の貨物機 2022‎年‎5‎月‎19‎日、‏‎9:29

 人の往来は途絶えたが、中国からの輸入は続いているようだ。

.

 もう朝の9時近いのに、空港ビルの中央広場は閑散としていて、2階のロビーのお店も半分くらいしか開店していない。2年前と大違いである。

 撮影地点の展望台でも、いつもなら30人程がたむろって飛行機の離着陸を見学しているのに、今日は全く人影がない。飛行機の発着もごく少ない。

 これでは、飛行機の撮影どころではなく、展望台で日向ぼっこしかやることがない。これが新型コロナウイルス禍の現実である。やはり現場を見ないと社会の動きが見えない。空港までの朝の通勤時の電車内は混雑しているが、空港は人が閑散として悲惨な状況である。これではお店もやっていけいない。

 

P1150280s

  展望台の先端   2022‎年‎5‎月‎19‎日、‏‎9:16

  いつもなら数十人が飛行機の離着陸を見学していたのに!

.

腕の惨状

 2年ぶりにカメラを触ったので、操作ミスがあり写真の露光を失敗してしまった。いつの間にか、感度設定が最高ISO100になっていた。最近のカメラは機能が多すぎて、知らずに感度設定モードを変えてしまったようだ。やはり定期的に現場でカメラを触らないと、カンが鈍り腕が落ちる。

 伊勢神宮の式年遷宮でも、その伝統を守るため、20年毎に社だけでなく、全ての式道具を作り直す。それで職人の腕の技術が受け継がれる。今回の新型コロナウイルス禍での被害が、私のカメラの腕まで及んでいた。おそろしい。

 

コロナ禍の真因

 なぜここまで日本の経済が打撃を受けたのか。それが空港に顕著に表れている。なぜこうなってしまったか?

 新型コロナウイルスは2類に分類されている。それは本来5類に分類されるべきであった。不要な2類分類ままの扱いが、必要以上の過剰な行動制限が生れ、日本経済を必要以上に疲弊させている。その陰で不当な利益を得ている賊団が跋扈している。これは疫病の問題では無く、政治の問題である。政治家で、誰が何を発言したかを観察しよう。我々に出来ることは、次に選挙でそのヤツに投票しないことしかない。

 日本がここまで落ちぶれたのは、民衆主義のPDCAの手段である選挙を、正しく使わなかったためだ。政府やマスコミを信じてはいけない。

 

2022-05-20  久志能幾研究所通信 2387号  小田泰仙

「久志能」 で検索

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年10月18日 (日)

『極楽とんぼ』人力飛行機の頂点を目指して(2/2)

ポジティブシンキング(極楽とんぼ気質)

聞き手  逆に、会社の人に対してはプレッシャーみたいな感じを持たれることはありませんか。

鈴木  いや、ないですね。チームのルールで、「仕事中は一切飛行機をやっているという存在感を表すな」と徹底しています。あくまでアフター5の活動で、仕事ではないですから、業務中は飛行機の話題は聞かれない限りは一切アピールしないことが基本です。逆にそうしている方が、経験的に、結果が良かった時のインパクトは、非常に大きいですね。「あんな忙しい日々を送っていて、こんなこと、いつやれるわけ」とよく聞かれたりします。そうすると、「ああ良かった」と思いますね。

聞き手  じゃあ、もし今仕事を取るか、大事なイベントの飛行機の方とどちらを取るかと言った時は仕事ですか。

鈴木  間違いなく仕事ですね。だって私は仕事で飯を食っているわけで、人力飛行機で飯は食えませんから、仕事を取ります。会社は仕事をちゃんとやってないと、こうやってバックアップもしてくれないと思います。目的が達成しないとやっぱり不完全燃焼で気持ちが悪いとかいう性格を持っていますので、仕事も趣味も関係ないですよ。だから何ごとも、全力投球ですね。

聞き手  そうしないと記録を作れませんね。

鈴木  結構、疲れますけどね(笑)。 

聞き手  また不調の時もあるでしょうからね。

鈴木  浮き沈みでいくと、鳥人間コンテストで、僕は3年に一度しか優勝できないと言われていました。2年連続して没している時もあります。確かにテストフライトではよく飛んでいますが、気象条件やトラブルに遮られたりすると、次の結果を出せるのが翌年になるので、いかに気持ちを落ち込ませないで維持するかが、マインド・コントロールとして重要です。だから頂点に立ってもおごらない。そこで駄目でも落ち込まない。だから優勝しても、あまりどんちゃん騒ぎもしないで冷静に受け止めますし、祝勝の宴会とかもあまりやりません。

聞き手  逆に失敗した時の反省会とかは……。

鈴木  激しいですね。徹底的にやります。優勝しても対岸に行けなかった2、3年は、優勝しても激論を闘わせました。例えば、一度4,400mで前の日本記録を破った年に、鳥人間コンテストでも優勝しましたが、2kmしか飛びませんでした。その時に、回りのメンバーから、「なんで2kmしか飛ばないのだ。5km以上は飛ぶんじゃないか。何がそうさせているのだ」というような感じで、激しく議論します。

 良かった時は良かった時で、なんで良かったんだろうという反省、悪かった時はそれの何十倍もの、なんで駄目だったかという理由を必ず明確にして、それを次にフィードバックする。冷静に考えるということを身につければ落ち込んでも、次にそのフィードバックをかければ絶対いい結果が出せます。全部プラス思考で考えるようにしていますので、どんな失敗をしても落ち込みはないわけです。表向きには落ち込んでいるふりをする場合もありますけどね。落ち込んでもタイムロスになりますよね。そんな過去のことをくよくよしてもしようがないと。

 

オンリーワン技術

聞き手  反省会から生まれた技術はなんですか?

鈴木  大阪府立大学に記録で負けた時は、30分で没しました。その時に思いついたのが今のコックピット形状です。空気のインレットとアウトレットの問題を発見しました。コックピットの後に完全にスケスケのメッシュの布が張ってあります。それの効果を5分の1の風洞実験で確かめました。回りのチームが一生懸命、プロペラはどうするかとか、翼の形状はとかってやっている頃に、我々はもうそんなもん見向きもしないで、コックピットの課題に集中しました。要は30分持たない理由が人間の冷却でした。テストフライトでのデータ上は、250Wで飛んでいます。 250Wでパイロットの中山をベンチの自転車にかけると、1時間なんか楽勝で持続します。しかし30分しか飛ばないのはなぜという疑問に対して再現テストをした時に、コックピットに空気がきれいに流れてないことがわかって、コックピット形状を微妙に変更していきました。従来も強度解析にはCAEを使っていましたが、この対策には、コックピットの形状設計に三次元CADを使い、空力解析をしました。(図10)

聞き手  空気抵抗は速度の二乗に比例しますよね。機体速度が遅いから、コックピットはむき出しでは駄目ですか?

鈴木  駄目ですね。多分10km飛ぶ機体が1kmとか、そういうレベルまで落ちると思います。全体の抵抗値はものすごく少ないので、全体の抵抗値の中でここが大半の割合を占めています。学生達ってよく、慣れるまでコックピットっておろそかにしていますね。最近それが理解されて、学生たちもきちんとその辺を対策しています。それで突然、急激に飛ぶようになったわけですね。でも、こういうことって、克服してやったもん勝ちですね、だからやって真似しちゃうともう、何機も同じようなレベルに到達してしまい、そうすると価値観が薄れます。我々の価値観は、やっぱり誰も行ったことのない時に、対岸へ到達するという結果にあります。一番最初に実現した人間は誰かで、次に行ったやつが誰なのかは誰も知らない。そういう世界になりますね。

聞き手  コロンブスの卵と同じですね。

鈴木  それが前人未到という価値観です。1998年の琵琶湖横断の時、2位のチームは5kmぐらいしか飛んでいません。5kmに対して23kmという絶対的な差を生み出したプロセスは、やはり技術者としての百歩先を行った満足感で、技術者冥利の世界です。もう競争相手達が、翼の設計は何だ、材質は何がいいかと試行錯誤している頃に、我々は、5年前にそれを見極めて、コックピットの検討を始めていたのだという自負がありますね。

聞き手  それってありますよね、技術屋って。そういうオンリーワン技術を開発した誇りが。

鈴木  そうですね。隠し持っていてね、いざ製品化した時に、いつからその技術を開発していたのだ、と驚かす感じですね。

8

92

10

 図8,9,10  コクピット形状と翼リブ形状

 

日本記録への道(計測技術の取り入れ)

聞き手  機体に計測機器を積まれていますが、その経緯と効果を教えて下さい。

鈴木  会社にいて20年の歴史がありますが、最初の10年間はヤマカン設計、ヤマカンテストですね。レベルが上がってきたら、そうは問屋が卸さない状況に気づいてきて、本格的にいろいろなアプローチを始め、風洞実験と計測技術の駆使を始めました。ちょうど1990年頃、制御系とか電気系に強いメンバーが加わった頃です。

 テストフライトは800m長の富士川滑空場です。我々の機体の滑空比は30から35ぐらいあります。要は10m 浮かぶと、350mまで滑空してしまいます。ということは 800mの滑走路でテストするとして、離陸で30m前後ロスをして、そこから上昇に入り、定常飛行に入り、定常飛行を終わるともう中間点まで来ています。約10秒か15秒だけ水平飛行の区間がありますが、そこでもう漕ぐのを止めないと降りられません。ということは 800mの滑走路の中で、最適のセッティングをその10秒間の中で見極めないと駄目ですね。そのためにデータを取り始めました。800mの滑走路では、今ぐらいの機体のポテンシャルになると、楽に飛べてしまって機体のセッティングができません。パイロットのコメントでは、「もう楽楽で、どこまでも行くぜ」ですけど、実際、最適値を見つけたわけではありません。だからその最適値を見つけるためにデータ取りが要る、という目標と目的意識に変わってきました。ですから毎回、全部パソコンにデータを落として、飛行機速度、回転速度、パワーの関係を見て最適値を見つけて、それをリリースします。

聞き手  逆境が極楽とんぼを育てたようですね(笑)。もし米エドワーズ空軍基地のように10Kmの飛行場があれば、データなんか取らないですよね。

鈴木  そうですね。飛行機の性能が悪い時は明らかに、違いは体で分かりましたが、極楽とんぼのこの機体になってから、全く分からなくなりました。私もパイロットとして乗っていたので、セッティングのずれやピッチの組み立ての間違などはすぐ見破れます。マラソンもそうですけど、途中いい調子で走っていてもガクンと突然来ますね。中山の例でいくと 260Wだと1時間持続できる。しかし 300Wになると、もう30分以下しか持続できないという境界線がはっきりしてきますね。そこに入らないような負荷の境界条件を一生懸命見つけるわけです。それこそが、データ取りの世界で重要ですね。

 

技術の進歩

聞き手  実物を見て感激したのですが、翼のリブも全部肉が埋まっているし、全体剛性も高そうですね。

鈴木  翼型が層流翼ですから、60%ぐらいまでは形状保持してないと空力性能がひき出せないので、ああいう構造にしてフィルムで覆っているわけです。昔の機体は、どっちかというとフィルムを覆っている部分が多くて、翼面積もとても大きくなって、もう本当に張りぼての風船が浮いているようなイメージでしたね。(図9)

聞き手  要は肝心の翼型の性能を出せるかですね。

鈴木  そうです。これですと、翼型の性能よりも、いかに軽く作るかが大きな要素となります。

聞き手  機体重量は34キロですよね。昔に比べて軽量化はされてないのですか。

鈴木  重量管理は設計コンセプトとして明確です。我々は長年、鳥人間に参加していますよね。その過程で、わざと年々翼を大きくしています。12mから始まって、12、14、18、25、27、30、32mと大きくしてきました。「極楽とんぼ」の最新機の翼長は32mです。機体重量はほとんど変わっていません。そこが技術の進歩なのです。大きくなっても、重さは変えない。(図11)

聞き手  具体的な技術革新の要素は何ですか。

鈴木  その軽量化に大きく寄与した技術革新は材料ですね。結局強度部材にはシンプルなパイプ材を使っていますので、カーボンのグレードが上がると軽く作る要素に大きく寄与します。20年前に比べると、カーボンの引っ張り強度が何倍にも上がっています。ただ難しいのが薄肉パイプですね。薄肉パイプ構造は、バックリングが入りますので、凹みます。変形を起こすと、それとのバランスが設計的に難しい。それこそ解析を普通の手計算の曲げ強度でいくと、断面積が薄くても大きければ大きいほど剛性が上がりますが、曲げが入ると断面がつぶれて、バックリングでやられてしまう。その辺の背反事象を、限られた翼型の大きさの中でいかに効率よく設計するかが強度設計の技になるわけです。

 その軽量化に大きく寄与したもう一つの技術要素が接着剤の進歩ですね。昔は接着剤の重さ管理と作業時間に大変な負荷がかかっていました。日大の初代人力飛行機リネットでは接着剤の重さが問題になりましたからね。今は瞬間接着剤ですから、重量上、強度上と製作期間の劇的な短縮になっています。つまり、昔のエポキシ系の接着剤ですと、凝固するまでに1日はかかりました。

 性能に大きく影響するプロペラは、当然コンピュータのプログラミングをして計算します。材料はカーボンです。その雄型はNC工作機械でワーカーブルの樹脂型を切削して、それを鏡面に仕上げてエポキシの型に転写します。それは社内で作りました。雌型は京都の友達のレーシングカー屋さんで作ってもらいました。プロペラを作るのはメンバーの一人でこの種の製作の達人なのです。

11

 図11 極楽とんぼ号の飛行距離の年度経過

 

DNAの伝承

聞き手  会社のDNAとして、後進を育てるとか、会社の方向性とかをどう思われますか。

鈴木  当社の例では、性能とかユニークなデザインとか、すごく特化した魅力がある製品が多いわけです。ただ、今、環境の問題とかコスト競争力とかグローバル化の時流の中で、魅力ある商品を生み出すというミッションがあります。魅力ある商品って、何らかのDNAがそういう商品の方向性を作り上げていますね。ですから、若い世代とある経験者の世代とラップさせながら、マニュアルに書いた仕事を教えるだけではなくて、例えば僕らは非常に日頃馬鹿馬鹿しい話を部下にしていることも、部下が自然に影響を受けるとかね。だから、ある世代をラップさせながら、世代交代というのは絶対必要だし、改革も必要だし、それは文書には書けないですね。そういうユニークさとか、そのキャラクターの部分は、こういうことをやっている自由な風土さえ持っていれば自然に引き継がれるのかなあとは思います。何かがんじがらめの、ルール・マニュアルだらけの会社になってしまうとちょっと危機感を覚えますね。

聞き手  最近の勝ち組と称される好調な企業とその製品から発する魅力を見ると、明確に会社のDNAが影響していますね。まさにDNAの伝承ですね。

鈴木  会社のDNAは、自然に引き継がれるような気がします。上司から次の上司へ風土が伝承される。今自分でいいなあと思っているのは、こういうことをやってもあまり、反対する人間がいません。どっちかというと行け行けムードで、それだけでも幸せかなあと。

聞き手  日本記録を更新したチームの背景に、会社のDNAを感じますね。また鈴木さんのお話から、一つのことをやり遂げた人だけが持つ人生哲学と仕事のやり方に、共感と感銘を受けました。

本日はお忙しいなか、ありがとうございました。

 

写真提供 ヤマハ発動機株式会社、鈴木正人氏

 

2020-10-18 久志能幾研究所通信 1791  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2020年10月17日 (土)

『極楽とんぼ』人力飛行機の頂点を目指して(1/2)

 

 自動車技術会中部支部は会誌として『宙舞』を発行している。その会誌に技術者達の挑戦する姿を伝えるシリーズ「挑戦」のコーナがあり、そこに人力飛行機「極楽とんぼ」の取り組みを取り上げた(2003年)。その記事の再編集・加筆版を掲載する。

 私は会誌の編集委員として、そのインタビューへの参加で、飛行機好きの私は、真っ先に手を上げて参加した。

 このインタビュー後、リーダの鈴木さんの挑戦ぶりに惚れこんで、しばらく「極楽とんぼ」の追いかけになってしまった。試験飛行の見学のため、飛騨エアパークや、調布飛行場、鳥人間コンテストにも足を伸ばしたという顛末つきであった。今まで仕事一筋であったが、これを機に飛行機に再度目覚めた出会いであった。

2

   図2  日本記録更新時 2003年8月

 

シリーズ  -挑戦-   インタビュー

人力飛行機『極楽とんぼ』

   人力飛行機の頂点を目指して

  

1  ヤマハ発動機株式会社MC事業本部エンジン開発室 主査 鈴木正人

聞き手:小田 、

    吉川 誠(三菱自動車エンジニアリング(株))

         山本 信成(スズキ(株))

 

 チーム・エアロセプシーの人力飛行機「極楽とんぼ」が、2003年8月3日に10.9 kmを飛んで、公認日本記録を更新した。これの背景にはチームリーダー鈴木さんの30年に近い取り組みがあった。

 

人力飛行機との出会い

聞き手 人力飛行機に魅了されたのはいつごろでしたか。

鈴木  1975年の中学生の時に、本屋で見つけた航空雑誌の表紙に、日本大学の人力飛行機ストークスの写真が載っていました。0.1gでも軽く、精度は1㎜以下に抑えてとか、ストークスの技術の解説記事が書いてありました。それを見てすごいなと思って、自分で作ってみたいなと思いました。(図1)

聞き手 運命の出会いですね。1枚の写真、言葉、人との出会いでその後の人生が大きく変わるといったところでしょうか。

鈴木 ちょうど進学を考える頃ですね、その航空雑誌を見て、魅了されたのがきっかけですね。ああ、こういうのをやっている所があるんだと。もうここしかないなと思ったわけです(笑)。やりたいというか、作ってみたいというのは、技術屋の本能ですね。

1_2

 図1 ストークス(日本大学 1975年)

 

聞き手  大学で研究された人力飛行機を、社会人になっても続けられた経緯は何でしたか。

鈴木  ヤマハに入社して人力飛行機を続けられるとは当然思っていませんでした。ところがヤマハは挑戦という姿勢に対して、こだわりを持っていますね(笑)。「少しはお金を使っていいから作ってみたら。ただしプライベートな時間で」といった経緯から始めました。

 最初は無名で、細々とやっていました。それが鳥人間コンテストに出場してテレビに出ますよね。この番組は視聴率が高いので、 結果として社内のファンが増えていきました。当初は良い結果が出せませんでした。そうしたら、「もうちょっとバックアップしてやるから、勝つまでヤレ」とか言われまして(笑)、「はあ?」という感じで、「エッ、いいんですか」(ニコッ)ということで、始めました。上の方が理解をしているので、ある部署に、「ちょっと面倒みてやれよ」みたいな成り行きでしたね。

聞き手  会社の目指す方向と合っていたわけですね。社員に対して夢を与えてくれるという会社のメッセージになりますね。

鈴木  そうですね。夢を実現させてくれる会社とのイメージ作りにもなりますし、僕はやりたいし、ギブ・アンド・テイクですね。会社とのベクトルが合っていますから、 「我々も生半可な気持ちではやりません。頂点を目指します」と宣言しました。その目指す目標は、最初は鳥人間コンテストの頂点、次は人力飛行機の世界の頂点ですね。それでだんだんやっているうちに、飛行機がレベルアップしてきて、琵琶湖対岸まで行ける可能性が見えてきました。初めて鳥人間コンテストに出た時って、目の前の対岸なんか、もう本当に景色でしたよ。「ああ、琵琶湖ってこんな景色で雄大だなぁ」なんて言っていたのが、まさか対岸に到達するなんて思いもしませんでした。それこそ地球で月を見ているようなものですね。(笑)

3

 図3 日本記録更新時 2003年8月

 

集中とOFF

聞き手  メンバーの皆さんも含めて、どういう目的で推進されましたか。やっぱり好きだという?

鈴木  まず好きだというのはありますけど、全員、技術屋集団なんですね。対岸へ到達するとか、高い目的意識があり、強い意思があるともうそこに突っ走らざるを得ない。自分たちが、今もトップレベルにいて、頂点を目指しているというプライドも重なっていますね。これがもうダメダメチームで、結果に対して正確な分析もできないようなフニャフニャのチームだったら多分続いてないと思います。かっちりしています、我々って。14人が活動する時は、決められた日時は全部守ります。我々は1年単位で、活動計画を決めて行動しています。

 製作期間でいくと、1月~4月末までは、「毎週金曜の夜と土曜の終日は全員参加で活動し、余程の理由がない限りは没頭する。それができないのならチームを去って下さい」というような暗黙の規約があります。そうやって集中して活動し、次の5~7月はテスト期間です。「金曜日の夜中とか土曜日の早朝1時に集まって、富士川でのテストフライトには 100%参加するように」と。そういうような徹底した中で、納得いくメンバーが残っています。自然とそうなりますね。目的意識が感化されますし、但しメンバーはすごくメリハリをつけて、それ以外のプライベートな関わり合いは、無いように心掛けているみたいです。チームワークというと、仲良し感覚やグループでの活動や、同じユニフォームを着てとかありますが、うちは違います。休みとか飛行機の集まり以外の時は、全くみんな勝手にやって、決められた時だけ集まって活動し、パッと去っていきます。(図5,6,7)

聞き手  まるで軍隊ですね(笑)。

鈴木  僕はプロフェッショナルな考え方と思っています。例えばスタジオミュージシャンは、電車でスタジオへ来て、さあ録音するよと言うまでフラフラしていて、ハイ、じゃあ今からやりますからと、譜面が配られると急に目つきが変わり、急にプロの顔になって、短時間でパーッと仕事を終えて帰っていくという姿ですね。「なんなんだ、あの人達は?」って言われてね。やっぱり1年中このことを考えていたら、自滅すると思います。だからOFFの期間と集中する期間との区別をハッキリつけています。

聞き手  私の聞いた話では、日本刀の切れ味の素晴らしさは、作る過程で、熱する時間と冷やす時間をおき交互に繰り返して鍛えるからだ。ずうっと熱してばかりだとおかしくなっちゃうと。人間も同じだよと。

鈴木  そうなんですよ。だから僕らも7月末の鳥人間コンテストに毎年出ている時は、その大会が終わると、帰ってきてすぐ反省会をやります。項目と失敗事項を書き出します。その課題の洗い出しが終わった時点で、「じゃあね」って言って2ヵ月か3ヵ月ぐらい、もうみんな勝手に散らばって、気持ちをすっきりさせます。

 そろそろ来年の計画でも立てるかって、冬ぐらいに次モデルの機体設計とか改良点を検討して、年明けから作り始めます。それの繰り返しをやってきました。だから年間のうちの3ヵ月間ぐらいは、飛行機から離れています。人力飛行機の関係で、一流のスポーツ選手と自転車選手と一緒だった時期がありました。その辺からこの知恵を学びました。だから1年中練習していれば、強い選手になるとは言えないようです。やっぱり、気持ちの切り替えが必要で、OFFを何ヵ月か取ると、本当に好きで、やりたいなあという想いがあると、「俺はやっぱり飛行機をやりたい」という気持ちがふつふつと湧いて来ます。そういう気持ちの時に始めて、また暫く、ちょっと辛いけど集中してやれるようになるわけです。

聞き手  でもOFFの時は意外と潜在意識があって、いろんなアイデアが湧きますよね。

鈴木  当然歩きながらも考えていますよ。ただ辛い日々とか、拘束された日々からは解放されますからね。

聞き手  あれって、辛いですか。

鈴木  結構入り込んでやっている時は、辛いと思うことはありますね。仕事が忙しくて板挟みになっている時や、突発の事柄が入ったりすると結構辛いですね。でもやりたいとの想いが大きなエネルギーですね。

5

6

7

  図5,6,7  早朝のテストフライト(富士川)

 

2020-10-17 久志能幾研究所通信 1790  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月24日 (月)

ラジコンヘリで昔にタイムスリップ

加齢なる美学(華麗なる美学)

 

 定年まで真面目に働き、義務としての社会の務めを終えて、定年後に自分の時間をもてるとは何と素晴らしいことか。

 定年後の時間は平均寿命80年としても、20年間もある。私の予定は108歳まで? 残り20年としても、一日12時間×365日×20年で87,600時間の広大な宇宙が広がっている。22歳から60歳まで年間2000時間を働くと、約76,000時間を会社に拘束されて働いてきたことになる。しかし定年後はそれ以上の宇宙が広がっているのだ。その時間があり、意識すれば、一仕事が出来る。そう思って、私は毎日精進している。だから現役以上に忙しくて仕方がない。

 今まで40年近く、自分の技を磨いてきたのだから、新しい道は無限に広がっている。一つの道に5千時間も投じれば、飯を食えるプロになれる。その時間はあるのだ。そう思えば、定年後はバラ色である。

 

定年後の闇世界

 世には定年後の生活が地獄の人もいる。国立大学の工学部長まで勤めて、定年退官後、私立大学の学長まで勤めた人が、現在の処遇を泣いていた。「定年まで仕事一筋で働いて、気が付くと家に私の居場所がない。家内が家の中を総て取り仕切っていた」である。その人は認知症になってしまった。

 定年後、契約社員として働いても、能力の低い元部下の元で働くのは地獄である。部下は無く、肩書権限もなく、社外工と同じ扱いである。精神的に参ってしまい、65歳まで勤める人は稀である。

 定年になってまだ家のローンが残っているので、老体に鞭打って働いている人もいる。それでは電話代も奥さんに管理され、電話一つ自由にはかけられない状態になる。お小遣いもままならぬ。自由に外出もままならぬ。趣味もなく、家ではやることがなく、奥さんや子供からは、粗大ごみ扱いである。

 定年後、家で何もせずぶらぶらしていると、奥さんや子供から邪魔者扱いである。人格を高めていないと、父の権限などどこにもない。

 私が昔、一緒に仕事をした人に電話をしたら、奥さんが電話に出て「あんたー、オダって人から電話!」と怒鳴っていた。それでその人の家庭内の扱われ方が露見した。それ以来、その人に連絡はしていない。

 そうならないように、現役時代に準備を怠るな、が教訓である。一番の修養は、己の人格の向上である。

 

若い時にタイムスリップ

 若い頃、やりたくてもお金が無く、時間がなく、世間体があり、親の許しが出なくて諦めたことが、定年後の今なら出来るのだ。そんな素晴らしい時間が、第二の人生である。

 

昔の趣味が復活、人生再生

 私の学生時代の趣味は飛行機であった。当時はお金もなく、勉強も忙しかったので、精々、ソリッドモデル作り、Uコン作り、ゴム動力飛行機作りが精々であった。ラジコン飛行機など夢の夢であった。

 昨日、ご縁があり欲しかったラジコンヘリコプターが舞い込んできた。私の先生が骨董品屋で、激安の値段で売っていたラジコンヘリを見付け、手配してくれた。気に入って早々に居間に飾った。50年前の心境にタイムスリップである。生きていてよかったと思う。癌などで死んでなんかいられない。これが命の泉である。これこそが大人のオモチャの楽しみである。これをバネに新しい仕事が出来る。

Dsc09759s

2020-08-24 久志能幾研究所通信 1718  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。