l-五重塔を照らす智者の言霊 Feed

2020年4月29日 (水)

人生で最大の金儲け ~ 新型コロナ対策

 人生で最大の金儲けとは、病気にならない生活を送ること。

 そのためには、正しい生活をすること。

 それが「新型コロナウイルス」への最大の備えである。

 その基本は免疫力の維持である。新型コロナウイルスに感染した場合、免疫力が低下した高齢者の死亡率が極端に高い。その免疫力を維持するには、正しい生活が基本である。狂った生活、狂った食事が、免疫力を低下させる。

 

「個々の備え、病の芽摘む」

 (新型コロナウイルスの危機に)人類の英知で危機は乗り越えられますか。

 「薬が必用な状態になる前に、病気の芽を摘めるようにするための科学が重視されるべきだ。そのうえで、感染症の基本に立ち返り一人ひとりが先回りをして自ら備えをしておく。北里柴三郎先生が唱えた予防医学の考えかたとも一致する。

 特別に難しいことではない。身近なところでは、生活リズムをあらためる。きちんと食事をして栄養をとり、体力をつける。体調が悪いのに無理に仕事に出かけることはしない。そんな当たり前のことが大切にされる社会に、少しでも近づくと期待したい。」

    北里大学特別栄誉教授 大村智氏

    日本経済新聞 2020年4月28日

 

 要約すると、大村智先生は「新型コロナウイルス対策で、狂った生活、狂った食事をするな、正しい生活をしろ」と説明されている。

 

 同じ趣旨の事を南清貴氏は、ファストフードの危険性を、ビジネスジャーナルで警告している。

「ファストフードで免疫力が低下か…栄養素をサプリで補給せず、食生活を改善すべき!」

https://biz-journal.jp/2020/04/post_152632.html

 

 要は、ファストフードに代表される狂った食事が、諸般の病気の原因であると力説されている。その記事を下記に要約、編集した。

 

 筆者は以前から、免疫力にダメージを与えるのは、慢性的な炎症であると言い続けてきた。

 喘息などのアレルギー疾患は、いわば炎症反応がなんらかの形で表面に出てきて、それが免疫力低下の証とも考えられる。

 ある製薬会社の資料によれば、「ファストフードの摂取頻度が高くなればなるほど、喘息が重症化するリスクも増加する」。その資料では、

 喘息の重症化のリスクは、

 ファストフードの摂取量が週1回未満の人を1とすると、

 週1~2回の人の場合は1.09倍、

 週3回以上になると1.34倍になる。

 これはおそらく喘息に限定されず、あらゆるアレルギー症状にもいえると、容易に想像がつく。

 また、妊娠中の母親がファストフードを食べた場合、子供への影響についての報告がある。

 妊娠中にファストフードをまったく食べなかった母親を1とすると

 週1回食べた場合、子供が重症の喘息になるリスクは1.26倍、

 週3~4回食べると2.17倍、

 毎日食べてしまうと、4.46倍にまで高まる。

 これは母親だけの問題ではなく、父親にも多大な責任がある。

 これは、ファストフードが悪いという意味ではなく、ファストフードが食事のなかでの領域を広げると、摂取できる栄養素に偏りが出る恐れがある。つまり、ファストフードばかり食べていたのでは必要な栄養は摂れない。

                  南清貴

 

エピソード

 私が大村智博士の発言に惹かれたのは、先生の講演を聞いてから、先生の生き方に心服していたからだ。それから先生に関する著書も多数読んで先生の生き方に共鳴した。

 大村先生は2018年8月7日、大垣で講演会「私の半世記」をされた。そこで先生の人生指針「私の心得」として挙げられたのは、健康管理、一期一会、研究推進(社会貢献)の3つである。その頂点は健康管理である。

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P1110274s  大村智博士  2018年8月7日、講演会「私の半世記」

 ご縁があり、講演会翌日の朝食会場で先生と秘書の方と3名で一緒に食事をさせて頂いた。その折、先生に私の著書『馬場恵峰書で読む人生訓 五重塔を照らす智者の言葉』進呈した。お蔭で先生とツーショットの写真を撮らせて頂ける光栄に頂いた。

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2020-04-29 久志能幾研究所通信 1555 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2018年8月12日 (日)

第五段 生

生とは天からの授かりもの。生あるもの死は必然である。五段の「生」から四段、三段とカウントダウンをして第一段の「死」に向かう。カウントダウンの音が聞こえる中、我々は何を為すべきか。何を残すべきか

Photo_3  馬場恵峰書 五重塔の前面の和歌

 

生あるものの証し

 生あるものと、そうでないものの違いは何か。それは実践の有無である。実践できなかったら、それは生の状態ではなく、生き永らえているだけで、死を待っていると同じである。生きている以上は、生きて活動せねば、命を恵んでくれたご先祖に申し訳ない。

 病気、事故、祟りは、ご先祖の霊魂が子孫を想い、早く気づいて欲しいとのメッセージである。ご先祖が、かわいい子孫を虐めるわけがない。霊魂は自分では実行できないので、病気や事故で、早く気づいてほしい、己の代わりに実行して欲しいとメッセージを出している。己に降りかかる吉凶の現象を、ご先祖(神仏)のメッセージとして考えるのが、宗教である。宗教とは、己の宗家の元なる教えである。それは畜生にはできない人間だけの尊い祈りである。

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己を殺す死神

 できなかったのではない。やらなかったのだ。己の内なる守り神がやれると言っているのに、内なるもう一人の己が反対しただけだ。その一人の己とは、人生を殺す死神である。やることをやらないと、神仏は容赦なく、その人からやる能力を奪ってしまう。やらないと、できない理由が次から次と出てきて、できないという思い込みの洗脳教育を己に課す。それで一人の認知症患者が生まれる。己の死である。己の内なる死神に殺されたのだ。やらないという「選択」をしたのだ。誰のせいでもない。

 まず一歩を踏み出そう。千里の道も一歩から。それが「為せば成る 為さねばならぬ 成らぬ業を 成らぬと捨てる 人のはかなき」だ。

 

生きているから焦る

 下記は馬場恵峰書で、「せ」の踊るような優美な字体に一目ぼれで入手した。生きているから「焦る」のだ。どうせ、いつかは死ぬ運命。焦らず、一歩一歩、生きた証を残すことで、千里の道を歩いていきたい。余命40年(?)の残り少ない人生を大事に生きていきたい。

 漢字「焦」の上部は、多くの小鳥が集まった状態を表す象形文字である。その小鳥を下から火で炙るの意味である。小鳥とは己の雑多な欲望である。それを全て満たしたいと思うから、焦るのだ。

 希望を持ち実践するから、生きている。何もせず、棚ぼたを待つだけなら「死」も同然である。だからオダ仏教の教祖は焦って忙しい。

 

「南無阿オダ仏」

 私のオダ仏教のご真言は「南無阿オダ仏」である。真言宗の真言「南無阿弥陀仏」の「南無」とは梵語の音訳で、敬礼の意味で、帰依します、全てをお任せします、の意味である。「阿」は接頭語で敬称。「弥陀仏」は西方浄土の仏さまの名前である。

 私の真言「南無阿オダ仏」とは、自分の内なる声に従って行動します、である。豊田さんなら「南無阿豊田仏」である。自分の内なる仏を信じなくて、誰を信じるのか。変な新興宗教に走るから、人生を誤る。人生で迷っても、内なる声に耳を傾ければ、ご先祖様が、黙って導いてくださる。自分とは、この世でご先祖を代表して生きている存在である。自分はご先祖の希望を実践する執行役員である。そう自覚できれば、認知症などに罹っている暇はない。

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2018-08-12  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年8月11日 (土)

第一段 死

生は偶然、死は必然。 

死なくして生はない。

死があるから生が輝く。

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 馬場恵峰書  五重塔の正面の和歌

 

人生の結論

 人生の結論は死である。そこから始めて何を残すか、何をやるかを考えるのが人生設計であり、そこから死計の智慧が生まれる。若い頃は頭で薄々分かっていても実感の無かった死という結論が、あちこちと体に不調を抱える歳になり、お墓作りを通してはっきり見えてきた。

 人生の死計を考えない人は、スリラー小説みたいな人生を無為に送り、上り坂、下り坂、マサカの場面に遭遇して転落する。スリラー小説を読み、演劇を見るときは、初めから終わりへと頁をめくり、観劇をする。そのストーリーのクライマックスで、どんでん返しを見せられて狼狽する。そうならないように、死計を考えて生きていきたい。

 

人生経営

 会社経営では、終わりの目標から始めて、そこに到達するために、英知を尽くしてできる限りのことをする。テクニカルライティング上の文書作成でも、最初に言いたい結論を書くのが基本である。その文章の中身は、クライテリア(基準)に則って記述することが要求される。人生経営も同じである。自分はどんなクライテリアの基づき生きてきたのか。残された時間をどのように使うのか。

 

人生のデザイン

 人生のデザインでは、何のために生きるかというクライテリアがないと、人生設計図が完成しない。それでは死計もありえない。一番素晴らしい人生とは、死に臨んで、死計として従容として死に就くことである。よく働いた日が安らかな眠りを誘うように、計画を完遂した人生は、安らかな死を賜う。それはやるべきことをやり遂げた人への、佛様からのご褒美である。いつ死んでもよいように、今を一生懸命に生き、仕事をして、使命を果たす。

 

一念

 一念とは「今」の迷う「心」を一つにして、背中に我慢を背負い、右手にソロバンと左手に海図(理念・経典)を持って、明日は分からない命を抱えて生きることである。そのためには、命の運搬手段としての体に悪影響を与える事象を遠ざけるのが死計である。

 

余生なき人生

 余生とは、生きながらえている状態である。人生設計図に「余生」などという期間はない。最期まで現役であれば、余生など不要である。この歳まで無事に「歳を頂いた」のだから、そのお返しをご先祖とこの世にしなければなるまい。余生を送っている暇は無い。

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2018-08-11  久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年8月10日 (金)

第二段 苦

子供に地獄を見させる一番の手は、何不自由ない贅沢な生活をさせること。苦労を知らない子は、将来が地獄である。苦労があるから知恵がつく。

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馬場恵峰書  五重塔の正面の和歌

Photo_2  馬場恵峰書

人生道千曲がりでのご縁

 還暦を迎え、歩いてきた過去を振り返ると、人生道千曲がりの下り道でも、自分の修行としての下り坂で、頂上に上るためには通らなければならない道であったと、今更ながら運命の悪戯に感謝している。悪路を歩いている間は、目先の試練で五里霧中、それどころではない。しかし過去は、考え方を変えれば、その悪い経験が己の修行であったと、過去の見方を変えることができる。そうすれば自分の未来が変わる。過去を肯定せずして、自分の未来はない。

 

人智を超えるご縁

 逆縁の菩薩に出会わなければ、出会えない師とのご縁がある。新しいご縁は、縁あるもの死なくしては、生まれてこない。来る縁が良い縁か悪い縁かは、棺を覆ってからしか分からない。良縁も悪縁も全て己が招いた因縁で、それの因果を解釈する姿勢が重要である。どう対応するかは対処療法で些細なことである。来た縁が良いものにするように向き合うが正しい根本療法である。来る縁に善悪はない。全て選択と解釈の問題である。悪縁と見えても、その後ろの良縁が隠れていることが多く、人智では計り知れない。選択不能の事項なら、受け入れるしかない。それに無駄な抵抗をするから地獄を見る。不幸の時は、不幸を楽しめばよい。死ぬ時は死ぬがよい。それも人生である。還暦でやっと悟れた境地である。

 

欲というフィルター

 「老」には「結ぶ」という意味がある。親子が生物の発展の形である。物事は結ぶことで生成発展する。結婚しかり、合併しかり、異質なものが結び合うことで新しいものが生成される。それを「化成」という。ニンベン「イ」は背の伸びた若者、「ヒ」は腰の曲がった老人の姿である。親子が結ばれて新しい価値が生まれる。それが「化」の意味である。

 己とは異質の人が福を運んでくれる。時に、人の本気度を試すために、福の神が貧乏神の全く逆のコスプレで来るときもある。老心は百面相である。老心は異質なものの昇華体である。だからその衣装に騙されないようにしよう。人間界の投影が神の世界である。神の世界もコスプレが大流行である。神には、裕福も貧乏もない。それを決めるのは人間の欲というフィルターがかかった目である。来る人が貧乏神に見える時は、目が曇っている時。目が曇っていては、真実が見えない。そんな状態では、人生時間も稼げない。

 

心眼の病気「欲内症」

 人が罹る目の病気に白内障、緑内障がある。心の目が罹る病気の一つが「欲内障」である。良くない症状である。これは手術では直らず、火葬で灰にならないと消えない。禍があるから福が光る。人生の禍福の合計は、人生と言う長い尺度では差し引きゼロである。「不遇な時期は、人生の蓄財の時。自己充実を図れ」が佛様のメッセージである。

 

2018-08-06  久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年8月 9日 (木)

第三段 病

病は生あるものに、何が悪いか教えてくれる佛さまからのメッセージである。病は命にも限界があることを思い知らせてもくれる。病を頂くのもご縁。佛さまからのメッセージご大切に。

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馬場恵峰書  五重塔の正面の和歌

 

組織の病

 人が老い、病み、死があると同じように、人が作った組織も、老い、病み、死がある。その組織の自己崩壊を防ぐために、組織の長には任期がある。民間企業の社長なら一期2年、二期4年が常識である。行政の長は1期4年である。せいぜい2期で8年が健全な寿命である。 

 それが小川敏大垣市政のように5期20年も居座る状態になると、組織が澱み、腐臭が漂い、組織活力が消滅する。それは、人が老い、病気になるのと同じ自然の理である。結果として、大垣市がガン細胞に侵されるように自然衰退した。それは生命体の細胞が異常分裂・暴走を始め、止まらなくなったと同じ現象である。その組織にガン細胞が生まれたのだ。

 だから、子供を酷熱の炎天下に放置する行事を開催しても、大垣教育委員会も市議会も商店街実行員会も知らんふりである。行政に忖度の地方紙も見て見ぬふりである。大垣駅前商店街活性化の政策が間違っていても、行政はPDCAを回さない。ヒラメ職員の横行で、市政が澱むばかりである。行政が大垣市制100年記念行事で税金を使い放題にして、条例でその使用用途の公開をマル秘扱いにしても、それが異常であると理解できない。行政のチェック機構である市議会も市長と結託して暴走している。関係者は、誰もそれを異常だと思わない。それこそが異常である。

 

耳順う

 自分で自分の暴走が止められなくなったら、周りが止めるしかない。人は還暦にもなれば、「60にして耳順う」と、人のいうことが素直に聞ける心境になる。それが成長した「老」の状態である。

 それから観察すると68歳の大垣市長はまだまだ幼く、人の諫言など聞く耳を持たず、傲慢の病に侵されている。天は、ドローン墜落人身事故や室村町アンダーパス水没事故、大垣駅前商店街の衰退、高屋町の公示時価下落で警鐘を鳴らすが、小川敏市長は目も向けない。

 還暦とは実社会で辛酸を舐め、世間がわかってくる時である。己の暴走、うぬぼれに諫言する人がいて、はじめて人間になれる。それが、長期政権となり、ヒラメ職員ばかりに取り囲まれ、独裁的に君臨すれば、人は成長できない。

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吾十有五にして学に志す。

三十にして立つ。

四十にして惑はず。

五十にして天命を知る。

六十にして耳順(したが)ふ。

七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず

『論語為政扁』

[口語訳]

「私は十五歳のとき学問に志を立てた。

三十歳になって、その基礎ができて自立できるようになった。

四十歳になると、心に迷うことがなくなった。

五十歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できた。

六十歳になると、人の言うことがなんでもすなおに理解できるようになった。

七十歳になると、自分のしたいと思うことをそのままやっても、 人の道を踏みはずすことがなくなった」と。

 

2018-08-09  久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年8月 8日 (水)

第四段 老

 人生での「老」とは成長という意味である。老には良い意味がある。大老、長老と経験を積んだ大人には「老」という敬称をつける。

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 馬場恵峰書  五重塔の正面の和歌

 

命の開発(かいほつ)

 還暦とは、倒産しそうになった自分株式会社の立て直し、リストラクチャリングの時である。捨てるべき荷物を捨て、必要な資材を選択して積み込む時である。まず自分の体のメンテをしなくては、命の開発はできまい。

 人は37兆個の細胞から作られている(以前は60兆個と言われていたが、最近の研究で改められた)。その全細胞の支配者が自分自身である。人はその細胞から作られる各器官の集合体である。八百万の各器官という仏様の命をどう開発(かいほつ)するかが、自分に課せられた課題である。開発とは、生きとし生けるものが本来持っている特性を開いて開花させる。それが仏教用語の「開発」(かいほつ)である。その細胞一つでさえ、最新の科学技術でも、生み出すことができない。それが37兆個も集まって一人を構成している。神仏の神秘さを感じざるをえない。その神仏が宿る臓器には、個体差があり寿命に差がある。その開発した才能の寿命を認識するのが、統括司令塔として自分の魂の役目である。生まれた才能もいつかは死を迎える。死なくして、新しい命は生まれてこない。それを踏まえて、自分は何を開発するかが問われている。

 

人間の尊厳

 我々は多くの自己の持つ才能を生殺しにしている。その個々の才能も開発さすべき時期の見定めの大事である。肉体的青春の命は若い時だけである。その時の才能は自然発生的に生まれて開発の苦労は少ない。しかし時期を過ぎての開発には苦労が伴う。命の賞味期限は有限であるが、加齢してこそ開花する才能も多くある。青春が終わり、死にゆく器官を認識して、残された才能を開発することに目を向けたい。それを追い求めるのが、人間の尊厳としての義務である。

 

生きる修行

 私の目の水晶体の寿命は終わってしまったが、医学技術の進歩のおかげで、人工の水晶体に入れ替える白内障手術で視力を取り戻すことができた。感謝である。取り戻すことの出来ない器官は、そのことを受け止めて、それでどう生きていくかが、人生の課題である。失ったものを嘆いても返っては来ない。「まだ残る未知なる才能の開発をせよ」が佛様の御心であろう。人生は、死ぬまでが持てる命を育てる修行である。

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 馬場恵峰書

 

2018-08-08  久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年1月18日 (木)

一本道を歩く

 人生とは、バイキング料理店と同じである。多くの料理の皿を目の前にして、何を食べようが食べまいが、どれだけ取ろうが自分の自由である。その代金は、自分の「果断から始める行動」という対価で支払えばよい。

 人生とは、ごまんとある人生道(仕事、諸芸、宗教等)の中から一つの道だけを選んで歩むこと。どれだけ道が沢山あっても、選べるのはせいぜい二つである。その一つを選んで歩み始めても、横道に美味しそうな道が誘惑するが如くに現れては消えていく。それに足を踏み出しそうになるのを我慢して、脇目も振らず歩むのが正しい人生である。その誘惑に負けると、人生をさ迷う徘徊者に落ちぶれてしまう。隣の芝生が青く見えるのは、欲目症候群に罹っているからだ。

 「この道より外に我を生かす道なし。この道をあるく。ただひたすら一本道」を心に刻んで、心眼をもって行く末を見つめて歩みたい。道を選ぶ前の前提として、バイキング料理店に入るなら、せめて上流のお店に入れるように精進をしたい。下流のバイキング料理店では、人生の腹下しを起こす。少にして学び、良い学校に入ることは、人生成功の保証にはならないが、壮での活躍の場に恵まれるご縁がある。壮にして学べば、老いて衰えず。下流の徘徊老人に落ちぶれることもない。老いて学べば、死して朽ちず。そうすれば後進を導く学びの舗装道路を建設できる。

 

チェリスト ウルフさんの道

 ドレスデントリオのチェリスト ウルフ・プレーレさんは、5歳から楽器を始めて12歳の時、チェロを弾いていて雷に打たれたような衝撃を受け、チェリストになる決意をしたという。彼はそれ以来、ひたすら音楽一本道である。アメリカのサール カルテットで研鑽を積み、ベルリン・フィルハーモニーのカラヤン・アカデミーで研鑽の後、室内管弦楽団、バーゼル交響楽団を経て、1992年よりドレスデン・フィルの第一ソロ・チェリストを務めている。彼は現在、ドレスデンのカール マリア フォン ウエーバ音楽大学でチェロ、教授法、室内楽の教育に携わっている。

 私は来日中のドレスデントリオに8日間、密着撮影をして、音楽にかける彼らの真摯な姿勢に感銘を受けた。そのウフルから面白い話を聞いた。彼が小さい頃、音の感性テストを受けた。高い音と低い音の感性を調べるテストで、高い音に感性が高い人は、チェロのような低い楽器が合い、低い音に感性が高い人は高い音域のバイオリンのような楽器が適しているという。だから彼はチェリストになったという。

 音の感性と逆の対応で興味深い。悪の感性が高い人が、聖職に就くようなものかもしれない。

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 チェリスト ウルフさん   金山スタジオにて リハーサル 2018111

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 予約してあった書画が手違いで人手に渡ってしまったので、新規に先生に揮毫していただいた。こちらの方が、出来が良くハッピーでした。

2018-01-16

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2018年1月16日 (火)

選択と決断

 産業革命が起きて200年が経ち科学技術は発展したが、人類は細胞一つ作り出すことが出来ていない。その細胞が37兆個からなる人間と言う存在は、佛といわざるを得ない。己は人体と言う曼荼羅の中で、中心に位置する魂の存在である。己を支えてくれている37兆個の佛に感謝をして生きていたい。

 2014年11月29日、お酒を飲み意識を失って救急車を呼ばれたというご縁は、佛様からのメッセージとして真摯に受け止めて禁酒を決断し、体の精密検査を受けることにした。

 

経営者の仕事

 経営者の仕事は決断である。即決でなくてもよいので、早い時期に決断をすること。最大の過ちは決断をしないこと。決めれば何かが動く。間違った決断は、佛様がその結果を教えてくれる。間違っていることが分かれば、軌道修正すればよい。決断をしないと軌道修正も出来ない。決断をしないと佛様もご加護しようが無い。

 前職の会社の経営者はその決断ができず、65年続いた会社を消滅させた。吸収合併されて、多くの人が悲哀を味わった。経営のトップが名門校卒だから、それが頭がよい証明にはならない。また決断力があるわけではない。会社を消滅させたのは、優柔不断なトップが招いた悲劇である。政治行政でもトップに正しい選択眼、決断力が無いと、市を衰退に導く。大垣市のように。

 

決断

 決断の「決」は水(さんずい 氵)が堤防(ユ)を切り裂いていく様を表している。自分を取り巻く固定観念壁(堤防)や障害を切り裂かないと前進は出来ない。

 人は一日に20回の決断をするという。コーヒか紅茶か、魚料理か肉料理か、A案かB案か、その縁に乗るか乗らないか等の選択は、毎日迫られている。人の意思は、今までの慣性で回していた決断の人生惑星という軌道上にある。その軌道から慣性力に打ち勝って新たな軌道へ移るには大きなエネルギーが必要である。人生60年間に約44万回もの決断をして、かつ同じような決断を日々繰り返しているため、その考え方が強固になっている。これが固定観念である。だから老人の頭はカチンカチンの固定観念で凝り固まっている。約44万回もの決断の訓練をして強固にした固定観念を打ち破るのは並大抵のことではない。その固定観念の堤防を破り、新しい道に進むのが決断である。決断が新しい人生を切り開く。

 

選択と責任

 選択とは、2つの選択肢から1つを選んで、進むべき道を決断すること。一方を選択すると、片方は切り捨てる事だ。それに対して、選択肢の両方を選び、決断を曖昧にするから道に迷う。すべて己の責任である。

 「色もなく 香もなく 常に天地は 書かざる経をくり返しつつ」(二宮尊徳)とその選択肢は、天地(あめつち)が奏でる経のように目の前に現れては消えていく。その経とは目の前に現れるご縁である。それは世に満ちている。出会うご縁に色香はない。それに色を付けるのは、己の利己慾・業欲・権力欲・色情である。素直な眼で見れば、正しい判断ができるが、偏向した色眼鏡でみれば、色のついたご縁として目の前に写り判断を誤り、偏向した決断となる。すべて己の責任である。

 人が助けて欲しいとメッセージを発信しても、相手には利己慾・金銭欲で染まった目には、煩わしい雑音にしか聞こえない。そのメッセージを取り逃がすことで、「蜘蛛の糸」というご縁が切れる。その糸は二度とつながらない。人の世は義理人情・報恩感謝で絡み合っている。合理的に選択・決断する世渡り上手な人は、合理的にしか生きられない宿命を背負う。そういう人とは縁を切らないと、己の人生が豊かにならない。

 この年初のドレスデントリオのニューイヤーコンサートの運営では、多くの人のご援助を頂いた。この場をお借りしてお礼申し上げます。

 

わが道

 利己慾・金銭欲・権力欲で染まった衆生の言動に煩わされず、私は己の道を、迷わず あせらず 胸を張って 心に刻んで 歩んでいきたい。

 

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2018-01-16

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2018年1月15日 (月)

為写経が奏でる「美しき青きドナウ」

為写経のご縁

 ご縁があり、平成27年、自家のお墓の改建をすることが決まった折、父の末弟の小田五郎に「護國院」という立派な院号を長松院住職様から付けていただいた。小田五郎は昭和19年にビルマで戦死された英霊である。また元の戒名が戰勲至誠居士であるので、吉田松陰が好んで使った「至誠」であるのも因縁である。その一連の過程で、小田家先祖代々諸精霊の位牌を作るとよいと長松院住職様からのアドバイスを受けて作成した。

 その位牌を納めに来た横田仏壇屋の奥様から、為書きの写経をお墓に納めると良いという助言があり、早々に写経を始めた。書いているうちにそれならお墓に入っているご先祖様全員の為写経をしようという気になり、全33名分の写経をする大変なことになった。平成27年8月15日から始めて、11月29日のお墓の開眼法要までに百十余枚の為写経を終ることができた。これも以前に、知己塾で恵峰先生より「般若心経の写経をすると書道の勉強にもなる」と言われて、その教材を入手していたため、直ぐに取り掛かれることが出来た。それもご縁である。

 

為写経から生まれたご縁

 般若心経の一字一字を慎重に書いていると、その意味するところが伝わってくる。書いてこそ、その経の意味が理解できる。それが分かったのも大きな功徳であった。その功徳のお陰?で、お寺から来た年忌の連絡書で、ご先祖の戒名に違和感を覚えたのが、過去帳と位牌の戒名の齟齬の露見につながった。位牌と墓誌の改建をすることになる騒動となった。それも何回も為写経で戒名を書いて頭に染み込んでいたので間違いに気が付いた次第である。

 馬場恵峰先生は、今までに一万五千文字の写経をされたという。先生でも一枚の般若心経を書かれるのに二時間を要するという。それも斎戒沐浴をしてからの写経である。ご縁があり、先生の書の写真集を出版することで、先生の書を撮影している。これもご縁である。

 

なぜ為写経をするか、なぜ仕事をするか

 お経を書くことは、ご先祖の供養をする行為となる。それがご先祖へに一番の供養である。口でいくら唱えても、書いて供養する行為には及ばない。

 お墓の開眼法要以降も、毎日為写経を続けている。来る日も来る日も写経を続けていて、写経と仕事の関係に思いを馳せた。同じ写経をしていても、前日と同じ字が書けるわけではない。毎日、少しでも前日よりも良き字で写経ができるように取り組んでいる。日々新たなり。

 自分の仕事でも同じである。毎日、仕事をしていても出てくるアウトプットは日によって違う。その違いを日々レベルアップさせるのが仕事である。全く同じレベルが継続するなら、それは作業である。仕事である以上は、創造がないといけいない。

 仕事とは祈りである。仕事をすることで社会への貢献となる。まわりまわって社会への奉仕となる。橋作り、道路作り、医療行為、演奏活動、全ては社会が幸せになるための活動である。現世の人たちが幸せになるために活動である。人々を幸せにした量に比例して報酬がある。それが仕事である。人に喜び、付加価値をあたえない作業は、仕事ではない。それは単なる物理的な仕事量でしかない。その仕事も成長がないと意味がない。

 

「美しき青きドナウ」にかける想い

 音楽を楽しむのは趣味ではあるが、演奏家にとって曲を演奏するのは、社会の人々に喜びを与える奉仕活動としての仕事である。仕事である以上は、創造が必須である。2018年1月、ドレスデントリオが来日したおりの演奏曲目の一つにヨハン・シュトラウス2世作「美しき青きドナウ」が演奏されたが、その演奏のリハーサルでもビオラのアンドレアスが譜面にメモを記入している姿に疑問に感じ、質問をした。「今まで、なん千回も何万回も演奏、練習をしたはずの古典のこの曲で、何を今更メモを書き入れることがあるのだ?」

 アンドレアス曰く「どんな曲でも、毎日、毎回、新しい発見がある。リズムが違い、テンポが違い、環境が違い、聴く聴衆が違い、我々も昨日と同じレベルではない。そこに新しい取り組みのインスピレーションを感じて、新たしい創造の音への挑戦が生まれるのだ」と。

 「美しき青きドナウ」も、国民にとってはお経と同じ位置付けかもしれない。美しい国土・河川を歌い、その恩恵に感謝の念を捧げ、永遠の国家の存続を祈念する「お経」なのだ。そのお経は時代と共に進化している。

 我々が作り出す仕事の作品も、人々に幸せの一助にある形を提供する。その多くの形が集って社会に幸せを提供している。自分が担当する仕事とは、社会の幸せを祈念するお経なのだ。そのお経には、日々の創造が必要とされる。

Photo

Dsc04094  鉛筆を握りしめるアンドレアス

2018-01-15

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

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2018年1月 6日 (土)

人生の基本姿勢

1.なりきる

   しっかり自分を見つめきる。男になりきる、女になりきる。

   統合されたあり方で、志、夢を持って生きる。   

2.やりきる 

        何事も中途半端にやると、画竜点睛を欠くことに

3.捨てきる  

        自我没却  

    小事を侮らず 大事をおそれず。  

    気配り 目配り 心配り

4.生ききる

   生ききるのが生命の責任である。

        ご先祖から頂いた命、その命を全うしてこそ天寿である。

 

 「きる」というのが要点である。中途半端にしか、ならず、やらず、捨てないから、中途半端な成果しか生まれない。人生の成功者になりきることである。己は何に生まれたのか。そのお役になりきらずして、成仏はできまい。優柔不断な己の心を切るのが大切。

 行動は心の発情である。バレエも、己の心の表現である。心の内面を最大限に表せば、腕が、手が、指が、体が極限まで伸びきって、人の動きを最大限に美しく見せる。人生はバレエ舞台なのだ。人生舞台で踊る以上は、美しく踊りきりたい。バレエダンサーになりきらないと、観客の神様を満足させられない。神様を満足させればご褒美がある。

 まず一歩を踏み出そう。それが「為せば成る 為さねばならぬ 成らぬ業を 成らぬと捨てる 人のはかなき」だ。

 

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図2 恵峰書「迷って百年、悟って1日」の言葉に惚れて入手した。

本原稿は、馬場恵峰師の新潟講演会(2017年4月9日)の講話内容をヒントに構成しました。

2018-01-06

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