« 「院内ふれあいコンサート」師縁、奇縁、刺縁、佛縁 | メイン | 「静寂の文化」と「喧騒の文化」の精神構造(改定2) »

2017年6月 7日 (水)

「強奪の文化」が「共栄の文化」を張り倒す

 欧州の王宮は壮大さの豪華な文化を誇示している。日本の御所は緻密さの文化を謙虚に披露する。日本は1300年前の平安時代に、源氏物語の宮廷文化を育てている。西洋ではその種の小説が出てきたのはその1000年後のルネッサンスの時代である。2017年4月20日、ウィーンが誇るのシェーンブルン宮殿(世界遺産)を見学したが、内部の意外な下品さに目がいった。

 

 この宮殿は17世紀初頭に完成して、1743年の大改築を経て現在の姿になっている。確かに荘厳で大きな作りであるが、近寄ってみるとその細工がガサツな作りなのだ。金やけばけばしい装飾で人目を驚かすのだが、近寄って観察すると、造りががさつで、日本人の繊細な神経では耐えられないレベルである。ドアや壁に付けられた金の装飾品は荒い細工である。ドアの塗装もペンキを塗っただけのような安っぽい仕上げである。当時としては素晴らしい出来かもしれないが、京都御所の造りと比較して美の価値観の相違もあり、私の目で見ると耐えられない。ただ大量で広い宮殿として作り上げたという価値はある。人を驚かす、見せびらかす方針としては良いが、文化的に高度であるとはとは思えない。内部は撮影禁止なので写真が撮れなかった。撮影されると粗が出て恥ずかしいのだろうと推察した。京都御所の一般公開日は、撮影が自由である。

 

シェーンブルン宮殿を生んだ文化

 シェーンブルン宮殿は、ハスクブルグ王朝の繁栄の謳歌を誇示する宮殿である。ハスクブルグ王朝は1580年から1640年までポルトガル王を兼ね、海外植民地を含めて「日の沈まぬ帝国」を実現した。その植民地からのアガリと国土の農奴からの搾取で、王侯貴族は贅沢三昧の生活で、豪勢な見せびらかしの宮殿として建てられた。

 

 植民地政策とは、平和な無抵抗の異国に、武力で押し入り、言いがかりをつけて領土を強奪して現地人から搾取するシステムである。つまりやくざ、強盗である。国を守る武力を持たなかったアフリカ、アジア、中南米の国々が植民地にされた。日本がその毒牙を逃れられたのは、武士集団が存在したからである。

 英国に至っては、人を廃人にするアヘンをチャイナで大量に売りさばいて金儲けをして、それが摘発されたので国の軍隊で殴り込みをかけて(アヘン戦争)、チャイナの領土を強奪した。アヘン戦争は、ヤクザ組織が麻薬販売で摘発されたので、弱い警察署に殴り込みをかけたようなものだ。それも闇の犯罪組織でなく、英国政府が堂々と実行するのだから、呆れてしまう。それでも英国は紳士の国と称されているのだから、何かおかしい。

 

 アヘン戦争でチャイナが毒牙に襲われる情報を知った日本の知識層が危機感を抱き、国を思うが故、鎖国政策方針の攘夷派と開国派のあいだで激しい幕末の騒乱が巻き起こる。まず開国して欧米の技術・文化を取り入れ国力を上げてから、対応すべきであるとして大老井伊直弼公は、天皇の勅許を得ないまま、独断で開国の決意をする。それが1860年の桜田門外の変につながり、井伊直弼公は暗殺される。天皇を取り巻く人材に、世界情勢に疎く視野の狭い人間が多かったのも一因である。井伊直弼公が命を犠牲にして開国したお蔭で、今の日本の繁栄がある。その世界の時流に愚鈍であった隣国は、内政問題のあけくれ、国を亡ぼすことになる。歴史の流れは残酷である。自分の国が守れない国は、自然淘汰される。過去70年間に180以上の国が消滅している。それは会社組織も同じ。会社の30年後の存続率は0.021%である。自分の城は自分で守れ、である。

 

 今の欧州の繁栄は、世界の植民地からの血税で生まれた。現在の欧州での移民問題、テロ問題の真因は、数世紀前のご先祖が犯した罪の落とし前なのだ。だからそう簡単には解決しない。なにせ当事者の欧州人が、過去の犯罪の意識がないから。有色人種は、当時は人間とは認められていなかった。今でも欧米社会には、有色人種への見えざる壁が存在する。当時のローマ法王がそう認めている記録も存在する。当時西洋で存在する生き物は、支配階級の貴族と平民、奴隷と非人間の異教徒の有色人種である。当時は、異教徒は人間でないから、どれだけ搾取しても、殺しても神様は咎めないと教えられていた。

 

日本の文化の背景

 それと比較すると天皇家の皇居は質素である。天皇は最高の権威者であったが、富の最高君臨者ではなかった。権威はあったが、それを実行する力は持たなかった。狭い日本国土で、天皇は常に民衆と共にあったし、そうでないと世界最古の歴史を維持できなかっただろう。天皇は武力で世界の土地を強奪するために海外派兵をすることもない。日本では農奴の搾取も、植民地からのアガリもなく、歴代幕府は天皇家の貧しさに呆れることもあったという。歴代幕府は天皇家を権威として祭り上げ、幕府は実質的な政治を担当した。昭和の時代も政府が勝手に軍国主義を進めた。天皇には実質的な権力がなかった。それが日本の歴史である。天皇家はいつも民衆と共にあった。日本の天皇は、日々国民の幸せと護国豊穣をただ祈るだけが最大の仕事である。そんな王族は欧州にはない。

 

 それと対照的なフランス王朝は、贅沢を極めて、民の苦しみが理解できなかった。ハスクブルグ家から嫁いだ王女マリー・アントワネットに至っては、民衆の嘆願デモを見て「パンがないなら、ケーキを食べればよいのに」と。圧政に苦しんだ民衆は、決起して国王を断頭台に送り、王朝は絶えた。欧州の王族は民衆とは隔絶した人種であった。西洋の王族は飽食と狩りと女あさりに暮れていた。当時の貴族の絵を見ると、おしなべて醜い肥満体である。それを念頭に宮殿を見ると、その見せびらかしで、豪華に見えるが文化的、実質的にみすぼらしい背景が分かる。それに比べて京都御所はキンキラキンの豪華さはないが、品格があり厳かな造りである。

 

国の成長・文化の成長

人の成長でも、若い時は脂ぎったステーキを食べ歩き、酒池肉林をあこがれるが、成熟して知性が完成すると健康的な食生活と落ち着いた生活を目指すように、国にも同じような成長過程があり、それが文化に現れる。中世の欧州文化は日本に比べて幼いと思う。教養の高い人や国は、見えないところに金と心配りをする。それが高度な文化の証である。とかく成金は見せびらかしたくなるもの。当時の民衆の識字率は極めて低いが、日本の民衆の識字率は世界から隔絶した高い値であった。日本の幕末には70~90%の識字率であったが、英国の大工業都会でも20~25%である。それだけ文化レベルの層が厚かった。欧米から来た当時の西洋人が、この事実に驚いて記録を残している。

 

写真1 シェーンブルン宮殿(18世紀)

写真2 シェーンブルン宮殿(18世紀)

 上から下々を眺めていたら民衆の痛みは分かるまい

写真3 京都御所の清涼殿の王座(平安時代 8世紀)2012年11月10日撮影) 

シェーンブルン宮殿の豪華絢爛たる王座に憧れる成金が見れば、貧弱と見るだろう。

写真4 京都御所の御三間(2012年11月10日撮影) 

「安政6年(1859)3月、有栖川宮幟仁親王は孝明天皇から祐宮(明治天皇)の御手習師範となることの命をうけました。その後、幟仁親王が御三間にて裕宮におめにかかっている場面の再現です。」(パネル説明文)

久志能幾研究所  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

1p1000799

2p1000798

3p1030418

4p1030466

コメント

コメントを投稿