l1_吾が人生の師天王 Feed

2020年12月27日 (日)

曼荼羅の佛様が 寄ってたかって 私を幸せにしてくれる(改)

 

 自分に厳しいことを言ってくれる方は、私を育ててくれる佛様だ。辛口の批評は、自分の行動の何所がいけないのかを教えてくれる。試験の成績が悪いのは、今の勉強のやり方が間違っていると親切に教えてくれている。

 仕事での失敗は、何か間違っていると教えてくれている。市場での失敗は、自分の見識の未熟さを教えてくれている。市場は神の如くの評価をする。

 大垣市の公示地価の暴落は、市長の小川敏の失政を市場が告げている。

 病気とは、己の体の使い方に関する佛様の苦言なのだ。認知症は、狂った食生活、狂った生活習慣をしていることを教えてくれている。癌は生活習慣病である。狂った食生活、狂った生活習慣の結果なのだ。

 私を幸せにしようと思わない相手は、無視をする。愛の反対は憎悪でなく、無視なのである。

 人が甘い言葉をいい、お世辞やおべんちゃらを言うのは、自分をKY(空気の読めない人)に育てるための罠である。厳しいことを経験しないと、実社会ではやっていけない。KYになっては出世など夢の話。正規社員にもなれない。厳しい叱責で研鑽を積み自分の能力、精神力、人を見る目が養われる。佛の皆さんが私のために、能力向上のため、幸せになって欲しいと鍛えてくれている。どうしようもない人には誰も何も言わない。私もサラリーマン生活で、部下を持った時、見込みのない人間は無視をした。そうしないとやっていけない。

 自分に向けられる厳しい言葉を、自分を鍛えるための愛の言葉と解釈をしよう。そう思うとき、曼荼羅の佛様がよってたかって自分を幸せにしてくれる。

 

耳中常聞逆耳之言    

 耳には常に痛いことばかり。それが自分を鍛えることになる。甘い言葉で褒められるのは、遅延性の毒を盛られるようなもの。(洪自誠著『菜根譚』)

 

 あなたを地獄に落とす贈賄側の人間は、甘言で誘いノーパンしゃぶしゃぶ接待に連れて行く。苦労をしていない高級官僚が簡単に堕ちる罠である。

ああ、私も誘われたい…..

Img_42812s  馬場恵峰書

2020-12-27 久志能幾研究所通信 1875  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年12月26日 (土)

一人では成佛できない  「學」とは

 

 2011年4月6日に第50回京都佛像彫刻展に出かけたら、偶然、松本明慶先生にお会いできた。展示されている佛像を説明していだいた。そこには若い佛師の作品が展示されていて、中には松本工房から独立して、佛像を作っている佛師の作品も展示されていた。素人目から見て、松本工房の佛師の作品に比べて、出来が落ちるのがわかる。明慶先生によると、独立したくらいだから腕はいいのだが、独立当時から作品のレベルが変わっていないという。つまり時間が止まっている。

 これは、独立した仏師が、自分の世界に閉じこもってしまい、松本工房で大勢の仲間との切磋琢磨が無くなり、成長が出来ないとのことである。自分の世界と比較して、身につまされるお話である。人は、批判、指導により人間として成長し、その作品の出来に影響するのだと。作品がその人自身を冷酷に表す。

 菩薩とは如来になるべく修行中の佛様をいう。菩薩様は修行をしながら衆生を救う佛様として拝まれている。一人では成仏できない。回りの仲間がいてこそ、自分が成仏への修行ができるのだ。仲間は自分の鏡なのだ。仲間に手を合わせて感謝しよう。

 その学びは、仏像彫刻に限らず、全ての芸術、学問にも当てはまる。

 

「學」

 「學ぶ」の「ワかんむり」は「学びの館」を表し、下の「子」は、学びの館で過ごす生徒を表している。その学生たち、教師との対話をしている様を冠の上の象形文字で示している。一人では学べないのだ。一人で学べるのは超人である。凡人の我々は師に従って、仲間と議論をしながらその道を進むのだ。それを表した文字が「學」である。

 師との出逢いこそ、最大の学びである。だからこそ、「3年かけて師を探せ」である。

 また一緒に学ぶ仲間のレベルも影響する。良き仲間を探そう。朱に交われば赤くなるのだ。

__c1__06072113

Img_43861s  馬場恵峰書

 

2020-12-26 久志能幾研究所通信 1874  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年11月28日 (土)

智慧が人を賢くし、知識が人を意固地にさせる

 

 知識とは議論において相手をねじ伏せるための武器である。時としてその知識が己の行動を縛る。智慧とは議論をしなくても問題を解決する佛智見である。知識で論理的に戦うことは、理でしか戦えない偏った戦いである。理だけでは感情を理解できない。だから「感動」はあっても「理動」はない。智慧とは理知をもって俯瞰的に物事を導く佛力である。お釈迦様はこの佛智見を衆生に教示するため現れた。

 

智慧なき経営

 世の中には有名大学出の社長が経営していても、情けない会社が多い。超エリートがトヨタより多くいる日産が、外国企業に身売りをし、半官半民の潰れるはずがない日航が倒産した。東大卒のホリエモンが知識を悪用して、ライブドア事件に狂騒した。頭が良くて知識があっても智慧がないから、会社を自滅に追い込んだ。知識を人より多く抱え込み、知識に固執して社内闘争に明け暮れ、金に目が眩みマネーゲームに走り、母なる己の組織を殺す顛末になる。

 

知識過剰

 どんなモノでも過剰にあると毒になる。モノが過剰にあると探す時間と保管の時間を取られ、人生の時間(命)が蝕まれる。人生経営指標の無形資産回転率が低下する。モノには精霊が籠もっていて、使われない悲しみの表われである。知識もありすぎると、どれが有用なのかが分からなくなる。1テラの知識量よりも一つの智慧が勝る。

 

智慧の経営

 浄土とは智慧で悟る世界である。穢土とは知識に振り回される煩悩が溢れる世界である。普賢菩薩と文殊菩薩は浄土から穢土に理知を運ばれる。

 知識は時代と共に正誤がかわる。知恵は不変である。知識を武器に相手を論破する競争よりも、黙々と下に根を伸ばす精進で智慧を育むことが大事である。不毛な議論は時間の無駄で、議論の正誤は神仏のみぞ知ることである。多くの人が嫌がることは正しいことではない。人に喜ばれてこそ功徳である。不毛の議論は犬も食わぬ。

Photo

 馬場恵峰書『人生訓80恵峰選』(2005年)より

 

普賢菩薩と文殊菩薩

  普賢菩薩は文殊菩薩と共に釈迦如来の両脇侍として、尊ばれてきました。仏教を信仰し、精進に努める誓いと行いを求めて努力をし、信仰者を守護してくださいます。普賢菩薩は象に座しておられますが、象は大力を持ち何者にも動じず、菩提(悟り)に運んでくれる徳を持っているとのことです。

 文殊菩薩は釈迦如来の両脇侍として、大乗仏教の上頭とされます。三人よれば文殊の智慧というにように、智慧を象徴するみほとけです。経軌によると文殊菩薩は清らかな心を持つ童子の姿とすることが記されています。

 また文殊五尊像は、獅子(威厳を象徴)に座した文殊菩薩とその従者たちが、海を渡って飛来する情景を表し、中国山西五台山はその聖地として巡礼者の信仰を集めてきました。

(松本明慶著『慈 大仏師松本明慶作品集』2004年 小学館)より

Dsc098511s

  松本明慶大仏師作  普賢菩薩像、虚空蔵菩薩像、文殊菩薩像 

 

2020-11-28 久志能幾研究所通信 1841  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年7月23日 (木)

智慧が人を賢くし、知識が人を堕落させる

 知識とは議論において、相手をねじ伏せるための武器である。時としてその知識が己の行動を縛る。知識で相手を説得できても、納得させることはできない。敵は説得されても、納得しないと動かない。

 要は、「君の論法は正しい。しかし私の感性がそれを拒否してしまうので、賛同できない」である。私はこれで会社の仕事を進めるのに苦労した。親会社からの指示のIT化方針は正しかった。しかし、その大義名分だけでは子会社の組織は動かなかった。

 

佛智見

 智慧とは議論をしなくても問題を解決する佛智見である。知識で論理的に戦うことは、力任せの戦いしかできない偏った戦力である。智慧とは理知をもって俯瞰的に物事を導く佛力である。お釈迦様はこの佛智見を衆生に教示するため現れた。

 理性とは、合理的にしか考えることができない、偏った思想である。理性では人は動かないが、感性で人は感動して動く。だから感動はあっても、理動はない。

 

知識の敗北

 世の中にはよい大学を出た社長が経営する企業が多くあるが、情けない会社が多い。超エリートがトヨタより多く集まった日産が外国企業に身売りをし、ゴーンに骨までしゃぶられた。半官半民の潰れるはずがない日航が倒産した。東大卒のホリエモンが知識を悪用してライブドア事件に狂騒した。頭が良くて知識があっても智慧がないから、会社を自滅に追い込む。その知識を利他でなく利己に使うから、会社が衰退する。知識を人より多く抱え込むと、己の知識に固執して社内闘争に明け暮れ、金に目が眩みマネーゲームに走り、己を育ててくれた母なる組織を殺す顛末になる。

 大垣市の小川敏は東大を出て、自分が行政で一番頭がいいと思いあがっているから、人の意見を聞かない。それに従うのは利権に目のくらんだ輩ばかりである。だから大垣市は没落した。小川敏市政19年間で、大垣市の公示地価は半分以下になり、人口密度は半減した。大垣駅前商店街の8割が店を閉めた。

 前市長の小倉満氏は東大を出ていないが、人情があり智慧があり、人望で政治を動かしていた。だから当時の大垣市は栄えていた。

 

浄土と穢土

 浄土とは智慧で悟る世界である。穢土とは知識に振り回される煩悩が溢れる世界である。普賢菩薩と文殊菩薩は浄土から穢土に理知を運ばれる。

 どんなモノでも過剰にあると毒になる。モノが過剰にあると探す時間と保管の時間を取られ、人生の時間(命)が蝕まれる。人生経営指標の無形資産回転率が低下する。モノには精霊が籠もっていて、使われない悲しみの表われである。知識もありすぎるとどれが有用なのかが分からなくなる。1テラの知識量よりも一つの智慧が勝る。

 

ディベートは知識の洪水

 ディベートとは、知識を武器に戦う言論戦争である。しかしそれで勝っても相手を動かすことはできない。2000年ころ、私は中小企業の社長が対象の研修で、ディベート研修を受講したことがある。私はテクニカルライティングの論理性を駆使して、200人の中で、自分のチームを優勝に導いた。そこで私に付けられれた称号が、「エビデンス王」である。

 そこでの学びは、あるテーマに関して、如何ようにも論理が展開できる能力をリーダとして持て、である。その試合は、交互に立場を変えて、相手を議論で打ち負かすまで続ける。今まで自分が「白が正しい」と言っていたことを、次の試合では、今度は「黒が正しい」という議論を展開せねばならぬ。リーダとして、テーマの議論は、どのようにでも論理展開ができねばならぬ。しかしディベートに勝っても組織は動かない。

 

百の議論より一つの実行

 そこで学んだ結論は、議論の虚しさであった。知識やデータを武器に相手を論破する百の議論よりも、黙々と下に根を伸ばす精進で智慧を育む実績が大事であることだ。不毛な議論は時間の無駄で、議論の正誤は神仏のみぞ知ることである。多くの人が嫌がることは正しいことではない。人に喜ばれてこそ功徳である。不毛の議論は犬も食わぬ。

Photo

   馬場恵峰書『人生訓80恵峰選』(2005年)

 

2020-07-23 久志能幾研究所通信 1676 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2020年7月21日 (火)

問題と課題

 人生で起こる問題は、お金と時間で解決できる。人間が起こした問題は、人間が解決できる。問題とは、直面する単なる不具合である。

 トヨタ生産方式では、なぜその問題が起きたかを「5回の何故なぜ」で考え、真因を見つけ二度と起きないようにする。そういう取り組みで、トヨタは田舎のトヨタから、世界のトヨタになった。

 どうせ何時かは死ぬ身である。それを思うと、此の世で起きることは大したことではない。終活が終われば、後は野となれ山となれ、でやりたい放題に人生を謳歌しよう。やりたい放題にできるように、問題と課題を分けて処理しよう。時間節約ができる。

 

私の課題

 私は終活として、お墓も作った、戒名も決めた、墓誌に戒名も彫った、葬式の段取りも終わった、没後50年間の法事の段取りも終わった。後はこの世で、やり残しがないようにやるだけである。私の課題は「死ぬまでにやりたい108の夢」を、どれだけ少なくするかである。

 

「問」とは

【解字】門が音を表し、聞の転音である。人の言うことを自分から聞き出すこと。

 

「課」とは

【解字】果が音を表し、考える語源から来ている。言葉を考える、試験するの意味。 

 

「題」とは

【解字】是の転音が音を表し、頁(かしら)がしるしの意の語源(識)からきている。古代では奴隷の額(ひたい)に印をつけたので、ひたい、目印の意味を表す。

 

 問題とは、人から突き付けられた事象である。それに対して、課題とは、自分が考える「あるべき姿と現状との乖離」である。その乖離を埋める取り組みが課題である。それは自分で考えなければ、解決しない。

 「それは誰の問題ですか」と問おう。それが自分の問題なら、課題として取り組もう。

 人生の課題の達成は、目標が高いほど得がたい。未来にどんな姿を思い描いて生きていくのか、その乖離に気づき、それを埋める生き方が、付加価値ある人生を創る。その成長のモデルの一つが仕事である。

 問題が起きると、目の前の現象ばかりに囚われて、その乖離を無くすために、対処療法でやるから、何時まで経っても課題が解決しない。火事になったら火を消すだけで済ませるから、火事が再発する。

 今の現代病に対する治療もその典型である。高血圧症に、降圧剤を使ってその場しのぎをするから、真の原因がなくならず、後年に癌や認知症の病気になってしまう。医者だけが儲かる罠に堕ちてしまう。自分で考えなかった罰である。

 

仕事の意味

 仕事とは、自分が世の中で生かされて、生きるための方便(仏語)である。人に役立って喜ばれてこそ、仕事である。そう思わない人が、定年後、やる事もなく無為に日々を過ごしていると認知症になりやすい。現在、認知症の患者は約800万人である。65歳以上では15%が認知症といわれる。頂いた命を最大限に使うという使命を果たさないと、天はその人からその能力を容赦なく奪ってしまう。

 

 世の中で必要がなくなれば、死が訪れる。社員を辞めさせるのに刃物はいらぬ。仕事を与えなければ、勝手に辞めていく。人生で、やることが無くなれば、死ぬしかない。朝起きて、息をしていれば、まだこの世でやるべきことがある。それなのに、「起きたけど 寝るまで 特に用もなし」では、死は近い。

Img_47301s

      馬場恵峰書

2020-07-21 久志能幾研究所通信 1673 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2020年4月27日 (月)

狂気の禍を防ぐ佛様 ~ 新型コロナウイルスを考える

 際限なく「大」、「長」、「高」、「過」、「繁」を求めると、「病」や「狂」の世界に入っていく。そして「病」や「狂」がある所には、必ず堕落や不正が発生する。

 

歴史の世界

 歴史上で、長期政権で、腐敗のしなかった例はない。

 大きすぎて、更に成長しつづけた生物、帝国はない。

 癌は無限に「長く」細胞分裂を繰り返して、人の命を奪う。

 高い地位、高い理想を求め続けると、いつしか人は無能の領域に入っていく。

 ナチス帝国主義は際限なく隣国を侵略し続けて滅んだ。

 過剰な民族優秀主義が、ドイツ帝国を滅亡に導いた。

 共産主義は、特定の人に権力が集中し過ぎて、全体の組織がおかしくなった。共産主義は今までに1億人の人民を虐殺した。

 

 大垣の汚川は長く強すぎる権限で水害を流して、組織を腐敗させた。

 それで大垣は衰退した。

 

過・禍を防ぐ門番

 自分の考えを明確にし、他の邪悪な思想に取り付かれないように門番の役目をするのが四天王の役目である。広目天は、目を見開き、高い視点で物を見よと教えている。目や舌や鼻が、食物の危険から身を守るために四天王の役目を果たす。同じように、心に入ってくる思想の正悪を四天王として判断する力を付けねば生きていけない。それが出来ず、滅んだ民族は数知れず。歴史を学ばない民族は滅ぶ。

 自分達とは思想の違う民族が、世界には跋扈している。その歴史事実を認識しないと、無防備に正道を歩くだけでは鬼に食い殺される。自宅でも寝るときは鍵をかけて戸締りして寝るではないか。非武装中立とは戯言である。きちんと戸締りをするから泥棒が入ってこない。プロレスラーに喧嘩を売るヤクザはいない。必要最低限の自衛戦力は必要である。

 トヨタの中興の祖 石田退三氏曰く「自分の城は自分で守れ」。

 

過剰な優秀意識の禍

 アーリア人は「俺たちが一番優秀な民族だ」、「人のものはオレのもの」、「俺の考えが正しいと思うのは正しい」、「だから他の民俗は我々に従うのが当然」との考えで歴史を邁進してきた。力による征服で、従わなければ虐殺、よくて土地の強奪、奴隷として搾取である。原住民との言葉は、「未開の」とのユニアンスがあり、優秀な民族と自負するアーリア人は、罪の意識もなく、やりたい放題で原住民の皆殺しの戦術で世界を席巻していった。そして現在の西洋社会が構築された。中華思想も同じ傾向である。中華思想も自分達が一番偉いとの考えが根底にある。紀元前2000年から続くこの人種の思想はDNAとして今も払拭されず今も鬼畜のように生き延びている。今の中東の紛争は、植民地政策による後遺症であり、アーリア人同士の内輪揉めである。和を重んじる民族には理解不能である。

 

 小川敏は、東大出という意識で、「俺だけが正しい。頭の悪く能力の劣る大垣市民は、俺のやることを黙って見ていろ」で政治を行ったようだ。自分が一番偉いのだとの過剰意識の表れである。それが19年間の政治に見え隠れする。それを小川敏に接した人は全員がそのことを言っている。それこそが大垣を没落させた原因である。

 

アーリア人による民族皆殺しの歴史 

(中国人はアーリア人と同じ思想を持つ)

 イギリスがアテスカ帝国を皆殺し、滅亡

 スペインによるインカ帝国を皆殺し、滅亡

 英国人(現米国人)のアメリカ原住民のインディアン600万人の殺害

  英国が侵略しオーストラリア原住民を皆殺し、植民地として統治

  英国は中国人にアヘンを売りつけ、因縁をつけてアヘン戦争を起した

 列強諸国によるインド、アジア、アフリカの植民地化

 米軍は東京大空襲での民間人10万人焼殺、原爆で20万人虐殺

   山の手周囲を焼夷弾で炎に包み逃げ道を閉ざし爆弾を投下

   広島、長崎原爆は、米軍歴史資料では爆発実験の項に分類されている。

  米軍の日本本土無差別爆撃で、非戦闘員の死傷者100万人

 ヒトラーはユダヤ人を1700万人虐殺 

 スターリンは自国民を2300万人虐殺

 中国共産党は4000~6000万人の自国民、他国民の虐殺

 中国共産党によるチベット民族皆殺し作戦進行中。120万人の虐殺

 中国共産党による仏教寺院の破壊活動(仏教の平和主義は共産党に不都合)

 

過激な思想

 思想に犯されて誤った道の進んだ優秀な若い人たちが、つい最近の日本にも存在した。誤った思想に洗脳されて、赤軍派リンチ事件、地下鉄サリン事件を起こした。普通の人よりも頭の良い高学歴の子達が、である。学校もまともに出ていない狂祖に取り付かれると、正悪の判断もできない地獄の餓鬼道に堕ちる。

 

拝金主義の狂気

 現在は拝金主義という鬼に取り付かれた人が氾濫している。拝金主義に犯されると、貧富の差が拡大した格差社会が出来る。そうなると社会不安が増大し暴動が発生し、最終的には社会が崩壊する。拝金主義者は己の立っている社会が崩壊すれば、己も生きていけないことが分からない人たちである。拝金主義とは、金勘定だけがよくできる餓鬼どもが罹る病気である。

 体に悪いことを知りながら、金儲けのために添加物まみれの食品を売るメーカは死餓鬼ではないのか。

 金や権力、強欲の本能に目が眩むと、どれだけ非道の鬼になれるか、歴史が教えてくれる。その歴史を学校では教えてくれない。学校で習う歴史は、あくまで西洋の視点で、勝者の立場で見た歴史観である。洗脳教科書である。「もっと目を見開いて物事を観よ」と広目天は言う。在れども、その気になって、持てる知識を総動員して視点を変えてみないから、真実が見えない。西洋史観に騙されてはならない。自分を守るのは自分である。自分の城は自分で守らないと家族が殺され国が滅ぶ。

 

自家の戦争被害

 先の大戦で、父の5人兄弟のうち、2名が戦死している。父も戦後2年間のシベリア抑留を強いられた。シベリア抑留では一説に10万人の邦人が極寒の地に散った。ロシアの鬼畜の火事場泥棒による戦争犯罪である。戦争は身近にある。

 

反省の時期

 今までグローバル経済主義が、もてはやされてきたが、それが原因で貧富の差が急激に拡大した。1%の富者が全体の99%の富を独占し、99%の人が貧乏になった。そのため総合的では、人類は不幸になった。新型コロナウイルスの蔓延は、行き過ぎた人の移動の禍の反省を強いている。この疫病は、神が人間の行き過ぎた欲望を戒めるために起こした罰ではないのかと思う。今のように人がホイホイと世界中を走り回るのは、自然界の法則から見て、異常である。人の行動範囲の拡大により、直面した脅威が、人の持つ免疫力の限界を超えたのだ。

 

己の体の狂気

 体に「しすぎる」と、病気になる。ほどほどが良い。食べ過ぎ、夜更かしし過ぎ、仕事やり過ぎ、特定の食品の食べ過ぎは毒である。美味しいものには毒がある。

 人は忙しすぎると、鬱になる。樹木、植物で葉が茂り過ぎた状態である。「忙」とは忙し過ぎて、心を亡くした状態である。

039a1175s

  広目天 大仏師松本明慶先生作  高野山中門 2015年10月8日撮影

  広目天は「もっと目を見開いて物事を観よ」と言っている。

Img_42812

  馬場恵峰書 2012年

  天は苦言を聞けという。それはご先祖様の声。

 

2020-04-27 久志能幾研究所通信 1551 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年11月17日 (日)

ムダという佛様(阿無陀佛)

 人生で一見ムダと思われる修行が、自分を佛に成長させてくれる。人生に無駄はない。無理・無駄・無用のものに成長の糧がある。その糧を消化する道が佛道である。佛道をならうというは、己をならうなり(道元禅師『正法眼蔵』)

  注)「阿無陀佛」の「阿」は親しみを込めて呼ぶ時にその名につける接頭語

 

無理の道

 無理をして佛様に頭を叩かれるから、理にあわないことをしてはダメと気がつく。無理をしない限り出会えない佛様である。無理をせず無為に人生を過ごすと、どの佛様にも出会えない。最期に、地獄道に立つ認知症と言う鬼に取り付かれる。

 無理をして、その時は無理が通っても、10年後に佛様がその咎に利子を付けて請求書を突きつける。それが病気であり不運であり事故である。無理をせず、正道を道理に従い精進してこそ人の道である。急がば回れである。

 

食の無駄の効用

 食生活においても、無駄のない高カロリーの練り物にした宇宙食やビタミン剤だけを食べていれば、偏った体に成長する。低栄養の野菜やノーカロリーのこんにゃく等の繊維質を含む食物を摂取しないと排便が滞り便秘となる。これが長年続くと大腸がんになる。

 精製して雑物が混じっていない砂糖や白米等を食べれば、病気やガンになりやすい。それには穀物にとって必要なもので、人間にとって無駄と思うものが排除されている。生命体に無駄なものはない。その無駄と思われる成分が、人間の健康には不可欠なのだ。

 無駄と思われる果物の皮の部分に抗菌作用、抗がん作用の要素が含まれる。それを剥いて捨て、果実の部分だけを食べるから、病気になる。

 

エリートという選別品

 仕事の世界でもエリートのように、下積みを経験せず、選別された仕事だけを与えられて、超特急の出世コースに乗った人は、偏った労働感が身につき、後年にその咎を受ける。仕事の基本を学べない為である。そんな姫がナッツリーターン事件(韓国、2014年)のような不祥事を起こす。エリート教育を受け苦労をしないで成人した輩が、うつ病になり、新興宗教に嵌り、地下鉄サリン事件を起こす。

 世の中の掟を知らずに過ごした元エリートが、老人ホームで「私の上席はどこですか」と妄言を吐く。それが原因で時には刃傷沙汰となる。

 

「エリートおぼちゃま」から被害を受けた

 私の前職の職場でも、T大学、H大学の大学院を出たばかりの若造が「エリート」と呼ばれて、ちやほやされた。そのため上司である私(当時は主任)は冷や飯を食わされた。学歴重視の役員が、その二人の若造をちやほやし、会社の金で、大学に出向させ、博士号までとらせた。しかし、その数年後、その一人は、処遇が気に入らないと、退社して大学に戻ってしまった。もう一人は、目をかけた役員が力を無くすと冷遇され、そのあげく鬱病になってしまった。その10年後、学閥重視の役員が跋扈していた会社は、同業他社に吸収合併されて、市場から名前が消えた。

 

小川敏の場合

 小川敏は、下済みのサラリーマン生活に堪えられず(推定)、僅か6年で伊藤忠商事を退社して、大垣で家業を継いだ。何を悲しくて、東大を出て超一流企業の伊藤忠に入社したのに、それを僅か6年で退社して、超零細企業の家業を継がねばならなかったのか。今でもその家業の経営は別の人がやっているので、伊藤忠商事を辞める必要がなかったはずだ。当時、超零細企業の家業は、今も超零細である。小川敏はなぜ、家業を発展させられなかったのか。小川敏は、地方都市では東大出というブランドが希少価値なので、担がれて大垣市長になった。

 それで市長になっても、やることなすこと、大垣市民の意識と経済の正道とは乖離した政策を摂った。その18年後の結果が、大垣の没落である。小川敏は、学校のペーパーテストだけの知識偏重の社会では、優秀だが、実社会では無能なのだ。それを市長になるから、大垣が没落した。政治家は結果が総てである。

 この失われた20年間といわれた平成時代、欧米諸国や近隣諸国が発達している中、日本だけが、経済停滞であるのと同じ現象である。今までの知識偏重・学歴偏重のリーダがのさばっているのが、その背景である。小川敏が本物の優秀で智慧ある人間なら、大垣を発展させていたはずだ。家業を発展させたはずだ。衰退した大垣の目の前の現実が総てである。

 

泣いている大垣市民

 大垣の没落で、多くの大垣の商店主が泣いて店を畳んだ。大垣経済が衰退して、多くの人が泣いている。両親が汗水垂らして手に入れた不動産の価値が暴落した。子供のための思い、汗水たらした親が草葉の陰で泣いている。子供たちは、県下最低のエアコン設備率(2.1%)で泣いている。児童生徒は一人当たりの予算費用で、県下最低レベルの環境に置かれて泣いている。こんな環境では、将来の出世競争に負けて、将来は大泣きするのだ。大垣の子供は、小川敏のせいで格差社会の底辺に追いやられて泣くのだ。子供にかける教育費と、将来の年収は比例する。それでいて、大垣市役所職員の給与は県下一の高さなのだ。市職員は市民の貧乏を笑っている。

 

四天王の教え

 人生曼荼羅入り口の中門に立つ四天王は「もっと広い視野、高い見地でものを見よ、もっと法を聞け、黙って国・地域を支えよ。もっと智慧を出せ」と諭している。衆生の愚かさは1200年前から変わっていない。

039a1175s

  松本明慶先生作 広目天 高野山中門

  2015年10月8日 撮影

 

2019-11-16 久志能幾研究所通信 No.1400  小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年5月28日 (火)

両界曼陀羅の佛様との出会い

 人生の短い期間に、出会う佛様(人)の数は限られている。両界曼荼羅では、1,875尊の佛様が描かれている。それは人生で価値ある人との出会いが、物理的に2千名程度しかないとの寓意である。その人からの学びには、正の場合も負の場合もあるが、それは自分の成長次第である。逆縁の菩薩様からも多くの学びがあるはず。その出会いはすべて己の責任である。

 

出逢いの選択

 人の寿命の制限内で、出会う人の数には限りがある。一尊の佛様との出逢いがあれば、もう一尊の佛様とのご縁はこの世ではかなわない。選択とは一方を選べば、もう一方は捨てること。その両方を選ぶから曖昧さを生み、人生の無駄時間を生む。人生では寿命の制限があるからこそ、その出会いに緊張感が生まれる。「人は死ぬ」ということを前提に考えないから、時間と機会を無駄にする。

 

イベントも出会いの佛

 出会いは人だけではない。イベントも一つの出会いである。今回、遠路600キロの旅で、「仙台国際ピアノコンクール」という仏様に出会ってきた。その出会いで、それに関与している佛様達の徳が希薄であることが分かったのが最大の収穫であった。浜松国際ピアノコンクール、高松国際ピアノコンクールの佛様もその徳に高低差があることが分かった。行って会わなければ、それが分からない。分かれば、命を使って会いに行く価値がないので、二度と行かなければ、命(時間)を節約できる。その時間を別の出会いに使えばよい。

 

出逢いの儀式

 ご縁を成就するためには、時間と労力(お金)と情熱が必要である。身を清め、服相を正し、心を整えて、時間を計って、初めて一つのご縁が生まれる。そのご縁が佛様である。だからこそ、出会う人、出合う機会を自分の目で厳選しないと、自分の人生価値が希釈化される。それが選択であり、決断である。

 

仙台国際ピアノコンクールのご縁

 今回の仙台国際ピアノコンクールでも、交通費6万円、宿泊費6万円、時間も5日間を使い、病み上がりで体がまだ辛い時期に、遠路はるばる佛様に会いに行ったのだ。コンクール中は、一日10時間も聴くことに集中しての出会いである。行ってみなければ、それに見合う価値があるか分からない。価値がないことが分かれば、次回から止めればよいのだ。

 

ギブ & テイク

 己がその縁に出会って、相手に与える価値は何か。自分が会うことで、相手の二度と戻らぬ命の時間を奪ってはいないだろうか、自分は相手が期待している成長をしているだろうか。去っていった佛は、自分の未熟さに呆れて、去っていったのではないか。佛が袂を分かち去って行ったのは、全て己の責任である。

 

苦言のギブ

 その佛から不協和音が聞こえれば、身を呈して苦言を捧げるのが、出会った仏様への礼儀である。今回、仙台国際ピアノコンクールでアリーナ席の封鎖という暴挙に出会ったので、責任者に苦言を呈した。しかし佛様からその反応がなかったので、私は、それを別れの啓示と受け止めた。それは無私の佛でなく、無視の鬼であった。愛の反対は憎悪でなく、無視である。音を愛しているから、苦言を呈するのだ。

Img_32292s

 音を観る仏様 聖観音菩薩立像 松本明慶師作

 

赤の郵便ポスト責任論

 郵便ポストが赤いのも、全て己の責任である。己があの時、遊ばずに、もっと真剣に受験勉強をしていれば、東大に入り高級官僚になり、郵政次官、郵政大臣に就き、郵便ポストの色を己の意思で変えられたはずと思いたい。

P1070070s

 仙台国際ピアノコンクール 日立システムズホール 2019年5月25日 09:46

  浜松国際ピアノコンクールに較べると、観客がはるかに少ない。

 

  『吾が人生の師天王』p132より

 2019-05-28   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2019年5月27日 (月)

仕事のオニに開眼あり

大佛師松本明慶佛像彫刻展(池袋東武百貨店)で展示された「魂(オニ)」(NHKBSプレミアムに登場)と「達磨大師像」の前で、松本明慶先生より示唆に富む話を伺った。

鬼とは魂の本体である。「魂」とは「云」と「鬼」から構成される。自分は自分のやっていることを知っている。人が見てないところで怠けていても、自身の内なる鬼は知っている。鬼は「怠けるな」と叱咤激励を「云」っている。それが魂の叫びである。それに耳を傾けるか、耳を塞ぐかで人生(命)が変わる。

鬼の前に天上界あり。鬼の後に地獄界あり。鬼の前に「云」をつけて魂。「仕事」を前に付ければ「仕事の鬼」。誰のせいでもない。自分の生き様が「鬼婆、鬼爺」を作った。鬼には何の罪もない。全て自分が作り出した世界である。

鬼も真正面から向かい合うと、自分の心の奥が透けて見える。ところがサボっていて、鬼から上から視線で見つめられると、心に鬼の視線が突き刺さる。

 自分が仕事の「死(異動、退職、転職)」を迎えて第一の人生を鬼門に送るとき、前の職場の人から「あの人は仕事の鬼だった」と言われるか、「鬼爺」だったと言われるかは、魂とどれだけ真剣に向き合ったかの差である。

Photo_2 「魂」は明慶先生作  「不動心」は馬場恵峰先生書 

Photo_3

馬場恵峰先生書

睨めっこ

明慶先生が「達磨大師像と睨めっこしなさい」と言うので、数分間の睨めっこをした。怖い顔の達磨さんの目が自分を見つめていた。次に「ちょっと横を見て」と言われ、隣の吉祥天像に一瞬、目を向けて(浮気をして)、直ぐに達磨大師像の目に戻すと、達磨大師像はもう私を見ていなかった。佛像であるから描かれた目が動くわけはないが、直前まで確かに私を睨んでいた達磨大師像の目は、別の方を見ていた。達磨大師像が私を見ているのではない。自分の心が、観念でそのように映しだしていた。

 

心の反映

目の前の仕事、目の前の人(恋人、顧客、上司)は達磨大師像の目と同じである。自分がどれだけ真剣に向き合っているか、全ては自分の心が映し出している。心の持ち方次第で、仕事の意味、相手の対応が違ってくる。全て自分の心が映し出している。他人のせいではない、自分が作り出した世界である。自分がその対象物に心身を捧げないと見えるものも見えない。自分の心の格を上げないと、仕事の質も相手の人間との関係も向上しない。目の前の人は自分の心を写す鏡である。自分が見るものは、自分の心が映し出している。自分は何を見ているのか、何を見たいのか、自分が思ったままに、目の前の情景として目に映り、自分の描いた人生シナリオに沿って進行する。タイムラグがあってでも、である。それを明慶先生より示唆して頂き、自分が描く人生シナリオに気がついた。感謝です。

私は毎朝の日課で5kmを散歩する。その道中にある神社仏閣で、お祈りと感謝をし、日々の決意を誓う。神社仏閣の扉ガラス戸に写る己の目の中に、佛の眼を見る。


Photo_4
達磨大師像(松本明慶先生作)

松本明慶佛像彫刻美術館の許可を得て掲載しています


Photo_5
神社のガラス戸に写る自分の目  

エピソード

2013年末に松本華明さん(松本明慶先生の奥様、学芸員)よりお話があり、私の上記エッセイを松本明慶友の会会報『苦楽吉祥』(2014年新年号)に載せていただけた。それに上図の写真を追加したのだが、白黒印刷のため、私の写真が心霊写真のようになり、写真はボツとなった。それでも馬場恵峰先生書「魂」を引用させて頂けたのは幸いであった。その書は、3年ほど前に、入手した板書の一コマである。御縁という花は種を蒔いておけばこそ花開く。

 

2019-05-24   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2019年5月25日 (土)

「命の目」を創造

どんな仕事も一人では出来ない。多くの人の手を介して一つのプロジェクトが完成する。その時、己が担当する部分が全体でどういう位置づけにあるかを理解しないと、付加価値のある仕事は生み出せない。またその仕事が歴史のなかで、伝統を受け継ぎ、それに新たな付加価値を創造していく。新しい取り組みをして伝統を変えていくから伝統が継続する。現状維持だけの伝統技能は廃れていく。その伝統継承の一部を自分が担っているという意識があるかないかで、そこに賭ける命の重みが変わる。

 

目の付加価値

今回、四天王の広目天と増長天(2014年に高野山に納佛)を足元で支える邪鬼の目にも、松本明慶先生と岩田彩色師が創り出した付加価値がある。平成の邪鬼の目には、江戸時代の邪鬼にはない新しい「命の目」が創造されている。命がある目は、何かを観るものに語っている。

その道を極めないと「新しい目」は開眼しない。開眼しない限り、目の前に宝の山があっても見えない。今までの人生という旅で、数多くのご縁の宝を見過ごしてきたのかと思うと、後悔の山である。これからは「命ある目」で巡り来るご縁と接したい。

0

    開眼作業中の岩田明彩師

0_2

0_3

0_4    高野山に納佛した広目天と増長天を支える邪鬼(松本明慶大佛師作)2014

.

2019-05-25   久志能幾研究所通信 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。