「桜田門外の変」とのご縁
昔からの親戚の言い伝えとして、祖母のご先祖が、桜田門外の変(1860年3月3日)の時に、井伊直弼公の行列にお供して、この事件に遭遇したという。法事で集まっていた親戚の皆は、ご先祖は逃げたのだろうと笑いながら話をしているのを、小学低学年の時、傍で聞いて、本当かなと60年間ほど疑問に思っていた。武士で逃げたのなら恥だと感じていて、私が成人して、気になっていろいろと調べたが、当時の私の調査能力では限界があり、調査は停滞していた。
2015年3月3日、私の両親の法事をしたとき、北尾家の最後の人である遠戚の叔母が亡くなっていたことが判明し、そのお墓をどうするかの問題が持ちあがった。偶然、見つかった菩提寺の過去帳から、その人物を特定できた。そのご縁から、1734年没のご先祖・北尾道仙にたどり着き、ご先祖の家系図(150人分)を作りあげた。そのご縁で、絶家となった北尾家と経年変化で傷んだ小田家のお墓を改建する運びとなった。この事件とご先祖も馬場恵峰師とご縁があることが分かり、ご縁の連綿の不思議さに目を回していた。そのご縁でお墓の字も馬場恵峰師に揮毫して頂くことになった、
「桜田門外の変」の時に、その行列に同行したご先祖は、調査の結果、武士ではないことが分かり、安堵した。もし武士階級であるなら、事件の切り合いで無傷や軽傷なら、武士から町人に落とされ、牢に入れられ、打ち首、お家断絶の処罰である。武士の切腹の名誉もはく奪されての打ち首である。お殿様の首を取られた井伊藩の怒りは凄まじい。もし私のご先祖が、武士階級なら、今の私の生はない。戦いの専門職の護衛の武士がいる時、刀を持って襲ってきた暴力集団に対して、丸腰の町人はただ逃げるしかない。それで戦ったら越権行為である。あなたは戦う人、私は守ってもらう人である。それが士農工商の身分制度である。
この時の護衛武士の組頭が、日下部三郎右衛門で、日下部鳴鶴の義父である。日下部は井伊直弼公の籠のすぐ側で護衛をしていて、襲撃された時、闘って力尽きて斃れた。父が激戦での闘死であるので、日下部鳴鶴は家名を継ぐことができた。日下部鳴鶴は明治維新後、大久保利通に書生として仕えたが、紀尾井坂で大久保利通が暗殺された。その第一発見者が日下部鳴鶴であった。鳴鶴は、大久保利通を父の如く慕っていた。そのまだ温もりのある大久保利通の骸を抱きしめて、彼は悲嘆に暮れた。しばらくして日下部鳴鶴は、突然に官を辞して書の道に進んだ。父が二人とも暗殺されたことで、己の天命を悟ったと思われる。
その後、日下部鳴鶴は日本近代書道の父、書聖とも称されて、日本書道界の三大名筆となる。それをお手本に原田観峰師は日本習字を創業した。馬場恵峰師は、原田観峰師の一番弟子である。「それ故、日下部鳴鶴師と恵峰の書はそっくりだろう」と馬場恵峰師は私に説明された(2015年8月24日)。
父の長兄の小田礼一は、原田観峰師から書道教授の免許を授かっている。それは馬場恵峰師が観峰師に師事した時より少し前の時であるので、馬場恵峰師と小田礼一とは面識がない。礼一の甥の私は馬場恵峰師に師事している。不思議なご縁である。
調査しても現時点では、ご先祖の北尾重次郎が、どういう位置づけで行列に参加したかは不明である。町人でもそれ相応の理由が無ければ、時の最高権力者の井伊直弼公の、なおかつお江戸での行列に参加できまい。北尾重次郎は武士でなかったので、明治維新後は、才覚を出してお煎餅屋として暮らしたと言われている。当時の武士は、死ぬことしか芸がないと言われて、商売をしても武士商いでうまくいかず、明治維新後は路頭に迷う武士も多くいた。それが西南戦争に代表される武士の反乱につながった。
このご縁とそれを調査した過程の内容を、私の専門分野の危機管理の視点で「桜田門外の変の検証」として13回(予定)シリーズで公開します。これは2年ほど前に著述した『志天王が観る世界』(全199頁)にまとめたが、その後に判明した歴史事実も多くあるので、それを追記しながら連載をします。
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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