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2024年6月17日 (月)

よしりん教徒、戒律破りで龍神の怒りをかう

 

 よしりん教では、小麦、砂糖、植物油、超加工品(添加物)が四大ご禁制品である。

 よしりん教徒とは、吉野敏明医師のYouTube配信「体と心と魂の健康」動画を熱心に見る視聴者のことである。私もその動画にハマっている。

 吉野敏明医師は、ご禁制食品の危険な理由を、歴史的背景、医学的理由、政治的理由を踏まえて説明してくれるので、納得してしまう。私もこのご禁制品は、今まで久留米市の真島クリニックの真島院長からも食事療法の指導を受けていたし、本で読んで理解をしていて、摂らないようにしていた。しかし吉野先生は、その深い理由までを詳しく説明される。私はこのチャンネルのファンになった。 

 

 私はよしりん教の真面目な信徒として、その教えを忠実に守っていたら、体がそういう体質に変化(正確には健全な体に戻った)したようだ。その体で、久しぶりにご禁制品を食べたら、見事にお腹が緩くなった。体は正直である。体が異常な食品を排除しようと動いたのだ。悪いものを食べてお腹が緩くなるのは、体の自己防衛機能が正常に働いたのだ。それこそが自然の摂理である。

 ヒトの腸内には約1000種類、100兆個にも及ぶ腸内細菌が生息してる。悪いものを食べて、その腸内細菌が暴れるのが、龍神の怒りである。大自然(宇宙根源)の天変地異の暴れを昔の人は龍神が怒ったといった。

 今回、大規模小売店舗で「油を使っていないお弁当」という宣伝に釣られて買ったお弁当が、実は添加物だらけであったことで、起きたお腹の不調であった。大規模小売店舗で売られている食品は添加物に要注意である。

 

 龍ケ丘、九頭竜川等の龍の名のつく地名は、川の氾濫や土砂崩れ等の災害があった場所である。先祖がこの土地には気を付けろと名付けた地名である。そこで災害に会ったら、危険な場所に住み着いた人間方が悪いのだ。

 龍とは自然界からの警告である。神仏の警告を「龍が怒った」と表現するのだ。それは大自然を崇めていたご先祖の知恵である。

 

 人間はその大自然の小さな一部である。その人間の体内も大きな宇宙である。その人間が、悪いものを食べれば、内臓に嵐が巻き起こり、下痢をする。当たり前の宇宙根源の理である。下痢をすれば、何故なぜを5回繰り返し、その原因を突き止めるべきだ。神仏が悪い食品を教えてくれている。

 

 正しい生活、正しい食生活をしていれば、腸内細菌(龍)は優しく、自分を守ってくれる。そんなイメージを思いおこさせる「祈り」(2023年作)という銅版画(長野順子画)を岐阜の画廊「いまじん」から昨日(2024年6月16日)、入手して家に飾った。

 

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   「祈り」 銅版画 長野順子画 

      龍は祈りの対象

      西洋のドラゴンは化け物だが、東洋の龍は神さまである。

 

 

2024-06-17  久志能幾研究所通信 2866号  小田泰仙

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2024年5月24日 (金)

巡礼 早矢仕清貴展 2.4次元色彩水墨画 in Sagan

 2024年5月4日(土)~5月27日(月)

  11:00~17:00(水曜・木曜日は定休日)最終日は16:00まで

  岐阜市川原町 Gallery Sagan

 

 

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2.4次元色彩水墨画

 私は世界の美術館の70館以上を回って、世界の絵画を鑑賞した。その中には多くの種類の絵がある。その私でも、早矢仕さんのような画風は初めてである。早矢仕さんは新しい世界を切り開いたようだ。私は早矢仕さんの絵のカテゴリーを、「2.4次元色彩水墨画」と定義した。

 

二次元に次元ダウン

 水墨画では線で物体の輪郭を表現するが、早矢仕さんの絵は、輪郭なしで色彩の塗り込みだけで形を形成させている。立体的な風景をなるべく2次元にする形で表現されている。それでいて空間の広がりを感じる。二四が八で、八方の空間をイメージさせる画風である。まるで禅画のイメージである。

 我々の回りは全て三次元の姿が取り巻いている。それを絵に表すために、画家は遠近法等の手法を用いて三次元の姿を2次元の平面に無理やり押し込めて表現している。そこに無理があるが、それを自然体で遠近を無くした平面的に表した絵である。いわば2.4次元の油彩の水墨画である。まるで幻想的な哲学の世界である。

 西洋の絵は、3次元で詳細に書き込んで仕上げていく。早矢仕さんの絵は、その逆で現実を抽象化させた絵である。

 

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雪舟との接点

 早矢仕清貴さんの作品を見て感じたことは、雪舟の水墨画の印象である。写実的に書かれてはいるが、よく見ると現実から逸脱した画風である。

 早矢仕さんの画く風景画の一部の表現は、水墨画のように一筆で書かれている。絵は油彩ではあるが、ごてごてと塗りたくってはいない。古びた水墨画が、カラーで復刻された写真を連想する。その一筆一筆が計算尽くされた表現となっている。それが水墨画を連想させられる。

 

ひと筆画きをする痕跡

 それを表現するために、4枚も描き直して完成させた作品も展示されている。4枚も書き直さねば、自身で納得できなかったのだろう。たかが一筆、されど一筆である。重ね塗りをすれば、その水墨画のような雰囲気がなくなってしまう。作者のこだわりである。1枚の絵に4枚分の労力がかけられている。

 その多くの絵は、一度書いてみて、途中で筆をおき、時間が経ってから、新しいインスピレーションを得て、それを基に最初から書き直して完成させると言う。

 

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 建屋の窓や戸が一筆で描かれている。まるで水墨画である。

 これを完成させるため、4枚も書き直している。

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広がりを感じる圓

 絵の形は、ほとんど正方形である。正方形は円を連想される。禅画のイメージである。それは森羅万象の宇宙を連想させられる。長方形だと水平線を意識して、豊満な宇宙の円の連想を邪魔する。

 

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  フラッシュを焚いた時の一瞬の情景を描いている。幻想的である。

 そのため陰影が白黒だけになり、禅的な雰囲気がある。

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 タイトルは「3tree」 である。

 陰で3本目の木を表現して、空間の広がりを表している。

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 一度描いて未完成であった絵を、新しいインスピレーションを得て書き直したという。

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臨終の際に見える眼

 私が肖像画を観る時の大事な観点は、その眼の表現の在り方である。モジリアーニの顔は引き伸ばされ、目は白目を見せている。それは自分内部を見つめている目である。また過去の姿を思い起こさせる絵でもある。私は、きりっとした目つきの肖像画が好きだが、早矢仕さんの描く肖像画は、己が瞑想にふけり、眼のピントを合わさず、敢えてボケた映像の顔を眺めている。

 その顔の表面には強い光が当たって、顔表面の凹凸が消え平面的な表現の二次元の顔になり、輪郭だけが強調されている。そこに自分の内面を見る眼を感じる。不思議な魅力的な目であり、顔の表現である。臨終の際、走馬灯のように過去の情景が頭を駆け巡ると言われる。それを思い起こさせる顔である。

 

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2024-05-24  久志能幾研究所通信 2861号  小田泰仙

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2024年5月22日 (水)

ご縁の交差点、ご縁は「場」に舞っている

 

 良き縁(運)を手に入れるためには、多くの縁が行きかう交差点に行けばよい。そこへ行くと、良きご縁に出会える確率が高い。家に閉じこもっていては、ご縁には出会えない。多くの縁の出会いの中からご縁が生まれる。

 人の共用の場が、人生を開く。人生には教養と教育と供用が必要だ。今日の用と今日行くところである。今日行くところが供用の場である。その場所の縁は玉石混交だから縁の真偽を見分ける力も必要だ。中には詐欺の縁もある。

 

101個目

 よいアイデアを出す場合でも、数多くの案を出して、その玉石混合の中からダイヤモンドが発見される。真のアイデアは101個目に出てくる。

 人とのご縁も出会う人の101人目にやっと出会える。出会える数が少ないと、縁を見分ける眼力も付かず、出会う前に諦めてしまうから、よきご縁に出会えない。出会えるまで、出会いの機会を作るのだ。出会いは足で稼ぐ。脚縁である。私はそうしている。 来るご縁は拒まず、去るご縁は追わず、である。

  高齢者よ、ボケ防止でスクランブル交差点の雑踏を目指せ

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地方の名人は井の中の蛙

 江戸時代、地方で名人といわれる剣術家は、江戸の一介の町の道場主には勝てないという。それは江戸の道場には道場破りが頻繁のおとずれ、他流試合を強いられるからだ。それで腕を磨かされている。地方の名人は井の中の蛙である。地方ではその機会が少ない。だからこそ出会いは足で稼げ、脚縁を作れ、である。それこそがご縁の出会い創出である。

 

ニュートンの第一法則

 良きご縁に出会うには、動き回り、喋りまくり、ご縁の出会いを多くするしかない。止っていては永遠に止まっている。動いているものは何時までも動いている。ニュートンの第一法則である。停滞を打破するために、加速度を付けて動き回る。それが人生を切り開く秘訣だ。

 

ご縁の交差点は画廊

 最近発見したご縁の交差点は画廊である。特定の会では、特定の人としか交流がない。それに対して画廊はご縁のスクランブル交差点となっている。そこで作家に出会える。その作家には、多くの弟子やファンがいる。その人たちが展示会場の画廊に訪れる。私もそこで多くの人に出会って、良きご縁をいただいた。岐阜川原町 Gallery Saganというご縁の交差点を発見できて良かったと思う。

 例えば、そこで出会った作家渡辺さんに出会って、スウェーデン協会とのご縁が出来た。渡辺さんは魔女の人形を作るの作家である。

 

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 馬場恵峰書   素材は桧の鉋屑を色紙に貼って作成

  いずくかの来たり去り行く 人の道

    縁の恵みは 人生の寶なり               2015年頃の書

 

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 Gallery Saganで入手  渡辺さんの作品

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2024-05-19  久志能幾研究所通信 2860号  小田泰仙

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2024年4月25日 (木)

巡礼 蒼の会展 絵は歴史を語る in 十六銀行

 

 「蒼の会」の日本画展が十六銀行岐阜本店のロビーで開催されている。4月26日まで。

 

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 「蒼の会」の看板の書は、原田観峰師の流れをくむ方の書である。

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「珈琲」
 なかなか力作そろいの日本画展である。その中で、福田さんの画かれた「赤い扉の珈琲館」の中の「珈琲」の文字に惹かれた。文字の一つにも歴史があり物語がある。「珈琲」の文字は、大垣藩の学者が創作した。大垣の人間として嬉しくなった。

 

久志能幾研究所通信

「大垣藩出身者が「珈琲」文字の発明」

 

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 聞けば、大きな絵は、一回の展示会に出品するだけで終りではなく、後日、また手を入れて完成度を上げていくという。師の指導でも、まだ手を入れる余地があるとのこと。絵も展示会毎に日々成長している。

 「赤い扉の珈琲館」は福田さんがコーヒーショップの門の唐草模様に気に入って描いたという。「赤い扉」がテーマであるから題名は、「珈琲館の赤い扉」が良いと思う。「赤い扉」がテーマであるから、現在赤が少し沈んで見えるから、もう少し赤が映えるように表現すると良いと思う。

猫の絵 

 猫の絵を描いた人は、全て家で猫を飼っているという。絵に猫への愛情が表れている。愛情がないと本当の猫の絵は描けまい。私も猫が好きだから、その愛情がよくわかる。

 

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額縁は衣装

 同じ既定の大きさの絵をシリーズで展示して各作家で同じ額縁で揃えていた。その中で、ある作家はこだわりがあり、敢えて他と違った額を用いて展示している。額縁は、ある意味で、絵の衣装である。額縁で絵の印象ががらりと変わる。額縁による変化のよき実例を見せてもらえた。

 ある画廊で、ある物故作家の個展が開かれていた。展示の絵の全てが同じ額縁で揃えられていた。その日本画の全ては素晴らしい出来だが、全て同じ額縁であったので、違和感を覚えた。まるで制服を着ているようだ。芸術作品に似合わない。その絵に合った額縁を選ぶのが良いと思う。額縁はその絵の着物である。それに気づかさせてもらえて、感謝である。

 

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2024-04-25  久志能幾研究所通信 2853号  小田泰仙

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2024年3月16日 (土)

巡礼 古田直文個展 「背徳フリル」 in White Cube

 

 古田直文個展「背徳フリル」が名古屋 ホワイトキューブで開催されている。

 会期 3月7日~3月17日  13:00~19:00(最終日は17時まで)

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感性

  芸術家は感性が勝負である。私は、古田さんの「背徳」というネーミングに惹かれた。布を堅く縛って形を造形する。それを「背徳」という表現をした古田さんは、センスが卓越している。

 よくよく古田さんの名刺を見ると、「服飾美術家」とある。ファッションも芸術の一つである。その最高峰がパリファッションショーだろう。そういう素材(布)と使い、感じたことをポップアート風やオブジェとして形にする。それも面白い芸術活動だ。

 

 その作品の中で、ネコちゃんのオブジェは圧巻である。可愛いような怖いようなネコちゃんの目である。服飾のフリルをネコに表現したアイデアは敬服する。

 下着に色を染めて、その染具合の差がオブジェとして表現したのは面白い。どんな洗脳でも、人により差が出る。それを表現したのかもしれない。芸術作品は、作家よりも、見る方がどう受け止めるかである。私はこの作品で洗脳を思いついた。

 

ご縁

 古田さんはパリで開かれたジャパンフェスティバルに中島法晃さんと一緒に活動をされたという。私がSaganで中島法晃さんの龍を手に入れたご縁とつながって驚いた。

 以前にこのホワイトキューブで、中島の作品展を見て、中島さんに興味を持ったご縁がある。ご縁はあちこちにころがっているようだ。

 

 古田さんと話が弾んで、私の家に両親が使っていた足踏みミシンを保存してある話をすると、それは貴重だから決して捨ててはいけないという。私もそのミシンは両親の形見だから捨てる気は全くない。断捨離などしては、親の思い出と親のご恩、自分の人生記録を無くすことになる。この足踏みミシンで両親は内職をして、私を育ててくれた。芸術家と足ふみミシンの話しをするとは、奇縁である。

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 阿修羅像を連想した。

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      気配      古田直文作   White Cube蔵

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 両親が使っていた足ふみミシン 製造は約80年前と推定

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2024-03-15  久志能幾研究所通信 2844号  小田泰仙

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2024年3月 6日 (水)

巡礼 長野順子 銅版画展 龍の在処

龍が舞う幻想の世界、龍は「自然神社」の巫女

 

長野順子の銅版画展が、岐阜の画廊「いまじん」で開催されている。

 

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自然の恵み

 その版画を見て、龍の存在を通して大自然の偉大さを改めて見直し、畏敬の念を新たにした。

 花が咲く。それは龍が花を運んできてくれたのだ。龍は大自然が遣わした巫女の化身である。大自然が春夏秋冬、生老病死の世界を演奏している。その姿を長野さんは絵にした。

 

 大人は夢物語で、子供たちに危ない場所に近寄らないようにと、河童や鬼の話をして、危ない川や夜の山、夜の森に近寄らないようにした。嘘も方便である。大人が怖い話をするが同時に夢の世界も語るので、子供はそこに幻想的な夢をみる。それを具現化した絵を、長野順子さんは銅版画で表現した。

 

 

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  風光る    龍が季節の花を運んでくれる

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  森へ行きましょう  森の精霊たちと遊ぶ

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 冬の寒い朝、地中に潜んでいた精霊が地表に星屑をまき散らし、龍がそれを飾り付けをする。冬のシャンデリアである。夢見る少女には、その舞を見て、至福の時を満喫する。メルヘンの世界である。

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  星屑の贈り物

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大地の鼓動

 地震が起きた。それも大自然が生きていて、地殻が生命活動をしている証しである。地震の被害に遭うのは、日本に住み着いた日本民族の宿命である。宇宙根源の理からは、地震は単なる自然界の一現象である。一事象には何の善悪もない。

 地震の被害に遭いやすい土地や川の氾濫にあう土地に「勝手に」住み着いた人間様が悪いのだ。大昔に大地震が起き、大津波が来て、ここまで津波が襲ったという記録を先人は残してくれた。大雨で川が氾濫する土地には、龍ヶ丘とか、龍の名をいれた土地名にした。それは先人が警告として残した知恵の名である。

 

 それを無視して、危険な場所に家を建てた後世の人が津波の被害にあった。そんなことは数百年前から分かっていたことだ。人間の愚かさは昔から変わっていない。そんな思いを抱かせてくれる長野順子さんの銅版画である。

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 宙の鼓動     東日本大震災をイメージして描いた  2012年

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   祈り    龍は祈りの対象

        西洋のドラゴンは化け物だが、東洋の龍は神さまである。

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  花神の旅路   自然と人間の建造物と一体化して龍は舞う

   人類はバベルの塔を造っているのではないか。

  その正否は龍の舞が教えてくれる。

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  約束  アクリル画
 

2024-03-06  久志能幾研究所通信 2841号  小田泰仙

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2024年3月 5日 (火)

モノを捨て過ぎると、人間ではなくなる

  

 モノがない究極の部屋が監獄の独房室である。

 モノがない究極の部屋が病院の霊安室である。

 今、断捨離、ミニマリストが流行している。私はそれを疑問視している。モノがあり過ぎるのは問題だが、モノを捨て過ぎて、モノが無さ過ぎるのも問題である。モノには思い出が詰まっている。その思い出を捨てると、その記憶も薄れていく。モノがあるから、記憶を保持される。そしてそのモノから当時を振り返り、反省して、自分の人生の品質の向上が出来る。

 

 夫婦でも、親子でも共通の記憶があるから、夫婦であり、親子である。記憶を無くした相手とは、話が合わない。記憶喪失になった肉親は、家族とは思えない。姿かたちは確かに肉親だが、行動は全くの異星人になっている。

 

自分を買う

 モノを買う、モノを保管する、それは自分を買い、自分の歴史を創っているのだ。モノには自分の人生史が詰まっている。

 動物はモノを溜め込まない。動物はモノに興味がない。動物が執着があるのは、食いものだけである。高度な精神性があるヒトのみが、モノを残す習性をもつ。

 

蒸留水

 私は家の中に何もないミニマリストと付き合いたいとは思わない。ミニマリストの目的は、カネを使わないことのようだ。そんな人間は、薄っぺらな人間だと思ってしまう。そんな人といると、まるで無菌室のクリーンルームに放り込まれたような感じで、心が休まらない。まるで蒸留水を飲まされているようなものだ。蒸留水など飲めたものではない。蒸留水は自分の大事な要素まで吸収されてしまい、病気になる。ミネラルの豊富な人間味あふれた人と付き合おう。

 

 蒸留水を飲み続けると、人体が持つミネラルやその他の成分を溶かして排出させてしまう。それが原因で、カルシウムや鉄などの必須栄養素であるミネラル類が不足して、免疫力を低下させる危険性がある。 

 

5Sと文化

 ミニマリストになれというのは、単に5S(整理整頓清潔清掃)が出来ていないだけである。5Sが出来れば、モノがあってもゴミ屋敷になることはない。

 

 家の中に文化の香りのない場所は、野蛮な場所である。文化の反対語は野蛮である。家に絵の一枚も飾っていないミニマリストは野蛮人である。文化人なら好きな絵を飾っている。それでその人に文化度が分かる。「文化」の英語は「「culture」であるが、その語源は「耕す」である。心を耕さない人は、野蛮人の脳である。

 

 私は心を耕そうと、あちこちの美術館、画廊を訪れて、目と心を耕している。それが心と共鳴すると、その絵をつい買ってしまう。そしてモノが増えるのだ。ミニマリストの反対の極致である。その絵を買うとは、その芸術家を応援することだ。それが文化活動への参加だと思う。フィレンツェで花開いたルネッサンスは、銀行家メジッチ家の支援があって、芸術の花が開いた。芸術にはお金がかかるのだ。それで一銭の儲けにもならない。無駄をすることが、芸術で心の耕作である。ミニマリストには理解不能の境地である。

 人の精神が昇華すると、祈りとなる。芸術家は、芸術の神様に祈りを捧げる。動物は決して祈りはしない。ミニマリストはそういう境界には無感心であろう。

 

 

2024-03-05  久志能幾研究所通信 2840号  小田泰仙

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2024年2月26日 (月)

巡礼 玲愛 幼年期の思い出 詩で詠い、絵で奏でる in Sagan

 

 玲愛さんの一連の幼年期の思い出は、連詩で詠い、絵が奏でるように流れていく。まるで絵巻物のような感じである。

 

 「星の寝所」は「ふるさと」

 「幸せの予感」と「やわらかさ」を連想させる「CANDY」だ

 「ありがとう」

 「記憶の陰影」に「花火」は「魔法の入れ物」

 「友達」と「オルゴール」の「気配」

 

 下図の絵のキャプチャーは、上記の詩の並びである。

 上段の左から右へ、下段の左から右へ

  

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上段 「星の寝所」、「ふるさと」、「幸せの予感」、「やわらかさ」、「CADDY」、「ありがとう」

下段 「記憶の陰影」、「花火」、「魔法の入れ物」、「友達」、「オルゴール」、「気配」

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  上側  「星の寝所」、「ふるさと」

  下側  「記憶の陰影」に「花火」

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「玲愛 作品展 childhood」開催中。in 川原町 Gallery Sagan、2月27日まで

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2024-02-26  久志能幾研究所通信 2835号  小田泰仙

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巡礼 玲愛 詩絵賛歌 in Sagan

最初に言葉ありき

 《新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章から》創世は神の言葉(ロゴス)からはじまった。 言葉はすなわち神であり、この世界の根源として神が存在するという意味である。

 聖書の言葉にあるように、絵を描くにも、最初のイメージを言葉で表して、それを具現化する。その言葉の想像力も画家の大きな才能であると思う。詩を詠う、そこから絵を生む出す。その流れで作品を生み出すのは、画家にとって必要な才能だ。

 玲愛さんの名付けるキャプチャーは、夢の世界に誘う。詩を詠うと同じである。彼女はその詩からイメージを膨らまして絵を描く。キャプチャーは、絵の命なのだ。

 

 玲愛さんは俳句も詩の朗読も好きで、それで言葉を磨く修練をしているようだ。それが絵のキャプチャーに現れている。並みの画家の付けるキャプチャーとは少し世界が違う。キャプチャーも絵の一部である。

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「玲愛 作品展 childhood」開催中。in 川原町 Gallery Sagan、2月27日まで

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 抱きしめる木 

 

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  春の酩酊       アクリル    455×970  mm

 

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 まだ夢をみられますか

   アガパンサス族(南アメリカ産)  花言葉は「愛」、「恋愛」

 

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 優しくあるために   アガパンサス族(南アメリカ産) 

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2024-02-26  久志能幾研究所通信 2834号  小田泰仙

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2024年2月10日 (土)

龍は強し、されどゴキブリには弱し。大事な娘を守る in Sagan

 

 Saganで購入した中島法晃さんの龍の絵は、キャンパスに画かれた裸の状態であった。そのままではゴキブリに喰われる恐れがあった。ゴキブリは日本画の素材が大好物である。油断すると、画材が喰われてしまう。龍の画の一部が喰われれば、その芸術的価値が台無しとなる。

 山路徹先生の助言で絵を特製のガラスケースに入れた。特製のガラスケースの製作は山路徹先生にお願いした。娘のような大事な「龍」の命を守りたいという親心からの対処である。

 

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    ガラスケース内「 箱入り龍?」に変身 

  大事なお宝の娘です。虫に食われてはなりません

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 「箱入り龍」になる前の「自由奔放な龍」

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脚下照顧

 理想に燃えて驀進して、天に駆け上がるのが昇龍である。しかしゴキブリみたいな雑事に足を取られて、天に昇る前に、墜落してしまう場合もある。それは雑事を疎かにしたためだ。危機管理が出来ていなかったためだ。まず足元を固めてから飛び立とう。脚下照顧でいこう。

 

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基礎大事

 家を建てるのも同じだ。大邸宅を建てても基礎、土台に手抜きがあると、地震で倒れてしまう。

 自分自身も人間性という基礎部がしっかりしていないと、少しの事件で鬱になってしまう。病気になってしまう。エリートと呼ばれる人たちは挫折を知らないから、少しの躓きで、全てを失ってしまう。雑草の逞しさが必要だ。命は基礎体力がベースだ。

 

命大事

 自分の免疫力が不十分だと、コロナや癌になってしまう。日頃ゴキブリのような雑菌に慣れていないと、免疫機能が育たない。今の社会は抗菌をやり過ぎて、免疫機能を弱くしている。

 万全の準備で受験勉強をしたのに、健康管理が不十分で、試験当日に風邪を引いて、実力が出せなかったのは、風邪への危機管理がなかったのだ。命の保全が不完全なのだ。

 

天才薄命

 天才と噂の高かった芸術家が、若くして夭逝したり、自殺をする事例が多い。その天才が健康に気を配らなかったのが最大の原因だ。健康とは体と心の健やかさをいう。芸術の才能よりも命が大事なのだ。天才こそ心の健やかさを大切にせねばならぬ。

 

無敵のゼロ戦

 第二次世界大戦の初期、世界最強の戦闘機ゼロ戦は、無敵で昇龍のような勢いがあった。しかし、ゼロ戦の防備の弱さを米軍に知られ、昇龍のような強さが、失墜した。日本軍がパイロットの命を軽視した防御構造の弱さをゴキブリは見逃さなかった。戦いでは、パイロットの命の保護を最優先にすべきなのだ。

 戦う為、万全を期したつもりでも、たった一つの不備が、身内に巣くうゴキブリとなり命を奪う。まず命を守る、それが最優先だ。そのために死んでもいいから、健康管理である。

 

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 スミソニアン航空宇宙博物館 で展示されているゼロ戦

         1997年8月  著者撮影

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2024-02-10  久志能幾研究所通信 2824号  小田泰仙

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