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2017年11月 1日 (水)

人生の奥の細道を歩く

 2010年8月末に37年5ヵ月間を勤めた会社を定年退職し、故郷の岐阜県大垣市(県下で岐阜市に次ぐ第二の都市、人口16万人)に活動拠点を移してから、朝の日課として「四季の路」を現在まで歩き続けていた。最初の4年間は、雨の日も風の日も欠かさず歩いていた。松尾芭蕉が半年で踏破(1日13 km)した奥の細道の2400kmを、私は毎日5km で1年半かけて達成した。現在は(2015年)、時間帯を夕刻に変えて、雨の日を除いて毎日歩いている。

 「四季の路」は、大垣市が俳聖松尾芭蕉の『奥の細道』の旅で詠まれた俳句の碑を市内中心部の水門川沿いに建立し、「ミニ奥の細道」として整備した遊歩道である。早朝の人通りのまばらな街を横切り、川沿いの静寂な散歩道を歩いて、考えたことは、今までの人生の歩みと今後の35年(予定)の道のりである。60年間の総括として人生を振り返ると、人生は旅だなぁとつくづくと感慨にふけさせられる。『奥の細道』の冒頭の一節が自分の人生に重なる。

 

人生は托鉢の旅

 人生とは空の器を持って、僧が托鉢をする修行と同じである。器を上向けに捧げて歩かない限り、ご縁は入ってこない。来る日も来る日も、雨の日も風の日も同じ道を歩く。同じ道を歩いていても出会う縁は毎日違う。その前を毎日通過しても、4年目でしか実が結ばないご縁もある。どれだけご縁に対して意識がそこに向くかで、そのご縁との出逢いがある。

 

人生は縁を求める旅

 人生の旅は、縁を求めて歩く旅である。用があるのではない、用を作りに出かける旅でもある。犬も歩けば棒に当たる。歩かなければ、ご縁に出会でない。多く出会いの中から、真珠の出会いが生まれる。無駄な出会いがあるから、真の出会いがある。散歩の途中にある恒久平和の碑の裏側に記載された父の名前は、4年間、毎日その横を通っても気が付かなかった。同じように、気づかずに通り過ぎていったご縁がどれほどあることか。

 半生を振り返り、遭遇した多様な縁を見つめる時、よくぞ無事にこの歳まで生きてきたかとの思いにふけさせられる。無事にたどり着けなかった仲間がなんと多いことか。そのビジネス戦士の戦死の現実を見ると愕然となる。

 

「全てを受け入れる」を悟る旅

 水門川の澄んだ清流を観ながら、早朝の水辺を歩くと大変清清しく、気持ちのよさは格別である。水門川の川底まで澄んだ水の流れは、気候によっては泥水を含んで濁り、日によっては大量のゴミが流れてきて、日々その様相を変えるのも、人生を感じる。「海の水を辞せざるは同事なり、是故に能く水聚りて海となるなり(修証義)」という言葉がよく思い浮かぶ。来る縁を拒否するから、軋轢を生じさせる。相手を拒否せず、全てを受け入れ、それを己に同化させればよいのだ。そうすれば時間がかかっても、最後は己のものになる。その悟りを得るために、60年という長い時間がかかった。それを体得するのが人生である。

 

旅の終わり

 どんな旅にも終わりがある。95歳まで歩くと決意していても、一年前から腰を痛めて、この1年間は歩けなかった(2017年)。いくら歩こうと言う意思があっても、加齢による脊椎の骨の老化で、歩けなくなったのだ。日暮れて道遠し、を痛感させられた。「命には限りがある」ことを思い知らされたこの1年間であった。元気な時は、それをすっかり忘れていた。最近やっと痛みも和らぎ、ぼちぼちと散歩を再開した。己の命の限界を見据えて、人生計画で列挙した夢は早く実現しようと決意を新たにした。それが今回の大きな学びである。

 

図1~4 「四季の路」の風景

図5 四季の路の地図(大垣市作成 「四季の路」道中に掲示)

図6 馬場恵峰書「奥の細道」冒頭の書

  「馬場恵峰書『奥の細道全集』」より(「2017年12月発刊予定」)

 

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2017年10月31日 (火)

人生深山の峠

 芭蕉の「奥の細道」の旅は、最上川の急流を舟で下り、霊山巡礼登山で旅の峠を迎えた。芭蕉は、山岳信仰の霊山で知られる出羽三山の一つである月山に登った。元禄2年(1689年)6月6日、頭を白木綿の宝冠で包み、浄衣に着替えて、会覚阿闍梨と共に、宿泊地の羽黒山南谷の別院から山頂までの8里(約32km)の山道を登り、弥陀ヶ原を経て頂上に達した。時は既に日は暮れ、月が出ていた。山頂の山小屋で一夜を明かし、湯殿山に詣でた。他言を禁ずとの掟に従い、湯殿山については記述がない。唯一、阿闍梨の求めに応じた句として、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」で秘境の感銘を詠んでいる。現代でも、湯殿山での撮影は禁止されている。

 

馬場恵峰書『奥の細道』

 『奥の細道』の作風は、この峠を境に雰囲気が大きく変わる。芭蕉三百年恩忌(1994年)で『奥の細道全集』(上下巻)を揮毫された馬場恵峰師も、この峠の記述を境に巻を分けて構成された。

 図1 『奥の細道全集』と馬場恵峰書 2011年4月2日

 

人生の奥の細道

 小さな人生にもドラマがあり人生の峠がある。しかし、その峠にもたどりつけず鬼門に入った仲間が、還暦を迎えた時に身近で10名余にも及ぶ。自分が還暦を迎えて、無事に人生の峠に辿り着けた有難さを強く感じる。還暦を迎えてからも仕事仲間の5名の訃報に接した。還暦は人生の峠である。

 人には、語れぬ人生の深山がある。人生で、いつかは足を踏み入れねばならぬ深山である。芭蕉は死者としての白木綿の宝冠で包み浄衣に着替えて、山に入った。人は経帷子に身を包み、人には見せられぬ醜い自分を見るために、山を登る。人生で一度は越えねばならぬ峠である。その峠で、過去の自分の臨終を見送る。

 死者として深山を上り、新しく生まれた赤子になって、上ってきた山道を下る。「他言を禁ず」の戒律は、人には語れぬ醜い己の臨終への佛の経なのだ。峠を下れるだけ幸せである。峠を下れずに、山腹で骨を埋める仲間も数多い。自然が唱える不易流行の経の声を聴き、己が神仏に生かされていることに感謝を捧げる。

 図2 馬場恵峰書『おくのほそ道』上巻 最終頁 日中文化資料館蔵

 

人生のまさか

 2011年4月2日に、恵峰先生宅に日中文化資料館見学ツアーとして経営者仲間と一緒に行くことになった。その折、私は馬場恵峰書『奥の細道全集』を撮影する計画を立てた。ところが3月11日に東日本大震災が起こり、そのツアーが中止となった。しかし私は飛行機の予約もしたし、本来の目的が『奥の細道全集』の撮影なので、キャンセルをせず撮影に出向いた。

 その当日、盛岡の齋藤明彦社長(㈱電創総合サービス)が、まだ津波で犠牲になられ人たちの霊が漂っている浄土ヶ浜の海水を持参され、その海水で恵峰先生に追悼の書の揮毫を依頼された。私は偶然そのご縁に接せることになった。当日は、そのことは知らなかったが、4月16日の明徳塾で恵峰師はその追悼の書を紹介されて、初めてそのご縁を知った。

 還暦までにビジネス戦争で斃れた仲間も多いが、震災のように突然、生前の精進如何に関わらず、命を召される事態は、現世ではざらにある。今回の震災は人生の無常を痛感した事件であった。生きているが奇跡なのだ。頂いた命を大事に使わねばと還暦後の人生の歩みの決意を新たにした。

 図3、4 追悼の詩 馬場恵峰書 2011年4月16日撮影

 

「出版の細道」の道を歩む

 写真集 馬場恵峰書『奥の細道全集』全2巻は2017年12月に発刊予定です。その一部が図2です。この書は私が馬場恵峰師と縁が出来てから、5年程経った2011年頃、師が『奥の細道全集』全2巻を芭蕉300年遠忌で書き上げたという話を「明徳塾」の講義の時に聞いた。『奥の細道』のむすびの地は、私の住まいの大垣であるご縁からから、写真に撮らせてもうことを思いついた。当時、出版は全く頭にはなかった。それからカメラもCANON 7D、7DⅡ、5DⅢ、5DⅣと4世代も変わり、多くの先生の書をスポット的に撮影していく過程で、2015年頃から先生の書を世に出したいと思うようになった。いろいろと出版してくれる出版社を探したが、ないという結論となり、それなら自分が出版元として出版する決断をしたのが経緯である。大きな舗装道路でなくてもよい、未舗装の細い道でも先生の名が残るなら、自分でも本を出版した記録として残るならと、細くても新しい道を創ろうと決断した。 

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2017年10月17日 (火)

人生とはリースの大黒袋

 松下幸之助翁は「人生は90%までが、いわゆる人知を超えた運命の力によって既に決まっている。人間の知恵才覚で左右できるのは、残りの10%に過ぎない。そう考えれば、人生、得意のときも、淡々と素直に謙虚に、わが道を歩んでいくことができよう。」と運命を断じた。しかし今回のお墓作り、ご先祖探しの旅で、人知を超えた運命の力は90%どころか、人生の95%から99%にも及ぶことを感じた。人間の人生とは、運命を運ぶ大黒天に背負われた大黒袋ではないかと思うようになった。

 

袋に入れるもの

 人は生まれたときに、天より人間という形の袋が授けられる。その袋は運命を運ぶ大黒天によって担がれて、ひたすら死という終着地に向かって運ばれてゆく。人間にその行き先を拒否はできない。人生旅の終着地に着いたとき、大黒様はその袋を火葬場にお役目として放り込む。お釈迦様を含めて一人の例外もない。袋としての人間に、死後で残るのは僅かな灰でしかない。人間として生きた証として、運んでもらっている間に、その袋の中に何を入れ、それをどう昇華するか、どう料理するかが問われる。袋に入れて集めた多寡が問われるのではなく、集めたものをどう活用したかが問われる。

 幸いなことに、その袋は人間の成長に合わせて伸縮自在に変貌する。その変貌の程度は自己鍛錬に依存する。その袋の中に何を入れて、何を入れないか、入ってきた縁の整理整頓清潔清掃(4S)ができるかであり、入ったものをどう料理するかが問われる。その如何によってその袋が価値ある宝袋にもゴミ袋にも変身する。その中身がダイヤモンドにも毒にも変身する。

 その袋の布は、血も肉も通う生身の生命体である。その袋に過度な美食美酒を入れすぎて、袋がアルコール侵蝕されて穴があくこともあろう。節制を忘れた人間の強欲のなせる業である。その袋は天からのリース物件である。大事に使わないと、契約途中で天から解約通知が舞い込む。その袋を大事に使っても、最大100年後には、天にリース返却しなければならない。自分の体はご先祖が天にお願いして手配してくれたリース物件である。それを忘れて、酒池肉林、甘味飽食に溺れるから、契約違反としてリース途中解約となる。

 その袋に分不相応に財を入れすぎて、袋の底が破れ、破綻することあろう。己の器の大きさを自覚せずに、棚ボタの財宝を入れすぎたためである。集めることだけを考えて、利他として分けることを忘れた天罰である。

 

大黒袋を守る

 その袋を目掛けて飛んでくる非難や試練という攻撃の矢で傷つき、穴があき袋が破損することもあろう。どれだけ袋の表皮の強度を上げる鍛錬をしたかである。試練という鍛錬をしない限り、か弱い材質の袋のままでは、人生に価値あるものを袋に入れることが出来ない。天は心という器だけは、傷つきやすい裸のままに創られた。それを自覚して人生を歩まねば、言葉と言う凶器で自他の心を傷つける。人生道は担いだ大黒袋を大事にして歩みたい。その自覚なき人生では、道半ばで沈没する。

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2017年9月24日 (日)

改建墓の開眼法要

 2015年11月29日午前11時より、小田家と北尾家のお墓の開眼法要を執り行った。最初、長松院の本堂にて北尾家、小田家の先祖代々諸精霊への供養の読経を行い、焼香をした。その後、改建したお墓に場所を移して、お墓の開眼法要を執り行った。最初に為写経をした写経を3つの納骨室に敷いた。最終的に書き損じも含めて80枚前後の写経をすることになった。よき人生経験であった。約3カ月間、毎朝斎戒沐浴をしてから1時間、根をつめて写経をすることになり、新たな発見もあった。2017年になって恵峰師から、写経が書写行として佛道の修行の中で、一番の先祖供養になることを教えてもらった。いまにして良き先祖供養をことをしたと思う。後日、写経をしたことで、戒名の間違いが露見して、再度、為写経をすることになり最終的に110枚余の写経をお墓に納めることになった。それもご縁であった。

お墓に添える蝋燭も赤の蝋燭で、お祝いとして赤を使うことを初めて知った。叔母が備えてくれた御餅もお祝いとして紅白の御餅である。この歳になっても知らないことばかりである。この歳になってお墓を作るというご縁を頂いたのも佛縁である。そのご縁で馬場恵峰先生ご夫妻にも同席して頂いたのもご縁である。

 

納骨

 その後、本堂に安置してあった祖母と母の遺骨を骨壷から般若心経が書かれた納骨袋に移し、その納骨袋を各々のお墓の納骨室内の為写経の上にそっと置いた。北尾道仙氏の納骨袋も納めたが、その納骨袋に入れたのは旧のお墓から回収した土で、お骨ではないが、形としてお墓に納めることとなった。以前、学術機関が豪徳寺の井伊直弼公のお墓を学術調査のため調査をしたが、中には何もなかったという。当時の幕末の世情を考えて、本当の遺骨は別の場所に埋葬して、正式のお墓には納めなかったようだ。お墓とは精神的な面が強いシンボルであると思う。事象を見るのは眼ではなく、心が観るように、お墓の存在も己の心が、そのお墓の存在を認めることだと思う。同じ考えで、お骨の無い親族の分は、戒名を住職様に紙に書いて頂いて遺骨の代わりに納骨室に収めた。

 

23年前の母の遺骨と再会

 母の遺骨は23年前のお骨で、当時、全体骨の一部をお墓に入れて、入らない残りが本堂の遺骨安置室に預けられていた。その残りのお骨を今回納骨できることになった。そのお骨は一部黒ずんだ灰色で、23年ぶりに見ることになった。あとで石屋の松居さんから、問い合わせがあって分かったことであるが、当時、大垣の古い設備の火葬場で火葬に付したが、当時はまだ設備の火力が弱くしっかりと焼けていなかったようである。13年前の父の火葬のときは、別の場所に火葬場が移り最新式に更新されていた。この11月3日に従兄弟の勇美子さんの灰葬に立ち会ったが、綺麗な白いお骨であった。火葬の技術も進歩して、時代の流れを感じた。

 

図1 手塚紀洋住職によるご精魂入れの儀式

 

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2017年9月23日 (土)

人となれ、人となせ人

 今の自分が嫌で、新しい自分に変わりたいと言う人は多い。しかし変われる人は少ない。それは何故そんな自分のなってしまったかの原因を突き止めずして、小手先の手段で変わろうとするから、変われないのだ。人は生まれてから1日20回の決断をして、6歳までに43,800回の決断を繰り返し、人としての思考回路が育つ。6歳までに脳の80%が完成する。そんな強固な訓練をして固まった脳(固定観念)を変えるのは至難の業である。

 

人を磨くのは人

 人は、ダイヤモンドのような素質を持っている。それを磨くのは、人でしかできない。人は、人からもまれて、叩かれて、笑われて、罵倒されてこそ、磨かれて己が持つダイヤモンドに変身する。人は、一人では人になれない。艱難辛苦が人を輝ける人にする。読書が人を育てるように、世間という書物を読み体験することで、人を人にする。

 

角熟を目指す

 人は、神佛を目指してはならない。あくまで人として人になるべきである。神佛は「人ではない」。人が完全無欠の神佛を目指すと、「人でなし」となってしまう。欲を持ち、人としての欠点もあってこそ人である。生きるという欲まで捨てたら、人でなくなる。指導者として欲を持つなら、人格を高める欲を持つことだ。人として人格を極めれば、神仏にはない欠点が人間味となる。円熟ではなく、角張った欠点を抱えたまま長所を伸ばして熟する(角熟)のが人の道である。

 

人として死にたい

 人は、食欲・物欲・性欲だけを求める生き方をすれば、畜生界の存在になり下がる。人なれば、目の前にぶら下げられた餌を自制すべし。今はあまりに美味しすぎる餌が溢れている。自制心をなくしたら、人ではなくなる。グルーバル経済主義の化け物に取りつかれた輩は、死ぬまでに使い切れない財を独り占めにして、99%の他人の生き血を吸って繁殖し、最後は死病に倒れる。いくら財を貪っても、生物である以上は死からは逃れられない。

 人は寝て一畳、立って半畳、食べて一升、死んで残るは灰塚一握である。強欲に走るから、不幸になる。利他少欲であれば幸せである。強欲に取りつかれた死鬼衆としてではなく、人に成長して、人として死にたい。

 

2017-09-23

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2017年9月22日 (金)

吾がトロッコ人生

 人生の道は鉄道に似ている。基幹路線もあればローカル線もある。そこを走る列車にも新幹線もあれば、急行電車も鈍行列車もある。どんなに速い列車でも鈍行列車を使っても、途中下車さえしなければ、目的の到着駅には必ず到着する。早い遅いはあるが、いつかは終着駅に着く。人生の旅の終着駅は死である。最速の新幹線で行けば、早くは着くが途中のいろんなご縁をすっ飛ばしての到着となる。到着が目的ではなく、その過程が人生の目的である。鈍行電車には時間が多くあり、多くのご縁と出逢いがあり、景色を楽しみながらの旅となる。どちらが良いか悪いかの問題ではない。その人が選択した人生であり、その結果の運命である。

 

手押しトロッコ

 多くの路線、電車の中でも、なぜか私はトロッコに気が引かれる。トロッコは、必要な時に必要な場所に必要な線路が引かれ、必要な物資を運んで、お役目が終れば線路が撤去される。人生の後始末が美学のように思えて、好きな乗り物である。まだ日本が高度成長期に突入する前の昭和30年頃で、私が幼少のころ、地元の建設現場に工事用の手押しトロッコがあり、夕方になって作業員達が帰った後、ガキ仲間と一緒にトロッコで遊んだ記憶がある。自分の力で押して進行できる趣が好きだ。

 

生業を楽しむ

 吾が人生路は既定の路線ではなく、自分に必要な経路に新しいトロッコ線路を敷設して己が荷物をトロッコで運ぶのが良い。それが第三の人生に分相応である。出世競争も、追い越しもなく、時刻表もなく、人生の使命を黙々と運ぶ。それが生業である。皆さんが楽しんでいる歓談の場で、場の空気も読めず出世話しを押し付けるようでは、会社の元肩書きは空しい。そんな生臭い話に興ずるよりも、黙々と自分の生業を楽しむ。それが本当の人生ではないか。周りを気にして、智に働き、情に流され、意地を通せば、人生の脱線転覆である。会社人生で、ストレスのため病気になり早死にした仲間がなんと多いことか。住みにくい現世では、定年までは世の中へのお勤めとして精進して、その年季奉公が終った後の第2、第3の人生は、世のシガラミに囚われずに、自分のトロッコ路線を進みたいと思う。

 トロッコに集めることだけ、入れて運ぶだけに忙殺された人生を送る人は、目的地に着いたとき、荷は降ろさねばならず、置いて行かねばならぬことを悟り、そこで何のために生きてきたのか覚醒して愕然とする。目の前の財に身が眩み積むことだけを考えると、虚の世界に取り付かれた亡者となる。それは集めても集めても、満足しない死鬼衆である。人は見たい物しか見ていない。美しく見える虚の世界に振り回されてはならぬ。

 

図1 馬場恵峰書(2017年入手)

 

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2017年9月19日 (火)

予告 「100m巻物」の出版

 来る10月11日に100m巻物の馬場恵峰書『百尺巻頭書作選集』を出版します。本日、ユタカコピー㈱との印刷の詳細打ち合わせが終り、明日から印刷の工程に入ります。10月中旬より販売いたします。

 A4横サイズ、全144頁、価格7,000円です。

 

 本ブログは、下記のブログ内容と一部ダブりますが、総まとめとしてご参照ください。

 下記はブログは、詳細情報として、ご参照ください。

   「100mの巻物」という人生(1/2) 2017年8月20日掲載分

 「100mの巻物」という人生(2/2) 2017年8月21日掲載分

           カテゴリ「詞天王が詠う老計・死計 」

『百尺巻頭書作選集』の内容

 本書は、書を学ぶ人のため、書芸の流派を超えて、書は心の鏡、文章は心の声なるものを紙面に分かりやすく多用化して揮毫された。後世に残すために書のお手本として、全種類の書体を揮毫されたのが、本書である。詩仙李白から始め「十首」、「六首」、「60」二字、「50」三字、「40」四字、「52」五字、「35」文、六字「八句」七字「七」、八字「十句」計262課題、唐詩16種、恵峰随筆、絆他9課題、知己塾講話26講(この分だけで15m)、恵峰詩文44、歌詞加古川旅情他恵峰作歌詞24、扇額「30」、扇面かな「21」、古典5、子供のしつけ方10条他名文「10」、一休いろは歌「48」、各種型状かな文42、訓言「10」等々550課題大文字、中字、細字、かな古典、現代かな調和体等の集大成である。

 師の気力自己挑戦の巻を手に取って見て頂きたい。実物を見るのは4人がかりで大変だが、本の形で皆さんに見て頂けるようにしたのが本書である。師は上手でなくとも、真似していただけるような書を残したいとして揮毫された。素人の私からみて3カ所のミスがあるが、きちんと修正はされている。100mの巻物でたった3カ所のミスしかないことに驚嘆である。それも明治の三大名筆、近代書道の父と呼ばれた日下部鳴鶴の書を上回る名筆である(私の感想)。まさに神業で、それでミスがなければバケモノである。師が生身の人間であることの証明ともなる。

 

撮影の経緯

 本書は、日本人も中国人も書いたことの無い100mの巻物に馬場恵峰師が挑戦され、2年がかりで2014年初春に完成された。この話を先生から聞き、こういう御縁は生涯でも滅多にないと感じ、また弟子としても記録に残さねばと思い、2014年4月10日、写真を撮らせて頂くために長崎に飛んだ。写真撮影で百mの巻物を扱うのに、一人では無理なので助っ人として福田琢磨様に応援を頼んで出かけた。

 なにせ百mの巻物なので、まだ誰もこの作品を全部鑑賞した人はいない。たまたま写真撮影の前日に、知己塾の日程を一日間違えてお弟子さんが先生宅を訪れるという御縁があり、私の写真撮影の話を聞いて、それなら、私もお手伝いをさせてもらうと三名の書友の方が写真撮影の応援を頂いた。撮影を開始するととても2人では無理で、応援の書友の方に感謝と、日程を間違えてこの写真撮影の御縁に巡り逢うありがたさを感じた。

 当日200枚ほどの撮影をしたが、帰宅後詳細に確認するとピントがあまく、不出来な写真があったので、再度、取り直す決断をして、一週間後に再度、長崎の飛ぶという御縁ができた。当日は4時半起床、6時32分発の電車に乗り7時50分発の飛行機でセントレアから長崎に飛び、3時間ほどかけて400枚前後の写真撮影(各2回撮影)をして19時50分発の飛行機でトンボ帰りをして22時30分に帰宅した。さすがに疲れが二、三日残ってしまったが、心地よい疲労感のある経験であった。

 その後2年余が経過して、恵峰先生の書の写真集を作成していく過程で、カメラが世代交代し、今の目で見ると当時の撮影の拙さが目についてきたため、カメラを最新型に更新して、2016年11月28日に再度撮影する決断をして、完成したのが今回の書である。

 前回からカメラ、三脚、照明装置、水準器が変わり、撮影技術、編集技術が回数を重ねることで向上して、現時点ではほぼ満足で来る仕上がりとなった。やはり経験を積まないと何事も向上しない。また良い機材は良い結果をもたらしてくれることを再確認した。高いものにはわけがある。

 2017年5月に、初めて馬場恵峰書『報恩道書写行集』を出版して、その過程で多くの学びがあり、その反省を2冊目のこの「百尺巻頭書作選集」に反映できた。何事もやってみなければ分からないことばかりである。初めてこの100mの巻物を撮影して3年目してこの出版が完成する。感慨無量である。感謝。

 

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2017年9月17日 (日)

地蔵異聞 首刎ね

誰がお地蔵さんの首を刎ねたのか?

 日本は仏教が聖徳太子によって積極的に導入されて以来、宗教戦争のような悲惨な争いが少ない稀有な存在である。聖徳太子は仏教を導入したが現存の日本の神も敬うという姿勢をとってその布教に努めた。それが神仏習合の文化を育てた。それに比べれば、西洋の宗教戦争は排他的で、それゆえ悲惨で残酷であり、長く西洋史に刻み込まれている。その名残が中東の紛争に現れている。西洋の宗教戦争は2,000年間も続く争いである。それに比べれば、日本の宗教戦争は小さな争いではある。

 

全てを受け入れる

 相手の思想を認めず、排他的な考え方を取るから残酷な結果を生む。仏教に思想は、人生の全てを受け入れる、である。それは仏教という範疇にとどまらない素晴らしい考え方である。会社を経営して、己の人生を経営するにおいて、大事にしたい考え方である。西洋人が偉いのではない。たまたま西洋に生まれただけである。その考えで、多くのアジア人が欧州人に虐殺された。エートが偉いのではない。たまたま記憶力が良いという恩恵を神仏から恵まれただけである。それを、俺は偉いのだと、相手を認めないのは、己が一番偉いという思い上がりである。神仏は、その才能を世にために使えというはずである。東大を出た山尾志桜里議員も、豊田真由子議員も、この世で役立つためにその才能を神仏から与えられたはずなのに、何を勘違いしたことやら。頭がいいとは、物事をお利口さんにしか考えられない愚かな頭脳構造である。人生では、バカになって取り組まねば成就しない仕事が数多くある。人間は損得勘定で生きているわけではない。

 

廃仏棄却騒動

 仏教の一番大きな危機は、明治初期に発生した廃仏棄却騒動である。廃仏毀釈(廢佛毀釋、排仏棄釈)とは、新政府によって慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発せられた太政官布告(「神仏分離令」「神仏判然令」)、および明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」などの政策によって仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃した。「廃仏」は仏を廃し(破壊)し、「毀釈」は、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)すという意味し、廃仏棄却で神仏分離を押し進めた。

 神仏分離令や大教宣布は神道と仏教の分離が目的であり、仏教排斥を意図しなかったが、結果として廃仏毀釈運動となった。神仏習合の廃止、仏像の神体としての使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の破壊、仏事の禁止などが見られた。1871年(明治4年)正月5日付太政官布告で寺社領上知令が布告され、境内を除き寺や神社の領地を国が接収した。廃仏棄却では、国宝級の仏像が多く破壊されたが、それがなければ現存するものの2倍もの国宝級仏像が残っていたはずといわれるほどの騒動である。

 それでも全国でその程度の差は大きい。美濃国(岐阜県)の東濃は廃仏棄却が激しかったようだが、同じ濃尾地区でも西濃の大垣では廃仏棄却の痕跡はない。美濃国の苗木藩では、明治初期に徹底した廃仏毀釈が行われ、領内の全ての寺院・仏壇・仏像が破壊され、藩主の菩提寺(雲林寺)も廃され、現在でも葬儀を神道形式で行う家庭が殆どである。一向宗が強い三河や越前ではこれらの処置に反発する一向一揆が見られた以外は、全体としては大きな反抗もなく、わずか2、3年後の明治4年(1871年)頃には終息した。

 

首刎ね

 彦根市の長松院の墓地に安置してある百体ほどのお地蔵さんの首が全て刎ねられている。だれがこんなことをしたのか。長松院だけではなく、彦根中のお寺も同じ状況である。お寺は存続しているので、お地蔵さんだけが被害にあっている。大垣や他の区域ではお地蔵さんの首が落とされた事例や寺院の破壊は見られない。彦根では、墓地にあるお地蔵さんの首だけが被害に遇い、堂内の仏像は壊されなかったようだ。彦根天寧寺には有名な五百羅漢像があるが、それが首を落とされた形跡はない。

 

地方の廃仏棄却

 日本の他の地域では五百羅漢像の首を落とされた事例もある。廃仏棄却の形態は地方でその現れ方の差が大きい。彦根ではある宗派のお寺が潰され神社に知行されたが、そういう例も地方によって差が大きい。どれだけ明治政府に従順であったか、権力に密着していたかでその影響の差が大きいようだ。明治政府の重鎮であった殿様がいる藩の殿様の菩提寺は潰せまい。クソ真面目に廃仏棄却に励んだ藩は、外様で政府に媚を売りたかったかもしれない。明治政府成立に貢献した藩は、大らかに構えていたのかもしれない。大垣藩も彦根藩も明治政府成立の立役者ではある。

 彦根でも、廃仏棄却は進んだが、多くのお寺は潰されなかったが、ある宗派のお寺が集中的に潰されて、現在では墓地しか残っていない。その傾向は彦根だけであるようで、廃仏棄却の地方での温度差はかなり大きい。その檀家が存続できたお寺を妬んで、お地蔵さんの首を刎ねる蛮行に及んだのかもしれない。廃仏棄却にも権力闘争の風が吹いていたようだ。だから弱いものはモノに当たった憂さを晴らすようだ。それでも堂内にある仏像までは手が出せない臆病者であったようだ。当時のお寺は権力と密着していたので、力を持っていたのであろう。

 

図1 首を刎ねられた地蔵菩薩像 (彦根の寺院の墓地)

 

2017-09-17

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2017年9月16日 (土)

地蔵異聞  ドラえもん地蔵

 地蔵菩薩尊は生きとし生けるもの、衆生一切を救ってからでないと自分は涅槃寂静しない、とお誓いされて修行されている菩薩である。まるで暗い人生航路を行く大型船の船長のようである。乗員の安全を祈願して、船が難破したときは、乗員が全員下船しないと船長は船から脱出しない。船と運命を共にすることも多い。それが船長の役目でもある。自分を犠牲にしてでも、仏縁の人を救う方はすべて地蔵菩薩である。

 

縁なき衆生

 そのお地蔵様にも唯一救えない衆生がある。それは「今世で縁の無かった者」である。たった一度でも、生前にお地蔵様に手を合わていれば、それを仏縁と為し救ってくださる。しかし、子供にそんなことを言っても理解できないが、ドラえもんには子供がみんな反応する。ドラえもんの頭を撫で、そして自然とドラえもん地蔵に手を合わす。それで仏縁ができる。子供を連れてきた両親、祖母祖父も、全員に仏縁ができる。観音様は三十三の姿に変身して衆生を救う。ドラえもんは地蔵様が変身したお姿である。

 某寺院のドラえもん地蔵では、小学生が自転車で来て手を合わせている姿をよく見るし、お寺の子も学校に行く前に、ドラえもんに「行ってきます!」と挨拶して登校している。微笑ましい姿である。そんな子供は成人しても不良にはなるまい。ドラえもんは「これでいいのだ!」が決まり文句である。恵峰先生もドラえもんのこの言葉が大好きだとおっしゃる。この言葉の意識下には、現状の自分の精進を認め、相手を認め、そこから出発する心が感じられる。多くの仏像の中で、地蔵尊だけが我々と同じ視線か下から我々を見てくださる。上から視線ではなく、地蔵尊は自他を同じ視線で観て、現状を認め高望みせず、悲観せず、見下さず、ひたすら吾が道を歩むことを教えてくださる。

 

知的財産

 このドラえもん地蔵は中国で作られた石像である。一時期、ミッキーマウスやドラえもんの模造石像が大量に日本に入ってきてことがあった。明白な著作権違反品で、公正取引委員会がその石像を置いてある石材店に行政指導をして、廃棄処分を指導した。その処理に困った販売店がお寺に寄進をした一つが、このお寺に安置された経緯のようである。だからこのドラえもん地蔵の裏側にはあるべき小学館の著作権の表示が無い。ご縁でこのお寺に安置されたのも仏縁であろう。営利目的で置いてあるわけではないし、お寺という場所なので、許されると思われているようだ。しかしお寺は公共の場所である。違法な物品を設置は問題がある。空港の税関でも、中国製の贋物ルイビトンのバックは没収である。それが知的財産侵害物に対する法治国家の正しい処置である。このドラえもん地蔵中国製で、知的財産権の違法製品である。こういう事例が、日本の雇用を破壊していく。大きな堤防の決壊も小さな蟻のひと穴からである。

 日本国内にコピー商品を輸入する行為は違法である。関税法69条11項で「輸入してはならない貨物」として「知的財産を侵害した商品」と規定されている。109条にそれ輸入してはならない商品を輸入した罪として「懲役10年以下または罰金1,000万円以下」と規定されている。

 

日本の財産を守る

 知的財産とは、今後の日本が守らねばならない大切な財産である。頭で汗をかいて生み出した知的財産は、肉体的労働からの生産物以上の価値がある。キャラクタービジネスは、矢野経済研究所の調査によると、2013年が2兆3110億円の市場規模である。それに比例した日本の雇用が存在する。それが知的財産権で中国に侵されると、その分の日本のGNP(日本の雇用)が消滅する。サラリーマン労働は8時から17時までのルーチン労働で成し遂げられるが、知的財産は24時間の考え続ける知的労働から生み出される。それをパクリで盗用されるのを見逃しては、日本の衰退の原因となる。

 また知財の盗用問題は、新幹線技術パクリ事件のような問題に発展する。中国は、新幹線の技術をパクり、自国開発だと称して日本と競合して世界の各地に新幹線を売り込み始めた。インドネシア新幹線入札で、日本は受注競争に中国のパクリ技術に負けた。中韓は違法に日本の技術情報を盗み、急速に技術レベルを上げ、日本の市場と日本の雇用を奪っていった。日本が長年頭の汗と苦労の涙をかいて築き上げた知的財産を盗んだからである。知的財産を創造するの大変だが、盗むのは簡単である。知的財産権の保護や技術の盗難防止を軽視した結果が、現在の家電業界の衰退である。何万人というリストラで、多くの家庭が泣き、日本人の雇用が消滅した。知的財産を盗むとは、それで生計を立てている衆生を困窮に追いやること。

 

不偸盗戒

 修証義に曰く「第二不偸盗戒」。道元禅師の教えは、盗むことを禁じている。ドラえもん地蔵がそれを反面狂師として教えているのは皮肉である。たかがドラえもん地蔵、されどドラえもん地蔵の問題である。石屋さんやお寺さんが日本の経済基盤を揺るがす問題をないがしろにしては、道元禅師もお嘆きである。それを見て育った子供の知的財産への不感症さが怖い。これではお寺も衰退する。

 

図1 ドラえもん地蔵

 

2017-09-16

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2017年9月15日 (金)

佛の智慧

 明治政府が発令した神仏分離令は、仏教の教えを排除することであった。列強諸国に国土を脅かされている時代、新興国家の運営では富国強兵が最優先課題であった。争いを嫌う佛心は、国の方針に合わなかった。それで廃仏棄却・神仏分離の運動になっていく。

 それに危機感を抱いた大垣市南東の鬼門を護る大悲禅院の当時の住職は、智慧を出し京都から玉姫稲荷大明神を招いて、寺院内に玉姫稲荷大明神社を建てた。それで「大明神様がいるお寺を潰せるものなら、潰してみろ」と居直ったようである。お陰で大悲禅院のお地蔵様(安永2年(1773)建立)の首も安泰で、お寺も無事に廃仏棄却の大嵐をやり過ごすことが出来たようだ。

 

戦略

 大嵐に素手で立ち向うのは愚かである。智慧を使えば、人生の荒波はやり過ごせるもの。どんな非常識な権力者、上司にも知恵を使って戦おう。いや、戦うのは愚かである。無益な戦いを省略する「戦略」を練って、知恵を使って人生を戦うのが賢者の流儀である。仏界には、知恵ある佛は数あれど、知識だけの仏さまは存在しない。

 相手が日本の最高学府を出ていても、それは記憶する能力だけが高かっただけで、知恵がある証明にはならない。仏さまはその能力を、世のために使うため授けたはずである。それを何を勘違いしたのか、ちやほやされて己が偉いのだと勘違いをして利己主義に陥りふんぞり返る輩が跋扈している。知識はあっても智慧がない。世の中を明るく「照明」する人とは、知恵のある人である。それの反面教師として、明治時代の政府高官、血迷いのイラ菅、ダマ菅と呼ばれた管直人元首相、フリンセス・山尾志桜里議員、舞踏会の華ではなく罵倒界の鼻柱・豊田真由子議員、頭を下げるのが嫌いな東大出の長の面々の顔を見ればよい。

 

大垣空襲の痕跡

 ここに建つ谷汲山観世音菩薩様も、昭和20年の大垣空襲のナパーム弾の炎を浴びていてその痕跡が痛々しい。室村町四丁目地蔵菩薩尊が去った後、現存する大垣空襲の証人様である。この谷汲山観世音菩薩様も初代藤井寅吉氏の作である。このお寺の庭にある白衣観音菩薩像も石寅さん手配で石田観仙師の作。

 

図1 大悲禅院 谷汲山観世音菩薩

図2 大悲禅院の敷地内にある玉姫稲荷大明神社

図3 白衣観音菩薩

図4 お地蔵様

  安永2年(1773)建立。長くお堂内に安置されていたので傷んでいない。

 

2017-09-15

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