l0_命の器で創る夢の道 Feed

2020年11月17日 (火)

老いの器

 

 老いとは、仏様ご先祖様から歳を頂くこと。還暦という歳を頂けずに、鬼門に入る人も数多い。老いとは、経験を積むことを意味する。その経験という智慧を己の器に入れるのである。痛い思いをして得た経験を智慧のレベルに昇華しないと、同じ過ちを死ぬまで繰り返す。それは歳の取りがいのない醜態である。

 

 老いとは、練れる道を歩くこと。流行に惑わされない思想を深めること。中国・ローマの歴史を紐解くと、2000年前の先人と現代人の行動に差などはない。人は人間的に少しも進歩していない現実に愕然とする。人は生まれれば、オールリセットされる。それ故、ゼロから学んで自己鍛錬をして成長するしかない。その学びを放棄して、年よりがいのない人が多い。TVや流行に流され、練れない日々を送り、認知症への道に迷い込む人が多い。

 

 老いの智慧とは、敏鈍の使い分けができること。我儘も言え、都合が悪くなったら惚けの振りをすること。息子が「グレてやる」とほざいたら、「それなら俺は惚けてやる」と逆に脅す智慧を身につけること。これは青二才では言えない台詞。

 

 正しい老いとは、考え方が充実していく過程である。自己の人生を振り返り、これでいいのかと自他に刃を向けて問う生き方である。それが「心」「刃」を向ける「忍」という文字である。そこから「認」という文字ができた。己の愚かさをしみじみと認められる歳になるのが老いである。

 現代社会は、人にばかり刃を向けて、己には刃を向けない人があまりに多すぎる。年よりがいがない。それを「年寄り害」という。今の野党がそれに値する。

 

 醜態な老いとは、自分に刃を向けず、非難ばかりの言動をすること。理想論で実際に政治を動かしたら、選挙公約が青二才の言動であったことが露呈したのは民主党政権であった。自民党を非難すると、すぐブラーメンで自分の身に降りかかるばかりである。

 反対ばかりで、日本を貶めることしかしなかった社会党は、行き詰まって、名前を社民党に変えたが、結局先の総会で、議員一人となって消滅した。おたかさんは北朝鮮の拉致問題を知っていても、知らんふりをした。その罰があったたのだ。

自衛隊反対と言っていた富市氏は、首相になったら、方針を豹変させた。

 

 けじめの老いとは、引き際を知ることである。人望もなく、行政手腕もなく、ただ市長の座に居座るだけの大垣市長では、大垣が没落して当然である。今だかって老いなかった人はいない。生老病死を悟り、後進に託して身を引いてこそ、美学である。大垣を没落させた小川敏は醜態である。

 

 老いとは、若き人を叱る人徳の力の獲得である。己が若造で同じ言葉で、若い人を叱っても反感を持たれるだけ。しかしそれ相応の歳を頂くと、若い人を叱っても反感を買われることが少なくなったことを実感する。若き人を叱るのは年長者の務めである。それは己の経験を若い人に伝えること。

 

 人は必ず老いる。老いて人生を振り返ったとき、素晴らしい人生ではなかったが、素晴らしく楽しむ活き方であったと思えるようにしたい。

4k8a02491s  馬場恵峰書

2020-11-17 久志能幾研究所通信 1827  小田泰仙

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2020年11月16日 (月)

「浦島太郎物語」とは我が人生物語

 

 浦島太郎が龍宮城で、乙姫様から酒池肉林の接待を受け、楽しく時間を過ごすと、時間が無為に超特急で過ぎていった。童話では、「鯛や平目の楽しい舞い踊り」と書かれるのは子供の教育上で、ぼかした表現である。実際の大人な世界では、酒池肉林、キャバレー遊びの事で、人生の欲望に満ちた遊びの世界のことである。

 人によっては、家族団らんで過ごした何気ない日々の生活が、最期の時を迎える時、それが「鯛や平目の楽しい舞い踊り」の日々であったとなるのだ。平穏無事な生活とは贅沢極まりない幸せなのだ。ある時、親が倒れて、その団らんのひと時が、地獄の日々に暗転する。実際はその平穏無事な日々が極楽であったと後になってから回顧するのだ。毎日の贅沢三昧の食事に飽きて、お茶漬けが御馳走と感じる時が、贅沢な日々の暮らしが「鯛や平目の楽しい舞い踊り」であったと悟ると同じである。

 

大垣市長の立場なら

 己が大垣市長の立場なら、部下や出入りの業者が自分の「市長という名の権力」に平伏し、おべっかいを使い、自尊心をコチョコチョとくすぐるので、己はルンルン気分で過ごす。それが、「鯛や平目の楽しい舞い踊り」の日々なのだ。自分が市長でなければ、人気もないし、人望もないので人が寄り付かない。だから乞食と市長は3日やれば辞められえない。

 その19年間に時間は無為に過ぎた。浦島太郎物語のように、20年目で目が覚めて玉手箱を開ければ、故郷の大垣には死に絶えた大垣駅前商店街が立ち並んでいる。大垣駅前の亀の池には、死んだカメがミイラのように並んでいる。そのカメ(華名)が、自分を龍宮城の大垣市長の座に運んでくれた。市民の多くは東大出というカメ(華名)に騙されて投票した。それは名ばかりの死んだカメであった。過去の知識の記憶力だけで生きてきたカメであった。知識だけでは現代経済には通用しない。現代の激変する社会で、都市の経営には知恵が必要だ。今の市長には経営能力がない。恨めしや夢の大垣物語である。

 母の教えの玄関に造花のように死んだもの(生なきもの)を飾ると、その家は衰退する」を私は信じている。造花には精気が感じられないのだ。造花から陰気を受ける。造花を見て家の主が元気になるわけがない。だから私は自宅玄関に造花を絶対に置かない。

 大垣市は、その生なき置物を大垣駅前のカメの池に陳列している。縁起でもない。恥さらし、不気味である。置物のカメを置いた理由は、「生きた亀は、その管理に金がかかる」という大垣市役所の言いぐさである。それは市の職員が吝嗇な市長の事を考えて忖度した結果である。だから大垣は没落した。

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  大垣駅前のカメの池の置物   2019年1月18日撮影

終着駅近くで

 ふと気が付いて玉手箱を開ければ(定年後や親が死んだ後、ふと人生を振り返ると)、老いた醜い自分が鏡に写る。目はかすみ、髪の毛は薄く、シミが増え、頭は回らず、呂律も回らない老いた自分を発見するのだ。己の歳を考えると、平均寿命まで、いくばくもない。親の死という最後の教えが「あんたも何時か死ぬのだよ。命と時間を大事にしなされ」であった。

 人生の最盛期を酒池肉林に埋没した人生で、何が残ったのか。親はとうの昔に死に、妻が去り、家はローンが破綻して競売にかけられ、子供が己を避け、仲間も多くが死に、竹馬の友も死んだ。回りの人たちは自分から遠ざかっていく。それが浦島太郎の物語の教えである。他人ごとの物語ではない。浦島太郎の物語は子供用ではなく、人生をさ迷う愚かな大人を諭す寓話なのだ。

 

桃太郎の鬼退治物語

 桃太郎の鬼が島の鬼退治物語は、人生の上り坂で活動する昼の物語である。鬼とは自分の劣等感、僻み、マイナス思考、煩悩である。己の内に潜むもう一人の己(鬼)を退治すれば、人生が開けるとの教えである。

 

昼と夜の物語、プラスマイナスゼロ

 浦島太郎物語は、人生の夜の物語である。自然界では、プラスがあればマイナスがある。人生でも、どこかで落とし前を付けないと、物理学上で、計算が成り立たない。宇宙根源の理である。だからこの二つの物語は、多くの教訓が示唆されている。俗世間を知らない子供には理解不能な寓話である。

 

玉手箱を開けて

 浦島太郎の役を演じて、玉手箱を開けてしまったら、人生の終焉である。私はその玉手箱をうっかり開けてしまって、あわてて閉めた。しかし玉手箱から出た煙の直撃を受けて(?)癌になってしまった。しかし冷静にその煙の成分を調べて(真因を調査して)、生活習慣、心を入れ替えて、なんとか今を生きさせてもらっている。神仏に感謝です。

 

2020-11-16 久志能幾研究所通信 1826  小田泰仙

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2020年11月15日 (日)

人生はグー・チョキ・パーの勝負

     

 人間様が仏様とじゃんけんをして勝てるわけがない。

 仏様はすべてお見通し。人の最期はパーである。

 人は裸で生まれて、裸で死んでいく。赤子は生まれるとき、手を握り締めて生まれてくる。その手の中に「ご先祖の霊」を掴んでいる。だから人を「霊止(ひと)」とも書く。人はご先祖の生まれ変わりである。

 人生の盛衰期は、世間と戦いチョキで切りまくり、手当たり次第に、強欲に集める。人が死ぬときは、弛緩状態になり手を開いて何も持たず、あの世に旅たつ。どれだけ莫大な財宝を現世で集めても、死ぬときは裸である。すべてパーである。あの世に持っていけない。人は生前に集めて握りしめたものではなく、人にパーッと与えたもので評価される。

 

人生工場の鍛錬ライン

 次図は、人生工場の行程を絵にした。人生では様々な工程を経て魂が浄化していく。時にはチョ停(怪我)、ドカ停(大病)、落とし穴にはまり(詐欺にあう)、生産中止(解雇)、工場閉鎖(死)がある。魂の品質検査をしてくれるのが師である。

 

人生工場の生産ライン トヨタ生産方式

 遇うべきご縁は、早からず、遅からず、「ジャスト・イン・タイム」で訪れる。人生で無駄なものはない。嫌なことも、自分を成長させるために試練なのだ。神仏の絶妙な差配には、人智の及ばない世界がある。人生工場のトヨタ生産方式は、在庫を持たない生産方式のため、ご縁はその時かぎり、ご縁の女神に後ろ髪はない。後からでは掴めない。

 

コスプレ人生

 良きご縁は、時として貧乏神のコスプレで来るときもある。第三の眼が開いて、ご縁を熟視しないと大事なご縁を見落としてしまう。

 人と動物と生き方が違うのは、人は気づいたら、人生の道を変えることができる。間違った道だと気が付いても、そのまま惰性で生きれば、犬猫と変わらない。己の使命を自覚して、精進して人格を高めよう。

 

人生の夜汽車

 人生工場の生産ラインでは、一時停止ボタンはあるが後戻りボタンはない。後戻りはできないが、やり直し、出直しはできる。

 何もしなくても、寝ていても、夜汽車のように、どんどんと終着駅(死)に運ばれていく。何もしないでいると、夢の超特急で終着駅に向かう。昔は三途の河を舟で渡ったが、今は怠惰な輩のために、三途の河上を走行する新幹線が用意されているとか(?)。

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Dsc098501s  「寝ていても 運ばれてゆく 夜汽車かな」 俊董

 本書は叔母の師である青山俊董堂長の著書『もう一人の私への旅』に揮毫したもの。

 私の叔母は京都の尼寺の住職であった。

2020-11-15 久志能幾研究所通信 1825  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年11月11日 (水)

付加価値を入れる器

 

 人は裸で生まれて、裸で死んでいく。その間に、どれだけの知識、経験、喜び恨みを得て、己の付加価値を上げ、社会にご恩返しをして、あの世に旅立つかである。

 赤子は生まれるとき、手を握り締めて生まれてくる。その手の中に「ご先祖の霊」を掴んでいる。だから人を「霊止(ひと)」とも書く。人はご先祖の生まれ変わりである。

 人が死ぬときは、弛緩状態になり手を開いて何も持たず旅たつ。どれだけ莫大な財宝を現世で集めても、死ぬときは裸である。すべてパーである。人は生前に集めたものではなく、人に与えたもので評価される。

 

サーブリック分析

 ギルブレスが考案した分析手法にサーブリック分析がある。これはあらゆる作業に共通する基本動作を、18種類の動作に分解して分析をする手法である。

 そのうち「加工」「組み合わせる」「使う」「分解する」は価値を生む動作であるが、「運ぶ」「掴む」は価値を生まない動作に分類されている。だからいくら金を集めて掴んでも、何も価値を生まない。お金は使わないと価値を生まない。

 

人という名の器

 人は小さな器を持って、必ず訪れる死に向かって人生を歩く。人の成長に合わせてその器は大きくも小さくもなる。人生とは料理の鍋を煮るが如しである。その器に知識・経験・愛情憎悪という調味料を入れて、事故や災害、病気に遇いながらも、鍋に入った料理がこぼれないようにして器を持って歩く人生舞台である。その材料にどういう味(付加価値)をつけるかが、人生で問われる。鍋にいれた材料のままで料理が完成したら、手抜きで、味気ない人生だ。そこにどんな己の付加価値を付けて、未完の料理を最高に仕上げるかである。

 

認知症への道

 その人生調理の工程での大きな問題は、その器の底に小さな穴が開いていること。歳をとるほどに、その穴が少しずつ大きくなっていく。若いときは気がつかないが、歳をとると、その穴から料理をした記憶や知識が大量に流出していることに気づき愕然とする。それ故、穴が大きくなるのを防ぐ努力をしないと、いつの間にか器が空になる。

 老いても、その器への料理投入を怠ってはならない。生涯現役で、料理材料を投入し続けねばならぬ。それをしないと認知症になる。全て自己責任であり、自然の摂理である。

 

料理後に残るもの

 死ぬときには、器としての肉体自体が消滅するので、器の中身は何も残らない。しかし器の下から加熱(仕事、修行、功績)して昇華したものだけが世の空気の中に残る。それがその人の航跡である。加熱の足りない人の航跡は、何も残らない。

 人は二度、死ぬ。本人の死が一度目、二度目はその人を覚えている人が死ぬときだ。その人の航跡とは、人の心に長く残る思い出であり、業績であり記録である。しかしどんなに大きな航跡でも時間ともに消えていく。それが2000年も継続して記憶されている先人は偉大である。

 

 今やっていること、金儲け、魚釣り、飲み会、女漁り、競馬、競輪、ギャンブル、グルメ探求、旅行、権力の座へのしがみ付き、等に没頭して人生で何が残るか、自省しよう。残したもので、子孫から呆れられるのは、恥である。

 

 人生で残るのは書いたものだけ、やって来たこと(価値あるものを創った)だけ。人に伝えたことだけ、与えたものだけ。

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2020-11-11 久志能幾研究所通信 1821  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月21日 (金)

般若心経の「苦集滅道」とはPDCA

 般若心経で一番大事な言葉が、本文の中央に書かれた「苦集滅道」である。般若心経は、玄奘(600~664)が万巻の経典を278文字に集約したお経である。その「苦集滅道」の意味はPDCAである。現代の品質管理工学と同じことが、1400年前に既に般若心経で教えられている。つまり人間はこの2000年間、少しも進歩していない。

 

人の進化とは

 エジプトやギリシャの遺跡で、「最近の若い者は・・・」等の老人のぼやきが書かれた文書がよく発見される。私が後世の残す戯言なら、「最近の年寄りは、昔の老人より退化している」である。老人とは、経験を積んだ賢人であるべきなのだ。それが拝金主義の現代社会では、医学発達の成果で老いても体は元気だが、肝心の智慧がなく、利権に溺れて強欲な老害を振りまいている輩が多い。問題が起きても対処療法で済ませている。若者の模範となる智慧のある老人は少ない。

 

対処療法が氾濫

 人は苦しみに出会い、それから逃れようと様々な取り組みをするが、多くはその場しのぎの対処療養で済ませるから、少しも改善されない。それも科学技術の偽善で、間違った方向の改善が多い。一番の典型事例が、高血圧治療の降圧剤使用である。真因を探らず、対処療法の降圧剤の乱用である。

 また安易な逃避の典型が、お祈りとお布施の他力本願である。いくら時間をかけてお祈りをしても、そのトラブルの真因を追求せず、単に他力本願のお祈りだけをするから、少しも改善されない。苦から逃れるためのショートカットで、苦を無くそうなど、横着である。

 それに邪悪な新興宗教が付け込んで、金儲けをしている。苦しみの中、いくら祈っても、お札を貼っても、お布施を出しても、教祖や狂祖にすがっても、真因を除かないので、解決しない。

 

苦集滅道

 無苦集滅の「苦」とはトラブルの事である。その原因を探るため、現状把握として、データを「集」める。それを分析して、どうするかを計画(PLAN)する。その対策を実行(DO)して、苦を取り除く。それで本当に苦が「滅」したかをチェックして、再行動(ACTION)して、初めて「苦」が無くなる

 因果応報とし、人として正しい「道」から外れた行いをするから、苦を生じるのだ。お天道様に恥ずかしくない道を歩め、である。

 それが1400年前に作られた般若心経の神髄である。

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 10行目の中央に「苦集滅道」が書かれている。

  上図は自宅仏壇に供えるため、馬場恵峰先生に書いて頂いた般若心経 

 

2020-08-21 久志能幾研究所通信 1715  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年8月20日 (木)

仕事とは祈り

 祈るとは、頭を冷静にして自分と対峙し、謙虚になり、反省すること。そこから時間創出の智慧が出てくる。喧騒たる働きだけでは智慧は生み出せない。傲慢な生き方からは、智慧は生まれない。

 

祈りの長い人

 お祈り時間の長い人は不幸な人が多い。幸福な人はお祈り時間が短い。それはお祈りではなく、神仏への感謝の報告である。不幸な人が、自分のやるべきことを放棄して神仏へのお願いに時間をかける。そんな時間があれば、公園草取りでも、家前の道掃除でも、人様のお役に立つことをやればよい。

 お祈り時間の長い人は全て他力本願である。それで幸福になれない。仏様の教えは「まず自分のやるべきことをやりなさい。そうすれば10年後に利子をつけて返してあげる」である。それを「お賽銭を入れた。人様以上に長くお祈りをしたので、直ぐに配当をくれ」では神も仏もあったものではない。神社仏閣は、お願いをしてお賽銭を入れればご利益がでてくる自動販売機設置場所ではない。そう信じている人は、お祈り時間が長い。

 

仕事とは祈りである

 幸福な人は、仕事をすることで、社会に貢献している。そして儲かれば税金を納めて、社会のお役にたっている。幸せな人は奪う人ではなく、与える人である。

 祈りの長い人は、棚ぼたを信じて口を空け、待つだけの人である。

 

祈りの長い人

 某老女のお祈り時間は約20分間余と長い。ご丁寧にお寺の入り口に自転車を置き、入口を封鎖してのお祈りである。お参りにくる人に迷惑になるので、私は注意したが、「片方が空いているので問題ない」と意地になって反論した。人様へのご迷惑は、お願いの祈りに没頭して眼中にはなかった。こうなっては仏様もお手上げだ。その後、隣の八幡神社でも同じように長時間のお祈りであった。そこでも東口鳥居のど真ん中に自転車を置いてのお祈りであった。

 南園堂の不空羂索観音様や大日入来様、延命地蔵菩薩様だけでは心もとないので、八幡神宮の天照大神様にも二股をかけている。二股をかけられては、観音様も気を悪くするでしょうに。

 

 祈りとは何かを考えよう。祈りとは自分を謙虚にする修行である。謙虚でなければ、周りが見えない。大義名分に囚われて、我々も同じようなことをしてないだろうか。

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信心深い利己の人

 私が、年に数十万円の商品を買っていた馴染みお店があった。そのお店のご主人は、非常に信心深いので、格別の親交があった。お供えのお花の保全の件でも教えてもらった。

 2017年頃、河村義子先生主催の演奏会の資金的支援を、この人にお願いに行った。子供たちを120名招待して「世界で一流の音楽を聞く会」プロジェクトである。趣旨をご主人に話したが、支援はけんもほろろに断られた。それで彼が佛に信心深いのは、自分の幸せのためだけであって、利他の心は全くないことが判明した。それ以来、そのお店で商品を買うのを止めた。

 

資金集めの苦労

 当時、私は「世界で一流の音楽を聞く会」プロジェクトのため、寄付を募って多くのお店を訪問したが、殆ど成果がなかった。それそれ以来、各所に寄付をお願いに回るのに虚無感を覚えて、その寄付集めの運動を止めた。それで私は持ち出しの支援をすることにした。毎回20万円の寄付である。

 勿論、大垣市はこの種の芸術活動への金銭的支援を全くしない。毎回支援をしてくれる市内の都市銀行でも、横並びで一口2万円の支援だけである。それも河村義子先生が直々頭取にお願いしてのこと。百貨店の事業部長に、何度も足を運んで支援をお願いしてが、結果は1万円だけの寄付であった。もう一軒はなじみの文房具店からであった。結局、私は2件しか寄付を集められなかった。子ども達の為に資金集めで奔走された河村義子先生の苦労がしのばれた。

4k8a3400s   2017年9月29日  大垣音楽堂

 TIMMコンサートで招待した子供たちにベーゼンドルファーの説明をする河村義子先生

 

 他力本願の祈りとは: 全能の神仏を超越し、ニュートン法則や相対性理論の宇宙法則を捻じ曲げて、己のためだけの欲望を願う行為。

                       ビアス

 

2020-08-20 久志能幾研究所通信 1714  小田泰仙

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2020年7月19日 (日)

地蔵菩薩が持つ大きな器を目指して(改定)

地蔵菩薩のお役目

 お地蔵様は正式には「地蔵菩薩」という偉い方である。地蔵菩薩は、釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世に仏が不在となるため、その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救うお役目の仏とされる。現世ではお地蔵様として子供の守り神として祭られている。地獄に出張したときは、お役目として閻魔大王の役も務めるとされる。

 菩薩とは、仏教において成仏を求める(如来を目指す)修行者を指す。菩薩は修行中ではあるが、人々と共に歩み、教えに導くことで、庶民の信仰の対象にもなっている。

 

裁判官 兼 弁護人

 六道(天、人、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄)で、地獄に堕ちるのは生前中に善を積まなかった不心得者である。多くの積善を心がけた方は、閤魔大王に呼び出され閤魔帳を覗いて判決を受けることもなく浄土に赴かれる。

 地獄に堕ちてしまえば救いようがない。地獄の向かう亡者を裟婆と地獄の境界で、「地獄の十王」が亡者の生存中の業の履歴が記された閤魔帳により、どの地獄に送るかを評定して判決する。その裁判で被告の弁護をするのが地蔵菩薩である。現代の裁判員裁判制度に比べればはるかに人間的で救いがある。

 最近の裁判員裁判制度での死刑判決の多さが何か異常であるし、その死刑判決のお役目を一般市民に押し付ける制度はいかがなものか。この地獄論を調べて疑問を感じた。

 十王の中の裁判長が「闇魔大王」であり、闇魔大王は地蔵菩薩の化身であると言われる所以である。それ故、判決を下す裁判長と被告の弁護人が同一人物となるので無罪が期待され、もう一度裟婆に戻れる可能性があることから地蔵菩薩信仰が生まれたと思われる。この信仰は民衆の地獄に対する恐怖観念が貴賎を問わずあったことも一因とされる。

 

仏教の組織図

 こういう仏の組織体系を創造する先人の智慧には驚嘆する。今の新興宗教の教祖は足元にも及ばない。会社組織の概念の創作と同じである。日本の地獄絵は、8世紀ごろに東大寺の線刻画に登場している。地獄は全て人間が作り出したものだが、その恐怖心をうまく活用して道徳心を子供に植えつけたのは智慧者である。私も幼いころ、祖母から地獄絵をお寺で見せられて恐怖心を味わった思い出がある。

 1300年も経って、今の新興宗教界で「脱会すると無間地獄に堕ちるぞ」と脅す教団があるのが、お笑いである。地獄に堕ちるには、それ相応の罪を犯さないとその資格が無い。まして無間地獄に堕ちるには、親殺しをせねばならぬ。原始宗教では、それが詳細に決まっている。それを新興宗教へお布施の大金だけで罪消しになるわけがない。

 

エピローグ

 2011年頃、私は某経営研究会に入会した。その年度の総会後、コートの取り違えのご縁で、その経営研究会の元会長と親しくなり、彼より某新興宗教を勧められた。相手が経営研究会の元会長だから信用して、試しに入会してダメならすぐ退会すればよいと安易な気持ちで入会を承諾した。

 ところがその教団をネットで調べたら、トンデモない教団であることが判明した。入会金は38万円だが、後日、なんだかんだで1千万円ほどせびられることが、年間行事や教団総本山の建設費から逆算された。入会儀式も秘密の儀式で怪しいのだ。

 また退会しようとしたら、信者が大挙して自宅に押し掛けてきて、「退団すると無間地獄に堕ちるぞ」と自宅まわりで大騒ぎをするという。押しかけてくる信者も、そうしないと信仰の真剣さを疑われるので、必死である。相互監視が厳しい掟がある。

 また会員の葬儀があると、教団が葬式を全て取り仕切って、香典は全てもって帰ってしまうという。

 後日、その経営研究会のメンバーに聞いたら、役員の多くがその教団に入会していて、役員からメンバーに勧誘するので、断りづらいとの声が多くあった。手口が巧妙である。

 入会寸前で、仏様の啓示(自宅内で小指の骨折)があり、それからいろいろと調べて、結論としてオウム真理教のような教団だと断定した。入会を断わり、事なきを得た。

 

清濁併せ吞む

 正しいことが総てではない。正義だけを追及すると、人は阿修羅にならざるを得ない。終生戦わねばなるまい。人は、殺生を止めれば、生物として生きていけない。採食主義者でも、穀物の命を奪わねばならぬ。植物にも命がある。人は、他の命を奪って生きていかねばならぬ。戦争になれば、敵を殺さねば、銃後の妻子が殺される。

 お釈迦様は、他部族が攻めてきたとき、素手で立向かわれたが、お釈迦様の部族は目の前で殺された。その無力感から、お釈迦様は王子の座を捨てて、出家されたという。

 人間界で生きていくためには、清濁併せ吞まねば、生きていけない。その姿の象徴が、地蔵菩薩である。地蔵菩薩は全てを受け入れて頂ける。

 その地蔵菩薩でも、その衆生の全てを助けられるわけではない。その衆生と縁がなければ助けるに助けられない。その縁とは、地蔵菩薩に手を合わせたかどうかだけである。地蔵菩薩に手を合わる人とは、自分を無にして来世・現世を考えられる人間のことだ。ご先祖、親の恩を考えられる人間である。強欲に目が眩んで、回りが見えなくなった衆生を地蔵菩薩は救うわけにはいかない。

 

祈る対象を具現化

 仏像は祈りの小さな器である。拝むにしろお願いするにしろ、空気の前では手を合わせづらいもの。その祈る対象を具現化したのがお地蔵さんの姿である。祈るとは、自分を無にすることだ。冷静に自分と対峙することだ。日に一度は、手を合わせて自分に向き合うと良い。

 

子供の守り佛

 私は毎朝の散歩道の途中にある地蔵菩薩像の前で「子供たちを守っていただきありがとうございます。守っていただいた子供たちを私もお守りします」と手を合わせている。それもあり、子供たちの未来を奪う輩と喧嘩も辞さない。子供たちが日本の未来を背負ってくれる。私の年金を支えてくれる(?)。子供たち教育予算をつまみ食いする輩(小川敏を筆頭とした大垣行政)を摘発するのが年長者の義務である。

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 松本明慶先生作 童地蔵菩薩像 楠  高さ13センチ

 

 この子は、東京の展示会(大佛師松本明慶佛像彫刻展)にお友達の200人と一緒に上京した。私はその中からお見合いをして、この子に決めて大垣の自宅に来てもらった。200体のお地蔵さんは、同じように見えても微妙に一人ひとり違い、この子と決めるのに苦労をした。(2013年10月)

 松本華明さんのお話しでは、年々この童地蔵菩薩像の出来栄えに対して、明慶さんの要求レベルが上っていて、なかなか検査が通らないとか。松本工房の童地蔵菩薩像は日々レベル向上だそうです。

 

2020-07-19 久志能幾研究所通信 1671 小田泰仙

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2020年7月11日 (土)

7. 学心立器

 自ら学ばない者は、30年後に認知症の運命が襲いかかる。その前にリストラの嵐に巻き込まれる。

 学ぶ気のない者を、無理に学ばせることは出来ない。立っていない器は、価値の無い器である。水を飲みたくない馬を川辺に連れて行っても水を飲まない。学ばない者は、宿命的な存在(動物)に成り下がる。

 何のために学ぶのか。自分の成長のためである。何のために成長するのか。人生航路を行く船体(自分)の性能向上である。性能を高めて、人生を闘うためである。学んで知識、能力を高めれば、より遠くに速く行くことができる。それで智慧が付けば、荒波でも難破せずに航海できる。

 

サラリーマンの偏差値

 今のデフレの時代、自分のみを自分で守らないと、明日が危ない。会社も明日が分からない。学ぶ意思のない社員は、格好のリストラ対象である。そうしないと会社自体が危ない。世界の学生は、そのために必死に学んでいる。遊んでいるのは日本の学生だけだ。その延長で、サラリーマンが自己啓発をしていない。だから日本のホワイトカラーの生産性が先進国で最低なのだ。

 

学生の質の低下

 今の学生の学力は、40年前、20年前の学生の学力と比較すると各段に落ちている。私は管理課で新入社員教育に携わったので、その現実は身をもって感じた。

 私が就職し時は、大学院卒は1割であった。ところが私が新入社員教育に携わったころは6割が大学院卒である。その大学院卒のレベルが昔の大卒レベルなのだ。

 当時学力で偏差値60くらいの能力の子が、現代では偏差値69くらいになっている。偏差値とは平均からの乖離値なので、学力が上がったのではなく、平均がそれだけ下がっている。つまり学力が低下したのだ。特に証明問題等の能力ではガタ落ちである。つまりネット等で答えだけを覚えて、途中経過の学びをしなくなったので、学生の質が落ちたのだ。だからそういう学生を受け入れた産業界で、生産性が上がるわけがない。結論は、学ばない学生が増加したのだ。

 その原因は政府の教育方針が間違っているからだ。大垣市でも小川敏が教育費をケチり、自分達の給与にお手盛りをしてしまった。これでは日本も大垣市も没落である。

 人間として、佛からの利益(りやく)として直面する現世の現実である。それは仏が人間に示す施し(利益)である。自業自得である。

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人の成長

 人間が成長をして目指す先は万能の神ではない。人間が神を目指してしまっては、「人ではない」状態になり「人でなし」になってしまう。あくまで人間として欠点を抱えたまま、成長するのを角熟という。欠点があっても得意分野があれば、欠点が人間味となる。

 みほとけは、人間が完全無欠の存在になるのを求めてはいない。持てる才能を最大限に活かす生き方を求めておられるだけである。

 単に知識の量を増やすのが人間の成長ではない。覚えていることならコンピュータに負ける。人間が成長するとは、智慧をつけること。

 正しいことだけを受け入れる器になることが人間の成長ではない。清濁併せ受け入れる度量の大きな器になることが求められる。

 修証義に曰く「侘をして自をして侘に同せしむる道理あるべし、自侘は時に随うて無窮なり、海の水を辞せざるは同事なり、是故に能く水聚りて海となるなり」

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2020-07-11 久志能幾研究所通信 1662 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年9月 1日 (日)

お金で智慧を買う

 お金を使って手に入れるのは智慧である。そのお金を使えるのが幸せである。使えるのは健康であることが前提である。その上で、体力も気力も夢もないと使えない。余命1年と宣告された病身では、お金は使えないし使う気にもなれない。

 お金を使える幸せを大事にしよう。そのうち使えなくなる日がやってくる。

 

自分を買う

 単にモノを買うのでは、お金を使ったことにならない。それは単にお金がモノに変わっただけである。価値あるモノを売れば同じ金額が返ってくる。安いものではそうは行かない。安もの買いの銭失いである。お金でモノを買うとは、自分を買ってくるのだ。その過程で智慧が付く。

 

利用限度

 美味いものを食っても限度がある。立って半畳、寝て1畳、死ぬまで飲んでも1升、食べて丼1杯である。人間の体では知れたもの。それではお金を使い切れない。食べ過ぎ飲みすぎれば、病気になり、早死にである。持てる人生の時間内に、どれだけ有効にお金を使えるかを問われている。

 

経験を買う

 お金を使うとは、体験への出費である。体験で智慧が湧く。それには時間も体力も必要だ。智慧を得うるための出費が、お金を使う行動である。学ぶ費用、師に会うための交通費、受講料、稀少価値の品の購入に智慧を費やす行動、出費が相当する。その過程で智慧を出す訓練が出来る。お金を賢く使うために受け入れる器を大きくすることだ。

 貯めるばかりの人生は、小さな器の人生。入ってきたお金を世間に旅ださせて、そのおこぼれをあずかる気持ちで丁度よい。それを自分の所で止めて、貯めるからお金が腐ってくる。お金は生鮮食品である。気持ちよく旅出させてあげれば、お友達をつれて帰ってくる。目先に囚われて、出し渋りをすれば、相手も嫌気がさして去っていく。損をして得を取れである。

 

夢を買う

 高いものにはワケがある。高いものには創った人の魂がこもっている。お金を使うとは、自分の夢の実現のための投資行動である。20年後を夢見て、今の自分に投資をする。そのためには学びの器を大きくすること。学びに限度はない。学んで成長すれば、器も自然と大きくなる。不健康な器では、何も入らない。

 

失敗の買い物

 良くない買い物はあるが、失敗の買い物はない。良くない品物、ご縁に接したら、それは良くないことが分かっただけ、智慧が付いたと感謝すべきである。私は、二度とその品物、お店、ご縁に近づかない。それだけで十分にお釣りがくる智慧を得たことになる。

 

智慧の披露

 学んで一杯になった器は、世間に披露しないといけない。日々、その舞台で自分の学んだ智慧が試される。会社での各場面が能舞台であり、仲間が観客である。果物屋の店頭が人生舞台で、来客がご祝儀である。そこでどんな演技をするのか、そこに自分の器に入れてある智慧が試される。商売では、その演技に失敗すると客は二度と来てはくれない。

 智慧は出し惜しみしてはダメである。どうせ持ってはあの世に行けない。智慧は出せば出すほど、自分にご褒美として帰ってくる。智慧を出す能力が磨かれる。

 

自分は能役者

 人生では人が仮面を被って人生劇場の役者を演じている。ある人は教師を、ある人は警察官の仮面を被って演じている。その仮面をペルソナという。ペルソナとはラテン語で仮面と言う意味である。この語源でパーソナリティと言う言葉が生まれた。個性とは、人が被る仮面のキャラクターである。人はその仮面を見て、その人の役割を期待する。その仮面を被ったら、その役割を演じなければ人の期待を裏切る「裏切り者」である。

 

人生舞台

 人生の舞台とは、幕が上がっている間だけが舞台ではない。幕が上がるまでの血みどろな練習時間、舞台の段を上がる時の挙動、舞台を下りるときの挙動も全て人生劇場の演技時間である。観客に見せる舞台での演技は一コマに過ぎない。一刻たりとも気を抜けない。観客は見ていなくても、神様仏様そして内なる己という仏が見つめている。

 一局を舞い舞台を下りて初めて「人生織物」での横糸の一本が完成する。人生とはその連綿とした行動の積み重ねである。観客が見ている時だけが、舞台ではない。

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  2005年『修身』

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     馬場恵峰書

 

2019-09-01   久志能幾研究所通信No.1325 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年8月27日 (火)

新入社員に教える「死への準備」

 私が入社したばかりの新入社員に、「修身」の講義で問うたことは、死への準備である。サラリーマンには、定年が人生の一区切りとしての「死」である。その死である定年までの働き方を問うた。

 

死を意識して働こう

 今を必死に生きるために、死を意識しよう。万物には必ず死がある。期限がある。人生の半分を占める会社生活にも、定年と言う「死」がある。入社したら、38年後に訪れる死(定年)を見据えて仕事をしよう。それが時間創造である。そう新入社員に教えた。

 定年があるから、組織の新陳代謝が進み企業が成長する。100年前の先輩がいつまでも居座っていては、部下は閉口である。人間の手も、母親のお腹の中で指と指の間の組織が死ぬことで、指のある手に成長する。死なくして成長はない。過去の自分を殺すことで、自分も成長する。

 組織として成長できない企業が倒産する。会社の寿命は30年である。長寿会社は常に変化成長している。成長しない企業には、競争社会で倒産と言う自然淘汰が待っている。

 個人的に定年と言う死を迎えるには、38年間の仕事のやり方が、定年後の時間の創り方に影響する。定年までの時間の過ごし方で、会社に残す付加価値で差を生み、定年後の時間価値を決める。

 貴方がたは、入社後、勤続38年間(13,870日)もの時間をかけて、どんな資産を創っていくのか。「老いて」何を後進に「置いて」行くのか。定年後の30年をかけて、どんな価値を残して、あの世に逝くのか。考えて仕事をして欲しい。

 技術者として、やってきたことを記録に残さないと、何もやらなかったと同じになってしまう。私は、そう思って記録に残すことを心がけてきた。それでこの講義が成立した。

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      新入社員教育テキスト「修身」2005年

 

管理職としての「死」の意識

 私が先輩から教えてもらった管理職の心得は「その職場の長としての任期は4年間。1年目は職場の観察、2年目は何をやるか決めてその種を撒く、3年目はその成果の回収、4年目は後進を育てて、後を託す」であった。

 

定年後

 定年と言う「死」を迎えて、会社時代の肩書や地位は、退職すれば無価値になる。なまじっかプライドがあると、負の遺産となる。会社時代に、人生の価値を創れなかった元エライさんが、老人ホームで「私の上席はどこですか?」とKY語(空気の読めない語)を発し、周囲の失笑をかうのだ。定年後の家で、妻から粗大ゴミ扱いをされるのだ。そうなっては、人生はお終いです。

 

定年後の粗大ごみ扱い

 先日、名刺を整理していたら、30年前、仕事でお世話になった業者の人の名刺が出てきて、懐かしくなり、その場で相手の自宅に電話をかけた。電話に出た相手の妻は、夫に「オダって人から電話!」と不機嫌そうな、迷惑そうな声で夫に声をかけた。その声は私に丸聴こえである。それで彼の家での妻からの扱いが分かってしまった。だからそれ以降、その家には電話をかける気がしなかった。再会する気にもなれなかった。それは彼が38年間をかけて、積み上げた負の財産である。彼が退職した会社でも、その価値が分かるような気がした。

 

余命宣告

 私も今年、癌で余命宣告を受けて、死を身近に見て、人生の残り時間を意識させられた。死を意識するから、やるべきことが浮かび上ってくる。緊張感をもって生きることが出来る。日暮れて途遠し、を痛感させられた。

 

「人生の短さについて」   

 人生は短いわけではなく、我々は十分な時間を持っているのだ。ただそれを多くの人は空しく浪費しているだけだ。

 彼らに共通するのは、真に自分に属しているものに頼らず、彼らの権内にない外なるものをあてにし、それに依存していることだ。今を生きないで、未来のよい生活を夢みて今を犠牲にしていることだとし、そういう人間は生きているのではない、ただ生存しているだけだと断言する。 p 32

 

時間の浪費

 その原因はどこにあるのか? 君たちはあたかも自分は永久に生きられるかのように今を生きていて、自分のいのちの脆さに思い致すことは決してない。いかに多くの時間がすでに過ぎ去ったかを意識しない。時間なぞ無尽蔵にあるもののように君たちは時間を浪費している。そうやって君たちがどこの誰かに、あるいは何らかの事に与えているその日が、実は君たちの最後の日であるかもしれないのに。死すべき者のように君たちは全てを怖れ、不死の者であるかのようにすべてを得ようとしているのだ。      p 35

  中野孝次著『ローマの哲人 セネカの言葉』岩波書店2003年より

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  馬場恵峰書

 頂いた命をただひたすらに活かして生きる。そこから始めないと仏様のご加護も始まらない。命を粗末にして人生は拓けない。みほとけが求められているのは、命を最大限に活かして生きること。それが世のため人のためになる。そうしないと世の中の迷惑な存在に成り下がる。「一日一生」の心がけで生きる。

 

2019-08-27   久志能幾研究所通信No.1319  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。