l1_吾が人生の師天王 Feed

2024年7月31日 (水)

古希を迎えて見る夢は、走馬灯の陽炎絵

 還暦を迎えた時に見る夢は、悪夢であった。

 古希を迎えてみる夢は、自分が作り上げた夢の道だった。

 

久志能幾研究所通信: 兵どもが夢の跡 人間関係の葛藤は戦争だ (enjoy.jp)

 

 古希を迎える前に大病を患った。余命宣告まで賜った。しかし、心を入れ替えて、なんとか命を長らえて、古希まで生かされて来た。その人生を振り返り、それが走馬灯のように頭を駆け巡る。不運な人は、その機会もなく、そのまま旅立つのである。それに比べれば、何と幸せなことか。

 

 大病をして、余命宣告をされたから、命の大事さを痛感する。大病をせず、そのまま狂った生活習慣、狂った食生活を送り、結果として突然、脳梗塞、心筋梗塞で死ぬよりも、はるかに良い結果である。突然死では、その死の準備が出来ぬ。

 ガンはその準備の時間を与えてくれる。ガンになって突然に死ぬわけではない。がんは身内の細胞が分裂して出来た事象だ。外からのウイルスでなったわけではない。がんは自分に死ね、と言っているわけではない。がんは「狂った生活習慣を変えろ、狂った食生活を変える」と言っているだけだ。がんはまだ出直すチャンスを与えてくれている。医師は、「ガン部を摘出したから、あとは今まで通り生活で良い」というが、大嘘である。ガンになった真因を、「5回の何故なぜを繰り返し」て見つけないといけない。そうしないと再発する。

 

記憶こそ人生

 人生を振り返り、人生とは記憶であると悟った。その記憶も歳を取るとどんどん薄れていく。そのため記録の保存が必要だ。多くの経験、失敗、成功を体験して、人生を謳歌できてよかったと思う。エリートと呼ばれる人は、大過なく昇進のエスカレータに乗って、人生を波風の嵐を受けず全うするから、末期に認知症になりやすい。

 やりたいこともせず、閉じこもって人生を送っても、それは、生き永らえるだけの「屍の人生」である。ベッドの上で、単に生命維持装置で生かされるのは地獄である。人生は動いてなんぼの世界である。動いて記憶・記録を作ってこそ人生である。その記憶・記録を少しでも多くして、この世を去りたい。そのためには健康でなければならない。

 

Dsc02020s

 書庫に納まった私の50年間の活動記録

  学校・会社のノートは高校生時代から保存

  雑誌『航空情報』は55年間のバックナンバー

  家族の写真アルバムは100年前から

  家系の記録は1734年から

 別の新館には、この書庫に入りきらなかった資料が山とある。

 新館には、80×180cmの本箱が12個である。

2024-07-31  久志能幾研究所通信 2892号  小田泰仙

「久志能」↖ で検索

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

 

2024年7月30日 (火)

渡る世界は鬼ばかり、鬼から身を守れ(改)

 

四天王の役目

 自分の考えを明確にし、他の邪悪な思想に取り付かれないように門番の役目をするのが四天王の役目である。目を見開き、高い視点で物を見よと教えている。目や舌や鼻が食物の危険から身を守るために四天王の役目を果たすように、心に入ってくる思想の正悪を四天王として判断する力を付けねば生きていけない。それが出来ず滅んでいった民族は数知れず。歴史を学ばない民族は滅ぶ。

 

回りは鬼ばかり

 自分達とは思想の違う民族が、世界には跋扈している歴史事実を認識しないと、無防備に正道を歩くだけでは鬼に食い殺される。自宅でも寝るときは鍵をかけて戸締りして寝るではないか。非武装中立とは戯言である。きちんと戸締りをするから泥棒が入ってこない。プロレスラーに喧嘩を売るヤクザはいない。必要最低限の自衛の戦力は必要である。

 トヨタの中興の祖 石田退三氏曰く「自分の城は自分で守れ」。

 

白人の残虐さ

 アーリア人は、「俺たちが一番優秀な民族だ」、「人のものはオレのもの」、「俺の考えが正しいと思うのは正しい」、「だから他の民俗は我々に従うのが当然」との考えで歴史を邁進してきた。力による征服で、従わなければ虐殺、よくて土地の強奪、奴隷として搾取である。

原住民との言葉は、「未開の」とのユニアンスがあり、優秀な民族と自負するアーリア人は、罪の意識もなく、やりたい放題で原住民の皆殺しの戦術で世界を席巻していった。そして現在の西洋社会が構築された。

 

中華思想

 中華思想も同じ傾向である。中華思想も自分達が一番偉いとの考えが根底にある。紀元前2000年から続くこの人種の思想はDNAとして今も払拭されず今も鬼畜のように生き延びている。今の中東の紛争は、植民地政策による後遺症であり、アーリア人同士の内輪揉めである。和を重んじる民族には理解不能である。

 

フランス人の暴走

 フランスも中華思想があり、従わない異教徒は暴力で弾圧である。フランス人には、思想が違えば異教徒で、人間ではない。だから平気でアフリカ系の青年を軽微な交通違反で射殺した(2023年7月4日)。それでパリ市で大暴動が起きて戒厳令である。その気質が、今回パリオリンピックでの開催式で現れた。断頭台に送られたマリーアントワネットの血まみれの首を演出に使った。暴力革命を象徴する演出である。暴力革命こそ正しいのだとの宣言である。オリンピックに政治を持ち込むのは五輪の精神に違反である。それを敢えて実行することに、フランス人の本質をみる。多くのフランス人はこの狂気の演出を支持している。それが異常である。

 フランスの自由と平等と博愛は、あくまで同じ思想のフランス人民間だけの話である。だからフランスは今でもアフリカ諸国を実質的に植民地支配を続けている。

 先のロンドンオリンピックでのエリザベス女王に敬意を掲げて王室を演出した式典とは対極のフランス人の演出である。

 人種の持てるDNAは200年経っても変わらない。

 

アーリア人による民族皆殺しの歴史 

(中国人はアーリア人と同じ思想を持つ)

 イギリスがアテスカ帝国を皆殺し、滅亡

 スペインによるインカ帝国を皆殺し、滅亡

 イギリス人(現アメリカ人)のアメリカ原住民のインディアン950万人の殺害

  西部劇は、白人が正しいのだとの洗脳映画。

  実際は、先住民のインディアンの土地を強奪した白人の虐殺劇

 

 イギリスが侵略しオーストラリア原住民を皆殺し、植民地として統治

 アメリカでのハワイ原住民の皆殺しでハワイ併合

 列強諸国によるインド、アジア、アフリカの植民地化

 英国は中国人にアヘンを売りつけ、因縁をつけてアヘン戦争を起した

 米軍は東京大空襲での民間人10万人焼殺、原爆での20万人の虐殺した

  東京大空襲は山の手周囲を焼夷弾で炎に包み、逃げ道を閉ざして爆弾を投下

  広島、長崎の原爆は、米軍歴史資料では爆発実験の項に分類されている。

  米軍の日本本土無差別爆撃で、非戦闘員の死傷者100万人

 ヒトラーはユダヤ人を1700万人虐殺 

 スターリンは2300万人を虐殺

 中国共産党は4000~6000万人の自国民、他国民の虐殺

 中国共産党によるチベット民族皆殺し作戦進行中    120万人の虐殺

 中国共産党による仏教寺院の破壊活動(仏教の平和主義は共産党に不都合) 

 

洗脳教育

 思想に犯されて誤った道の進んだ優秀な若い人たちが、つい最近の日本にも存在した。誤った思想に洗脳されて、地下鉄サリン事件を起こした。普通の人よりも頭の良い子達がである。学校もまともに出ていない狂祖に取り付かれると、正悪の判断もできない地獄の餓鬼道に堕ちる。

 

 現在は拝金主義という鬼に取り付かれて洗脳された人が跋扈している。拝金主義に犯されると、貧富の差が拡大した格差社会が出来ると、社会不安が増大し暴動が発生し、最終的には社会が崩壊する。拝金主義者は、今、己の立っている社会が崩壊すれば、己も生きていけないことが分からない人たちである。拝金主義とは、金勘定だけがよくできる餓鬼どもが罹る病気である。

 

太陽光発電の洗脳されたハウスメーカー

 その典型が自然環境を守るとの名目で森林を伐採し、太陽光パネルを敷き詰めて、自然の再生力を抹殺している。その結果が、土石流発生、山林火災発生、住み場所がいなくなった熊が山から下りてきて熊被害の拡大、都市の亜熱帯化である。太陽光発電の利権の横行で、「再生エネルギー付加金」の増税、議員の裏金ちゅーちゅーで、増税の嵐である。現代の太陽光発電は地球環境の維持には逆行の施策である。

 

毒食品の拡大

 体に悪いことを知りながら、金儲けのために添加物まみれの食品を売るメーカは死餓鬼ではないのか。

 

歴史の証明

 金や権力、強欲の本能に目が眩むとどれだけ非道の鬼になれるか、歴史が教えてくれている。その歴史を学校では教えてくれない。権力者が、自分に都合の悪いことは検閲するからだ。学校で習う歴史は、あくまで西洋の視点で、勝者と権者の立場で見た歴史観である。洗脳教科書である。もっと目を見開いて物事を観よと広目天は言う。在れども、その気になって、持てる知識を総動員して視点を変えてみないから、真実が見えない。西洋史観に騙されてはならない。自分を守るのは自分である。自分の城は自分で守らないと家族が殺され国が滅ぶ。

 先の大戦で、父の5人兄弟のうち、2名が戦死している。父も戦後2年間のシベリア抑留を強いられた。父がシベリアから生還できなければ、今の私の命は存在しない。シベリア抑留では一説に10万人の邦人が極寒の地に散った。ロシアの鬼畜の火事場泥棒による戦争犯罪である。戦争は身近にある。つい79年前のことだ。

.

出合い

 同じ年に、「生と死を考える会」の会長・古川秀昭氏(現ОKB美術館館長)の家族と氏は、満州から1年間の放浪生活を経て、命からがら生還された。だから私と古川秀昭氏とのご縁ができた。お互い、どっかで死んでいれば、会うことのない縁であった。一つの生が生まれる確率は、1億円の宝くじが100万回連続で当たると同じである(筑波大学名誉教授村上和雄氏談)。だからこの出合いは、天文学的な確率の出会いである。出合いに感謝です。

.

報道機関の責任

 戦前、真実を報道せず、戦争を煽って戦争に導いたのは、今の新聞社である。その反省もせず、存続しているので、その体質は戦前のままである。だから今の日本を堕落させている責任の一端がマスコミにある。だからマスゴミと呼ばれる。私はテレビは見ないし、新聞を取るのもやめた。

 

039a0681s

 松本明慶大仏師作 広目天  高野山中門にて

  2015年 4月25日 撮影

 

 

2024-07-30  久志能幾研究所通信 2891号  小田泰仙

「久志能」↖ で検索

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2022年2月11日 (金)

自分を治める者

 

 虚空蔵菩薩とは、広大な宇宙の無限の智慧と慈悲を持った菩薩という意味である。そのため智慧や知識、記憶といった面でのご利益をもたらす菩薩として信仰されている。

 「虚空蔵求聞持法」は、一定の作法に則って真言を百日間かけて百万回唱えるという修行を修した行者は、あらゆる経典を記憶し理解して忘れることが無くなるという。もともとは地蔵菩薩と虚空蔵菩薩が対になっていたと思われる。

 空海が室戸岬の洞窟御厨人窟に籠もって虚空蔵求聞持法を修したという伝説はよく知られており、日蓮もまた12歳の時、仏道を志すにあたって虚空蔵菩薩に21日間の祈願を行ったという。また、京都嵐山の法輪寺では13歳になった少年少女が虚空蔵菩薩に智恵を授かりに行く十三詣りという行事が行われている。(この項、Wikipedia 2014/9/22)

 

求聞持聡明法

 忘れることは人間の徳性である。忘れない人とは、神であり、人でなし。1979年頃、私も仕事で悩みを持ち、人生に迷っていた。ある新興宗教の教祖著の『密教入門(求聞持聡明法)』(角川選書)を読み、それに嵌りかけたことがある。しかし物理的に凡人が、真言を百日間かけて百万回唱えるという修行が出来るわけがない。冷静に考えると、記憶を絶対に忘れないとは、人間でなくなることである。過去の嫌な失敗談を何時までも覚えていては、地獄である。今まで何回、嫌なことで死にたいと思ったことか。それが人間の特性として、忘れるから良いのであって、何時までも覚えていることは決して善ではない。

 当時は天中殺も流行した時代である。この新興宗教の手法を盗用して、オウム真理教が勢力を拡大して、地下鉄サリン事件を起こした。有名大学出の若者が堕ちていった。頭が良い人は、楽をして成功を手に入れたがる。人とは愚かな存在で、歳を取らないと己の愚かさに気がつかない。人は愚かな事をしてみて、初めて愚かな事をしてはダメと気づく。

 

 還暦後の数年間、国家試験の受験勉強で100万遍の繰り返し(ウソ?)をしても少しも記憶力が高まらず、嘆いていたら、夢の中に来宅された虚空蔵菩薩様からのお告げがあった。

 「親愛なるブルータスよ、頭が良くならないのは、修行不足でも、悪い星の下に生まれたせいでもない。長年の悪食の因果なのだ。」

 

真因

 10数年に及ぶ悪食(揚げ物、大食、スイーツ、間食等)で、脳の毛細血管の内壁にコレステロールのカスが付着して、脳の血の巡りが悪くなっていた。その表面的な現象が高血圧、記憶力低下である。このままでいくと、脳梗塞や心筋梗塞、認知症になる寸前であった。原因が分かれば、対処療法ではない真の治療ができる。食欲を制する者が、自分を治める。

 

  

捨てる菩薩行

 慈悲とは、仏教において慈悲とは、他の生命に対して楽を与え、苦を取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きである。他の生命に楽を与えるとは、持てるものを分け与えること。浄土に旅立つときは、何も持っていけない。人は裸で生まれて、裸で死んでいく。持てる自身の宝を捨てる修行が菩薩行である。

 ものを持つから執着心が生れ、汚れ、腐り、腐臭を出す。金もおなじである。人が生活すれば生ごみが出ると同じである。お金だって膨大にあり過ぎると腐ってくる。そうなればウジみたいな輩がまとわりつくてくる。

 お金はお足だから、金を足止めすると、金が腐ってくる。世の中に感謝の気持ちを込めて還元してあげれば、お金を稼ぐ仏様を連れて帰ってくる。

 人生80年、どんな人間も何時かは浄土に行く身である。色即是空、空即是色、人生は一瞬の色仕掛けの映画である。一瞬の後(僅か80年後)、は空になる。だからこそ、有意義な色を出すべきだ。

 

宇宙旅行

 お金を使うのにも体力と労力がいる。金があり過ぎると正常な判断ができなくなり、金の使い道がないからと、宇宙旅行などの愚行をする輩まで出てくる。そのお値段は1050万円〜22億円とか。それで社会にどういう貢献ができるのか。もっと有意義な使い道がなかったのか。なんと虚しい色であることか。色即是空、を実例で学ばされた。

 

慈悲とは

 仏教において慈悲とは、他の生命に対して楽を与え、苦を取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きをいう。一般的な日本語では、目下の相手に対する「あわれみ、憐憫、慈しみ」 の気持ちを表現する。

 

 慈悲は元来、4つある四無量心(四梵住)の徳目「慈・悲・喜・捨」の内、最初の2つをひとまとめにした用語・概念であり、本来は慈(いつくしみ)、悲(あわれみ)と、別々の用語・概念である。

 

 慈はサンスクリット語の「maitrī」に由来し、「mitra」から造られた抽象名詞で、本来は「衆生に楽を与えたいという心」の意味である。

 悲はサンスクリット語の「カルナー」に由来し、「人々の苦を抜きたいと願う心」の意味である。大乗仏教においては、この他者の苦しみを救いたいと願う「悲」の心を特に重視し、「大悲」と称する。

 これはキリスト教などのいう、優しさや憐憫の想いではない。仏教においては一切の生命は平等である。楽も苦も含め、すべての現象は縁起の法則で生じる中立的なものであるというのが、仏教の中核概念であるからである。

 

 漢訳大乗経典を用いる仏教では、慈と悲を含む四無量心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁である。いわば慈悲心の生起する理由とその在り方をいう。

 衆生縁とは、衆生を対象とする慈悲心である。有情縁とも言う。

 法縁とは、すべてのものごと(法)は実体がなく空であると知って、執著を断じてから起こす慈悲心。

 無縁とは、何者をも対象とせずに起こす慈悲心。それは仏にしかない心である。

 この三縁の慈悲とは、第一は一般衆生の慈悲、あわれみの心、第二は聖人(阿羅漢や菩薩の位にある仏)の起こす心、第三は仏の哀愍の心である。

   この項、wikipedia(2022/2/11)より編集加筆

 

4k8a04291s

 松本明慶大仏師作 虚空蔵菩薩 

2022-02-11  久志能幾研究所通信 2301号  小田泰仙

「久志能」 で検索

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年8月16日 (月)

大垣に原爆投下 ジェノサイドへの前哨戦(2/3)

碑の前の誓

 私は毎朝、散歩の帰路にある大垣の被爆地の慰霊碑に手を合わす。この被爆の碑は遺族のかたがお守りをされている。私はここに来ると日本の歴史と現代の状況を感じる。犠牲の方のご冥福を祈り「二度と日本がこんな目に遇わせられないように、我が国力を上げるべく貧者の一灯として精進します」と祈っている。

 この被爆の慰霊碑は、水門川沿いにひっそりと建てられている。その南側に、大垣藩の藩校敬教堂跡に孔子像が建っている。孔子様も戦乱が続く古代中国では、無力であった。だから徳を説いたのだ。2000年経っても、孔子が生み出した価値(論語)が生きているのは素晴らしい。人は2000年経っても、その本質は変わらない。

 

人種差別

 原爆は、日本人が白人なら絶対に落とされなかったはずである。70年経った今でも、白人の有色人種への偏見は消えない。2021年4月には、ミネソタ州白人警官による無防備黒人の過剰防衛殺人に対して、第二級殺人事件で起訴されたばかりである。

 アメリカに移民した英国の祖先たちは、アメリカ原住民インディアンの950万人を殺害した。西部劇で、インディアンは悪者であった。それは白人の洗脳教育のお話しである。白人は後からアメリカ大陸に移民してきて、先住民の土地を奪い、インディアンを追放し、殺害した。白人社会では、だれも問題にしない。どちらが正しいのか。だから現在、インディアンは50万人しか生きのこっていない。だから私は西部劇を絶対に見ない。白人のそのDNAは変わらないことを歴史から感じる。我々は現代社会を生き抜くために、もっと歴史を学ぶべきだ。

 日本の外は、今でも魑魅魍魎の世界である。価値観が違うのだ。昨日(8月15日)、タリバンが内乱状態のすえ、アフガン首都を占領して戦争勝利を宣言した。世界はまだ戦争の時代である。日本人は余りに国際情勢を軽視して、歴史を忘れすぎる。

 

ジェノサイド

 国際法上でも原爆投下はジェノサイド(皆殺し)であり、その後ろめたさ故、米国の戦後の支援がある。ジェノサイドを認めたくないがため、米国内ではこの問題を掘り起こすと旧軍人会からヒステリーじみた感情で袋叩きにされる。

 1997年、エノラゲイ展を企画したスミソニアン博物館長は、この理由で袋叩きにあい、辞任に追い込まれた。私は、1997年夏、スミソニアン博物館を訪問して、その経緯をエノラ・ゲイ展で目の当たりにした。

 原爆開発は、巨額の政府予算に目が眩んだ拝金主義の鬼子であった。それが戦後、日本の原子力発電事業に食らいつき、2011年に福島原発事故を起こした。もう少しで、東日本が消えるところであった。

1

2

3

 スミソニアン航空宇宙博物館のエノラゲイ展で 1997年 撮影 著者

Photo リトルボーイ(広島投下の原爆)

Fat_man

 FAT MAN(長崎投下の原爆)

 スミソニアン航空宇宙博物館のエノラゲイ展で 1997年 撮影 著者

2021-08-16   久志能幾研究所通信 2121  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2021年7月14日 (水)

極楽橋を渡ったら

 

 高野山開創1200年法要(2015年4月2日)の2日前の3月31日、高野山に出かけた。高野山は正月準備の12月30日のような状況で、境内のあちこちで掃除と準備作業等で騒然としていた。50年前の開創1150年法要では、50日間に47万人が訪れたという。今回の法要では30万人が来訪すると推定されていた。

 

金はあっても

 開創1200年法要の事前の参拝で良かったが、それでも平常より参拝者が多く、食堂が少ないため、昼食にありつけなかった。食堂に入り席には着いたが、多くの店員が走り回っていたが、我々の席には、待てど叫べど店員が注文を取りに来ない。待つこと10分、諦めて食堂を出た。

 高野山の極楽橋駅を渡ってしまえば、お金をいくら持っていても使えない。お金を使うのも楽しむのも、今のうち生きているうちが高野山の掟である

 現世の極楽橋駅へは往復切符で行けるが、来世の「極楽橋」行きは片道切符で、二度と帰って来られない。何事も今のうちである。

 

極楽橋を渡る前に

 弘法大師が今も修行をされているという「奥の院」にお参りをするため、約1kmの参道を往復した。その参道の両脇に30万基とも言われる墓標が林立している。その墓標の名前を見るたびに、同行の知人と二人して、「はぁ~」、「へぇー」というため息を何回、何十回と発した。日本の1200年前から続く歴史に名を残した有名人の墓標が林立していた。

 それを見て「人はこの世で集めたものでは評価されない」ことを体得した。その多くの墓標を見るたび頭に浮かぶのは、その人がこの世で何をしたか、何を世に与えたかであった。偉人はその業績に相応の墓標で祭られている。それを見てなるほどと納得させられる。後世に残るのは名前だけである。名前を刻む墓石は背景にすぎない。

 自分の死後、人が自分の墓標を見て、どう思うかを考えると、極楽橋を渡る前にやるべきことは何かを考えさせられる。

Photo

再興された中門  四天王は開眼法要前で、白幕で覆われている 2015年3月31日

Photo_2

中門の後ろに建つ根本大塔  内部は立体曼荼羅となっている

 

Img_47461s  馬場恵峰書

2021-07-14   久志能幾研究所通信 208高野山9  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年2月 1日 (月)

写経とは人生を考える修行  苦集滅道

 

 次頁2つの軸は、60軸中でも圧巻の軸である。下地は絹のため、ゆっくり書いては墨が滲んでしまう。速く書けば墨が掠れてしまう。一定の速度で心を整えて書かなければならない。梵字もヘラのような筆で書く。

 写経は一日に1行で良いから、その意味を考えながら、書くと良い。写経とは人生を考えること。そう恵峰師は説かれる。師は今までに15,000字の経を書かれた(2015年当時で)。

 般若心経とは、玄奘三蔵が万巻の経を276文字に集大成した経である。人が生きていくための真理の言葉である。万巻のお経の核言を集めたと言える。玄奘三蔵が629年に国禁を犯して、陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行った。玄奘三蔵は16年後の645年に経典657部や仏像などを持って帰還した。その苦難苦行で獲得した真理が般若心経に詰まっている。

 

苦集滅道

 般若心経の中央にかかれた真髄の言葉が「苦集滅道」である。この世に「苦」があるが、それは苦しい思いをして、母のお腹の中からこの世に生まれてきたからである。何事も楽をして物事は生まれない。生を受けて、楽を求めて生きている間に、いつしか「苦」の因を「集」めてしまう。

 それを「滅」しようと、神社のお札を貼り、お布施をし、祈願しても「苦」は「滅」しはしない。それではショートカットである。ショートカットでは、人生でやるべき修行を放棄することだ。

 今までの狂った生活で、その「苦」の原因を「集」めてしまったのだあ。それを無くすには、正しい道(正八道)の修行で、人が人になる訓練が必要である。道を外れた人に教えを与えるには、「時間」を選び、「時(季節)」を選び、「国(場所))を選び、「順序」を選ばなければなるまい。

Photo

1

2  馬場恵峰書

 

2021-02-01 久志能幾研究所通信 1907  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年1月29日 (金)

写経書とのご縁  CANON TS-E50mmF2.8L

 

 2012年夏の明徳塾で、恵峰先生が写経書を紹介された。先生のお弟子さんが仏壇のご先祖に供えるため依頼された写経書の写しである。私も自宅仏壇に供えるには良いなと思って手を出そうとしたら、それを手にして見ていたT代表がその書を抱えたまま手放さなかった。明徳塾運営上の職権乱用ではないかと思った。

後から恵峰先生に話したら、別に書いて上げるとの事で、後日、手に入れることができた。佛が餓鬼になる事例を見ることもよき勉強ではある。ああしてはいけないと教えてくれている。欲しいと決断しても、入手が出来ないときもある。それが人生である。それでも、願望が強く、ずっと思っていれば、何時かは何とかなるものと最近は達観できるようになった。これも歳の功かなと思う。

 

写経書の撮影のご縁

 その後、恵峰先生より中国で先生の書を出版するので、軸の写真を撮って欲しいとのお話があり喜んでお受けした。丸順の今川順夫最高顧問からの写真集作成のご依頼のご縁も重なり、構えてカメラを新調した。CCDがフルサイズの一眼レフCANON5D-Ⅳの最高級品(当時)である。それを買えるのもご縁である。そうでないとこのカメラは買う気にもならなかった。なにせデカイし重たいし高価だし、持ち歩くには構えてしまう代物である。

 2014年12月10日に、恵峰先生宅で約60本のお経の軸を撮影した。福田琢磨氏に手伝って頂き、約6時間をかけて撮影した。今回は構えて行ったので、不思議と失敗の写真は一枚の無かったのに我ながら驚いたもの。やはり高いものにはワケがある。

Photo  馬場恵峰書

 

レンズの変遷

 最初は書画撮影として、マクロレンズ CANON EF100mmF2.8L(580g)を使用した。書画を撮影するには、歪が少なくよいレンズであった。その後、検討を重ねて、あおり機能付きのレンズ CANON TS-E50mmF2.8L(945g)を購入して、愛用することになった。重量も当初のEF100mmの1.5倍、価格も2倍以上となったが、書画を高精度に撮影するには、高性能のレンズである。

 その後、カメラ本体をCANON5DⅣからSONYα7RⅣに変更したが、レンズはアダプターをかませて、このCANON TS-E50mmF2.8Lを使用している。このレンズは、オートフォーカスもズームもなく、手動でピント合わせである。SONYにはこれに相当するレンズがないために、敢えてCANONレンズを使用している。CCDではSONYに分があるが、レンズはCANONに優位性がある。カメラのボディもレンズも最高のものとなると、現在では叶うメーカがないのがマニアの悩みである。

Dsc00606s

 恵峰先生宅での撮影状況 2014年12月10日

 マクロレンズ100mmを使った撮影

 

2021-01-29 久志能幾研究所通信 1904  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年1月27日 (水)

弘法大師とのご縁 写経ツアー

 

 馬場恵峰師は、2014年6月26日に空海大師が修行をした西安(長安)の清龍寺で写経納経をする写経ツアーを実行された。私もこの写経ツアーに誘われたが、目の手術の関係で断念した。

 弘法大師が修行をされた長安の清龍寺で、馬場恵峰先生と一緒に写経納経をされたのは素晴らしいご縁である。弘法大師のご縁は、その深遠なる教えを具現化した高野山中門につながる。私は松本明慶大仏師作の四天王像と対面できたのはよきご縁であった。

 日本に現存する曼荼羅は、空海大師が清龍寺で修行をして、中国から日本に持ち帰った元禄本がオリジナルとなっている。

 

清龍寺で写経会

 この写経ツアーでは20名の参加者が、2時間音一つ立てず無言で写経に集中した。それは見事な姿であったと同行された馬場三根子先生は回想する。

 その間に恵峰先生は2枚の写経をされた。さすが凡人とは書く速度が格段に違う。恵峰先生は別に15枚の写経・軸を持参され納経された。両親や親戚、知人のために書かれた写経であるという。

 馬場恵峰師は、「写経が一番のご先祖供養になる」と言われる。恵峰先生は軸に書かれた般若心経を清龍寺に奉納された。先生でも般若心経を書くのには2時間を要する。それも表装された軸に直接書かれる。佛技である。

3

1

2  西安 青龍寺 金剛堂(写経をした場所)

1_2

 写経を奉納する恵峰先生と受け取る管主寛旭和尚

 寛旭和尚は将来の中国仏教界のトップに立つ方である。

2_2

3_2

Photo  西安

1_3

左端 恵峰先生、齋藤明彦氏  西安(長安)にて   撮影:福田琢磨氏

 

2021-01-27 久志能幾研究所通信 1902  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2021年1月25日 (月)

両界曼荼羅で自分探し

 

 曼荼羅は、サンスクリット語のnandalaの音写した言葉で、本来の意味は“本質、中心、真髄などのもつもの“を表し、仏教では仏の悟りとその世界を意味する。特に密教においては、聖域、仏の悟りの境地、世界観などを仏像、シンボル、文字、神々などを用いて視覚的・象徴的に表した図をいう。

 

人生の俯瞰図

 曼荼羅は日本密教の教えの中心ともなる大日如来を中央に配して、更に数々の「佛」を一定の秩序にしたがって配置した人生の俯瞰図である。「胎蔵曼荼羅」(胎蔵界曼荼羅とも)、「金剛界曼荼羅」の2つの曼荼羅を合わせて「両界曼荼羅」または「両部曼荼羅」と称する。

 胎蔵曼荼羅が真理を実践的な側面である現象世界として捉えるのに対し、金剛界曼荼羅では真理を論理的な側面である精神世界として捉えている。こういう概念を1300年も前に曼荼羅の図に表した創造者の知恵には、畏敬の念が起こる。

 

生きている意味

 胎蔵曼荼羅には様々な姿の佛の御姿が表されている。一人ひとりの佛にも意味がある。各々の佛が曼荼羅の世界でその場所のお役目を果たしている。自分が歩む人生で、与えられた時代とその与えられた場所で、佛としてのお役目を果たすのが、自分の使命である。己は何のために生れたか、自分探しが人生の曼荼羅である。人は生きているだけでも、佛の価値がある。

Dsc004931s

上図:胎蔵曼荼羅(岩田明彩師作)   松本明慶仏像彫刻展(仙台・藤崎)

松本明観師、岩田明彩師、(2014年11月20日)

039a34451s  馬場恵峰書

2021-01-25 久志能幾研究所通信 1900  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

人生の曼荼羅  死肉を喰らう

 

 人生を俯瞰的に見ると、人生はピラミッドや高山の頂点を目指して歩む姿に例えられる。それは人生の宇宙観であり、緻密に築かれた城の石垣にも例えられる。

 

人生のピラミッド

 人生の目標とする所が山の頂点なら、俗世間的に言えば会社の社長である。佛の世界ではそのトップは大日如来である。そこに達するには、地獄界、畜生界、邪鬼界、人間界、天界、菩薩の世界を経ないと到達できない。人は生まれながらに頂点で生まれるのではなく、試練・修行を経て悟りの境地に達する。お釈迦様も釈迦王国の滅亡、修行、試練、弟子の離散の地獄を見て、悟りの境地を得られた。お釈迦様は万能の存在ではなく、悩みある我々凡人と同じ人間である。また大日如来も単独では存在できない。その回りの菩薩、天、鬼がいてこそ存在できる地位である。

 

人生街道で出会う仏様

 人生では、あるときは地獄の鬼と対面するときもある。不渡り倒産の危機に直面して七転八倒の苦しみを得ながら進む地獄界のときもある。時には鬼となって相手に借金の返済を迫るときもある。天として(部下や会社の)守り佛として会社を自衛する四天王となるときもある。人間とは人を殺めるような鬼畜の性もあれば、童を愛する天女のような心の両面を持つ。その心は流転して無常である。すべて己の観念が作り出している世界である。

 

受戒位

 人間とは「人」と「人」の間にある「門」を毎「日」渡り歩き、悟りの世界を求めて歩く修行僧といえる。どれだけ富財宝を手に入れても、死ぬときは全て手放して裸であの世に旅たつ。それ故、人生では、貯めた財宝ではなく、人に与えた価値で評価される。

 それを悟るにどれだけの失敗・恥・経験を積むかが、人生の修行である。人は痛い目を経験しないと目が覚めない愚かな存在である。かの釈尊でさえその過程を踏襲された。そういう目に会わないと、人の痛みが分からない。自分が仏になるための戒を授けられたのだ。

 

死肉を食らう佛

 足る知るを知らない輩が餓鬼道に堕ちる。その心はガリガリに痩せ、外見の腹だけが異様に膨らみ、目に付く人のもの手当たり次第に死肉を食らうが如き食い様である。食べても食べても、集めても集めても満足しない飢餓地獄の世界である。毘舎遮は、死肉を喰い、血をすすって飢えをしのぐ。死肉を喰っても血をすすっても満腹せず、ひたすら喰いまくる。死肉を喰う同じ仲間であっても、目も合わせず、会話さえしない。

 

曼陀羅の餓鬼

 餓鬼は東寺の曼荼羅図にも描かれている。餓鬼は劫波杯(血を盛った杯)や人の手足を持ち、これを食らう死鬼衆として描かれている。餓鬼とは人間の性である。曼荼羅図に描かれている姿は、衆生が餓鬼道に堕ちないようにとの戒めである。

 現代は拝金主義者、グローバル経済主義者という餓鬼が、社会で大手を振って君臨している。金を集めるだけの強欲に支配され、冨を独り占めする。下水が詰った状態の様で腐臭が凄まじい。四天王としての六根を麻痺された現代人が死鬼衆に食われている。

 その姿を弘法大師は、1300年間に予言した。貧富の差が拡大して、格差社会が酷くなっても、富者がひらすら死肉を喰う様は、現代資本主義社会と同じである。カルロス・ゴーンは日産社員を必要以上にリストラし、浮いた金で贅沢三昧をした。まるで死鬼衆の様である。

Photo

 東寺 曼荼羅図 外金剛部院(部分)死鬼衆

 

自然の摂理

 死肉を喰う族も必要だ。それも必要悪だ。森林の枯れ葉が、次世代の芽の肥やしになるのは、自然界の摂理である。そういう人間がいて、佛もいて社会が成り立っている。自分の死後に、死肉(財産)を喰われても、いいではないか。どうせ来世には持って行けない。それがこの世で役立てば本望だ。そういう仕組みのなかで、己はどうするのかが佛から問われている。

 

死肉を喰らう佛に遭遇

 私もこの2年間だけでも、人から煮え湯を飲まされた事件が数度あった。その輩たちは超富裕層で、病気持ちの老人たちであった。それは全ての事例で共通していた。死期も近い老人たちが、まるで死肉を喰うような仕打ちを私にした。それは曼荼羅で、死肉を喰う佛として描かれて様と同じだ。死肉を喰っているのは、佛である。それが人生だと弘法大師は曼荼羅で教えている。

 

古希での受戒位

 私は古希も近い歳で情けない目に会った。「そういう縁を避けよ」、「人の本性を見極めよ」との佛の教えである。縁なき衆生度し難し。修証義に曰く「善悪を弁えざる邪険の輩には群すべからず」と。

 第二の人生で悟りに到達したい。悟れなかった人が、現世で餓鬼道・幽霊道に迷いこむ。帰らぬ過去の後ろ髪を引かれ、まだ来ぬ未来に目を向け、虚ろな目を向けて迷う生き様である。すべて人のせいにする被害者意識の人生である。

 

人皆佛

 人生の曼荼羅に、自分の歩いた履歴が表れている。その曼荼羅の中に現れている佛に自分の宇宙観が現れる。出会うご縁は全て自分を良くしようと現れる佛である。だから人生に無駄な縁は無く、自分以外は全て我が師である。死肉を喰う輩も仏様である。貧乏神のコスプレで現れる逆縁の菩薩にも尊い教えがある。

4k8a99231s

 馬場恵峰書、文は小田泰仙作 

 

2021-01-24 久志能幾研究所通信 1899  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。