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2017年7月16日 (日)

ジャズ喫茶からヤマハジャズクラブへ 1/3

内田修先生の逝去

 日本のジャズの父と言われた内田修先生が、2016年12月11日、肺炎のため87歳で亡くなられたことを、ブログのために己の音楽経歴でこの件を調べていて知った。これも「馬場恵峰卒寿写経書展写真集」出版から生じた佛縁である。このニュースが手元に届かなかったのが残念であったが、これもご縁である。直前の2017年4月6日(木)に先生の追悼コンサートがヤマハビルであった。その頃は、出版準備と渡欧の準備で忙殺されていた。ご冥福をお祈り申し上げます。

ヤマハジャズクラブへ

 学生時代からジャズに興味がありLPレコード収集やジャズ喫茶めぐりをしていた。ジャズ喫茶やレコード店に通ううち、ヤマハジャズクラブの存在を知り、お願いしてスタッフにして頂いた。ヤマハジャズクラブの主催者は内田修先生である。活動内容は、年に数回ある演奏会の企画・運営のお手伝いである。当初から、演奏会のチケットの販売ノルマがあることは承知していたので、数枚売って、残りは自己負担でもいいなと甘い考えであったが、事態はそんなにも甘くなかった。まず全く売れない。無償で進呈しても受け取ってもらえない。交友関係にそんなにジャズを好きな人はいない。また当時は日本経済の高度成長の最盛期で、回りの仲間は残業につぐ残業で、わざわざ時間外の夕刻に、勤務地から名古屋市納屋橋まで出かけてジャズ演奏を聴くという余裕は無かった。皆さんひたすら働いていた。定時の帰るのさえ気が引けた時代である。そんななか演奏会に知った人がこないと、肩身が狭いのである。チケット代は負担しているのだが、会場に知った人がいないのは辛いもの。

 私も3、4年ほど活動したら、工作機械見本市出品機の開発にどっぷりつかるようになり、平日は深夜まで働き、土日も無いような状態になり、ヤマハジャズクラブのスタッフ会議にも出られなくなり自然退会になってしまった。

内田先生宅のスタジオ

 内田先生は自宅の半地下の一室にスタジオを設置されていた。ここで先生の懇意のジャズメンが集まり録音をしたテープ、レコードも多い。LPレコードの総数が3万枚とかで、羨ましさを通り越して、違う世界の話として羨む気持ちも起きなかった。図1の写真は整然とされた状態で展示されているが、当時は、レコードや他のジャズ関係の品々で溢れて洪水のようだった。

 内田先生宅のスタジオには3万枚のレコード収集の宝庫があって圧倒された思い出がある。ちなみに先生に、「このレコードの全部聞いたのですか」と伺ったら、「ノー」であって少し安心した。先生のところへ、関係者が無償で毎月、多くのレコードを送ってくるようだ。嫌でも集まってしまうとか。今、冷静に考えてみると、3万枚のレコードを試聴するとなると3万時間弱の時間を要する。普通の仕事人が有効就労期間中に取れる時間は、4時間×365日×40年で計58,400時間である。その過半の時間をジャズ音楽のレコード鑑賞だけに費やせるわけが無い。特に内田先生は、大きな病院の院長先生である。そんな時間を付加価値の生まない鑑賞だけに使うはずが無い。

内田先生の奥様とのご縁

 内田先生は奥様を乳がんでなくされた。その手術も内田先生が執刀されたが、妻にメスを入れる辛さと、結果として1982年12月26日に亡くなられた不幸を慮ると忍びないものがある。なまじっか己の腕にガンの手術する技があるのも残酷な運命である。奥様のガンを直すことができればまだしもであった。

 生前、奥様は内田先生がジャズにお金を使い過ぎるのをスタッフの世話人に嘆かれていた。我々スタッフの前では、にこやかに迎え入れて頂いたが、10名ほどのスタッフが先生宅で打ち合わせのため出入りするだけでもかなりの出費である。まして日本のジャズの父として、経済面で恵まれないジャズメンの多くを面倒見た先生の財政的負担は大きかったはず。病気のミュージシャンがいれば自分の病院で診察して療養させ、お金や住まいに困っていれば自宅に呼んで何日も過ごさせるなど、彼らの心身のケアを買って出られた。1975年、日野皓正が渡米前に健康診断のため内田病院を訪問。1977年、内田病院に入院していた久野史郎が逝去。1981年、宮沢昭が内田病院で手術を受け、2ヶ月間入院。1982年、渡辺貞夫が内田病院に入院とお世話になったジャズメンは数知れず、である。それを陰で支えたのが隆子奥様である。お金の面は内田先生がされたが、実際の面倒は奥様がされたはずである。内田隆子奥様は日本ジャズ界のマリア様のような存在であった。その多くのジャズメンの面倒を見る心労が、ガンの遠因となったのではないかと思う。改めてご冥福をお祈り申し上げます。

 当時、ヤマハジャズクラブのスタッフの集まりが岡崎市の内田先生宅で開催され、20時ごろから始まり終わりが深夜に及ぶ。そのため、終電車がなくなり、いつも奥様に案内をしていただき、内田病院の病室に泊めて頂いた。これが契機で車を買う決心がつき、1978年にカリーナ1600ccを購入した。回りの会社仲間に比べれば5年遅れの入手である。

冨田家とのご縁

 内田隆子奥様は冨田家の出身であった。冨田家は岡崎市の名家で、世界的なシンセサイザー奏者の冨田勲氏もこの家系である。また冨田環社長は、私の入社時の社長である。冨田社長は昭和45年(1970年)から昭和50年(1975年)まで社長を務められ、その後会長として昭和56年(1971年)まで勤められた。私の入社後、8年間がご縁のあった時期である。平成2年(1990年)12月、冨田環最高顧問(当時)の葬儀では、お手伝いをするご縁を頂いた。関係ある各部で、各1名の幹部がお手伝いに参上した。その一人に選ばれたことに感謝している。思えばその当時が、前職の会社の全盛期であった。1991年にバブルがはじけて、前職の会社は地獄の奈落に転落する。

 

図1 岡崎図書館に寄贈された内田先生の録音スタジオの機器

   当時の情景が再現されている

図2 隆子夫人全快祝いセッションの打ち上げ会で内田先生ご夫妻。

   その全快祝いの1ヵ月後の信じられない突然の訃報であった。

   1982年11月22日 伊藤邦治氏撮影

図3 内田先生と私(奥側)

  演奏会後の打上会で(1978年ごろ)

 

2017-07-16

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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