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2019年5月 1日 (水)

天皇皇后両陛下の大垣行幸啓(3/3)

御料車がトヨタへ変更

 歴史上で「もし」があれば、今回の御料車は日産車かロールスロイス製であったかもしれない。

 従来は日産車が御料車であったが、ルノーの外国資本が入ったため、2004年に御料車も日産製からトヨタ車に変更になり、今回の写真撮影のご縁となった。

 表面的には、2004年、日産が宮内庁に当時の御料車の日産・プリンスロイヤルの経年劣化が進んだ上、部品の調達が困難等を理由に用途廃止を申し入れ、引退が決まった。その裏では、ゴーンの非情なコストカット政策があったのだろう。本来なら、御料車の採用は名誉なことである。部品調達など、どうでもできるのに、だ。

 御料車の採用メーカという名誉な行幸を自分で放り出した日産は、表むきはゴーンの手腕で業績回復したように見えるが、内面的には坂を転がるように衰退していく。

 

日産との薄縁

 1933年にダット社を買収した日産の鮎川義介氏は、車で金を儲けるため、一千万円を持って渡米して、図面、中古の工作機械、生産技術の全てを輸入し、アメリカの技術者をも連れて帰り、車の生産を始めた。

 彼の師は明治の元勲・井上馨である。鮎川は、井上馨の姪を母として生まれた。井上馨は日本に産業を興すことを鮎川に諭し、鮎川義介に技術の世界に進むこと勧めた。鮎川は、帝国大学を卒業後、米国で鋳物職人として働き、技術を取得した。その経験を活かして、井上の支援を受けて、技術を知った実業家として、日本で最初に鋳物産業を興した。それが現在の日立金属株式会社である。その技術は米国から導入した。日産の祖先の会社である。その初めは米国の技術の導入である。

 

日産の思想

 自分で作らないで、安易に技術は他から借りてくるという思想が、後の経営までルノーから導入するという失態を招いた。なんで、自分で自分の会社の経営を立て直すという発想ができないのか。自分が病気になったら、その原因を追究して、自分で治さないと、再建屋(ゴーン)に食い物にされる。

 

トヨタの思想

 豊田喜一郎氏の車でお国に尽くすため、技術は全て自社で創るという志とは対照的である。トヨタはトヨタ生産方式を作り出し、世界のトヨタに成長した。そして半世紀が経って、その志の差が、日産がルノーに乗っ取られる差取り(悟り)を得る結果になる。

日産の病状

 日産には労働組合の塩路天皇というガン細胞が長く居座っていた。自動車評論家の徳大寺有恒は塩路を「日産の足を引っ張れるだけ引っ張った」と批判している。日産の広報室課長の経験がある川勝宣昭(元日本電産取締役)は、「生産現場の人事権、管理権を握り、日産の経営を壟断。生産性の低下を招き、コスト競争力でトヨタに大きく水を空けられるに至った元凶」と批判している。塩路は、2013年2月1日、食道がんにより死去した。86歳没。

 日産の労働組合と経営層との争いは、トヨタの労使協調路線と対照的である。日産は、そいうガン組織を生む日産の体質を自分達で治せなかった。それで外部の経営者(ゴーン)を招くことに落ちぶれた。それが、日産の今日を招いた。

 

日産の衰退

 その結果が、1999年3月に日産のCEОに就任したゴーンは、主力車であった「青い鳥(ブルーバード)」を籠から放った(2001年製造中止)。ゴーンは、日産が蓄えてきた信用と財産を切り売りし、短期で利益が出たように見せかけ、自社のみが儲かる体制つくりに専念することになる。そして二人で育てた「愛」の「スカイライン」はメタボ化して、昔の熱烈な「愛」は冷めてしまった。30年前、ケンとメリーのスカイラインには、私も憧れの車であった。そこには開発者である桜井眞一郎リーダーの情熱があった。

 

ゴーンに付け入られた日産

 ルノーの拝金主義経営に染まった日産からは、情熱は消え、魅力的な車が生まれなくなった。それでいて日産のゴーン社長の年俸は10億円に迫り、平均役員報酬は1億円を超え、トヨタのそれの数倍もある。それに対して一般社員の平均給与は、トヨタよりも低い。ゴーン氏はそれを「恥じることはない」と恥さらしな言葉を豪語する。何かおかしい。(2014年当時の私の思い)

 そのおかしさが2018年末にゴーン被告が逮捕され、その不正が白日の下に晒され、私の疑問が氷解した。

 

ゴーンのリバイバルプランは「抗がん剤治療」

 ゴーンが打った手は、ガン患者に抗がん剤を投与するようなものであった。ゴーンの打った手は、人員整理、資産売却、下請けの切り捨てである。抗がん剤のように、一時的に効果が出るが、患者(会社)の体力を殺ぎ、開発力を下げ、モチベーションと愛社精神を破壊して、会社を衰退させる。儲かったのは、製薬会社のように、ゴーンだけである。後は死屍累々であった。

 

グローバル経済主義

 一部の人だけが富を独占して幸せになり(本当に幸せかどうかは別にして)、99%の人が不幸になる社会を、我々は本当に目指してきたのだろうか。この構図は共産中国の党幹部だけが、富を独占している姿に似ている。グローバル経済主義=拝金主義社会である。

 豊田佐吉翁・豊田喜一郎の顔と鮎川社長・ゴーン社長の顔を比較すると、人相学的に後者の顔は下品で人徳に薄いように見える。特にゴーンの顔は強欲の野獣的に見える。私の見方が偏っているのだろうか。ゴーン社長の言葉も人相も傲慢であるように見える。人格は顔に凝縮される。

Photo_4  豊田佐吉翁

Photo_5  豊田喜一郎創業者

Photo_6  鮎川義介創業者

Carlos_ghosn

 世界経済フォーラム2008で講演を行うカルロス・ゴーン

 Wikipediaより

トヨタ自動車の志

 そのトヨタ自動車が今あるのは、明治時代初期に豊田佐吉翁が自動織機の発明に没頭し、豊田式自動織機の特許の売却資金で、新事業への展開したことにある。

 豊田佐吉翁は、トヨタ自動車の創業者の豊田喜一郎氏に、「俺は織機で御国に尽くした。お前は自動車で御国に尽くせ」と言い残した。企業・産業を起こすものは、志が必要である。単なる金儲けが目的では、目指す次元に差がでる。御国(公共)に尽くすためには、材料、設計、工作機械、生産技術の全てを自前で国産化しないと、当初の理念が達成できないとの考えから、車作り、人作り、会社のしくみ作りを始めた。そこに今のトヨタ自動車の礎がある。

Aa トヨタ初の純国産乗用車トヨダAA型     1936年

Photo_7 日産初の乗用車ダットサン12型      1933年

100年後の差

 国の産業の発展を目的に全て自分達の手で開発したことから、トヨタ生産方式、カンバン方式、現地現物といった日本のモノづくりの原点、手法が生まれてきた。実際に手を汚し、苦労をしないとモノつくりの技は手に入らない。日産からはそんな開発の苦労話から生まれたノウハウの伝承は聞こえてこない。企業DNAの影響の恐ろしさは、50年後、100年後に影響する。

 二つの初代乗用車を並べてみると、技術は未熟ながら純日本文化の繊細な造りこみをした車と、欧米式のがさつな車つくりの差が一目瞭然である。それが今回のゴーンのスキャンダルで明らかになった。ゴーンが日産の脇の甘さにスキを見付けて、食らいついたのだ。

ボルボのDNA

 写真の右はVOLVO初代の車。角ばった1927年のデザインは、その後のVOLVO車を象徴する。会社のDNAは遺伝するのがよく分かる。左は、私が担当した研削盤が研削するクランクシャフトを搭載したVOLVO740。

Photo_8 1985年のVOLVO出張時に、現地担当者から贈られたVOLVO車の模型。

 

『自分の人生という本』p106より

 

2019-05-01   久志能幾研究所通信 小田泰仙

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