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2024年1月11日 (木)

飛龍 地獄を楽園に変える in Sagan

 

現世の地獄

 地獄はあの世にはない。極楽も同じである。今の現世が地獄であり、極楽なのだ。現世を地獄にしているのは、人間の強欲、支配欲で、すべては人間の業からの結果である。

 どんな人間でも条件が整えば、極悪非道のことを平気で成し遂げる。ナチスのアウシュビッツ強制収容所で約100万人のユダヤ人が虐殺された。直接、手を汚したのは、平凡なドイツ国民である。家庭では良き父親であった。彼らは毎週日曜日、教会に行き美しい声で讃美歌を歌う敬虔なキリスト教徒である。人間社会は、いつの時代も地獄を作り出す。それが戦争の時に顕著に現れる人間の業である。

 

 お釈迦様はあの世が有るともないとも言わず、ただ精進せよ、とだけ言い残されて入滅された。地獄極楽の話は、後世の弟子が仏教を広げるために、作り上げたおとぎ話である。嘘も方便である。実際は、現世が地獄極楽なのだ。

 

蓮の花とわさび

 その人間社会の地獄の泥沼の中に咲く花こそが、蓮の花(佛の心)である。強欲の渦巻く泥沼の中に、蓮の花を咲かせるのが龍の力である。蓮の華を咲かせた龍は、昇龍となって翔ぶ。その龍の正体は、昇華された高尚な自分の精神である。その姿こそが飛龍であり、昇龍である。

 

 蓮の華に対比されるのが、ワサビである。ワサビは清らかな水の中にしか生息できない。まるで純粋培養されたエリートの育て方そのものである。真の佛は泥沼から生まれる。

 

アウシュビッツ強制収容所で

 第二次世界大戦中、精神科医のフランクルは、生存率0.052%の地獄のアウシュビッツ強制収容所で生き延びた。彼が生き延びるために取った行動は、

 

働ける体であるように見せる

  働ける状態でなければ、自動的にガス室行き

常に若く見えるように、立ったり歩いたりする時は背筋をピッと延ばしていた。

  若く見えるように髭を毎日剃った。

  最後のパン一切れを人に与えても、ガラスの破片で髭を剃ってもらった。

病気にならない   病人になれば、自動的にガス室行き

常に未来を信じる

  近い将来、講演会で自分が演説している姿を思い浮かべた。

収容所での苦しみは意味があると認識

  無意味だとすると生きることの価値が無くなる

愛する人との魂での会話

感動を失わない

  沈みゆく太陽の夕焼けの風景に感動

ユーモアを失わない

  自分を見失わない魂の武器

 

 彼は戦後、アウシュビッツ収容所での生活を『夜と霧』という著書で紹介して、生きる意味を世界に問うた。彼の精神は龍となり、世界に飛んだ。

 

彼がアウシュビッツで得た人生の結論

 生きるとはつまり、(生きる義務を引き受ける行為)

   ・生きることへの問いに正しく答える義務

   ・生きることが各人に課す課題を果たす義務

   ・時々刻々の要請を充たす義務

 苦しむとは何かをなしとげること

 

今の生の意味

 私の父は戦後、シベリアに強制抑留をされた。父が生き延びて帰国してくれたので、今の私の生がある。アウシュビッツ強制収容の話は他人ごとではない。シベリア抑留の死亡率は10%と言われるが、シベリア抑留の当初は、ソ連側の準備不足で死亡率80%であったという。父の弟の叔父はシベリアの土になった。従弟は父の顔を知らない。

 

「辰づくし」展

 昨年末まで、Saganで開催されいた「辰づくし」展で、中島法晃師の「楽園」と「現象」を入手した。強欲が渦巻く泥沼の現世を「楽園」、飛龍の姿を「現象」と表現された中島法晃師の高観に脱帽である。

 龍は想像の動物であるが、確かに龍とは、己の精神状態を表す「現象」である。

 

 久志能幾研究所通信  志を持て!龍になれ 孤龍興雨 in Sagan

 

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 中島法晃 画   「楽園」(下側)と「現象」(上側)

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  中島法晃 画   「現象」部分

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  中島法晃 画  「楽園」部分

 

 

2024-01-11  久志能幾研究所通信 2801号  小田泰仙

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2024年1月 9日 (火)

昇龍力 亀山を大龍壁に変える 43inchモニター

 

 1月6日、13年間使ったシャープ亀山モデル32インチTV(PCモニターとして使用)を、43インチ4KのソニーTVに更新した。

 これは年末年始に何かに憑かれたようで(龍に憑かれた?)、数日迷って、購入を決めた。

 今まで使ったシャープTVは、当時の名機で、フルハイビジョンで当時価格11万円。

 今回のソニーのモニターは、それより2割ほどしか変わらない値段で、43インチになり、4Kとなって情報量が格段に増えた。テレビは映さないが、YouTubeは見る。

 これは樋口ナオミさんの「昇龍」を書斎の東壁に掛けたご利益のようだ。それで気持ちが上向きになった?

 

  

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  今回更新 ソニーの43インチモニター

  机は手元側に10cmほど広げた。

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 更新直前の姿 シャープ亀山モデル32インチモニター

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  昇龍  樋口ナオミ 画

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巨大な龍

 43インチモニターをまじかで見ると、まるで目の前に巨大な龍の壁が立ち上がったように感じた。画面が圧巻の迫力で感激である。43インチなので文字も大きく見やすい。これは春から縁起が良い。

 

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    目の前に巨大な龍の壁が立ち上がったようだ(眼の高さでの視野)

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 後で調べたらシャープのTVは、偶然、2011年同月同日の1月6日に買った。実に13年間も故障もせず、現役で働いてくれた。感謝である。高くても良いものは長く使えて、結局はお得という証しである。このモニターは、まだ引退はさせず、別の場所で稼働予定である。

 当時は、亀山ブランドの液晶はピカピカのブランドであった。今の惨状が情けない。その原因は、技術者と機密情報を大事にしない経営者、政府の責任である。

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 シャープ亀山モデル32インチTVに貼られたシール

 

当初計画

 当初は、シャープのモニターの後継として、EIZOの32インチの4Kモニター(一台14万円)で、2台を並べる予定であった。それで2台も並べると総額30万円弱もかかり、場所も大きく取り、購入を躊躇していた。

 また32インチの4Kモニターでは字が小さくなり、目の悪い高齢者には辛いのだ。それで43インチの選択である。

 今回、複数台の設置を止めて、一台の43インチのモニターにすることでスッキリした。それもEIZO版単体より安く、2台なら半額以下の激安である。

 

エピソード

 このモニターを設置してくれた配送業者の人からのお叱り?の一言「ソニーの最高機種TVをPCモニターに使うのは贅沢だ。こんなのは初めて見た。43インチなら、普通の人は安価なモニターを使っている」と。

 確かにネットで見ると、メーカ品でなければ3万円台で43インチモニターが手に入る。これはお褒めの言葉として受け止めた。贅沢は敵ではなく素敵だ。

 私も歳なので、大きな作業画面で、効率よく、ストレスなく仕事をして、いい思いをして旅立ちたい。

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2024-01-09  久志能幾研究所通信 2799号  小田泰仙

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2024年1月 1日 (月)

謹賀新年 虎視昇龍 in Sagan

 

 明けましておめでとうございます。

 世の中を虎の眼で俯瞰し、龍が天に昇る勢いにあやかる。

 今年は、「虎視昇龍」を標語に精進します。

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  昇龍  樋口ナオミ 画

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 今年でガン手術後、やっと5年が経った。手術後に担当医より5年後生存率51.6%と宣告された。それから抗がん剤治療の薬物医師とけんか別れをして、真のがん再発防止策を模索して、東奔西走してきた。

 病状を虎の眼で視て、その真因を探し求め、やっと少し体力も回復し、天に昇る準備も出来てきた(昇龍?昇天?)。戒名も授かり、墓誌の刻印もし、看取り士の資格も取った。今はその前の平穏な日々を過している。

 樋口ナオミさんの画かれた「昇龍」を書斎に飾り、それを眺めて英気を養っている。

 

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学び

 今回、がんになって学んだことは、病気を治すには、「病(やまい)」を西洋医学で取り除き、やまいの「気」を東洋医学で治す必要があることだ。一般の人は「病」(病巣)を手術で取り除くだけで、がんになった真因を取り除かないから、またがんが再発する。

 そのためにやまいの「気」を治さねばならぬ。がんと喧嘩腰で闘っては、治る病気も治らない。「がんと闘う」とは間違った考えだ。がんが自分の生き方の間違いを教えてくれた。その間違いを正すのが正しい対処のしかたである。

 また病気を治そうという「気」を持たねば、病気も治らない。死亡率50%の医師の宣告を信じて、医師まかせでは、本当に死んでしまう。それは洗脳だ。医師だってがんがわからない。自分でがんを治す「気」を持つ、死んでたまるかという「気」を持つことだ。

 

 ガンになった真の原因を探し、宇宙根源の理にならい、がんと共生するのが、ホリスティック医学である。私はがんになり多くの学びを得た。それで生活習慣、食事習慣、自然観、人生観を見直すことが出来た。がんになり、多くの出会いがあった。

 人生は出会いの集積であり、縁起である。病気と言う縁にあった。それを毛嫌いするのも、その原因を探求するのも、ご縁との接し方次第である。私はがんに出会い、人生観をかえることが出来た。がんに感謝である。

 

 皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

 

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2024-01-01  久志能幾研究所通信 2793号  小田泰仙

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2023年12月30日 (土)

虎視昇龍 継続という名の神通力  in Sagan

 

 龍は架空の動物である。青春が実際の年齢を表すのではなく、心の状態を言うのと同じように(『青春という詩』)、龍も己の心の状態を表した現象である。

 

70年、昇龍の如し

 EV化は、ガソリン車ではトヨタに勝てない欧州勢や中国が仕組んだトヨタ潰しの陰謀である。EVは少しも省エネでもないし、脱炭素化でもない。世界の全車がEV化すれば、地球規模でエネルギーが足りなくなり、現代科学技術社会が崩壊する。そもそも全ガソリン車を電気自動車に置き換えようとしても、その電池を作る素材の絶対量が地球上には存在しない。 

 トヨタはEV化が遅れていると非難されていたが、トヨタはそんな批判を聞き流して、虎の眼で世間の愚かさを睨みながら、黙々と次世代の車の開発を進めていた。トヨタは全方位戦略で、ハイブリッド、プラグイン、水素、電気、等と開発を進めてきた。それの努力が実り、自動車メーカ間では、トヨタは昇龍のような状態となった。それはトヨタマンが創業者の社是の精神を守り、愚直に開発を継続した結果である。

 

 10年、偉大なり。

 20年、畏るべし。

 30年、歴史になり。

 50年、神の如し。(中国の格言)

 70年、昇龍の如し

 

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  昇龍  樋口ナオミ 画

  

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豊田綱領

一、上下一致、至誠業務に服し、産業報国の実を挙ぐべし

一、研究と創造に心を致し、常に時流に先んずべし

一、華美を戒め、質実剛健たるべし

一、温情友愛の精神を発揮し、家庭的美風を作興すべし

一、神仏を尊崇し、報恩感謝の生活を為すべし

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 「豊田綱領」とは、豊田佐吉の考え方を、豊田利三郎、豊田喜一郎が中心となって整理し、成文化したもの。佐吉の5回目の命日にあたる1935年(昭和10年)10月30日に発表された。

 トヨタグループ各社に受け継がれ、全従業員の行動指針としての役割を果たしている。(トヨタ自動車のHPより)

 

 トヨタはド田舎の名古屋の辺地の車メーカとして、長年、軽視されていた。トヨタは黙々と技術開発に勤しみ、会社創業90年で、世界の頂点に達した。トヨタは3年連続で、世界一の生産台数である。70年前の倒産寸前の状態から見れば、トヨタは昇龍の如くの発展である。

 

トヨタの再生

 トヨタ自動車は、ドッジ不況に苦しみ、労使紛争で1950年(昭和25年)、倒産寸前まで行った。社長の豊田喜一郎が退陣して、再興に向けて豊田自動織機の社長、石田退三が陣頭指揮をとることになった。石田退三は豊田自動織機の社長のまま、すぐに社内を飛び回り徹底的なコストカットを断行した。

 鉛筆は持てなくなるまで捨てずに使い、紙は裏紙まで使う。とにかくお金を1円でも無駄にしない働き方を自らも実践した。絞った雑巾をさらに絞る、とまで揶揄された徹底ぶりである。そんな石田退三を規範として、多くの社員が無駄を極限までそぎ落とし難局を乗り切ろうとした。そんなトヨタに朝鮮動乱の特需が舞い込み、倒産寸前のトヨタ自工を救った。

 会社存亡の危機が去ったトヨタは、その後、愚直にその創業の精神を継続して、70年かけてトヨタ自動車を世界一の自動車会社にした。つまり昇龍した。

 その根底には、質実剛健、神仏を敬い、感謝、報恩の精神があり、全社一丸となって邁進したことだ。

 50年前、私が就職活動をした当時は、「技術の日産、販売のトヨタ」と呼ばれていた。今は、日産は見る影もない。当時の百獣の王は没落して、ゴーンというドラゴンにかじり尽くされた。

 

烏合の衆からの非難

 一時は、日本政府でさえ、地球温暖化の虚言を信じて、トヨタはEV化が遅れていると非難していた。拝金主義に染まった日経新聞では、それを報じる嵐であった。それは日本を貶める売国奴の所業である。それが株価にも表れていた。

 テスラの2022年度の生産量は136万9611台、それに対してトヨタは1072万9298台である。生産規模で10倍の差があるのに、極小メーカのテスラの時価総額がトヨタより大きくなるのが異常である。

 市場は狂っていた。そしてEV化の嘘をバレて、テスラ株の暴落である。そんなことは常識で考えればわかる話だ。その陰でテスラ株を売り抜けて大儲けしたドラゴン(悪の権化)がいる。欲にかられた愚かな民が、地球温暖化の陰謀論者に騙されてテラス株を買わされた。完全なる偏向報道、偏向非難で、世界はドラゴン(悪の象徴)に洗脳された状態である。

 

出来の悪い息子

 最近、トヨタに絡む不祥事が起きている。ダイハツ、デンソー、日野自動車等の事件である。人間の人生も会社人生も同じで、90年も会社業をやっていると、息子の独立、養子縁組等の会社再編成が起きる。

 不祥事の原因は、その息子たちが、親のトヨタの愚直さについていけなかっただけのことだ。

 ダイハツは大阪の名門としてのプライドが高い。その割に実力が無く、トヨタが要求する開発スピードについていけず、不正で国の審査を胡麻化しただけの事件である。それは私が部品メーカの開発部隊として、顧客のダイハツと打ち合わせの場で感じた印象である。ダイハツはトヨタの門に下ったのに、ダイハツの技術陣は、妙にプライドが高く、親会社のトヨタを見下していた。

 デンソーと言う息子は超優秀で、出来は非常に良かった。しかしそのプライドの高さと独立性の意地で、トヨタが辟易していた。当時の技術の天皇と言われたトヨタの役員がデンソーには行けず、アイシンに天下った事件があったほどだ。

 

 ライバルの海外メーカは、トヨタの技術に追いつけず、フォルクスワーゲンに至っては、排ガス検査で不正をしていた。それが露見して、その穴埋めで、EV化に走ったという顛末である。それで更に地獄への道に入っていった。

 技術に劣るルノーは、内部紛争に明け暮れている日産に目を付け、ゴーンを送り込んできた。フランス人は狡猾である。フランスは今でもアフリカ諸国を植民地扱いして搾取している。

 アメリカの三大自動車メーカも今は見る影もない。トヨタの先生であったGМは倒産し、政府の金でやっと息を吹き返した。フォード、クライスラーも影が薄い。

昇龍した龍は孤高孤独なのだ。

 

「虎視昇龍」は竜驤虎視を元に創作した熟語である。

竜驤虎視(りゅうじょうこし):意味:威勢が強く、世間を睨みつける。龍が天に昇るように勢いがあり、虎のように世間を睨みつける様を表す。

 

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  干支の虎  松本明慶工房作

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2023-12-30  久志能幾研究所通信 2791号  小田泰仙

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2023年12月15日 (金)

「ルシア祭の歌と忘年会」のご縁

 

 12月10日、ご縁がありスウェーデン協会主催の「ルシア祭の歌と忘年会」に参加してきた。私はスウェーデンには、1985年に5か月間程滞在した経験があり、懐かしさが一杯である。私にはルシア祭は初体験で楽しかった。忘年会もアットホーム的でよかった。出された料理も、スウェーデン特産の品が多く、美味しかった。美味しいというホット赤ワインも出されたが、禁酒中の私はパスであった。スウェーデンでの黒歴史を思い出した。

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スウェーデン滞在中の黒歴史

 私はスウェーデンで最初の現地の人との食事会のおり、アルコール度60度?の酒を乾杯として飲まされた。それはマイナス20℃で半ば凍っており、トローっとしていた。彼らは「スコール(乾杯)」と言って小さな杯を上げ一気に飲み干した。私もつられて一気に飲んだ。その酒は少し甘く美味しかった。しかしそれはダイナマイトであった。30分後、それは胃の中で爆発した。私は倒れてしまう醜態をさらした。ホテルの自室に担ぎ込まれたが、しばらく天井が回っていた。そうか!スウェーデンの天井は回るんだ!(笑)

 同席した3人の会社仲間は、海外出張の経験が多く、そういう酒の恐ろしさを知っていて、乾杯でもコップを舐めただけで飲まなかった。そんなことを知らない私はダイナマイトを飲み干した。知らないということは恐ろしい!

 寒い国では強い酒が当たり前のようだ。アル中も多い。だから17時までは、酒類の販売は法律で禁止されている。

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ご縁の来訪

 その忘年会で、渡辺陽子さんの友人から今の日本が抱える「病気」を治すヒントを教えてもらった。

 

 スウェーデンの国土は日本の1.4倍、土地は湖だらけ、人口は日本の10分の一で、資源も乏しく、気候は厳しい、それでいて国は豊かで、一人当たりのGDPは日本の2倍近い。スウェーデンはこの200年間、戦争をしていない。この差は何? 

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黒発言?

 この忘年会参加のスウェーデンに滞在経験のある女性に、「スウェーデン女性はキレイな人が多いですね」と発言したら叱られてしまった。女性に対して、そういう表現はしてはいけないそうだ。女性に対して、美人かどうかなどの評価をしてはいけないそうだ。それがジェンダーフリーの考え方だそうだ。

 日本はまだまだ男社会のようだ。私みたいなオジサンはスウェーデンでは失格のようだ。

 それを教えてくれた日本女性は、「でも、男の人から美人だと言われる嬉しい」と本音を言ってくれた(笑)。この忘年会で、「日本で暮らして、良かった」と再確認した。世界は変な方向にむかっている。日本のジェンダーフリー法は、その女性が反対している。増税メガネの無節操政治の弊害である。

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 日本が抱えている課題の解決ヒントは、どこに転がっているかはわからない。来たご縁を大事にすると、向こうから新たなご縁が転がってくる。今回は、先月、Gallery Saganで人形展を開催した渡辺さん(私が敬愛する「魔女」さん)から頂いたご縁である。その方は渡辺さんの友人であった。渡辺さんから入手した「バイオリンを持つ少女」人形がご縁を運んでくれた。渡辺さんにお礼を言いたくて、「ルシア祭の歌と忘年会」に参加したのが、今回のご縁である。感謝である。

 来たご縁に遠慮はいらない、縁慮で行こう。

 私の方針は、来る縁は拒まず、去る縁は追わず。

 

久志能幾研究所通信  魔女からの贈物 夢見るバイオリン弾き少女

 

 その日本病の解決ヒントの解析は、別途報告します。今回は忘年会の報告です。

 

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 人形は渡辺さん製作

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 ルシア祭の歌を歌う子供達

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 スウェーデンの伝統の蝋燭

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  会場は名古屋・ダイニングバー フォーシーズンズ


 

聖ルチア聖人祭

 聖ルチア聖人祭は、キリスト教の聖人聖ルチアの聖名祝日を祝う行事で、12月13日に行われる。クリスマスシーズンのアドベント(待誕節)が始まるころに行われる。西方教会では伝統的に重要な聖名祝日で、スカンディナヴィア諸国と南欧が主として伝統的行事としている。

 16世紀にグレゴリオ暦が改訂されるまで、聖ルチア祭は北半球の冬至の日であり、スカンディナヴィア諸国では、12月13日に一家の子供の中で年長の少女が祝祭に参加する。

 

 少女は聖ルチアに扮してロウソクの冠を被り、ロウソクを手に持ち、同じ扮装をした少女たちと一緒に行進する。ロウソクは、生命を奪うことを拒む、火の象徴である。少女たちはナポリ民謡『サンタルチア』のメロディーを歌いながら部屋へ入ってくる。この歌はナポリの美しい港の情景を歌ったものだが、スカンディナヴィア諸国の詩ではルチアが闇の中から光と共に現れたという内容になっていて各地域の言語で歌われている。

 

 ユリウス暦によると、ルチア祭の夜は一年で最も夜が長い。雪が降る前の11月と12月の夜は非常に暗く長いことから、闇から光が現れたという考えが、特に北国で伝統的に支持されてきた。

  

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 ルチアの歌を歌う子供たち。スウェーデン

 

 スウェーデンでのルチア祭は、再生の意味を帯びる。ドイツで女児をもつプロテスタントの一家が、子供に『子供のキリスト』の扮装をさせクリスマス・プレゼントを手渡した、という行事が持ち込まれた。クリスマス・イヴに、子供の頭にロウソクのリースを飾り、飴やケーキを手渡す。白いドレスを着た女性が頭にロウソクを飾り、ルチアの日の朝に現れるという現在の内容と似ており、1700年代後半のヴェーネルン湖周辺の地方からゆっくりと国中に広がり、1800年代には全国で見られるようになった。聖ルチア祭はスウェーデンの休日ではないが、国で親しまれる行事である。

この項、ウィキペディア「聖ルチア聖人祭」を編集

 

2023-12-14  久志能幾研究所通信 2786号  小田泰仙

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2023年12月 2日 (土)

志を持て!龍になれ 孤龍興雨 in Sagan

 

 岐阜市川原町 Gallery Sagan で辰を特集した「辰づくし展」が開催されている(12月1日~12月26日)。その龍たちを見て、下記の感想を持った。

 龍は架空の動物である。その架空の動物をいかに本物の生きもののように表現するかで、芸術家の力量が問われる。各作品をそういう目で見ると、興味深い。

 龍は縁起物である。来年は辰年である。この展示を見て、龍になる勇気をもらった。

 公開

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志は龍になる 

 高い志を持って行動すれば、同志は自然に集まってくる。最初は一人で始めた行動でも、強い信念と強烈な熱意があれば、それが起爆剤となり、人を動かし、世の中を動かし、世間に恵みの雨を興す。

 龍が空で高く吟ずると雲が起こり、霧が湧いてきて雨を降らす。龍は水の神様である。

 力量のある人物がものを言えば、この無心な自然界も自ずからそれに沿って動き始める。そんな人には龍が宿っている。

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東洋のドラゴン観

 だから弁財天の頭には、宇賀神様の龍が彫られている。弁財天の起源は古代インドの聖河サラスバティーを神格化した女神である。水の神であり、豊穣をつかさどる神として、信仰をあつめた。弁財天の頭上には農耕の神・宇賀神(髭を生やした老人で、体は白蛇体)を頂くお姿として祀られるようになった。日本人は一木一草にまで神仏が宿るとして、自然を崇拝してきた。龍もそんな信仰から生まれた架空の神様である。日本人は自然を畏敬の念で接している。それが龍の存在で象徴されている。

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西洋のドラゴン観

 それに対して西洋では、人に理解できない様な生物を恐怖の対象として 「ドラゴン」と称していた。キリスト教が世界で実権を握るようになると、 キリスト教に逆らうモノ・・・悪魔や異教の神を ドラゴンと称して「悪しきもの」とする様になった。自然とは、征服するものという観念で見ている西洋人と日本人の差は、「ドラゴン」の扱いでも明確に差が出ている。

 最近は西洋の拝金主義者が唱えるグローバル経済主義に汚染されて、世界と日本社会がおかしくなった。戦争が起こり、行き過ぎた脱炭素運動が展開されている。

 日本の元からある自然との共生、社会との共生を元にした人生観自然観を大事にしたい。その象徴が龍である。世界の中で日本一国だけでも、その志を大事にして世界に恵みの雨を降らせよう。

 

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 吉川充作  青白磁辰 香合

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吉川充作  青白磁辰 香合

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 下田心一 作

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  下田心一 作

 

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池田彩恵 作

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池田彩恵 作   手が可愛い

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池田彩恵 作

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池田彩恵 作   香炉

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池田彩恵 作   香炉


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 池田彩恵 作   香炉

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池田彩恵 作 ドラゴンとお線香立て

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 樋口ナオミ 作

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 樋口ナオミ 作

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 樋口ナオミ 作  昇龍

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 樋口ナオミ 作

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  田中暁子 作

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  田中暁子 作

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  田中暁子 作

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 長田けい子 画

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中島法晃作

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  中島法晃 画   部分

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  中島法晃 画  部分



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 中島法晃作

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 中島法晃作

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 中島法晃作

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鈴木信子 作

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 鈴木信子 作

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 鈴木信子 作

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  田中暁子 作   土鈴


 

2023-12-02  久志能幾研究所通信 2781号  小田泰仙

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2023年11月26日 (日)

魔女からの贈物 夢見るバイオリン弾き少女

 

 Gallery Saganで開催されていた「渡辺陽子人形展」で、渡辺さんが作る人形に何か惹かれ、「バイオリンを持つ少女」を入手した。

 美術品は講釈抜きに、自分が気に入れば楽しめばよいと思う。蓼食う虫も好き好きである。芸術の「芸」は「草冠」と「云」からなり、「云」は匂いのことである。つまり匂い草の象形文字である。匂いは、特定の時代、特定に環境、特定の人の場合のみに通用するものである。それが芸術である。だからゴッホの作品は、時代が変わらないと評価されなかった。

 きっと私は魔女の渡辺陽子さんに魔法をかけられたのだろう。渡辺さんは魔女の様に神出鬼没で(魔出魔没?)、人と話し込んでいると思ったら、いつの間にか、ほうきに乗ってどっかに飛んで行ってしまっている? 私は敬意をもって、渡辺さんを「魔女」と呼んでいる。

 

 当初、この娘をピアノの上に飾ろうと思って入手した。「彼女」は何故かこの人事異動?を拒否して、今も居間のテーブルの上に鎮座している。彼女は夢見るような目つきで遠くを見つめている。

 

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夢を見続ける

 私も叶わぬ夢を見続けている。夢があるだけ幸せなのだ。夢なき人生は虚しい。その夢を実現するために、前に向かって歩くのが人生なのだ。それも一生かかっても実現できない大きな夢を抱いて人生を歩くべきだ。夢の実現のため、道なき道を歩いてきた後ろに道が出来る。

 漢字の「道」の語源は、魑魅魍魎が住むと言われた古代中国の城壁の外を「生贄の生首」を魔除けとしてぶら下げ、恐る恐る歩いて出来た跡を「道」と称した象形文字である。シンニュウは、十字路の象形文字である。

 直ぐに実現できてしまう夢は、真の夢とは言わない。それは単なるルーチンワークである。

 人は全く可能性のない事を夢見ない。少しでも可能性があるから、夢として思い浮かぶのだ。誰も自分にアメリカ大統領になる夢を持てとは言わないし、自分もなりたいという夢は抱かない。

 どうせ夢を抱くなら「倍の大きさではなく、一桁大きい夢を抱け」が、トヨタ式の考えである。大法螺と言われてもよい。実現すれば、法螺ではなくなる。

 

 永眠してしまえば、夢を見ることが出来ない。夢を見ることは生きている証。生きているのに、夢を見ないのは、病院のベッドの上で生き永らえていると同じ。それは死んだ人生だ。夢を見るのに、齢は関係ない。老人だからこそ、今までの経験を元に大きな夢を持とう。実現できなくても、後継者がそれを叶えてくれる。

 

 夢の世に 夢みし夢は 夢ならで 

 夢見ぬ夢こそ 夢と知れ

 

 

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 馬場恵峰書

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2023-11-26  久志能幾研究所通信 2778号  小田泰仙

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2023年11月21日 (火)

巡礼 福田公美 仏教美術の日本画 in Sagan

 

 西洋画の展覧会では、殉死、磔、煉獄、最後の審判等のキリスト教に関する絵画が多い。

 人は幼少の頃、家庭でどういう教育環境で育てられたかで、その人の性格が決まる。特に画家や芸術家の性格は、その影響度が大きいようだ。日本画家の祖父祖母の後姿を見て育った福田公美さんは、その影響が画風に出ているようだ。

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国別の子どもの教育方針は、

 中国人は、人に騙されるな。

 韓国人は、人に負けるな。

 欧米人は、権利を主張せよ。原罪を意識して愛に生きよ。

      神の前での最後の審判を考えよ。

 日本人は、人に迷惑をかけるな、お天道さまが見ている、である。

 その背景に神仏は一体、輪廻転生、一木総神仏という考えがある。

 

国別で人間は、行動規範を

 ユダヤ人は宗教に求める。

 ギリシャ人は哲学に求める。

 ローマ人は法律に求める。

 中国人は騙されないために、自分が法律主となり、人治に走った。

 日本人はお天道様に行動規範を求めた。それは自然との融合である。

 

福田公美さんの「転生」を見ていて、上記の事を思い出した。

 

宗教観と絵画

 日本では神仏一体の考えがあり、自然との融合の宗教観がある。自然の全てに神が宿り、動物や植物はヒトの生まれ変わり、という輪廻転生の仏教思想がしみ込んでいる。一木総神仏とか、自然界の生き物には全て神仏が宿る。

 だから狐の嫁入りやキツネに騙された話とかがあり、温かい物語として、親から子供へ昔話として聞かされる。また伏見稲荷のように、キツネ様への信仰等がある。

 古代の人々は、人間や動物などの生物だけではなく、植物、天体、無機物のものまで、すべてのものに霊魂が宿っていると考えていた。

 このような自然信仰(アミニズム)があり、人々は自然を神様として崇敬し、その崇敬の心から祭る(祀る)ようになっていった。日本は仏教が伝来する前から、自然信仰があり、農作物を荒らす小動物を退治するキツネを大事にする信仰が仏教と融合して育ってきた。

 そういうことを大事にする家庭に育つと、輪廻転生のような思想で自然界の風景を描くことが自然となる。

 西洋の絵が、多くはキリスト教の原罪、最後の審判に影響を受けた絵が多いのは、その思想の背景があるからだ。

 2023年11月、愛知県美術館で開催された「第86回 新制作展」で出展された絵画でも、そういう原罪、最後の審判をイメージする絵画が多くあり、日本画の花鳥風月、仏教画風の画調とハッキリと隔てられている。

     

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     第86回 新制作展    「罪をさし出す」木滑美恵 画

  賞をもらうだけあって、描写力は素晴らしい。

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  第86回 新制作展    「colourⅠ」「colourⅡ」 藤川妃都美 画

   日本画として、自然との一体感が良く描かれている。

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 仏教の輪廻転生では、時間の経過で世界は回っている。仏教は因縁と時間の経過を啓示した哲学の宗教である。それが西洋の宗教とは違った位置付けである。キリスト教はキリストの愛の物語である。後世に神学の哲学が結びつけられた宗教である。(石原慎太郎氏の分析)

 日本の仏教は古代のアニミズムと融合して、輪廻転生、お天道様崇拝、神仏一体、自然界に神仏は宿る、を受け継いでいる。

 

転生

 福田広美さんの描いた「転生」には、その思想が色濃く出ている。これは仏教美術である。

 二匹のキツネの一匹は口を開き、もう一匹は口を閉ざす。陰陽の世界である。東大寺の仁王様像も阿形は口を開き、吽形は口を閉じる。高野山中門の持国天は口を開き、広目天は口を閉じている。陰陽の現れである。

 二匹のキツネは円を描くように金色の世界を回って走っている姿が描かれている。輪廻を象徴した形である。

  2匹のキツネはSの字のようにも見える。私は卍の形を連想した。

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 福田公美画 「転生」

  第3回ぎふ美術展(2021年)  奨励賞

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福田公美画 「転生」 部分

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福田公美画 「転生」 部分

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 持国天 松本明慶大仏師作 高野山中門 著者撮影

 口を開いた持国天。胸のトンボは、決して後ろ向きには飛ばないという決意を表している。

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 広目天 松本明慶大仏師作 高野山中門 著者撮影

 口を閉じた広目天。胸のセミは、その鳴き声(仏法の教え)が、お寺の鐘の音のように、遠くまでが届くようにとの願いである。



エピソード

 私はこの絵が気に入って、売って欲しい言ったが、非売品ですと福田公美さんに断られた。それで良かったと思う(笑)? 「売ります」と言われたら大炎上である。今のままでは、こんな大きな絵を飾る場所が無い。もし入手できれば、5千万円の家を新たに買わないといけない。お金を作るため、銀行強盗でもしなくてはならない? それではお縄頂戴である。絵と家と人格はセットである。絵も適材適所、分相応なのだ。ウサギ小屋に50号の大きな絵は似合わない。それが名画の悩みである?

  欲しい絵が手に入らないのは、自分の人格、財力が足りないよ、との仏様の啓示であろう。絵が持てることは、宇宙根源の理のバランスである。それは陰陽のせかいである。絵の価値に見合った人格を作れとの神仏からの啓示である。

 

盲亀流木のご縁

 人が生まれる確率は、一億円の宝くじが連続で100万回当たると同じである(村上和雄筑波大学名誉教授)。福田公美さんの「転生」は第3回ぎふ絵画展で奨励賞を獲得している。それを考えると、福田公美さんの「転生」に出会えたのは、盲亀流木のご縁と同じである。そういうご縁に出会ったことに感謝である。

 

 

2023-11-08  久志能幾研究所通信 2775号  小田泰仙

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巡礼 陶と日本画展 髙山大 福田公美 in Sagan

 

 2023年11月3日~11月23日(21日は臨時休廊)、岐阜川原町のgallery Sagan で上記展示会が開催されている。

 

 髙山大さんは陶芸家であり、僧侶である。僧侶の眼で、仏法を陶器のオブジェの形にした芸術作品である。具現化とは、オブジェ「鳴舞耳得」である。

 

鳴舞耳得

 全てのモノには命があり、精霊が籠っている。モノは何かを伝えるため、鳴き、舞っている。だからモノは「耳」で見なければ、真の姿は見えない。見えれば得をする。その得を受けるには、人として感性が高くなければならない。その感性が高い人が、精神性が高い人である。

 「耳」とは「目」の文字の四方八方に角が伸びた形である。つまり全身を使って「観る」である。

 「得」とは佛語で、体験から得る利益・功徳のことである。仏教用語の「利益(りやく)」とは、「ためになること、益を受けること、功徳、利徳」をいう。 特に「仏の力によって授かる恵み」を意味する。

 

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 黒陶の焼成(籾殻燻炭)方法

 籾殻燻炭とは、 燻炭器を使用し、籾殻の山の中に作品を埋めて焼成(推定500度)する。約6時間後に窯出し、籾殻が焼けた煤が作品に吸着し、作品は炭化「黒陶」となる。

 1回焼成では大きな作品は黒くならないので、2回、3回と籾殻燻炭を繰り返す。焼成が6時間を超えると、籾殻炭は灰になり、吸着した煤が焼け飛び、作品は素地色に戻る。作品の一部分褐色は、籾殻の量が少なく炭化せず、黒陶にならなかった素地色の箇所である

 

 黒陶の作品の黒色は、陶芸技法の「黒陶」である。黒漆を塗ってはいない。漆は、あくまでも補強と防水のためのコーティングで、素地の黒陶が現れるように透き漆で拭き漆をしている。色付きの漆で着色する事は、陶芸家としての範疇を超えてしまうと髙山大さんは思っているので、黒漆や赤漆は使っていない。また、漆の定着方法も漆室を使わず、焼く事に拘り、電気窯で焼き付けをしている。

 

 

仏壇のリフォーム

 何か感じるものがあり、髙山大さん製作の黒陶の盃と蓮の形の皿を入手した。

 先日、祖母の50回忌を執り行った。そのご縁で、今回の髙山大さんの陶展に巡り合ったと感じた。それで30年経った仏壇の備品のリフォームとして、今までの市販の陶器の白い盃とプラスチックの茶菓用皿を髙山大さんの陶の盃と蓮の形の陶の皿に更新した。よき供養だと思う。

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2023-11-21  久志能幾研究所通信 2774号  小田泰仙

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2023年11月 6日 (月)

巡礼 福田公美、日本画展 懐かしい記憶に和の香り in Sagan

「福田公美 日本画展」

 場所 岐阜市 川原町 Gallery Sagan

 期間 11月3日~11月23日 (水・木 定休)

 

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 「転生」と福田公美さん   Saganにて

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薫習で画家修業

 日本画は岩絵具や墨、膠で作りだす和の雰囲気がその命である。日本画は和室によく溶け込む。それが油絵具でゴテゴテと画かれた西洋風の絵画では浮いてしまう。

 福田公美さんは、祖父の画室の墨、膠の香りに包まれて育った。彼女は祖父が岩絵具を静かに溶く後姿を見ながら育ったという。そんな祖父の絵の雰囲気の中で育ったので、祖父の日本画の温もりが彼女の肌から身体にしみ込んだのだろう。霧の中を歩めば、自ずと衣が濡れる。よき香りのお香を触れば、その香りが衣服に移る。それが薫習である。だから彼女は、ごく自然と日本画の世界に入っていけたという。彼女の絵には構えた力みがない。自然の花や動物を自然体で観察して、それが日本画の画風に現れている。そこには小さな植物や昆虫たちの存在感ある命の営みが表現されている。

 

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 岩絵具

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  膠

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家風

 馬場恵峰先生の祖父は書道の名手で、家には書画が沢山あり、恵峰先生はその中で書画を見ながら育ったという。だから馬場恵峰先生は小学校で、担当教師の代わりにクラスの仲間に習字を教える存在になっていたという。環境が芸術家を作るようだ。

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  馬場恵峰師の16歳の時の作品

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 能や歌舞伎の家元で育った子息は、生まれながらに特別の才能を持っていると同じであろう。

 囲碁や将棋の名人には内弟子経験をした人が多いと同じであろう。

 画家を目指して、芸大に入り、絵の世界で立身出世しようと懸命の努力を続けた画家には、何か力みがあり、自然体の優しさがないような気がする。芸術は努力だけでは成功しない世界のようだ。凡人がいくら努力をしても、超一流にはなれない。努力とは別世界の話である。

 

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西洋の画風

 西洋の画家でも、絵で一旗揚げようと描いた絵には、暴力的な迫力がある。悲壮感さえ感じる。日本人の持つ優しさが無いような気がする。日本人は自然と一体感を得たいと思う。それが日本古来の伝統である。西洋では、自然も敵国も闘い征服する対象である。絵でもそういう雰囲気が出ている。日本のように人が自然と一体化する画風という世界とは一線を隔す。

 福田公美さんの日本画は、自然と一体化して自然を受けいる画風である。日本人の愛した花鳥風月の世界に合う。日本人が西洋風の絵画を画くと、日本人はどうしても構えてしまうようだ。

 

名画とは

 私の名画の定義とは、「捕まってもいいから、盗んで家に飾りたくなる絵」である。そんな絵に出会えるのが、盲亀浮木のご縁である。 私は世界の美術館の70か所ほどを回ったが、捕まってもいいから盗んで家に飾りたいという「名画」には、幸い?遭遇しなかった。だから私はお縄を頂戴せず?、塀の外で自由に生きている。

 100号のバカでかい絵、またゴテゴテと油絵具で塗りたくった絵は、日本人にも、その日本家屋にも合わない。まさかルーブル美術館にある「皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠」(寸法:621x979 cm)やオランダ国立美術館のレンブラント「夜警」(寸法:363 × 437 cm)の絵を8畳の和室に飾るわけにはいくまい。

 自宅の大きさに合わせて、最適に大きさの絵を選ぶのも、自分の美的センスが問われる。世間が名画と言っているからと言って、鵜呑みにするのは、愚かである。自分には、自分の分相応の絵を選んで飾る。それが自分の美学である。

 西洋では、貴族の豪華な館でこそ映える絵が、名画と定義されているようだ。それは貴族が金に任せて画家に書かせて、富の大きさを誇る絵であるからだ。ミケランジェロの絵も、大富豪のパトロンが金を出して描かせている。

 日展や院展等の展覧会では100号以上の絵でないと、応募に受け付けてもらえないそうだ。その画材だけで8万円ほどかかると言う。そんな絵は、入選して美術館にでもお買い上げされないと、画家稼業では大赤字である。それは自宅保管となる。その保管場所と保管費用が大変だ。有名な画家でも、そういう絵の保管の為、マンションの一室を借りているという。マンションの家賃も馬鹿にできない。画家稼業も大変だ。

 

自宅に飾ると気が狂う名画

 美術館では名画扱いでも、日本の小さな我家では、名画ではない。そんな「名画」はお金をもらっても、飾りたいとは思わない。その分のお金をくれるなら飾ってもいい? 

 数十億円の大きなサイズのゴッホの「ヒマワリ」を家に飾ってどうするの、である。盗難を考えると、心配で夜も眠れない。それでは病気にもなる。ムンクの名画「叫び」を家に飾りたいとは思わない。そんな絵を見続ければ、気が狂ってしまう。ドラクロワの暗い絵を自宅には飾れない。居間が暗くなってしまう。

 そんな類の絵を家に飾るのは、絵の存在価値に対して本末転倒である。絵は見ていて心が癒されないと、意味がない。絵にもTPOがある。またその絵を飾る家の大きさも絵の評価対象である。

 

絵画も適材適所

 50号の絵では、そんな大きな絵を飾れる部屋は日本のウサギ小屋にはない。西洋の「ド高い」名画は、家に飾ると疲れると思う(幸い、そんな絵は持っていないので幸いだ)。日本の和室に似合うのは、花鳥風月の小さな作品である。せいぜい10号までの絵である。

 解剖学者、東京大学名誉教授、医学博士である養老孟司氏は「最近の日本人の精神が貧困になったのは、グローバル経済主義の影響を受けて、日本人が効率主義一辺倒、金儲け至上主義に傾倒し、日本古来の花鳥風月を愛でる余裕がなくなったのが原因だ」と言う。

 私は、幸いエリートでもなく、平凡に暮らしていて、芸術を愛し、花鳥風月の日本画をも愛でている。それでは一銭の得にもならない。だから、私は阿修羅の道を歩まず、精神崩壊もせずに幸せに暮らせている。私は『バカの壁』を超えなかったのだ? でも本音はお金も名誉も女も欲しい....?

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コスモスの秋

 今回、福田公美さんの「秋桜」を入手した。山口百恵ちゃんが歌う「コスモス」を聴きながら、さりげなく壁に飾って眺めるのが、日本流、オダブツ流である。「コスモス」を聴きながら、「秋桜」を見て、人生の秋を考える。

 人生は生老病死、人生も春夏秋冬の移り変わりである。秋は実りの季節である。高齢者には秋の風景がよく似合う。今まで収集した美術品の中から一品を選び、さりげなく飾って楽しむ。それがオーダー仏教(oder仏)、オダ仏教の教祖の美術鑑賞スタイルである。和室に溶け込み、部屋と一体となる絵が名画であると思う。そういう絵は自己主張しない。

 絵とは、自分が主人公として人生道を歩むとき、その道の風景を彩る一輪の花である。何もない延々と続く砂漠の中をとぼとぼと歩むのは寂しい限りだ。その時、オアシスに咲いた一輪の花を見つけると癒される。

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                   秋桜

 

 

2023-11-05  久志能幾研究所通信 2769号  小田泰仙

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