ブラームス 老いのピアノ演奏
2016年、私が戸田伯爵夫人のウィーンでの琴の演奏エピソードを調査する過程で、ビデオ「ブラームスのロウ管」(北海道放送)が、私のピアノの師である河村義子先生から送られてきた。
そのブラームスは戸田伯爵夫人の琴の演奏を聴きながら、六段の演奏をピアノ楽譜にした譜面に朱を入れた。戸田伯爵は、大垣藩最後の殿様である。明治になり、ウィーン公使としてウィーンに赴任した。
そのビデオから分かったことは、天才のブラームスにでも、老いは襲ってくる冷酷な事実である。その時の対応の如何に人間性が露見する。
ブラームスの老い
ブラームスは音楽の3Bと称せられる存在である(バッハ、ベートベン、ブラームス)。その大作曲家、ヨハネス・ブラームスが自作「ハンガリア舞曲第一番」とJ・シュトラウス「とんぼ」のピアノ演奏をロウ管シリンダーに録音したのは、エジソンの発明から約12年後の1889年12月2日である。
この歴史的なロウ管は、ボーゼ博士によるSPレコード(1938年 TELEFUNKEN製 78rpm)は、録音・保存状態の悪く、最新のレーザー再生装置でもうまく再生できない。「ハンガリア舞曲」の旋律は、ピアノというよりアタック感の無いヴァイオリンの音に近く、「とんぼ」に関しては凄まじいトレース・ノイズで、最新の技術を使ってもほとんど聞き取れない。
これはロウ管の保存状態の悪さと、録音時の条件の悪さに起因する。ロウ管に入ったヒビは第二次世界大戦の責任で、マイク・セッティングのミスはブラームス本人の思惑だった。
ブラームスは、この録音セッションの為に自作「ラプソディ作品79-2」を用意したが、その練習中に自分の技量の衰えに気付き、後世に自分の老いの露見したピアノ演奏を残すこと躊躇を覚えたようだ。ブラームスは完ぺき主義者であった。
親しい友人であるフェリンガー家でのセッション当日、神経質になっていたブラームスは、録音技術者に対して非協力的だった。突然「フェリンガー夫人がピアノを演奏します!」と自嘲気味に叫びながら、ブラームスは録音技術者のマイク・セッティングが終わらないうちにピアノを弾き始めた。フェリンガー氏は慌てて「ピアノ演奏はブラームス博士です!」(この部分から録音は開始)とアナウンスを録音に被せた。
ブラームスは録音を嫌がっていた事は、その記録から明白だ。彼の代表曲「ラプソディ」でなく、ハンガリア民謡をベースに作曲(編曲?)した「ハンガリア舞曲第一番」を弾き飛ばした事や、その後にシュトラウスの「とんぼ」という超軽い曲を弾いた事から見ても明らかだ。
ブラームスの人生は、この録音事件の頃から急速に陰り始める。もともと自分の才能に対して懐疑的だったブラームスは、書き溜めていた楽譜を河に捨てたり、演奏活動から遠ざかったり、ついには遺書の用意まで始める。
そして1896年、最愛の人クララ・シューマンが急逝し、その埋葬に立ち会う為に40時間もの汽車旅をした事で体調を崩し、1897年にあの世へ召される。
本稿は、「ブラームスのピアノ自作自演」© 2016 Hisao Natsume. All rights reserved. Designed by Sakuraphon.( http://www.78rpm.net/column/brahms-plays-brahms.html)を参考に加筆編集。
録音技術とのご縁
老いてもまだまだ技量もある世界3Bの一人と称せられるブラームスである。老いは神の御心、それに従ってありのままを受け入れて、67歳のピアノ演奏を残し欲しかった。ブラームスの技量の絶頂期とエジソンの録音機の本格的普及の時期が少しずれてしまった。それもご縁である。
自分にできることは、その時のご縁を大切にしたいである。私は馬場恵峰先生の書の撮影で、最新鋭最高級のカメラ機材を揃えて撮影した。今にしてよくやったと思う。
健康管理
ブラームスは写真等から推察すると、かなりの肥満で、老化の進展が速かったと推定される。天才はその芸に没頭して、自分の体のことは後回しになるのかと残念に思う。天才モーツァルトも、35歳で連鎖球菌性咽頭炎から合併症で亡くなっている。天才だからこそ、宝石のような才能を支える健康を大事にして欲しかった。
馬場恵峰先生は老いを隠さなかった。しかし自分の体の健康には大変気を使われた。だから94歳まで現役で活躍することが出来た。
馬場恵峰先生に、「先生の90歳の時の書と70歳代の時の書の差は何ですか」と聞いたら、「70歳代の書には勢いがある。90歳の書には艶がある」である。人は老いても相応の作品が出来上がる。老いを隠す必要はない。
ご縁があり、2017年4月、ウィーンを旅した。戸田伯爵夫人のウィーンでの琴の演奏エピソードを発見された楽友協会のビーバー・オット博士と面会し、ブラームスの墓参りをした。
良きご縁からはよきご縁が生まれる。今は、コロナ禍で、海外には行けない。良き時にウィーンに行けて、その報告を河村義子にできて良かったと思う。その時は河村義子先生も元気であった。
ブラームス像の前でビーバー・オット博士とツーショット 2017年4月24日
楽友協会にて
音楽家たちの墓地エリア 左がモーツアルト、その左がベートベン、中央がヨハンシュトラウス、右手がブラームスのお墓である。
『佛が振るチェッカーフラグ』 p94
2021-06-29 久志能幾研究所通信 2074 小田泰仙
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