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2017年6月24日 (土)

「桜田門外の変」とのご縁

 昔からの親戚の言い伝えとして、祖母のご先祖が、桜田門外の変(1860年3月3日)の時に、井伊直弼公の行列にお供して、この事件に遭遇したという。法事で集まっていた親戚の皆は、ご先祖は逃げたのだろうと笑いながら話をしているのを、小学低学年の時、傍で聞いて、本当かなと60年間ほど疑問に思っていた。武士で逃げたのなら恥だと感じていて、私が成人して、気になっていろいろと調べたが、当時の私の調査能力では限界があり、調査は停滞していた。

 

 2015年3月3日、私の両親の法事をしたとき、北尾家の最後の人である遠戚の叔母が亡くなっていたことが判明し、そのお墓をどうするかの問題が持ちあがった。偶然、見つかった菩提寺の過去帳から、その人物を特定できた。そのご縁から、1734年没のご先祖・北尾道仙にたどり着き、ご先祖の家系図(150人分)を作りあげた。そのご縁で、絶家となった北尾家と経年変化で傷んだ小田家のお墓を改建する運びとなった。この事件とご先祖も馬場恵峰師とご縁があることが分かり、ご縁の連綿の不思議さに目を回していた。そのご縁でお墓の字も馬場恵峰師に揮毫して頂くことになった、

 

 「桜田門外の変」の時に、その行列に同行したご先祖は、調査の結果、武士ではないことが分かり、安堵した。もし武士階級であるなら、事件の切り合いで無傷や軽傷なら、武士から町人に落とされ、牢に入れられ、打ち首、お家断絶の処罰である。武士の切腹の名誉もはく奪されての打ち首である。お殿様の首を取られた井伊藩の怒りは凄まじい。もし私のご先祖が、武士階級なら、今の私の生はない。戦いの専門職の護衛の武士がいる時、刀を持って襲ってきた暴力集団に対して、丸腰の町人はただ逃げるしかない。それで戦ったら越権行為である。あなたは戦う人、私は守ってもらう人である。それが士農工商の身分制度である。

 

 この時の護衛武士の組頭が、日下部三郎右衛門で、日下部鳴鶴の義父である。日下部は井伊直弼公の籠のすぐ側で護衛をしていて、襲撃された時、闘って力尽きて斃れた。父が激戦での闘死であるので、日下部鳴鶴は家名を継ぐことができた。日下部鳴鶴は明治維新後、大久保利通に書生として仕えたが、紀尾井坂で大久保利通が暗殺された。その第一発見者が日下部鳴鶴であった。鳴鶴は、大久保利通を父の如く慕っていた。そのまだ温もりのある大久保利通の骸を抱きしめて、彼は悲嘆に暮れた。しばらくして日下部鳴鶴は、突然に官を辞して書の道に進んだ。父が二人とも暗殺されたことで、己の天命を悟ったと思われる。

 

 その後、日下部鳴鶴は日本近代書道の父、書聖とも称されて、日本書道界の三大名筆となる。それをお手本に原田観峰師日本習字を創業した。馬場恵峰師は、原田観峰師の一番弟子である。「それ故、日下部鳴鶴師と恵峰の書はそっくりだろう」と馬場恵峰師は私に説明された(2015年8月24日)。

 父の長兄の小田礼一は、原田観峰師から書道教授の免許を授かっている。それは馬場恵峰師が観峰師に師事した時より少し前の時であるので、馬場恵峰師と小田礼一とは面識がない。礼一の甥の私は馬場恵峰師に師事している。不思議なご縁である。

 

 調査しても現時点では、ご先祖の北尾重次郎が、どういう位置づけで行列に参加したかは不明である。町人でもそれ相応の理由が無ければ、時の最高権力者の井伊直弼公の、なおかつお江戸での行列に参加できまい。北尾重次郎は武士でなかったので、明治維新後は、才覚を出してお煎餅屋として暮らしたと言われている。当時の武士は、死ぬことしか芸がないと言われて、商売をしても武士商いでうまくいかず、明治維新後は路頭に迷う武士も多くいた。それが西南戦争に代表される武士の反乱につながった。

 

 このご縁とそれを調査した過程の内容を、私の専門分野の危機管理の視点で「桜田門外の変の検証」として13回(予定)シリーズで公開します。これは2年ほど前に著述した『志天王が観る世界』(全199頁)にまとめたが、その後に判明した歴史事実も多くあるので、それを追記しながら連載をします。

 

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

書の著作権は馬場恵峰師にあります。所有権は久志能幾研究所にあります。

2017年6月22日 (木)

「恒久平和の碑」が語る歴史

 碑とは、ある意味でお墓と同じである。碑とは、ある事象を祈念して後世のために残す人々の想いの顕われである。

 1991年、大垣公園内に、建立されたこの「恒久平和の碑」は、シベリア抑留から生還したダモイ会の皆さんが二度とこういうことが起きないように恒久平和を祈って建てられた碑である。その碑の陰には、6万人とも10万人とも言われるシベリアの土に帰した邦人がいる。この碑はロシアという死鬼衆により殺された日本人の魂を鎮魂するためでもある。

 

 1991年8月、この碑の石は四国より運ばれて建立された。この碑の建立式で今川順夫氏(株式会社丸順創業者)の挨拶を聞いて、当時の大垣市長小倉満氏が涙ぐんだという。私が2010年秋に大垣に帰郷して、2014年までの毎朝、この碑の前を散歩のため通るが、父の名が刻まれていることを知ることはなかった。「魂(オニ)」が納仏された日に、今川順夫氏のシベリア抑留講演会の案内の回覧を見たご縁で、恒久平和祈念の碑の裏に父の名を発見できた。それ以降、毎日ここで日本の平和とシベリアで斃れた方の冥福を祈念している。そして日本の未来を背負う子供達のために、自分は何が出来るかを考え続けている。

 

 父が生きて帰還できたが故、今の自分の命がある。なぜ人は死鬼衆になるのか。なぜ共産主義は人の命を粗末にするのか。なぜアーリア人は民族皆殺しの死鬼業を平気で犯すのか。自分は恒久平和のために何が出来るのか。口先だけで平和を叫んで滅んだ国が、過去70年間だけでも180カ国にも上る。我々は後世に何を伝えるべきか。何をなすべきか。この碑を見るたびに考えている。

 

最期の一撃(21)後日譚-2 中共のウィグル、モンゴル、満州への侵略 2015年7月14日

 (中部大学 武田邦彦氏のHPを参照)   http://takedanet.com/

 

 自分が今回(2015年)のお墓つくりを経験して、今川順夫氏の気持ちが少し分かった気がする。この碑の建立に多大な貢献された今川順夫氏に感謝している。今川氏とご縁ができたゆえに、1991年に恒久平和祈念の碑の建立式に立つ父の姿を写真で初めて見ることができた。これは沸様のお導きと思う。

 

ご縁の連鎖

 上記文章を6月22日、校正していて、小倉満元大垣市長の逝去日が、桜田門外の変(安政7年3月3日(1860年))の128年後の同じ日に、小川満氏が亡くなられていることに気が付いて愕然とした。私がお墓を改建するご縁となったのは、2015年3月3日に両親の法事をしたことに起因する。祖母のご先祖が、桜田門外の変の時、その行列に同行して(武士ではない)、この事件に遭遇したという。

 30年前の1987年にビーバー・オットー博士が大垣に来られた時、歓迎パーティで挨拶をされたのも小倉満大垣市長(当時)で、大垣市音楽堂にベーゼンドルファー導入に尽力をされたのも小倉満氏である。そのご縁で、2017年4月に私はウィーンでビーバー・オットー博士にお会いした。そのご縁でこの3日前の6月19日、河村義子先生主催のピアノ勉強会の使用ピアノが、ベーゼンドルファーであった。そのご縁で、6月21日のブログ「ピアノが奏でる人生(改定)」に、河村先生がベーゼンドルファーを弾く写真を掲載する顛末となった。(以上2017年6月22日記述)

 

 2015年3月3日、父の13回忌と母の23回忌の法要を済ませた翌日に『致知』4月号が届き、伊與田覺先生の「百歳の論語」セミナーの案内が目に入った。何かピンと来るものがあり、3月5日に申し込みをした。その後、何気なく伊與田覺先生の経歴を見ていたら、大正5年生まれとある。父の生誕年と同じで、健在なら父も100歳である。伊與田覺先生の論語の講義は以前から気になっていて、何時かは聞きたいと思っていた。伊與田先生が父と同年の生誕とは気がつかなかった。昨年納佛された守佛と飛天、法事の直前に納佛されたご本尊様のご縁のようだ。導かれたようなご縁の連鎖に不思議さを感じた日であった。後日、両親の法要の日が「桜田門外の変」の節句の日、3月3日と同じと松居石材商店の松居店主に言われて愕然とした。無意識で偶然に決まった日柄であるが、佛様に導かれたようだ。

 2015年4月22日から、月に一回の全5回コースで、伊與田覺先生の論語講座が品川プリンスホテルの会場で始まった。6月2日の第三回伊與田塾で3時間の講話が終った後、16時から伊與田先生の百歳の誕生祝賀会が同ホテルの12階で執り行われた。その後、先生は5分間ほどの謝辞を述べられた。背筋をピンと伸ばし、話された。真向法をされているようでお元気そのものである。その時、先生と名刺交換をしてツーショットを撮らせていただいた。大正5年生まれの父が生きていれば、こんな写真が撮れたのにと残念に思うことしきりである。父の代わりに長生きをせねばと心に誓った。(以上2015年6月記述)

 

図1 大垣公園内に平成3年8月建立(1991年)

図2 除幕式で挨拶をされる今川順夫氏

図3 「恒久平和の碑」除幕式

図4 「恒久平和の碑」除幕式記念撮影

   2列目左端白い半袖カッター姿が父、中央が小倉満大垣市長、その左隣が今川順夫氏

図5 恒久平和の碑」裏面のダモイ会名簿 父の名が刻まれている

図6 伊與田覺先生誕生祝賀会で挨拶  2015年6月2日

 

久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

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戊辰の役顕彰碑と祖母の悲哀に合掌す

 戊辰の役(1868年、慶応4年/明治元年の干支が戊辰)の120年後の1988年、大垣東ライオンズクラブが大垣市長の小倉満氏(1932年- 2001年3月3日)を団長として大垣市議長を同行し、奥羽訪問親善使節団として福島県白河市を訪問した。現地の東明寺には、会津藩で戊辰の役で戦死した大垣藩藩士が葬られていた。この墓地は「会津戊辰戦役西軍墳墓史跡保存会」の手により管理が行われていた。地元は例年10月23日に西軍墓前祭をしめやかに行い、かって敵軍であった西軍の戦死者にも手厚い法要を行っていた。

 小倉満市長は、大垣藩士が手厚く祀られていることに感銘を受け、これを顕彰する碑を東ライオンズクラブと共同で大垣城内に建立した。時に明治維新120年後の1988年(昭和63年)秋である。まだまだ明治維新前後の歴史は生々しい。井伊直弼公が切って落とした幕末動乱への幕開けは、大垣市内にも痕跡を残している。

 

 碑文には「明治維新に当り大垣藩主戸田氏共公は家老小原鉄心の意を採り戊辰の役にその進路を誤らしめなかった。本年戊辰の年を期に大垣城跡に記念碑を建立しその偉業を顕彰する」とある。

 

大垣藩の戦い

 幕末の幕府側と倒幕側との戦いでは、大垣藩は当初、幕府方として最前線で戦って来たっていたため、倒幕側に方針展開しても大垣藩は東北攻めには最前線に駆り出されて、多くの死者を出すことになる。それでも勇敢な大垣藩は宇都宮攻防戦などで戦功を上げた。一方で50余名に及ぶ戦死者を出した。大垣城内には戊辰の役を顕彰する石碑が建てられているが、藩の保全のために犠牲になった藩兵を弔うためである。倒れられたのは20代の若者が多いのは痛ましい。何時の世も犠牲になるのは有為な若者である。本来の敵である外国勢との戦いで倒れるならともかく、身内内での戦いで死ぬとは残酷である。すべてトップの判断ミスである。

 大垣藩は幕末の騒乱の時、早い時期に倒幕派に転向したので、まだ救いがある。しかし、最後まで幕府側につき、戦わされた会津藩の若者が哀れである。日本が近代国家を建設するためには必要であった犠牲であったようだ。今の我々の繁栄は、尊い若者の犠牲の上に立っている。私は毎朝、散歩の途中でここに寄り、日本国建国のために血を流された方に手を合わせている。

 

顕彰碑に込めた想い

 この碑の稀有なことは、文字が凸で表現されていること。普通の碑文や墓石は凹の状態で彫られている。亡くなった人の墓石や史歴としてもう変わらない事実は凹で彫るのが常である。ところが凸で書かれていることは、まだ今もその藩士の威徳が生き続けていることを現している。碑には、碑の建立者の意向が明白に表われている。大垣市長職は激務で、3代続いて大垣市長は現役で倒れられている。小倉満市長も仕事中に倒れられた。

 

 大垣藩の戦死者は東明寺の西軍墓地に「大垣戦死二十人墓 明治元年十月」と白河口の戦いがあった白河市松並には「長州大垣藩戦死六名墓」が祭られている。日本の夜明けのため命を捧げた若者たちである。その陰に息子の死を嘆く母がいる。乳飲み子を抱えた母がいる。

 

祖母の悲哀

 終戦後の昭和21年、生きて帰ってくると待っていた四男、五男の、戦死通知書でその戦死を知らされた祖母の悲哀を想う。赤紙一枚で招集され、たった一通の戦死通知が来ただけで、遺骨の何も帰ってこない。残酷である。祖母は5人の男子を育てたが、そのうち2名が戦死である。五男はインパール作戦のビルマで、四男がシベリア抑留で亡くなった。三男の父は、地獄のシベリア抑留から生きて帰還できたので、今の私の生がある。四男は我が子の顔も見ずにシベリアの凍土に消え、子は父の顔も知らずに、女手一つで育てられた。両親に育てられた自分の幸せを思う。私は定年退職後、大垣の実家に戻り、父の遺品を整理していて、このお二人の死亡通知書を発見した。この発見が2015年の小田家墓の改建につながるご縁となった。合掌。

 

大垣戦死二十人墓 (東明寺)

 川崎松次良  藤原邦義  22歳

 木村重米   藤原知重  22歳

 渡部順蔵   源 重孝  32歳

 武藤菱之助  藤原重勝  25歳

 米山休左エ門 藤原兼賢  24歳

 長谷川直吉  藤原辰忠  26歳

 加納傳四良  藤原兼住  26歳

 森甚太良   源 政則  23歳

 杉山庄五郎        28歳

 増田九助         42歳

 吉田彦三良  藤原信可

 九鬼国之助  藤原重隆  17歳

 太田七十良  藤原胤重  40歳

 奥富元三良   

 土屋柳冶良  源 秀敷

 河井富助   藤原長栄

 北村吉五良  藤原義方

 藤田辰二郎  藤原辰広

 藤田彦三良  藤原基教

 多賀重助   藤原美則

 

長州大垣藩戦死六名墓 (白河市松並に)

 鳥居勘右衛門

 川井徳太郎

 松井於莵蔵

 

 

図1 戊辰の役顕彰の碑碑文 書は小倉満大垣市長  粘板岩

図2 戊辰の役顕彰の碑(裏面)

図3 大垣戦死二十人墓  『大垣ゆかりの南奥羽』大垣市刊より

図4 長州大垣藩戦死六名墓 『大垣ゆかりの南奥羽』大垣市刊より

図5 県の表彰状

図6 五男の戦死通知 

 

久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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