大垣藩出身者が「珈琲」文字の発明
「珈琲」の文字の発明は、大垣藩出身の蘭学者 宇田川榕菴(寛政十年~弘化3年:1798~1846)が当て字をしたと伝えられている。オランダ語のkoffieの音をもとに、コーヒの花をかんざしに見立て、玉飾りを現す「珈」と、玉をつなぐ紐を表す「琲」を組み合わせた。宇田川榕菴は、その外にも、当時、日本語に存在しなかった学術用語に新しい造語を作って翻訳した。酸素、水素、窒素、炭素、白金といった元素名や元素、酸化、還元、溶解、分析といった化学用語、細胞、属といった生物学用語も創作した。
彼は1835年(天保6年)、『理学入門 植学啓原』を出版して西洋の植物学を日本にはじめて紹介した。彼は単なる翻訳者ではなく、他の多くのオランダ語の化学書から新しい知見の増補や、彼自身が実際に実験した結果からの考察などが追記している。
大垣の先人がコ-ヒの漢字を発明し、それによってコーヒ文化が日本に根付いたことは、大垣市民としての誇りである。
私は2017年4月にウィーンに旅行した。ウィーンの市内では、コーヒを媒介とした会話の文化が栄え、市民の多くがカフェでくつろぎ会話を楽しんでいた。そこに文化が生まれた。私も市内散策中、日に2,3度、カフェに寄って疲れを癒した。その時、目に付いたのが1873年創業のカフェである。宇田川榕菴が「珈琲」の漢字を発明した後に出来たカフェで、また桜田門外の変の13年後に出来たカフェでもある。榕菴とコーヒとのご縁に思いを馳せた。
図1 1873年創業のカフェのコーヒカップ
図2、図3 ウィーンのカフェ
【宇田川榕菴】
大垣藩医江沢養樹の長男として生まれ、1811年に津山藩医宇田川玄真の養子となった。1817年に津山藩医となった後、1826年には幕府の天文方蕃書和解御用の翻訳員となってショメール百科事典の翻訳書『厚生新編』の作成に従事するため江戸に移った。養父である宇田川玄真、またその養父である宇田川玄随、養子である宇田川興斎も蘭学者、洋学者として知られている。
シーボルトとも親交があり、高橋輝和『シーボルトと宇田川榕菴 江戸蘭学交遊記』(平凡社新書、2002年)に詳しい。
出版での業績
『遠西医方名物考』養父との共著、1822年~1825年
『新訂増補和蘭薬鏡』、1828年~1830年
『遠西医方名物考補遺』1834年頃、薬学書を出版
『菩多尼訶経』、1822年(文政5年)
『理学入門 植学啓原』1835年(天保6年)に出版
西洋の植物学を日本にはじめて紹介した。菩多尼訶は植物学を意味するラテン語 Botanica の字訳であり、経はその本文を経文になぞらえて執筆したことによる。
『舎密開宗』1837年(天保8年)~1847年(弘化4年)、出版した。
『依氏広義』1803、『蘇氏舎密』
上記は、英語、オランダ語、ドイツ語の科学書の翻訳であるが、他の多くのオランダ語の化学書から新しい知見の増補や、宇田川榕菴自身が実際に実験した結果からの考察などが追記されている。日本ではじめての近代化学を紹介する書となる舎密は化学を意味するオランダ語 Chemie の字訳である。
造語の業績
宇田川榕菴はこれらの出版に際し、日本語のまだ存在しなかった学術用語に新しい造語を作って翻訳した。酸素、水素、窒素、炭素、白金といった元素名や元素、酸化、還元、溶解、分析といった化学用語、細胞、属といった生物学用語は宇田川榕菴の造語である。
また、自然科学分野に留まらずオランダ語の度量衡に使用する単位についての解説『西洋度量考』やオランダの歴史、地理を解説した『和蘭志略稿』、コーヒについての紹介『哥非乙説』(こひいせつ)なども記している。なお、coffeeの日本語表記である「珈琲」は、この榕菴が考案し蘭和対訳辞典で使用したのが最初であると言われている。
この項 ウィキペディアより(2011/2/28)加筆、編集
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E7%94%B0%E5%B7%9D%E6%A6%95%E8%8F%B4
2017-10-20
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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