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2017年7月16日 (日)

石田三成公からの学び(改定)

 私は前職の会社に1973年入社し、数年後、私の二人目の指導員はM主任(当時)であった。Mさんは、石田三成の末裔の某課長から薫陶を受けていた。

「オレは、君が仕事のしやすいように環境は全て作ってやった。あと、君が仕事をするかしないかは君の自由だよ」とは、M主任の元上司であった生産管理部課長の指導の言葉である。

 私はその課長と数回だけ口をきいたことはあるが、明確には覚えていないのが残念である。太ってずんぐりした方との印象だけである。しかし、指導された言葉は大変キツイ。そうやって上司から言われると、大変である。私もMさんから、その言葉を暗に突きつけられて冷や汗をかいた。そこから学んだ私が部下に言うもっとキツイ一言は、「(体を張って)がんばらなくてもいいよ。(頭の汗をかいて)成果だけ出してくれればいいよ」。

ロジスティク重視 ⇒ 三成出世

 石田三成は、当時重要視されていなかた兵站(ロジスティク)で才能を発揮して、頭角を表した。言うなれば、「戦いの準備・後方支援は全て整えてやった。後の戦でどう戦うかは、おぬし達の頑張り次第だ」と三成は思っていたのだろう。「後方支援など、武将のやる仕事ではないわい」と思って三成を見下していた武将たちに、三成の評判は良くなかった。会社組織でも最前線の営業や開発部隊が偉いのではない。それを総合的に運営・管理する部隊があってこそ会社が存在できる。

ロジスティク軽視 ⇒ 日本敗戦

 第二次大戦での日本兵戦死の6割以上が餓死である。父の弟の小田五郎氏は、昭和19年、ビルマのインパール作戦中に戦死であるが、現実は食料、医療品の欠乏による、餓死、病死である。日本軍部はロジスティクスを軽視した。米英軍の兵站の戦力(兵站も戦力)をみると、日本は負けるべくして負けた。石田三成が苦労したことは、300年経った第二次大戦でも日本では教訓にされていない。歴史に学ばない民族は敗れる。戦争とは資源の配分の頭脳戦である。陸軍学校で何を教えていたのか。

 現代の経営では、ヒト、モノ、カネ、情報をいかに効率的に、タイミング良くビジネス戦地に投入できるかが問われる。それの効率を極限まで高めたのが、トヨタのカンバン方式である。その生産システムで、たった一つの部品の欠品で、30万人が働くラインが止まる。そのため生産管理システムの構築は精緻を極める。だからトヨタでは生産管理部門の権力は強大である。だから世界のトヨタとして君臨している。急成長したクロネコの足が絡めとられたのは、お粗末な配達人の手配の問題である。人の対応に失敗してその出鼻をくじかれ、2017年、赤字に転落した。

歴史に学ぶ

 経営も戦争である。石田三成に末裔の某課長も生産管理部で手腕を発揮したのはご先祖返りである。そんな石田三成のDNAを引き継ぎ、当時から部長の風格があった某課長であるが、そりの合わない家康の性格を悪くしたような上司が実権を握ると、次長にもなれず即、子会社に飛ばされた。知性があっても、きれいごとだけでは生きていけない。ある程度奸性も必要である。サラリーマンの人生は上司次第でもある。その上司も後日不祥事で会社を追われた。出世競争の苛烈さは戦国時代も、今も変わらない。

親と上司に贈られた環境を感謝

 自分の今の環境が、あって当たり前と思っている間は、人間としての成長はない。親も上司も師も、自分のために働ける環境や生きていく環境を、黙って整えてくれた。その中で恩を感じてどう働くか、どう生きていくかは、自分の責任である。うまく行かないのを人や環境のせいにするから、醜い争いが絶えない。それでは幸せはやってこない。

自家の兵站整備

 人生という戦いで、勝利に大きく影響するのは、兵站である。まず手近なことは、己の仕事がやり易い環境整備である。自宅の書斎とか睡眠の部屋の環境整備である。ハード面は、自分でお金をかければ誰にでもできる。それに設備投資をするかどうかだけである。もう一つが人間関係の整備である。気持ちよい人間関係を構築してこそ、財産である。そのためには、心理学・人相学・経営学・歴史の勉強が欠かせない。後方支援として、良き医師の友人と人生の師があれば、鬼に金棒である。

自社の兵站整備

 貴方が会社の経営者として、兵站に相当する、教育部、管理部、調達部、社内医局、資料室、渉外部、知財部の間接部門に目が届いているだろうか。営業部ばかりに注力して接待費を湯水のごとく使えば、会社は土台から腐っていく。前職の会社は、「教育は大事だ、大事だ」と念仏の如く唱えていたが、景気が悪くなると、真っ先に教育費を削減した。教育こそが、10年後に必要な兵站である。当面なくてもすんでしまうので、真っ先に削減して、10年後の危急存亡の時には、活躍してくれる人材が払拭している。兵站からの復讐である。

英霊への追善供養

 2010年、大垣に帰郷後、父の遺品を整理していて小田五郎氏の天皇陛下からの勲八等の表彰状(昭和41年7月30日発行)を発見した。時の佐藤栄作総理大臣の名が入っている。供養として、それを額に入れて座敷に飾った。五郎氏は英霊であるが、50回忌は終わっていた。この叙勲の表彰状を眺めているうち、また石田三成の兵站のことを思い出し、その苦労に報いる為、お墓を改建したおりに位牌を新作して仏壇に納めることにした。英霊への追善供養として院号を付けて頂くことにした。夫を早く亡くし、二人の子供が戦死をした当時、祖母は院号を付ける経済的余裕がなかったと思われる。不憫である。

 戒名とは引導をされる僧侶が弟子にするために授ける名前である。院号とは贈り名とも言われ、人の死後にその徳を称えて贈る称号である。業績のある方のためにお寺を建てると同じように、亡くなられた方の心の中にお寺を建て、来世の名前を戒名として授け、佛として修行をする名とする供養である。院号はお金を出しても、相応の功徳ことがないと付けてもらえないという。お寺によっては、いくらお金を積んでも付けてもらえない。

 小田五郎さんはビルマで昭和19年に戦死された英霊であり、「戰勲至誠居士」と立派な戒名が付けられている。至誠とは吉田松陰が好んで説いた『孟子』離婁上の言葉である。今回、お寺さんのご意向で、「護國院戰勲至誠居士」との立派な院号を付けて頂いた。院号についても今ままではあやふやな知識で、今回初めて詳細な知識を得た。人生知らないことばかりである

 

図1 死亡通知書

 

2017-0715

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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