正しく狂って酔狂道を共に歩く
10年ほど前から東山魁夷画伯の描いた「道」の現地を見たいと思っており、本書『詞天王が詠う老計・死計』の執筆の過程で、現場写真を載せることを思い付き、現地に飛ぶ決断をした。青森の新戸部八州男さんのお言葉に甘えて現地に案内して頂いた。
新戸部さんが現地の仲間に聞いても「道」の場所を知っている経営者は皆無であった。新戸部さんも58年も弘前っ子として「道」の存在は知っていたが、行ったこともないという。今回、現地を見たいという酔狂な男に初めて出会ったという。仲間の中には「ヒガシヤマカイイとは何ですか?」とまで言う人もいて、日本文化の歴史の風化をお互い嘆きあった。ネットで調べておおよその位置を割り出し、とにかく現地に向かった。
大垣祭りと石田三成公のご縁
大垣祭りは2015年に文部科学省から文部国重要無形民俗文化財に指定し、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に提案している。今年が指定後の初めての大垣祭りであったので、2016年5月14日、私も構えて写真を撮った。
大垣まつりの軕の起源は、慶安元年(1648)に大垣城下町の総氏神であった八幡神社が、大垣藩主戸田氏鉄公により再建整備されたおり、城下18郷が喜びを神輿3社の寄進で表し、大垣10か町が10両の軕(出しもの)を造って曳回したのが始まりといわれている。2016年現在は13軕が整備されている。2017年現在は、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。
「道」の現地撮影の翌々日に弘前のお寺を回って、大垣城に縁のある石田三成公の縁者のお寺や墓に参拝した。新戸部さんとのふとした話から出た石田三成公の縁者のお墓が弘前市内のお寺にあるとのことで、今年の大垣祭りの撮影はご縁の前哨戦になった。関ヶ原の戦い(1600年)で、西軍の大将の石田三成公は大垣城を作戦本拠地としていた。関ヶ原の戦いの後、戦勲あった戸田氏鉄公が大垣城主となった歴史である。
種差海岸の現地へ飛ぶ
大垣祭りを撮影した翌日、2016年5月15日、小牧空港からFDAのERJ175で青森空港に飛んだ。青森空港に新戸部さんが迎えに来て、種差海岸の現地に向かった。 たかが一枚の絵「道」のスケッチ現場を見に、1,000キロも離れた場所に出かける酔狂さ、また空港から3時間も車を飛ばして案内された新戸部さんの酔狂さもお互い呆れものであった。そのご縁も2006年の前職の会社の合併から繋がったご縁であり、それがご縁で馬場恵峰先生とのご縁ができ、新戸部さんとご縁ができ、ご縁の不思議さを感じた。関ヶ原の戦いでは、馬場恵峰先生のご先祖馬場春信公の元家臣が井伊家の武将として赤備えで戦っている。
酔狂道のご縁
今回の酔狂道には、大きなご縁が横たわっていた。馬場恵峰先生を介してご縁のあった友と一緒に歩いての発見である。やはり現地現物で、その現場に行かないと新たな発見はない。そのお陰で、ものの観方の再発見と400年前の歴史のご縁に出会えた。青森に埋まる観光資源、大垣・彦根と弘前が繋がるご縁の発見、行政の怠慢を垣間見た出張旅行でもあった。酔狂道もたまにはよいものだ。日々の心がけが良ければ、人は正しく狂うことで、佛様からの良きご縁に恵まれる。酔狂道とは夢の道。
図1 大垣祭り 試楽祭 2016年5月14日
図2 松竹軕の演台で長唄を舞う上田愛心さん(8歳)2016年
図3 FDAのERJ175
図4 青森を目指して
図5 ムジコクリエイト社長 新戸部八州男氏
図6 「道」の解説パネル
2017-07-13
久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite
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