o-大垣の文教 Feed

2017年10月21日 (土)

教育重視の大垣の家風

大垣藩校・敬教堂跡と孔子像

 大垣藩では、戸田家初代藩主氏鉄の時代から、教育を重視する家風があり、以来、戸田家代々に教育尊重の姿勢が受け継がれてきた。その伝統が幕末期から明治維新にかけて、優れた学者や文化人を多く生んだ。

 第8代藩主氏庸の時代、天保9年(1838)、大垣藩士 岡田主鈴が運営していた私塾が、龍の口門外で公立化された。天保11年8月21日(1840年)には、その塾が大垣藩の学問所として開設された。その後、学問所は致道館と改められ、さらに敬教堂と改められた。また講堂や寄宿舎を建て、英語や西洋医学等の洋学、武学、国語・蘭学などの皇漢学を教え、全国的にその名を知らしめた。

 

明治以降の学校体制

 明治時代になって、武学校と文学校に分けられ、武学校は南校、文学校は北校と呼ばれるようになった。その後、南校は高等小学校になり、今の興文小学校になり、北校は実科女学校になり、大垣城北にあった高等女学校と共に大垣高等女学校になった。その後、男女共学の今の大垣北高等学枚になった。その敷地に大垣市立図書館が建設された。その図書館は、現在のスイトピアセンターに新築、移転された。現在、この場所は保健センターになっている。

 

孔子像とネリコ

 第10代戸田氏彬のとき、孔子像を祀った大成殿を設け、その雷避けよして植えられたのが「剣の木」と俗称される「トネリコ」である。現在、その木は大垣市指定天然記念物に指定され、大垣藩校敬教堂跡地に現存している。その木は立っている状態を維持するため、木の「ギブス」をつけられ、少々痛々しいが、その雄姿を保っている。

 母がわが子を高く掲げて、その「トネリコ」と孔子像に、見せているかのような像「ふれあい」が、健立されている。教育の大垣を象徴する像としてほほえましい。

 大垣藩校・敬教堂跡は、「四季の路」の道沿いで八幡神宮の東に200メートルの場所にある。全国でも孔子像がある史跡は珍しいと思う。私の乏しい旅行経験でも全国では見たことがない。敬教堂が大垣北高等学校の前身であり、「教」を敬うの「敬教」、「文」を興すの「興文」という名前も重みのある名前である。

 

博士の町・大垣

 明治20年(1887)に学位令が制定されて以降、大垣出身の博士が次々と誕生していた。明治20年に50名の博士が誕生したが、そのうち3名が大垣出身である。その倍率を推定すると、平均的な市が生み出す博士数の130倍近い博士を、大垣は生み出していた。明治20年の全国人口は38,703,000人(国勢調査による推計値)だが、明治20年の大垣町(大垣市)の人口は、約18,000人(『大垣のあゆみ 市制70 年史』36 頁)である。それから計算すると

  (3870万人÷1.8万人)÷(50人÷3人)=129(倍)

 

 松本荘一郎(日本最初の工学博士)、関谷清風(日本最初の地震博士)、南条文雄(日本最初の文学博士)、和田万吉博士(日本の図書館学を確立)などの大垣出身者の博士が次々と出て、大垣は生み出した博士の人数の多さから「博士の町」とも言われ、戸田藩主が施した教育重視の施政が、江戸時代末期から明治時代にかけて開花した。教育重視の風土つくりは、その成果が出るには長い時間がかるが、蒔いた種は必ず花が咲く。以下に大垣出身者の代表を列記する。大垣市文化会館には、この他に17博士の偉業が掲示されている。

 

松本荘一郎(1848~1903)

 日本で最初の工学博士。松本烝治の父。東海道線や信越線を作るなど各地の鉄道工事の中心的な役割を果たし、日本の鉄道の発展に尽くした。1870年(明治3年)、アメリカ留学を命じられ、7年滞在して工学を学んだ。帰国後は東京府御用掛として土木事務を担当し、東京大学工学科教授も務めた。1879年(明治12年)、開拓使御用掛となり、炭鉱開掘、鉄道敷設、道路改正、市街整頓、石狩川河口改良などの事業を手掛け、開拓使廃止後も工部権大技長、農務権大技長として引き続き北海道の開拓を進めた。1884年(明治17年)に東京に戻って全国の鉄道敷設計画を担当し、工部大技長・鉄道一等技師、鉄道庁部長、同長官、逓信省鉄道技監・鉄道局長、鉄道作業局長官・逓信省鉄道局長を歴任した。

 

佐藤三吉(1857~1943)

 日本外科医界の草分け・日本外科学会会頭・医学博士。ドイツの留学し医学の研究を進め、後に帝国大学医学科大学長となった。宮内省御用掛として明治・大正天皇の侍医でもあった。名医として外科学会の発展に努めた。

 

和田万吉(1865~1934)

 図書館学に生涯をかけた東大図書館長・文学博士。日本の図書館事業に貢献し、日本の図書館学を確立した。明治23年(1890年)に東京帝国大学国文科を卒業、明治30年(1897年)に図書館長に昇進して、以後27年間にわたって館長を務めた。明治43年(1910年)に欧米に留学して図書館事情などを研究して帰国、帰国後日本で最初の図書館学の講義を担当し、日本文庫協会(後の日本図書館協会)や文部省図書館員教習所の創設などにも携わり日本の図書館学の先駆者として高く評価されている。大正7年(1918年)には教授に昇進し、大正9年(1920年)に文学博士を授与された。国文学の分野においても古版本など出版史関係の研究や近世文学書籍の本文校訂などに実績を残し、特に謡曲や曲亭馬琴関係の研究で知られた。大正12年(1923年)の関東大震災で東京帝国大学附属図書館は焼失して、貴重な蔵書を多数失った責任を問われて辞任を余儀なくされた。退官後は法政大学や東洋大学などの講師を務めた。

 

野村龍太郎(1859~1943)

 鉄道界の功労者で南満州鉄道社長になる。工学博士。箱根のトンネル工事や数多くの鉄道工事を手掛け、南満州鉄道の社長となり、日本の鉄道発達に尽くした。

 

松本烝治(1877~1954)

 大垣出身の初の大臣・商法の権威者・法学博士。学会・政界・法曹界で活躍した。特に商法学の発展に尽くした。父が尊敬していたジョージ・ワシントンの名をとって烝治と名命した。1906年から09年(明治39–42年)にかけてヨーロッパへ留学し、帰国後の1910年(明治43年)に東京帝大教授となる。1919年(大正8年)に満鉄理事に就任、副総裁を務めた後、1923年(大正12年)に第2次山本内閣の法制局長官を務めた。1924年(大正13年)に貴族院勅選議員に勅任される。この年関西大学学長に就任、1928年(昭和3年)までその職にあった。1934年(昭和9年)に斎藤内閣で商工大臣を務めた。1945年(昭和20年)に幣原内閣が成立すると、憲法改正担当の国務大臣として入閣、自ら中心となって憲法草案(松本試案)を作成した。しかしこの草案は内容が保守的過ぎるとしてGHQに拒絶された。1946年(昭和21年)、満鉄監事を理由に公職追放となった。

 

図1 トネリコ、孔子像、大垣藩校敬教堂跡碑、「ふれあい」像(左より)

図2 「ふれあい」像は財団法人「田口福寿会」寄贈

    田口氏は西濃運輸創業者

図3 大垣高等女学校発祥の地の碑

図4、5 「四季の路」を通って興文小学校へ通学

 遠い将来、この「四季の路」を通って通学したことが良き思い出に。

図6 大垣公園を通って興文小学校へ通学

   後ろの広場に建つ戸田氏鉄公の騎馬像が子供たちを見守っている。

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2017-10-21

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2017年10月20日 (金)

大垣藩出身者が「珈琲」文字の発明

 「珈琲」の文字の発明は、大垣藩出身の蘭学者 宇田川榕菴(寛政十年~弘化3年:1798~1846)が当て字をしたと伝えられている。オランダ語のkoffieの音をもとに、コーヒの花をかんざしに見立て、玉飾りを現す「珈」と、玉をつなぐ紐を表す「琲」を組み合わせた。宇田川榕菴は、その外にも、当時、日本語に存在しなかった学術用語に新しい造語を作って翻訳した。酸素、水素、窒素、炭素、白金といった元素名や元素、酸化、還元、溶解、分析といった化学用語、細胞、属といった生物学用語も創作した。

 彼は1835年(天保6年)、『理学入門 植学啓原』を出版して西洋の植物学を日本にはじめて紹介した。彼は単なる翻訳者ではなく、他の多くのオランダ語の化学書から新しい知見の増補や、彼自身が実際に実験した結果からの考察などが追記している。

 大垣の先人がコ-ヒの漢字を発明し、それによってコーヒ文化が日本に根付いたことは、大垣市民としての誇りである。

 私は2017年4月にウィーンに旅行した。ウィーンの市内では、コーヒを媒介とした会話の文化が栄え、市民の多くがカフェでくつろぎ会話を楽しんでいた。そこに文化が生まれた。私も市内散策中、日に2,3度、カフェに寄って疲れを癒した。その時、目に付いたのが1873年創業のカフェである。宇田川榕菴が「珈琲」の漢字を発明した後に出来たカフェで、また桜田門外の変の13年後に出来たカフェでもある。榕菴とコーヒとのご縁に思いを馳せた。

図1 1873年創業のカフェのコーヒカップ

図2、図3 ウィーンのカフェ

 

【宇田川榕菴】

 大垣藩医江沢養樹の長男として生まれ、1811年に津山藩医宇田川玄真の養子となった。1817年に津山藩医となった後、1826年には幕府の天文方蕃書和解御用の翻訳員となってショメール百科事典の翻訳書『厚生新編』の作成に従事するため江戸に移った。養父である宇田川玄真、またその養父である宇田川玄随、養子である宇田川興斎も蘭学者、洋学者として知られている。

シーボルトとも親交があり、高橋輝和『シーボルトと宇田川榕菴 江戸蘭学交遊記』(平凡社新書、2002年)に詳しい。

出版での業績

『遠西医方名物考』養父との共著、1822年~1825年

『新訂増補和蘭薬鏡』、1828年~1830年

『遠西医方名物考補遺』1834年頃、薬学書を出版

『菩多尼訶経』、1822年(文政5年)

『理学入門 植学啓原』1835年(天保6年)に出版

  西洋の植物学を日本にはじめて紹介した。菩多尼訶は植物学を意味するラテン語 Botanica の字訳であり、経はその本文を経文になぞらえて執筆したことによる。

『舎密開宗』1837年(天保8年)~1847年(弘化4年)、出版した。

『依氏広義』1803、『蘇氏舎密』

  上記は、英語、オランダ語、ドイツ語の科学書の翻訳であるが、他の多くのオランダ語の化学書から新しい知見の増補や、宇田川榕菴自身が実際に実験した結果からの考察などが追記されている。日本ではじめての近代化学を紹介する書となる舎密は化学を意味するオランダ語 Chemie の字訳である。

造語の業績

 宇田川榕菴はこれらの出版に際し、日本語のまだ存在しなかった学術用語に新しい造語を作って翻訳した。酸素、水素、窒素、炭素、白金といった元素名や元素、酸化、還元、溶解、分析といった化学用語、細胞、属といった生物学用語は宇田川榕菴の造語である。

 また、自然科学分野に留まらずオランダ語の度量衡に使用する単位についての解説『西洋度量考』やオランダの歴史、地理を解説した『和蘭志略稿』、コーヒについての紹介『哥非乙説』(こひいせつ)なども記している。なお、coffeeの日本語表記である「珈琲」は、この榕菴が考案し蘭和対訳辞典で使用したのが最初であると言われている。

  この項 ウィキペディアより(2011/2/28)加筆、編集

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E7%94%B0%E5%B7%9D%E6%A6%95%E8%8F%B4

 

2017-10-20

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