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2024年8月14日 (水)

縁がないという縁 vs 縁ありて花開く縁

 

 2015年、私は自家のお墓を改建した。その時、遠くの親戚から改建を反対された。ご先祖のお墓を改建することが、縁遠い親戚と軋轢を生むことになるとは想定外であった。良いことをしているはずなのにとの想いがある。それでその親戚とは断縁状態になって、私だけでお墓を改建した。結果オーライであった。

 

 現代は、煩わしい縁を切りたいと、墓じまいが流行?である。2022年度、墓じまいは全国で15万1076件(前年度比3万2101件増)に上り、過去最多となった。

 それなのに、お墓を改建するとは異端児であるようだ。正しいことをしているから、後ろめたさはなかった。

 

縁がないという

 住職様からは、「その親戚とは縁がないという縁」があった。無理にその縁と争わないほうが良い」と助言された。だからそっとその縁を遠ざけた。

 お釈迦様でも「縁なき衆生は度し難し」と言われる。お釈迦様でも縁なき衆生には、お手上げである。一般の人には、「その人とは縁がないという縁」を変えることはできない。縁とは縁起であり、そういう縁となった原因があり、その結果を凡人が変えることはできない。縁は自然現象と同じで、何処からか訪れて、何れかに去っていく。人はそれをただ受け入れるだけである。人智の及ぶところではない。

 お釈迦様も、「全ては縁起による。その人の肯定的な存在性はなく、あくまで縁起である」といわる。(妙法蓮華経 方便品第2)

 来るものは拒まず、去るものを追わず、である。

 

 今回のお墓の改建で、馬場恵峰先生から下記の軸をお祝いとして頂いた。縁があれば、その人とそのご縁を大事に育てて、花を咲かせればよい。良き学びであった。

 

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2024-08-14  久志能幾研究所通信 2905号  小田泰仙

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