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2024年3月 5日 (火)

モノを捨て過ぎると、人間ではなくなる

  

 モノがない究極の部屋が監獄の独房室である。

 モノがない究極の部屋が病院の霊安室である。

 今、断捨離、ミニマリストが流行している。私はそれを疑問視している。モノがあり過ぎるのは問題だが、モノを捨て過ぎて、モノが無さ過ぎるのも問題である。モノには思い出が詰まっている。その思い出を捨てると、その記憶も薄れていく。モノがあるから、記憶を保持される。そしてそのモノから当時を振り返り、反省して、自分の人生の品質の向上が出来る。

 

 夫婦でも、親子でも共通の記憶があるから、夫婦であり、親子である。記憶を無くした相手とは、話が合わない。記憶喪失になった肉親は、家族とは思えない。姿かたちは確かに肉親だが、行動は全くの異星人になっている。

 

自分を買う

 モノを買う、モノを保管する、それは自分を買い、自分の歴史を創っているのだ。モノには自分の人生史が詰まっている。

 動物はモノを溜め込まない。動物はモノに興味がない。動物が執着があるのは、食いものだけである。高度な精神性があるヒトのみが、モノを残す習性をもつ。

 

蒸留水

 私は家の中に何もないミニマリストと付き合いたいとは思わない。ミニマリストの目的は、カネを使わないことのようだ。そんな人間は、薄っぺらな人間だと思ってしまう。そんな人といると、まるで無菌室のクリーンルームに放り込まれたような感じで、心が休まらない。まるで蒸留水を飲まされているようなものだ。蒸留水など飲めたものではない。蒸留水は自分の大事な要素まで吸収されてしまい、病気になる。ミネラルの豊富な人間味あふれた人と付き合おう。

 

 蒸留水を飲み続けると、人体が持つミネラルやその他の成分を溶かして排出させてしまう。それが原因で、カルシウムや鉄などの必須栄養素であるミネラル類が不足して、免疫力を低下させる危険性がある。 

 

5Sと文化

 ミニマリストになれというのは、単に5S(整理整頓清潔清掃)が出来ていないだけである。5Sが出来れば、モノがあってもゴミ屋敷になることはない。

 

 家の中に文化の香りのない場所は、野蛮な場所である。文化の反対語は野蛮である。家に絵の一枚も飾っていないミニマリストは野蛮人である。文化人なら好きな絵を飾っている。それでその人に文化度が分かる。「文化」の英語は「「culture」であるが、その語源は「耕す」である。心を耕さない人は、野蛮人の脳である。

 

 私は心を耕そうと、あちこちの美術館、画廊を訪れて、目と心を耕している。それが心と共鳴すると、その絵をつい買ってしまう。そしてモノが増えるのだ。ミニマリストの反対の極致である。その絵を買うとは、その芸術家を応援することだ。それが文化活動への参加だと思う。フィレンツェで花開いたルネッサンスは、銀行家メジッチ家の支援があって、芸術の花が開いた。芸術にはお金がかかるのだ。それで一銭の儲けにもならない。無駄をすることが、芸術で心の耕作である。ミニマリストには理解不能の境地である。

 人の精神が昇華すると、祈りとなる。芸術家は、芸術の神様に祈りを捧げる。動物は決して祈りはしない。ミニマリストはそういう境界には無感心であろう。

 

 

2024-03-05  久志能幾研究所通信 2840号  小田泰仙

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