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2021年1月25日 (月)

人生の曼荼羅  死肉を喰らう

 

 人生を俯瞰的に見ると、人生はピラミッドや高山の頂点を目指して歩む姿に例えられる。それは人生の宇宙観であり、緻密に築かれた城の石垣にも例えられる。

 

人生のピラミッド

 人生の目標とする所が山の頂点なら、俗世間的に言えば会社の社長である。佛の世界ではそのトップは大日如来である。そこに達するには、地獄界、畜生界、邪鬼界、人間界、天界、菩薩の世界を経ないと到達できない。人は生まれながらに頂点で生まれるのではなく、試練・修行を経て悟りの境地に達する。お釈迦様も釈迦王国の滅亡、修行、試練、弟子の離散の地獄を見て、悟りの境地を得られた。お釈迦様は万能の存在ではなく、悩みある我々凡人と同じ人間である。また大日如来も単独では存在できない。その回りの菩薩、天、鬼がいてこそ存在できる地位である。

 

人生街道で出会う仏様

 人生では、あるときは地獄の鬼と対面するときもある。不渡り倒産の危機に直面して七転八倒の苦しみを得ながら進む地獄界のときもある。時には鬼となって相手に借金の返済を迫るときもある。天として(部下や会社の)守り佛として会社を自衛する四天王となるときもある。人間とは人を殺めるような鬼畜の性もあれば、童を愛する天女のような心の両面を持つ。その心は流転して無常である。すべて己の観念が作り出している世界である。

 

受戒位

 人間とは「人」と「人」の間にある「門」を毎「日」渡り歩き、悟りの世界を求めて歩く修行僧といえる。どれだけ富財宝を手に入れても、死ぬときは全て手放して裸であの世に旅たつ。それ故、人生では、貯めた財宝ではなく、人に与えた価値で評価される。

 それを悟るにどれだけの失敗・恥・経験を積むかが、人生の修行である。人は痛い目を経験しないと目が覚めない愚かな存在である。かの釈尊でさえその過程を踏襲された。そういう目に会わないと、人の痛みが分からない。自分が仏になるための戒を授けられたのだ。

 

死肉を食らう佛

 足る知るを知らない輩が餓鬼道に堕ちる。その心はガリガリに痩せ、外見の腹だけが異様に膨らみ、目に付く人のもの手当たり次第に死肉を食らうが如き食い様である。食べても食べても、集めても集めても満足しない飢餓地獄の世界である。毘舎遮は、死肉を喰い、血をすすって飢えをしのぐ。死肉を喰っても血をすすっても満腹せず、ひたすら喰いまくる。死肉を喰う同じ仲間であっても、目も合わせず、会話さえしない。

 

曼陀羅の餓鬼

 餓鬼は東寺の曼荼羅図にも描かれている。餓鬼は劫波杯(血を盛った杯)や人の手足を持ち、これを食らう死鬼衆として描かれている。餓鬼とは人間の性である。曼荼羅図に描かれている姿は、衆生が餓鬼道に堕ちないようにとの戒めである。

 現代は拝金主義者、グローバル経済主義者という餓鬼が、社会で大手を振って君臨している。金を集めるだけの強欲に支配され、冨を独り占めする。下水が詰った状態の様で腐臭が凄まじい。四天王としての六根を麻痺された現代人が死鬼衆に食われている。

 その姿を弘法大師は、1300年間に予言した。貧富の差が拡大して、格差社会が酷くなっても、富者がひらすら死肉を喰う様は、現代資本主義社会と同じである。カルロス・ゴーンは日産社員を必要以上にリストラし、浮いた金で贅沢三昧をした。まるで死鬼衆の様である。

Photo

 東寺 曼荼羅図 外金剛部院(部分)死鬼衆

 

自然の摂理

 死肉を喰う族も必要だ。それも必要悪だ。森林の枯れ葉が、次世代の芽の肥やしになるのは、自然界の摂理である。そういう人間がいて、佛もいて社会が成り立っている。自分の死後に、死肉(財産)を喰われても、いいではないか。どうせ来世には持って行けない。それがこの世で役立てば本望だ。そういう仕組みのなかで、己はどうするのかが佛から問われている。

 

死肉を喰らう佛に遭遇

 私もこの2年間だけでも、人から煮え湯を飲まされた事件が数度あった。その輩たちは超富裕層で、病気持ちの老人たちであった。それは全ての事例で共通していた。死期も近い老人たちが、まるで死肉を喰うような仕打ちを私にした。それは曼荼羅で、死肉を喰う佛として描かれて様と同じだ。死肉を喰っているのは、佛である。それが人生だと弘法大師は曼荼羅で教えている。

 

古希での受戒位

 私は古希も近い歳で情けない目に会った。「そういう縁を避けよ」、「人の本性を見極めよ」との佛の教えである。縁なき衆生度し難し。修証義に曰く「善悪を弁えざる邪険の輩には群すべからず」と。

 第二の人生で悟りに到達したい。悟れなかった人が、現世で餓鬼道・幽霊道に迷いこむ。帰らぬ過去の後ろ髪を引かれ、まだ来ぬ未来に目を向け、虚ろな目を向けて迷う生き様である。すべて人のせいにする被害者意識の人生である。

 

人皆佛

 人生の曼荼羅に、自分の歩いた履歴が表れている。その曼荼羅の中に現れている佛に自分の宇宙観が現れる。出会うご縁は全て自分を良くしようと現れる佛である。だから人生に無駄な縁は無く、自分以外は全て我が師である。死肉を喰う輩も仏様である。貧乏神のコスプレで現れる逆縁の菩薩にも尊い教えがある。

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 馬場恵峰書、文は小田泰仙作 

 

2021-01-24 久志能幾研究所通信 1899  小田泰仙

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