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2023年12月15日 (金)

「ルシア祭の歌と忘年会」のご縁

 

 12月10日、ご縁がありスウェーデン協会主催の「ルシア祭の歌と忘年会」に参加してきた。私はスウェーデンには、1985年に5か月間程滞在した経験があり、懐かしさが一杯である。私にはルシア祭は初体験で楽しかった。忘年会もアットホーム的でよかった。出された料理も、スウェーデン特産の品が多く、美味しかった。美味しいというホット赤ワインも出されたが、禁酒中の私はパスであった。スウェーデンでの黒歴史を思い出した。

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スウェーデン滞在中の黒歴史

 私はスウェーデンで最初の現地の人との食事会のおり、アルコール度60度?の酒を乾杯として飲まされた。それはマイナス20℃で半ば凍っており、トローっとしていた。彼らは「スコール(乾杯)」と言って小さな杯を上げ一気に飲み干した。私もつられて一気に飲んだ。その酒は少し甘く美味しかった。しかしそれはダイナマイトであった。30分後、それは胃の中で爆発した。私は倒れてしまう醜態をさらした。ホテルの自室に担ぎ込まれたが、しばらく天井が回っていた。そうか!スウェーデンの天井は回るんだ!(笑)

 同席した3人の会社仲間は、海外出張の経験が多く、そういう酒の恐ろしさを知っていて、乾杯でもコップを舐めただけで飲まなかった。そんなことを知らない私はダイナマイトを飲み干した。知らないということは恐ろしい!

 寒い国では強い酒が当たり前のようだ。アル中も多い。だから17時までは、酒類の販売は法律で禁止されている。

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ご縁の来訪

 その忘年会で、渡辺陽子さんの友人から今の日本が抱える「病気」を治すヒントを教えてもらった。

 

 スウェーデンの国土は日本の1.4倍、土地は湖だらけ、人口は日本の10分の一で、資源も乏しく、気候は厳しい、それでいて国は豊かで、一人当たりのGDPは日本の2倍近い。スウェーデンはこの200年間、戦争をしていない。この差は何? 

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黒発言?

 この忘年会参加のスウェーデンに滞在経験のある女性に、「スウェーデン女性はキレイな人が多いですね」と発言したら叱られてしまった。女性に対して、そういう表現はしてはいけないそうだ。女性に対して、美人かどうかなどの評価をしてはいけないそうだ。それがジェンダーフリーの考え方だそうだ。

 日本はまだまだ男社会のようだ。私みたいなオジサンはスウェーデンでは失格のようだ。

 それを教えてくれた日本女性は、「でも、男の人から美人だと言われる嬉しい」と本音を言ってくれた(笑)。この忘年会で、「日本で暮らして、良かった」と再確認した。世界は変な方向にむかっている。日本のジェンダーフリー法は、その女性が反対している。増税メガネの無節操政治の弊害である。

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 日本が抱えている課題の解決ヒントは、どこに転がっているかはわからない。来たご縁を大事にすると、向こうから新たなご縁が転がってくる。今回は、先月、Gallery Saganで人形展を開催した渡辺さん(私が敬愛する「魔女」さん)から頂いたご縁である。その方は渡辺さんの友人であった。渡辺さんから入手した「バイオリンを持つ少女」人形がご縁を運んでくれた。渡辺さんにお礼を言いたくて、「ルシア祭の歌と忘年会」に参加したのが、今回のご縁である。感謝である。

 来たご縁に遠慮はいらない、縁慮で行こう。

 私の方針は、来る縁は拒まず、去る縁は追わず。

 

久志能幾研究所通信  魔女からの贈物 夢見るバイオリン弾き少女

 

 その日本病の解決ヒントの解析は、別途報告します。今回は忘年会の報告です。

 

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 人形は渡辺さん製作

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 ルシア祭の歌を歌う子供達

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 スウェーデンの伝統の蝋燭

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  会場は名古屋・ダイニングバー フォーシーズンズ


 

聖ルチア聖人祭

 聖ルチア聖人祭は、キリスト教の聖人聖ルチアの聖名祝日を祝う行事で、12月13日に行われる。クリスマスシーズンのアドベント(待誕節)が始まるころに行われる。西方教会では伝統的に重要な聖名祝日で、スカンディナヴィア諸国と南欧が主として伝統的行事としている。

 16世紀にグレゴリオ暦が改訂されるまで、聖ルチア祭は北半球の冬至の日であり、スカンディナヴィア諸国では、12月13日に一家の子供の中で年長の少女が祝祭に参加する。

 

 少女は聖ルチアに扮してロウソクの冠を被り、ロウソクを手に持ち、同じ扮装をした少女たちと一緒に行進する。ロウソクは、生命を奪うことを拒む、火の象徴である。少女たちはナポリ民謡『サンタルチア』のメロディーを歌いながら部屋へ入ってくる。この歌はナポリの美しい港の情景を歌ったものだが、スカンディナヴィア諸国の詩ではルチアが闇の中から光と共に現れたという内容になっていて各地域の言語で歌われている。

 

 ユリウス暦によると、ルチア祭の夜は一年で最も夜が長い。雪が降る前の11月と12月の夜は非常に暗く長いことから、闇から光が現れたという考えが、特に北国で伝統的に支持されてきた。

  

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 ルチアの歌を歌う子供たち。スウェーデン

 

 スウェーデンでのルチア祭は、再生の意味を帯びる。ドイツで女児をもつプロテスタントの一家が、子供に『子供のキリスト』の扮装をさせクリスマス・プレゼントを手渡した、という行事が持ち込まれた。クリスマス・イヴに、子供の頭にロウソクのリースを飾り、飴やケーキを手渡す。白いドレスを着た女性が頭にロウソクを飾り、ルチアの日の朝に現れるという現在の内容と似ており、1700年代後半のヴェーネルン湖周辺の地方からゆっくりと国中に広がり、1800年代には全国で見られるようになった。聖ルチア祭はスウェーデンの休日ではないが、国で親しまれる行事である。

この項、ウィキペディア「聖ルチア聖人祭」を編集

 

2023-12-14  久志能幾研究所通信 2786号  小田泰仙

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2023年12月 2日 (土)

志を持て!龍になれ 孤龍興雨 in Sagan

 

 岐阜市川原町 Gallery Sagan で辰を特集した「辰づくし展」が開催されている(12月1日~12月26日)。その龍たちを見て、下記の感想を持った。

 龍は架空の動物である。その架空の動物をいかに本物の生きもののように表現するかで、芸術家の力量が問われる。各作品をそういう目で見ると、興味深い。

 龍は縁起物である。来年は辰年である。この展示を見て、龍になる勇気をもらった。

 公開

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志は龍になる 

 高い志を持って行動すれば、同志は自然に集まってくる。最初は一人で始めた行動でも、強い信念と強烈な熱意があれば、それが起爆剤となり、人を動かし、世の中を動かし、世間に恵みの雨を興す。

 龍が空で高く吟ずると雲が起こり、霧が湧いてきて雨を降らす。龍は水の神様である。

 力量のある人物がものを言えば、この無心な自然界も自ずからそれに沿って動き始める。そんな人には龍が宿っている。

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東洋のドラゴン観

 だから弁財天の頭には、宇賀神様の龍が彫られている。弁財天の起源は古代インドの聖河サラスバティーを神格化した女神である。水の神であり、豊穣をつかさどる神として、信仰をあつめた。弁財天の頭上には農耕の神・宇賀神(髭を生やした老人で、体は白蛇体)を頂くお姿として祀られるようになった。日本人は一木一草にまで神仏が宿るとして、自然を崇拝してきた。龍もそんな信仰から生まれた架空の神様である。日本人は自然を畏敬の念で接している。それが龍の存在で象徴されている。

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西洋のドラゴン観

 それに対して西洋では、人に理解できない様な生物を恐怖の対象として 「ドラゴン」と称していた。キリスト教が世界で実権を握るようになると、 キリスト教に逆らうモノ・・・悪魔や異教の神を ドラゴンと称して「悪しきもの」とする様になった。自然とは、征服するものという観念で見ている西洋人と日本人の差は、「ドラゴン」の扱いでも明確に差が出ている。

 最近は西洋の拝金主義者が唱えるグローバル経済主義に汚染されて、世界と日本社会がおかしくなった。戦争が起こり、行き過ぎた脱炭素運動が展開されている。

 日本の元からある自然との共生、社会との共生を元にした人生観自然観を大事にしたい。その象徴が龍である。世界の中で日本一国だけでも、その志を大事にして世界に恵みの雨を降らせよう。

 

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 吉川充作  青白磁辰 香合

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吉川充作  青白磁辰 香合

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 下田心一 作

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  下田心一 作

 

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池田彩恵 作

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池田彩恵 作   手が可愛い

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池田彩恵 作

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池田彩恵 作   香炉

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池田彩恵 作   香炉


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 池田彩恵 作   香炉

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池田彩恵 作 ドラゴンとお線香立て

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 樋口ナオミ 作

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 樋口ナオミ 作

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 樋口ナオミ 作  昇龍

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 樋口ナオミ 作

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  田中暁子 作

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  田中暁子 作

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  田中暁子 作

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 長田けい子 画

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中島法晃作

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  中島法晃 画   部分

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  中島法晃 画  部分



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 中島法晃作

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 中島法晃作

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 中島法晃作

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鈴木信子 作

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 鈴木信子 作

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 鈴木信子 作

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  田中暁子 作   土鈴


 

2023-12-02  久志能幾研究所通信 2781号  小田泰仙

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2023年11月26日 (日)

魔女からの贈物 夢見るバイオリン弾き少女

 

 Gallery Saganで開催されていた「渡辺陽子人形展」で、渡辺さんが作る人形に何か惹かれ、「バイオリンを持つ少女」を入手した。

 美術品は講釈抜きに、自分が気に入れば楽しめばよいと思う。蓼食う虫も好き好きである。芸術の「芸」は「草冠」と「云」からなり、「云」は匂いのことである。つまり匂い草の象形文字である。匂いは、特定の時代、特定に環境、特定の人の場合のみに通用するものである。それが芸術である。だからゴッホの作品は、時代が変わらないと評価されなかった。

 きっと私は魔女の渡辺陽子さんに魔法をかけられたのだろう。渡辺さんは魔女の様に神出鬼没で(魔出魔没?)、人と話し込んでいると思ったら、いつの間にか、ほうきに乗ってどっかに飛んで行ってしまっている? 私は敬意をもって、渡辺さんを「魔女」と呼んでいる。

 

 当初、この娘をピアノの上に飾ろうと思って入手した。「彼女」は何故かこの人事異動?を拒否して、今も居間のテーブルの上に鎮座している。彼女は夢見るような目つきで遠くを見つめている。

 

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夢を見続ける

 私も叶わぬ夢を見続けている。夢があるだけ幸せなのだ。夢なき人生は虚しい。その夢を実現するために、前に向かって歩くのが人生なのだ。それも一生かかっても実現できない大きな夢を抱いて人生を歩くべきだ。夢の実現のため、道なき道を歩いてきた後ろに道が出来る。

 漢字の「道」の語源は、魑魅魍魎が住むと言われた古代中国の城壁の外を「生贄の生首」を魔除けとしてぶら下げ、恐る恐る歩いて出来た跡を「道」と称した象形文字である。シンニュウは、十字路の象形文字である。

 直ぐに実現できてしまう夢は、真の夢とは言わない。それは単なるルーチンワークである。

 人は全く可能性のない事を夢見ない。少しでも可能性があるから、夢として思い浮かぶのだ。誰も自分にアメリカ大統領になる夢を持てとは言わないし、自分もなりたいという夢は抱かない。

 どうせ夢を抱くなら「倍の大きさではなく、一桁大きい夢を抱け」が、トヨタ式の考えである。大法螺と言われてもよい。実現すれば、法螺ではなくなる。

 

 永眠してしまえば、夢を見ることが出来ない。夢を見ることは生きている証。生きているのに、夢を見ないのは、病院のベッドの上で生き永らえていると同じ。それは死んだ人生だ。夢を見るのに、齢は関係ない。老人だからこそ、今までの経験を元に大きな夢を持とう。実現できなくても、後継者がそれを叶えてくれる。

 

 夢の世に 夢みし夢は 夢ならで 

 夢見ぬ夢こそ 夢と知れ

 

 

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 馬場恵峰書

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2023-11-26  久志能幾研究所通信 2778号  小田泰仙

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2023年11月21日 (火)

巡礼 福田公美 仏教美術の日本画 in Sagan

 

 西洋画の展覧会では、殉死、磔、煉獄、最後の審判等のキリスト教に関する絵画が多い。

 人は幼少の頃、家庭でどういう教育環境で育てられたかで、その人の性格が決まる。特に画家や芸術家の性格は、その影響度が大きいようだ。日本画家の祖父祖母の後姿を見て育った福田公美さんは、その影響が画風に出ているようだ。

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国別の子どもの教育方針は、

 中国人は、人に騙されるな。

 韓国人は、人に負けるな。

 欧米人は、権利を主張せよ。原罪を意識して愛に生きよ。

      神の前での最後の審判を考えよ。

 日本人は、人に迷惑をかけるな、お天道さまが見ている、である。

 その背景に神仏は一体、輪廻転生、一木総神仏という考えがある。

 

国別で人間は、行動規範を

 ユダヤ人は宗教に求める。

 ギリシャ人は哲学に求める。

 ローマ人は法律に求める。

 中国人は騙されないために、自分が法律主となり、人治に走った。

 日本人はお天道様に行動規範を求めた。それは自然との融合である。

 

福田公美さんの「転生」を見ていて、上記の事を思い出した。

 

宗教観と絵画

 日本では神仏一体の考えがあり、自然との融合の宗教観がある。自然の全てに神が宿り、動物や植物はヒトの生まれ変わり、という輪廻転生の仏教思想がしみ込んでいる。一木総神仏とか、自然界の生き物には全て神仏が宿る。

 だから狐の嫁入りやキツネに騙された話とかがあり、温かい物語として、親から子供へ昔話として聞かされる。また伏見稲荷のように、キツネ様への信仰等がある。

 古代の人々は、人間や動物などの生物だけではなく、植物、天体、無機物のものまで、すべてのものに霊魂が宿っていると考えていた。

 このような自然信仰(アミニズム)があり、人々は自然を神様として崇敬し、その崇敬の心から祭る(祀る)ようになっていった。日本は仏教が伝来する前から、自然信仰があり、農作物を荒らす小動物を退治するキツネを大事にする信仰が仏教と融合して育ってきた。

 そういうことを大事にする家庭に育つと、輪廻転生のような思想で自然界の風景を描くことが自然となる。

 西洋の絵が、多くはキリスト教の原罪、最後の審判に影響を受けた絵が多いのは、その思想の背景があるからだ。

 2023年11月、愛知県美術館で開催された「第86回 新制作展」で出展された絵画でも、そういう原罪、最後の審判をイメージする絵画が多くあり、日本画の花鳥風月、仏教画風の画調とハッキリと隔てられている。

     

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     第86回 新制作展    「罪をさし出す」木滑美恵 画

  賞をもらうだけあって、描写力は素晴らしい。

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  第86回 新制作展    「colourⅠ」「colourⅡ」 藤川妃都美 画

   日本画として、自然との一体感が良く描かれている。

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 仏教の輪廻転生では、時間の経過で世界は回っている。仏教は因縁と時間の経過を啓示した哲学の宗教である。それが西洋の宗教とは違った位置付けである。キリスト教はキリストの愛の物語である。後世に神学の哲学が結びつけられた宗教である。(石原慎太郎氏の分析)

 日本の仏教は古代のアニミズムと融合して、輪廻転生、お天道様崇拝、神仏一体、自然界に神仏は宿る、を受け継いでいる。

 

転生

 福田広美さんの描いた「転生」には、その思想が色濃く出ている。これは仏教美術である。

 二匹のキツネの一匹は口を開き、もう一匹は口を閉ざす。陰陽の世界である。東大寺の仁王様像も阿形は口を開き、吽形は口を閉じる。高野山中門の持国天は口を開き、広目天は口を閉じている。陰陽の現れである。

 二匹のキツネは円を描くように金色の世界を回って走っている姿が描かれている。輪廻を象徴した形である。

  2匹のキツネはSの字のようにも見える。私は卍の形を連想した。

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 福田公美画 「転生」

  第3回ぎふ美術展(2021年)  奨励賞

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福田公美画 「転生」 部分

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福田公美画 「転生」 部分

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 持国天 松本明慶大仏師作 高野山中門 著者撮影

 口を開いた持国天。胸のトンボは、決して後ろ向きには飛ばないという決意を表している。

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 広目天 松本明慶大仏師作 高野山中門 著者撮影

 口を閉じた広目天。胸のセミは、その鳴き声(仏法の教え)が、お寺の鐘の音のように、遠くまでが届くようにとの願いである。



エピソード

 私はこの絵が気に入って、売って欲しい言ったが、非売品ですと福田公美さんに断られた。それで良かったと思う(笑)? 「売ります」と言われたら大炎上である。今のままでは、こんな大きな絵を飾る場所が無い。もし入手できれば、5千万円の家を新たに買わないといけない。お金を作るため、銀行強盗でもしなくてはならない? それではお縄頂戴である。絵と家と人格はセットである。絵も適材適所、分相応なのだ。ウサギ小屋に50号の大きな絵は似合わない。それが名画の悩みである?

  欲しい絵が手に入らないのは、自分の人格、財力が足りないよ、との仏様の啓示であろう。絵が持てることは、宇宙根源の理のバランスである。それは陰陽のせかいである。絵の価値に見合った人格を作れとの神仏からの啓示である。

 

盲亀流木のご縁

 人が生まれる確率は、一億円の宝くじが連続で100万回当たると同じである(村上和雄筑波大学名誉教授)。福田公美さんの「転生」は第3回ぎふ絵画展で奨励賞を獲得している。それを考えると、福田公美さんの「転生」に出会えたのは、盲亀流木のご縁と同じである。そういうご縁に出会ったことに感謝である。

 

 

2023-11-08  久志能幾研究所通信 2775号  小田泰仙

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巡礼 陶と日本画展 髙山大 福田公美 in Sagan

 

 2023年11月3日~11月23日(21日は臨時休廊)、岐阜川原町のgallery Sagan で上記展示会が開催されている。

 

 髙山大さんは陶芸家であり、僧侶である。僧侶の眼で、仏法を陶器のオブジェの形にした芸術作品である。具現化とは、オブジェ「鳴舞耳得」である。

 

鳴舞耳得

 全てのモノには命があり、精霊が籠っている。モノは何かを伝えるため、鳴き、舞っている。だからモノは「耳」で見なければ、真の姿は見えない。見えれば得をする。その得を受けるには、人として感性が高くなければならない。その感性が高い人が、精神性が高い人である。

 「耳」とは「目」の文字の四方八方に角が伸びた形である。つまり全身を使って「観る」である。

 「得」とは佛語で、体験から得る利益・功徳のことである。仏教用語の「利益(りやく)」とは、「ためになること、益を受けること、功徳、利徳」をいう。 特に「仏の力によって授かる恵み」を意味する。

 

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 黒陶の焼成(籾殻燻炭)方法

 籾殻燻炭とは、 燻炭器を使用し、籾殻の山の中に作品を埋めて焼成(推定500度)する。約6時間後に窯出し、籾殻が焼けた煤が作品に吸着し、作品は炭化「黒陶」となる。

 1回焼成では大きな作品は黒くならないので、2回、3回と籾殻燻炭を繰り返す。焼成が6時間を超えると、籾殻炭は灰になり、吸着した煤が焼け飛び、作品は素地色に戻る。作品の一部分褐色は、籾殻の量が少なく炭化せず、黒陶にならなかった素地色の箇所である

 

 黒陶の作品の黒色は、陶芸技法の「黒陶」である。黒漆を塗ってはいない。漆は、あくまでも補強と防水のためのコーティングで、素地の黒陶が現れるように透き漆で拭き漆をしている。色付きの漆で着色する事は、陶芸家としての範疇を超えてしまうと髙山大さんは思っているので、黒漆や赤漆は使っていない。また、漆の定着方法も漆室を使わず、焼く事に拘り、電気窯で焼き付けをしている。

 

 

仏壇のリフォーム

 何か感じるものがあり、髙山大さん製作の黒陶の盃と蓮の形の皿を入手した。

 先日、祖母の50回忌を執り行った。そのご縁で、今回の髙山大さんの陶展に巡り合ったと感じた。それで30年経った仏壇の備品のリフォームとして、今までの市販の陶器の白い盃とプラスチックの茶菓用皿を髙山大さんの陶の盃と蓮の形の陶の皿に更新した。よき供養だと思う。

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2023-11-21  久志能幾研究所通信 2774号  小田泰仙

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2023年11月 6日 (月)

巡礼 福田公美、日本画展 懐かしい記憶に和の香り in Sagan

「福田公美 日本画展」

 場所 岐阜市 川原町 Gallery Sagan

 期間 11月3日~11月23日 (水・木 定休)

 

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 「転生」と福田公美さん   Saganにて

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薫習で画家修業

 日本画は岩絵具や墨、膠で作りだす和の雰囲気がその命である。日本画は和室によく溶け込む。それが油絵具でゴテゴテと画かれた西洋風の絵画では浮いてしまう。

 福田公美さんは、祖父の画室の墨、膠の香りに包まれて育った。彼女は祖父が岩絵具を静かに溶く後姿を見ながら育ったという。そんな祖父の絵の雰囲気の中で育ったので、祖父の日本画の温もりが彼女の肌から身体にしみ込んだのだろう。霧の中を歩めば、自ずと衣が濡れる。よき香りのお香を触れば、その香りが衣服に移る。それが薫習である。だから彼女は、ごく自然と日本画の世界に入っていけたという。彼女の絵には構えた力みがない。自然の花や動物を自然体で観察して、それが日本画の画風に現れている。そこには小さな植物や昆虫たちの存在感ある命の営みが表現されている。

 

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 岩絵具

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  膠

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家風

 馬場恵峰先生の祖父は書道の名手で、家には書画が沢山あり、恵峰先生はその中で書画を見ながら育ったという。だから馬場恵峰先生は小学校で、担当教師の代わりにクラスの仲間に習字を教える存在になっていたという。環境が芸術家を作るようだ。

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  馬場恵峰師の16歳の時の作品

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 能や歌舞伎の家元で育った子息は、生まれながらに特別の才能を持っていると同じであろう。

 囲碁や将棋の名人には内弟子経験をした人が多いと同じであろう。

 画家を目指して、芸大に入り、絵の世界で立身出世しようと懸命の努力を続けた画家には、何か力みがあり、自然体の優しさがないような気がする。芸術は努力だけでは成功しない世界のようだ。凡人がいくら努力をしても、超一流にはなれない。努力とは別世界の話である。

 

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西洋の画風

 西洋の画家でも、絵で一旗揚げようと描いた絵には、暴力的な迫力がある。悲壮感さえ感じる。日本人の持つ優しさが無いような気がする。日本人は自然と一体感を得たいと思う。それが日本古来の伝統である。西洋では、自然も敵国も闘い征服する対象である。絵でもそういう雰囲気が出ている。日本のように人が自然と一体化する画風という世界とは一線を隔す。

 福田公美さんの日本画は、自然と一体化して自然を受けいる画風である。日本人の愛した花鳥風月の世界に合う。日本人が西洋風の絵画を画くと、日本人はどうしても構えてしまうようだ。

 

名画とは

 私の名画の定義とは、「捕まってもいいから、盗んで家に飾りたくなる絵」である。そんな絵に出会えるのが、盲亀浮木のご縁である。 私は世界の美術館の70か所ほどを回ったが、捕まってもいいから盗んで家に飾りたいという「名画」には、幸い?遭遇しなかった。だから私はお縄を頂戴せず?、塀の外で自由に生きている。

 100号のバカでかい絵、またゴテゴテと油絵具で塗りたくった絵は、日本人にも、その日本家屋にも合わない。まさかルーブル美術館にある「皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠」(寸法:621x979 cm)やオランダ国立美術館のレンブラント「夜警」(寸法:363 × 437 cm)の絵を8畳の和室に飾るわけにはいくまい。

 自宅の大きさに合わせて、最適に大きさの絵を選ぶのも、自分の美的センスが問われる。世間が名画と言っているからと言って、鵜呑みにするのは、愚かである。自分には、自分の分相応の絵を選んで飾る。それが自分の美学である。

 西洋では、貴族の豪華な館でこそ映える絵が、名画と定義されているようだ。それは貴族が金に任せて画家に書かせて、富の大きさを誇る絵であるからだ。ミケランジェロの絵も、大富豪のパトロンが金を出して描かせている。

 日展や院展等の展覧会では100号以上の絵でないと、応募に受け付けてもらえないそうだ。その画材だけで8万円ほどかかると言う。そんな絵は、入選して美術館にでもお買い上げされないと、画家稼業では大赤字である。それは自宅保管となる。その保管場所と保管費用が大変だ。有名な画家でも、そういう絵の保管の為、マンションの一室を借りているという。マンションの家賃も馬鹿にできない。画家稼業も大変だ。

 

自宅に飾ると気が狂う名画

 美術館では名画扱いでも、日本の小さな我家では、名画ではない。そんな「名画」はお金をもらっても、飾りたいとは思わない。その分のお金をくれるなら飾ってもいい? 

 数十億円の大きなサイズのゴッホの「ヒマワリ」を家に飾ってどうするの、である。盗難を考えると、心配で夜も眠れない。それでは病気にもなる。ムンクの名画「叫び」を家に飾りたいとは思わない。そんな絵を見続ければ、気が狂ってしまう。ドラクロワの暗い絵を自宅には飾れない。居間が暗くなってしまう。

 そんな類の絵を家に飾るのは、絵の存在価値に対して本末転倒である。絵は見ていて心が癒されないと、意味がない。絵にもTPOがある。またその絵を飾る家の大きさも絵の評価対象である。

 

絵画も適材適所

 50号の絵では、そんな大きな絵を飾れる部屋は日本のウサギ小屋にはない。西洋の「ド高い」名画は、家に飾ると疲れると思う(幸い、そんな絵は持っていないので幸いだ)。日本の和室に似合うのは、花鳥風月の小さな作品である。せいぜい10号までの絵である。

 解剖学者、東京大学名誉教授、医学博士である養老孟司氏は「最近の日本人の精神が貧困になったのは、グローバル経済主義の影響を受けて、日本人が効率主義一辺倒、金儲け至上主義に傾倒し、日本古来の花鳥風月を愛でる余裕がなくなったのが原因だ」と言う。

 私は、幸いエリートでもなく、平凡に暮らしていて、芸術を愛し、花鳥風月の日本画をも愛でている。それでは一銭の得にもならない。だから、私は阿修羅の道を歩まず、精神崩壊もせずに幸せに暮らせている。私は『バカの壁』を超えなかったのだ? でも本音はお金も名誉も女も欲しい....?

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コスモスの秋

 今回、福田公美さんの「秋桜」を入手した。山口百恵ちゃんが歌う「コスモス」を聴きながら、さりげなく壁に飾って眺めるのが、日本流、オダブツ流である。「コスモス」を聴きながら、「秋桜」を見て、人生の秋を考える。

 人生は生老病死、人生も春夏秋冬の移り変わりである。秋は実りの季節である。高齢者には秋の風景がよく似合う。今まで収集した美術品の中から一品を選び、さりげなく飾って楽しむ。それがオーダー仏教(oder仏)、オダ仏教の教祖の美術鑑賞スタイルである。和室に溶け込み、部屋と一体となる絵が名画であると思う。そういう絵は自己主張しない。

 絵とは、自分が主人公として人生道を歩むとき、その道の風景を彩る一輪の花である。何もない延々と続く砂漠の中をとぼとぼと歩むのは寂しい限りだ。その時、オアシスに咲いた一輪の花を見つけると癒される。

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                   秋桜

 

 

2023-11-05  久志能幾研究所通信 2769号  小田泰仙

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2023年10月28日 (土)

巡礼 渡辺陽子人形展 目は語る  in Sagan

人は目で語り、魔女は鼻で根性を見せる

 

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 渡辺陽子さんの人形の眼は、遠くを見つめて、何かを訴えている。そこに何か惹かれるものがある。その一人の少女に魅せられて、我家にきてもらうことになった。ご縁である。魔女?の渡辺さんが生み出す少女の人形は魅力的だ。

 私が人物像の絵画や人形等を見る時は、必ずその目を見る。それがその作品の命だからだ。

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仏師が創る眼 

 仏師の彩色師が佛様の目を描くときは、彫られた目の頂点を探し、佛師が意図して彫った目の位置を探し出して目の位置決めをする。「どんぴしゃに目の位置が決まると、佛様がニコッとするのが分かる」と岩田明彩師はいう。それが目のスイートスポットである。目の位置が決まればあとは佛様と対話をしながら、佛様の表情にあう最適な目に仕上げていく。それが彩色師の仕事である。仏像の眼は、仏師と彩色師の共同の作品である。

 

目にもスイートスポットがある - 久志能幾研究所通信

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決めどころ

 テニスのラケットでボールを打つときも、ボールがテニスラケットのスウィートスポットに当たると、極めて気持ちがよい打撃感が手に伝わる。どんな仕事でも決め所がある。それがうまく決まると、仕事の醍醐味を味わえる。仕事が楽しくなる。仕事の魂と己の魂の邂逅である。そんな出逢いを得るには魂の修行が必要だ。真摯な仕事への取り組みがないと出逢えないご縁である。そんなときは、自分が仕事の鬼となっている。己が鬼にならなければ、仕事の新しい目は探せない。鬼とは己の魂の叫びである。

 

黒目のない眼

 私が高塚省吾画伯の裸婦画に魅了されるのは、その目の清々しさである。きりっとした目は、裸体を晒す羞恥心を微塵とも見せない。

 私が高塚省吾画伯に「清涼」を画いてもらった時、出来た絵に目が無かった。いつものきりっとした黒目が画いてなかった。それで高名な画伯に不躾なお願いで、目を修正してもらった。それで高塚省吾流の眼となり、納得した。

 しかし画廊の店主から、白目の意味を教えてもらった。黒目は外を、白目は自分の内面を見つめているころ表しているという。モジリアーニの描く長く引き伸ばされた顔の目は白目である。自分自身の内面を見つめている目である。そうなると別次元の絵に変貌する。

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    高塚省吾画「清涼」

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 私は、高塚省吾画伯の裸婦画のこういうキリッとした目に惹かれる。

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慈愛の眼

 ミケランジェロのピエタは、マリアをキリスト抱いている姿が真髄である。そのキリストを見つめる眼が慈愛の眼である。「ピエタ」は「慈愛」の意味である。

 不動明王が衆生を見る眼は、怒りと慈しみが籠っている。その眼で迷える衆生を救う。その眼を表現するのが彩色仏師である。

 観音菩薩の見る目も慈愛の目である。衆生の悲しみの声を観て、やさしく慈しみの目で見守る。

 

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 ミケランジェロ ピエタ(レプリカ) バチカン博物館にて

   2010年11月13日   著者撮影

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 大仏師松本明慶作 不動明王

 見る角度によって、怒りの目ともなり、慈愛の目ともなる。

 遠くから見ると、怒りの目と見える。近寄って見上げると慈しみの目となる。それを計算して創られた眼である。

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大仏師松本明慶作 聖観音菩薩像

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2023-10-27  久志能幾研究所通信 2765号  小田泰仙

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巡礼 渡辺陽子人形展 魔女の鼻  in Sagan

 

 目は口ほどものを言い、鼻は心の根性を表す。西洋の魔女はひん曲がった長い鼻で、いままでの生きざまを表している。それだけ多くの苦労をしたのだろう。その魔女が新天地アメリカに渡ると、今までの束縛が無くなり、陽気になり、その鼻も可愛くなり、鼻をピクピクさせて魔法をかけるようになった。それが「奥様は魔女」のサマンサである。日本人はサマンサの魔法を愛した。私もそのドラマに魅了された。そこに人種差別のない慈しみの目と鼻があったからだ。サマンサは鼻をピクピクはさせて魔法を駆使するが、魔法を鼻にかけないのだ。

 そんな陽気なアメリカの魔女に出会って、魅了されたことが渡辺陽子さんを魔女の人形創りに駆り出した経緯である。

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お鼻が高い

 鼻柱が立派だと、その根性は強健だ。鼻で象徴した格言も多い。鼻にかける、鼻持ちならぬ、お鼻が高いのね、等である。目と鼻を観相することは、観相学の基本である。

 西洋の魔女の鼻は必ずひん曲がっている。それで魔女の黒歴史を表しているのだろう。まるで旧家の意地悪い姑のようだ。しかしそのイメージは教会が一方的に黒い印象を付けただけである。市民が思う魔女像とは大きく異なる。そのヨーロッパに対して、新しい家(アメリカ大陸)に嫁いだ新妻の魔女は、可愛い。それが新天地のアメリカの魔女サマンサであると解釈できる。

 

「奥様は魔女」のDVDセット

 魔女ファンの私は、「奥様は魔女」のDVDセット(全256話)を揃えた。(98,000円)

 2018年、大垣で開催されたサラ・デイビス演奏会の後の雑談の場で、私が自宅の書庫の写真をサラ・デイビスに見せびらかしたら、彼女はその書棚にある「奥様は魔女」のDVDセットを目ざとく見つけて、「オー、ウィッチー!」と言って、鼻をつまんでぴくぴくさせて、ニコリとした。それから推察すると米国では。テレビドラマ「奥様は魔女」は大人気だったようだ。

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   自宅の書庫

 (2013年当時は蔵書の総重量が4トン、

  2023年現在は本箱が12個増えて、総重量が5トンになっている)

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 2018年9月17日、河村義子先生が大垣でのサラ・デイビスピアノコンサートを企画し、「彼女」(魔女?)を「世界で一流の音楽を楽しむ会」に招聘した。子供達130名を無料招待した。サラ・デイビスは米国の世界的ピアニストである。私はその時、その演奏会運営のお手伝いをした。「彼女」はとても気さくで、子供好きな人であった。彼女は演奏会後、子供たちが大勢いることに気が付いて、急遽、子供達の為にサイン会を設定した。予定外で事務局は大慌てである。子供たちも大喜びでサイン会の行列にならんだ。下の写真はその時の風景である。

 私は、9月22日の京都アルティでのサラ・デイビス演奏会にも出かけ、ツーショトの写真にもちゃっかり納まった。魔女との出会いも一期一会である。私にピアノの魔法をかけた河村義子先生は、その年の12月25日、天国に飛んで行ってしまった。

 

久志能幾研究所通信: サラ・ビュックナー ピアノの調べ (enjoy.jp)

久志能幾研究所通信: あしながチケット募集「サラ ピアノコンサート」 (enjoy.jp)

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 大垣スイトピアセンタにて   2018年9月17日

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京都アルティでの公演会 サラデイビスさんとツーショト

   2018年9月22日の京都アルティで

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2023-10-28  久志能幾研究所通信 2764号  小田泰仙

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2023年10月26日 (木)

巡礼 渡辺陽子人形展 魔女伝説  in Sagan

 

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 本来の魔女は、古代ゲルマン文明で、土着の宗教として畏敬をもって見られた存在である。それも国ごとに特色ある魔女たちである。例えば、アメリカの魔女は陽気である。日本で言えば、仏教伝来以前の神話の世界やナマハゲ、妖怪たちの世界である。

 古代は、人は目に見えないものに畏敬を抱いていた時代である。当時、魔女は人に危害を与えると考えた存在ではない。祈りの対象でさえある。

 西洋では、良い魔女と悪い魔女が存在する。白雪姫やシンデレラ物語で東条する悪い魔女は、古いキリスト教の影響を受けた文学上のお話しである。文学上の魔女と民衆が抱いていた魔女は同一ではない。

 本来の魔女は、「奥さまは魔女」のサマンサのようにかわいいのだ(と私は信じている)。それを人形として再現したのは、人形作家の渡辺陽子さんである。彼女は40年ほど前、シカゴを訪れた折に出会ったハロウィンで、アメリカ特有の陽気な魔女に魅了され、カルチャーショックといえる感動を受けたと言う。それで魔女を人形作りの技で再現するようになった。その技は人形作家の武藤華世先生(故人)に師事して得た。

 その作品の展示会が岐阜川原町Gallery Sagannで開催されている。魔女にあこがれを持つ私には見ごたえのある作品群である。現代人が思い描く可愛い魔女を、渡辺さんは人形として再現してくれた。

 渡辺さんは神出鬼没で、可愛い魔女のような雰囲気がある。私は彼女にインタビューしようと、何度も試みた。しかし、彼女は訪ねてきた知人と話が盛り上がり、いつも彼女は知人とほうきに乗って何処かに飛んで行ってしまう。魔女を捕まえるのは大変だった(笑)。

 

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魔女伝説

 本来の魔女伝説は、キリスト教が普及する紀元前からあり、古代ゲルマン民族の信仰の対象であったようだ。きっと祈祷で病気を治療したり、霊力ある巫女のような存在を魔女として崇めていたようだ。

 旧東ドイツのハルル地方には、今でも魔女伝説が残っており、魔女祭りも行われている。それは陽気なお祭りであり、中世の魔女裁判とは別世界である。観光シーズンには市の観光課の職員が魔女に扮して、観光客を歓待してくれる。居酒屋では現代の美人魔女が歌を歌い、市民を楽しませてくれる。市民が酒場で酒を飲んで、歌を聞き楽しんでいる。彼女は市民から愛される魔女である。

 ハルル地方の「魔女の集会場」と呼ばれた広場からは、生贄(動物)の血を貯める石の祭壇も出土している。そこは古代ゲルマン民族の大切な儀式の場であったようだ。ゲーテの『ファウスト』に出てくる「ワルプルギスの夜の火祭り」も古代のゲルマン民族の大切な儀式であったようだ。「ワルプルギスの夜の火祭り」は4月30日の日没から5月1日未明にかけての夜を指し、伝えられるところによれば、魔女たちがブロッケン山で大規模な祭りを催して、春の到来を待つという。

 ヒトラーが、そういう言い伝えを信じていたのか不明だが、ヒトラーとその側近は、この祭りの期間中に自殺した。そしてドイツが連合軍に降伏し、欧州に春が来た。

 

中世の魔女伝説

 中世の魔女観は、キリスト教が古代ゲルマン民族の信仰を異端視して、魔女を悪魔の一族として作り上げた虚像である。

 当時のキリスト教世界では、魔女は「悪魔と契約を結んで得た力をもって災いをなす存在」という概念が作られた。15世紀から16世紀の近世ヨーロッパ社会において識字層を中心にこの魔女観が広まって行った。

 その結果、魔女裁判が盛んに行われ、約11万人が裁判かけられ、4万から7万人が処刑されたと推定される。

 15~16世紀に行われた魔女狩りは、キリスト教会の宗教での締め付けと、金稼ぎの術でもあった。無実の女性が火あぶりにされ、その家の財産は教会に没収された。それの恐怖施策で、教会は権力を確固にして、更に暴利を得て堕落して行った。西洋の特権階級は宗教で農奴を縛り、奴隷として、年貢を貢がせ、さらに魔女狩りで無実の人を処刑して巨万の富を得た。

 当時のキリスト教の教義では、異教徒は人間ではないとの考えである。相手が人間ではないので、どんなことをしても構わない。遠征した十字軍も非道の限りを現地で繰り返している。「異教徒は人間ではない」と、ローマ法王からお墨付きをもらっているので、残虐行為のやりたい放題である。それが十字軍遠征の闇の話である。

 その思想の延長線上に、白人の有色人種への人種差別がある。そうでないとあんな残酷なことはできまい。彼らは神から免罪符を得て、残虐の限りをした。そのツケを、現在、欧州は移民問題の騒動で払わされている。

 

現代の魔女狩り

 これが一神教を信じ、独裁政治を信じている人達の末路だ。同じことが、現代でもC国内で行われている。火あぶりどころか生きたまま臓器を摘出して、それで金儲けをしている国があることだ。火あぶりよりも怖しい。それをS学会の御用聞きのK党は、そのC国を援護してウイグル族からの臓器摘出の非難決議を妨害した。そんなK党を支持する人の気が知れない。党員は洗脳されているからだろう。そんな党と連立を組む自民党には愛想が尽きた。

 

2023-10-25  久志能幾研究所通信 2762号  小田泰仙

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2023年9月29日 (金)

巡礼 小貫善二作陶展 練り込みとウツ病、ヒトラーと薬物

 

練り込み

 岐阜河原町 gallery Saganで開催された小貫善二作陶展で、小貫さんから面白いお話しを伺った。

  陶芸における練り込みは、気の遠くなるほど手間のかかる手法である。数種類の違った陶土を重ね合わせていき、作品の模様を作る。それを小貫さんは、万華鏡で見たイメージを、陶土の模様に変えていくという高度な手法を編み出した。

 

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 小貫善二作 練り込み器  in Sagan


技法 練り込み器

 練り込みは、色の異なる粘土を組み合わせ、練り込み模様を作り出す手法である。この技法では、色粘土の組み合わせ方で様々な模様を作り出す。練り込みの色は、通常の粘土の組み合わせで色を作る。また粘土に色顔料を加えて色を作り出す手法もある。

 

 小貫さんは、「練り込みの器を作る時は、あまりに手数がかかり過ぎるので、鬱になりそう」という。だから途中で限界を感じると、製作を止めると言う。だから氏が鬱病になったことはない。それは動物的本能であるようだ。小貫さんの練り込みの陶器を見て、会社時代の鬱病を思い出した。

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器の大きさ

 ところがそういう危機状態でも盲進してしまうのが、現代サラリーマンの哀しい性である。本能よりも理屈や世間体、上司の目だけを優先して生きているサラリーマンたちである。働き過ぎで体が拒否をしているのに、さらに働いて鬱病になってしまう。それは価値観の違う上司に気を使って、働くからだ。自分を殺しての生き方では病気になってしまう。それは自分の生きる軸がなく、他人任せで、なおかつ自分の器が小さいからだ。

 芸術家の小貫さんは、人間として生きている。自分の生き方の軸を持っているから、他人に慮ることもない。小貫さんの行動と比較すると、現代のサラリーマンは人間性を失っている。どちらが進化した人間であろうか、考えてしまう。

 

人生の課題

 人間的にレベルの低い上司の左右されないような大きな人間の器を作る修行をしよう。それが人間に一生かけて課せられた課題である。人間社会で生きて行くと、周りに色んな人間に出会う。その中でどう生きるかが問われる。

 

鬱とは

 「鬱」という字は、樹に葉が生い茂り過ぎた状態を表している。要は、その木の能力以上の葉をつけたので、全体の生命力が弱くなっている状態である。それでも見栄や頭だけで生きていると、体の危険信号を感知できなくなり、そのまま突っ走って鬱病になってしまう。それが現代の状況だ。

 

現代の闇

 私が技術管理課の課長職であった時、鬱病の部下を数人抱えることになった。実戦部隊で倒れた技術者を、その上司が管理課なら閑だろうと私の課に異動させた。そのせいで私は鬱病の勉強をする機会を得た。私はそれで10冊ほどの本を読んで鬱病の研究をした。

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 患者が心療内科の病院に行くと、100%うつ病として診断される。そしてその患者の上司の私でも、部下の病状の情報が全く入らなくなる状態になる。患者の守秘義務を守ると言う大義名分で、患者の情報は伝えられず、上司は医師にも会えない。そういう状態に上司は置かれる。

 医師は、密室状態なので、安心して?患者を薬漬けにすることが出来る。ますます鬱病は治らない。鬱病は薬では治らない。病気になったのは、能力以上に負荷が大きかったのだから、鬱状態を治すには、負荷を減らして人間らしい生活に戻せばよいだけだ。しかしそれでは病院は儲からないので、患者を薬漬けにする。日本の医療の闇である。 

 ヒトラーは専属医モレルにより薬物依存にさせられ、それが原因で、ヒトラーは正常な判断が出来なくなり、第二次世界大戦を凄惨な状況に陥れた。その真の原因はヒトラーの精神を安定させようと投与された薬物であった。ヒトラーは自分の健康には最大の注意を払う真面目な菜食主義者でもあった。そのヒトラーを薬物が襲った。医師は依存性はないとヒトラーを騙して薬物を処方した。いくら悩みがあっても、それは薬では治らない。ヒトラーの病状は、薬物の怖ろしさを見せつける実証実験であった。それは現代の鬱病治療となんら変わらない。脳内への血流への異物の侵入には、鉄壁の防御があるが、薬物の侵入に対しては無防備である。

 

 

鬱病候補者

 うつ病は真面目で責任感が強い人がなりがちである。かのチャーチルでも鬱病になった。エーワン精密の梅原勝彦社長も鬱病になった。日経ビジネスにその記事が出ていた。私は梅原勝彦社長の講話を松下幸之助経営塾で聴いてから、氏に親近感を抱いた。氏は私の会社の機械を使っているとかで、機械の良さを褒めてくれた。嬉しいことだ。

 

鬱病研究

 私も一時鬱状態になった時、病院には行かず、自分で治した。病院に行けば必ず、鬱病と診断され、薬漬けにされることが分かっていた。それは自分の部下の為に、鬱病の原因と治療を研究していたから判明したことだ。そのお陰で、鬱状態を自分で治すことができた。情けは人の為ならず、である。

 当時の会社の保健婦は「小田さんは、軽い鬱状態だから、薬を飲めば、すぐよくなりますよ」とほざいていた。私は、保健婦も医師も信じず、真因はなぜかと、何故なぜを5回繰り返して、追及した。「トヨタ生産システム教」の賜物である。

 

 

2023-09-29  久志能幾研究所通信 2751号  小田泰仙

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