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2017年11月 3日 (金)

たらい舟川下り

 関ヶ原の戦い(1600年)のとき、大垣城が石田三成の西軍本拠地であったため、大垣城は徳川家康が率いる東軍に包囲された。その時大垣城内にいた石田三成の家来山田去暦の娘「おあむ」(当時16歳前後)が、落城寸前に、城の堀をたらいに乗って密かに大垣城を脱出して戦火を逃れた。おあむの父山田去暦は、娘と共に大垣城に籠っていた。大垣城落城前に、矢文が大垣城に打ち込まれ、「去暦は家康様の手習師匠であったので逃がす」とあった。それで去暦が娘とたらい舟で逃げたという。やはり師匠というのは偉いもの。家康も戦時で敵方であっても、昔の師匠には恩で報いた。その歴史伝承に由来する「たらい舟川下り」行事が、2003年から大垣の水門川で行われている。現在は春秋の2回実施されている。それに由来する松の木が大垣城内にそびえている。

 図1 おあむの松

   当初の松は昭和の終戦前に枯れたため、現在は第二世代である。

 図2 大垣城

 図3 大垣城とその前に戸田氏鉄公の騎馬姿像

 

戦時の武士の娘の務め

 そのおあむも父と大垣城内に籠城していて、敵方の討ち取った首を洗ったりお化粧をしたりするお役目をしていた。戦いの後の論功行賞で、討ち取った敵方が偉い侍であるように、武士の娘たちが駆り出されて生首のお化粧を担当していた。大垣城内では、若い娘たち(おあむは16歳前後)がその生首の山の横で寝泊まりをしていた。それが、当時の戦場での日常茶飯事の姿であった。今の平和な世界を当たり前と思ってはなるまい。ほんの400年前の話である。

 

戦争が起きない体制つくり

 狸親父とも陰口を叩かれる徳川家康が偉いのは、戦争の悲惨さを何度も体験して、戦争の起こらない巧妙な体制を構築して、戦乱に明け暮れた戦国時代を平和な280年間の治世に移行させたこと。それ以前の天下人は、だれも戦争のない社会を作る意思などがなかった。家康は我慢に我慢を重ねて、家康は天下を取り、国内の戦争ができなくなる平和の仕組みを作った。その家康の訓言の書を恵峰先生宅で見つけて、何か感じるところがあり、入手した。歳をとると、三英傑のうち、家康の偉さが見えてきた。その秘訣は「まず長生きをする。そのための健康管理に精進である。また我慢に我慢を重ね、無為な戦いはしない」である。それが家康を最終的な勝者にした。織田信長は49歳で、短気が原因で本能寺に斃れた。秀吉は天下統一をしながら、欲を出して海外に戦いを求めて、それが滅亡の遠因となった。秀吉は才覚があったが、真の知恵者ではなかった。

 図4 東照宮訓言 馬場恵峰書

  1999年に揮毫された軸であるが、私が2015年に目に付くまで、誰も買わなかった作品である。その時、なにかご縁を感じた作品である。

 

彦根とのご縁

 家康は石田三成を徹底的に抹殺した。あまりの三成の頭が良すぎて恐怖心を感じたのだろう。今後の平和を乱す男として見たのかもしれない。そのおあむも幼いときは、彦根に住んでいた。父去歴の主君の石田三成が彦根の佐和山城で居を構えていたためである。私の生まれ故郷は、その佐和山のある古沢町である。ここには井伊家の菩提寺清凉寺が建っている。

 

脱出の体験

 この伝承にあやかり、その脱出の感触を記録に残すために自分もたらい舟に乗舟した。その記録として知人に写真を撮ってもらった。乗舟した最初の2011年は単なるもの珍しさだけであった。地元大学の学生アルバイトが舟頭であった。学生アルバイトでも、この行事に直前にたらいを漕ぐ猛訓練をして船頭を務める。この記録の時の2012年の舟頭さんは、朝日電気の取締役会長さん(75歳)であった。心がけが変わると人生の船頭さんも変わる。舟頭さんはお宮の氏子代表や高校のOB会の総幹事も勤めてみえるとか、東京で執り行われた守屋多々志画伯(大垣出身の文化勲章受賞画家)の葬儀にも地元から参列した4人のうちの一人であるとの話しまでをたらい舟上で聞いた。社会奉仕活動として、たらい舟頭になるのも一興である。

 図5 たらいの運搬

  終着点からクレーンで釣り上げて、出発点に運ぶ。

 図6 たらい舟の準備 2012年

 図7 船頭さん達の朝礼 2015年

 図8 舟くだり 2011年

 図9 舟くだり 2011年

 図10 舟頭さんは朝日電気の取締役会長さん 2012年

 図11 舟上から 興文橋を見上げて 2012年

 図12 舟上から 前方は終着地点  2012年

 図13 舟くだり 終着地点 上側は船町燈台 2012年

 図14 舟くだり 2013年 ライフジャケット着用

  2013年からライフジャケットの着用が義務付けられた。これは天竜川川下り船の転覆事故(2011年)を受けての対応である。今まではライフジャケットなしである。水門川の水深が浅いので問題はないのだが。

 

たらい舟川下りの乗船

 たらい舟川下りには、大垣市観光協会に事前予約が必要だが、いつも早くから満席である。しかし朝一番に行って、枠があいていれば乗船できる。私はいつもそうして乗船している。たらい舟に二人乗船で一人1,000円で、一人乗船の場合は2,000円である。約2kmの水門川水路を約30分で下る。ほぼ歩く速度と同じである。天竜川川下りでの船の転覆事故を踏まえて、2013年からライフジャケット着用である。しかし水門川は人の立てないような深い場所はない。少々やり過ぎである。この行事のために、水門川の船着き場の先で堰を作り、水かさを上げる段取りをしている。そうしないと、たらい舟の底が川底の浅瀬についてしまう。舟をうまく操らないと浅瀬に乗り上げてしまうので、そのかじ取りが難しい。舟着場は船町の燈台の真横である。

 乗舟時に観光説明のうまい舟頭さんに当たると、直々に周りの景色を見ながら歴史の解説を聞ける。それに外れると、たらいで下る間にテープに録音した観光案内の声が流れる。普通の専門の船頭さんは無口で、ほとんど喋らない。私の場合、朝日電気の取締役会長さんが船舟を担当されて幸せであった。

 

たらい舟川下り運行の準備活動

 たらい舟川下り、船川下りも、水門川の水深が浅いので、そのままでは船の底がつかえて運行できないので、この行事の間だけ、堰を設けて水位を上げる段取りをしている。市民のボランティア活動や大垣青年クラブ、業者の協力で、水門川の藻や掃除活動をして、このたらい舟川下りと船川下り行事の準備活動がなされる。こういう陰の支援があって成り立っている行事である。水門川は大垣市民の川として皆で守っている。水門川の水は、都市の川としては素晴らしく清らかである。水門川には30万匹の鯉が生息していると言われる。

 

 図15 水門川の堰き止め

 図16 水門川掃除 大垣青年クラブの奉仕活動

 図17 水門川掃除 大垣青年クラブの奉仕活動

 図18 水門川掃除 業者 

    水門川を堰き止めなければ、水深は浅い。

 

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2017-11-03

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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