o-大垣の歴史 Feed

2017年7月16日 (日)

石田三成次男と弘前

 新戸部さんと種差海岸に行く車中の世間話で、石田三成の子孫の墓が弘前市内のお寺にあるという。石田三成公は関ヶ原の戦いの時、大垣城を作戦本部にした武将であり、彦根の佐和山城主として、井伊長政公が彦根に入城する前に彦根を治めた武将でもある。不思議なご縁を感じて、翌日(2016年5月16日)、お墓参りをすることにした。

石田三成の次男の運命

 そのお墓は宗徳寺の中に建立されていた。子孫の方がその墓所を守っている。その墓石に「豊臣家家臣」とあったので、当時の徳川の威光が全国に届いていた時代になんと大胆なことかと目を引いた。徳川の時代は豊臣氏の名が徹底的に排斥された。それが津軽では、豊臣の家臣の石田三成の子孫が家老として存命し、墓に「豊臣家家臣」と明記があるのには、歴史の錯綜を感じてしまう。家康は存外と心が広いようだ。

 1600年の関ヶ原の天下分け目の戦いで、石田三成は戦いに敗れ刑場で首を刎ねられた。刑場での罪人扱いの処刑は、戦国時代の戦いの結末としては異様である。戦国の時代でも、徳川家康は石田三成に対してこだわりがあったようだ。その次男が関ヶ原の戦いの後、津軽に落ち延びて、津軽藩の家老になり生涯を全うした。それを大目に見た徳川家康の対応に興味が湧く。本来なら、石田三成家の一族郎党の皆殺しが筋ではあるが、なぜか家康は石田三成の子孫を見逃している。次男の石田重成は、関ヶ原の戦い後、津軽信建の助力で畿内を脱出した。家康は深追いをしていない。石田重成は津軽氏に匿われ、杉山源吾を名乗り、後に家老職となり、子孫は津軽家臣として数家に分かれた。

石田三成の長男の運命

 長男の石田重家は、関ヶ原の戦い後、徳川家康に助命され出家した。父・三成と親交が深かった春屋宗園の弟子となり、宗亨と名乗って104歳(または103歳)の天寿を全うした。宗亨に帰依した弟子に祖心尼がおり、祖心尼は宗亨の甥にあたる岡吉右衛門に娘おたあを嫁がせている。

石田三成の人間の器

 石田三成の天敵というべき徳川家康の人柄と比較すると、石田三成の人間の器を考えざるを得ない。石田三成は豊臣秀吉に見いだされて、出世街道を驀進したエリートである。頭は切れた合理者である。朝鮮出兵でも後方の支援(ロジスティックス)の重要性を認識して対応して、そつなく仕事をこなした優秀な能吏であった。実戦より兵站を重視して論功行賞に当たったことが、人情に厚く戦に苦労した戦国武将の反感を買った。彼は豊臣家の為に、関ヶ原の戦いという事業を計画・遂行した。三成が豊臣家のお家大事との義と理は正しい。しかし現実の世界は、豊臣家の時代が終わっており、石田三成は理屈と現実が乖離している現実に納得できす、大人の対応ができなかった。もっと大人の対応を講じていれば、豊臣家が滅亡せず、大大名ではないが、徳川家康の時代にも生き延びる術はあったはず。勝つのではなく、負けない戦略が必要であった。

徳川家康の人間の器

 それに対して、徳川家康は、幼少時代は今川家の人質、戦国時代は織田信長の命令で、妻と長男を自らの手で殺させられた。世のあらゆる辛酸を舐めて、待ちに待って、我慢に我慢を重ねて天下を盗った老獪な知恵者である。苦労人の家康には、才覚はあるが苦労の薄い石田三成の敵ではなかった。石田三成の理想論には世の武将はついてこなかった。

 舛添元東京都知事のように、東大法学部を首席で卒業するほどの頭の良さだけでは、人はついてこない。頭がいいだけでは、世の中を動かせないのを徳川家康公の人生家訓が物語っている。合理的に考える能力の高い人は、合理的にしか考えられにない欠点を持つ。それでは人生を戦えない。私も還暦を過ぎてから、この人生の根本原則にたどり着いた。随分と遅い悟りではある。

 

図1 宗徳寺の山門(弘前市)

図2 宗徳寺 本堂

図3 杉山家の墓所

図4 杉山家の墓所の奥に石田三成の次男・重成のお墓

   豊臣家臣と字が彫られている

 

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石田三成公からの学び(改定)

 私は前職の会社に1973年入社し、数年後、私の二人目の指導員はM主任(当時)であった。Mさんは、石田三成の末裔の某課長から薫陶を受けていた。

「オレは、君が仕事のしやすいように環境は全て作ってやった。あと、君が仕事をするかしないかは君の自由だよ」とは、M主任の元上司であった生産管理部課長の指導の言葉である。

 私はその課長と数回だけ口をきいたことはあるが、明確には覚えていないのが残念である。太ってずんぐりした方との印象だけである。しかし、指導された言葉は大変キツイ。そうやって上司から言われると、大変である。私もMさんから、その言葉を暗に突きつけられて冷や汗をかいた。そこから学んだ私が部下に言うもっとキツイ一言は、「(体を張って)がんばらなくてもいいよ。(頭の汗をかいて)成果だけ出してくれればいいよ」。

ロジスティク重視 ⇒ 三成出世

 石田三成は、当時重要視されていなかた兵站(ロジスティク)で才能を発揮して、頭角を表した。言うなれば、「戦いの準備・後方支援は全て整えてやった。後の戦でどう戦うかは、おぬし達の頑張り次第だ」と三成は思っていたのだろう。「後方支援など、武将のやる仕事ではないわい」と思って三成を見下していた武将たちに、三成の評判は良くなかった。会社組織でも最前線の営業や開発部隊が偉いのではない。それを総合的に運営・管理する部隊があってこそ会社が存在できる。

ロジスティク軽視 ⇒ 日本敗戦

 第二次大戦での日本兵戦死の6割以上が餓死である。父の弟の小田五郎氏は、昭和19年、ビルマのインパール作戦中に戦死であるが、現実は食料、医療品の欠乏による、餓死、病死である。日本軍部はロジスティクスを軽視した。米英軍の兵站の戦力(兵站も戦力)をみると、日本は負けるべくして負けた。石田三成が苦労したことは、300年経った第二次大戦でも日本では教訓にされていない。歴史に学ばない民族は敗れる。戦争とは資源の配分の頭脳戦である。陸軍学校で何を教えていたのか。

 現代の経営では、ヒト、モノ、カネ、情報をいかに効率的に、タイミング良くビジネス戦地に投入できるかが問われる。それの効率を極限まで高めたのが、トヨタのカンバン方式である。その生産システムで、たった一つの部品の欠品で、30万人が働くラインが止まる。そのため生産管理システムの構築は精緻を極める。だからトヨタでは生産管理部門の権力は強大である。だから世界のトヨタとして君臨している。急成長したクロネコの足が絡めとられたのは、お粗末な配達人の手配の問題である。人の対応に失敗してその出鼻をくじかれ、2017年、赤字に転落した。

歴史に学ぶ

 経営も戦争である。石田三成に末裔の某課長も生産管理部で手腕を発揮したのはご先祖返りである。そんな石田三成のDNAを引き継ぎ、当時から部長の風格があった某課長であるが、そりの合わない家康の性格を悪くしたような上司が実権を握ると、次長にもなれず即、子会社に飛ばされた。知性があっても、きれいごとだけでは生きていけない。ある程度奸性も必要である。サラリーマンの人生は上司次第でもある。その上司も後日不祥事で会社を追われた。出世競争の苛烈さは戦国時代も、今も変わらない。

親と上司に贈られた環境を感謝

 自分の今の環境が、あって当たり前と思っている間は、人間としての成長はない。親も上司も師も、自分のために働ける環境や生きていく環境を、黙って整えてくれた。その中で恩を感じてどう働くか、どう生きていくかは、自分の責任である。うまく行かないのを人や環境のせいにするから、醜い争いが絶えない。それでは幸せはやってこない。

自家の兵站整備

 人生という戦いで、勝利に大きく影響するのは、兵站である。まず手近なことは、己の仕事がやり易い環境整備である。自宅の書斎とか睡眠の部屋の環境整備である。ハード面は、自分でお金をかければ誰にでもできる。それに設備投資をするかどうかだけである。もう一つが人間関係の整備である。気持ちよい人間関係を構築してこそ、財産である。そのためには、心理学・人相学・経営学・歴史の勉強が欠かせない。後方支援として、良き医師の友人と人生の師があれば、鬼に金棒である。

自社の兵站整備

 貴方が会社の経営者として、兵站に相当する、教育部、管理部、調達部、社内医局、資料室、渉外部、知財部の間接部門に目が届いているだろうか。営業部ばかりに注力して接待費を湯水のごとく使えば、会社は土台から腐っていく。前職の会社は、「教育は大事だ、大事だ」と念仏の如く唱えていたが、景気が悪くなると、真っ先に教育費を削減した。教育こそが、10年後に必要な兵站である。当面なくてもすんでしまうので、真っ先に削減して、10年後の危急存亡の時には、活躍してくれる人材が払拭している。兵站からの復讐である。

英霊への追善供養

 2010年、大垣に帰郷後、父の遺品を整理していて小田五郎氏の天皇陛下からの勲八等の表彰状(昭和41年7月30日発行)を発見した。時の佐藤栄作総理大臣の名が入っている。供養として、それを額に入れて座敷に飾った。五郎氏は英霊であるが、50回忌は終わっていた。この叙勲の表彰状を眺めているうち、また石田三成の兵站のことを思い出し、その苦労に報いる為、お墓を改建したおりに位牌を新作して仏壇に納めることにした。英霊への追善供養として院号を付けて頂くことにした。夫を早く亡くし、二人の子供が戦死をした当時、祖母は院号を付ける経済的余裕がなかったと思われる。不憫である。

 戒名とは引導をされる僧侶が弟子にするために授ける名前である。院号とは贈り名とも言われ、人の死後にその徳を称えて贈る称号である。業績のある方のためにお寺を建てると同じように、亡くなられた方の心の中にお寺を建て、来世の名前を戒名として授け、佛として修行をする名とする供養である。院号はお金を出しても、相応の功徳ことがないと付けてもらえないという。お寺によっては、いくらお金を積んでも付けてもらえない。

 小田五郎さんはビルマで昭和19年に戦死された英霊であり、「戰勲至誠居士」と立派な戒名が付けられている。至誠とは吉田松陰が好んで説いた『孟子』離婁上の言葉である。今回、お寺さんのご意向で、「護國院戰勲至誠居士」との立派な院号を付けて頂いた。院号についても今ままではあやふやな知識で、今回初めて詳細な知識を得た。人生知らないことばかりである

 

図1 死亡通知書

 

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2017年7月14日 (金)

奴隷にされたご先祖

 対談『中西輝政・古田博司「国家が試されるとき」』(Will 2016年7月号)を読んでいて、シベリア抑留とは奴隷制度に起因することに納得した。欧米・支那の狩猟民族にとって、打ち負かした敵国の兵士は皆殺しにするか、捕虜として本国に連れ帰り奴隷として働かせるのが2000年来のDNAであった。

 かの高橋是清元総理大臣でも、アメリカ留学時(1867年)に騙されて売られ、奴隷にされて働かされた。アメリカの奴隷解放宣言は1865年であるが、黄色人種の日本人には適用されなかったようだ。米国人は異教徒を奴隷にすることになんら罪の意識は感じない。米国の南北戦争当時、(しぶしぶ、大義名分として)奴隷解放宣言をしたリンカーンでさえも、当初は南部の現状では黒人奴隷の存在はやむを得ないが、その拡大には反対する、という程度であった。自由貿易主義全盛であったイギリスは、産業資本家が奴隷制賛成の南部を支持したため、英国政府もそれに動かされていた。それが欧米のDNAである。

父のシベリア抑留

 父も終戦後、シベリアに抑留されたが、生きて帰れたから今の私の命がある。父の弟は、終戦後の昭和21年にシベリアの土になった。従兄は父の顔も見ずに育った。今川順夫名誉会長もシベリア抑留を経験し、重労働の辛酸をなめて帰国して、シベリアでの地獄の体験が今日の成功に繋がっている。今川順夫名誉会長も新地蔵菩薩尊の開眼法要で、「室村町4丁目地蔵菩薩尊に守られたようだ」と回想しておられた。出征に出かけるとき、地蔵尊に無事を願い、昭和27年に生還できた今川氏は、地蔵菩薩尊に感謝をしたという。今川氏を出迎えた地蔵菩薩尊は、大垣空襲(昭和20年7月29日)で身代わりとして黒焦げの状態であった。しかし今川さんを見つめる目は優しかった。

非道なシベリア抑留で邦人10万人が帰らぬ人となったが、ソ連が罪を認めたことはない。それはソ連が歴史的に奴隷制度を抱えた民族だからだ。勝った国は敗戦国の民を奴隷にするのが当然なのだ。ソ連にとって奴隷の生死など知ったことではない。それが、狩猟民族の本質である。

現代の奴隷制度

 現代でも奴隷制度は生きている。オーストラリアの富豪、アンドリュー・フォレスト氏が設立したウォーク・フリー財団の調査による『Global Slavery Index』は、世界167ヶ国で4,580万人が奴隷状態であると指摘する。これには日本も含まれ、ブラック企業で働き自殺をした若者も含まれる。これもある種の奴隷である。100円ショップの商品の製造で、低賃金で強制的に働かされているチャイナの子供たちは、奴隷と同じである。まともな労働対価では、絶対に100円では100円ショップ製品は作れない。奴隷として働かされて、作られた製品には魂が籠っていないので、すぐに壊れる。100円ショップで商品を買うとは、奴隷制度の黙認だから、私は絶対に利用しない。

 仏英独等の欧州で働く移民たちは、絶対に白人社会と同じレベルにはなれない。下積みの階層で、観光客には目の届かない世界・時間帯で働かされている。パリの街で早朝に歩くと、有色人種の人(元植民地からの移民達)がゴミ回収、道路掃除等で働いているのを見る。しかし昼間の観光客が溢れる街にはそんな姿は皆無である。白人の夢みたいな生活を望んで欧州に移民しても、現実は元の国よりはましであるが、奴隷状態が待ち受ける。その蓄積された恨みが現在欧州で頻発するテロの横行である。いくら警備を厳重にしても、根本原因が解決されない限り欧州でのテロはなくならない。

 米国でも有色人種の貧困からの脱出は困難を極める。結果として奴隷と同じ境遇で働いている。白人社会と黒人社会には目に見えないガラスの壁がある。現代でも、米国は白人警察官が黒人青年を射殺しても、大して罪に問われない白人優位の世界である。

日本史で奴隷は存在しない

 日本の歴史では、敗戦国の民衆の皆殺しや、強奪してきて奴隷として働かせた史実はない。支配階級のトップ(殿様)が腹を切って、上層部が入れ替われば領土の民衆は平穏である。平和な政権交代である。欧米・支那では元支配者の血縁者や民衆までを皆殺しにするのが普通である。『十八史略』には、王族の一族郎党の抹殺、民衆の大量虐殺が横行等の歴史の記述があり、身の毛がよだつ。それに比べて、日本の平和な民族の血を誇りに思う。日本海の外には鬼が住むことを忘れてはなるまい。「男が外に出れば七人の敵がいると思え」とは、母の教えでした。国の外には7つの鬼国があると思うべし。

 

図1 室村町四丁目地蔵尊(2016年4月3日撮影)

   大垣空襲の焼夷弾で黒焦げになった跡が戦後70年経っても痛々しい。

   シベリアから生還した今川さんを優しい目で迎えてくれたという。

図2 大垣公園の恒久平和の碑 シベリア抑留戦没者慰霊碑

   裏面にダモイの会として父の名が刻まれている

図3 彦根護国神社のシベリア抑留戦没者慰霊碑   

   裏面に父の弟の名が刻まれている

 

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2017年7月 8日 (土)

人はなぜ死鬼衆になれるのか 原爆投下

大垣市の被爆地の慰霊碑

 毎朝、散歩の帰路にある大垣市の被爆地の慰霊碑に手を合わす。ここに来ると日本の歴史と現代の状況を感じる。犠牲の方のご冥福を祈り「二度と日本がこんな目に遇わせられないように、我が国力を上げるべく貧者の一灯として精進します」と祈っている。この被爆の慰霊碑は、水門川沿い大垣藩藩校敬教堂跡の孔子像の南側に、ひっそりと建つ。昭和20年7月24日、米軍が広島に原爆を落とす前、原爆投下訓練のため、大垣市の県農業会大安支所に模擬原子爆弾を投下した。建屋は一瞬に吹っ飛び、職員は肉飛び骨散して10名が悲惨な最期を遂げた。その慰霊碑の真横に、母校の大垣北高「発祥地の碑」が建っている。

 投下された模擬原子爆弾は、広島と長崎への原爆投下訓練のため、米軍が作った重量4.5トンの爆弾で、長崎に投下されたプルトニウム原爆と同形で“パンプキン爆弾”である。昭和20年7月20日~8月14日の間、全国各地に約50発が投下され400人以上が犠牲になった。平成3年、愛知県の市民グループが、機密解除された米軍資料からこの事実を発見した。

原爆投下はジェノサイド、戦争犯罪

 原爆は、日本人が白人なら絶対に落とされなかったはずである。国際法上でも原爆投下はジェノサイド(皆殺し)であり、その後ろめたさ故、米国の戦後の支援がある。ジェノサイドを認めたくないため、米国内では下手にこの問題を掘り起こすと旧軍人会からヒステリーじみた感情で袋叩きにされる。1997年、エノラゲイ展を企画したスミソニアン博物館長は、辞任に追い込まれた。その経緯を米国スミソニアン博物館で目にした(1997年夏)。原爆開発は、巨額の政府予算に目が眩んだ拝金主義の鬼子であった。

広島と長崎への原爆投下は「爆発実験」扱い

 原爆の効果を検証するため戦略爆撃から除外されていた広島と長崎に、米軍は二種類の原爆を投下した。ウラン型とプルトニウム型の原爆を比較するためである。米エネルギー省の出版物中では、広島と長崎への原爆投下は「爆発実験」の項に分類されている。この原爆開発の真の目的は、金儲けである。今のグロ-バル経済主義(拝金主義)を生んだ鬼子の親でもある。モルガン、デュポン、GEがこの原爆開発を担当して、ウラン型原爆は先に完成していた。プルトニウム型原爆の完成を待って、2つの原爆を爆発実験として投下した。万全を期すため、訓練として模擬原子爆弾を50発も投下した。戦争を早期に終結する目的だけなら、プルトニウム型原爆の完成を待つ必要もなく、2種類もの原爆の爆発実験をする必要もなく、50発の投下訓練も不要である。当時、日本は戦争続行には資源が枯渇して、遅くとも昭和20年11月には降伏することが明白であり、それは日米両政府の周知の事実であった。原爆投下に反対であったルーズベルト大統領は、巨悪の都合に合わせるが如く、直前に愛人宅で怪死した。その死の状況は不自然である。そして後任の操り人形であるトルーマン大統領が、原爆投下の命令を出した。

原爆開発は金儲け

 原爆や原子力関係の商売は儲かる。それは2011年、福島第一原発事故の報道で明らかになった。原爆開発には日本の国家予算の3倍の金が使われた。その金は何所につぎ込まれ、誰が潤ったのか。金に目が眩むと人は死鬼衆になるのか。金儲けのためには、民族抹殺などは厭わないアーリア人のDNA が脈々と続いていた。彼らにとって、非白人は人間ではないと認識し、残虐の限りを尽くしたことは歴史が示している。民族皆殺しなどの業は日本人には無縁の世界であるが、そんな鬼が身近に存在する現実を認識しないと身の破滅である。歴史に学ばない民族は滅ぶ。きれいごとばかりでは殺される。

 スミソニアン航空宇宙博物館にあるFAT MANの説明パネルは、素っ気無い表現である。「My God,it worked. この開発が政府、大学、科学者、民間企業の総合力で遂行され、この開発のために膨大な計算がされ、その必要からコンピュータが開発された。そしてこの原爆はメキシコで実験され、長崎に投下され7万人の犠牲者を出した。第2次世界大戦はこの原爆とコンピュータの2つのブレークスルーを生み出した」(小田泰仙訳)

 コンピュータの開発目的は、原爆開発のためで、死鬼衆を生んだ血糊がついた武器である。テクニカルライティング的にみると、この文章は受動態で書かれ、原爆の責任の所在を曖昧にした書き方である。

図1 被爆の碑と大垣北校発祥の地記念碑、向うに敬教堂跡と孔子像

図2~3 被爆の碑

図4~6 B29エノラ・ゲイ号展(スミソニアン博物館 1997年筆者撮影)

図7 リトルボーイ 広島に投下した原爆

図8 ファトマン 長崎に投下した原爆

 

2017-07-08

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2017年6月22日 (木)

「恒久平和の碑」が語る歴史

 碑とは、ある意味でお墓と同じである。碑とは、ある事象を祈念して後世のために残す人々の想いの顕われである。

 1991年、大垣公園内に、建立されたこの「恒久平和の碑」は、シベリア抑留から生還したダモイ会の皆さんが二度とこういうことが起きないように恒久平和を祈って建てられた碑である。その碑の陰には、6万人とも10万人とも言われるシベリアの土に帰した邦人がいる。この碑はロシアという死鬼衆により殺された日本人の魂を鎮魂するためでもある。

 

 1991年8月、この碑の石は四国より運ばれて建立された。この碑の建立式で今川順夫氏(株式会社丸順創業者)の挨拶を聞いて、当時の大垣市長小倉満氏が涙ぐんだという。私が2010年秋に大垣に帰郷して、2014年までの毎朝、この碑の前を散歩のため通るが、父の名が刻まれていることを知ることはなかった。「魂(オニ)」が納仏された日に、今川順夫氏のシベリア抑留講演会の案内の回覧を見たご縁で、恒久平和祈念の碑の裏に父の名を発見できた。それ以降、毎日ここで日本の平和とシベリアで斃れた方の冥福を祈念している。そして日本の未来を背負う子供達のために、自分は何が出来るかを考え続けている。

 

 父が生きて帰還できたが故、今の自分の命がある。なぜ人は死鬼衆になるのか。なぜ共産主義は人の命を粗末にするのか。なぜアーリア人は民族皆殺しの死鬼業を平気で犯すのか。自分は恒久平和のために何が出来るのか。口先だけで平和を叫んで滅んだ国が、過去70年間だけでも180カ国にも上る。我々は後世に何を伝えるべきか。何をなすべきか。この碑を見るたびに考えている。

 

最期の一撃(21)後日譚-2 中共のウィグル、モンゴル、満州への侵略 2015年7月14日

 (中部大学 武田邦彦氏のHPを参照)   http://takedanet.com/

 

 自分が今回(2015年)のお墓つくりを経験して、今川順夫氏の気持ちが少し分かった気がする。この碑の建立に多大な貢献された今川順夫氏に感謝している。今川氏とご縁ができたゆえに、1991年に恒久平和祈念の碑の建立式に立つ父の姿を写真で初めて見ることができた。これは沸様のお導きと思う。

 

ご縁の連鎖

 上記文章を6月22日、校正していて、小倉満元大垣市長の逝去日が、桜田門外の変(安政7年3月3日(1860年))の128年後の同じ日に、小川満氏が亡くなられていることに気が付いて愕然とした。私がお墓を改建するご縁となったのは、2015年3月3日に両親の法事をしたことに起因する。祖母のご先祖が、桜田門外の変の時、その行列に同行して(武士ではない)、この事件に遭遇したという。

 30年前の1987年にビーバー・オットー博士が大垣に来られた時、歓迎パーティで挨拶をされたのも小倉満大垣市長(当時)で、大垣市音楽堂にベーゼンドルファー導入に尽力をされたのも小倉満氏である。そのご縁で、2017年4月に私はウィーンでビーバー・オットー博士にお会いした。そのご縁でこの3日前の6月19日、河村義子先生主催のピアノ勉強会の使用ピアノが、ベーゼンドルファーであった。そのご縁で、6月21日のブログ「ピアノが奏でる人生(改定)」に、河村先生がベーゼンドルファーを弾く写真を掲載する顛末となった。(以上2017年6月22日記述)

 

 2015年3月3日、父の13回忌と母の23回忌の法要を済ませた翌日に『致知』4月号が届き、伊與田覺先生の「百歳の論語」セミナーの案内が目に入った。何かピンと来るものがあり、3月5日に申し込みをした。その後、何気なく伊與田覺先生の経歴を見ていたら、大正5年生まれとある。父の生誕年と同じで、健在なら父も100歳である。伊與田覺先生の論語の講義は以前から気になっていて、何時かは聞きたいと思っていた。伊與田先生が父と同年の生誕とは気がつかなかった。昨年納佛された守佛と飛天、法事の直前に納佛されたご本尊様のご縁のようだ。導かれたようなご縁の連鎖に不思議さを感じた日であった。後日、両親の法要の日が「桜田門外の変」の節句の日、3月3日と同じと松居石材商店の松居店主に言われて愕然とした。無意識で偶然に決まった日柄であるが、佛様に導かれたようだ。

 2015年4月22日から、月に一回の全5回コースで、伊與田覺先生の論語講座が品川プリンスホテルの会場で始まった。6月2日の第三回伊與田塾で3時間の講話が終った後、16時から伊與田先生の百歳の誕生祝賀会が同ホテルの12階で執り行われた。その後、先生は5分間ほどの謝辞を述べられた。背筋をピンと伸ばし、話された。真向法をされているようでお元気そのものである。その時、先生と名刺交換をしてツーショットを撮らせていただいた。大正5年生まれの父が生きていれば、こんな写真が撮れたのにと残念に思うことしきりである。父の代わりに長生きをせねばと心に誓った。(以上2015年6月記述)

 

図1 大垣公園内に平成3年8月建立(1991年)

図2 除幕式で挨拶をされる今川順夫氏

図3 「恒久平和の碑」除幕式

図4 「恒久平和の碑」除幕式記念撮影

   2列目左端白い半袖カッター姿が父、中央が小倉満大垣市長、その左隣が今川順夫氏

図5 恒久平和の碑」裏面のダモイ会名簿 父の名が刻まれている

図6 伊與田覺先生誕生祝賀会で挨拶  2015年6月2日

 

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戊辰の役顕彰碑と祖母の悲哀に合掌す

 戊辰の役(1868年、慶応4年/明治元年の干支が戊辰)の120年後の1988年、大垣東ライオンズクラブが大垣市長の小倉満氏(1932年- 2001年3月3日)を団長として大垣市議長を同行し、奥羽訪問親善使節団として福島県白河市を訪問した。現地の東明寺には、会津藩で戊辰の役で戦死した大垣藩藩士が葬られていた。この墓地は「会津戊辰戦役西軍墳墓史跡保存会」の手により管理が行われていた。地元は例年10月23日に西軍墓前祭をしめやかに行い、かって敵軍であった西軍の戦死者にも手厚い法要を行っていた。

 小倉満市長は、大垣藩士が手厚く祀られていることに感銘を受け、これを顕彰する碑を東ライオンズクラブと共同で大垣城内に建立した。時に明治維新120年後の1988年(昭和63年)秋である。まだまだ明治維新前後の歴史は生々しい。井伊直弼公が切って落とした幕末動乱への幕開けは、大垣市内にも痕跡を残している。

 

 碑文には「明治維新に当り大垣藩主戸田氏共公は家老小原鉄心の意を採り戊辰の役にその進路を誤らしめなかった。本年戊辰の年を期に大垣城跡に記念碑を建立しその偉業を顕彰する」とある。

 

大垣藩の戦い

 幕末の幕府側と倒幕側との戦いでは、大垣藩は当初、幕府方として最前線で戦って来たっていたため、倒幕側に方針展開しても大垣藩は東北攻めには最前線に駆り出されて、多くの死者を出すことになる。それでも勇敢な大垣藩は宇都宮攻防戦などで戦功を上げた。一方で50余名に及ぶ戦死者を出した。大垣城内には戊辰の役を顕彰する石碑が建てられているが、藩の保全のために犠牲になった藩兵を弔うためである。倒れられたのは20代の若者が多いのは痛ましい。何時の世も犠牲になるのは有為な若者である。本来の敵である外国勢との戦いで倒れるならともかく、身内内での戦いで死ぬとは残酷である。すべてトップの判断ミスである。

 大垣藩は幕末の騒乱の時、早い時期に倒幕派に転向したので、まだ救いがある。しかし、最後まで幕府側につき、戦わされた会津藩の若者が哀れである。日本が近代国家を建設するためには必要であった犠牲であったようだ。今の我々の繁栄は、尊い若者の犠牲の上に立っている。私は毎朝、散歩の途中でここに寄り、日本国建国のために血を流された方に手を合わせている。

 

顕彰碑に込めた想い

 この碑の稀有なことは、文字が凸で表現されていること。普通の碑文や墓石は凹の状態で彫られている。亡くなった人の墓石や史歴としてもう変わらない事実は凹で彫るのが常である。ところが凸で書かれていることは、まだ今もその藩士の威徳が生き続けていることを現している。碑には、碑の建立者の意向が明白に表われている。大垣市長職は激務で、3代続いて大垣市長は現役で倒れられている。小倉満市長も仕事中に倒れられた。

 

 大垣藩の戦死者は東明寺の西軍墓地に「大垣戦死二十人墓 明治元年十月」と白河口の戦いがあった白河市松並には「長州大垣藩戦死六名墓」が祭られている。日本の夜明けのため命を捧げた若者たちである。その陰に息子の死を嘆く母がいる。乳飲み子を抱えた母がいる。

 

祖母の悲哀

 終戦後の昭和21年、生きて帰ってくると待っていた四男、五男の、戦死通知書でその戦死を知らされた祖母の悲哀を想う。赤紙一枚で招集され、たった一通の戦死通知が来ただけで、遺骨の何も帰ってこない。残酷である。祖母は5人の男子を育てたが、そのうち2名が戦死である。五男はインパール作戦のビルマで、四男がシベリア抑留で亡くなった。三男の父は、地獄のシベリア抑留から生きて帰還できたので、今の私の生がある。四男は我が子の顔も見ずにシベリアの凍土に消え、子は父の顔も知らずに、女手一つで育てられた。両親に育てられた自分の幸せを思う。私は定年退職後、大垣の実家に戻り、父の遺品を整理していて、このお二人の死亡通知書を発見した。この発見が2015年の小田家墓の改建につながるご縁となった。合掌。

 

大垣戦死二十人墓 (東明寺)

 川崎松次良  藤原邦義  22歳

 木村重米   藤原知重  22歳

 渡部順蔵   源 重孝  32歳

 武藤菱之助  藤原重勝  25歳

 米山休左エ門 藤原兼賢  24歳

 長谷川直吉  藤原辰忠  26歳

 加納傳四良  藤原兼住  26歳

 森甚太良   源 政則  23歳

 杉山庄五郎        28歳

 増田九助         42歳

 吉田彦三良  藤原信可

 九鬼国之助  藤原重隆  17歳

 太田七十良  藤原胤重  40歳

 奥富元三良   

 土屋柳冶良  源 秀敷

 河井富助   藤原長栄

 北村吉五良  藤原義方

 藤田辰二郎  藤原辰広

 藤田彦三良  藤原基教

 多賀重助   藤原美則

 

長州大垣藩戦死六名墓 (白河市松並に)

 鳥居勘右衛門

 川井徳太郎

 松井於莵蔵

 

 

図1 戊辰の役顕彰の碑碑文 書は小倉満大垣市長  粘板岩

図2 戊辰の役顕彰の碑(裏面)

図3 大垣戦死二十人墓  『大垣ゆかりの南奥羽』大垣市刊より

図4 長州大垣藩戦死六名墓 『大垣ゆかりの南奥羽』大垣市刊より

図5 県の表彰状

図6 五男の戦死通知 

 

久志能幾研究所 小田泰仙 HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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