w_今川順夫氏の歩んだ道 Feed

2018年7月10日 (火)

恐ろしい大垣都市伝説(3/7)シベリア抑留1

「恒久平和の碑」のご縁

 丸順の今川順夫氏の尽力で1991年8月、シベリア抑留慰霊「恒久平和の碑」が建立された。小倉満市長は、「恒久平和の碑」除幕式で、丸順の今川順夫会長のシベリア抑留時の地獄の体験話を聞いて涙ぐんだという。小倉市長は人情に厚い方であった。

 この除幕式には、会長の今川順夫会長、小倉満大垣市長、外村次郎大垣共立銀行頭取、田口利夫西濃運輸会長、堀一雄副会長、河合達夫大垣商工会議所会頭の大垣市の重鎮(当時)が参列された。

 その「恒久平和の碑」開幕式記念写真で、小倉満市長、今川順夫氏と並んで私の父も写っていることを発見した。この碑は私には他人事ではない。だから「恒久平和の碑」に不敬を働く輩を見ると人一倍、腹が立つ。

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       今川順夫著『夢への挑戦の礎』より

 

碑の意味

 碑とは、ある意味でお墓と同じであると思う。碑とは、ある事象を祈念して後世のために残す人々の想いの顕われである。1991年、大垣公園内に、建立されたこの「恒久平和の碑」はシベリア抑留から生還したダモイ会の皆さんが二度とこういうことが起きないようにと、恒久平和を祈って建てられた碑である。その碑の陰には、6万人とも10万人とも言われるシベリアの土に帰した邦人がいる。この碑はロシアという死鬼衆により殺された日本人の魂を鎮魂するためでもある。そんな悲劇を二度と起こさないための決意表明なのだ。

 

恒久平和祈念の碑とのご縁

 1991年8月、この碑は建立された。この石は四国より運ばれた。私が2010年秋に大垣に帰郷して、2014年までの毎朝、この碑の前を散歩のために通るが、父の名が刻まれていることを知ることはなかった。「魂(オニ)」が納仏された日、今川氏のシベリア抑留講演会の案内を見たご縁で、恒久平和祈念の碑の裏に父の名を発見できた。それ以降、毎日ここを訪れ、日本の平和と極寒のシベリアで斃れられた方の冥福を祈念している。そして日本の未来を背負う子供達のために、自分は何が出来るかを考え続けている。

 自分が2015年にお墓つくりを経験して、今川氏の気持ちが少し分かった気がする。この碑の建立に多大な貢献された今川順夫氏に感謝している。今川氏とご縁ができたゆえに、恒久平和祈念の碑の建立式に立つ父の姿を写真で初めて見ることができた。これは沸様のお導きとしか思えない。

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松本明慶大仏師作 魂  軸は馬場恵峰書

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平和記念碑建立の志

昭和20年8月15日に、第二次世界大戦は漸く終戦を迎える事が出来た。しかしその当時旧満州地区に居た約60万人の日本軍将兵及び民間人は、直ちにソ連軍の支配下に入り、極寒のシベリア地区抑留の身となった。

ラーゲル(収容所)生活は、粗末な服装と僅かな食料が与えられただけで、冬は零下60度の寒さに耐え、夏はブヨとダニの猛襲に悩まされ、シベリアの雪の中での大木の伐採や、バウ鉄道(第二シベリア鉄道)の路盤工事、炭坑での石炭堀等の重労働を強いられ、明日の命が誰一人として保障されなかった中で、男泣きに泣きながら歯を食いしばり唯ひたすら「何時かはダモイ」(日本へ帰る)皆でダモイ・ダモイを合言葉に、それを一つの盾とし、又大きな励みとして、一日も早いダモイに望みをかけ、厳しい労働に耐え忍び、漸く生き伸びて帰還することが出来たのである。

しかし中には飢餓と極寒と重労働など、あまりにも生き地獄のような過酷な条件に耐え切れず、幾多の戦友がシベリアの地に散って行った。その数は10万人ともいわれて居る。

今思いを致せば当時のシベリアの悲惨さが、脳裏に深く焼き付き。改めて平和の尊さが偲ばれるのである。

私達シベリア抑留者西濃地区ダモイ会会員一同は、これらの悲惨な戦争は二度としてはならないと心に誓い合い、永遠の人類平和のために此処に平和の碑を建立し、後世に残すものである。

1991年8月9日 大垣市・西濃地区ダモイ会 会長 今川順夫

(「恒久平和の碑」の説明パネル)

  

34  除幕式

35  除幕式での記念写真

 2列目中央が小倉市長、その隣が今川順夫会長、2列目左端白い半袖カッター姿が父

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鬼死衆の跋扈

 父が生きて帰還できたが故、今の自分の命がある。なぜ人は死鬼衆になるのか。なぜ共産主義は人の命を粗末にするのか。なぜアーリア人は民族皆殺しの死鬼業を平気で犯すのか。自分は恒久平和のために何が出来るのか。口先だけで平和を叫んで滅んだ国が、過去70年間だけでも180カ国にも上る。

 口先だけで非武装中立を謳い、北朝鮮の日本人拉致問題を知りながら無視したオタカ社会党は消滅した。その残党が、現代の日本政治をかき乱している。非武装中立では日本は消滅する。それは最近の中共による領空、領海侵犯の激増で証明された。

 我々は後世に何を伝えるべきか。何をなすべきか。この碑を見るたびに考えている。

 

チベットの惨劇

 中共がチベットに侵略を開始したのはほぼ1950年であり、その後、チベット人の独立運動を力で押さえつけ、犠牲となったチベット人は120万人と言われている。その内訳は、43万人が戦闘や暴動で、9万人が拷問で、17万人が強制収容所で、16万人が処刑で、残りが餓死、自殺などとされている。チベット地域に居住していた人は600万人ほどと言われているが、そのうちの5分の1が中共によって殺害されたことになる。チベットが独立できなかったのは、「平和憲法」がなかったということではなく、中共に対抗できる軍隊がいなかったということだけだ。(武田邦彦氏のHPより)

碑への不敬

 2018年6月3日の愚劣な水まんじゅうギネス記録挑戦では、この歴史を知らないオバタリアンが、この碑に腰かけて休んでいた。この碑の啓蒙活動や説明看板の整備に大垣市が怠慢なのだ。この碑の説明看板がいたずらをされて傷だらけになっているが、大垣市は放置したままである。小川敏市長は、今川順夫会長に大垣市としてこの碑のお守りを約束したのに、全く履行していない。英霊への裏切り行為である。罰が当たりますぞ。祟りにあいますぞ。

37dsc01715  こんな不敬がはびこるのも啓蒙活動がないから。

 2018年6月3日の愚劣な水まんじゅうギネス記録挑戦で

38 いたずらをされた「恒久平和の碑」悦明パネル

 

2018-07-10  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2018年6月 9日 (土)

飽食・餓鬼道を驀進中の日本(4/4)

現代の飽食の罠

 今川順夫氏が、この講演会でシベリア抑留時の一食に支給のパン350gを実物で示された。それを見ると現代の「飽食の罠」に思いを馳せざるを得ない。病気になるのも、全て、食べすぎ飲みすぎ、薬漬けが原因である。テレビではグルメ番組の氾濫、食い物のCM、行列のできる飲食店の紹介番組の氾濫である。

 愚かなことに2018年には、大垣市は市政100年にかこつけて、尊い食い物を餌にして「水饅頭食べさせ合い ギネス挑戦」に市民を躍らせている有様だ。税金の無駄遣いである。大垣市長に迎合して喜んでいる大垣市議会議長が情けない。大垣市議会議長ともあろう立場で、大垣市長の暴走・愚行を止める役目を放棄している。これでは国民が健康管理にうかつになり、結果として肥満になり、病気になるも故あること。

 そして異常な事件が起こるのも、昼間から刑事ドラマで殺人事件を頻発させ、人殺しが日常茶飯事のように映像で流れる。テレビゲームでは殺し合いがゲームとなり、死んでもリセットすればゲーム再開。これでは実社会で殺人事件が起きても不思議ではない。

 最近は、良識ある人はテレビを見なくなった。下劣な番組ばかりでテレビ離れが続く。テレビ業界の自業自得である。

41dsc04616  講演会場風景(大垣市興文地区センター) 2014年8月16日

42 今川順夫氏   手にしているのが350グラムのパンの量

 これで一食一人分の配給 

今川氏の2回目の講演会

 2014年8月2日、ソフトピアジャパン情報工房ホール情報工房で社会福祉大会の記念講演会(聴衆550人)で今川氏が講演された。その後、同じ内容の講演会「シベリア抑留を生き抜いた男の人生」が8月16日、大垣市興文地区センターで開催された。興文地区の約80名の聴衆が熱心に聴講した。その中に今川氏と同じように生きて帰国されたダモイの会の伊藤さんも聴講されていた。まだまだお元気で、シベリア抑留を生き延びられた方の人徳を感じた。

 今川順夫氏の講演後、岐阜新聞社の記者の質問「今の社会状況をどう思われますか」に対して、今川氏が述べた「刑事ドラマ等で、殺人事件を頻発させるテレビ番組はおかしい」の苦言が印象的であった。

 それから4年が経った2018年現在、少しも状況が改善されていない。

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 地獄のシベリア抑留から生還された伊藤さん

 

大垣市長の約束不履行

 こういうシベリア抑留の実話はもっと若い人にも聞いてもらいたいと思う。若い参加者が少なかったのが残念である。幸い、大垣市長もこの講演会に参加をされて、この話しに感動して大垣市のアーカイブにして若い人に聞いてもらう段取りをするという。

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46dsc04560 大垣市長の社会福祉大会での挨拶 2014年8月2日

 

 2018年現在、この講演から4年が経過したが、小川敏大垣市長がその約束を実行した噂は聞かない。2018年6月7日、今川順夫氏の秘書に確認しても、大垣市の歴史の権威に聞いても、アーカイブに登録された話は聞いていないという。

 大垣市長は、大垣の子供たちの精神に毒を盛る「水饅頭食べさせ合い ギネス挑戦」等の税金無駄遣いの愚行行事には熱心である。要は売名行為には熱心だが、シベリア抑留のような大衆受けしないが、後世の子供たちに大事な話には熱意がないのだ。教育の街・大垣の文化・歴史を破壊しているのは、大垣市長自身である。

 

2018-06-09

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2018年6月 7日 (木)

飽食・餓鬼道を驀進中の日本(3/4)

母の言葉が、生きる力を与えた言霊

  今川氏は、母を小学3年生の春に亡くされた。学校に行っているとき家から呼び出しがあり、急いで帰ったが母の死に目には会えなかった。その母は生前、「お母さんは死んでもあんたを護ってあげる。」と言っていた。その言葉を寝られない夜に思い出して、シベリア抑留を耐えたという。零下60度では収容所内のペチカをいくら燃やしても隙間から侵入してくる冷気のため、宿舎のベッドで眠られぬ夜を過ごさねばならなかった。その時思い出すのが、前記の母の言葉であった。言葉には言霊という力がある。たった一言で命が救われることもある。元気をもらうこともある。母の言葉が救いの力であった。

60  今川氏の講演会で母の一言の大事さに思い至った。

  今川順夫著『夢への挑戦の礎』より

 

大脳に良い習慣

 目や耳でキャッチした画像情報は、一時的に頭の後ろの方にある視覚中枢、聴覚中枢に送られる。脳の表面の大脳皮質にあるたくさんの神経細胞を通って、前頭前野に情報が送り込まれる。前頭前野は、人間と動物を区別するポイントとなる重要な場所で、ここで情報を判断したり認識したりする。

 もう一つの情報の伝達ルートは、大脳皮質の神経細胞から脳の奥にある視床下部を介して、A10神経群と呼ばれる部分を通過し、前頭前野に達するルートである。A10神経群とは、次のようなさまざまな役割をもった神経核の集まりである。

・海馬回  学習、ものを覚えたりする短期記憶の中枢を担う。

・扁桃格  感動や身の危険などの危機感を覚える部位です。

・側坐核  好き嫌いを感じたり、愛情を高めたりする。

・尾状核  感情を覚え、複数の言語も操る。

 A10神経群に属する様々な神経核を情報が通過する間に、「好き」「嫌い」「生きたい」「死にたい」「おもしろい」「興味がある」といった感情が生み出される。その中でも、特に「好き」「感動的」といった前向きな感情を含んだ情報は前頭前野に到達すると生きた情報となる。特に極限状態では、自分は母に護られているという気持ちは、生きる力を駆り立てる。その前向きな気持ちを生み出すのに、ドパーミンの分泌を促すドパーミン神経群が大きく関係していて、前向きな人ほど考える能力が高いと言われる。(この項、『脳に悪い7つの習慣』林成之著より) 

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馬場恵峰書

2018-06-07

久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年6月 5日 (火)

飽食・餓鬼道を驀進中の日本(2/4)

丸順の最高顧問と面会

 2014年7月31日午後、図書館を抜け出し、本書『命の器で創る夢の道』を、秘書を通じて株式会社丸順の今川順夫最高顧問に進呈するため丸順を訪問した。秘書の小野さんと面談中に、今川氏から携帯に電話が入り、想定外に今川最高顧問との面会が実現した。当初は、8月末の面会を予定していた。訪問したときは、明後日(8月2日)の講演会(聴衆500人)の準備で、頭が一杯の状態であったそうだ。1時間半ほど面談をして、恒久平和の碑の除幕式の写真や、父も写っていたダモイ会の写真等も見せていた。

 氏はシベリア抑留中も、帰国後に会社を起こすとの夢を抱いて重労働に耐えてこられた。その夢があったから生きて帰国できたようだ。また言うに言われぬ御仏の計らいで命が助かった場面も多くあったという。その後、関連会社を含めると4,000名を超える社員を抱える会社に成長をさせらたた。現在(2014年)、91歳で矍鑠とされている。

21 発行:岐阜新聞社

講演会ビデオ撮影の準備

 面会後、15時ごろ図書館に戻ったら、クーラが故障とかで、今夏一番暑い午後を過ごすことにはなったが、それを2時間は免れた。その後2時間ほど図書館で勉強したが、若い人たちは熱さにもめげず、汗をかきながら帰宅もせず勉強をしていた。「オニ」の眼ではないが、私も帰りそびれて17時まで受験勉強をする羽目になった。やはり他人の眼は必要である。

 今川様よりビデオ撮影の許可も頂いたら、前に注文してあったビデオカメラも当日に入荷しており、急遽知った講演会の準備は整った。当初は8月16日用のビデオ撮影のための準備であったが、なにか仏様のお導きのようだ。

 

今川順夫最高顧問の講演会

 2014年8月2日、ソフトピアジャパン情報工房ホールで、約550名の聴衆を前にして講演会「負けてたまるか シベリア抑留を生き抜いた男の人生」があった。偶然2日前に今川氏と面会したご縁で、この非公開の講演会の存在を知り、参加させて頂いた。今川氏は「こんな所で死んでたまるか、オレは帰国して起業するんだ」、という夢、志があったから、シベリアの地獄の抑留地から生きて帰国できたと回想される。

22 当日配布された冊子 

シベリア収容所の地獄

 シベリア収容所では零下60度の中での重労働で体を酷使させられる。建前では零下40度以下の屋外労働は禁止だが、実際は建前無視で屋外の重労働に駆り出された。多くの若い仲間は、朝起きるとベッドで冷たくなっていた。死亡した仲間を弔う役目を申し出て、カチンカチンに凍った6名の戦友の遺体を大八車で運び、埋葬した。極寒の抑留地では凍土で被せる土もない。僅かに手に入ったコケを戦友の遺体の顔の上に乗せるのが、せめてもの供養であったという。その後、その同じ大八車で、今日食べる食料品を屋外の倉庫から収容所のバラックに運ぶ労働に従事させられた。シベリア収容所とは、そういう残酷な状況の連続である。

23 上図:今川順夫著『夢への挑戦の礎』より

神仏のご加護

 過酷な屋外重労働が続いたが、あるとき第二シベリア鉄道の枕木への穴あけ用錐の修理で、その才が認められ、工具修理のため工場内の作業に回されたのも生還できた一因だという。芸は身を助けるである。亡くなった母親と仏様が守ってくれたと回想をされた。極限状態を体験された方は皆、神仏の存在を感じるようである。私の父も洋裁の腕があったので屋内工場でミシン作業に回されて、生還できた。それで今の私の命がある。神仏に感謝である。

 今川氏は、もともとお元気の体ではあるが、それだけで生きて帰れるわけではない。運命と気力が命を長らせられた。故郷を思い、明日の夢を抱き、忍耐をして帰郷され、現在(2014年)91歳で、耳はすこし遠いが元気で矍鑠としてみえる。

 

死に直結する飢餓状態

 収容所では、三度の食事は最低限の量しか供与されない。それで毎日重労働を強いられる。栄養失調になり下痢をして医務室の運ばれる戦友がいたが、薬がなく戻ってこない戦友が多くいた。栄養失調で倒れれば、死へ直行である。

 一日の食料は、朝は雑炊で茶碗に半分の量である。昼食はシャビシャビのスープと黒パン350グラムであり、夕食も雑炊である。翌日の昼食のパンは夕食時に配給されるため、夕食時や空腹に耐えかねて夜の間に食べてしまう仲間も多い。そうなると次の夜まで食べるものは何もなく、栄養失調で倒れる者も多く、帰らぬ人となった仲間も多い。残酷なパンの支給方法である。

24 今川順夫氏 手にしているのが350グラムのパンの量

 これで一食一人分の配給 

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26 上図:今川順夫著『夢への挑戦の礎』より

 

死への罠

 収容所の近くに、保存食の塩漬けのニシンを入れた樽が置いてあった。その樽の後ろ側が壊れていてニシンがはみ出していた。飢えた戦友はそれを衛兵の目を盗んで取り口に入れて食べるのだが、衛兵も見て見ぬ振りをしていたそうだ。しかし塩漬けのニシンはそのまま空腹の胃に入るとてきめんに下痢である。それは死を意味する。誘惑に負けて斃れた仲間が不憫でならないという。

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 今川氏のシベリア抑留体験談を紙芝居で構成して演じてくれた。

28201408021 講演する今川順夫最高顧問 2014年8月2日

シベリア抑留後に起業

 今川氏は、大垣市林町で生まれ、帰国後、林町で1952年に起業された。私も1歳の時(1951年)に彦根から大垣に来て18歳まで、大垣市林町の近江絹糸の社宅で過ごした縁がある。その後、今川氏は室村町4丁目にも住み、室村町4丁目のお地蔵様の周りで遊んだという。

 父は生前、シベリア抑留の話を私にしたことはない。今川氏によれば、抑留経験者は皆同じで、言うに言えない社会的な雰囲気であったという。父も話せないような辛い体験をしてきたのだと、今回の今川氏の講演を聞いて感じた。今は(2014年当時)私には試験直前の貴重な時間であるが、それを上回る価値ある時間であった。今川氏のお話を聞かせて頂いて感謝である。

 

2018-06-05

久志能幾研究所 小田泰仙  

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2018年6月 3日 (日)

飽食餓鬼道を暴走する日本(1/4)

肥満人からの被害

 2014年7月28日、3回目の眼の手術(網膜への注射)を名古屋市立大学病院で受けるため、朝6時54分大垣発のJR通勤電車に乗ったら、肥満問題に直面した。途中から対向席に肥満体の30前後の男性が座った。その人の横幅が普通の人の1.4倍ほどあり、隣の人が窮屈な思いをして、私の前側空間が窮屈になった。

 人迷惑な問題は、その男性が途中からイヤフォンで音楽を聞きながら眠りコケ、大きないびきをかき始めたこと。肥満体だから、当然、声帯も肥満になり、「人間楽器」としてのいびきがモノ凄い。満員電車という密室内で、目の前で他人迷惑も甚だしい。自分だけは音楽を聴きながら極楽夢うつつである。これは音の暴力である。人の読書や考える時間を奪う犯罪である。人を不愉快にさせる暴力である。日本人の良識の消滅である。良識があるなら、人の迷惑にならないように立っていなさい、である。その分、消費エネルギーが増えて減量の助けになるのに。肥満になった意思薄弱な人間は、それすらできるはずがない。

 

肥満に起因する損害

 その人の肥満度は、体重が人の2倍ほどであるので、交通機関の消費エネルギーや、消費食料の量、医療費、場所代等が、普通の男性の分よりも多くかかる。肥満であるとどうしても、食後の睡魔に襲われる確率が、人の倍はあるはずである。それでは電車の中で本でも読もうと言う気さえ起こらないだろう。その分、日本の生産性が落ちるのだ。これは日本社会の損失である。

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 肥満者が席の中央から大幅にはみ出し(赤線が席の中央ライン)              

 隣の人が肩身の狭い思い。いびきが凄い

米国の肥満問題

 アメリカでは人口の4割が肥満で大きな社会問題になっている。私は肥満問題が、アメリカを亡ぼす要因だと睨んでいる。ローマ帝国も飽食で亡んだ。日本がその二の舞を踏んではならない。肥満は、食欲にまかせての自己満足だけの食べ過ぎが原因である。利他・知足・感謝があれば肥満にはならない。感謝の不足と意志薄弱が原因なのだ。

 

認知症患者からの被害

 名古屋市立大学病院で手術室内に案内されると、4名が手術室内の扉の前の席で順番待ちをしていて、私は2番目の手術の順番であった。私の前の人が、年齢70代くらいの男性で、手術室の中に入ってなかなか出てこない。前の手術の経験では、10分もあれば終わる手術である。患者が手術室から出てくるまでにおよそ25分を要した。少し開いた手術室の扉から、医師・看護婦と患者の会話が漏れ聞こえきた。それから判断すると、患者と医師の会話がうまく成立していない。どうも認知症が進んでいるような雰囲気であった。私の場合は10分弱で手術は無事に終り手術室を後にした。認知症の患者みたいな人と場を同じくして考えてしまった。

 現在、65歳以上の老人の15%が認知症、グレーゾーンの認知症患者を入れると約28%が認知症か認知症予備軍である。恐ろしい時代に我々は生きている。恐ろしいと思わない人は、脳死状態にある。私は認知症の原因の一つが、添加物まみれの悪食、飽食、グルメの痴呆番組を垂れ流すテレビにあると考えている。

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 名古屋市立大学病院の外来手術室の扉 2014年月7月28日09:11

 

堕落のグルメ番組

 その翌日(2014年7月29日)、地元の眼科医で術後の確認診察を受けた。診察を受け、会計を待つ間、待合室のテレビがモーニング番組で、フローズンヨーグルトのグルメ番組を流していた。無精ひげを生やした不細工な中年のおっさんが(グルメのプロレスラーとか)、「これねうまい」と絶叫の連続である。これを放送するTV局も情けないが、これを見ている国民が情けない。国民のレベルは、テレビ番組を見れば分かる。こんな番組ばかりを見ていれば、国民は痴呆になる。洗脳教育として、見境なく食べ続ける痴呆状態に陥る。先の戦争では、国のため、銃後の家族のために命を捧げた戦没者が数知れず。情けない現状である。

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     当日、病院待合室で流れていたグルメ番組

 シベリア抑留の碑に父と叔父を発見

 その眼科医で術後の確認診察を受けた後、思いついて近くの大垣濃飛護国神社にお参りをした。すぐ横に立つ「恒久平和祈念の碑」を眺めているうち、思いついて碑の裏に回ってみると、そこにシベリア抑留者名簿が掲示されていた。そこに父の名を発見して、言い知れぬ衝撃を感じた。

 1991年8月にこの碑が建立され、私が2010年秋に大垣に帰郷してから4年間、毎朝、この碑の前を散歩で通るが、父の名の掲示には気がつかなかった。「魂(オニ)」が納仏された日に、「今川順夫氏のシベリア抑留講演会」の回覧が来たご縁で、恒久平和祈念の碑の裏を見るご縁となった。なにかに導かれたようだ。ここで父がロシア52地区カダラで抑留されたことを知った。

 後日、彦根市の護国神社内にある「恒久平和の碑」の裏のシベリア抑留戦没者名簿をみて、そこに父の弟の戦没者の名前を発見して更に衝撃を受けた。

 シベリア抑留では飢えと寒さで、戦争が終わったのに捕虜にされ強制労働で10万人の邦人が帰らぬ人となった。父の弟は、日本軍の無謀なビルマインパール作戦で、飢えとマラリアの病魔に襲われて病戦死をしている。今、彦根の護国神社に祀られている。太平洋戦争での戦没者の60%強(140万人)が餓死である。すべて日本政府・軍が後方支援を怠った無策が原因である。

 戦死した英霊の二人の叔父は、飽食・餓鬼道を暴走する現代日本人を何と見ているのだろうか。

4dsc01448  恒久平和祈念の碑(大垣公園内)

5p1070131 平和の礎(彦根護国神社内)

6 大垣濃飛護国神社前の碑

 

2018-06-03

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2017年12月23日 (土)

いろはにほへと

 お墓を作る過程で、2014年に家系図を作成した。その家系図上を俯瞰すると、華々しい人生模様を形作るツワモノどもも、いつしか香も色も消え、全て墓石に記録を留める様は、勝者必滅を示す如きである。自分の人生を振り返り、青春を謳歌し体力に任せて無理を重ねた時もある。若い時には夢多き青春を謳歌したのに、何時しか時も過ぎ、体のあちこちに不具合を感じる頃になって、平家物語の祇園精舎の鐘の声や弘法大師の作と言われる「いろは歌」が自分に迫ってくる。

 

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、紗羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。(『平家物語』)

 自分の肉体と心を持つ自分自身は、自分のものではない。沸様の預かり物と思うこの頃である。いつかは沸様の彼岸に返さねばならない。自分を含めて全ての一族は沸心一体として家系図を彩る様こそが、沸のなせる技である。自分は小さな存在であるが、この世で出来ることを夢見て過ごすことが、夢見ず無為に過ごす人よりも人らしい生き方であると思う。その夢が破れて涅槃に逝っても、夢見た証があれば、その後を追う子孫が生まれてくる。ご先祖が何時かは歩いた道を、生まれ変わった自分が歩いている。

 

諸行無常、諸法無我、涅槃寂静

 三法印の「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」とは仏教のあるべき姿を現した標語である。「いろは歌」はそれを踏まえた歌として詠まれている。佛と自分が一体となってこそ人の人生である。

 

いろは歌

 色は匂へど散りぬるを わが世誰ぞ常ならむ

 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔いもせず

 無常なこの世の中を今まで歩いてきた。誰一人永遠の繁栄を遂げた人はいない。「今」まさに越えにくい深山に入ろうとしている(有為とは佛語で、直接間接の諸条件、即ち因と縁の和合によって作られている恒常でないもの)。軽薄な夢などは見ず、正気になって涅槃に逝く覚悟である。浮世の幸不幸や貧富の差は夢の如し。有為ではなく無為(因縁によって作られたものではなく、常住絶対の真実である悟り)の世界に向って歩くことが修行である。それが身沸一体の境地となる。今の世を夢と思わずに大きな夢を見つつ、その実現に向けて、一歩一歩絶えまず人生の旅を精進したい。

 

いろは歌とのご縁

 私が「いろは歌」の意味を知ったのは、高野山伝燈大阿闍梨中村公隆著『いのち耀いて生きる』を読んだ2014年7月(64歳)の時である。これも今川順夫氏が中村公隆師の米寿のお祝い会に招かれ、その時の中村公隆師贈呈の御本を私に贈って頂いたのがご縁である。その本を読み、他の著書も手に入れて得た知識である。今川順夫氏とのご縁がなければ、出会わないご縁であった。

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Photo  馬場恵峰書 2012年

24k8a0759  馬場恵峰書『百尺巻頭書作選集』より(久志能幾研究所刊)

2017-12-23

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2017年7月14日 (金)

奴隷にされたご先祖

 対談『中西輝政・古田博司「国家が試されるとき」』(Will 2016年7月号)を読んでいて、シベリア抑留とは奴隷制度に起因することに納得した。欧米・支那の狩猟民族にとって、打ち負かした敵国の兵士は皆殺しにするか、捕虜として本国に連れ帰り奴隷として働かせるのが2000年来のDNAであった。

 かの高橋是清元総理大臣でも、アメリカ留学時(1867年)に騙されて売られ、奴隷にされて働かされた。アメリカの奴隷解放宣言は1865年であるが、黄色人種の日本人には適用されなかったようだ。米国人は異教徒を奴隷にすることになんら罪の意識は感じない。米国の南北戦争当時、(しぶしぶ、大義名分として)奴隷解放宣言をしたリンカーンでさえも、当初は南部の現状では黒人奴隷の存在はやむを得ないが、その拡大には反対する、という程度であった。自由貿易主義全盛であったイギリスは、産業資本家が奴隷制賛成の南部を支持したため、英国政府もそれに動かされていた。それが欧米のDNAである。

父のシベリア抑留

 父も終戦後、シベリアに抑留されたが、生きて帰れたから今の私の命がある。父の弟は、終戦後の昭和21年にシベリアの土になった。従兄は父の顔も見ずに育った。今川順夫名誉会長もシベリア抑留を経験し、重労働の辛酸をなめて帰国して、シベリアでの地獄の体験が今日の成功に繋がっている。今川順夫名誉会長も新地蔵菩薩尊の開眼法要で、「室村町4丁目地蔵菩薩尊に守られたようだ」と回想しておられた。出征に出かけるとき、地蔵尊に無事を願い、昭和27年に生還できた今川氏は、地蔵菩薩尊に感謝をしたという。今川氏を出迎えた地蔵菩薩尊は、大垣空襲(昭和20年7月29日)で身代わりとして黒焦げの状態であった。しかし今川さんを見つめる目は優しかった。

非道なシベリア抑留で邦人10万人が帰らぬ人となったが、ソ連が罪を認めたことはない。それはソ連が歴史的に奴隷制度を抱えた民族だからだ。勝った国は敗戦国の民を奴隷にするのが当然なのだ。ソ連にとって奴隷の生死など知ったことではない。それが、狩猟民族の本質である。

現代の奴隷制度

 現代でも奴隷制度は生きている。オーストラリアの富豪、アンドリュー・フォレスト氏が設立したウォーク・フリー財団の調査による『Global Slavery Index』は、世界167ヶ国で4,580万人が奴隷状態であると指摘する。これには日本も含まれ、ブラック企業で働き自殺をした若者も含まれる。これもある種の奴隷である。100円ショップの商品の製造で、低賃金で強制的に働かされているチャイナの子供たちは、奴隷と同じである。まともな労働対価では、絶対に100円では100円ショップ製品は作れない。奴隷として働かされて、作られた製品には魂が籠っていないので、すぐに壊れる。100円ショップで商品を買うとは、奴隷制度の黙認だから、私は絶対に利用しない。

 仏英独等の欧州で働く移民たちは、絶対に白人社会と同じレベルにはなれない。下積みの階層で、観光客には目の届かない世界・時間帯で働かされている。パリの街で早朝に歩くと、有色人種の人(元植民地からの移民達)がゴミ回収、道路掃除等で働いているのを見る。しかし昼間の観光客が溢れる街にはそんな姿は皆無である。白人の夢みたいな生活を望んで欧州に移民しても、現実は元の国よりはましであるが、奴隷状態が待ち受ける。その蓄積された恨みが現在欧州で頻発するテロの横行である。いくら警備を厳重にしても、根本原因が解決されない限り欧州でのテロはなくならない。

 米国でも有色人種の貧困からの脱出は困難を極める。結果として奴隷と同じ境遇で働いている。白人社会と黒人社会には目に見えないガラスの壁がある。現代でも、米国は白人警察官が黒人青年を射殺しても、大して罪に問われない白人優位の世界である。

日本史で奴隷は存在しない

 日本の歴史では、敗戦国の民衆の皆殺しや、強奪してきて奴隷として働かせた史実はない。支配階級のトップ(殿様)が腹を切って、上層部が入れ替われば領土の民衆は平穏である。平和な政権交代である。欧米・支那では元支配者の血縁者や民衆までを皆殺しにするのが普通である。『十八史略』には、王族の一族郎党の抹殺、民衆の大量虐殺が横行等の歴史の記述があり、身の毛がよだつ。それに比べて、日本の平和な民族の血を誇りに思う。日本海の外には鬼が住むことを忘れてはなるまい。「男が外に出れば七人の敵がいると思え」とは、母の教えでした。国の外には7つの鬼国があると思うべし。

 

図1 室村町四丁目地蔵尊(2016年4月3日撮影)

   大垣空襲の焼夷弾で黒焦げになった跡が戦後70年経っても痛々しい。

   シベリアから生還した今川さんを優しい目で迎えてくれたという。

図2 大垣公園の恒久平和の碑 シベリア抑留戦没者慰霊碑

   裏面にダモイの会として父の名が刻まれている

図3 彦根護国神社のシベリア抑留戦没者慰霊碑   

   裏面に父の弟の名が刻まれている

 

2017-07-13

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年6月25日 (日)

地獄のシベリアから生還

シベリア抑留戦没者70回忌追悼法要

 2015年11月3日10時から、大垣公園内にある「恒久平和の碑」の前でシベリア抑留戦没者70回忌追悼法要が、シベリア抑留者達で作る「西濃地区ダモイ会」今川順夫会長(92歳)の主催で執り行われた。参列者は約60人である。

 従兄弟の勇美子さんの告別式が、同日13時から新祝園(京都府)で執り行われるのが急に決まったので、私はぎりぎりまで法要に参列して10時55分に中座をさせて頂き、名古屋経由の新幹線で京都に向った。現地に13時15分に到着した。告別式が午前中なら70回忌追悼法要には参加できなかったが、両方の法要に参加できたのは、沸様のご配慮と思う。この法要には初めての参加だが、参加できて良かったと思う。

 法要の席では、市田靖さんと遺族代表席で隣りあわせとなった。市田靖さんも今回の法要で、シベリア生還者中での参加者2名の一人である。聞けば父のことも知っているとのことで、貴重なご縁を頂いた。年齢を考える稀有のご縁である。この法要に参加するのだとの強い意志がなければ、出会えなかったご縁である。

 

ダモイ (ロシア語 domoi)「自宅へ」の意、 帰国。帰還。 第二次大戦後,ソ連に抑留された日本人が帰国の合い言葉として用い流行した。

 

シベリアから生還できた理由 = 生きる本質を理解

 法要に先立ち今川会長が挨拶をされ、その中で今川氏が地獄のシベリアから生還できた理由を3つ述べられた。

 一つが気力、二つ目が体力、そして運で、この3つがあって生きて帰れたと述べられた。そしてもう一つが、軍人勅諭の「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」をもじった下記冗談の句が生還の要点であったという。

 「一つ、軍人は要領を本分とすべし」。やはり要領の悪い人は、生きて帰れなかった。「要領」とは悪い意味もあるが、良い意味では、物事の本質である。生きる本質を理解できなかった人が、シベリアの土になった。法要後、今川会長は「無事70回忌を迎えられ、生涯忘れられない感激の日となった」と語られた。

 

 「運」は、今までの自分の生き様、ご先祖の積善功徳、それらの総合した力ではないかと最近しみじみと思う。自分の運だけでは生還出来なかったと思う。父が生還できたのもご先祖の功徳と巡り遇わせの運と思う。

 

生きる意味

 1997年、参議院で日本銀行法全面改正案が可決成立して、日本の「失なった20年」の始まりとなった。橋本龍太郎内閣が 1997年4月 消費税率を5%に引き上げ、デフレ経済の地獄に日本を突き落とした。そして小泉内閣(2001年 - 2006年)が推進した聖域なき構造改革は、日本の市場開放政策とグローバル経済主義への展開となり更なるデフレ経済に突入して行く。それが不況、倒産、過労死、自殺、引きこもりと弱者が虐げられる結果となり、それを境に自殺者が急増して、毎年3万人前後の自殺が10年以上も続いている。

 生きているだけでも、大変なことを若者は理解していないし、教えてもらっていない。己の生の大事さが理解できないから、身の回りの激変に対応できず、簡単に自殺をする。命の大事さを説くために、私は前職で2004年から新入社員教育講座の中に「修身」という講座を新設して、講義を続けてきた。

  なぜ、72年前のシベリアでもあるまいし、コンプライアンスが整備された現代日本で、電通やブラック企業に自殺者がでるのか? 捨てるならその命をくれと言ってシベリアに消えたご先祖がいる。

 

テクニカルライティング上の問題点

 新聞紙上では「失われた20年」という表現が一般的だが、私に言わせれば無責任極まる表現である。テクニカルライティング上では、受動形の表現は厳禁である。誰がその事項を実施するのか、どこに責任があるかが曖昧で、PL問題の裁判で、文書を書いた本人の責任が問われるからだ。この世は因果応報で、どんな事象にも因があり、果がある。不景気になったのは、不景気になる政策をとったに過ぎない。

 

経済の原則

 この20年、日本の景気が悪くなったのは、消費税を増税して、市場を開放して、日本の企業が海外に流失しため、日本の雇用が失われて不景気になったに過ぎない。日本の若者の賃金が高いからと言って、工場をアジアに移せば、日本が不景気になるのは子供でもわかる。全てそうなるように政府が舵を切って、企業がそれに追随したに過ぎない。東西の壁が崩壊して、共産国家の低賃金の労働者が世界市場に2倍となって溢れるから、安い賃金で作った製品が無制限に国内に流入する。真面目に働いて作った国内製品が売れなくなる。低賃金の国に工場を持つ外国企業が己の利益のため米国政府に圧力をかけ、日本のしかるべき関税を撤廃させたためである。奴隷のように安い賃金労働者が作ったグローバル経済主義の企業の製品と、日本の高賃金の労働者が作った製品で、価格競争に太刀打ちできるわけがない。

  その弊害の最大の被害者がギリシャである。関税でその波を防ぐことがEUの縛りでできないから、自滅しかない。その波がギリシャ国内産業を全滅させた。

 世界は、あと100年間はデフレ経済から脱却できない。安い労働賃金のチャイナの労賃が高くなれば、グローバル経済企業は、アジア、インド、アフリカ、中南米に工場を順次移転させる。世界の労働者の賃金が等しくなるまで、そのデフレは拡散する。経済の基本原則である。水は高きから、低きに流れる。それを三水編に、水が去ると書いて「法」である。いつでもどこでも通用する経済の法則である。

 それは自然界のであり、PDCAを回せばわかる原則である。気がつかないのは、なぜ、なぜを5回繰り返さないからだ。国民が分かると政府が困るからだ。

 それを無責任に「失われた20年」と表現して、犯人は何処か分からないとトボけるから、呆れてしまう。その表現をすれば、テクニカルライティング検定試験では零点である。分かれば責任が問われので、トボケルのである。それで新聞社の経済記者や経済学者の無知と経済音痴ぶりが露見する。真の原因が分からないと、対策が対処療法であるので効果が出ない。だから、アベノミックス景気は離陸しない。それの現象が、1997年までの景気回復と、1997年以降の景気回復の個人消費の伸び率の差に冷酷に表れている(図5)。その現象が20年近くも続いている。経済学者はどこを見ているのか。

  

図1~4 「修身」の講義より

 私は新入社員に「修身」の講義で70年余前に起きたアウシュビッツとシベリア抑留の事実を話し、生きる目的を説いてきた。しかし当社が吸収合併され、相手先会社の拝金主義の上司からこの講義は禁止された。金儲けにならないことは時間の無駄だ、と。

図5 過去の景気回復と比べて個人消費が伸びない

(日本経済新聞2017年6月25日)

図6 TV局のインタビューを受ける今川順夫会長

図7 読経  右側机は今川順夫会長と大垣市長小川敏氏

図8 参列者

図9 慰霊碑に献花をされた市田様、今川会長(左から)

  

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年6月22日 (木)

「恒久平和の碑」が語る歴史

 碑とは、ある意味でお墓と同じである。碑とは、ある事象を祈念して後世のために残す人々の想いの顕われである。

 1991年、大垣公園内に、建立されたこの「恒久平和の碑」は、シベリア抑留から生還したダモイ会の皆さんが二度とこういうことが起きないように恒久平和を祈って建てられた碑である。その碑の陰には、6万人とも10万人とも言われるシベリアの土に帰した邦人がいる。この碑はロシアという死鬼衆により殺された日本人の魂を鎮魂するためでもある。

 

 1991年8月、この碑の石は四国より運ばれて建立された。この碑の建立式で今川順夫氏(株式会社丸順創業者)の挨拶を聞いて、当時の大垣市長小倉満氏が涙ぐんだという。私が2010年秋に大垣に帰郷して、2014年までの毎朝、この碑の前を散歩のため通るが、父の名が刻まれていることを知ることはなかった。「魂(オニ)」が納仏された日に、今川順夫氏のシベリア抑留講演会の案内の回覧を見たご縁で、恒久平和祈念の碑の裏に父の名を発見できた。それ以降、毎日ここで日本の平和とシベリアで斃れた方の冥福を祈念している。そして日本の未来を背負う子供達のために、自分は何が出来るかを考え続けている。

 

 父が生きて帰還できたが故、今の自分の命がある。なぜ人は死鬼衆になるのか。なぜ共産主義は人の命を粗末にするのか。なぜアーリア人は民族皆殺しの死鬼業を平気で犯すのか。自分は恒久平和のために何が出来るのか。口先だけで平和を叫んで滅んだ国が、過去70年間だけでも180カ国にも上る。我々は後世に何を伝えるべきか。何をなすべきか。この碑を見るたびに考えている。

 

最期の一撃(21)後日譚-2 中共のウィグル、モンゴル、満州への侵略 2015年7月14日

 (中部大学 武田邦彦氏のHPを参照)   http://takedanet.com/

 

 自分が今回(2015年)のお墓つくりを経験して、今川順夫氏の気持ちが少し分かった気がする。この碑の建立に多大な貢献された今川順夫氏に感謝している。今川氏とご縁ができたゆえに、1991年に恒久平和祈念の碑の建立式に立つ父の姿を写真で初めて見ることができた。これは沸様のお導きと思う。

 

ご縁の連鎖

 上記文章を6月22日、校正していて、小倉満元大垣市長の逝去日が、桜田門外の変(安政7年3月3日(1860年))の128年後の同じ日に、小川満氏が亡くなられていることに気が付いて愕然とした。私がお墓を改建するご縁となったのは、2015年3月3日に両親の法事をしたことに起因する。祖母のご先祖が、桜田門外の変の時、その行列に同行して(武士ではない)、この事件に遭遇したという。

 30年前の1987年にビーバー・オットー博士が大垣に来られた時、歓迎パーティで挨拶をされたのも小倉満大垣市長(当時)で、大垣市音楽堂にベーゼンドルファー導入に尽力をされたのも小倉満氏である。そのご縁で、2017年4月に私はウィーンでビーバー・オットー博士にお会いした。そのご縁でこの3日前の6月19日、河村義子先生主催のピアノ勉強会の使用ピアノが、ベーゼンドルファーであった。そのご縁で、6月21日のブログ「ピアノが奏でる人生(改定)」に、河村先生がベーゼンドルファーを弾く写真を掲載する顛末となった。(以上2017年6月22日記述)

 

 2015年3月3日、父の13回忌と母の23回忌の法要を済ませた翌日に『致知』4月号が届き、伊與田覺先生の「百歳の論語」セミナーの案内が目に入った。何かピンと来るものがあり、3月5日に申し込みをした。その後、何気なく伊與田覺先生の経歴を見ていたら、大正5年生まれとある。父の生誕年と同じで、健在なら父も100歳である。伊與田覺先生の論語の講義は以前から気になっていて、何時かは聞きたいと思っていた。伊與田先生が父と同年の生誕とは気がつかなかった。昨年納佛された守佛と飛天、法事の直前に納佛されたご本尊様のご縁のようだ。導かれたようなご縁の連鎖に不思議さを感じた日であった。後日、両親の法要の日が「桜田門外の変」の節句の日、3月3日と同じと松居石材商店の松居店主に言われて愕然とした。無意識で偶然に決まった日柄であるが、佛様に導かれたようだ。

 2015年4月22日から、月に一回の全5回コースで、伊與田覺先生の論語講座が品川プリンスホテルの会場で始まった。6月2日の第三回伊與田塾で3時間の講話が終った後、16時から伊與田先生の百歳の誕生祝賀会が同ホテルの12階で執り行われた。その後、先生は5分間ほどの謝辞を述べられた。背筋をピンと伸ばし、話された。真向法をされているようでお元気そのものである。その時、先生と名刺交換をしてツーショットを撮らせていただいた。大正5年生まれの父が生きていれば、こんな写真が撮れたのにと残念に思うことしきりである。父の代わりに長生きをせねばと心に誓った。(以上2015年6月記述)

 

図1 大垣公園内に平成3年8月建立(1991年)

図2 除幕式で挨拶をされる今川順夫氏

図3 「恒久平和の碑」除幕式

図4 「恒久平和の碑」除幕式記念撮影

   2列目左端白い半袖カッター姿が父、中央が小倉満大垣市長、その左隣が今川順夫氏

図5 恒久平和の碑」裏面のダモイ会名簿 父の名が刻まれている

図6 伊與田覺先生誕生祝賀会で挨拶  2015年6月2日

 

久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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