本書には、平山画伯の魂の遍歴の陰の部分が映し出されている。本著は平山郁夫画伯の妻である著者が「家計簿」を通して平山画伯との半生を回顧した手記である。その家計簿は単なる家計簿でなく、メモや買い物の領収書、観た映画のチケット、給与明細までがびっしりと貼られており、それは83冊に及ぶ。それを基にした平山画伯と歩んだ42年の歴史を語った手記である。
主婦と生活社 1998年1600円
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彼女は平山郁夫画伯とは東京美術学校(現・東京芸術大学)の同級生で、彼女が首席で卒業、平山郁夫画伯は次席で, 彼女のほうが成績は良かった。卒業の翌年、日本美術院展で、彼女の「群像」が初入選・初奨励賞受賞(今だに破られていないレコードとなる)する。そんな将来を嘱望された才能をもった彼女は、平山郁夫氏との結婚を決意すると、絵を描くことが命と同じくらい大切なものとして生きてきたのに、その筆を折って、平山氏をサポートする立場に回る決心をする。これは並の人ではできることではない。もちろんその決断には深く悩みが存在したが、彼女の男まさりの性格からすると信じられない決断である。その後の画伯の業績は画伯と著者の2人3脚といってもよいのでは。その決意の表れを次のように記している。
「もし、何かを捨てるなら、自分にとって、いちばん大切なもの、価値あるものを捨てる。そうでなければ、捨てる価値がない。つまらない、どうでもいいものを捨てても、何の値打ちもない。捨てたものに価値があれば、その代わりに私が得るものは、もっと価値あるものだし、価値が生じるにちがいない」(p49)
絵は、鑑賞用の絵とは別に画家の思いを共感するために没頭すべき絵に分類される。画伯は中学生のとき広島で被爆し、ほんの僅かな巡り合わせで生きながられたことに運命の感謝しつつ、その被爆の影響による白血病に苦にしみながらも精神的で宗教的な雰囲気の絵画を生み出してきた。画伯の作品は精神の邂逅であろう。それは彼女も同じ道をたどったのであろう。
何と言われようと、弁解などしませんが、私たちは、お遊びで人生を生きたことは、ただの一日もありません。「芸術は、悲しみと苦しみから生まれる」とピカソは言い、「絵は見るものではない。一緒に生きるものだ」とルノワールと語りましたが、私たちも、悲しみと苦しみをバネに、鑑賞用、床の間に飾る絵ではない絵を生み出そうと、ともに闘ってきました。(p145)
仕送り先の実家が、金の件で非常事態になったとき、著者の父が言った一言がその後の人生を作ったと述べている。著者は夫のためアトリエのある家を建てるつもりで必死に貯めていたお金を、奈落の底に落ちるような恐ろしさを感じながらも手元の大半の金を実家に送金する。その後、不思議なことに大きなアルバイトの話が舞い込み、そのうち「土地を買ってしまえば、何とか家を建てたいと踏ん張るだろう。洗いざらい吐き出して、後に賭けよう」との考えが閃き、蛮勇を奮って土地も買うことになる。その賭がその後に思わぬ波及効果を及ぼすことになる。
「金には何の値打ちもない。金の使い道でその金の値打ちが出てくる。今はそのお金をお義父さんのために使いなさい。」
「金はな、出してしまえば、また入ってくる」と。(著者の父の言葉)(p149)
絵とは、そんなに小難しいものでなく、画家というのもが、世間一般からかけ離れた特別の人種で、特別な生き方、考え方をするといことはなく、どこにもあるありふれた物語と、だれもが経験したことのある出会いや分かれ、喜びや悲しみを土台とし生きているのだということです。
ただ、ほんの少しだけ、それに注いだエネルギーが他人より多かった、わずかに、ほかより、純度が高かっただけなのだろうと思います。(p164)
当時の私たちの前に、「未来」はありませんでした。「未来展望」すらありませんでした--たただ、ひたすらに、精一杯、その日、果たすべきことを果していくしたなかったのです。道は後からついてきたのであって、あらかじめ存在していたのではありません。(p172)
最後の言葉は何回読んでも良い響きがある。本書の題名に昇華される価値ある言葉であり、生きる勇気を与えてくれる。
人間社会での成果は、ほんのわずかに、他より優れているか否かで決まる。ただし、そのわずかな差を出すには大変な努力が必要だ。実績で示す言葉は実に重い。
後日談
志も生老病死である。自身の才能を殺して平山郁夫画伯に尽くした平山美智子だが、平山郁夫画伯の死後、遺産隠しで国税庁から摘発を受けた。
老いるとは、志も老いることなのか。高齢の87歳の余命いくばくもない身で、現金2億円をどう使うつもりであったのか。老いても金銭欲は消えないようだ。「欲」とは、「谷」に突き落とされても「欠」けない性と書く。哀しい人間の性である。彼女は素晴らしい道を創ってきて、最後にその道に汚点を残したのが惜しまれる。
平山郁夫氏の遺族、遺産2億円隠す 国税局が指摘
2009年に79歳で死去した日本画家で文化勲章受章者の平山郁夫氏の遺産相続を巡り、妻(87)が東京国税局の税務調査を受け、2億円の遺産隠しを指摘されていたことが13日、分かった。自宅にある現金の存在を知りながら意図的に申告しなかったと認定され、追徴税額は重加算税を含めて約1億5千万円。既に修正申告し、納付したとみられる。
日本経済新聞 2013年7月13日 11:26
2023-09-17 久志能幾研究所通信 2742号 小田泰仙
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「時空四路」
岩田泰政作品展が岐阜川原町 gallery Saganで8月4日~29日で開催されている。岩田さんの作品はポップな現代アートである。
「ポップな」とは、ポピュラー(popular)の略で、1960年代に米英に流行した前衛的な美術様式である。現代的なスタイルを指し、「軽い」「気取らない」などを意味する。
岩田泰政作品群は、おもちゃ箱をひっくり返したような雰囲気である。
ポップアート(pop art)は、現代美術の芸術運動のひとつで、大量生産・大量消費の社会をテーマとして表現する。雑誌や広告、漫画、報道写真などを素材として扱う。1950年代半ばのイギリスでアメリカ大衆文化の影響の下に誕生したが、1960年代にアメリカ合衆国でロイ・リキテンスタインやアンディ・ウォーホルなどのスター作家が現れ全盛期を迎え、世界的に影響を与えた。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
頭の固い私にとって、ポップアートは少し縁遠い作品であった。私が岩田さんに話を聞いて感じたのは、この作品群が「法華な」作品だと言うことだ。岩田さんの作品は、ポップアートのような軽いイメージとは一線を隔している。心が感じた様をもっと素直に表現した作品群である。
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「時空四路」
この個展のカンバン作品名は、「時空四路」である。彼岸とこの世を結ぶ道を描いたという。時空とは彼岸とこの世を隔てる空間である。「四路」だから天国道、人間道、畜生道、地獄道かと解釈するか、また春夏秋冬の意味と取るかは見る人次第である。またその順序が有るかと問うと、それは全くないという。画伯は思ったことを、構えずに描いた、感じたままを表現したという。だから私はその表現を「法華な」世界と定義した。
「時空四路」を横から見て
この作品は平面ではなく、彼岸とこの世を上下の板に表現している。だから道は上下で断絶している。この世の青い道が、あの世では赤い道である。この世では青二才が、あの世では赤ん坊に戻る。そんな意味かと推定した。道の先端は西洋の城壁の上にある凸凹を表している。行きつく先の城の背景が、白か黒か灰色か、意味深長である。
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法華とは
「法」とは三水偏に「去る」と書く。つまり水は上から下に去る、それは何時でも何処でも、地球上で通用する「法」則である。
人間は、「法」と言う名の掟を作って、世界を支配する。「法は人によって興る」というように、「法」は人に背負われ、その人に命を与えられる。本来の「法」は自然な現象をあらわしたものだ。頭(上)に浮かんだ内容を上から下に自然に表現する。下とは具体的な行動を意味する。それが美術の手法であったり、彫刻の手法や手芸の手段であったりする。横山大観は、弟子に「音を絵に出来なければ本物でない」とまで言った。だから芸術の手法は様々である。その「法」の一つが「華」開いたのが、岩田画伯の作品である。私はそう解釈した。それで私は画伯の作品を「ポップな」ではなく、「法華な」と表現した。
法華経とは、人間が本来具わっている「佛」の本性を明らかにする経典である。人は誰でも仏になれるのだ。
私は、俗世間に染まらず、画業に専念する画伯に佛の一面を見た。
Saganさんの話しでは、見に来た人の中で、玄人の人には評価が高いようだ。その値段の安さに驚いていると言う。もっと評価されてもいいのだろう。古典絵画に洗脳されている私には少し世界が違うようだ。
岩田泰政画伯 in Sagan
こもれ木から伝わる風を表現
丸い地球に描かれたトラックを展開すると上記のようになるという。
吊るし足首 吊るし首というわけにもいかず、足首にしたと言う。ユーモアである。ボディランゲージとして、生首、手首、次に足首の順である。足首は口ほどにモノを言う?
材質はセメントとアクリル 片足で価格15,000円
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ゲルニカは芸術ではない
画伯は修行時代、師から「ピカソのゲルニカは芸術ではない」と指導されたという。私はその言葉に衝撃を受けた。私の芸術の固定観念に衝撃を与えた。それでゲルニカ、芸術、アートとは何かを調べるご縁を頂いた。別記事でこの件はまとめる予定である。
2023-08-26 久志能幾研究所通信 2732号 小田泰仙
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下記は押入れのタイムカプセルから出てきた芸術関係のお宝である。
カレンダー「ミロのビーナス」1971年、三菱銀行発行
当時、このカレンダーが週刊誌上でも話題になり、その素晴らしさを絶賛していた。私はこれが欲しくて、名古屋まで出かけて、三菱銀行に口座を開設した。三菱銀行の支店が大垣には無かったからだ。口座を開くのが、このポスターを手に入れる条件であった。こだわりがある私は、ご丁寧に2つ入手した。
今見ると、当時の印刷技術のレベルの低さが分かる。それは仕方ない。50年前の印刷技術だ。当時はそれでも三菱銀行が力を入れて作ったポスターであった。写真撮影は女性写真で超有名な秋山正太郎氏、印刷は当時の最高レベルの技術をもった凸版印刷株式会社が担当した。このカレンダーのデザインと担当したグラフィックデザイナーの記事も出てきた。それで三菱銀行の力の入れ方が分かる。
当時、私はこのカレンダーに大満足であった。しかし50年も経つと、流石にあちこち紙が劣化して欠落している。ポスターだって生老病死である。
50年前の私が何故こだわったかを今、考えている。この作品は2000年前のギリシャ時代に作られた。しかしその美しさは現代でも風化していない。つまり本物の美であるからだ。それを分った昔の自分の感性が嬉しい。
実際にルーブル美術館でミロのビーナスに出会えたのは、それから20年後であった。見たいと長く思っているといつかは実現する。それも自分の力で実現できたのは、良き想い出である。会社創立60周年の記念論文募集で最優秀賞を勝ち取り、そのご褒美でフランスに行けたのだ。
その三菱銀行も東海銀行、東京銀行を吸収合併して、三菱東京UFJ銀行となり、その後、三菱UFJ銀行に名前を変えた。名前の変遷から、銀行内部の権力闘争が垣間見えて、当事者の苦労が偲ばれる。私の勤めた会社も合併となり、その軋轢で苦労したからだ。
オフセット12色刷 凸版印刷株式会社
ルーブル美術館にて 1991年6月6日
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ポスター「巨匠ピカソ88歳の青春」 昭和46年(1971年)ごろ
このポスターは大学の製図実習で書いた図面束に挟まっていた。この展示会で見たピカソの作品は250点余もあり、多すぎてあまり記憶にない。ピカソの線画での卑猥な女性裸体像の乱舞であった。88歳の老体でも性をモチーフにするピカソのバイタリティーは素晴らしいと思う。
しかし、その50年後の今にして「88歳の青春」というキャッチコピーに痺れた。今にして50年前のキャッチコピーに痺れるとは、私もまだ若い? 私は、その「青春」という詩に痺れている。
この展示会の会場の丸善ビルは数年前に取り壊されて、今はない。本の売れなくなった時代の象徴である。いくら「88歳の青春」でも、全てのものは生老病死である。ピカソは1973年に91歳で世を去った。私の大学卒業年である。ピカソは88歳の1970年、アヴィニョン教皇庁で140点の新作油絵展を開催している。ピカソは生涯青春と言ってもよいほど精力的に作品を生み出した。見習いたい生き方だ。
ポスター(部分)
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青春 サムエル・ウルマン
青春とは、人生のある期間ではなく、心の持ちかたのを言う。
青春とは、薔薇の頬、紅の唇、しなやかな肢体ではなく、強靱な意志、豊潤な創造力、炎える情熱をさす。
青春とは、人生の淵泉の清新さと、夢およびそれを実現させる計画を抱だいた心の状態を言う。
青春とは、怯懦を退ける勇気、安易を振り捨てる冒険心を意味する。ときには、20歳の青春よりも60歳の人に青春がある。年を重ねただけでは人は老いない。理想・夢を失うときに初めて人は老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、情熱を失えば心もしぼむ。苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い、精神は芥となる。
60歳であろうと16歳であろうと人の胸には、驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探究心、人生への興味の歓喜がある。君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。人から神から、美・希望・喜悦・勇気・力の霊感を受けるかぎり君は若い。
霊感が絶え、精神が皮肉の雪に覆われ、悲歎の氷に閉される時、20歳であろうと人は老いる。頭を高く上げ、希望の波を捉えるかぎり、80歳であろう人は青春として生きる。
宇野収・作山宗久著 『青春』より
(産業能率大学出版部刊)
94.05.23一部修正追記 小田
Youth 『青春』 Samuel Ullman
Youth is not a time of life; it is a state of mind; it is not a matter of rosy cheeks, red lips and suppleknees; it is a matter of the will, a quality of the imagination, a vigor of the emotions; it is the freshness of the deep springs of life.
Youth means a temperamental predominance of courage over timidity of the appetites, for adventure over the love of ease. This often exists in a man of sixty more than a boy of twenty. Nobody grows old merely by a number of years. We grow old by desering our ideals.
Years may wrinkle the skin, but to give up enthusiasm wrinkles the soul. Worry, fear, self-distrust bows the heart and turns the spirit back to dust.
Whether sixty or sixteen, there is in every human being's heart the lure of wonder, the unfailing child-like appetite of what's next, and the joy of game of living. In the center of your heart and my heart there is a wireless station; so long as it receives messages of beauty, hope, cheer, courage and power from men and from the Infinite, so long are you young.
When the aerials are down, and your spirit is convered with snows of cynicism and the ice of pessimism, then you are grown old, even at twenty, but as long as your aerials are up, to catch the waves of optimism, there is hope you may die young at eighty.
2023-07-13 久志能幾研究所通信 2718号 小田泰仙
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会期 6月3日~6月27日 11時~17時(最終日は16時まで)
場所 岐阜市 川原町 Gallery Sagan
平野峰生の鉛筆画で表現の極致を目指した肖像画の作品が展示されている。平野画伯は、鉛筆での表現の極致を目指している。その息遣いと人の温もりが感じられる肖像画が、Gallery Saganで展示されている。
鉛筆で人の顔をこれだけ生々しく表現できるとは、私には「しょうじょうが」(想像?が)つかなかった。肖像画とはその人の人生を俯瞰して、作り上げる創造物である。肖像画を描くには、人物の心の内面まで見通せないと描けない。ある意味で観相師でもある。
画伯は依頼受けて肖像画を描く場合、多くの時間をかけて面談し、対談中に写真も多く撮り、その人の一瞬に浮かぶ一番良い笑顔を見つけ出し、その顔を創造して、描くという。だからその製作には時間がかかる。だからその出来栄えは多くの人から称賛されている。
故人の遺影
そんな良き評判から、故人の肖像画の依頼も多くあるようだ。私もいま母の肖像画の作成を検討している。母は写真嫌いで、良い写真が残っていないのである。今は小さな写真を引き伸ばして遺影としているが、写真が少々ピンぼけで何とかしたい思っていた。今回は良きご縁のようだ。
西洋文化と日本文化
私は、いままで多くの肖像画を日本と欧米の美術館で鑑賞してきたが、二つは次元の違う作品群であると結論付ける。その差は、欧州の宮殿と京都の御所や桂離宮の造りの差に似ている。欧州の宮殿は、見た目は豪華絢爛たるつくりだが、細部の目を凝らすと雑な造りが目につく。ウィーンのハフスブルグ家の宮殿の内部装飾は、見た目は豪華絢爛だが、細部はがさつなつくりであった。それと比較すると日本の職人芸は神技である。西洋の宮殿の造りは、日本の御所等の清楚で緻密な造作とは別次元である。
西洋の油彩絵画は、全てを油絵具で表したいと絵の具で画面を埋め尽くす技法である。西洋の思想では、何事も「人間が自然を征服した」と表現するように、すべて人間の支配下に置きたい欲望の象徴なのだろう。だから想像の余地のない描き方のようだ。ドエライモンのように「これでいいのだ。文句言うな」である。その肖像画も貴族や金持ちが金に任せて画家に書かせた美術品である。応接間や迎賓の間で見せびらすための作品が多い。
それに対して、平野画伯の鉛筆肖像画は空白と色使いの余韻を感じさせるような文学作品である。肖像画の余白の空間がその人の人生を物語を語っている。
その西洋の油彩の肖像画と比較すると、平野画伯の鉛筆肖像画は何故かほっとする。5つ星の高級レストランで調味料ゴテゴテのフランス料理を食べるより、日本の高級料亭で素材の味を活かした和食を食するほうが気持ちがよい、それと同じような感覚である。
肖像画はその人の人生風景画
その土地の風景は、その土地の歴史とその土地の住民の生きざまが創り出される。同じように建屋もそこに住む人の心が表れる。
顔も同じで、その人の今までの喜怒哀楽の歴史が刻まれている。笑顔で過ごした人の顔は、法令の筋肉が鍛えられて深い溝が顔に刻まれる。感動をせず、無表情に過ごした人の顔は、のっぺらぼうになりがちだ。終始、しかめっ面をしてきた人の顔はそれが顕著にあらわれる。眉間にも厳しい皺が刻まれる。だから顔には、その人の歴史が刻まれる。顔とはその人の歴史の風景画なのだ。心がその人の顔を造ってきたといってもよい。
笑顔こそ、回りの人に幸せをもたらす宝物である。平野画伯の肖像画は、その笑顔が命の象徴なのだ。正に和顔賛歌こそが、平野画伯の肖像画のテーマである。
馬場恵峰書
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2023-06-26 久志能幾研究所通信 2710号 小田泰仙
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会期 6月3日~6月27日 11時~17時 (定休日 水・木)
場所 岐阜市 川原町 Gallery Sagan
平野峰生画伯の鉛筆画で表現された作品が展示されている。平野画伯は、鉛筆での表現の極致を目指している。それが感じられる鉛筆画の数々が、Gallery Saganで展示されている。
自分のやっていることがどんな社会貢献になっているか、平野峰生画伯は迷いながら鉛筆の筆を進めている。平野画伯の絵には、描く悩みが表現されている。
その絵が社会で認められ、価値ある値段で取引されていれば、社会の営みの一部として、社会に役立っている証である。誰もその価値を認めなければ、お金を払うこともない。
平野峰生画伯の鉛筆画は肖像画を中心に広く受け入れて、相応の価格で取引されている。それだけ社会の役立っている証である。その創造物が社会に受け入れられて、新しい価値を生んでいる。
芸術とは
「芸」という字には、匂い草の象形文字である。芸術作品は、ある特定の時代、特定に人にしか受け入れられないという冷酷な宿命がある。その作品が何時でも何処でも誰にでも受け入れられるわけではない。その絵の価値が認められるのに、時代の価値観が変わり、その時間がかかる場合もある。
社会は一歩前に進み過ぎる人を狂人と呼び、半歩前に進む人を先駆者と呼ぶ。時代と共に歩む人は迎合者である。歴史はその狂人を革命者と称える。
ゴッホもそれが認められたのは、ゴッホの死後である。ゴッホは、生前、極貧の中、筆を折らず、描き続けた。何か鬼気迫る姿である。天才は社会から一歩前に進み過ぎたきらいがある。それはある意味、宗教の祈りに似た心境かもしれない。
絵画の歴史
人は太古の時代から絵を描いてきた。先史時代の洞窟や岩壁の壁面および天井部に描かれた洞窟壁画は、現存する人類最古の絵画である。壁画は4万年前の後期旧石器時代より製作されている。これらは社会的に敬われていた年長者や、シャーマンによる作品であると信じられている。
当時の食料確保も大変な時代に、絵を描く人がそれで生計を立てようとして描いていたとは思えない。しかし実際に洞窟等ですばらしい壁画が描かれていることは、それを専門にしていた人がいた証拠である。推定するに、それは目に見えない何らかの偉大な存在への豊作、豊漁、豊狩への捧げものとして祈りの形であったのだろう。それを年長者や、シャーマンが描き、彼らを部族の皆が支えていたのだろう。そう考えると、絵を描くことは神聖な神への祈りであったようだ。
最期の豊作
私が一番感動した絵は、田園の稲の風景画である。平野画伯の描く鉛筆画での一本一本の稲、一粒一粒の稲粒を描写する様は、祈りである。油彩では決して表現できない手法である。祈りとは言葉だけの世界ではない。祈りとは具体的な行動の繰り返しである。それで出来上がった創造物が、見えざるサムシンググレートへの捧げものなのだ。それは祈りの昇華である。
その風景画は、二度とない最期の豊作の姿の遺影である。農家の人が高齢で、その年で稲の作付けを止めるという。画伯は、その風景を鉛筆画で遺したのだ。それは今まで豊かな稲を生んでくれた大地への感謝の絵でもある。
それこそ太古の時代に洞窟や岩壁の壁面や天井部に書かれた絵とおなじではないか。画伯は、「風景はその土地に住む人々の心の心映え」と言う。その心映えは、古代人が豊作、豊漁、豊猟を願って描いた絵と同じである。素朴な岩石の面に描いた技法が、現代の進化した技術を使って精密に描かれている。どちらも心の反映であることには変わりはない。
Gallery Sagan
平野峰生画伯
部分
部分
平野峰生プロフィール
1962年、愛知県生まれ。弥富市在住。
愛知県立芸術大学・大学院デザイン専攻を修了。
ランドスケープデザイン・建築設計事務所勤務を経て、
1996年アーキテクチュアル・レンダラー、画家として独立。
2008年 「産土の心-飛騨種蔵 冬から春ヘ-」(飛騨市宮川町文化祭)
2009年 「産土の心-飛騨種蔵 二度目の四季—」(飛騨市宮川町聖圓寺)
2010年 「産士の心-飛騨種蔵-」(岐阜市十六銀行本店ギャラリー)
2012年 平野峰生鉛筆肖像画展「和顔鑽仰」(愛知県江南市、ギャラリーみわ)
平野峰生鉛筆肖像画展「和顔鑽仰」(東京都青山、たまサロン)
平野峰生鉛筆肖像画展「和顔鑽仰」(名古屋市中区、ギャラリーチヨダ)
平野峰生鉛筆肖像画展・講演会(北海道野付郡別海町、本覚寺報恩講)
平野峰生鉛筆肖像画・風景画展「和顔鑽仰」(愛知県津島市)
2013年 平野峰生鉛筆画展「肖像と風景」(滋賀県米原市、グリーンパーク山東 伊吹の見える美術館)
敬老の日「はつらつ健康まつり」講演・展示(名古屋市東区)
2014年 平野峰生鉛筆肖像画展「和顔鑽仰 2014」(東京都大塚マスミギャラリー)
平野峰生鉛筆風景画展「産土の心-飛騨種蔵-」(東京都青山、たまサロン)
朗読・対談「画に耳をすます。朗読を見つめる」(東京都大塚、マスミスペースMURO)
平野峰生鉛筆肖像画展「和顔鑽仰 2014」(愛知県江南市、珈琲&ギャラリ―予約席)
2015年 久野博史×平野峰生二人展「感動がこころをケアする」(愛知県豊川市)
平野峰生肖像画展「燈の記・和顔鑽仰」(愛知県岡崎市、画廊・ギャラリー Musee Soleil)
2016年 「和顔鑽仰 in シニアステージいつきの夢」(愛知県一宮市、笑顔の家プロジェクト)
「和顔鑽仰 in 南生協よってって横丁」(名古屋市緑区、笑顔の家プロジェクト)
平野峰生鉛筆画展「画に耳をすます-飛騨種蔵から始まる物語-」(岐阜県飛騨市、飛騨市美術館)
2017年 平野峰生鉛筆風景画展「空歩庭園」(岐阜県土岐市、かふぇぎゃらりぃ五斗蒔)
2018年 平野峰生鉛筆肖像画展「観自在記への扉」(岐阜県恵那市、ギャラリーなすの花)
2020年 平野峰生鉛筆肖像画展「ありがとうの KISEKI 2020」(愛知県江南市、珈琲&ギャラリー予約席)
2023-06-20 久志能幾研究所通信 2706号 小田泰仙
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知人に誘われてヤマザキマザック美術館で開催されている「八幡はるみ GARDEN展」に行ってきた。誘われなければ、絶対にご縁のなかった作家である。ご縁に感謝である。
「八幡はるみ GARDEN展」
会期 2023年04月21日(金)から2023年08月27日(日)
場所 ヤマザキマザック美術館
美術館で確認すると、特別展の展示品は撮影可とのことで写真撮影をさせてもらった。聞いてみるものだ。欧米の美術館では撮影は、フラッシュをたかなければ可能なので、日本の美術館でもそうして欲しい。
八幡はるみ氏の作品
芸術とは独創性の世界である。天上天下唯我独尊の世界である。自然界の材料やデジタル作品をそのまま持ってきても芸術とは言えない。その作品に作者の独創性をどれだけ盛り込めるかである。
この芸術品は、工業製品と芸術の融合である。八幡はるみ氏の作品は、染物、織物、刺繍、デジタル材料と言う工業製品、工芸製品を統合して、芸術の域に創造した芸術作品である。
大画面で表現された美しく咲き誇る花々、まばゆい光につつまれた溢れんばかりの緑の花の洪水。色あざやかな植物が大画面を埋め尽くす、八幡はるみのかぐわしき染色の世界が展開する。私には新しい世界であった。今までは絵画と言うとキャンパスに油絵具でかかれるとの固定観念を抱いていた。しかし八幡はるみ氏の作品を見て、創造性という観念に感心した。この展示会で学んだことは、創造性には使えるものは全て使え、である。
しかし欲しいなとは思ったが、盗んできて家に飾るにはしては、作品が大きすぎる。この大きさでは自宅に飾れない(笑)。また家にある他の作品に比べて、和室の居間には異色過ぎるので、雰囲気が合わないようだ。それで幸い捕まるような行動には出なかった?
創造
創造とは新しい価値観の生み出しである。発明は全く新しいものの生み出しだが、創造は今まであるものを分解、再結合をして、新しい価値を創り出すことだ。発明は天才にだけ可能だが、創造は我々凡人でも出来る。
「創」と言う漢字は、「キズ」と「リ」から構成される。「リ」は刀と砥石の象形文字である。「キズ」の傷とは刀傷のことである。刀で傷を受けると血が噴き出し、それに焼酎を吹き付け、なにくそとがんばるのだ。それで傷口から新しい細胞が生れ、傷口を埋めていく。新しいものを創り出すには血まみれの体験が必要だ。それが創造である。
創造とは、今あるものを分解、再結合して新しいものを生み出すことだ。ゼロから生み出す発明ではないのだ。ソニーのソニーのウォークマンだって、新技術はない。従来の技術を再統合しただけである。それが創造である。
2023-06-03 久志能幾研究所通信 2697号 小田泰仙
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岐阜市川原町 Gallery Saganで開催されていた「吉川充 陶展」の作品群に刺激を受けて、縄文文化の確認のため縄文遺跡に行こうと思い立った。
それで2023年5月25日、静岡の登呂遺跡を思い出し新幹線に飛び乗った。しかし着いた場所は2000年前の弥生時代の登呂遺跡であった。本来の目的地である縄文時代は6000年前である。私の勘違いでタイムマシンのナビ設定を4000年も違えた。時代が違うと雰囲気が全く異なる。しかし歴史遺跡を見ることは先人の知恵を受ける事だ。登呂遺跡に来れたことは「吉川充 陶展」が招いてくれたご縁だから、登呂遺跡でしっかりと弥生文化を観察した。
その結論 「縄文文明人、弥生文明人は現代人より人間的で文明的である。なぜなら縄文文明人、弥生文明人は人の殺傷用の武器を持っていなかった。それで13,000年も時代が続いた。日本の近代でさえまだ155年間である。彼らは自然に対して畏敬の念を持っていた。1000年間も続いたローマ帝国のローマ人より文明的である。」
登呂遺跡 2023年5月25日撮影
登呂遺跡博物館内の展示
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時代の長さ
縄文時代は13,000年間も続いた平和な時代である。弥生時代でも約650年続いた。縄文時代に比べれば、弥生時代の650年間は短いが、江戸時代の260年間に比べればはるかに長い期間である。明治以降、現代までの近代時代でもわずか155年しか経っていない事を比較すれば、驚異的である。
文明度とは?
グローバル経済主義で、文明を進化させ、技術を発達させ、貨幣経済を発達させ、武器を開発して、戦争で植民地強奪競争をしていた時代に比べて、何方が文明的なのだ、と考えてしまう。
徳川家康は日本を鎖国して、日本を守った。それが逆に欧米の植民地強奪戦争から距離を置いた結果となり、幸いしたようだ。現地人を虐殺し、植民地にして領土を広げた欧米人が文明的ではないだろう。
平和維持
江戸時代は階級社会、封建社会で、強引に平和を維持した時代である。しかし、縄文時代も弥生時代も戦争のない平和な時代が続いた。その期間の長さでも世界の文明の中、稀有の存在である。縄文時代も弥生時代も遺跡からは、人を殺傷する武器が出土されていない。調査によると縄文時代では、争いで亡くなった遺骨は1.8%ほどで、他の文明遺跡に比べて5分の一ほどだと言う。1000年続いたローマ帝国でもその歴史博物館の展示を見ると、城攻めや人との戦いの殺傷道具が多く展示されている。欧米人は、武器の発達が文明の進化と思っているようだ。
縄文土器の模様
当時の平均寿命は30~40歳であったようだ。その状況で種族の繁栄のための性の営みは重要視されていただろう。またその性のおおらかさ、自然界への怖れへの現れなのだろう。それが縄文土器に表されて呪縛的な文様であるようだ。また女性賛歌の土偶であるようだ。その生への願いは直接的に土器の模様に込められているようだ。女性の土偶は多く作られたが、男性のそれは数が少ない。それだけ女性への畏敬があったのだろう。縄文土器は実用的には無意味で華美な装飾がされている。それが弥生時代になると、文明が進歩して稲作生活に変わり、生活がより安定したため、実用的な土器に変化していて、呪文的な土器は少ない。
吉川充先生作の陶器の彩色模様は、その縄文人の真剣な願いを込めた模様にヒントを得ようとしたようだ。
弥生土器
弥生土器
吉川充作 陶器 縄文の模様を施す 画廊 Saganにて
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ローマ文明博物館
2010年、私はイタリアに10日間の旅をした。ローマにある「ローマ文明博物館」で、ローマ帝国の歴史を学んだ。そこには1000年も続いたローマ帝国の歴史が展示されていた。いまそれを思い出し、縄文文明、弥生文明と比較した。
ローマ帝国1000年の歴史は他国との戦いの歴史で、「ローマ文明博物館」はその遺物の展示館である。他国の城を攻める大型兵器、石の建屋を建設してきた歴史の展示であった。
下図は「ローマ文明博物館」の展示品 2010年 著者撮影
ローマ文明博物館の展示品 紀元前2世紀くらい
住居の構造は縄文文明、弥生文明と大差なし
紀元前7世紀くらいの兵士の制服
当時、日本は縄文時代の後期である。
武器を誇らしげに展示する戦いの文化には考えさせられる。
当時の投石器 模型
当時の城攻めの様子
人を殺傷する武器や城攻めの大型武器の展示品が多い。縄文文明、弥生文明と大違いである
獲得した領土を誇示する皇帝
ローマは一日にしてならず。ローマ帝国は、他国を1000年かけて攻めて、ローマ帝国に包含同化していき、少しずつ帝国領土を拡大していった。ローマ帝国の1000年は、戦いの歴史であった。
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進化?
文明の発達とは、人間の文化・精神面の進化である。それが武器に同調した進化では本末転倒である。スマホをいくらいじっても人間性は向上しない。弥生時代の登呂遺跡を見学して、縄文時代の調査をして頭に浮かんだ思いである。
文明の進化より大事なことは、人の進化である。人として一番大事なことは、人が動物として生まれて、人間に成長することだから。縄文時代に自然界の何物かを畏敬して呪文的な土器を作っていた縄文人のほうが、文化的で精神的に高尚ではなかったのか。現代はなぜか精神的にはどんどん貧困になっているようだ。当時は、死刑になりたいからと無差別殺人を犯すような「動物」はいなかったはずだ。 他人の不幸を省みず、グローバル経済主義を驀進させて、金儲けのため大量殺戮兵器を大量生産する野蛮人は文化的ではないだろう。
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2023-05-29 久志能幾研究所通信 2695号 小田泰仙
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2023年5月18日、名古屋名東区Gallery 芽楽で開催されている「柴田節郎陶展 跡-83」の展覧会を鑑賞した。「柴田節郎陶展」は3月にGallery Saganで開催された。その続きの鑑賞である。残念だが柴田節郎氏は在廊されなかったが、良い作品を鑑賞することが出来た。今回は前衛的な作品ではなく、魅力的な茶碗が大多数であった。いいなと感じた作品は既に販売済のマークが入っていた。
このギャラリーは、住宅街に位置し、普通の一軒家の一階部分を画廊と喫茶室にした構成であった。落ち着いた雰囲気の画廊で、多治見焼のコーヒー茶碗で美味しいコーヒーを堪能した。美術品の鑑賞には良き環境が必要なのを再確認した。
Gallery 芽楽
2023-05-23 久志能幾研究所通信 2691号 小田泰仙
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