w_今川順夫氏の歩んだ道 Feed

2020年4月15日 (水)

磨墨智79-1 夜、寝る前に次の日の予定を立てる

生きていればこそ

 前日の夜に、翌朝起きてやるべきことを書きだしておくこと。そうすれば、朝、目が覚めたら、寝床でぐずぐずしていられない。おちおち死んでなんかおられない。明日の朝は、新しい人生の始まりの日なのだ。

 朝、目が覚めるとは、なんと幸せなことか。そのまま永眠してしまう人もいるのだ。

 地獄のシベリア抑留で朝起きたら、「昨日まで元気で働いていた若い頑強な仲間が、朝、隣のベッドで冷たくなっていた。」シベリア抑留体験者の言葉)。私の父も今川順夫氏もシベリア抑留者であった。 それを生き延びたから、今の私がある。

Dsc096571s  馬場恵峰書  「理念と経営」コーチング型カレンダーより(コスモ教育出版)

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生きる目的                        

 地獄のシベリア抑留やアウシュビッツで生き延びた人は、生きる意味を知っていた。

 「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」(ニーチェ)

 「未来に目的を持ち、自分の存在価値を認めていた人たちだけが生き延びた。生きる目的を見いだせず、生きる内実を失い、生きていてもなんにもならないと考え、自分の存在価値をなくし、がんばり抜く意味を失った人は、(いくら若く頑強な体でも)、あっけなく死んでいった。」ヴィクトル・E・フランクル著『夜と霧』)

 アウシュビッでは死亡率79%である。ユダヤ人434万人が犠牲となった。

 1945年、ソ連による国際法違反であるシベリア抑留で、極寒の屋外強制労働のため死亡した日本人捕虜は7万人で、死亡率12%である。抑留初期は、ソ連側の準備不足のため、死亡率が80%に達した。

 故今川順夫最高顧問は「こんなところで死んでたまるか。俺は生きて帰国して、会社を作るのだ」との負けじ魂で頑張り、生きて帰国して、従業員5000人の会社を創った。

 その今川順夫さんも2019年に亡くなられた。我々は、その歴史を風化させてはなるまい。それで私は使命としてこのブログを書いている。

 

シベリア収容所の地獄

 シベリア収容所では零下60度の中での重労働で体を酷使させられる。建前では零下40度以下の屋外労働は禁止だが、実際は建前無視で屋外の重労働に駆り出された。多くの若い仲間は、朝起きるとベッドで冷たくなっていた。死亡した仲間を弔う役目を申し出て、カチンカチンに凍った6名の戦友の遺体を大八車で運び、埋葬した。極寒の抑留地では凍土で被せる土もない。僅かに手に入ったコケを戦友の遺体の顔の上に乗せるのが、せめてもの供養であったという。その後、その同じ大八車で、今日食べる食料品を屋外の倉庫から収容所のバラックに運ぶ労働に従事させられた。シベリア収容所とは、そういう残酷な状況の連続である。

 23 上図:今川順夫著『夢への挑戦の礎』より

 Dsc04619s  地獄のシベリア抑留の講演会で、支給されていた一食分のパンの量を説明する今川順夫最高顧問。これで極寒の中の重労働に耐えて生還した。 

 (2014年8月14日 大垣興文地区センターにて)

 

現代のアウシュビッツ

 会社時代、一緒に仕事をして、私が1994年にミシガン大学に行ったとき、デトロイトで案内をしてくれた特許室のT君も、2002年に突然死んだ。まだ30代である。まだお子さんが小さい。彼は会社がリーマンショックで不況になり、事務職の経費節約の名目で、自動車部品の現場応援に出された。事務職としては過酷な労働環境である。彼は泊まっていた会社の寮で、朝、冷たくなっていた。

 私が仕事を一緒にした仲間の24人が、定年前かその直後に死んでいる。日本の高度成長期に起きたビジネス戦争の戦死者である。それはトップの采配ミスでの戦死である。

 

トップの無能さが組織をつぶす

 その原因は、トップが無能であったのだ。会社が学閥に支配された役員ばかりになり、決断が出来ないトップが長く君臨して、決断すべき製品開発が市場のニーズに追いつかなくなった。その結果、65年続いた会社が消滅した。市場の原理は冷酷である。

 その二の舞の事態を、私は現在の大垣市長の無能さにダブらせて見ている。小川敏の無能さで、大垣市が衰退して、泣きを見るのは無力な市民なのだ。すでに、大垣駅前商店街の従業員の8,000人が泣いて大垣の職場を去った。市民の持つ不動産財産が半分に目減りした。他市では不動産価値が上がっている。名古屋地区はリニア景気に沸いているのだ。

 今回の新型コロナウイルス騒動で、仕事がなくなり、自殺する人の出る恐れもある。岐阜県も戒厳令(非常事態宣言)が出された。新型コロナウイルスに殺されるかもしれない。まさに戦争である。シベリア抑留やアウシュビッツは、他人ごとや昔話ではないのだ。

 

愚かなリーダ

 トップの決断が、市民の命や生活に影響する。今のレベルの安倍首相や小川敏では、怖しくて、政治を任せられない。

 二人とも愚かなマスク配布政策で、墓穴を掘っている。小川敏は、パーフォマンスで1500枚の手作りマスクを作らせて、新聞社を呼んで自慢話である。

 手作りのマスクは衛生的に問題があり、ウイルス感染の危険性が却って増えるという医学界からの指摘がある。本来、マスクはクリーンルームで作られる。主婦連が不衛生な家庭で作るモノではないのだ。

 大垣市の児童生徒数は12,877人である。それに1500枚のマスクを作ったと自慢しても、大垣市の児童生徒一人あたり0.1枚しか配布できない。それで全てが解決したかのような報道ぶりである。小川敏の6選へ向けての事前選挙活動としか思えない。正に売名行為のパーフォマンスである。

 

現代社会のアウシュビッツ収容所化

 定年後、やることがなく、認知症になる人が75歳以上は25%である。65歳以上は15%が認知症である。

 日本人の半数が癌になる。死因のトップである。癌の遠因がビジネス戦争でのストレスである。その原因のもう一つは、企業が拝金主義に汚染され、美味しすぎる食品の毒をばらまいているからである。利権に取りつかれた高級官僚が、添加物の認可を有名無実にしている。

 認知症は、その逆で「やることなし牢獄」の脳死である。認知症は、本人は極楽であるが、家族を地獄の苦しみに突き落とす。

 

地獄の苦しみ

 人間として、やることがないのは、地獄なのだ。管理職として、辞めさせたい部下がいたら、仕事を与えなければ、部下は勝手に辞めていく。死ぬほど仕事があると、絶対に辞めない。それほどに、仕事とは人生なのだ。 

 「起きたけど 寝るまで 特に用もなし」では、地獄の認知症への道をまっしぐらである。自分で生涯の仕事を見付けるのは、自己責任である。人は、生涯現役との意識を持つべきなのだ。それが自分の命を永らえさせる。

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 馬場恵峰書

 

2020-04-15 久志能幾研究所通信 1535 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年4月 5日 (日)

「河村義子先生、何故そんなに頑張るの?」

「つなげたいから」がその答えであった。

 

 どんな偉大な人でも、その事業やプロジェクトは一代限りである。後継者で、創業者と同じかそれ以上の能力、熱意がある人が存在することは稀である。つなげようというのは儚い希望である。後継者の誰にも、そんな能力はない。どんな帝国、会社、宗派、学閥、芸道門でも、同じである。

 

後は野となれ山となれ

 一代で栄華を極め、全てを置いて消えていく。誰からも認められなくても、真っ黒になり働き、静かに消えていく「後を継ぐ人はいない」と覚悟するからこそ、自分で出来る限りのことをして、あの世に旅立つ。後は野となれ山となれ、である。それが世の常である。無常こそがこの世の定めである。その人の能力が高いほど、熱意が多き程、その落差は大きい。

 今回、河村義子先生がご逝去された後の事象を見ていて、つくづくと無常を感じた。今川順夫最高顧問のご逝去後の状況も同じであった。後進で付き合うに値する人がいないのだ。それを利用しようとする人も存在することを知っただけ、賢くなった。私は煮え湯を飲まされて、その人たちと縁を切った。

 

生き方の再確認

 自分の事業も後進に託さず、自分で自分の道の後始末をして旅立ちたい。人生は一期一会である。期待するから裏切られる。人知れず世のためになる事に全力で尽力し、あるがままに生きる。ご縁のあった人に清風を感じてもらえば、それでよい。それが河村義子先生の最期の教えであった。死を覚悟して、力を振り絞り最後の頑張りをする河村義子先生と出会えたことに感謝である。

Dsc04341s  河村義子先生の最後の公式公演 ドレスデントリオとの共演

 クインテッサホテルでのニューイヤーコンサート  2018年1月13日

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 馬場恵峰書 2006年

 

2020-04-05 久志能幾研究所通信 1524 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年3月26日 (木)

磨墨知33-1 タイマツを掲げよう(2)

 タイマツとは、志・夢・憲法・方針である。それが自分の行き先、組織の目指す先を示す。暗夜の中、タイマツが行き先を照らす。ニューヨークの入り江に建つ「自由の女神像」の掲げる燈火が、アメリカに移民してきた人々に勇気を与え、心を鼓舞させて、自由の国を造った。

河村義子先生の夢が、大垣の音楽芸術活動のタイマツとなった。大垣の未来を背負う子供たちに夢を与えた。 4k8a3399s  チェリストTIMMを招いてのコンサートに、120名の子供たちを「あしながチケット」で招待して、子供たちに一流の音楽に接しさせた。演奏会の前に挨拶をされ、子供たちのためにベーゼンドルファーのピアノをやさしく解説された河村義子先生。子供たちをこよなく愛した先生であった。(2017年9月29日 大垣音楽堂で)

今川順夫氏のシベリア抑留で生まれた負けじ魂の炎が、大垣の恒久平和の願いとなった。氏は子供達の為に多くの寄付をされた。Dsc04619s  地獄のシベリア抑留の講演会で、支給されていた一食分のパンの量を説明する今川順夫最高顧問。これで極寒の中の重労働に耐えて生還した。「この地獄を生きのびて日本に帰り、会社を創るのだ。こんなところで死んでたまるか」と、その負けじ魂で、シベリアから帰国後に会社を創立して、5000人の会社を作り上げた。(2014年8月14日 大垣興文地区センターにて)

安岡正篤師や渡部昇一師の著書や多くの偉人の書が、私の心に灯をともした。 

憲法の威力

 日本国憲法が戦後の日本の行動を決めてきた。日本憲法は、アメリカが二度と日本が立ち直れないようにした自己縛りの憲法である。70年前の敗戦の混乱のさなかに作られた憲法で、アメリカから押し付けられた憲法である。賞味期限が切れている。北朝鮮、韓国、中国からの侵略行為に対して、国を守るには無力の憲法である。ドイツでも戦後、数回の憲法改正を行っている。改憲しない方がおかしいのだ。

 大垣市民憲法が、大垣の行く末を決めてきた。大垣市民憲法も、小川敏が2009年に大垣市民憲法を改悪してから、大垣の没落が始った。必然の流れである。

 

行き先明示

 後に続く人が先頭を走る人が斃れても、先人が掲げたタイマツの方向が分かっていれば、後進がその方向に進路を向ければ、何時かは目的地に到達する。行き先が分かっていれば、部下は安心してリーダについていく。

 自分の行先の目的地をタイマツで明確にしよう。そうすれば寄り道をしなくても済む。寄り道が最大の時間ロスである。タイマツを掲げれば、周りからの援助もある。仏様からの援助もある。何処へ行くか分からない放浪人を、誰も援助はしない。

 己の人生の行き先は、天命、使命に示されている。

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 馬場恵峰書

 

2020-03-26 久志能幾研究所通信 1514 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年2月18日 (火)

貧すれば癌ス 「貧忙癌」

 私は長年の友を「貧忙癌」で失った。最近、友人が会社を早期退職して貧乏になり、それにつれて友の心までが貧しくなってきた。「忙」とは心の癌になり、心を亡くしたのだ。一度、「貧忙」という悪魔のサイクルに陥ると、どんどん貧乏くさくなってゆく。つまり生活が貧乏になると、心までが「貧忙癌」に侵されて増殖して、豊かな心が消滅するのだ。

 

今生のお別れ

 今の出会いが今生のお別れなのだ。何時までもあると思うな、親とカネ。親の死は、何時かは己も死ぬことを親が教えてくれている。人と出会ったら、それが今生のお別れなのだ。明日にでも大震災が起きるやもしれぬ。第二の911テロに巻き込まれるやもしれぬ。

 だから自分の病気ばかりに気にするのではなく、たまには相手の幸せを考えて布施(顔施、心施)をすべきなのだ。相手の立場になって考えることも布施である。明日の命は分からない。命は日々尽きていくのだ。

 

貧忙癌の原因

 鬱病を原因とする貧忙癌は、利他の精神に立ち返れば治る。自分よりまず相手の立場を考えよう。鬱とは、鬱蒼と茂った葉で、自分を守るために自分自身を隠してしまい、その葉の重みで自分自身が倒れそうになった状態である。木の全栄養が葉っぱに行ってしまい、他の事は考えられず、肝心な自分の幹に栄養が行かなくなった状態である。だから、その防御用の葉っぱを落とせば、病気は治る。

 何時までもあると思うな、己の命。どうせ何時か消える命なら、世のために捧げた方が、生き甲斐がある。そうすれば鬱はどこかに行ってしまう。自分のことばかり考えるから、周りが見えなくなる。

 

喫茶店事例

 竹馬の友が一緒にマクドナルドに行こうと言いだしたので、出かけた。友人が、驕りだと言うので、コーヒーとハンバーガーを注文した。ところが友人は(金がないから)水だけでいいという。当方は奢ってもらって、相手が水だけ飲んでいては、コーヒーなんか気持ち良く飲めない。一緒に同じものを食べてお喋りしてこそ楽しいのだ。その気持ちを友人は察することが出来ないまでに、友人の心は「貧忙癌」に侵されていた。それでは、今後とても対等に付き合えないと思った。だんだんと疎遠になるのも致し方ない。そんな友人と付き合うと自分まで惨めになる。

 

温泉旅行

 大学時代から付き合っている40年来の友人と、定年退職の記念にと一緒にかけ流しで有名な温泉に出かけた。そこで夕食の料理を頼む段になって、私は一生に一回の記念だからと一番いい料理を頼もうと思ったら、友人が予算の関係で少し安い料理にしようと抵抗されてしまった。その差は数千円である。一生で一度の事なのに、何かわだかまりが残った。その後、別の価値観の差でトラブルがあり、40年来の友人と別れることになった。

 お互い仕事をしている間は、遠方地であったので、年に1回か数年に1度くらいしか会わなかったので、その価値観の差が露見することがなかった。お互い、定年退職を迎え、会う頻度が増えて露見した事件であった。

 

シベリア抑留の生と死

 私の父は地獄のシベリア抑留を経験して命からがら生還した。だから今の私の命がある。父の弟はシベリアの土になった。だから従弟は父の顔を知らない。シベリア抑留では極寒の強制労働で7万人の日本人が殺された。一説には10万人とも言われる。死亡率12%だが、抑留当初の死亡率は80%であった。アウシュビッツ強制収容所並みである。我々が語り継がねばならぬ歴史である。

 大学時代の友人の父も同じ境遇であった。父はその体験談をほとんど話さなかった。友人の父も同じであったようだ。それはソ連から洗脳教育で、捕虜全員が口止めされていたようだ。

 その生々しい体験談を2014年8月2日、丸順の今川順夫最高顧問が講演会「負けて堪るかーーシベリア抑留を生き抜いた男の人生」でされたので、それをビデオ撮影してディスクに焼いた。友人が、それに興味があると言うので、気を利かせてそれを業者に頼んでダビングして送ってあげた。

 しかしその実費の支払いをお願いしたら、「押し売りみたい」との返信があった。彼はビデオディスクを受け取ったが、その代金は払わなかった。それで、これは価値観が違う人だと分かり、40年来の友であるが、別れることにした。

 送ったのは、今川順夫氏のシベリア抑留体験の講演ビデオには、私の父も友人の父も、この講演にある同じ体験が語られている。彼の行為は、シベリア抑留で亡くなられた方を侮辱したようで、ある種の怒りも覚えた。彼も心の貧忙癌に罹っていた。

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 今川順夫氏の講演  これで一食分のパン。これで重労働に耐えた。

 2014年8月16日 興文地区センター

 今川順夫氏は2019年6月21日、逝去された。95歳。ご冥福をお祈りいたします。

 

人は成長しないと友を失う

 渡部昇一師は、同じような経験談をエッセイに残している。長年の友でも、自分と同じように成長しないと、価値観、蓄えの差が出来てくきて、付き合うのに障害が出てくるという。行くレストラン、食べる料理の金額に関してお互い違和感を覚えない人だから、長く付き合える。それに差が生じると、お互い違和感を覚えて交際に支障が発生する。人は歳と共に、心の豊かさ、財産の豊かさが成長しないと、友も失うという。それをこの事例で体感した。

 

福禄寿

 人は経験を積んで、人格に磨きをかけて、福を持たねばならぬ。人は働いて裕福(禄)にならねばならぬ。長生きせねば(寿)、交際も保てない。また生んでくださったご先祖、ご両親に申し訳ない。

Dsc00557s   馬場恵峰書

2020-02-18 久志能幾研究所通信 1484 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年9月 5日 (木)

いろはにほへと

 吾が家系図上で、華々しい人生模様を形作るツワモノどもも、いつしか香も色も消え、全て墓石に記録を留めるさまは、勝者必滅を示すごときである。

 歴史上でも、現代社会でも、栄華を極めたツラ厚きものどもも、いつしか化けの皮がはがれ、姿を消していく様は、天地が春夏秋冬、盛者必衰の経を唱えるごときである。

 自分の人生を振り返り、青春を謳歌し体力に任せて無理を重ねたときもある。若いときには夢多き青春を謳歌したのに、何時しか時も過ぎ、体のあちこちに不具合を感じる頃になって、平家物語の祇園精舎の鐘の声や弘法大師の作と言われる「いろは歌」が自分に迫ってくる。

 

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、紗羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。(『平家物語』)

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   馬場恵峰書 「100m巻物」 日中文化資料館蔵  2014年4月17日撮影

 

諸行無常

 自分の肉体と心を持つ自分自身は、自分のものではない。沸様の預かり物と思うこのごろである。いつかは沸様のいる彼岸に返さねばならない。自分を含めてすべての一族は沸心一体として家系図を彩る様こそが、沸のなせる技である。自分は小さな存在であるが、この世で出来ることを夢見て過ごすことが、夢見ず無為に過ごす人よりも、人らしい生き方であると思う。その夢が破れて涅槃に逝っても、夢見た証があれば、その後を追う子孫が生まれてくる。ご先祖が何時かは歩いた道を、生まれ変わった自分が歩いている。

 三法印の「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」とは仏教のあるべき姿を現した標語である。「いろは歌」はそれを踏まえた歌として詠まれている。佛と自分が一体となってこそ人の人生である。

 

 色は匂へど散りぬるを わが世誰ぞ常ならむ

 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔いもせず

 無常なこの世の中を今まで歩いてきた。誰一人永遠の繁栄を遂げた人はいない。「今」まさに越えにくい深山に入ろうとしている(有為とは佛語で、直接間接の諸条件、即ち因と縁の和合によって作られている恒常でないもの)。軽薄な夢などは見ず、正気になって涅槃に逝く覚悟である。浮世の幸不幸や貧富の差は夢の如し。有為ではなく無為(因縁によって作られたものではなく、常住絶対の真実である悟り)の世界に向って歩くことが修行である。それが身沸一体の境地となる。今の世を夢と思わずに大きな夢を見つつ、その実現に向けて、一歩一歩絶えまず人生の旅を精進したい。

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  馬場恵峰書  2012年

  

今川順夫氏、中村公隆師、河村義子先生のご縁

 私が「いろは歌」の意味を知ったのは、高野山伝燈大阿闍梨中村公隆著『いのち耀いて生きる』(春秋社)を読んだ2015年7月の時である。これも今川順夫氏が中村公隆師の米寿のお祝い会に招かれ、その時の中村公隆師贈呈の御本を今川氏が頂いた。私が河村義子の演奏会の案内を今川氏にしたら、中村公隆師の米寿の祝賀会があるので、出られないという。その中村公隆師の著書を今川氏から頂いた。

 その本を読み、感銘を受け、他の著書も手に入れて得た知識である。今川順夫氏に河村義子先生の演奏会の話しをしなければ、ご縁がなかった本である。

 その今川順夫氏もこの2019年6月に他界された。河村義子先生も昨年の2018年末に他界である。「いろはにほへと」をしみじみと感じる。

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2019-09-05   久志能幾研究所通信No.1329  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年8月25日 (日)

今川順夫氏に関する記事の集約が完了

 丸順の今川最高顧問に関する記事をカテゴリー「w_今川順夫氏の歩んだ道」に集約する作業が完了しました。ご参照ください。

 

2019-08-25   久志能幾研究所通信No.1316  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年8月24日 (土)

故今川順夫氏 お別れの会

 2019年6月21日、今川順夫氏がご逝去された。享年95歳。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 葬儀は親族だけで行われたが、8月19日、お別れ会が大垣フォーラムホテルで800余名の方が参列して、しめやかに開催された。

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 お別れの会 祭壇 2019年8月19日、大垣フォーラムホテル

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別室の懇親会場で生前のインタビュービデオを放映

 

 氏とは父がシベリア抑留の関係で、大垣ダモイ会に入っていたご縁で知り合いになった。色々とお話を聞き、お世話になったご縁である。

 生前、今川最高顧問からは、会社の写真集を作って欲しいとの依頼があったが、側近に調査を邪魔され、氏に会えなくなり、それもかなわなくなった。ご縁がなかったとして身を引いた。生前に今川順夫最高顧問と親しくお話をできたのが、ご縁として幸せであった。写真集が出版できなかったのは、悔いがあるが、それも縁であると思う。

 当時、今川最高顧問から、今の会社の利益が薄いとして経営分析を依頼された。最高顧問は部下にその営業データを私に渡せと指示されたが、渡してもらえなかった。担当役員に面会時間を約束して会いに行っても、面会をすっぽかされた。後でそのお詫びも無かったから、確信的に面会を拒否をしたようだ。部外者がそのデータを見ると都合が悪い部分があったのだろう。今川最高顧問は、その件でその部下を叱責されたが、その部下は平然として、蛙の面に水のようであった。それで聞き込み等で調査をしたが、側近に邪魔をされ、挙句に脅迫までされたので、身を引いた。知人の元銀行マンから命の危険があるから身を引けと助言を受けたためである。

 その後、丸順は人員整理があり、倒産の噂もあった。その後、丸順は東プレの資本が入り、実質的に人手に渡った。こんな部下たちがいれば会社もおかしくなると思った。それで、この件は縁がなかったと悟った。

 

 今川最高顧問に関する私のブロブ記事は、

新設のカテゴリー「w_今川順夫氏の歩んだ道」に集約して整理中です。ご参照ください。

 

2019-08-24   久志能幾研究所通信No.1315 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年2月28日 (木)

磨墨智6. アウシュビッツから生還しよう

 生きる目的を持った者だけが、アウシュビッツやシベリアで生き延びた。生き延びるとは消滅寸前の時間の炎を復活すること。どんな状況下でも、希望を捨てず、生き延びるべき。

 

父のシベリア抑留

 私の父も地獄のシベリア抑留から生き延びて帰国した。それで今の私の生がある。零下30度の極寒労働地、極貧の食事、劣悪な極酷の労働条件。朝,目を覚ますと若い戦友が隣のベッドで冷たくなっている。半分の戦友がシベリアの土に消えた。アウシュビッツでは、死亡率95%。1945年のシベリア抑留開始の初期にはロシア側の準備不足で、死亡率は80%。10万人の邦人がシベリアの土になった。しかしその極限条件下でも生き延びた人達がいる。

 

ヴィクトル・E・フランクルの行動

 下記はナチス強制収容所から生還し、その体験を記した『夜と霧』の著者(心理学者)、ヴィクトル・E・フランクルがとった行動。

 

◇ 働ける体であるように見せる

    働ける状態でなければ、自動的にガス室行きである。だから常に若く見えるように、立ったり歩いたりする時は背筋をピッと延ばしていた。若く見えるように髭を毎日剃った。最後のパン一切れを人に与えても、ガラスの破片で髭を剃ってもらった。病気にならない。病人になれば、自動的にガス室行き。

◇ 常に未来を信じる

   近い将来、講演会で自分が演説している姿を思い浮かべた。

◇ 収容所での苦しみは意味があると認識

    無意味だとすると生きることの価値が無くなる

◇ 愛する人との魂での会話

◇ 感動を失わない

     沈みゆく太陽の夕焼けの風景に感動

◇ ユーモアを失わない

     自分を見失わない魂の武器

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会社が経営危機の時、リストラ対象になるのはどんな人?

リストラされると今の経済状態では再就職は至難の技。年間3万人の自殺者

 

生きるとはつまり、(生きる義務を引き受ける行為)

 ・生きることへの問いに正しく答える義務

  ・生きることが各人に課す課題を果たす義務

  ・時々刻々の要請を充たす義務

苦しむとは何かをなしとげること

「夜と霧」ヴィクトル・E・フランクルより

 

私とシベリア

 父もシベリア抑留から生還できたから、今の私の命がある。父の弟はシベリアの土になった。その子は父の顔をしらない。

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恒久平和乃碑(大垣公園内)

1991年建立、父もダモイ会に入会していた

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濃尾護国神社前の碑(大垣公園内)

 国を護るために命を捧げた英霊を忘れてはならない。

 そして今の我々の命がある。

 

 

2019-02-28  久志能幾研究所 小田泰仙

 著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2018年7月30日 (月)

大垣の子供たちの未来は悲惨(2/5)不動明王

不動明王の教え

 現在、松本明慶先生は、最大規模の不動明王坐像を造仏中である。その完成時期が東京オリンピックの影響で、遅延しそうである。造仏を依頼されたお寺さんが不動明王坐像を納めるお堂を新築しようとしたら、東京オリンピック関連建設の影響で、設資材が高騰して、予定の建設費よりも5割増しの金額になるからだ。それが数億円規模の増加なので、とても檀家さんに寄進をお願いできず、その延期を検討されている。

 

岐建の疑惑

 大垣市は、東京オリンピックで資材が高騰することが分かっていて、125億円の大垣新市庁舎の建設を強引に進めている。その建設時期を少し延期するだけで、小学校のエアコン設置費の数十億円は軽く浮くはずだ。それは松本明慶大仏師の不動明王の造仏が教えてくれた。

 大垣市長は、「新市庁舎の建設費は、東京オリンピックの影響なしに建設できる」と言っているが、経済学の常識として、資材価格が上がるのだから建設原価が上がるのは必然である。どこかで手を抜かないと、建設会社が左前になってしてしまう。大垣市長の常識は、世間の非常識である。

 だから同時期に岐建が請け負った彦根市役所の耐震補強工事は、2018年1月に手抜き不正が露見して、彦根副市長が辞任に追い込まれた。その疑惑に満ちた岐建が大垣新市庁舎を建設している。会社の利益確保の経営上で、手抜きをしないほうが、おかしいと思うのが常識である。

 

お祭りで無駄遣い

 小川市政は、財政健全化と謳いながら、大垣市制100周年記念行事では痴呆的な行事に3億円余も散財している。その使途不明金の疑惑が山積である。なにせ、自分達で「使用用途は非公開」との条令を作って大威張りである。だから、子供達の命に影響するエアコン設置には、頭が回らない、回す気もない。行政の使命を忘れた役人の存在は罪悪である。子供の未来を考えない官吏は、この世に不要である。それが天の定めである。

 

トヨタの考え方

 トヨタ生産方式を作ったトヨタ自動車元副社長の大野耐一氏は「悪いことに使うのは別だが、良いことへの投資なら、お金は何とでもなる」として、トヨタ自動車の省人化の設備投資には金をつぎ込んで、三河のトヨタを世界のトヨタにした「人で生産性を上げてはならぬ。機械で生産性を上げよ」の思想である。

 大垣市長は、旧日本軍の精神論で「エアコンなしで学習の効果を上げよ」とぶち上げている。大垣の恥である。敵(他市の子供達)は、快適な環境で勉学に励んでいる。今日でも遅いのに、それが6年後にエアコン設置の工事が開始なんて、正気の沙汰ではない。小川市長は狂っている。「命の危険がある」と気象庁が警告した極暑の環境下で、子供達の命を危険に晒して、何が「子育て日本一」なのか。

 

大垣債

 金がないなら、「小学校エアコン設備の大垣債」を発行して金を作ればよい。後から返済すればよいだけだ。予算があるないの話しではなく、大垣市長の決断があるかないかだけの問題である。これは子供達の命に影響する緊急事態である。

 

不動明王への祈願

 不動明王とは、拝む人の煩悩を右手に持った剣で断ち切り、迷える衆生を左手の羂索で救い上げてくれる佛様である。その顔は怒りに満ちた形相だが、目は慈しみのまなざしで拝む人を包んでいる。怒りで自分を叱ってくれる佛様である。だから世にはお不動さん信仰が絶えない。

 不動明王は、大日如来の化身である。大日如来を社長とすると、不動明王は、その社長代行とも言える存在である。その身体は醜い青黒い色で表現される像容が多い。これはどぶ泥の色ともいわれ、煩悩の泥の中において衆生を済度される。頭には蓮の華の座をいただき、髪は中国の様式で辮髪である。背に迦楼羅焔を背負い、貪・瞋・癡を許さんとする憤怒の相で、岩を組み合わせた瑟瑟座に座して「一切の人々を救うまではここを動かじ」と決意する姿が一般的である。

 

今川順夫会長と不動明王のご縁

 丸順の今川順夫会長は、大垣市南頬町で工場を建設していた昭和32年の冬のある夜、枕もとの立った仏様の導きで、谷汲山華厳寺の滝のそばに立っておられたお不動さんとご縁ができた。今川氏は、そのお不動さんのためにお社を建てるという功徳をされた。その時、和尚さんの話で、お不動さんがお礼として願い事をかなえてあげるという。それで今川氏は、創業間もない頃で、「会社の発展と社員の幸せを」を祈願されたという。その後、丸順は関連会社を含めて4000人の会社に成長した。これは今川順夫著『私の手がつづる 事業独立 創操の記録』(岐阜新聞社刊)に述べられた記録である。

Photo 岐阜新聞社刊 2012年

祈るとは、人生の品質管理活動

 今川氏は創業以来、毎日、欠かさず神棚・仏壇に手を合わせておられる。手を合わせて祈るとは、毎日、自分の日々の行いを反省し、冷静に自分と対峙して、目標を神仏に誓い、その進捗状況を報告するということだ。自分で決めた目標に、自分で自分に鞭打って励む、である。つまり神仏を社長として、自分株式会社でPDCAを回しているといえる。これは人生の品質管理活動である。だから、神仏にお祈りする人は成功する。

 

佛様が治してくれる

 三好眼科の三好輝行先生は、松本明慶仏像彫刻美術館福山分室に、大きな不動明王を鎮座させている。不動明王は、迷える衆生を救う仏様である。現在、三好先生は、世界歴代2位の白内障手術数の実績を積み上げておられる。三好先生が手術後に患者にかける言葉が「手術は大成功です。後は佛様が治してくれます」である。私は手術室で先生の手術を見学したおりに、この言葉を聞いて感激した。これも佛様からの恩恵であろう。私が三好先生とご縁ができたことによるご縁である。

2p1020368 不動明王座像 松本明慶大仏師作 三好輝行先生蔵(福山市 三好眼科)

 

小川市長の煩悩

 無力な大垣市民は、小川敏市長の迷える煩悩が、不動明王の宝剣で断ち切られることを願うしかない。何を血迷って、小川市長は、大垣市長の激務の座に20年間もしがみつくつもりなのか。第三者から見れば、小川市長は、貪・瞋・癡で狂って命を削っているとしか思えない。小川市長が信仰心に厚いとは思えない。小川市長に神仏に手を合わせるという心があれば、護国神社前での水まんじゅうギネス狂宴などはできまい。

 その弊害で、大垣市役所が「怠」や「平目」の舞う瘤隅場(りゅうぐうじょう)として、利権の渦が巻いている。だから大垣は、衰退した。その恥が大垣駅前商店街のシャッター通り化として顕在化している。天網恢恢疎にして漏らさず、である。いくら小川敏大垣市長が長期政権の権勢を誇っても、大日如来の遣わす不動明王が、宝剣で玉手箱を叩き壊せば、煙となって消える運命である。せめて子供たちを巻き添えにしないで欲しい。

 

2018-07-30  久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年7月11日 (水)

恐ろしい大垣都市伝説(4/7)シベリア抑留2

シベリア抑留戦没者70回忌追悼法要

 2015年11月3日10時から、大垣公園内の「恒久平和の碑」前でシベリア抑留戦没者70回忌追悼法要が、今川順夫会長の主催で執り行われた。会員や丸順の関係者など60名が出席した。今川会長とは講演会でご縁が出来たので、私にこの法要への参列の招待状が来た。私は初めての参加である。

 この法要に参加が決まってから、京都府の従兄弟の訃報が入り、その葬儀が、同日13時からと急に決まった。それで、シベリア抑留戦没者70回忌追悼法要には、出発間際の10時55分まで参列してから、後ろ髪をひかれる想いで、予め呼んであったタクシーに飛び乗り、名古屋経由の新幹線で京都に向った。京都府の現地には、13時15分に到着できた。京都の告別式が午前中ならこの追悼法要には参加できなかった。両方の法要に参加できたのは、沸様のご配慮と思う。

41p1070459  参列者と歓談する今川順夫会長

42p1070479  ケーブルTVのインタビューを受ける今川会長

地獄のシベリアから生還できた理由

 法要に先立ち、今川会長が感涙の挨拶をされた。その中で、今川氏が地獄のシベリアから生還できた理由を3つ述べられた。一つが気力、二つ目が体力、そしてで、その3つがあって生きて帰れたという。そしてもう一つが、軍人勅諭の「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」をもじった「一つ、軍人は要領を本分とすべし」という冗談の句が生還の要点であったという。

 やはり要領の悪い人は生きて帰れなかったようだ。「要領」とは悪い意味もあるが、良い意味では、物事の本質である。生きる本質を理解できなかった人がシベリアの土になった。若く体力があるから生きて帰れたわけではない。神仏のご加護無しに生還できたわけではないという。人は地獄を見ると、神仏の存在を感じるようだ。

 「運」は、今までの自分の生き様、ご先祖の積善功徳、それらの総合した力ではないかと最近しみじみと思う。自分の運だけでは生還出来なかったのだと思う。父が生還できたのもご先祖の功徳と巡り遇わせの運と思う。

 

小川市長の「追悼の辞」

 今川会長の挨拶の後、小川敏大垣市長が神妙に追悼の辞を読み上げた。それは秘書室が書いた追悼の辞を読み上げただけのように聴こえた。いつもは、秘書室が用意した原稿などは無視して、自分の思ったままの演説をして、とりとめのない話で時間超過する小川敏市長であるが、この日は、原稿を見ながらのぎこちない追悼の辞であった。今川会長の話とかなり違った趣であった。

 25年前の「恒久平和の碑」除幕式で、当時の小倉満市長が、涙ぐんで真に哀悼の籠った追悼の辞と比較すると、何か違和感のあるお役所的な追悼の辞であった。小川敏市長は、目に見えないものに対する考えが、普通の人とは違うようだ。小川市長は、ものに対する眼の付け所が、現世的なようだ。

 

目に見えないものへの畏敬

 当時は、そんなことには思いが及ばなかったが、この原稿を書くとき、当時のビデオ映像で小川敏市長の追悼の辞を再確認して、その思いを新たにした。だから、この神聖な場所で、英霊に対して無礼な「水まんじゅうギネス挑戦」を決行する愚行ができたのだと思う。3年前に、この場所での追悼の辞が頭の隅にあれば、決してこの場をギネス挑戦の会場にはしなかったであろう。神仏、英霊、ご先祖に敬意を払わない現市長を頂く大垣市民は不幸である。

 目に見えないものに対する姿勢が、動物と人間を分ける印籠なのだ。爬虫類の脳で生きていると、食うだけ、金儲けだけ、目先の餌(食いもの世界記録)だけという生きる姿勢となる。そういう生き方をするから詐欺まがいに騙される。無価値のギネス記録に騙されるのだ。天罰で、僅か2週間で血税900万円が消えたのだ。

 

天皇陛下のお仕事

 日本国民の父母というべき天皇皇后陛下は、ひたすら国と国民の幸せを祈るのが最大のお仕事として奉仕されている。目に見えない神、ご先祖、サムシンググレートと言われる存在に対して、ひたすら国と国民の為に毎日、お祈りを捧げておられる。こんな元首は世界のどこにもいない。

 市長も市民の親として、実務では当然として、大垣市と市民の幸せに祈りを捧げる義務があると思う。それが今の小川市長の言動を見ると、疑問を考えざるを得ないのだ。

 今回の法要で、小川市長が小倉市長に比較して、神仏への祈りが深いとは思えないと感じた。「水まんじゅうギネス挑戦」で小川敏市政に幻滅を感じた。

43  小川敏市長の追悼の辞(ビデオより)

44p1070520   読経 今川会長と小川敏大垣市長

ご縁の賜物

 私は、市田靖さんと遺族代表席で隣りあわせとなった。市田靖さんも今回の法要で、シベリア生還者中での参加者2名の一人である。聞けば父のことも知っているという。年齢を考えると稀有のご縁を頂いた。この法要に参加するのだ、との強い意志がなければ出会えなかったご縁である。

45p1070519  法要の参列者の皆さん 最前列席より撮影

46p1070509 慰霊碑に献花をされた市田様、今川会長(左から)

 

2018-07-11  久志能幾研究所 小田泰仙  

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