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2023年6月26日 (月)

巡礼 顔は人生の風景画 平野峰生鉛筆画展

 

会期 6月3日~6月27日 11時~17時(最終日は16時まで)

場所 岐阜市 川原町 Gallery Sagan

 

 平野峰生の鉛筆画で表現の極致を目指した肖像画の作品が展示されている。平野画伯は、鉛筆での表現の極致を目指している。その息遣いと人の温もりが感じられる肖像画が、Gallery Saganで展示されている。

 

 鉛筆で人の顔をこれだけ生々しく表現できるとは、私には「しょうじょうが」(想像?が)つかなかった。肖像画とはその人の人生を俯瞰して、作り上げる創造物である。肖像画を描くには、人物の心の内面まで見通せないと描けない。ある意味で観相師でもある。

 画伯は依頼受けて肖像画を描く場合、多くの時間をかけて面談し、対談中に写真も多く撮り、その人の一瞬に浮かぶ一番良い笑顔を見つけ出し、その顔を創造して、描くという。だからその製作には時間がかかる。だからその出来栄えは多くの人から称賛されている。

 

故人の遺影

 そんな良き評判から、故人の肖像画の依頼も多くあるようだ。私もいま母の肖像画の作成を検討している。母は写真嫌いで、良い写真が残っていないのである。今は小さな写真を引き伸ばして遺影としているが、写真が少々ピンぼけで何とかしたい思っていた。今回は良きご縁のようだ。

 

西洋文化と日本文化

 私は、いままで多くの肖像画を日本と欧米の美術館で鑑賞してきたが、二つは次元の違う作品群であると結論付ける。その差は、欧州の宮殿と京都の御所や桂離宮の造りの差に似ている。欧州の宮殿は、見た目は豪華絢爛たるつくりだが、細部の目を凝らすと雑な造りが目につく。ウィーンのハフスブルグ家の宮殿の内部装飾は、見た目は豪華絢爛だが、細部はがさつなつくりであった。それと比較すると日本の職人芸は神技である。西洋の宮殿の造りは、日本の御所等の清楚で緻密な造作とは別次元である。

 西洋の油彩絵画は、全てを油絵具で表したいと絵の具で画面を埋め尽くす技法である。西洋の思想では、何事も「人間が自然を征服した」と表現するように、すべて人間の支配下に置きたい欲望の象徴なのだろう。だから想像の余地のない描き方のようだ。ドエライモンのように「これでいいのだ。文句言うな」である。その肖像画も貴族や金持ちが金に任せて画家に書かせた美術品である。応接間や迎賓の間で見せびらすための作品が多い。

 それに対して、平野画伯の鉛筆肖像画は空白と色使いの余韻を感じさせるような文学作品である。肖像画の余白の空間がその人の人生を物語を語っている。

 その西洋の油彩の肖像画と比較すると、平野画伯の鉛筆肖像画は何故かほっとする。5つ星の高級レストランで調味料ゴテゴテのフランス料理を食べるより、日本の高級料亭で素材の味を活かした和食を食するほうが気持ちがよい、それと同じような感覚である。

 

肖像画はその人の人生風景画

 その土地の風景は、その土地の歴史とその土地の住民の生きざまが創り出される。同じように建屋もそこに住む人の心が表れる。

 顔も同じで、その人の今までの喜怒哀楽の歴史が刻まれている。笑顔で過ごした人の顔は、法令の筋肉が鍛えられて深い溝が顔に刻まれる。感動をせず、無表情に過ごした人の顔は、のっぺらぼうになりがちだ。終始、しかめっ面をしてきた人の顔はそれが顕著にあらわれる。眉間にも厳しい皺が刻まれる。だから顔には、その人の歴史が刻まれる。顔とはその人の歴史の風景画なのだ。心がその人の顔を造ってきたといってもよい。

 笑顔こそ、回りの人に幸せをもたらす宝物である。平野画伯の肖像画は、その笑顔が命の象徴なのだ。正に和顔賛歌こそが、平野画伯の肖像画のテーマである。

 

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  馬場恵峰書

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2023-06-26  久志能幾研究所通信 2710号  小田泰仙

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