l7-生と死を考える階 Feed

2024年2月29日 (木)

「死が教えてくれた幸せの本質」 究極の幸せ

 

「生と死を考える会」2月度例会で、船戸崇史医師が「死が教えてくれた幸せの本質  (究極の幸せはあった)の講演をされた。その内容を自分の体験と重ねて要約する。

 (2024年2月10日、中部学院大学各務ヶ原キャンパスでの講演)

 

 船戸崇史先生には、私のガン再発防止治療でお世話になった。私は手術をした病院が標準治療として強要する抗がん剤治療を拒否して、医師とけんか別れをした。それで全国に代替治療を探し回り、養老町の船戸クリニックに出会い、船戸先生から治療を受けた。手術後、5年間、幸いがんは再発せず、今を生きている。感謝である。しかしいくら治療が成功しても、人は何時か必ず死ぬ。

 

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   船戸崇史医師       2024年2月10日

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命を全うする

 死に際すると、自分が本当に幸せな人生を送れたかが分かる。お金を貯めたとか、やりたいことをやったとか、そういう次元ではなく、真の幸せを感じて命を全うできたか、である。

 船戸崇史医師は、2000例の臨終に立ち会ったという。その中で、一人だけガッツポーズをして逝かれた方がみえたという。その人は真の幸せを感じて命を全うされたのだろう。その他の患者も船戸先生の診療で、死に際して安らかに、人生を満足して旅立たたれている。

 

今の形

 「生き様は死にざま」でもある。死に際だけを切り取っても意味がない。生き切った先が死であるだけだ。あるのは永遠の今があるだけである。今が、今までの自分の選択の結果である。それが今の「形」である。それを考えると、自分で自分の人生を創造することが出来る。

 人生は選択の連続である。どれかを選ぶということは、もう一つの選択を捨てること。しかしどの選択を選んでも、30年後には必ず、死がある。それは長い人類の歴史の前には、誤差範囲の長さである。だから自分で納得いく選択をすればよい。

 

人生最期の言葉

 「ごめんね」「ありがとう」「愛しているよ」「また逢おうね」「さようなら」の5つに集約される。

 送る方の言葉は、「後は任せてね」という引導である。それで臨終の人は安心して逝ける。生命は生老病死である。それを「死なないで」と引き留めるのは禁句である、それは拷問である。その人は後ろ髪を引かれて、逝くに逝けない。

 

病気にも意味がある

 現代医学の「死なせない医療」は、必ず敗北する。死なない人はいない。病気が治っても、人は何時かは死ぬ宿命である。それを死なないようにするのは拷問である。多くの管を体に繫なぎ、暴れないように手足を縛り、食べたくないのに、無理やり胃瘻で栄養を流し込むのは、人権無視の拷問である。それでは安らかに逝けない。

 病気になったのには原因がある。病気は神仏からの啓示で、病気になった原因を正せと言っているだけで、死ねとは言っていない。

 私はがんになり、その原因を何故なぜと何回も繰り返し、今までの生活習慣、食事習慣、精神的生活習慣の全て変えた。おかげでがん手術後5年間、無事に生き延びられた。

 

リース物件

 人はおぎゃーを生まれると、余命80年と宣告されて、終末に向かい生きていく。生物は生老病死である。いわば、人は終末医療にお世話になっている。貸与された人体を無神経に使うと、物件が早く傷む。それで神仏が早くリース物件を返せと督促する形で病気になる。病気とはそれだけのメッセージである。いわば生活改善命令書である。だから貸与された体は、大事に使うべきなのだ。

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終末医療のメッージ

 人は必ず逝く。しかし死は終わりではない。その人の生き方が、周りの人に受け継がれる。病気や困難で、自分の本当の使命に気が付き、それを達成して、後世の人に伝える。それがその人の存在意義を示す。目指すべきことは、自分らしく幸せに生き切ることだ。

 

 両親は私に生き方を後ろ姿で教えてくれた。だから今の私がある。感謝である。

 馬場恵峰先生は94歳で、最後まで現役として人生を終えられた。その生きざまは、私の中に生きている。感謝である。

 私はブログを通して、少しでもその知識、知恵と智慧を伝えていきたいと願ってブログを発信している。

 

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「幸せに生き切る」ための3条件

1 痛みがない事

   肉体的痛み、精神的痛み、社会的痛み、霊的痛みがない事

2 今を自分らしくあること

   今、人生を俯瞰して、そのために生れてきたと言えるか?

3 今を幸せでいること

 

死は恩寵

 患者は生きて痛みに耐えるほうが辛い。死はガンによる激しい痛みから解放してくれる。家族も介護の地獄の苦しみから解放してくれる。家族にとって死は悲嘆の絶頂であるが、同時に苦しみを除く最高の恩寵でもある。永遠の魂にとって、肉体の死は一つの通過点でしかない。

 魂は家族の心の中で生き続ける。家の中のあちこちにその遺影が残っている。それを意識するだけで、まだその人は生きている。私の両親の思い出は、実家のあちこちに存在している。だから実家を取り壊さず、リフォームで対処した。我が家では、両親が使った足踏みミシンも大事に保存している。その両親の記憶が消えた時が、本当の死である。

 

死合わせ

 できるだけ、今を自分らしく、幸せで、痛みなく生きれば、いざという時、「死合わせ」の境地になれる。そして万感の思いで「ありがとう、後は頼んだよ」と。

 送る方も「ありがとう、後は任せて」と笑顔でほほえむだけでよい。そして命のバトンが受け継がれていく。

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 文責は著者、書は馬場恵峰師

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   船戸崇史医師 の著書 

  書  名 :「死」が教えてくれた幸せの本質

      二千人を看取った医師から不安や後悔を抱えている人へのメッセージ

  著 者 名:船戸崇史/著  出 版 社:ユサブル  税込価格:1,540円

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2024-02-27  久志能幾研究所通信 2837号  小田泰仙

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2024年1月 8日 (月)

死季の風 高校同窓会の出会い

 

 人生は生老病死である。2024年1月7日、6年ぶりに開催された高校の同窓会に出て、つくづくそれを感じた。55年前に400名が母校を卒業した。今日の同窓会で43名の物故者があることが発表された。73歳の今、約1割の仲間が亡くなっている。その数の多さに驚いた。

 一昨年、F君から年賀状を頂いて、連絡を取ろうとしたが、電話が全く通じなかった。今日の物故者の掲示で、彼が亡くなっていたことに愕然とした。8年ほど前に、彼と再会して楽しく歓談した。今度は訃報である。改めて自分が生かされていることに感謝である。70を過ぎたら、何時死んでもおかしくない。古希とは、古く希なる存在なのだ。私も5年間にがんを患い、一時は死を覚悟した身である。

 いつ死んでもおかしく無い自分である。精一杯生きていくために、世の中に役立つ身でありたいと思う。単に生き永らえたくはない。此の世で役立たなくなったら、お迎えが来ると覚悟している。

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  同級生の物故者を掲示

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 久志能幾研究所通信   春風秋雨

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 多くの動物は、生殖が終わると、そのまま死んでしまう。サケは、産卵が終わるとそのまま死である。カマキリは、生殖が終わると、雄は雌に頭から喰われてしまう。それが子供の栄養となる。雄は従容として雌に喰われる。それを思えば、人間は幸せだ。せめて社会に役立つような老いの生活をしたい。

 

同窓会で発見した多様性

 断捨離をすすめている仲間とお話しをした。その人は正規の職は退いたが、第二の職場でまだ現役である。現在、実家の整理中で、親や自分の写真等を全てシュレダーにかけて処分をしたという。思い出の品も全て捨てたという。親の写真の友人が写っていれば、それもその友人の個人情報なので、処分したという。位牌や遺骨もお寺に納め、墓じまいもしたという。断捨離をするか、しないかの、どちらが正しいというわけではない。

 そういう生き方もあるかと感心した。それは私と真逆であった。私はアルバム類を全て残している。お墓も新たに建立した

 お釈迦様はあの世が有るともないともおっしゃらず、ただ精進せよとだけ言い残され、旅立たれた。現世や来世をどう解釈するかは自分次第である。ただ精進さえすればよいのだ。お釈迦様は生前、ご自身の教えを強要はされなかったし、異教徒と戦われなかった。釈迦国に攻め入ってきた敵国にさえも、無抵抗であった。そして釈迦国は亡んだ。

 仏教は他の宗教に比べて寛容である。他の宗教では、その存在さえ許さない宗派がある。それが日本で他の宗教が普及しなかった理油であろう。

 人さまざまな価値観があるので、「皆違ってみんな良い」。これは金子みすゞの詩の一節である。これは仏教思想が入っている。他人の価値観を大事にするのは、お釈迦様の思想である。

 同窓会で多くも学びがあった。私はこれからの多くの想い出を作り、記録に残していきたい。全ての出会いに感謝である。

 

老いの季節に春の風

 今回の同窓会で一番の収穫は、テニスに誘われこと。70代の仲間の会である。最近の体力の衰えを痛感しているので、その回復の為テニスを再開しようと決意した。その前に体力復活の準備運動が必要ではある。遅くとも春までには参加しようと思う。これもご縁である。

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2024-01-07  久志能幾研究所通信 2798号  小田泰仙

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2024年1月 6日 (土)

看取り士、JAL516便炎上事故を俯瞰する 

 

 1月2日に羽田空港で起きたJAL516便炎上事故を見て自身の死を考えた。自分の臨終の場で、体が燃えている。体の細胞が悲鳴を上げている。その時、冷静に自分の死と向き合えるか。臓器の多くは死につつある。耳だけが少し機能している。医師が延命処置で、水分やカンフル剤を体に入れるが、体が拒否反応をするので、その水分や薬が体をますます苦しめる。

 死なない人はいない。何時かは来る死のときである。その時、冷静に対処できるか。今回のJAL516便事故で、その事態を想定した。どんな飛行機も飛び立てば、何時かは着陸(死)せねばならぬ。人は生れれば、必ず死ぬ運命だ。その時が平穏な着陸(穏やか死)か、突然の悲惨な着陸(悲惨死)かは、誰にも分らない。

 

 JAL123便は、1985年8月12日、機体後部の圧力隔壁が破損して、操縦不能に陥り迷走飛行の末、18時56分ごろ群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根に墜落した。長時間、死の恐怖に接して、最後は悲惨な死であった。世の中には、そういう死に際もある。今回は不幸中の幸いであった。

 

 「大丈夫だよ」と看取り士(CA)が優しく声をかける。「荷物は持ってはいけません」、死の時は何もあの世に持って行けないのだ。そのCA(看取り士)に身を任せて、脱出シューターに身を投げる。心配することもなく、安全に地上(極楽)に降りられた。

 

「何事にも先達はあらまほしきもの」

    出典:「徒然草(五十二段:仁和寺にある法師)」

 飛行機事故の際、自分ならどうしただろうと考えさせられた。突然の死もあることにも準備が必要である。自分の死は一大プロジェクトである。初めてのプロジェクトである。先達を信じて、十分に準備をしよう。人生の最初で最後である着陸は、美しくありたい。

 今回の航空機事故は、自分が看取り士の立場で考えさせられた事件であった。

 看取り士というご縁に出会えて感謝である。

 

 

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 着陸は美しくありたい

2024-01-06  久志能幾研究所通信 2797号  小田泰仙

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2023年12月 4日 (月)

看取り士の資格を取得、死の定義

 

 2023年12月3日、私は看取り学講座の上級講座を修了し、看取り士の資格を取得した。それで職業として働くためではない。死という生の現場知識を得るためである。自分自身のためにも、家族の為にも良かったと思う。

看取り士は観音菩薩、死をプロデュースする

http://yukioodaii.blog.enjoy.jp/blog/2023/07/post-bbed.html

 

紹介「看取り士養成講座」 - 久志能幾研究所通信

http://yukioodaii.blog.enjoy.jp/blog/2023/07/post-3fff.html

 

人生の最重要で最期のセレモニー

 今回、看取り士の資格を受講して、必ず訪れる「死」への準備として、看取り士の知識を得られた。それは人にも薦められる講座である。

 何事もリハーサルが必要である。死は人生で最大で最後のセレモニーである。いわば人生の卒業式である。それを自分の目で確認し、模擬体験として行い、その内容を体で完全に理解する。それこそが現地現物である(トヨタ生産システム)。

 

ご縁の賜物

 今回はたまたまご縁があり、私の飛行機好きを知る看取り士の方から、岐阜自衛隊飛行場祭の前日リハーサルへのご招待があった。その「餌」?に釣られての受講であった(笑)。ご縁として結果オーライで、良かったと思う。

 そのきっかけは私の大垣市政への不満であり、そのご縁で市会議員選挙のお手伝いをすることになり、そこで看取り士さんと巡り合ったというご縁である。私は「来たご縁は拒まず」「気になることはやってみよう」という人生哲学である。

 

医学的な死 

 今回の最大の収穫は、死の定義である。我々が知らされる「死」は医学的な死であって、本当の死ではない。

 生物としての死の定義は、時代、地域により異なる。看取り学講座の知識からではなく、今までの通俗的、経験的な事例から明らかになっている。

 

 医学的、社会的に人間の死を何処かで線引きしないと、社会の運営が成立しない。今の死の定義は、あくまで人間の勝手な取り決めである。それは臓器移植、終末医療の停止の線引き、金儲けに関係している。あくまで心肺停止、瞳の反応ゼロで死と判定しているだけである。

 しかし組織の50.01%が死んで、医師が死を判定しても、まだ組織の49.99%は生きている。体が生体反応をしないだけで、半分近くの組織はまだ生きている。それを死としてよいのか。聴覚は医学的な死後、数時間はまだ聞こえているという。

 

生物としての死

 終末医療を調べて分かったことは、人の死の直前の1年程は、段々と食が細くなり、痩せていくということだ(東京有明医療大学の川上嘉明教授の研究で)。そしてBMIが12を切ると急激に衰弱して死に向かう。

 その時は、いくら食べさせても、栄養素も水も受け付けなくなる。食欲もなくなる。その時に無理やり栄養剤を注入し、水を補給しても、体が受け付けない。老化して機能が低下した腎臓は、処理能力以上に体内に入ってきたの水を処理できなくなり、肺や血管等の臓器に水があふれ肺水腫等になる。

 このように無理やり水分を入れると、体重増加による、むくみ・呼吸困難・血圧上昇などの症状が現れ、心不全や肺水腫などの原因になる。その医療行為は死にゆく人には拷問のようになる。

 だから自然に任せて、枯れ木が自然に倒れるようにすることが宇宙根源の理にかなっている。枯れるように死ぬときは、神経も老化して鈍くなっているから苦しくない。それがあるべき穏やかな死である。それが生命を終える時の理想のソフトランディングである。その時に寄り添って、魂に安心を与え、安らか逝けるようお手伝いするのが、看取り士である。

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注) BMI=[体重]÷(身長)^2         身長はメートル単位

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  晩年の栄養量と体格指数(BMI)の関係

          (C)日刊ゲンダイ より引用

「老衰死」は数年前に予測できる?|日刊ゲンダイヘルスケア (nikkan-gendai.com)

https://hc.nikkan-gendai.com/articles/201981

 

日本古来の死の定義

 医学的な死は、我々が先祖代々で感じている死とは別である。我々日本人が先祖代々、伝えてきた伝統では、死後7日間はまだ生きているとして、自宅に寝かせて生前と同じように接する。どうもそれが正しいようだ。

 

人間としてのお別れ

 死後24時間は、まだ体は温かい。聴覚はまだ生きているようだ。故人の体に触れて、その温もりを感じ、故人との最後のお別れをするのが看取り学の作法である。だから看取り学では、死後24時間は、ドライアイスを入れないように葬儀屋に依頼する。遠方でも日本国内なら、24時間以内ならどこからでも、現地にたどり着けて、故人の温かい体に触れてお別れが出来る。

 

 ところが病院で死の場合、医師が死亡判定すると、家族との最後のお別れが慌ただしくさせられ、すぐ霊安室に運ばれドライアイスが入れられる。それで体が急速に冷たくなる。それで不可逆的な状態になり、本当の死となる。それでは臨終の場に間に合わない人は、遺体に触れてのお別れが出来ない。

 

大事な人とのお別れ

 大事な人とのお別れが、正しく、悔い無く、感謝して出来るような知識を得られた。もっと早く知っていれば、両親や多くの師の臨終に、正しく立ち会えたと思うとすこし悔いがある。しかしそれもご縁である。人間的な成長で、やっとこの歳でそれが分かるご縁を頂いたのだ、と思う。70にして69の非を知る、である。

 

馬場恵峰先生の事例

 馬場恵峰先生が2021年1月1日に亡くなられた。新潟の水谷社長は、その知らせを受けて、新潟から長崎まで(鉄路で1,600㎞)、高速道路を車で飛ばして、弔問に行かれた。所要時間約16時間以上と推定。当日は近来まれにみる大雪で、日本海側の高速道路を走れず、東京経由の高速道路を走ったという。

 水谷社長氏は、死後の先生の顔を見て、体に触り、声をかけて最後のお別れをされたようだ。そしてそのまま新潟にトンボ帰りをした。氏によれば「医師が死亡宣告をしても、まだ24時間は生きていると同じ」と言っておられた。それを思い出した。改めてM氏に畏敬の念を抱いた。

 それなら私も岐阜から長崎に飛んでいけばよかったと今にして思う。それもご縁である。そういう「縁が無かったと言う縁」である。まだまだ当時の私は人間的に未熟だったのだろう。

 

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 春風のようないい人に出会えたな、よい風が吹いたなと思ったら、もう秋がきて、別れの雨が降り、美しい花が散っていく。人生は春夏秋冬、春風秋雨である。


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 馬場恵峰書

  馬場恵峰先生は、最期まで現役であった。生前も全てを受け入れ、命を全うし、穏やかな死であった。94歳の天寿を全うされた。

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2023-12-04  久志能幾研究所通信 2782号  小田泰仙

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2023年11月29日 (水)

死の気配 死活の演出 死後の法要

 

 私は最近、生と死を真剣に考えるようになり、自分の死後の段取りを見直すことにした。「終活」ではなく、その後の「死活」である。

 死後の段取りを再検討すると、死後50年間の法要が明確に決まっていなかった。それで11月28日に、菩提寺に行って、住職さんと打ち合わせをした。

 私が5年前にがんになり、手術後、死後の各種段取りをしたが、約5年が経ったので、その見直しである。幸い、まだ死の気配がない?

 

何回忌まで、法事をするのか

 誰の葬儀でも、何回まで法事をするのか、決めておいたほうが、当人も遺族にも良いだろう。生前にその意思を確認しておいた方が良い。

 最近は7回忌で終りという家も増えている。通常は33回忌までが一般的である。50回忌まで勤める家は少ないようだ。当家では50回忌まできちんと執り行っているので、自分も50回忌までの手配をした。

 2年前に祖父の100回忌が回ってきたので、ご縁と思い執り行った。今年は祖母の50回忌を執り行った。

 

法事のレベル決め

 法事と言っても、親戚に集まってもらうわけではなく、お寺さんが私のためにお経を読んでくれるだけである。だからお花も特別な飾りもいらない。そう思って法要を簡素にしてもらうようにした。それで50年間で、約50万円の節約である。

 その法事の目的は、自分に対してお経を上げてもらうだけではない。その時の法事と同時に、当家のご先祖代々の諸精霊にもお経をあげてもらうことになる。それが主目的である。

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置いて逝く遺産

 この法事も自分がこの世に置いてゆく遺産である。それで安心して逝けるなら、幸せである。手を合わす対象があるということは、幸せである。カネと女と欲望だけの人生では空しい。それは畜生の人生だ。自分が此の世に生を受け、生きてこられたことに感謝することが人間としての務めである。病に倒れ、戦争で命を奪われたご先祖を思えば、自分は幸せである。手を合わす対象があると意識することが霊長類の資格だと思う。動物は、先祖に手を合わせない。

 知人に私の33回忌に参列してくれませんかと(冗談で)お願いしたら、拒否された? そこまでは生きていないとか?(笑)

 死後では自分では何もできない。しかし生前で、かつ元気であれば、そのプロジュースをすることが出来る。

 今回の打ち合わせで、自分の存在が死後50年間の法要に値するか、今後の生き方を考えるよい機会となった。今から後世に何を遺すのか、課題が見つかった。

 

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葬儀

 葬儀やり方も戒名も事前に決めた。墓誌に戒名も彫った。葬儀と戒名のお金も払った。看取りをされる段取りもした。看取り士の資格を取得中である。死亡の病名も決めた。老衰である(希望?)。

 

死に場所

 死に場所も決めた。自宅である(希望?)。数多くのチューブに繋がれて、身動きできず、苦しみながら病院で死にたくはない。病院にとって死は敗北であるようだ。だから患者が苦しもうが、拒否しようが、家族の希望が有れば、延命治療を強行する。それは患者を苦しめるだけだ。どうせ死ぬのだから、安らかに逝かせて欲しい。

 

位牌を手配

 来年、自分の位牌を手配することにした。そうすれば自分が納得出来る位牌になる。位牌の戒名で「○○院○○◎◎居士」と記された◎部を朱で書けばよい。没後、朱の部分を金箔で覆えばよい。それを仏壇の中ではなく、仏壇の横に置いておけばよい。

 お墓は8年前に改建すみである。改建当時、自分も入ることは全く頭になかった。人は必ず死ぬのだ。それに思い足らず、自分でも愚かであったと思う。

 戒名は既に頂いていて、墓誌にも刻字すみである。私はまだ生きているので、墓誌の戒名には朱を入れている。

 

遺影を準備

 5年前の手術前に、覚悟して写真館で遺影の写真は撮った。CDに記録はしたが、それを正式の写真として印画することを忘れていた。うかうかすると、何処にしまったのか忘れてしまう。だから、印画を実施することにした。

 

家系図

 お寺さんと打ち合わせをして、良かったことは、ご本尊様の扱いを決めたこと。位牌堂に入れる品を再確認できたこと。その中に家系図を入れることを住職さんから提案され、決めたこと。

 その家系図は、お墓を改建する時、ふとしたご縁から1734年前の最古参のご先祖の記録が菩提寺の奥の蔵から出てきた。それから後の家系図を完成させたことができた。それで約150名のご先祖の家系図を作成した。その調査のため東奔西走で大変であった。今の体力ではとてもできない。お墓造りも同じである。今では中国の経済状態が激変して、今では当時のお墓を作れない。お墓の石の加工は中国でおこなった。まさにめぐり合わせを感じるこの頃である。

 何ごとも、出来る時にやっておかないと、出来ない。だから死の準備は早い方がよい。だれにでも死は必然である。それもある日突然である。

 

死の気配

 住職さんの話で興味深かったのは、最近の檀家さんの動向のお話しである。最近、立て続けにお別れに来られた檀家が数名いたという。自分で死期を悟り、お別れに菩提寺を訪れたという。実際、その後しばらくして、亡くなられたという。住職さんも、その気配をその人から感じたという。

 ちなみに住職さんは私の顔色を見て、そんな気配はないという。それは今回、菩提寺を訪問して得た最大のご褒美である。

 しかし油断大敵である。人の明日は分からない。なにせどんな人でも、70歳になれば、30歳台に比べ、筋力量、免疫力は半分に減っている。脳の体積も40歳台に比べれば、15%も減っている。脳の体積は40歳以降、年に0.5%ずつ減っていく。

 80歳にもなれば、全員ががんを体内に持っている(老人医療の専門家・和田秀樹医師の話)。

どんな生物でも生老病死である。

何時までもあると思うな親と金、そして自分の命。

人生の日暮れは近い。人生の大事を急ごう。

死を意識することは、今を全力で悔いなく生きる事。

 

 

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 馬場恵峰書

 

2023-11-29  久志能幾研究所通信 2779号  小田泰仙

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2023年11月24日 (金)

生と死を考える 戦時下の生と死と現在

 

 2023年10月14日、「生と死を考える会」で籠原明子氏の「戦時下における生と死と現在 (古川会長との対談形式)」の講演が行われた。約40名の参加者であった。

 戦前戦中の政府の無責任な政策で、国民が生死をさ迷った現実を籠原明子氏と古川会長が対談で紹介された。彼女は、1946年、家族が満州から引き揚げてきた時、まだ4歳の少女だった。古川秀昭会長は旧満州で生まれ、2歳の時、旧満州から引き揚げてこられた。

 私は満州移民政策の情報をおぼろげにしか知っていなかったので、その現実の悲惨さに驚いた。多くの日本人も知らないと思う。マスゴミ界でもタブーの話のようだ。それを紹介する。

 

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結論と戒め

 似非エリートどもは、自分の頭で考えず、外国の手法を取り入れて、立身出世しようとする。そんな輩が国に指導層に立つと、国を滅ぼすことになる、実際にそうなった。そういう話である。

 現代でも同じようなことが行われている。我々はしっかりと覚醒しないと殺される。現代でも利権まみれの政治家、官僚が日本を滅びに道に引導している。

 岸田は「日本で一番偉くなりたい」だけの目的で首相になった。日本をこうしたいなどというビジョンは皆無であった。増税クソメガネと揶揄される彼は、増税の政策ばかりで、日本の未来への施策は無為無策で、国民の生活を貧困化させている。彼は日本国を崩壊に導いている。増税クソメガネは、上級官僚と上級国民だけがいい思いが出来る国にしたいようだ。米国は30年前に比べて給与は2倍になったが、日本のそれは逆に30年前よりも下がっている。

 今年、日本では公費での葬祭費が過去最高の110億円を超えた。その件数が52,2561件(2023年10月速報値)となり、昨年度より7.7%も増え、無縁仏が激増している。だれがこんな情けない国にしたのだ。

 

満州移民政策、棄民政策

 昭和15年、満州への400万人の移民計画を、軍部のエリートが立案した。それは、西洋諸国の植民地政策を真似して手柄にしよとした似非エリートどもの仕業である。

 

 政府の半ば強引な移民政策で、27万人が満州に開拓農民として移住した。もしソ連と戦争になったら、棄民として移民させた国民を捨てる計画であった。移民者は各県にその数が割り当てられた。その移民先の満州の土地には当然、そこに住んでいた中国人がいる。その中国人の土地を極めて安い値段で買い叩き、元の住民を追い出した。それでは中国人に恨まれて当然である。同じ手法で、欧米列強はアジアを植民地化していった。日本の軍部はその手法を真似したのだ。

  政府は、中国人は劣った人種だと入植者に洗脳教育をして送り込んだ。だから入植者は、そういう目で相手を見て接した。入植者の子供もそういう風に教えられて、子供が現地の中国人を見下していた。

 終戦後、立場が変わり、そういう中国人たちがが恨みを持って日本人達を襲ってきた。そうでなく普通に接した人たちは襲われなかった。襲われる村とそうでない村とにきれいに分かれたと言う。因果応報を端的に表す事象である。因果応報は極限状態の時、現れるようだ。

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 満州の和泉村開拓団に302人が入植した。冬は零下30度まで気温が下がる厳しい土地である。敗戦後、生きて日本に帰れたのは155人だけ

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敗戦の混乱 

 昭和20年8月9日、ソ連が満州に攻め込んできた後は、ソ連と周りの中国人が全て敵となった。昭和20年8月15日に正式に終戦を迎え、昭和21年10月まで、流浪した日本人は帰還の船に乗るまで、約1年間を極寒の中国国土で乞食同然の状態で、逃げ出した開拓地から港まで約1000キロの道を放浪のように歩いたという。

 当時、攻めてきたロシア兵に若い女性を貢いで、村民の命を守ったという悲惨な現実を見なければならない。それで身ごもり、自ら命を絶った娘さんも数多くいたようだ。それを強いた村長を責めることはできまい。そういう状況に陥らせた国のトップの責任である。

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 旧満州は平均気温 2℃~8℃ , 最低気温は -20℃~‐40℃

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 多くの引揚者は、中国各地で生きるために乞食同然の生活を1年程過ごさねばならなかった。旧満州に移民した人の4割(約108,000人)が現地で悲惨な最期を迎えた。そして多くの中国残留孤児が現地に残された。2022年8月1日現在、永住帰国した中国残留邦人とその家族は20,911人。

 満州に日本の未来があると騙して、強制的に満州に移民させた政府の高官の傲慢さの犠牲となった国民の末路である。それを宣伝した当時の新聞社にも責任がある。政府高官の傲慢さに国民がツケを払った形だ。

 

旧満州政策83年後の現在

 戦時中の昭和19年は、280万人が生まれた。しかし令和5年の現在、新生児は80万人台である(令和3年、新生児は 811,604人)。このままでは日本は滅亡である。

 前述の悲惨な経験があるから、籠原明子氏は、このまま死んでなんかいられない、現状の日本の何とかせねば、との思いで著書に記した。

 

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 籠原あき著『あなたはどこにいるのか』春秋社 1800円

 

 2023年の現代でも、昔と同じ構成の特権階級の施策で、国民が悲惨な生活を強いられている。昔とその構造は変わっていない。それを我々は変えて行かねばならぬ。少子高齢化になったのは、政治の問題である。

 

 日本のマスゴミの汚い話と合わせて考えると、日本を何とかせねばとの思いを新たにした。この話は、マスゴミに多くの責任があるが、この話はマスゴミの恥部のようで、「皆には黙っていよう」と口裏を合わせ、報道をしないようだ。だから多くの日本人がこの事実を知らない。私も知らなかった。

 

 我々がやるべきことは、先人の苦労、過ちを真摯に見つめ、自分はどうすべきかを考えることなのだ。それが無念の死を遂げたご先祖を供養することだ。人間は同じ過ちを何度も繰り返している。せめて同じ誤った道を通らないことだ。政治に関心を向けることだ。日本が世界地図から消滅しないために、意思表示をすることだ。

 

 

2023-11-24  久志能幾研究所通信 2777号  小田泰仙

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2023年11月19日 (日)

カテゴリー追加「生と死を考える階」

 

 先日、「岐阜・生と死を考える会」に入会して、毎月の例会で生と死に関する講演会を聴いている。今後、その記事を掲載します。

岐阜・生と死を考える会

https://www.chubu-gu.ac.jp/event/seitoshi.html

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 現在、看取り士の資格を取るため、講習を受けている。看取り士の受講講座の初級講座と中級講座が終わり、12月に上級講習を受ける予定である。

 どちらも、生と死を考え上で、良いご縁の出会いであった。そのご縁は、まさに「盲亀流木」のめぐり合わせであった。

 

看取り士は観音菩薩、死をプロデュースする

http://yukioodaii.blog.enjoy.jp/blog/2023/07/post-bbed.html

 

紹介「看取り士養成講座」 - 久志能幾研究所通信

http://yukioodaii.blog.enjoy.jp/blog/2023/07/post-3fff.html

 

 注):「生と死を考える階」の「階」は、「会」でなく意識して選択した。人間稼業を長年やってきて、やっと生と死を考える段階になった。その「階」である。

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2023-11-19  久志能幾研究所通信 2772号  小田泰仙

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2023年11月 8日 (水)

何を置いて逝くのか 残るのは線香の煙だけ

夢追いて 体は老いて 煙置く

 

 人間は一生をかけて(80年×365日=29,200日)、何を現世に置いてあの世に旅たつのか。土でできた肉体は、いつかは土に帰る。土でできた肉体は大きな器である。その器に何を入れて昇華させるのか。それが人間の生き様であり、成果である。かけた時間に相応して、人生が決まり、昇華する価値が決まる。

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            新人教育テキスト「修身」2004年

 

 

人生のチェックアウト

 人は人生ホテルに、裸でチェックインして、裸でチェックアウトする。ホテル滞在中の衣食住は、天からの借り物で、チェックアウト時は全て置いて逝く。どんな立派なホテルに泊まっても、いつかはチェックアウトしなければならない。

 それも自分の意思ではなく、ある日突然にお呼びがかかる。死神運転手が「お迎え」の車で来た時、乗車拒否はできない。向こうだって年功序列の搬送計画がある。運転手も上司の閻魔様の御指示には逆らえない。死は云わば、あの世の裁判所からの出頭命令だ。その時、身に着けるのは経帷子のみ。その時、何を置いて逝くのか。

 各学年の進級(その学年生活の死)、学校の卒業(学校生活の死)、会社人生の定年(会社人生の死)、定年後の第二の人生の死がある。どんな人生でも、どんなプロジェクトでも、生老病死であり、必ずその終りがくる。恋愛だって生老病死である。情熱的な恋愛でも永遠には続かない。どんな恋愛もいつかは冷める。青春の情熱は一瞬である。

 生は偶然だが、死は必然である。

 そこに何を置いて逝くのか、すべて生を受けた時に計画した志次第である。

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何を遺すか

 死とは肉体的な死だけを意味しない。例えばある部署に部門長として人事異動して、規定の任期を勤めて、その部署を去る場合は、その任期という生命体の「死」である。部門長としてある事業を任された場合、その任期中に何を創り上げるか、何を遺すか、それが問われる。その任期後、人事異動で別に部署に移動すれば、その人が存在したという事実は煙となる。しかしその人がその部署に残した「何か」がその人の昇華物なのだ。それが問われる。

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回想 

 上記資料は、私が前職で、新入社員教育カリキュラムの中の「修身」の講義で使った。当時の新入社員も今は40歳超えである。この20年をどう過ごしたのか、聞いてみたい。

 この6年後の私の定年時の挨拶回りで、社内を回った時、私の講義を聞いてくれた営業マン中堅(女性)は、その講義を良かったと言ってくれた。嬉しかった。人生を考える上で、自分でも良い講義をしたと思う。

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 今からでも遅くない

 定年になって1年目は、第二の人生の新入生である。人生を考えることは、定年後のシニア世代でも、余命が僅かの人でも構わない。何時から始めても、遅いことはない。残りの時間を、何にお金を使い、何に時間を使い、誰と出会い、何を計画したかで、人生の最終仕上げの出来栄えが変わる。今ここに全力をかけよう。

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Photo

 馬場恵峰書

 

2023-11-08  久志能幾研究所通信 2770号  小田泰仙

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