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2019年6月26日 (水)

「大漁」の陰に大量殺戮あり

大漁

朝焼け小焼だ、大漁だ

大羽鰮(おおばいわし)の 大漁だ。

浜は祭りのようだけど、

海のなかでは 何万の、

鰮(いわし)のとむらいするだろう。

            金子みすゞ

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  馬場恵峰書「金子みすゞ 詩の世界 五十五恵峰選集」久志能幾研究所刊 より

 

 2019年6月24日、注文してあった中島潔画伯の「大漁」のリトグラフが自宅に納入された。これは先月のヤナゲンでの中島潔展示会で、最後の一枚だと言われて、つい買ってしまった絵である。まじかでこの絵を眺めていて、深刻な問題を連想し、それについて思索した。

 

大漁は大量殺戮

 表向きは、華やかな大戦果(大漁)と言われている歴史的事件に、裏から見ると悲惨な大量殺戮がある。それなのに意図的に歴史の闇の中に葬られている。それは欧州の大航海時代、アメリカの建国史、米軍の東京大空襲、中国の驚異的発展、オンデマンド臓器ドナー提供、現代の少子高齢化の問題である。

 

第三の眼は慈しみの眼

 この「大漁」の絵で、100匹以上も描かれている大羽鰮のその目は、全て白目である。大漁で捕獲された大量の鰮の死を表現している。この絵を見ていると、金子みすゞの優しい心が伝わってくる。その視点で歴史の事件を見ると、多くの裏の世界が見えてくる。慈悲の心が出れば、額の真ん中に付いている第三の眼を開く。

 何万もの死んだ鰮を見つめる女の子の眼は、慈悲に満ちている。観音様が慈しみで見つめている眼である。ミケランジェロのピエタのマリア様の眼と同じ眼差しである。過酷な運命に対してマリア様ができることは、ただ慈しみの眼で見るしかないのだ。ピエタとはイタリア語で慈悲という意味である。

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 中島潔画伯「大漁」

P1070127s   中島潔画伯「大漁」(部分)

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 ミケランジェロ「ピエタ」 著者撮影

 

輪廻転生

 何故、自分は人間に生まれたのか? 現代社会は人間謳歌であるが、少しDNAの配列が違っていれば、牛や豚に生まれて、人間に食べられる存在になっていたかもしれない。それを諫めた教えが、仏教の輪廻転生、因果応報、利他、小欲である。それはグローバル経済主義の対極の考えである。

 

血に染まったアメリカ建国史

 アメリカは、世界一の国と自慢しているが、そのアメリカ建国の陰で950万人のインディアン(現地人)が虐殺された。当時1000万人いたと言われるインディアンは、現在では50万人しか残っていない。インディアンが悪者の西部劇は、勝者の物語である。ヨーロッパから大西洋を渡ってきた落ちこぼれのヨーロッパ人(英国人)は、入植当時、インディアンにトウモロコシなどの栽培方法を教えてもらい、飢えをしのいだ。英国人はその恩人の土地を強奪して、恩人のインディアンを虐殺して、アメリカは建国された。アメリカにとって、新天地の開拓は、アメリカンドリームであった。それは「大漁だ、大漁だ」の宴であった。

 

ヨーロッパの大漁

 17~20世紀のヨーロッパの繁栄は、大航海時代と言われる。それはアフリカから現地人を奴隷として強奪し、アジアを植民地にしてその生き血を吸うことで実現できた。何万、何百万もの有色人種の財産を強奪すれば、大漁だ、大漁だと貴族生活を送ることが出来る。その陰で、多くのアフリカ人、アジア人の死があった。インドでは英国の植民地支配下で2000万人が餓死をした。キリスト教では、キリスト教徒以外は人間でないので、罪の意識もない。それは当時のローマ法王も黙認のことであった。

 

東京大空襲の大勝利

 米空軍カーチス・ルメイ大将の指揮で日本全土の空襲が行われた。米軍はそれで戦争を早期に終結できたと大自慢である。特に1945年3月10の東京大空襲では、単独の空襲では世界史上最大の犠牲者が出た。死者10万人以上、罹災者100万人以上である。ジェノサイドである。それなのに戦後、ルメイは日本の航空自衛隊の育成に貢献したとして勲一等旭日章が叙勲された。通常、勲一等旭日章の授与は天皇がされるが、昭和天皇はこれを拒否された。

 米軍は戦争を早期に終わらせれた大成果だ(大漁だ、大漁だ)と自慢しているが、その陰で、東京大空襲だけでも非戦闘員10万人以上の弔いがあった。ジェノサイドとして、中島潔画伯作「大漁」の鰮が、焼死した東京都民を思い出させてくれた。 

 

天安門事件の陰

 天安門事件で、約1万人(英国情報局の調査数字)の学生を戦車でひき殺し、銃で学生を殺害して、盛り上がった民主主義の声を押しつぶした。邪魔者は殺して、中国共産党は今の経済成長を達成した。多くの学生の犠牲の陰に今の繁栄がある。

 中国共産党にとって、今の繁栄は、世界第二位の経済大国として大漁だ、大漁だ、である。中国共産党は、先進国が膨大な金をかけて開発した技術を盗み、奴隷のような労働で製品を生産させ、政府の補助金を投入して製品を安くして輸出した。それではルールを守る先進国が勝てるはずがない。激安の中国製品の輸出攻勢をうけた先進国で、多くの「鰮」の弔いがあった。会社をたたんだ経営者や、失業した人も多くいた。「鰮の死」である。

 

オンデマンド臓器

 臓器移植が必要な患者が、中国に渡ると、臓器移植のドナーが48時間以内見つかったと喜ぶ。その陰で、オンデマンドで、強制収容所内で囚人が殺されている。売るために臓器を取り出されているウルグアイ、チベットの少数民族の人達が鰮のように殺される。たった一人の病気の回復(大漁)の為、多くの人が殺されている。

 だからトランプ大統領は人権問題として怒っているのだ。詳細は下記Newsweek社の記事「民衆法廷「中国は犯罪国家」と断罪」(「良心の囚人」からの強制臓器収奪は今も続いている)を参照ください。

https://www.newsweekjapan.jp/kimura/2019/06/post-56.php

 

奴隷労働と100円ショップ

 100円ショップで、多くの品を買って、「大漁だ、大漁だ」とご満悦になっているその陰で、奴隷のような労働環境で働かされて100金の製品を作らされている海外の子供たちがいる。100円の製品を喜んで買う人が多いが、その商品が売れれば、正規で作られた日本製品が売れず、その分の雇用が日本からなくなる。そして日本全体の給与が下がっていく。失業者が出る。そこまで考えて、100円ショップでモノを買っている人は考えているだろうか。その購買は、自分で自分の首を絞めている行為なのだ。だから私は絶対に100円ショップに行かない。

 

少子高齢化の元凶

 今の日本の繁栄も、陰で多くの安い賃金の派遣社員、奴隷のような待遇の外国労働者の働きがあって、成り立っている。コンビニに行くとアジアの若者の店員ばかりである。大漁だ、大漁だと浮かれている場合ではない。

 小泉首相の構造改革以来、日本では大企業優先で、グローバル経済主義化が進んだ。企業は海外に工場を作り、日本の生産を減らし、正規社員を減らし、派遣社員を増やして、全体の給与を上げない。だから日本のサラリーマンの給与は、この20年で50万円近くも下がった。だから若者が結婚できず車も買えず、結果として少子化が止らない。景気も良くならない。全て政府がグローバル経済化を推進してきた結果である。その浮いた金は、国民には回らず、大企業の内部留保になっている。

 そして自殺者が構造改革以降、3万人超えが長く続いた。多くの「鰮」が死んだのだ。

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日本のサラリーマンの平均年収の推移

 

ブログ K's Strategy.「日本人サラリーマンの平均年収の推移と中央値について。」より

http://k-strategy.net/japanese-average-annual-income

 

我々がすべき行動

 国会議員の中には大企業優先でグローバル経済主義の推進を図る輩も多い。中韓と癒着して己に利益誘導する輩も多い。そういう利権がらみの議員を選挙で選んだ我々にも責任がある。次回の選挙では、そういう議員は落選させねば、国が亡ぶ。我々は、大量の死(大漁)を漫然と見つめるのではなく、行動を起こさねば、ゆでガエルのように殺される。そのためには声をあげること、選挙で拒否の意志を示すことである。

 

2019-06-26   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2018年9月12日 (水)

一国は一人によって興り、一人によって亡ぶ

 一国に限らない。市も会社も組合も自治会も家庭も同じである。その興亡の要となるものは、指導者の徳である。

 

古代史

 シーザーによって1000年も続いたローマ帝国が成った。これは史上最長の帝国である。その後に、スペイン、オランダ、英国が帝国を築くが、その繁栄は100年しか続かない。

 

第二次世界大戦史

 ルーズベルト大統領は、戦争をやりたくて仕方がなかった。その画策で、日本は戦争に追い込まれた。世界中が戦争に巻き込まれた。当時のABCD経済封鎖とハルノートの最期通牒は、戦争宣告と同じである。日本は、立ち上がらないと、日本中に失業者が溢れる状態になり、人が餓死して国が倒産する状況に追い込まれていた。「おしん」も東北大飢饉の影響で、僅か米俵1俵で奉公に売られた。そんな貧しい時代の日本があった。それが遠因で226事件が起きた。その貧しい資源の無い日本に対して、経済封鎖は死刑宣告同然である。そうやって日本が先に手を出すように仕向けたルーズベルトである。

 指導力あるリーダがいなかったので、日本は中国から撤退できず、米国の策謀に嵌まって、太平洋戦争に突入した。指導部は終戦の決断もできず、天皇陛下のご聖断でやっと終戦となった。

 ヒットラーの狂気で、ドイツが破滅した。

 スターリンの狂気で、5000万人が殺されたソ連の暗黒時代がある。スターリンの支配で、父と叔父がシベリヤ抑留の憂き目にあった。その叔父はシベリヤの土になった。

 牟田口廉也中将の功名心に取りつかれた狂気で、叔父がインパール作戦でビルマの土になった。

 

現代史

 岸首相の決断で日米安保条約ができて、日本は安定した経済成長ができた。それがなければ、赤い国に侵略されたかも知れない。

 毛沢東の誤指導で2000万人が餓死した大躍進時代がある。

 習近平の指先一つの指示で、赤い中国が、反日活動で燃えたり、友好関係になったりとカメレオンの様である。

 鉄の女サッチャーの経済指導で蘇った英国がある。

 メルケルの誤った移民政策で混乱を極めるドイツと欧州がある

 村上富市首相の危機管理意識無き判断で阪神大震災の救援対応が遅れ、助かるべき多くの命が失われた社会党の時代がある。

 鳩山・菅の首相で混乱を極めた民主党時代の哀しい日本の時代がある。

 北朝鮮の将軍様の指導で、北朝鮮は貧困のままに置かれている。

 トランプ大統領の指導で、アメリカファーストの体制が築かれつつある。

 

一人の指導者の判断

 全て一人の指導者が国を興し、一人の指導者の判断ミスで国を混乱に導き、国を滅亡させた歴史の事実である。遠い歴史の昔話ではなく、今我々が直面している現代歴史の現実である。

 

大垣行政の例

経済の無策

 小川敏大垣市長が17年間も君臨したので、大垣駅前商店街は餓死寸前になっている。大垣駅前商店街の61%がシャターを下した。文化関係に金をケチるので、大垣の芸術は衰退寸前である。

 他市がリ二ア景気に沸いているのに、大垣市駅前の地価は下落の一途である。大垣が名古屋のベットタウンに陥られて発展の足をすくわれている。大垣駅前商店街は衰退の一途である。

 

役人だけ甘い汁

 大垣市民の年収は、全国平均の100万円も少ない状態に置かれたままになった。それでいて、大垣市会議員の年収は全国の上位に位置する。

 小川敏市長の愚策で、大垣市制100周年記念行事に、3億4千万円も散財をしているが、何一つ大垣の未来には貢献しない。潤うのは、役人と結託した業者だけ。ますます大垣は衰退していく。

 

生徒は悲惨

 大垣市長の驕りで、豪華な新市庁舎は建つが、大垣市長の無策で大垣市内の小学校のエアコン普及率は県下最低である。人から言われて慌てて整備をする低落である。小川市長は、マスコミや政府、自民クラブから言われて、しぶしぶエアコン導入を来年度中と決めた。それも来年の6月迄ではないのだ。人から言われないとやらない情けない市長である。岐阜県の他市は殆ど100%の設置率である。今日でも遅いのに、来年度に設置など、遅すぎる。

 一人の指導者が正しい判断をすれば、こんな悲惨な大垣市にはならない。小川敏氏には徳がないからだ。

 

2018-09-12  久志能幾研究所 小田泰仙  

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2017年7月18日 (火)

辰姫の菩提寺に参拝

 辰姫は石田三成公の三女として誕生した。慶長3年(1598年)ごろの豊臣秀吉の死後、秀吉の正室・高台院(ねね・北政所)の養女となる奇縁を持つ。石田三成公は三女を北政所の養女にする深慮遠謀を図っている。北政所は徳川家康とも良好な関係にあり、戦国の世を生き延びる保険として養女の縁組をしたようだ。それが関ヶ原の戦いの後の子孫の延命につながったようだ。

 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで辰姫の父・石田三成が徳川家康に敗れた。その直後に、豊臣家中で親しくしていた津軽信建によって兄・重成とともに津軽へ逃されたとも、高台院の保護下で高台院の側近・孝蔵主に従って江戸に下り縁組を整えたともいわれる(孝蔵主は三成の娘で辰姫の姉である某(岡重政室)を通じて石田家と姻戚関係にある)。

女人の関ヶ原の戦い

 慶長15年(1610年)ごろ、辰姫は弘前藩2代目藩主の津軽信枚に嫁いだ。2人の仲は良好であったとみられるが、慶長18年(1613年)に徳川家康は、家康の養女・満天姫(家康の異父弟・松平康元の娘)を津軽信枚に降嫁させた。これに対し津軽家は、徳川家をはばかって満天姫を正室として迎え、辰姫は側室に降格となる悲運を迎える。この経緯を直木賞作家の葉室麟は『津軽双花』』(講談社)として小説に描いている。輿入れした満天姫は、徳川家康におねだりをして大阪城に飾ってあった「関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)」を嫁入り道具として津軽に持参した。辰姫にとって父・三成の負け戦を描いた屏風を津軽家に持ち込むのは、今まで正室であった自分に対する挑戦であると感じたのだろう。彼女の胸に浮かんだのは「父の仇」という言葉であったとして、『津軽双花のお話は展開する。この屏風は弘前市でも常設ではなく、企画展のときしか実物は見学できない。その実物大の屏風の写真が、大垣市郷土館に展示されている。

辰姫のその後

 辰姫は弘前藩が関ヶ原の戦いの論功行賞として得た上野国大舘(群馬県太田市)に移され、大舘御前と称された。その後も、津軽信枚は参勤交代の折は必ず大舘に立ち寄って辰姫と過ごし、元和5年(1619年)1月1日、信枚の長男・平蔵(後の信義・第3代藩主)が誕生する。この殿様は「じょっぱり殿様」と言われるくらい我が強い藩主であった。祖父が家康に挑んだあの三成であるという自負から来ているようだ。ご先祖がやるべきことを命をかけて為したことは、負けても子孫の誇りである。

 元和9年(1623年)、辰姫は大舘で死去した。享年32。墓所は群馬県太田市の東楊寺、青森県弘前市の貞昌寺にある。幼い平蔵は江戸の弘前藩邸に引き取られ、信枚の熱意により嗣子と認められ、信枚の死後藩主を継いだ。

辰姫の菩提寺に参拝

 その辰姫の廟が、弘前市の長勝寺に建立されている。2016年5月16日、新戸部さんの案内でそのお寺を訪問した。立派なお寺の構えで、辰姫の廟は荘厳な造りで圧倒された。その正面に葵の御紋が入った御印があった。辰姫は家康の計らいで側室に落とされることになったが、本来は正室であった証として飾ってあるようで、津軽信枚の辰姫への慈しみを感じた。

貞昌寺の庭園

 辰姫のお墓は市内の菩提寺である貞昌寺にあり、立派な五輪の塔が辰姫の墓として建立されていた。お墓に参る前に、お寺のお庭を見学させて頂いて、驚嘆した。京都にあったとしても不思議ではない高いレベルの庭の造りである。こんな立派な観光資源が、あまり人知れず放置されているのは、地元の損失であると新戸部さんが嘆いていた。その新戸部さんも今回が初めての訪問であった。それが発見できた今回の旅に感謝である。地元には観光資源のお宝が埋まっている。このお宝を、歴女たちにももっと広報すべきでしょう。

 

図1 長勝寺

図2 長勝寺山門の説明

図3 辰姫の廟。その奥に弘前藩主の廟が5つ並び重要文化財に指定されている

図4 辰姫の廟の軒先に葵の御紋が飾られている

図5 辰姫の菩提寺 貞昌寺の庭

図6 辰姫のお墓(左より2つ目) 貞昌寺

 

2017-07-18

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2017年7月17日 (月)

石田三成公の孤軍奮闘

石田三成の人相鑑定

 石田三成家の末裔である杉山家に伝わる石田三成の肖像画は、各種伝わる肖像画の中で、一番信頼のおける肖像画と言われている。石田三成公の地元の彦根市民族歴史課でも、最近はこの肖像画を使っている。この肖像画から人相鑑定をすると、三成公は反っ歯ではあるが鼻筋が通った細面の端正な顔つきである。顎も張っていないので、温厚な性格である。狡猾な印象はなく、相手を威圧するような目つきもなく、真面目なお役人といった風貌である。豪傑風な戦国大名とはかけ離れている。実務面でも、彦根佐和山の城主であったときも、質素な城造りで名君として領民から慕われていた。実戦面でも華々しい戦いの武勇伝はなく、後方支援、兵站、実務処理と豊臣秀吉がまき散らしたトラブルを黙って後始末して歩いた人物である。それが肖像画からもうかがえる。そんな実直な仕事ぶりは、武勇伝に長け豪放な戦国武将の加藤清正や福島正則とはそりが合わないだろう。三成公の公務員のような実直な性格では、人望も少なかったようだ。

三成と家康の戦い

 しかし豊臣家に対しては、彼は真の忠臣であった。福島正則も関ヶ原の戦いから大阪夏の陣に至る過程で、豊臣家が徐々に滅ぼされていく様を眺めていて最後は「石田三成が豊臣家の一番の忠臣であった」と言わしめた。福島正則は石田三成に対抗して結果として豊臣家を裏切り、徳川家に加勢をした。家康の真意が分かった時は手遅れであった。それだけ家康の狡猾な手口に、単純な福島正則は騙された。

 石田三成公は、負けを悟りながらも、窮鼠猫を咬むが如きの行動が関ヶ原の戦いである。国力の差から言って、開戦前から負けるのが分かっていたのが日米戦争である。それでも敢えて戦いに向かった。戦争でも、正義が勝つことはない。タヌキと狐の騙しあいで、正義を嘘で捏造する戦略に長け、勝つための戦略を緻密に練った方が勝つ。家康が勝ち、米国が勝った。お釈迦様の王国も、無抵抗のまま釈迦様の目の前で、敵に滅ぼされるのを見せられた。

 石田三成公の歴史を調べていくうち、米国のアイゼンハワー大統領と徳川家康が、石田三成と戦前の日本がダブって見えてきた。なぜ徳川家康は、石田三成を切腹ではなく、刑場で罪人として処刑して、京都三条河原に首を晒したのか。正々堂々と戦いをして敗れたのだから、武士としての尊厳を保つべきであった。その尊厳を無視したのには、家康の後ろめたさがあったとしか思えない。奸計と言いがかりで豊臣家を追い落とし、天下を盗ろうとした家康の動きを石田三成公は見抜き、豊臣家の忠臣として命を投げ出して動き、結果として天下分け目の戦いの関ヶ原の戦いで敗軍の将となる。それゆえ徳川家康にとって石田三成は悪者でなければならなかった。それが罪人扱いの処刑と三条河原での首の晒しになる。江戸時代も幕府体制を守るため徹底的に石田三成公は悪者でなければならなかった。それは勝者側の歴史の都合であった。

日本と米国の戦い

 なぜ米国は今までの慣例を無視して国際法上で違法の東京裁判で日本の指導者を晒し者にして絞首刑にしたのか。太平洋戦争で米軍と戦ったご先祖は、アジアを植民地にして帝国を拡張して植民地の生き血を吸うために戦ったのではない。米国こそが、フィリピンやハワイを植民地にして住民の生き血を吸っていた。米国はその悪魔の触手を中国に伸ばそうとしたが、日本に邪魔されたので、仕返しに奸計を用いて原油等の経済封鎖を敢行した。そのままでは、失業者が日本中に溢れて経済破綻をする。それを防ぐため、自衛のために立ち上がったのが日米開戦の経緯である。一時期、日本は全世界(白人の植民地帝国主義)を相手に戦ったことになる。そんな国は歴史上で存在しない。それは戦後、マッカーサが米国議会で証言をしている。その米国が戦争に仕向けた奸計が露見しては、米国にとって不都合なので、徹底的に日本が悪かったとする茶番劇を東京裁判で開演して、指導者を絞首刑にした。国際法違反の裁判である。まるで無法地帯の侵略者アメリカ人が、先住民インディアンを虐殺して邪魔者を絞首刑にした無法者の所業である。そして占領軍として、日本が再度、米国に刃向かわないように、徹底的に戦前の日本の土台を壊していった。米国にとって日本の指導者は悪として置かないと、米国の「正義」の立場が崩れるからだ。広島原爆投下の戦争責任を封じ込める必要があった。

 まるで家康が石田三成公を抹殺して、豊臣家の影をこの世から消すがごときの所業である。江戸時代も石田三成悪者説が続いたのは、大阪の陣で豊臣家の結束の恐ろしさを身に染みて感じて、二度と豊臣家の亡霊が出てこないようにしたためである。それと同じように、日本軍との戦いで、特攻や玉砕、勇猛なる日本兵の恐ろしさに震え上がった米軍と似ている。戦いに勝利した後の殲滅作戦では、徳川家康と米国占領軍がダブって見えるように、石田三成公の行動は日本とダブって見える。

獅子身中の虫

 そんな米国の洗脳教育に侵された左翼が、自衛隊を「人殺し集団」と、選挙でわめいている。自衛隊が大震災の時、国民を助けた。左翼は批判だけでなにもしない。隣国は日本の不幸に喝采を上げた。左翼は人として忘恩の冷血漢である。左翼は毎日、日本国土に領海侵犯をしてくる隣国の横暴には口を閉じる。反対だけして国を滅亡の方に押しやっている。せめて日本の進むべき道の邪魔をしないでほしい。強欲主義の帝国主義はいまだ健在である。それはグローバル経済主義と美しい名に変身して繁殖中である。その害毒に気づいて、英国国民はEUからの脱退に票を入れた。大資本家がバックのマスミは、EU脱退に批判的な記事を展開している。マスコミは日本人を痴呆化する番組を垂れ流し、毒になる嗜好品の食品・菓子・清涼飲料水類のCMを流し、日本人を半病人にして、またそれに対する薬のCMを流し、スポンサーから二重のうまい汁を吸っている。

 

図1 杉山家に伝わる石田三成肖像画

 

2017-07-17

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2017年7月16日 (日)

石田三成次男と弘前

 新戸部さんと種差海岸に行く車中の世間話で、石田三成の子孫の墓が弘前市内のお寺にあるという。石田三成公は関ヶ原の戦いの時、大垣城を作戦本部にした武将であり、彦根の佐和山城主として、井伊長政公が彦根に入城する前に彦根を治めた武将でもある。不思議なご縁を感じて、翌日(2016年5月16日)、お墓参りをすることにした。

石田三成の次男の運命

 そのお墓は宗徳寺の中に建立されていた。子孫の方がその墓所を守っている。その墓石に「豊臣家家臣」とあったので、当時の徳川の威光が全国に届いていた時代になんと大胆なことかと目を引いた。徳川の時代は豊臣氏の名が徹底的に排斥された。それが津軽では、豊臣の家臣の石田三成の子孫が家老として存命し、墓に「豊臣家家臣」と明記があるのには、歴史の錯綜を感じてしまう。家康は存外と心が広いようだ。

 1600年の関ヶ原の天下分け目の戦いで、石田三成は戦いに敗れ刑場で首を刎ねられた。刑場での罪人扱いの処刑は、戦国時代の戦いの結末としては異様である。戦国の時代でも、徳川家康は石田三成に対してこだわりがあったようだ。その次男が関ヶ原の戦いの後、津軽に落ち延びて、津軽藩の家老になり生涯を全うした。それを大目に見た徳川家康の対応に興味が湧く。本来なら、石田三成家の一族郎党の皆殺しが筋ではあるが、なぜか家康は石田三成の子孫を見逃している。次男の石田重成は、関ヶ原の戦い後、津軽信建の助力で畿内を脱出した。家康は深追いをしていない。石田重成は津軽氏に匿われ、杉山源吾を名乗り、後に家老職となり、子孫は津軽家臣として数家に分かれた。

石田三成の長男の運命

 長男の石田重家は、関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され出家した。父・三成と親交が深かった春屋宗園の弟子となり、宗亨と名乗って104歳(または103歳)の天寿を全うした。宗亨に帰依した弟子に祖心尼がおり、祖心尼は宗亨の甥にあたる岡吉右衛門に娘おたあを嫁がせている。

石田三成の人間の器

 石田三成の天敵というべき徳川家康の人柄と比較すると、石田三成の人間の器を考えざるを得ない。石田三成は豊臣秀吉に見いだされて、出世街道を驀進したエリートである。頭は切れた合理者である。朝鮮出兵でも後方の支援(ロジスティックス)の重要性を認識して対応して、そつなく仕事をこなした優秀な能吏であった。実戦より兵站を重視して論功行賞に当たったことが、人情に厚く戦に苦労した戦国武将の反感を買った。彼は豊臣家の為に、関ヶ原の戦いという事業を計画・遂行した。三成が豊臣家のお家大事との義と理は正しい。しかし現実の世界は、豊臣家の時代が終わっており、石田三成は理屈と現実が乖離している現実に納得できす、大人の対応ができなかった。もっと大人の対応を講じていれば、豊臣家が滅亡せず、大大名ではないが、徳川家康の時代にも生き延びる術はあったはず。勝つのではなく、負けない戦略が必要であった。

徳川家康の人間の器

 それに対して、徳川家康は、幼少時代は今川家の人質、戦国時代は織田信長の命令で、妻と長男を自らの手で殺させられた。世のあらゆる辛酸を舐めて、待ちに待って、我慢に我慢を重ねて天下を盗った老獪な知恵者である。苦労人の家康には、才覚はあるが苦労の薄い石田三成の敵ではなかった。石田三成の理想論には世の武将はついてこなかった。

 舛添元東京都知事のように、東大法学部を首席で卒業するほどの頭の良さだけでは、人はついてこない。頭がいいだけでは、世の中を動かせないのを徳川家康公の人生家訓が物語っている。合理的に考える能力の高い人は、合理的にしか考えられにない欠点を持つ。それでは人生を戦えない。私も還暦を過ぎてから、この人生の根本原則にたどり着いた。随分と遅い悟りではある。

 

図1 宗徳寺の山門(弘前市)

図2 宗徳寺 本堂

図3 杉山家の墓所

図4 杉山家の墓所の奥に石田三成の次男・重成のお墓

   豊臣家臣と字が彫られている

 

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石田三成公からの学び(改定)

 私は前職の会社に1973年入社し、数年後、私の二人目の指導員はM主任(当時)であった。Mさんは、石田三成の末裔の某課長から薫陶を受けていた。

「オレは、君が仕事のしやすいように環境は全て作ってやった。あと、君が仕事をするかしないかは君の自由だよ」とは、M主任の元上司であった生産管理部課長の指導の言葉である。

 私はその課長と数回だけ口をきいたことはあるが、明確には覚えていないのが残念である。太ってずんぐりした方との印象だけである。しかし、指導された言葉は大変キツイ。そうやって上司から言われると、大変である。私もMさんから、その言葉を暗に突きつけられて冷や汗をかいた。そこから学んだ私が部下に言うもっとキツイ一言は、「(体を張って)がんばらなくてもいいよ。(頭の汗をかいて)成果だけ出してくれればいいよ」。

ロジスティク重視 ⇒ 三成出世

 石田三成は、当時重要視されていなかた兵站(ロジスティク)で才能を発揮して、頭角を表した。言うなれば、「戦いの準備・後方支援は全て整えてやった。後の戦でどう戦うかは、おぬし達の頑張り次第だ」と三成は思っていたのだろう。「後方支援など、武将のやる仕事ではないわい」と思って三成を見下していた武将たちに、三成の評判は良くなかった。会社組織でも最前線の営業や開発部隊が偉いのではない。それを総合的に運営・管理する部隊があってこそ会社が存在できる。

ロジスティク軽視 ⇒ 日本敗戦

 第二次大戦での日本兵戦死の6割以上が餓死である。父の弟の小田五郎氏は、昭和19年、ビルマのインパール作戦中に戦死であるが、現実は食料、医療品の欠乏による、餓死、病死である。日本軍部はロジスティクスを軽視した。米英軍の兵站の戦力(兵站も戦力)をみると、日本は負けるべくして負けた。石田三成が苦労したことは、300年経った第二次大戦でも日本では教訓にされていない。歴史に学ばない民族は敗れる。戦争とは資源の配分の頭脳戦である。陸軍学校で何を教えていたのか。

 現代の経営では、ヒト、モノ、カネ、情報をいかに効率的に、タイミング良くビジネス戦地に投入できるかが問われる。それの効率を極限まで高めたのが、トヨタのカンバン方式である。その生産システムで、たった一つの部品の欠品で、30万人が働くラインが止まる。そのため生産管理システムの構築は精緻を極める。だからトヨタでは生産管理部門の権力は強大である。だから世界のトヨタとして君臨している。急成長したクロネコの足が絡めとられたのは、お粗末な配達人の手配の問題である。人の対応に失敗してその出鼻をくじかれ、2017年、赤字に転落した。

歴史に学ぶ

 経営も戦争である。石田三成に末裔の某課長も生産管理部で手腕を発揮したのはご先祖返りである。そんな石田三成のDNAを引き継ぎ、当時から部長の風格があった某課長であるが、そりの合わない家康の性格を悪くしたような上司が実権を握ると、次長にもなれず即、子会社に飛ばされた。知性があっても、きれいごとだけでは生きていけない。ある程度奸性も必要である。サラリーマンの人生は上司次第でもある。その上司も後日不祥事で会社を追われた。出世競争の苛烈さは戦国時代も、今も変わらない。

親と上司に贈られた環境を感謝

 自分の今の環境が、あって当たり前と思っている間は、人間としての成長はない。親も上司も師も、自分のために働ける環境や生きていく環境を、黙って整えてくれた。その中で恩を感じてどう働くか、どう生きていくかは、自分の責任である。うまく行かないのを人や環境のせいにするから、醜い争いが絶えない。それでは幸せはやってこない。

自家の兵站整備

 人生という戦いで、勝利に大きく影響するのは、兵站である。まず手近なことは、己の仕事がやり易い環境整備である。自宅の書斎とか睡眠の部屋の環境整備である。ハード面は、自分でお金をかければ誰にでもできる。それに設備投資をするかどうかだけである。もう一つが人間関係の整備である。気持ちよい人間関係を構築してこそ、財産である。そのためには、心理学・人相学・経営学・歴史の勉強が欠かせない。後方支援として、良き医師の友人と人生の師があれば、鬼に金棒である。

自社の兵站整備

 貴方が会社の経営者として、兵站に相当する、教育部、管理部、調達部、社内医局、資料室、渉外部、知財部の間接部門に目が届いているだろうか。営業部ばかりに注力して接待費を湯水のごとく使えば、会社は土台から腐っていく。前職の会社は、「教育は大事だ、大事だ」と念仏の如く唱えていたが、景気が悪くなると、真っ先に教育費を削減した。教育こそが、10年後に必要な兵站である。当面なくてもすんでしまうので、真っ先に削減して、10年後の危急存亡の時には、活躍してくれる人材が払拭している。兵站からの復讐である。

英霊への追善供養

 2010年、大垣に帰郷後、父の遺品を整理していて小田五郎氏の天皇陛下からの勲八等の表彰状(昭和41年7月30日発行)を発見した。時の佐藤栄作総理大臣の名が入っている。供養として、それを額に入れて座敷に飾った。五郎氏は英霊であるが、50回忌は終わっていた。この叙勲の表彰状を眺めているうち、また石田三成の兵站のことを思い出し、その苦労に報いる為、お墓を改建したおりに位牌を新作して仏壇に納めることにした。英霊への追善供養として院号を付けて頂くことにした。夫を早く亡くし、二人の子供が戦死をした当時、祖母は院号を付ける経済的余裕がなかったと思われる。不憫である。

 戒名とは引導をされる僧侶が弟子にするために授ける名前である。院号とは贈り名とも言われ、人の死後にその徳を称えて贈る称号である。業績のある方のためにお寺を建てると同じように、亡くなられた方の心の中にお寺を建て、来世の名前を戒名として授け、佛として修行をする名とする供養である。院号はお金を出しても、相応の功徳ことがないと付けてもらえないという。お寺によっては、いくらお金を積んでも付けてもらえない。

 小田五郎さんはビルマで昭和19年に戦死された英霊であり、「戰勲至誠居士」と立派な戒名が付けられている。至誠とは吉田松陰が好んで説いた『孟子』離婁上の言葉である。今回、お寺さんのご意向で、「護國院戰勲至誠居士」との立派な院号を付けて頂いた。院号についても今ままではあやふやな知識で、今回初めて詳細な知識を得た。人生知らないことばかりである

 

図1 死亡通知書

 

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2017年7月14日 (金)

正しく狂って酔狂道を共に歩く

 10年ほど前から東山魁夷画伯の描いた「道」の現地を見たいと思っており、本書『詞天王が詠う老計・死計』の執筆の過程で、現場写真を載せることを思い付き、現地に飛ぶ決断をした。青森の新戸部八州男さんのお言葉に甘えて現地に案内して頂いた。

 新戸部さんが現地の仲間に聞いても「道」の場所を知っている経営者は皆無であった。新戸部さんも58年も弘前っ子として「道」の存在は知っていたが、行ったこともないという。今回、現地を見たいという酔狂な男に初めて出会ったという。仲間の中には「ヒガシヤマカイイとは何ですか?」とまで言う人もいて、日本文化の歴史の風化をお互い嘆きあった。ネットで調べておおよその位置を割り出し、とにかく現地に向かった。

大垣祭りと石田三成公のご縁

 大垣祭りは2015年に文部科学省から文部国重要無形民俗文化財に指定し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に提案している。今年が指定後の初めての大垣祭りであったので、2016年5月14日、私も構えて写真を撮った。

 大垣まつりの軕の起源は、慶安元年(1648)に大垣城下町の総氏神であった八幡神社が、大垣藩主戸田氏鉄公により再建整備されたおり、城下18郷が喜びを神輿3社の寄進で表し、大垣10か町が10両の軕(出しもの)を造って曳回したのが始まりといわれている。2016年現在は13軕が整備されている。2017年現在は、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。

 「道」の現地撮影の翌々日に弘前のお寺を回って、大垣城に縁のある石田三成公の縁者のお寺や墓に参拝した。新戸部さんとのふとした話から出た石田三成公の縁者のお墓が弘前市内のお寺にあるとのことで、今年の大垣祭りの撮影はご縁の前哨戦になった。関ヶ原の戦い(1600年)で、西軍の大将の石田三成公は大垣城を作戦本拠地としていた。関ヶ原の戦いの後、戦勲あった戸田氏鉄公が大垣城主となった歴史である。

種差海岸の現地へ飛ぶ

 大垣祭りを撮影した翌日、2016年5月15日、小牧空港からFDAのERJ175で青森空港に飛んだ。青森空港に新戸部さんが迎えに来て、種差海岸の現地に向かった。 たかが一枚の絵「道」のスケッチ現場を見に、1,000キロも離れた場所に出かける酔狂さ、また空港から3時間も車を飛ばして案内された新戸部さんの酔狂さもお互い呆れものであった。そのご縁も2006年の前職の会社の合併から繋がったご縁であり、それがご縁で馬場恵峰先生とのご縁ができ、新戸部さんとご縁ができ、ご縁の不思議さを感じた。関ヶ原の戦いでは、馬場恵峰先生のご先祖馬場春信公の元家臣が井伊家の武将として赤備えで戦っている。

酔狂道のご縁

 今回の酔狂道には、大きなご縁が横たわっていた。馬場恵峰先生を介してご縁のあった友と一緒に歩いての発見である。やはり現地現物で、その現場に行かないと新たな発見はない。そのお陰で、ものの観方の再発見と400年前の歴史のご縁に出会えた。青森に埋まる観光資源、大垣・彦根と弘前が繋がるご縁の発見、行政の怠慢を垣間見た出張旅行でもあった。酔狂道もたまにはよいものだ。日々の心がけが良ければ、人は正しく狂うことで、佛様からの良きご縁に恵まれる。酔狂道とは夢の道。

 

図1 大垣祭り 試楽祭 2016年5月14日

図2 松竹軕の演台で長唄を舞う上田愛心さん(8歳)2016年

図3 FDAのERJ175

図4 青森を目指して

図5 ムジコクリエイト社長 新戸部八州男氏

図6 「道」の解説パネル

 

2017-07-13

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奴隷にされたご先祖

 対談『中西輝政・古田博司「国家が試されるとき」』(Will 2016年7月号)を読んでいて、シベリア抑留とは奴隷制度に起因することに納得した。欧米・支那の狩猟民族にとって、打ち負かした敵国の兵士は皆殺しにするか、捕虜として本国に連れ帰り奴隷として働かせるのが2000年来のDNAであった。

 かの高橋是清元総理大臣でも、アメリカ留学時(1867年)に騙されて売られ、奴隷にされて働かされた。アメリカの奴隷解放宣言は1865年であるが、黄色人種の日本人には適用されなかったようだ。米国人は異教徒を奴隷にすることになんら罪の意識は感じない。米国の南北戦争当時、(しぶしぶ、大義名分として)奴隷解放宣言をしたリンカーンでさえも、当初は南部の現状では黒人奴隷の存在はやむを得ないが、その拡大には反対する、という程度であった。自由貿易主義全盛であったイギリスは、産業資本家が奴隷制賛成の南部を支持したため、英国政府もそれに動かされていた。それが欧米のDNAである。

父のシベリア抑留

 父も終戦後、シベリアに抑留されたが、生きて帰れたから今の私の命がある。父の弟は、終戦後の昭和21年にシベリアの土になった。従兄は父の顔も見ずに育った。今川順夫名誉会長もシベリア抑留を経験し、重労働の辛酸をなめて帰国して、シベリアでの地獄の体験が今日の成功に繋がっている。今川順夫名誉会長も新地蔵菩薩尊の開眼法要で、「室村町4丁目地蔵菩薩尊に守られたようだ」と回想しておられた。出征に出かけるとき、地蔵尊に無事を願い、昭和27年に生還できた今川氏は、地蔵菩薩尊に感謝をしたという。今川氏を出迎えた地蔵菩薩尊は、大垣空襲(昭和20年7月29日)で身代わりとして黒焦げの状態であった。しかし今川さんを見つめる目は優しかった。

非道なシベリア抑留で邦人10万人が帰らぬ人となったが、ソ連が罪を認めたことはない。それはソ連が歴史的に奴隷制度を抱えた民族だからだ。勝った国は敗戦国の民を奴隷にするのが当然なのだ。ソ連にとって奴隷の生死など知ったことではない。それが、狩猟民族の本質である。

現代の奴隷制度

 現代でも奴隷制度は生きている。オーストラリアの富豪、アンドリュー・フォレスト氏が設立したウォーク・フリー財団の調査による『Global Slavery Index』は、世界167ヶ国で4,580万人が奴隷状態であると指摘する。これには日本も含まれ、ブラック企業で働き自殺をした若者も含まれる。これもある種の奴隷である。100円ショップの商品の製造で、低賃金で強制的に働かされているチャイナの子供たちは、奴隷と同じである。まともな労働対価では、絶対に100円では100円ショップ製品は作れない。奴隷として働かされて、作られた製品には魂が籠っていないので、すぐに壊れる。100円ショップで商品を買うとは、奴隷制度の黙認だから、私は絶対に利用しない。

 仏英独等の欧州で働く移民たちは、絶対に白人社会と同じレベルにはなれない。下積みの階層で、観光客には目の届かない世界・時間帯で働かされている。パリの街で早朝に歩くと、有色人種の人(元植民地からの移民達)がゴミ回収、道路掃除等で働いているのを見る。しかし昼間の観光客が溢れる街にはそんな姿は皆無である。白人の夢みたいな生活を望んで欧州に移民しても、現実は元の国よりはましであるが、奴隷状態が待ち受ける。その蓄積された恨みが現在欧州で頻発するテロの横行である。いくら警備を厳重にしても、根本原因が解決されない限り欧州でのテロはなくならない。

 米国でも有色人種の貧困からの脱出は困難を極める。結果として奴隷と同じ境遇で働いている。白人社会と黒人社会には目に見えないガラスの壁がある。現代でも、米国は白人警察官が黒人青年を射殺しても、大して罪に問われない白人優位の世界である。

日本史で奴隷は存在しない

 日本の歴史では、敗戦国の民衆の皆殺しや、強奪してきて奴隷として働かせた史実はない。支配階級のトップ(殿様)が腹を切って、上層部が入れ替われば領土の民衆は平穏である。平和な政権交代である。欧米・支那では元支配者の血縁者や民衆までを皆殺しにするのが普通である。『十八史略』には、王族の一族郎党の抹殺、民衆の大量虐殺が横行等の歴史の記述があり、身の毛がよだつ。それに比べて、日本の平和な民族の血を誇りに思う。日本海の外には鬼が住むことを忘れてはなるまい。「男が外に出れば七人の敵がいると思え」とは、母の教えでした。国の外には7つの鬼国があると思うべし。

 

図1 室村町四丁目地蔵尊(2016年4月3日撮影)

   大垣空襲の焼夷弾で黒焦げになった跡が戦後70年経っても痛々しい。

   シベリアから生還した今川さんを優しい目で迎えてくれたという。

図2 大垣公園の恒久平和の碑 シベリア抑留戦没者慰霊碑

   裏面にダモイの会として父の名が刻まれている

図3 彦根護国神社のシベリア抑留戦没者慰霊碑   

   裏面に父の弟の名が刻まれている

 

2017-07-13

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2017年7月 8日 (土)

人はなぜ死鬼衆になれるのか 原爆投下

大垣市の被爆地の慰霊碑

 毎朝、散歩の帰路にある大垣市の被爆地の慰霊碑に手を合わす。ここに来ると日本の歴史と現代の状況を感じる。犠牲の方のご冥福を祈り「二度と日本がこんな目に遇わせられないように、我が国力を上げるべく貧者の一灯として精進します」と祈っている。この被爆の慰霊碑は、水門川沿い大垣藩藩校敬教堂跡の孔子像の南側に、ひっそりと建つ。昭和20年7月24日、米軍が広島に原爆を落とす前、原爆投下訓練のため、大垣市の県農業会大安支所に模擬原子爆弾を投下した。建屋は一瞬に吹っ飛び、職員は肉飛び骨散して10名が悲惨な最期を遂げた。その慰霊碑の真横に、母校の大垣北高「発祥地の碑」が建っている。

 投下された模擬原子爆弾は、広島と長崎への原爆投下訓練のため、米軍が作った重量4.5トンの爆弾で、長崎に投下されたプルトニウム原爆と同形で“パンプキン爆弾”である。昭和20年7月20日~8月14日の間、全国各地に約50発が投下され400人以上が犠牲になった。平成3年、愛知県の市民グループが、機密解除された米軍資料からこの事実を発見した。

原爆投下はジェノサイド、戦争犯罪

 原爆は、日本人が白人なら絶対に落とされなかったはずである。国際法上でも原爆投下はジェノサイド(皆殺し)であり、その後ろめたさ故、米国の戦後の支援がある。ジェノサイドを認めたくないため、米国内では下手にこの問題を掘り起こすと旧軍人会からヒステリーじみた感情で袋叩きにされる。1997年、エノラゲイ展を企画したスミソニアン博物館長は、辞任に追い込まれた。その経緯を米国スミソニアン博物館で目にした(1997年夏)。原爆開発は、巨額の政府予算に目が眩んだ拝金主義の鬼子であった。

広島と長崎への原爆投下は「爆発実験」扱い

 原爆の効果を検証するため戦略爆撃から除外されていた広島と長崎に、米軍は二種類の原爆を投下した。ウラン型とプルトニウム型の原爆を比較するためである。米エネルギー省の出版物中では、広島と長崎への原爆投下は「爆発実験」の項に分類されている。この原爆開発の真の目的は、金儲けである。今のグロ-バル経済主義(拝金主義)を生んだ鬼子の親でもある。モルガン、デュポン、GEがこの原爆開発を担当して、ウラン型原爆は先に完成していた。プルトニウム型原爆の完成を待って、2つの原爆を爆発実験として投下した。万全を期すため、訓練として模擬原子爆弾を50発も投下した。戦争を早期に終結する目的だけなら、プルトニウム型原爆の完成を待つ必要もなく、2種類もの原爆の爆発実験をする必要もなく、50発の投下訓練も不要である。当時、日本は戦争続行には資源が枯渇して、遅くとも昭和20年11月には降伏することが明白であり、それは日米両政府の周知の事実であった。原爆投下に反対であったルーズベルト大統領は、巨悪の都合に合わせるが如く、直前に愛人宅で怪死した。その死の状況は不自然である。そして後任の操り人形であるトルーマン大統領が、原爆投下の命令を出した。

原爆開発は金儲け

 原爆や原子力関係の商売は儲かる。それは2011年、福島第一原発事故の報道で明らかになった。原爆開発には日本の国家予算の3倍の金が使われた。その金は何所につぎ込まれ、誰が潤ったのか。金に目が眩むと人は死鬼衆になるのか。金儲けのためには、民族抹殺などは厭わないアーリア人のDNA が脈々と続いていた。彼らにとって、非白人は人間ではないと認識し、残虐の限りを尽くしたことは歴史が示している。民族皆殺しなどの業は日本人には無縁の世界であるが、そんな鬼が身近に存在する現実を認識しないと身の破滅である。歴史に学ばない民族は滅ぶ。きれいごとばかりでは殺される。

 スミソニアン航空宇宙博物館にあるFAT MANの説明パネルは、素っ気無い表現である。「My God,it worked. この開発が政府、大学、科学者、民間企業の総合力で遂行され、この開発のために膨大な計算がされ、その必要からコンピュータが開発された。そしてこの原爆はメキシコで実験され、長崎に投下され7万人の犠牲者を出した。第2次世界大戦はこの原爆とコンピュータの2つのブレークスルーを生み出した」(小田泰仙訳)

 コンピュータの開発目的は、原爆開発のためで、死鬼衆を生んだ血糊がついた武器である。テクニカルライティング的にみると、この文章は受動態で書かれ、原爆の責任の所在を曖昧にした書き方である。

図1 被爆の碑と大垣北校発祥の地記念碑、向うに敬教堂跡と孔子像

図2~3 被爆の碑

図4~6 B29エノラ・ゲイ号展(スミソニアン博物館 1997年筆者撮影)

図7 リトルボーイ 広島に投下した原爆

図8 ファトマン 長崎に投下した原爆

 

2017-07-08

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2017年6月25日 (日)

地獄のシベリアから生還

シベリア抑留戦没者70回忌追悼法要

 2015年11月3日10時から、大垣公園内にある「恒久平和の碑」の前でシベリア抑留戦没者70回忌追悼法要が、シベリア抑留者達で作る「西濃地区ダモイ会」今川順夫会長(92歳)の主催で執り行われた。参列者は約60人である。

 従兄弟の勇美子さんの告別式が、同日13時から新祝園(京都府)で執り行われるのが急に決まったので、私はぎりぎりまで法要に参列して10時55分に中座をさせて頂き、名古屋経由の新幹線で京都に向った。現地に13時15分に到着した。告別式が午前中なら70回忌追悼法要には参加できなかったが、両方の法要に参加できたのは、沸様のご配慮と思う。この法要には初めての参加だが、参加できて良かったと思う。

 法要の席では、市田靖さんと遺族代表席で隣りあわせとなった。市田靖さんも今回の法要で、シベリア生還者中での参加者2名の一人である。聞けば父のことも知っているとのことで、貴重なご縁を頂いた。年齢を考える稀有のご縁である。この法要に参加するのだとの強い意志がなければ、出会えなかったご縁である。

 

ダモイ (ロシア語 domoi)「自宅へ」の意、 帰国。帰還。 第二次大戦後,ソ連に抑留された日本人が帰国の合い言葉として用い流行した。

 

シベリアから生還できた理由 = 生きる本質を理解

 法要に先立ち今川会長が挨拶をされ、その中で今川氏が地獄のシベリアから生還できた理由を3つ述べられた。

 一つが気力、二つ目が体力、そして運で、この3つがあって生きて帰れたと述べられた。そしてもう一つが、軍人勅諭の「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」をもじった下記冗談の句が生還の要点であったという。

 「一つ、軍人は要領を本分とすべし」。やはり要領の悪い人は、生きて帰れなかった。「要領」とは悪い意味もあるが、良い意味では、物事の本質である。生きる本質を理解できなかった人が、シベリアの土になった。法要後、今川会長は「無事70回忌を迎えられ、生涯忘れられない感激の日となった」と語られた。

 

 「運」は、今までの自分の生き様、ご先祖の積善功徳、それらの総合した力ではないかと最近しみじみと思う。自分の運だけでは生還出来なかったと思う。父が生還できたのもご先祖の功徳と巡り遇わせの運と思う。

 

生きる意味

 1997年、参議院で日本銀行法全面改正案が可決成立して、日本の「失なった20年」の始まりとなった。橋本龍太郎内閣が 1997年4月 消費税率を5%に引き上げ、デフレ経済の地獄に日本を突き落とした。そして小泉内閣(2001年 - 2006年)が推進した聖域なき構造改革は、日本の市場開放政策とグローバル経済主義への展開となり更なるデフレ経済に突入して行く。それが不況、倒産、過労死、自殺、引きこもりと弱者が虐げられる結果となり、それを境に自殺者が急増して、毎年3万人前後の自殺が10年以上も続いている。

 生きているだけでも、大変なことを若者は理解していないし、教えてもらっていない。己の生の大事さが理解できないから、身の回りの激変に対応できず、簡単に自殺をする。命の大事さを説くために、私は前職で2004年から新入社員教育講座の中に「修身」という講座を新設して、講義を続けてきた。

  なぜ、72年前のシベリアでもあるまいし、コンプライアンスが整備された現代日本で、電通やブラック企業に自殺者がでるのか? 捨てるならその命をくれと言ってシベリアに消えたご先祖がいる。

 

テクニカルライティング上の問題点

 新聞紙上では「失われた20年」という表現が一般的だが、私に言わせれば無責任極まる表現である。テクニカルライティング上では、受動形の表現は厳禁である。誰がその事項を実施するのか、どこに責任があるかが曖昧で、PL問題の裁判で、文書を書いた本人の責任が問われるからだ。この世は因果応報で、どんな事象にも因があり、果がある。不景気になったのは、不景気になる政策をとったに過ぎない。

 

経済の原則

 この20年、日本の景気が悪くなったのは、消費税を増税して、市場を開放して、日本の企業が海外に流失しため、日本の雇用が失われて不景気になったに過ぎない。日本の若者の賃金が高いからと言って、工場をアジアに移せば、日本が不景気になるのは子供でもわかる。全てそうなるように政府が舵を切って、企業がそれに追随したに過ぎない。東西の壁が崩壊して、共産国家の低賃金の労働者が世界市場に2倍となって溢れるから、安い賃金で作った製品が無制限に国内に流入する。真面目に働いて作った国内製品が売れなくなる。低賃金の国に工場を持つ外国企業が己の利益のため米国政府に圧力をかけ、日本のしかるべき関税を撤廃させたためである。奴隷のように安い賃金労働者が作ったグローバル経済主義の企業の製品と、日本の高賃金の労働者が作った製品で、価格競争に太刀打ちできるわけがない。

  その弊害の最大の被害者がギリシャである。関税でその波を防ぐことがEUの縛りでできないから、自滅しかない。その波がギリシャ国内産業を全滅させた。

 世界は、あと100年間はデフレ経済から脱却できない。安い労働賃金のチャイナの労賃が高くなれば、グローバル経済企業は、アジア、インド、アフリカ、中南米に工場を順次移転させる。世界の労働者の賃金が等しくなるまで、そのデフレは拡散する。経済の基本原則である。水は高きから、低きに流れる。それを三水編に、水が去ると書いて「法」である。いつでもどこでも通用する経済の法則である。

 それは自然界のであり、PDCAを回せばわかる原則である。気がつかないのは、なぜ、なぜを5回繰り返さないからだ。国民が分かると政府が困るからだ。

 それを無責任に「失われた20年」と表現して、犯人は何処か分からないとトボけるから、呆れてしまう。その表現をすれば、テクニカルライティング検定試験では零点である。分かれば責任が問われので、トボケルのである。それで新聞社の経済記者や経済学者の無知と経済音痴ぶりが露見する。真の原因が分からないと、対策が対処療法であるので効果が出ない。だから、アベノミックス景気は離陸しない。それの現象が、1997年までの景気回復と、1997年以降の景気回復の個人消費の伸び率の差に冷酷に表れている(図5)。その現象が20年近くも続いている。経済学者はどこを見ているのか。

  

図1~4 「修身」の講義より

 私は新入社員に「修身」の講義で70年余前に起きたアウシュビッツとシベリア抑留の事実を話し、生きる目的を説いてきた。しかし当社が吸収合併され、相手先会社の拝金主義の上司からこの講義は禁止された。金儲けにならないことは時間の無駄だ、と。

図5 過去の景気回復と比べて個人消費が伸びない

(日本経済新聞2017年6月25日)

図6 TV局のインタビューを受ける今川順夫会長

図7 読経  右側机は今川順夫会長と大垣市長小川敏氏

図8 参列者

図9 慰霊碑に献花をされた市田様、今川会長(左から)

  

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