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2024年8月11日 (日)

先祖をたずねて三千里、25年目の氷解、北尾春圃へ

 

 私はご先祖を探しで、全国を走り回り、25年間がすぎた。先日、新聞記事から、偶然、300年前のご先祖が見つかった。私は彦根で生まれたので、一番古いご先祖は彦根にいると思っていた。1950年、私の父が大垣に転勤となり、私は1歳の時、大垣市に移住した。

 しかし一番古いご先祖は地元の大垣にいた。そのご先祖は江戸時代の戸田藩藩医北尾春圃(1659—1741)であった。彼は万治元年に美濃国多芸郡室原村に生まれた。彼の父・玄甫はその名から曲直瀬流の医家らしい。春圃は父から医術を学んだ。

 

 2015年に私が自家のお墓を改建した時に判明したことは、「小田家の分かっている最古のご先祖は北尾道仙で、大垣で生まれ、彦根で1734年に亡くなった。墓石に「黄鶴北尾道仙の墓」と彫られていた」までである。それ以上は不明であった。

 

再調査 

 今回の再調査で判明したことは、北尾道仙は大垣藩の藩医・北尾春圃の三男であったこと。彼の名は、将来、家を出て医師としてやっていくために、医師にふさわしい名前を父は付けたようだ。当時の習慣で、家は長男が次ぐものだから。実際、次男の春倫も家を出て、京都に行き、建仁寺に葬られたとある。

 道仙は父の元で、医学を学んでいた。1711年に朝鮮通信使が大垣に宿泊した時、父と長男、次男、三男の道仙の一家が総動員で、通信使の医師と面談をしたという。当時、朝鮮の医学は進んでいたようだ。

 

新聞記事からのお導き

 北尾春圃を知るきっかけとなったのは、新聞記事「名医・北尾春圃の功績をたたえる」(中日新聞 2024年6月26日)であった。それによると、北尾春圃の顕彰法要が6月23日に養老町室原の福源寺で営まれた。1711年、北尾春圃は、当時の医術の先進地であった朝鮮から通信使が訪れ、大垣に宿泊した際、通信使に随行する医官と会談したとある。

 探していた北尾道仙は大垣で生まれ、1734年に彦根で亡くなったことまでは分かっていた。時代と名前の符合があい、再調査を始めるきっかけとなった。

 

2024-08-11  久志能幾研究所通信 2901号  小田泰仙

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