l4_詞天王が詠う老計・死計 Feed

2019年1月20日 (日)

聖観音菩薩が観る声

 聖観音菩薩とは「音」を「観る」佛様である。人はご縁(人・事件)にぶつかったり、すれ違ったりすると衝突音や摩擦音を発する。その音は自分の人格のレベルによって発する音が違う。衆生の助けを呼ぶ声を聞き分けて、助けに駆けつける佛様が聖観音菩薩様である。心を澄ませて聴けば、声なき声が聞こえてくる。万物は声なき経を唱えている。

 その声が聴こえないのは、目が曇っているからだ。心が汚れているからだ。心がねじれているからだ。強欲を持った目で見るからだ。世の中で一番佛に近い存在が赤子である。赤子の純真な心は素直である。松下幸之助翁は、経営者に必要な要素を「素直な心」と断言している。素直な目で観れば、物事の本質が見えてくる。その事象が発している声が聴こえてくる。それが聴こえる聖観音菩薩様のような存在を目指して、日々精進をしていきたいと思う。

 

ご縁の音

 ご縁に出逢って、どんな音が観えたのか、自分はどんな反応を示したのか、その出会いの音を、もう一人の素直な自分の目で観ることが人としての成長である。人は皆佛性を持っている。事件の遭遇したときその佛性が明らかになる。そこに裸に自分の姿が明らかになる。いくら小手先の労をこねくり回しても、自分の人格のレベルを上げない限り、自分の作品に艶は出てこない。格を上げない限り、社会と不協和音を響かせる結果となる。心の中に佛心も鬼心も備えて人間である。佛と鬼の境界をさ迷う心を澄ませて事象を観れば、世間の音が観える。素直な心を持たない限り、人格を上げない限り、声なき音を観られない。無私の心と高い見識から徳や悟りが生まれる。やるべきことを済ませて、あの世には無心で逝きたいものだ。

 

衆生の声

 この5年間も師事した河村義子先生の言葉の節々に、死を示唆する声があったが、私にはその声を観る力がなかった。今回の河村先生の訃報で、つくづくと己の未熟さを思い知った。それを知っても、病気に対しては無力な己である。今まで一期一会の姿勢で、先生の活動の姿を記録に残せたのが慰めである。そういうご縁を頂いただいたことに感謝である。

 

人の一生

 人はん坊で生まれ、春を謳歌し、金の壮年を過ごし、髪の老人となり、子のようになって暗黒の死を迎える。加齢により色が変貌していく様は、生き物の無常を表す。無常の声が聴こえるようになると人間として完成が近い。

 

人は皆、菩薩

 菩薩とは、仏道を極めるために修行途上の佛様をいう。聖観音菩薩様も人格(佛格?)の完成を求めて修行を積む。人間界の我々は修行を積んで、よき終末を迎えたい。この世で地獄の業火に焼かれて身を焦がすよりも、人生最後のプロセスで、背負った心身の業を少しでも落として逝きたいと思う。

 人生飛行の着陸には、余分なものを捨てて身を軽くしないと、重すぎて着陸に失敗する。人生の最期を有終の美で飾るため、美しい姿勢で着陸したい。

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   大仏師松本明慶先生作  聖観音菩薩像 楠 1尺

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2019-01-18 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2018年12月 6日 (木)

人生のキャンパスを照らす灯台

 人生は絵に例えられる。白いキャンパスに、どんな絵を描いても自由である。どんなサイズのキャンパスに、どんな絵の具を使い、どんな色を使い、どんな筆で、どういう画風で描くのか、それが人生で問われる。持てる絵の具のチューブのキャップも開けずして、人生を去りたくはない。そのキャンパスに書いた絵は、世にどんな意味を問うのか自問しよう。

 同じ風景を見て、同時に描いても、百人百色の人生が描かれる。解釈の違いである。その描いたキャンパスに、その人の人生観が現れる。その人生観を育てるのが親である。その人生を正しく導くのが師(灯台)である。師は人とは限らない。2000年前の書や経典や、時には自然が師となるときもある。自然はいつも声なき経を唱えている。

 人生を白いキャンパスに描く行為は芸術と同じである。奥村画伯は100歳を超える長寿で、生涯現役で富士山を描き続けた。100歳のときの「100歳の富士」は有名である。

「芸術に完成はあり得ない。

 要は、どこまで大きく、未完成で終わるかである。

 1日を大切に精進したい。」(奥村土牛画伯)

Photoシシリア島スケッチ旅行で、イタリア中世の都市を写生中

  SICILIA島 PIAZZA ARMERINA   20111111

2018-12-06 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

 

2018年12月 5日 (水)

人生航海の灯台

 人生を航海に例えると、航海の目印になるのが灯台である。夜明け前の一番暗いときも、人生の目印として灯台は明かりを照らす。それが己の戒めであり、師の後ろ姿である。実際の灯台の灯が簡単であるように、師の一言はさり気ない。その一言が人生の灯火になる。師の一言には魂が籠もっている。

 生きていれば、五里夢中や真っ暗闇の時もある。進むべき道が見えなくとも、どの方向に灯台があるかが分かればよい。明けない夜はない。方向さえ間違わなければ、紆余曲折してでも目的地にたどり着ける。人間だもの、右往左往して当たり前。天才ではない我々は、長生きして目的地にたどり着けばよい。健康管理を怠るから途中で沈没する。エリートでないので、一番になる必要もない。

 私は灯台を見ると、なぜか引きつけられる。シシリア島へのスケッチ旅行をしたとき、チェルファの寂れた漁村で下記の灯台を見て人生を感じた。滞在中の3日間に、ここに3回も訪れ、夜明け時の風景を眺めて少し長い時間を過ごした。

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シシリア島チェルファの灯台

地中海を航行する船のガイド役である 20111110日)

2018-12-05 久志能幾研究所 小田泰仙

著作権の関係で、無断引用を禁止します。

2018年9月 1日 (土)

地蔵菩薩尊の慈愛

 地蔵菩薩尊は男性の仏様だと思われがちだが、本来「仏さま」に性別はない。お釈迦様の入滅後、弟子達が表した教典の教え(仏性)を、概念として表現したものが「仏」であり、それを具体的に形に表したものが「仏像」である。

 「菩薩」とは、悟りを開くべく修行の道を歩いている仏の姿で、お釈迦様の若い頃の修行の姿を現している。「菩薩」とは、母性の悲愛、慈愛、母の優しさを現している。観世音菩薩や地蔵菩薩は、「母性」を現す佛様なので女性として扱われる。子安観音菩薩や子安地蔵菩薩のように幼子を抱いた仏像として表現される例が多い。

 それに対して「如来」はお釈迦様が悟りを開いた後の姿で、慈愛、父親の厳しさを表している。奈良の大仏は毘盧遮那仏=大日如来、鎌倉の大仏は阿弥陀如来で、共に性別はないが、上記のように如来は「父性」を表しているため、男性的な表現が一般的である。

 インド仏教から組み込まれた「天」には性別があり、帝釈天、梵天、四天王、十二神将、金剛力士などは男神。吉祥天、弁財天、技芸天、鬼子母神などは女神。

 

慈愛

 慈愛とはラテン語でpietaである。ピエタはミケランジェロが終生、追い求めたテーマでもある。世界で一番有名なピエタ像が、バチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂に飾られている。宗教上での慈愛は、宗教派を問わず、普遍的な人間性のテーマでもある。理不尽な理由で我が子キリストを殺されたマリアができることは、黙って慈愛の目を差し向けることだけである。

 それは昭和20年7月29日夜、目の前で米軍B29の90機の大編隊での無差別爆撃から逃げまどい、焼死する庶民を見つめた室村町4丁目地蔵菩薩尊(先代)と同じである。この慈愛は無償の無限の愛である。先代の地蔵菩薩尊は105年に及ぶ室村4丁目の町内への慈愛の見守りのお役目を終え、2016年に新しい地蔵菩薩尊にお役目を渡された。

 

「慈」の象形文字

 「慈」とは「心」と「茲」から成る。「茲」は、「増える(子を増やして育てる)」=「愛」と「心」で「母」の意味を持つ。「慈」の反対語は「厳」である。旧字体は「嚴」で、冠の「□□」と「嚴」の下部(音)から構成される。「□□」は、「厳しく辻褄を合わせる」の意味で、「父」の意味を持つ。自然界は陰陽で出来ている。優しい母がいて、その背後に厳しい父がいて子供は育つ。

 

ミケランジェロのピエタ像

 サン・ピエトロ大聖堂のミケランジェロ作のピエタ像には、私が定年退職記念でローマ旅行した時(2010年11月10日)に出会い、衝撃を受けた彫刻であった。次元の違う彫刻に遭遇したような思いである。10日間のローマ滞在中、3回もこのピエタ像を見るためバチカンを訪れるほど引きつけられるものがあった。1972年、トルコ人の精神病者がピエタ像をハンマーで打ち付ける事件が起き、それ以来防弾ガラスが据えられ、本物は10m先の防弾ガラス越しでしか鑑賞できない。しかし、宗派を超越して、キリスト教徒も仏教徒もイスラム教徒も世界各地から訪れた老若男女が長時間、ピエタ像を見つめていた。宗派を超越した慈愛の姿であった。

 運慶の流れをくむ松本明慶大仏師は、この像を見るのを自分の技量がそれに見合ったものになるまで、50年間も待ったという。2013年、念願が叶い、ピエタ像の前で30分間も凝視をされた。その経過はBSプレミアム・旅のチカラ「ミケランジェロの街で仏を刻む~松本明慶・イタリア~」に詳しい。これはオンデマンドでも視聴ができます。

 

レプリカ

 後で隣接したバチカン美術館に、この精巧なレプリカが展示してあるのを発見して、至近距離1mから長時間、お顔を拝ませて頂いたのは幸いであった。

 最近、岐阜県美術館のロビーに、これと同じ精巧なレプリカが展示されているのを発見して、拝ませて頂いた。しかし、設置場所が明るすぎで、なにか荘厳さが伝わらず拍子抜けをした。

1img_1008  サン・ピエトロ大聖堂

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 ピエタ像(サン・ピエトロ大聖堂) 20101110日撮影 

 見学者用柵から10m先に防弾ガラスで覆われて安置

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 岐阜県美術館で

 

2018-09-01  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。             

2018年7月15日 (日)

人体は神仏の集合体

人体という宇宙

 宇宙としての我が人体は、37兆個の細胞がひたすら己の命を生き永らせるため、自分が寝ている間も呼吸をし、心臓を動かし血液を体内の全長10万km(地球2周半)にも及ぶ毛細血管網に血を送り続けている。肺が休みなく空気を吸い酸素を血液に取り込んでくれている。

 

己こそが神仏

 己が世をはかなんで首を吊って、紐が首に食い込み意識が朦朧としてゆくときでも、「一秒でも長く生きてくれよ」と体の全細胞37兆個が一丸となって生命維持のために働いている。その働きは80年の長きにわたり1日も途切れることは無い。その働きを神佛と言わずして何が神佛であるか。

 産業革命以降のたかだか200年ほどの科学技術の発達に人類は驕っている。科学技術は未だに細胞一つをも創りだす事ができない。その神ごとき細胞が37兆個も集まった己の体に神仏の小宇宙がある。そこに神秘性の有り難さを感じないのではバチが当たる。

 

人間教

 己の体に佛や神が宿る。神佛に手を合わせる前に、その神聖なる己の体に手を合わて、それを授けていただいた「なにもの」かに感謝すべきである。日々に頂く食事は神佛へのお供えである。自分の仕事や掃除とは、神仏へのご奉仕である。自宅は神殿である。モノには精霊が籠もっている。己の体や身の回りの道具、時間を大事に使うことが人間教の修行である。周りの人にも神仏が宿る。人は家々で独自の宗派を構えている。豊田さんはトヨタ教、本多さんならホンダ教、私はお陀仏教である。

 

病気の原因

 病気とは、その37兆の細胞を過労、過食、毒物(酒、煙草、過剰糖質、添加物、防腐剤)、不合理な生活で、苛め抜いた結果である。堕落した生活は己の細胞への殺傷行為である。病気とは自然の摂理に反した生活を送ったが故の「理」にあった結果である。

 それなのに、医師から余命宣告をされて「なんで私だけが!」では己の体を司る神仏への冒涜である。己の生活の過ちを、病気というメッセージで教えて頂いたのだから、自然の摂理に合うように修正するのが信仰生活である。突然死にならないだけ、神佛は親切なのである。突然死になるまでには、数多くのメッセージを体は発している。体の異状は神仏の声である。

 

組織は細胞の集合体

 企業も数多くの従業員の集合体である。一人ひとりが神佛のごとき様で会社を動かしている。理に合った経営をすれば、繫栄する組織体となり、その反対は経営不振・倒産・死である。自然の摂理が見事に表われている。

 一人だけ過労死するが如くに働いても、組織全体としては、異常をきたす。それは、まるで暴走するガン細胞のようである。異常な状態の陰では、異常な利益を貪る細胞も生まれる。

 

縁という人生の細胞

 縁も神佛のメッセージがある。縁という一つの宇宙細胞が集って、その人の人生を創る。自然の摂理にあった生きかたをすれば、理にあったご縁が舞いこむ。それが縁起である。その逆も真である。それを仏教では因果応報という。一つのご縁に神佛の啓示がある。そのご縁に接することができたことにも合掌したい。

 

我が宇宙

「宇はこれ対待の役にして宙はこれ流行の易なり。宇宙は我が心にほかならず」 佐藤一斎 言志四録 後録20

 現代訳:宇宙は限りなく大きい。宙は限りなく長い時の流れ。共にとても見極められない。心にも宇も宙も感じられる。つまり宇宙とは、我が心である。

 

感謝

 私は、2015年のご先祖探しとお墓造りを通じて、「人の体は神佛の集合体」であると悟った。過去帳から分かっているだけだが、1734年に没したご先祖からの延々とした血の繋がりがあって、今の私がある。65年間に親類縁者・ご先祖・縁のあった多くの仲間の生死を俯瞰して見えてきた真理である。そんな摩訶不思議な神のような体を、この世に「一時貸出品」として貸与してくれた両親やご先祖に感謝をして生きていきたい。

 

神仏の警告

 大垣市長が12代も連続して現職のまま死亡するのは、死亡する原因がある。それを解明するのが、現職の市長の最大の役目である。それを祟りなどとしているから、問題がなくならない。問題究明なくして、大垣の未来はない。今まで通りに、体をいじめて市長職を務めるから、大垣市長の現役死が続き、大垣市が衰退する。神仏が、あるものを変えよと言っている。

Photo   馬場恵峰書  2015年

2018-07-15  久志能幾研究所 小田泰仙  

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

2017年11月28日 (火)

西部戦線異状なし 

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 上記の資料は、私の定年退職4~6年前に、新入社員の教育用に作成したプレゼン資料である。「自分の体は自分で守れ」というメッセージを込めて作成した。組織にとって、一人の死は、「西部戦線異状なし」の相当する些細な事象なのだ。当時、勤続30年間で事故や病気で亡くなった仲間が多くいたので、新入社員に教訓として資料を作ったが、還暦を迎えてその数が増え、65を迎えて更にその数が急増するとは想像外であった。合併でのストレスやグローバル競争社会に侵蝕されたのが影響しているようだ。合併でグローバル経済教に侵された状況を見せつけられ、ますますその感を強くした。前職の会社の合併は、対等合併との話ではあったが、実質的には吸収合併であり、私も含めて多くの社員がストレスを感じたようだ。

 新会社になって、この教育講義は、近視的視野で、短期の己の成果しか見ない拝金主義者のD役員とM部長に禁止をされた「技術以外の余分なことは教えるな」である。合併前の会社では、5年も継続してきた新人向けの修身の講座であった。新会社の役員は、修身などくそ喰らえで、金儲け一本道である。最近は、ブラック企業の不正事件、捏造事件がマスコミでオンパレードである。物質文明に取りつかれた日本の人心が病んでいる。

 

無事の有難さ

 「無事」であることは、いかに「有難い」ことかは、事故や死に直面しないと悟れない。「今日無事」の意味を、65年間の経験を積んで初めて体得した自分の愚かさを今感じる。今日無事でも明日は分からない。

 私の定年退職までに一緒に仕事をした仲間や縁あった仲間が数多くの鬼門に入った。列挙するとその多さに愕然とする。自分も自殺を考えなかったことがないわけではない。自分が無事に65歳を越えたことに、仏様ご先祖・両親のご加護を感じる。以下は自分にご縁があったビジネス戦士の墓碑銘。合掌。

 

仕事をするとは、生きる意味とは

 下記の墓標を見ると私の勤めた会社はブラック企業であったのかもしれない。しかし、私にとって多くの職場と世界の舞台で、私を育ててくれた会社でもあった。多くの仕事仲間と上司が私を育ててくれた。当時、徹夜も厭わず深夜まで働いていたが、それが苦痛とは思わなかった。

 友人によると、私の勤務した会社は採用時に、次男や親兄弟のない青年を多く採用していたそうで、入社した人間は嫌でも働かざるを得ない状況にしていたとも聞く。どんな環境でも人によって、受け止め方は異なる。極楽浄土みたいな職場では、人は育たないのかもしれない。『夜と霧』を執筆したヴィクトル・E・フランクルは、アウシュビッツで己の生きる意味を見つけて、死の収容所から生還した。若く元気な青年が生き延びたわけではない。何の為に生きているのか、生かされているのかを分かったものだけが地獄から生還した。1945年のシベリア抑留でも同じである。父が生きて生還したから、今の私の命がある。

 「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」(ニーチェ)。「生きる目的を見いだせず、生きる内実を失い、生きていてもなんにもならないと考え、自分の存在価値をなくし、がんばり抜く意味を失った人は、(いくら若く頑強な体でも)、あっけなく死んでいった。」(「夜と霧」ヴィクトル・E・フランクル)

 

戦友の墓標

1973年 4月1日の入社当日の夜 大学の学友・Sが自殺。(別の会社に入社)電気コードを体に巻いてタイマーをかけて自殺。自殺理由は不明。同じ機械科で物静かで優しい性格で、成績はクラスで2番の優秀な子であった。

1987年 K係長(享年40歳前後・生産技術部)米某自動車工場に機械納入中の現場で、心臓発作で死去。私の担当した機械の開発試験で直々に厳しい指摘でお世話になった方。私も開発に携わった機械の納入時の事故である。

1997年頃 T主任(享年40歳前・知財部)が寮の一室で朝、死去。バブル崩壊後の不況で、特許室から現場応援に出され、三河の寮に単身で勤務していた矢先のこと。子供もまだ幼い。葬儀場で奥さんの顔を直視できなかった。たぶん無理な現場での心労が重なったのか。1994年にミシガン大学に研修にいった時、現地で大変お世話になったのに。

1998年頃 K主任(享年40歳前後)宴会後、サウナで寝込んで死亡。技術部の設計仲間。この事故後、保養所の宴会後のサウナは禁止された。

1998年頃 N主査(享年55歳前後・ソフト開発)白血病で死亡。私の開発に携わった機械のソフト開発で大変お世話になった次長さん。

1998年頃 S元部長(享年60歳余) 糖尿病の併発病で死去. 研究開発部で私の直属の上司。定年退職後の早すぎる死。デミング賞を取るために無理な生活を強いられて病気になられた。奥様が夫のためにと作った栄養過多な食事を、夜遅く取り続けた結果が、糖尿病である。

2003年 D主担当員(享年54歳・営業) 病没. 私の1年後に同じ設計課に入ってきた仲間である。机を並べて、仕事をして、一年先輩として色々と情報を教えた仲である。欧州に赴任して苦労をしたようで、その影響で病気になったようだ。私がパリに出張したとき(1991年)に会ったが、元気がなかった。現地法人で心労ある激務であったようである。彼は技術屋で営業には向かないタイプである。上司Uに逆らったので、海外に飛ばされたと聞いた。

 長年、当社は仏の現地法人に食い物にされ、赤字を垂れ流していた。後に清算してやっと出血が止まったが、遅すぎた経営判断であった。経営者の決断が遅れると、社員の命に影響する事例である。営業に向かない性格を知りながら、また現地の厳しさも知りながら、異動させたのは推定殺人だと思う。そういう冷酷な人が上司であると、部下は不幸である。経営者は、資源(人モノ金)の最適配分を考える責任がある。それを人の好き嫌いで差配するのは、経営者失格である。一流大学大学院を出ただけでのエリートが、優れた経営者ではないことの実例である。

 この事例では、上司に嫌われた場合の悲哀を見せ付けられた。サラリーマンが嫌なら独立することだ。それができないなら、嫌われないように保身するのがサラリーマンの智慧である。私の両親は、上司への盆暮の心づけを欠かさなかったので、私はその危機を避けられた。今にして思うのは、これは危機管理上の保険であった。両親のご恩に改めて感謝している。この写真で彼を見ると、明らかに、疲れていることが見て取れる。またこの中にもう一人、私の仲間がいて、メンタルで倒れている。海外勤務は、精神面でタフでないと勤まらない。

 2003年頃 I社長死去  50歳過ぎ 突然死. 機械の外注設計の社長。20年来のお付き合いで、腕のいい設計社長であった。お宅にも泊めて頂いたことがある。突然の訃報を聞いて、驚いた。

2004年 Y社長 出張先ホテルのシャワー室で突然死。 壮絶な戦死である。合併の段取りで心身ともご苦労をされたようだ。Y社長からはIT戦略会議の場で何回も厳しい指導を頂いた。葬儀では駐車場の交通整理でお手伝いをさせて頂いた。葬儀は身内のみとのことであった。身内とはグループ会社の社長を意味し、葬儀場のお寺に黒塗りのセンチュリー、レクサスの高級車が60台も集結して壮観であった。グループ会社の社長にとって、戦友を亡くしたが、明日はわが身との思いがあったろう。グループ会社は、グローバル競争の嵐に巻き込まれ、Y社長の死は5000人規模の会社の統廃合が始まる前兆であった。優良会社A社は上場直前であったが、分割吸収され消滅した。氏は親会社の役員から当社に社長として来られたので、生きて合併を推進すれば、悲惨な身内の死はもっと減ったと思う。この死で合併は相手のペースで進んだ。社長の死は、合併への仏さまからの警告だったと今にして思う。

2006年 新会社発足。建前は対等合併だが実質は吸収合併。

 5000人規模の会社の死である。会社にも70年の寿命があった。

2007年 S主査(享年55歳前後・営業) 突然の死去. 朝、体調が悪いといって、病院に行きそのまま帰らぬ人となった。大阪に単身赴任。合併での犠牲者である。家族は会社と断絶状態である。奥様は会社からの葬儀参列も霊前花も一切拒否。峻烈な意思表示をされた。彼には教育部主催の篠田教授のテクニカルライティング講座、秘書室での対応、営業部での仕事等で、色々とお世話になり親しかった。

2008年 S室長(享年50歳前後・設計)  過労死。 技術部の仲間。合併での犠牲者だと私は思う。賢明な奥様は、夫の過酷な勤務状況・勤務時間を克明に記録していて、会社に突きつけた。自分の身を守るのは記録である。しかし、記録では夫の命を守れなかったのは哀しい。

2009年 Y主担当員(享年59歳 技術部) 癌で死亡。進行性の癌。合併での心労による犠牲者。新会社になり仕事がしんどいと話していた。私の開発した機械の見積もりを担当。優しい性格の仲間。

2012年4月 学友・F(享年63歳)  癌発病後4ヶ月で死去

 同じ卒研仲間で某自動車に入社。定年後の再雇用で、そろそろ自分の時間が欲しいとの元気な姿の写真の入った年賀状を頂いた矢先のこと。「食事でもどう?」と家に電話をしたら先日亡くなったと……

2012年 総務部のO元課長死去(享年62歳くらい)

 工場のフェステバルで一緒に会場運営準備をした仲間である。

2013年 元部下のO君死去(享年40歳前後)

2014年 元部下のY君死去(享年55歳)

 

 私の同期24名中、退職時に在籍していたのは8名のみ。後は退職、転籍。その他、部下でうつ病になったのが3名。精神異常が1名。周りの職場を見るとうつ病者は数知れず。私も退職前の一時期、陰湿ないじめでうつ病寸前になった。病院に行けばうつ病と診断されるのが明白であったので、関係の本を読み漁り自力で直した。

 グローバル経済で拝金主義が横行し、社員が不幸に陥る現実を直視しないといけない。それが責任者の勤めである。役員・部長は成果主義に染まり10年後のことは眼中に無い。会社がおかしくなれば、日本国もおかしくなる。現代の日本の姿である。私の勤務した会社が吸収合併されて消滅したのは、亡くなった戦友達の怨念かもしれない。

 

母の遺言

 1991年、母は脳溢血で倒れ、一度は手術が成功して回復したが、その後、脳梗塞が進行して、1992年7月に市民病院に再入院した。そして、だんだんと意識が薄れていき4ヶ月ほど植物人間状態になり、12月に息を引き取った。お盆過ぎの日、自宅に帰る前に病院に寄ったが、意識が大分錯乱状態であったようで、私に「○○(私の元上司)は、ひどいやつだ。気をつけろ」と何度も何度も私につぶやいた。そんなことはないよと、なだめるのに大変だった。当時は、脳梗塞の進行がそんな言葉を発していると考えていた。

 今にして当時を振り返ると、何か鬼気迫る雰囲気であった。20年経って仲間の墓碑銘を見つめると、その言葉が迫ってくる。母の潜在意識が、この世に残していく最愛の息子へ発した叫びであったようだ。母は苦労をしたが故、人の本質を見抜く力を持ち、それが薄れていく意識の中で口に出たようだ。母は地元の中小企業社長(入社時の私の保証人)が、一目も二目も置いていた女傑であった。この社長と対等にやりあえる人はざらにはいない。旧家の10人兄弟の長女として采配を振った賢明な母であった。しっかり者過ぎて、私は煙たかった。母は○○の高卒の妻の存在を、夫が役員になったのでそれを鼻にかけていると見抜き、私に注意を喚起していた。結果はその通りとなり、妻の言動で夫が影響を受ける会社人事の事例を冷静に観察できた。妻に影響されるような役員は、経営者失格である。

 私はその上司から離れてから(飛ばされて)運勢が向上した。1991年、会社創立50周年記念論文で最優秀賞(賞金100万円)を獲得した。その報告が母への最後の親孝行となった。1993年、課長に昇格はしたが、上司夫妻に嫌われていたため昇格が遅れたため、喜んでもらうはずの母は、この世を去っていた。

 ご縁があったその会社も、2010年4月(定年5ヶ月前)、大手に吸収合併されて消えた。前の会社の消滅4年後のことである。

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2007年、馬場先生から頂いた板書。「今日無事」の言葉は重い。今日無事でも明日は分からない。

2017-11-28

久志能幾研究所 小田泰仙  e-mail :  yukio.oda.ii@go4.enjoy.ne.jp

HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年11月 1日 (水)

人生の奥の細道を歩く

 2010年8月末に37年5ヵ月間を勤めた会社を定年退職し、故郷の岐阜県大垣市(県下で岐阜市に次ぐ第二の都市、人口16万人)に活動拠点を移してから、朝の日課として「四季の路」を現在まで歩き続けていた。最初の4年間は、雨の日も風の日も欠かさず歩いていた。松尾芭蕉が半年で踏破(1日13 km)した奥の細道の2400kmを、私は毎日5km で1年半かけて達成した。現在は(2015年)、時間帯を夕刻に変えて、雨の日を除いて毎日歩いている。

 「四季の路」は、大垣市が俳聖松尾芭蕉の『奥の細道』の旅で詠まれた俳句の碑を市内中心部の水門川沿いに建立し、「ミニ奥の細道」として整備した遊歩道である。早朝の人通りのまばらな街を横切り、川沿いの静寂な散歩道を歩いて、考えたことは、今までの人生の歩みと今後の35年(予定)の道のりである。60年間の総括として人生を振り返ると、人生は旅だなぁとつくづくと感慨にふけさせられる。『奥の細道』の冒頭の一節が自分の人生に重なる。

 

人生は托鉢の旅

 人生とは空の器を持って、僧が托鉢をする修行と同じである。器を上向けに捧げて歩かない限り、ご縁は入ってこない。来る日も来る日も、雨の日も風の日も同じ道を歩く。同じ道を歩いていても出会う縁は毎日違う。その前を毎日通過しても、4年目でしか実が結ばないご縁もある。どれだけご縁に対して意識がそこに向くかで、そのご縁との出逢いがある。

 

人生は縁を求める旅

 人生の旅は、縁を求めて歩く旅である。用があるのではない、用を作りに出かける旅でもある。犬も歩けば棒に当たる。歩かなければ、ご縁に出会でない。多く出会いの中から、真珠の出会いが生まれる。無駄な出会いがあるから、真の出会いがある。散歩の途中にある恒久平和の碑の裏側に記載された父の名前は、4年間、毎日その横を通っても気が付かなかった。同じように、気づかずに通り過ぎていったご縁がどれほどあることか。

 半生を振り返り、遭遇した多様な縁を見つめる時、よくぞ無事にこの歳まで生きてきたかとの思いにふけさせられる。無事にたどり着けなかった仲間がなんと多いことか。そのビジネス戦士の戦死の現実を見ると愕然となる。

 

「全てを受け入れる」を悟る旅

 水門川の澄んだ清流を観ながら、早朝の水辺を歩くと大変清清しく、気持ちのよさは格別である。水門川の川底まで澄んだ水の流れは、気候によっては泥水を含んで濁り、日によっては大量のゴミが流れてきて、日々その様相を変えるのも、人生を感じる。「海の水を辞せざるは同事なり、是故に能く水聚りて海となるなり(修証義)」という言葉がよく思い浮かぶ。来る縁を拒否するから、軋轢を生じさせる。相手を拒否せず、全てを受け入れ、それを己に同化させればよいのだ。そうすれば時間がかかっても、最後は己のものになる。その悟りを得るために、60年という長い時間がかかった。それを体得するのが人生である。

 

旅の終わり

 どんな旅にも終わりがある。95歳まで歩くと決意していても、一年前から腰を痛めて、この1年間は歩けなかった(2017年)。いくら歩こうと言う意思があっても、加齢による脊椎の骨の老化で、歩けなくなったのだ。日暮れて道遠し、を痛感させられた。「命には限りがある」ことを思い知らされたこの1年間であった。元気な時は、それをすっかり忘れていた。最近やっと痛みも和らぎ、ぼちぼちと散歩を再開した。己の命の限界を見据えて、人生計画で列挙した夢は早く実現しようと決意を新たにした。それが今回の大きな学びである。

 

図1~4 「四季の路」の風景

図5 四季の路の地図(大垣市作成 「四季の路」道中に掲示)

図6 馬場恵峰書「奥の細道」冒頭の書

  「馬場恵峰書『奥の細道全集』」より(「2017年12月発刊予定」)

 

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2017年10月31日 (火)

人生深山の峠

 芭蕉の「奥の細道」の旅は、最上川の急流を舟で下り、霊山巡礼登山で旅の峠を迎えた。芭蕉は、山岳信仰の霊山で知られる出羽三山の一つである月山に登った。元禄2年(1689年)6月6日、頭を白木綿の宝冠で包み、浄衣に着替えて、会覚阿闍梨と共に、宿泊地の羽黒山南谷の別院から山頂までの8里(約32km)の山道を登り、弥陀ヶ原を経て頂上に達した。時は既に日は暮れ、月が出ていた。山頂の山小屋で一夜を明かし、湯殿山に詣でた。他言を禁ずとの掟に従い、湯殿山については記述がない。唯一、阿闍梨の求めに応じた句として、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」で秘境の感銘を詠んでいる。現代でも、湯殿山での撮影は禁止されている。

 

馬場恵峰書『奥の細道』

 『奥の細道』の作風は、この峠を境に雰囲気が大きく変わる。芭蕉三百年恩忌(1994年)で『奥の細道全集』(上下巻)を揮毫された馬場恵峰師も、この峠の記述を境に巻を分けて構成された。

 図1 『奥の細道全集』と馬場恵峰書 2011年4月2日

 

人生の奥の細道

 小さな人生にもドラマがあり人生の峠がある。しかし、その峠にもたどりつけず鬼門に入った仲間が、還暦を迎えた時に身近で10名余にも及ぶ。自分が還暦を迎えて、無事に人生の峠に辿り着けた有難さを強く感じる。還暦を迎えてからも仕事仲間の5名の訃報に接した。還暦は人生の峠である。

 人には、語れぬ人生の深山がある。人生で、いつかは足を踏み入れねばならぬ深山である。芭蕉は死者としての白木綿の宝冠で包み浄衣に着替えて、山に入った。人は経帷子に身を包み、人には見せられぬ醜い自分を見るために、山を登る。人生で一度は越えねばならぬ峠である。その峠で、過去の自分の臨終を見送る。

 死者として深山を上り、新しく生まれた赤子になって、上ってきた山道を下る。「他言を禁ず」の戒律は、人には語れぬ醜い己の臨終への佛の経なのだ。峠を下れるだけ幸せである。峠を下れずに、山腹で骨を埋める仲間も数多い。自然が唱える不易流行の経の声を聴き、己が神仏に生かされていることに感謝を捧げる。

 図2 馬場恵峰書『おくのほそ道』上巻 最終頁 日中文化資料館蔵

 

人生のまさか

 2011年4月2日に、恵峰先生宅に日中文化資料館見学ツアーとして経営者仲間と一緒に行くことになった。その折、私は馬場恵峰書『奥の細道全集』を撮影する計画を立てた。ところが3月11日に東日本大震災が起こり、そのツアーが中止となった。しかし私は飛行機の予約もしたし、本来の目的が『奥の細道全集』の撮影なので、キャンセルをせず撮影に出向いた。

 その当日、盛岡の齋藤明彦社長(㈱電創総合サービス)が、まだ津波で犠牲になられ人たちの霊が漂っている浄土ヶ浜の海水を持参され、その海水で恵峰先生に追悼の書の揮毫を依頼された。私は偶然そのご縁に接せることになった。当日は、そのことは知らなかったが、4月16日の明徳塾で恵峰師はその追悼の書を紹介されて、初めてそのご縁を知った。

 還暦までにビジネス戦争で斃れた仲間も多いが、震災のように突然、生前の精進如何に関わらず、命を召される事態は、現世ではざらにある。今回の震災は人生の無常を痛感した事件であった。生きているが奇跡なのだ。頂いた命を大事に使わねばと還暦後の人生の歩みの決意を新たにした。

 図3、4 追悼の詩 馬場恵峰書 2011年4月16日撮影

 

「出版の細道」の道を歩む

 写真集 馬場恵峰書『奥の細道全集』全2巻は2017年12月に発刊予定です。その一部が図2です。この書は私が馬場恵峰師と縁が出来てから、5年程経った2011年頃、師が『奥の細道全集』全2巻を芭蕉300年遠忌で書き上げたという話を「明徳塾」の講義の時に聞いた。『奥の細道』のむすびの地は、私の住まいの大垣であるご縁からから、写真に撮らせてもうことを思いついた。当時、出版は全く頭にはなかった。それからカメラもCANON 7D、7DⅡ、5DⅢ、5DⅣと4世代も変わり、多くの先生の書をスポット的に撮影していく過程で、2015年頃から先生の書を世に出したいと思うようになった。いろいろと出版してくれる出版社を探したが、ないという結論となり、それなら自分が出版元として出版する決断をしたのが経緯である。大きな舗装道路でなくてもよい、未舗装の細い道でも先生の名が残るなら、自分でも本を出版した記録として残るならと、細くても新しい道を創ろうと決断した。 

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2017年10月17日 (火)

人生とはリースの大黒袋

 松下幸之助翁は「人生は90%までが、いわゆる人知を超えた運命の力によって既に決まっている。人間の知恵才覚で左右できるのは、残りの10%に過ぎない。そう考えれば、人生、得意のときも、淡々と素直に謙虚に、わが道を歩んでいくことができよう。」と運命を断じた。しかし今回のお墓作り、ご先祖探しの旅で、人知を超えた運命の力は90%どころか、人生の95%から99%にも及ぶことを感じた。人間の人生とは、運命を運ぶ大黒天に背負われた大黒袋ではないかと思うようになった。

 

袋に入れるもの

 人は生まれたときに、天より人間という形の袋が授けられる。その袋は運命を運ぶ大黒天によって担がれて、ひたすら死という終着地に向かって運ばれてゆく。人間にその行き先を拒否はできない。人生旅の終着地に着いたとき、大黒様はその袋を火葬場にお役目として放り込む。お釈迦様を含めて一人の例外もない。袋としての人間に、死後で残るのは僅かな灰でしかない。人間として生きた証として、運んでもらっている間に、その袋の中に何を入れ、それをどう昇華するか、どう料理するかが問われる。袋に入れて集めた多寡が問われるのではなく、集めたものをどう活用したかが問われる。

 幸いなことに、その袋は人間の成長に合わせて伸縮自在に変貌する。その変貌の程度は自己鍛錬に依存する。その袋の中に何を入れて、何を入れないか、入ってきた縁の整理整頓清潔清掃(4S)ができるかであり、入ったものをどう料理するかが問われる。その如何によってその袋が価値ある宝袋にもゴミ袋にも変身する。その中身がダイヤモンドにも毒にも変身する。

 その袋の布は、血も肉も通う生身の生命体である。その袋に過度な美食美酒を入れすぎて、袋がアルコール侵蝕されて穴があくこともあろう。節制を忘れた人間の強欲のなせる業である。その袋は天からのリース物件である。大事に使わないと、契約途中で天から解約通知が舞い込む。その袋を大事に使っても、最大100年後には、天にリース返却しなければならない。自分の体はご先祖が天にお願いして手配してくれたリース物件である。それを忘れて、酒池肉林、甘味飽食に溺れるから、契約違反としてリース途中解約となる。

 その袋に分不相応に財を入れすぎて、袋の底が破れ、破綻することあろう。己の器の大きさを自覚せずに、棚ボタの財宝を入れすぎたためである。集めることだけを考えて、利他として分けることを忘れた天罰である。

 

大黒袋を守る

 その袋を目掛けて飛んでくる非難や試練という攻撃の矢で傷つき、穴があき袋が破損することもあろう。どれだけ袋の表皮の強度を上げる鍛錬をしたかである。試練という鍛錬をしない限り、か弱い材質の袋のままでは、人生に価値あるものを袋に入れることが出来ない。天は心という器だけは、傷つきやすい裸のままに創られた。それを自覚して人生を歩まねば、言葉と言う凶器で自他の心を傷つける。人生道は担いだ大黒袋を大事にして歩みたい。その自覚なき人生では、道半ばで沈没する。

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2017年9月24日 (日)

改建墓の開眼法要

 2015年11月29日午前11時より、小田家と北尾家のお墓の開眼法要を執り行った。最初、長松院の本堂にて北尾家、小田家の先祖代々諸精霊への供養の読経を行い、焼香をした。その後、改建したお墓に場所を移して、お墓の開眼法要を執り行った。最初に為写経をした写経を3つの納骨室に敷いた。最終的に書き損じも含めて80枚前後の写経をすることになった。よき人生経験であった。約3カ月間、毎朝斎戒沐浴をしてから1時間、根をつめて写経をすることになり、新たな発見もあった。2017年になって恵峰師から、写経が書写行として佛道の修行の中で、一番の先祖供養になることを教えてもらった。いまにして良き先祖供養をことをしたと思う。後日、写経をしたことで、戒名の間違いが露見して、再度、為写経をすることになり最終的に110枚余の写経をお墓に納めることになった。それもご縁であった。

お墓に添える蝋燭も赤の蝋燭で、お祝いとして赤を使うことを初めて知った。叔母が備えてくれた御餅もお祝いとして紅白の御餅である。この歳になっても知らないことばかりである。この歳になってお墓を作るというご縁を頂いたのも佛縁である。そのご縁で馬場恵峰先生ご夫妻にも同席して頂いたのもご縁である。

 

納骨

 その後、本堂に安置してあった祖母と母の遺骨を骨壷から般若心経が書かれた納骨袋に移し、その納骨袋を各々のお墓の納骨室内の為写経の上にそっと置いた。北尾道仙氏の納骨袋も納めたが、その納骨袋に入れたのは旧のお墓から回収した土で、お骨ではないが、形としてお墓に納めることとなった。以前、学術機関が豪徳寺の井伊直弼公のお墓を学術調査のため調査をしたが、中には何もなかったという。当時の幕末の世情を考えて、本当の遺骨は別の場所に埋葬して、正式のお墓には納めなかったようだ。お墓とは精神的な面が強いシンボルであると思う。事象を見るのは眼ではなく、心が観るように、お墓の存在も己の心が、そのお墓の存在を認めることだと思う。同じ考えで、お骨の無い親族の分は、戒名を住職様に紙に書いて頂いて遺骨の代わりに納骨室に収めた。

 

23年前の母の遺骨と再会

 母の遺骨は23年前のお骨で、当時、全体骨の一部をお墓に入れて、入らない残りが本堂の遺骨安置室に預けられていた。その残りのお骨を今回納骨できることになった。そのお骨は一部黒ずんだ灰色で、23年ぶりに見ることになった。あとで石屋の松居さんから、問い合わせがあって分かったことであるが、当時、大垣の古い設備の火葬場で火葬に付したが、当時はまだ設備の火力が弱くしっかりと焼けていなかったようである。13年前の父の火葬のときは、別の場所に火葬場が移り最新式に更新されていた。この11月3日に従兄弟の勇美子さんの灰葬に立ち会ったが、綺麗な白いお骨であった。火葬の技術も進歩して、時代の流れを感じた。

 

図1 手塚紀洋住職によるご精魂入れの儀式

 

2017-09-23

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