縁がないという縁 vs 縁ありて花開く縁
2015年、私は自家のお墓を改建した。その時、遠くの親戚から改建を反対された。ご先祖のお墓を改建することが、縁遠い親戚と軋轢を生むことになるとは想定外であった。良いことをしているはずなのにとの想いがある。それでその親戚とは断縁状態になって、私だけでお墓を改建した。結果オーライであった。
現代は、煩わしい縁を切りたいと、墓じまいが流行?である。2022年度、墓じまいは全国で15万1076件(前年度比3万2101件増)に上り、過去最多となった。
それなのに、お墓を改建するとは異端児であるようだ。正しいことをしているから、後ろめたさはなかった。
縁がないという縁
住職様からは、「「その親戚とは縁がないという縁」があった。無理にその縁と争わないほうが良い」と助言された。だからそっとその縁を遠ざけた。
お釈迦様でも「縁なき衆生は度し難し」と言われる。お釈迦様でも縁なき衆生には、お手上げである。一般の人には、「その人とは縁がないという縁」を変えることはできない。縁とは縁起であり、そういう縁となった原因があり、その結果を凡人が変えることはできない。縁は自然現象と同じで、何処からか訪れて、何れかに去っていく。人はそれをただ受け入れるだけである。人智の及ぶところではない。
お釈迦様も、「全ては縁起による。その人の肯定的な存在性はなく、あくまで縁起である」といわる。(妙法蓮華経 方便品第2)
来るものは拒まず、去るものを追わず、である。
今回のお墓の改建で、馬場恵峰先生から下記の軸をお祝いとして頂いた。縁があれば、その人とそのご縁を大事に育てて、花を咲かせればよい。良き学びであった。
.
2024-08-14 久志能幾研究所通信 2905号 小田泰仙
「久志能」↖ で検索
著作権の関係で、無断引用を禁止します。
コメント