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2017年7月18日 (火)

辰姫の菩提寺に参拝

 辰姫は石田三成公の三女として誕生した。慶長3年(1598年)ごろの豊臣秀吉の死後、秀吉の正室・高台院(ねね・北政所)の養女となる奇縁を持つ。石田三成公は三女を北政所の養女にする深慮遠謀を図っている。北政所は徳川家康とも良好な関係にあり、戦国の世を生き延びる保険として養女の縁組をしたようだ。それが関ヶ原の戦いの後の子孫の延命につながったようだ。

 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで辰姫の父・石田三成が徳川家康に敗れた。その直後に、豊臣家中で親しくしていた津軽信建によって兄・重成とともに津軽へ逃されたとも、高台院の保護下で高台院の側近・孝蔵主に従って江戸に下り縁組を整えたともいわれる(孝蔵主は三成の娘で辰姫の姉である某(岡重政室)を通じて石田家と姻戚関係にある)。

女人の関ヶ原の戦い

 慶長15年(1610年)ごろ、辰姫は弘前藩2代目藩主の津軽信枚に嫁いだ。2人の仲は良好であったとみられるが、慶長18年(1613年)に徳川家康は、家康の養女・満天姫(家康の異父弟・松平康元の娘)を津軽信枚に降嫁させた。これに対し津軽家は、徳川家をはばかって満天姫を正室として迎え、辰姫は側室に降格となる悲運を迎える。この経緯を直木賞作家の葉室麟は『津軽双花』』(講談社)として小説に描いている。輿入れした満天姫は、徳川家康におねだりをして大阪城に飾ってあった「関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)」を嫁入り道具として津軽に持参した。辰姫にとって父・三成の負け戦を描いた屏風を津軽家に持ち込むのは、今まで正室であった自分に対する挑戦であると感じたのだろう。彼女の胸に浮かんだのは「父の仇」という言葉であったとして、『津軽双花のお話は展開する。この屏風は弘前市でも常設ではなく、企画展のときしか実物は見学できない。その実物大の屏風の写真が、大垣市郷土館に展示されている。

辰姫のその後

 辰姫は弘前藩が関ヶ原の戦いの論功行賞として得た上野国大舘(群馬県太田市)に移され、大舘御前と称された。その後も、津軽信枚は参勤交代の折は必ず大舘に立ち寄って辰姫と過ごし、元和5年(1619年)1月1日、信枚の長男・平蔵(後の信義・第3代藩主)が誕生する。この殿様は「じょっぱり殿様」と言われるくらい我が強い藩主であった。祖父が家康に挑んだあの三成であるという自負から来ているようだ。ご先祖がやるべきことを命をかけて為したことは、負けても子孫の誇りである。

 元和9年(1623年)、辰姫は大舘で死去した。享年32。墓所は群馬県太田市の東楊寺、青森県弘前市の貞昌寺にある。幼い平蔵は江戸の弘前藩邸に引き取られ、信枚の熱意により嗣子と認められ、信枚の死後藩主を継いだ。

辰姫の菩提寺に参拝

 その辰姫の廟が、弘前市の長勝寺に建立されている。2016年5月16日、新戸部さんの案内でそのお寺を訪問した。立派なお寺の構えで、辰姫の廟は荘厳な造りで圧倒された。その正面に葵の御紋が入った御印があった。辰姫は家康の計らいで側室に落とされることになったが、本来は正室であった証として飾ってあるようで、津軽信枚の辰姫への慈しみを感じた。

貞昌寺の庭園

 辰姫のお墓は市内の菩提寺である貞昌寺にあり、立派な五輪の塔が辰姫の墓として建立されていた。お墓に参る前に、お寺のお庭を見学させて頂いて、驚嘆した。京都にあったとしても不思議ではない高いレベルの庭の造りである。こんな立派な観光資源が、あまり人知れず放置されているのは、地元の損失であると新戸部さんが嘆いていた。その新戸部さんも今回が初めての訪問であった。それが発見できた今回の旅に感謝である。地元には観光資源のお宝が埋まっている。このお宝を、歴女たちにももっと広報すべきでしょう。

 

図1 長勝寺

図2 長勝寺山門の説明

図3 辰姫の廟。その奥に弘前藩主の廟が5つ並び重要文化財に指定されている

図4 辰姫の廟の軒先に葵の御紋が飾られている

図5 辰姫の菩提寺 貞昌寺の庭

図6 辰姫のお墓(左より2つ目) 貞昌寺

 

2017-07-18

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