I8-先祖をたずねて三千里 Feed

2024年9月 5日 (木)

墓参りでご縁、三百回忌に備え命を保全する決意

 

北尾道仙の三百回忌

 今日(9月5日)、夏の猛暑も落ち着いたので、お盆に出来なかった墓まいりに行ってきた。その時、住職さんに小田家最古のご先祖である北尾道仙の調査結果を報告した。

 そこで住職さんと話し合って納得したことは、ご縁の不思議さ、健康の大事さである。生かされている命の大事さである。

 

三百回忌の連続

 住職様は、今年は北尾道仙の290回忌で、特別の法事はないが、10年後の2034年は三百回忌になるので、盛大にお祝いをしようという。三百回忌はお祝いである。

 またその7年後(今から17年後、2041年)には、道仙の父の北尾春圃の三百回忌になるので、それにも参列することも考えて欲しいを言われた。その時、安請負をしたが、よく考えると、その時、私は91歳。それで少し不安になった。

 これは襟を正し、性根を据えて、健康に最大の留意をして、長生きせねばという気になった。そういう気にさせてもらったのも、今回のご先祖探しをしたご利益のようだ。

 

寿命の貯金

 人として生まれれば、何時かは必ず死ぬ。その時、後悔しないように、あらかじめ体に悪いと分かっていることは避けたい。特に長生きしようとするならなおさらである。「食事は食欲で食べてはならない。食育として食べないといけない」は、吉野敏明医師の口癖である。体は食物から出来ている。納得である。

 お金を無駄にしてはならないが、それ以上に命を大事にせねばならぬ。人生時間を無駄をしてはならない。それは体が持っている寿命貯金の減少率を少しでも小さくすることだ。命を全うすることは、お金を稼ぐ以上の金儲けなのだ。

 

天からの借金

 体に悪いことするとは、天から借金をすること。一時的には良い思いをするが、どこかでその借金を返さねばならぬ。それは病気という形か、寿命の短縮という形で天から請求書が来る。だからその請求書の数を減らせばよい。

 いつもはお寺の応接室で出されたお菓子を頂くのだが、今は砂糖絶ちをしているので、出されたお菓子を食べなかった。この15年間で初めてのこと。気付いた小さなことを積み重ねていくしかない。何時からやるの?今でしょう。今からでも遅くない。

 この一環で、砂糖以外に小麦、植物油、乳製品を徹底的に食べないようにしている。

 今回、住職様からご先祖の三百回忌という良き目標をいただいた。これも北尾道仙を探して三千里の旅をしたご縁である。

 

おまけの良いお話し

 住職様と雑談のついでに、住職さんはお師匠さんから、「坊主は全員地獄行きだ」と宣告されている話を聞いた。つまり住職は、罪人と一緒に地獄に行き、そこで罪人と一緒に修行をして、罪滅ぼしをしから、その罪人を極楽に連れて行くお役目があるという。罪人でも禊ぎが住めば、極楽に行ける。その点で仏教は救いがある教えである。今日は墓参りに行って、良い話を聞いた。

 一神教では、一度地獄に落ちれば、永遠に地獄である。キリスト教は厳密過ぎて日本人のおおらかさ、曖昧さには合わないようだ。だからザビエルが布教して400年経つが、いまだ1%ほどしかキリスト教徒はいない。共産党の支持率と同じなのは偶然ではないようだ。世界のキリスト教普及率から言えば、異常値である。それは日本の歴史を見れば必然の値である。

 

 

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2024-09-05  久志能幾研究所通信 2932号  小田泰仙

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2024年8月31日 (土)

北尾春圃没後、283年後のハッピーバースデーツーユ

 

漢方医 船戸博子先生とのご縁

 北尾春圃没後、283年後の8月16日、体調不調の為、漢方医師の船戸博子先生(養老町船戸クリニック)に診察してもらった。

 8月26日、船戸博子先生の2回目の診察を受けたら、ハッピーバースデーツーユと博子先生と看護婦2名からお祝いを頂いた。病院で誕生日お祝いなど初体験である。

 北尾春圃没月日と私の生誕月日が同じである。なにか因縁を感じる。自分は北尾春圃の生まれ変わりかとも思ってしまう。

 

 2024年6月8日、「岐阜 生と死を考える会」の講演で、船戸博子先生のお話を聞いて、漢方に興味がわいた。5年前、船戸崇史先生からガン再発防止の治療をして頂いたご縁もあり(船戸博子先生は船戸崇史先生の奥様)、診察をうけるのに躊躇はなかった。

 博子先生の診察方法から推察するに、北尾春圃は脈だけでなく、観相、手相、体全体の相から病名を診察したようだ。彼は単なる漢方医ではなさそうである。だから門前に市ができるほどの名医であったようだ。

 下記の「道仙」は北尾春圃の三男で、私の祖母系のご先祖である。

 

名医 北尾春圃

 名医、北尾春圃は万治2年(1659)に不破郡室原村の医家に生まれた。彼は青年の頃に発奮して医学を学び、大変成績も良く、大成して診察を請う者が次第に増え、春圃の名声は大いに上がった。大垣藩、戸田候は医家春圃に20人の扶持を与えて大垣船町、全昌寺のあたりに住まわせた。

 彼が知られた最も大きなチャンスは、正徳元年(1711)6代将軍徳川家宣の就位を賀する為、朝鮮通信使節に随行した医官、奇斗文と春圃の会談が行われたときであった。全昌寺にて深夜まで及ぶ問答をし、これを「桑韓医談」と題して正徳3年(1713)に刊行した。使節は一行500余名の大集団で、一行が大垣に来た時、春圃は長男春竹、以下春倫、道仙を連れて、近江の儒者であり使節団の通訳を務めた雨森芳洲の紹介によって会談することができた。この時、通信使の奇斗文は会談の内容を絶賛して「東海に天民あり」と春圃のことを激賞したと伝えられている。春圃は名医で学者でもあったので著書も多く、11種に及ぶ書物を出版した。

 安福彦七氏の著書「室原の歴史」P.76には文化13年(1815)12月に記された文書に百姓代として北尾春圃の名が「春甫」と記されていたとある。

以上は、下記のブログより

北尾春圃と室原 | タギゾウくんの養老ノート (tagizou.com)

https://tagizou.com/main/yoronote/?p=23859

 

 北尾春圃は江戸時代の名医として知られた人物で、診察を受けようとした患者が門前に列をなしたことや、仙台藩が春圃を召し抱えたいと申し出たとき、それを惜しんだ大垣藩主が多くの蔵米を与えてとどまらせたといった逸話が残っている。

以上は下記のブログより

北尾春圃(秋峰)|郷土の先人|岐阜県養老町の歴史文化資源 (tagizou.com)

https://tagizou.com/main/ancestors/kitao.html

 

2024-08-31  久志能幾研究所通信 2926号  小田泰仙

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2024年8月25日 (日)

先祖の、親の、師の恩

 

 自分の親は父母で2人だが、2世代前なら、4人の父母がいる。10世代前の御先祖なら、1024人がいる。その一人でも欠ければ、自分はこの世にいない。一番近い親でも、父がシベリア抑留で死亡していたら、私はこの世に存在しない。現実に父の弟は、戦時中に結婚式を挙げてから入隊・出陣した。その叔父は敗戦後の1952年ごろシベリア抑留中に死亡している。だから従弟は父の顔を知らない。それを思うと、生の有難さと、運命の不思議さを感じる。

 

 今回、発見できた11世代前のご先祖(北尾春圃)の血は、自分には2048分の一に薄まって伝わっている。そのご先祖の中に偉いご先祖がいる分かると、自分にも、その血流れていると思い、何故か嬉しくなる。自分も頑張らねばという気持ちにさせてくれる。

 それがご先祖を祀ることのご利益である。今回、自分の10世代前の御先祖・北尾道仙が、名医・北尾春圃の三男であることが分かって嬉しい。ここまでたどり着くのに、25年もかかってしまった。

 25年間、その探すという情報アンテナを張っていたので、今回のご先祖の発見となった。そのアンテナにスイッチが入っていないと、流れてきた情報には絶対に目がいかない。

 それはどんな情報でも同じである。自分のアンテナに引っかかったのが価値ある情報である。

 

氏より育ち

 更に考察すると、血のつながりよりも、ご先祖の後姿で示された生き様が、その家系のありようを象徴しているようだ。昔は、子供が成人まで生きていることも少なく、養子、養女をもらって家をつないだ例が多い。自家の12代の家系図を見ると、養子をもらって家をつないだ例が多い。側室まで存在した。血はつながっていないが、家のDNAはつながっている。それこそ、ご先祖の家訓、伝統、後姿でその家を保ったのだと思う。氏より育ちである。

 

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2024-08-25  久志能幾研究所通信 2917号  小田泰仙

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2024年8月15日 (木)

運命のからくり舞台で主役を演じる

      

「天之機緘不測」(菜根譚)

 天が人間に与える運命のからくりは、人知では到底はかり知ることはできまい。縁なき衆生と縁が出来たのも、それと縁が切れたのも、からくり舞台上の一コマである。それは天が与えた運命で、人は如何ともできない。人は天が書いたシナリオ通りに演ずるしかない。

 人は人生劇場で縁技をしている。その縁は、人の小手先でいかようにもなる。だから縁「技」である。人生を大手を振って歩くには、そんな小手先の技などでは、左右されない確固たる信念を持つべき。

 

円なき囚人と縁が出来たのも(詐欺師はカネがない)、

首無き人と圓が出来たのも(詐欺師は借金で首が回らない)、

艶なき狂女と宴ができたのも(100人に一人はサイコパス)、

心なき人と炎が出来たのも(冷酷な狂人はゾンビ並み)、

統一狂会と宴が出来たのも(信徒獲得のノルマに支配される)、

太陽光パネル狂と炎じたのも(拝金至上主義に犯されている)、

郵便ポストが赤いのも、全て自分のせいである。

これらを縁起という。

 

赤い郵便ポスト理論

 昔、自分が頑張って勉強して東大に入っていれば、官僚になれたはず。そして郵政次官になれば、郵便ポストの赤い色を変えられる。そうできなかったのは、自分の努力が足りなかったから。だから自分が悪いのだ。

 

縁起が全て

 お釈迦様はこの世の全ては縁起に始ると仰せだ。その人の本質的存在性ではなく、縁起が全てである。その人がどんな良い本質を持っていても、育てる親が泥棒では、優秀な泥棒に育ってしまう。

 どんな善良な人でも、ナチスの支配下のアウシュビッツ収容所で働かされれば、ユダヤ人をガス室の送る役目を平然と行う。その看守は、家に帰れば、善良な父親で、日曜日ごとに教会に行く敬虔なキリスト教徒である。縁起とい観点でいえば、その看守が選挙で、ナチス党に投票したことに起因する縁である。

 

 そういう行動を集約して故事として伝わってきたのが「孟母三遷の教え」である。子供の教育には環境が大事として「孟母三遷の教え」ができた。氏より育ちである。それこそ縁起の基本である。

 

 だからこそ縁ある人との縁を大切にして、日々大切にして、生き活かされる人生を大切に正しく生きよう。

 

現実社会の鏡

 人間の持つ多様性の能力が限度を超え、人生・生命観の実相、人間と動物を分ける生命の実相が、時代の喧騒の中で忘れられようとしている。

 世には拝金至上主義が蔓延し、日本古来のお天道様の思想が無くなり、正しい縁の付き合いが絶えようとしている。

 

ゾンビの徘徊

 現代人は、テレビ・スマホに代表される虚構上に舞う華やかな虚像に惑わされて、人間として大切なことを忘れている。縁なき衆生が詐欺の金儲けに狂騒している現代である。縁なき精神的幽霊がゾンビのように徘徊している。

 だからこそ狂った時代の風潮に惑わされず、縁なき衆生の妨害に負けず、人間としての歩みを、一歩一歩しっかりと踏みるべきだ。

 

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2024-08-15  久志能幾研究所通信 2906号  小田泰仙

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2024年8月14日 (水)

縁がないという縁 vs 縁ありて花開く縁

 

 2015年、私は自家のお墓を改建した。その時、遠くの親戚から改建を反対された。ご先祖のお墓を改建することが、縁遠い親戚と軋轢を生むことになるとは想定外であった。良いことをしているはずなのにとの想いがある。それでその親戚とは断縁状態になって、私だけでお墓を改建した。結果オーライであった。

 

 現代は、煩わしい縁を切りたいと、墓じまいが流行?である。2022年度、墓じまいは全国で15万1076件(前年度比3万2101件増)に上り、過去最多となった。

 それなのに、お墓を改建するとは異端児であるようだ。正しいことをしているから、後ろめたさはなかった。

 

縁がないという

 住職様からは、「その親戚とは縁がないという縁」があった。無理にその縁と争わないほうが良い」と助言された。だからそっとその縁を遠ざけた。

 お釈迦様でも「縁なき衆生は度し難し」と言われる。お釈迦様でも縁なき衆生には、お手上げである。一般の人には、「その人とは縁がないという縁」を変えることはできない。縁とは縁起であり、そういう縁となった原因があり、その結果を凡人が変えることはできない。縁は自然現象と同じで、何処からか訪れて、何れかに去っていく。人はそれをただ受け入れるだけである。人智の及ぶところではない。

 お釈迦様も、「全ては縁起による。その人の肯定的な存在性はなく、あくまで縁起である」といわる。(妙法蓮華経 方便品第2)

 来るものは拒まず、去るものを追わず、である。

 

 今回のお墓の改建で、馬場恵峰先生から下記の軸をお祝いとして頂いた。縁があれば、その人とそのご縁を大事に育てて、花を咲かせればよい。良き学びであった。

 

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2024-08-14  久志能幾研究所通信 2905号  小田泰仙

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カテゴリー追加、先祖をたずねて三千里

 

 カテゴリー「I7-先祖をたずねて三千里」を追加します。

 これは私のご先祖探しの物語です。

 「I2-志天王が観る世界」の集約版です。

 

2024-08-14  久志能幾研究所通信 2904号  小田泰仙

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2024年8月11日 (日)

先祖をたずねて三千里、25年目の氷解、北尾春圃へ

 

 私はご先祖を探しで、全国を走り回り、25年間がすぎた。先日、新聞記事から、偶然、300年前のご先祖が見つかった。私は彦根で生まれたので、一番古いご先祖は彦根にいると思っていた。1950年、私の父が大垣に転勤となり、私は1歳の時、大垣市に移住した。

 しかし一番古いご先祖は地元の大垣にいた。そのご先祖は江戸時代の戸田藩藩医北尾春圃(1659—1741)であった。彼は万治元年に美濃国多芸郡室原村に生まれた。彼の父・玄甫はその名から曲直瀬流の医家らしい。春圃は父から医術を学んだ。

 

 2015年に私が自家のお墓を改建した時に判明したことは、「小田家の分かっている最古のご先祖は北尾道仙で、大垣で生まれ、彦根で1734年に亡くなった。墓石に「黄鶴北尾道仙の墓」と彫られていた」までである。それ以上は不明であった。

 

再調査 

 今回の再調査で判明したことは、北尾道仙は大垣藩の藩医・北尾春圃の三男であったこと。彼の名は、将来、家を出て医師としてやっていくために、医師にふさわしい名前を父は付けたようだ。当時の習慣で、家は長男が次ぐものだから。実際、次男の春倫も家を出て、京都に行き、建仁寺に葬られたとある。

 道仙は父の元で、医学を学んでいた。1711年に朝鮮通信使が大垣に宿泊した時、父と長男、次男、三男の道仙の一家が総動員で、通信使の医師と面談をしたという。当時、朝鮮の医学は進んでいたようだ。

 

新聞記事からのお導き

 北尾春圃を知るきっかけとなったのは、新聞記事「名医・北尾春圃の功績をたたえる」(中日新聞 2024年6月26日)であった。それによると、北尾春圃の顕彰法要が6月23日に養老町室原の福源寺で営まれた。1711年、北尾春圃は、当時の医術の先進地であった朝鮮から通信使が訪れ、大垣に宿泊した際、通信使に随行する医官と会談したとある。

 探していた北尾道仙は大垣で生まれ、1734年に彦根で亡くなったことまでは分かっていた。時代と名前の符合があい、再調査を始めるきっかけとなった。

 

2024-08-11  久志能幾研究所通信 2901号  小田泰仙

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2024年8月 9日 (金)

ご先祖探し、三千里の道中で出会った仏様たち 

 

 私は300年前のご先祖に辿り着くのに、三千里の道のりと25年の歳月を要した。その途中で、多くの仏様から貴重な教えを頂いた。その仏様の一人が、青山俊董師である。

 

 叔母の北尾自孝和尚(京都市祇園「東景寺」)は、愛知専門尼僧堂で青山俊董師から指導を受けて尼僧になった。青山俊董師は、称号「大教師」を曹洞宗では初めて尼僧として授与された。偉いお方である。

 私は北尾自孝和尚から青山俊董師のサイン本を多く頂いた。

 私はその本を何回も熟読して、生きるとは、仏教とは、を多く学んだ。馬場恵峰先生が講義で言われたことと重なって、その教えが自然と頭に入ってきて、自分の血と肉になった。

 青山俊董著『『典座教訓』講話』(1995年初版)などは、何回読んだか分からないほど熟読した。印象に残った文をB5カードにも書き写した。道元禅師のいう「生活のすべてが修行である。第一に食事作りは仏道修行そのもの」という考えがすとんと腑に落ちた。

 青山俊董師の講演テープは、通勤途上の車中で、何回も聞き、その教えは、体に染み込んでいる。感謝である。

 青山俊董師からは、三千里の道草で多くの智慧を授かった。青山俊董師に会うのにも25年の歳月が必要であった。

 

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青山俊董師との出会い

 2019年、私は東京のセミナー(致知出版社主催)で青山俊董師にお会いできると思い、セミナーに申し込んだ。しかし、その後、私にがんが見つかり、入院手術することになり、それが叶わなかった。その時は、まだご縁が熟していなかったようだ。

 

大興寺での法話会

 この春(2024年3月10日)、岐阜県揖斐川町の大興寺での法話会で、私は青山俊董師に初めてお目にかかることが出来た。青山俊董師は御歳91歳である。元気なうちにお会いできて幸せであった。特別に別室でお会いして、お話をさせていただいた。感謝である。

 青山俊董師とお会いできたのは、長年の疑問点解決の始まりの啓示であったようだ。

 

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2024-08-09  久志能幾研究所通信 2900号  小田泰仙

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