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2017年7月16日 (日)

石田三成次男と弘前

 新戸部さんと種差海岸に行く車中の世間話で、石田三成の子孫の墓が弘前市内のお寺にあるという。石田三成公は関ヶ原の戦いの時、大垣城を作戦本部にした武将であり、彦根の佐和山城主として、井伊長政公が彦根に入城する前に彦根を治めた武将でもある。不思議なご縁を感じて、翌日(2016年5月16日)、お墓参りをすることにした。

石田三成の次男の運命

 そのお墓は宗徳寺の中に建立されていた。子孫の方がその墓所を守っている。その墓石に「豊臣家家臣」とあったので、当時の徳川の威光が全国に届いていた時代になんと大胆なことかと目を引いた。徳川の時代は豊臣氏の名が徹底的に排斥された。それが津軽では、豊臣の家臣の石田三成の子孫が家老として存命し、墓に「豊臣家家臣」と明記があるのには、歴史の錯綜を感じてしまう。家康は存外と心が広いようだ。

 1600年の関ヶ原の天下分け目の戦いで、石田三成は戦いに敗れ刑場で首を刎ねられた。刑場での罪人扱いの処刑は、戦国時代の戦いの結末としては異様である。戦国の時代でも、徳川家康は石田三成に対してこだわりがあったようだ。その次男が関ヶ原の戦いの後、津軽に落ち延びて、津軽藩の家老になり生涯を全うした。それを大目に見た徳川家康の対応に興味が湧く。本来なら、石田三成家の一族郎党の皆殺しが筋ではあるが、なぜか家康は石田三成の子孫を見逃している。次男の石田重成は、関ヶ原の戦い後、津軽信建の助力で畿内を脱出した。家康は深追いをしていない。石田重成は津軽氏に匿われ、杉山源吾を名乗り、後に家老職となり、子孫は津軽家臣として数家に分かれた。

石田三成の長男の運命

 長男の石田重家は、関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され出家した。父・三成と親交が深かった春屋宗園の弟子となり、宗亨と名乗って104歳(または103歳)の天寿を全うした。宗亨に帰依した弟子に祖心尼がおり、祖心尼は宗亨の甥にあたる岡吉右衛門に娘おたあを嫁がせている。

石田三成の人間の器

 石田三成の天敵というべき徳川家康の人柄と比較すると、石田三成の人間の器を考えざるを得ない。石田三成は豊臣秀吉に見いだされて、出世街道を驀進したエリートである。頭は切れた合理者である。朝鮮出兵でも後方の支援(ロジスティックス)の重要性を認識して対応して、そつなく仕事をこなした優秀な能吏であった。実戦より兵站を重視して論功行賞に当たったことが、人情に厚く戦に苦労した戦国武将の反感を買った。彼は豊臣家の為に、関ヶ原の戦いという事業を計画・遂行した。三成が豊臣家のお家大事との義と理は正しい。しかし現実の世界は、豊臣家の時代が終わっており、石田三成は理屈と現実が乖離している現実に納得できす、大人の対応ができなかった。もっと大人の対応を講じていれば、豊臣家が滅亡せず、大大名ではないが、徳川家康の時代にも生き延びる術はあったはず。勝つのではなく、負けない戦略が必要であった。

徳川家康の人間の器

 それに対して、徳川家康は、幼少時代は今川家の人質、戦国時代は織田信長の命令で、妻と長男を自らの手で殺させられた。世のあらゆる辛酸を舐めて、待ちに待って、我慢に我慢を重ねて天下を盗った老獪な知恵者である。苦労人の家康には、才覚はあるが苦労の薄い石田三成の敵ではなかった。石田三成の理想論には世の武将はついてこなかった。

 舛添元東京都知事のように、東大法学部を首席で卒業するほどの頭の良さだけでは、人はついてこない。頭がいいだけでは、世の中を動かせないのを徳川家康公の人生家訓が物語っている。合理的に考える能力の高い人は、合理的にしか考えられにない欠点を持つ。それでは人生を戦えない。私も還暦を過ぎてから、この人生の根本原則にたどり着いた。随分と遅い悟りではある。

 

図1 宗徳寺の山門(弘前市)

図2 宗徳寺 本堂

図3 杉山家の墓所

図4 杉山家の墓所の奥に石田三成の次男・重成のお墓

   豊臣家臣と字が彫られている

 

2017-0716

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