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2024年1月11日 (木)

飛龍 地獄を楽園に変える in Sagan

 

現世の地獄

 地獄はあの世にはない。極楽も同じである。今の現世が地獄であり、極楽なのだ。現世を地獄にしているのは、人間の強欲、支配欲で、すべては人間の業からの結果である。

 どんな人間でも条件が整えば、極悪非道のことを平気で成し遂げる。ナチスのアウシュビッツ強制収容所で約100万人のユダヤ人が虐殺された。直接、手を汚したのは、平凡なドイツ国民である。家庭では良き父親であった。彼らは毎週日曜日、教会に行き美しい声で讃美歌を歌う敬虔なキリスト教徒である。人間社会は、いつの時代も地獄を作り出す。それが戦争の時に顕著に現れる人間の業である。

 

 お釈迦様はあの世が有るともないとも言わず、ただ精進せよ、とだけ言い残されて入滅された。地獄極楽の話は、後世の弟子が仏教を広げるために、作り上げたおとぎ話である。嘘も方便である。実際は、現世が地獄極楽なのだ。

 

蓮の花とわさび

 その人間社会の地獄の泥沼の中に咲く花こそが、蓮の花(佛の心)である。強欲の渦巻く泥沼の中に、蓮の花を咲かせるのが龍の力である。蓮の華を咲かせた龍は、昇龍となって翔ぶ。その龍の正体は、昇華された高尚な自分の精神である。その姿こそが飛龍であり、昇龍である。

 

 蓮の華に対比されるのが、ワサビである。ワサビは清らかな水の中にしか生息できない。まるで純粋培養されたエリートの育て方そのものである。真の佛は泥沼から生まれる。

 

アウシュビッツ強制収容所で

 第二次世界大戦中、精神科医のフランクルは、生存率0.052%の地獄のアウシュビッツ強制収容所で生き延びた。彼が生き延びるために取った行動は、

 

働ける体であるように見せる

  働ける状態でなければ、自動的にガス室行き

常に若く見えるように、立ったり歩いたりする時は背筋をピッと延ばしていた。

  若く見えるように髭を毎日剃った。

  最後のパン一切れを人に与えても、ガラスの破片で髭を剃ってもらった。

病気にならない   病人になれば、自動的にガス室行き

常に未来を信じる

  近い将来、講演会で自分が演説している姿を思い浮かべた。

収容所での苦しみは意味があると認識

  無意味だとすると生きることの価値が無くなる

愛する人との魂での会話

感動を失わない

  沈みゆく太陽の夕焼けの風景に感動

ユーモアを失わない

  自分を見失わない魂の武器

 

 彼は戦後、アウシュビッツ収容所での生活を『夜と霧』という著書で紹介して、生きる意味を世界に問うた。彼の精神は龍となり、世界に飛んだ。

 

彼がアウシュビッツで得た人生の結論

 生きるとはつまり、(生きる義務を引き受ける行為)

   ・生きることへの問いに正しく答える義務

   ・生きることが各人に課す課題を果たす義務

   ・時々刻々の要請を充たす義務

 苦しむとは何かをなしとげること

 

今の生の意味

 私の父は戦後、シベリアに強制抑留をされた。父が生き延びて帰国してくれたので、今の私の生がある。アウシュビッツ強制収容の話は他人ごとではない。シベリア抑留の死亡率は10%と言われるが、シベリア抑留の当初は、ソ連側の準備不足で死亡率80%であったという。父の弟の叔父はシベリアの土になった。従弟は父の顔を知らない。

 

「辰づくし」展

 昨年末まで、Saganで開催されいた「辰づくし」展で、中島法晃師の「楽園」と「現象」を入手した。強欲が渦巻く泥沼の現世を「楽園」、飛龍の姿を「現象」と表現された中島法晃師の高観に脱帽である。

 龍は想像の動物であるが、確かに龍とは、己の精神状態を表す「現象」である。

 

 久志能幾研究所通信  志を持て!龍になれ 孤龍興雨 in Sagan

 

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 中島法晃 画   「楽園」(下側)と「現象」(上側)

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  中島法晃 画   「現象」部分

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  中島法晃 画  「楽園」部分

 

 

2024-01-11  久志能幾研究所通信 2801号  小田泰仙

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コメント

こんばんは。

1.「蓮の花とわさび」の対比が、なるほどと、いい学びとなりました。

2.フランクルについて

 1)常に未来を信じる

 2)収容所での苦しみは意味があると認識

 3)愛する人との魂での会話

 4)感動を失わない

 5)ユーモアを失わない

上記の2)は、他の4つとはカテゴリが異なるように感じます。
これは、「リボーン」に通じると思うからです。

多くの方は、「がん」と宣告されると冷静さを保つことが難しくなります。

毎日、体の中にはがん細胞が生まれている。
しかし、自己治癒力が機能する内は、がん細胞に克っている。

この自己治癒力を弱体化する「習慣」が、「がん」出現につながっていると考えることは、突飛な発想とは思わない。

なぜ、自分が「がん」と出逢うのか、その出逢いの意味を考え・感じることが、大きな「気づき」のきっかけとなる。

「気づく」ことで、行動が変わり、習慣が変わる。
そして、いつの間にかリボーンしている。

がんを「消す」ことに執着しているときには、がんは消えない。
リボーン「する」ことに執着しているときには、リボーンすることはない。

「執着」から解放され、ありのまま“ご縁”に委ねる。
浄土真宗の真の意味での「他力本願」に通じるのかも・・。

3.「強欲が渦巻く泥沼の現世を「楽園」、飛龍の姿を「現象」と表現された中島法晃師の高観に脱帽」の箇所

私には、残念ながら高尚過ぎて、その「高観」がわかりません。
脱帽された小田さんには、是非とも、その解説を希望いたします。

合掌

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