親戚付き合い、墓付き合い、はかない付き合い
知人は墓を建て、今まで疎遠であった親戚と新たに親戚付き合いを始めた。しかしその後、その家からは結婚式にも呼ばれないし、法事にも呼ばれないし、主が亡くなっても1ケ月も連絡がなく、その後、コロナ禍の影響で家族だけで葬儀は執り行うとの連絡が来たそうだ。つまり葬儀参列拒否である。親戚付き合い拒否の通知であるようだ。
その人の心情や信心深さは言葉にしなくても、長年の人に対する行動で伝わってくる。
だからコロナ禍の最中とはいえ、その行動には違和感があったようだ。その縁者には、親の後姿での教育が出来ていなかったと思うしかない。
これでは「墓関係だけの付き合い」である。「墓付き合い」である。それは「墓が無い」と同じ、「はかない(墓無い? 儚い?)」付き合いである。それは現代の世相を表しているようだ。
コロナと共に去りぬ
最近の結婚式は、上司などを呼ばず、近親の親族だけですませ、友人たちだけで別にパーティを開催するようだ。上司も遠縁の親族など呼ばないという。
現代人は、人との関係を断ち切りたいと思っているようだ。スマホだけの虚構の世界に埋没する現代社会を象徴しているかのようだ。
本来、日本の冠婚葬祭とは、ある意味で親族の生存確認である。また最近は、親族も遠く住んでいるケースが多く、滅多に会う機会が無い。その近況を確認し合うのが冠婚葬祭での集まりである。特に話があるわけではない。お互い顔を見るだけで安心できるのが血のつながった社会なのだ。それが昔から、一族郎党が厳しい世の中を生きてきて身に着けた生活の知恵である。
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人間関係の変化
それが今はコロナ禍を大義名分に人間関係が消滅しようとしている。会社でも在宅勤務である。自宅で誰とも話さず、黙々とネットを通じて仕事をする。
20年程前、私がバリバリの仕事人であったころ、メールでのやり取りに限界を感じて、なるべく直に会って話をするように心がけるようになった。当時は会社内でもメール文化が始り、大量のメールが行き来していた。室長ともなれば、一日に100~200通のメールが舞い込む。それをサバくために、メールの文章ではどうしても表現がきつくなり、けんか腰になりかねない状況に追い込まれる。特に、私のようにテクニカルライティングをマスターして文章にすると、キツイ表現になってしまう。
またアメリカの心理学者アルバード・マレービアン博士の研究によれば、文章では、その言葉の7%しか相手に届かない。後は、声の質(高低)、大きさ、テンポで38%、顔の表情で55%の情報が伝わると言う。人間以外の動物は、全て言葉以外の非言語コミュケーションで済ませている。人間も動物の一つである。多くを非言語表現で真の意思を表している。
だからメールでは真の心情は届かないのだ。それでコミュニケーションの限界を感じて、大事な情報の場合は、伝達の手段を変えた。つまりフェースフェースの直接対話である。それから見ると、現在はまだ当時より退歩してきているようだ。その対応は未成熟になったと感ずる。
昔ながらの人情ある人間関係がコロナと共に去って行った。これで日本社会がより殺伐たる人間関係になる要因が増えた。これは小さな綻びである。それが今後拡大することが怖しい。少子高齢化社会で殺伐たる未来が見える。
「武道としての情報設計_C1_文書道」 より
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仏壇での後姿
最近は家に仏壇のない家も増えた。ハウスメーカのモデルハウスに見学に行っても、仏壇を置くスペースが用意された家は皆無である。親が仏壇に手を合わせている姿が、子供への最大の教育なのだ。子供は親の言う通りにはならず、親がやっている通りになる。
それはA宮家騒動を見ればわかる。KK問題でも、世代断絶の異常が垣間見える。「KK息子は父の墓前にお参りもせず、花を供えたことはない」と週刊誌報道である。KK息子が皇族と結婚できたのだから、そんな慶事は、渡米前に父の墓前に報告するのが人間の道である。それだけでKK母子の異常な行動が理解できる。私は、あのような人格(人欠く?)になりたくないと反面教師として眺めている。皇族は世の中の風潮を象徴しているようだ。
2023-02-02 久志能幾研究所通信 2602 小田泰仙
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