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2018年7月 8日 (日)

恐ろしい大垣都市伝説(2/7)戊辰戦争

第12代  小倉 満   昭和60年4月26日就任

 平成13年3月3日、肝不全により在任中に死去。69歳

 

業績

 昭和60年(1985) 4月、第12代市長に就任した小倉満氏は、10月に初代大垣藩主・戸田公入城 350年祭記念式典開催した。今時、350年前の封建社会の城主の治世に報恩感謝する行事を開催する心には、神仏、ご先祖を敬う気持ち伝わってくる。これを記念した記念物が市内に多く残っている。

 小倉市長は、生涯学習システムの確立をし、衰退した大垣の繊維産業都市から高度情報社会の先端都市を目指して舵を切った。そして、市民生活、市民サービスの向上に努め、全国に先駆けて、24時間ホームヘルプサービスのシステムを開設した。スイトピアセンター、大垣市情報工房、武道館の建設の他、岐阜県のソフトピアジャパン、岐阜県立国際情報科学芸術アカデミーを誘致した。

 

功罪

 小倉市長は少々、箱モノ行政に力を入れ過ぎたきらいがあり、表には出ないが100億円とも言われる財政上の負債を抱えたようだ。閑古鳥が鳴く武道館や学習館の維持管理費で、大垣市政が泣くことになる。学習館の維持管理では年間、1億円くらいの赤字の垂れ流しと巷の噂である。この類は、全国の市町村が作り過ぎたハコモノの後始末で、その大変さが問題になっている。

 大垣市は、スイトピアセンター、大垣市情報工房、武道館、岐阜県のソフトピアジャパン、岐阜県立国際情報科学芸術アカデミーの運営に苦しみ、後任の小川敏市長が、その経費削減の役目で財政正常化に取り組むことになる。

 

価値観

 昭和60年(1985年)は、私が初めて海外の出張で、北欧の自動車メーカの工場に4か月出張して滞在した年であった。この出張で海外の価値観と日本の価値観の差を、直接体験できたことは、幸せなことであった。

 納入した機械に工場のラインが止まりそうになる不具合があり、対策の仕事で徹夜をしたら「機械は壊れて当たりまえ。それを徹夜なんて、You are crazy.」と呆れられた。北欧の人間性を尊重する国では、仕事より、機械より人間が大事なのだ。そのことを思い出し、大垣市政に命をかけて、現職のまま命を落とした連続8代の大垣市長の狂気を見る。なぜ親からもらった命を粗末にするのか。

 この時期は、日本の高度成長がピークを迎え、1991年のバルブ崩壊に向けて最後の燃えつきをする時期であった。母も、バルブ崩壊を確認してバブルと共に消えた。母が頑張った分、成果を手にして旅立ったことは、私の慰めでもある。

 同じ時期、小倉市長もバブル経済で舞い上がり、多くのハコモノ行政の遺跡を残したことが禍根である。

 

戊辰の役と大垣藩

 戊辰の役(1868年、慶応4年/明治元年の干支が戊辰)の120年後の1988年、大垣東ライオンズクラブが、小倉満大垣市長を団長として大垣市議長も同行し、奥羽訪問親善使節団として福島県白河市を訪問した。現地の東明寺には、会津藩で戊辰の役で戦死した大垣藩藩士が葬られていた。この墓地は「会津戊辰戦役西軍墳墓史跡保存会」の手により管理が行われていた。地元は例年10月23日に西軍墓前祭をしめやかに行い、かって敵軍であった西軍の戦死者にも手厚い法要を行っていた。

 小倉満市長は、大垣藩士が手厚く祀られていることに感銘を受け、これを顕彰する碑を東ライオンズクラブと共同で、大垣城内に建立した。ときに明治維新120年後の1988年(昭和63年)秋である。まだまだ明治維新前後の歴史は生々しい。井伊直弼公が切って落とした幕末動乱への幕開けは、大垣の市内にも痕跡を残している。

 

戊辰の役を顕彰した碑

 碑文には「明治維新に当り大垣藩主戸田氏共公は家老小原鉄心の意を採り戊辰の役にその進路を誤らしめなかった。本年戊辰の年を期に大垣城跡に記念碑を建立しその偉業を顕彰する」とある。

 この碑の稀有なことは、文字が凸で表現されていること。普通の碑文や墓石は凹の状態で彫られている。亡くなった人の墓石や史歴としてもう変わらない事実は凹で彫るのが常である。ところが凸で書かれていることは、まだ今もその藩士の威徳が生き続けていることを現している。碑には、碑の建立者の意向が明白に表われている。

 

時の大垣市長というべき家老小原鉄心

 幕末の幕府側と倒幕側との戦いでは、大垣藩は当初、幕府方として最前線で戦って来たっていたため、倒幕側に方針展開しても大垣藩は東北攻めには最前線に駆り出され多くの死者を出している。それでも勇敢な大垣藩は宇都宮攻防戦などで戦功を上げた。一方で50余名に及ぶ戦死者を出した。大垣城内には戊辰の役を顕彰する石碑が建てられているが、藩の保全のために犠牲になった藩兵を弔うためである。倒れられたのは20代の若者が多いのは痛ましい。

 何時の世も犠牲になるのは有為な若者である。本来の敵である外国勢との戦いで倒れるならともかく、身内内での戦いで死ぬとは残酷である。すべてトップの判断ミスである。大垣藩は早い時期に倒幕派に転向したので、まだ救いがあるが、最後まで幕府側につき戦わされた会津藩の若者が哀れである。日本が近代国家を建設するためには必要であった犠牲であったようだ。毎朝、散歩の途中でここにより日本国の建国のために血を流された方にお礼を述べている。

 

大垣の歴史のif

 歴史上の仮定として、もし家老小原鉄心の決断がなければ、大垣藩は、会津藩のように明治政府の格好の見せしめ、生贄の藩として、焼け野原にされていたであろう。我々は、当時の大垣市長というべき家老小原鉄心を、もっと評価して感謝せねばならぬ。家老小原鉄心がいなければ、今の大垣の人で、命を授けられなかった人も多かろう。

Photo

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 上図:大垣城内の「戊辰の役顕彰の碑」 書は小倉満大垣市長   粘板岩

 下図:裏面

 

 大垣藩の戦死者は東明寺の西軍墓地に「大垣戦死二十人墓 明治元年十月」と白河口の戦いがあった白河市松並には「長州大垣藩戦死六名墓」が祭られている。日本の夜明けのため命を捧げた若者たちである。その陰に息子の死を嘆く母がいる。乳飲み子を抱えた母がいる。

 終戦後の昭和21年、二人の息子の戦死を聞かされた私の祖母の嘆きを想う。それは灼熱のビルマと極寒のシベリヤで戦病死された父の弟達である。合掌。

 

大垣戦死二十人墓 (東明寺)

 川崎松次良  藤原邦義  22歳

 木村重米   藤原知重  22歳

 渡部順蔵   源 重孝  32歳

 武藤菱之助  藤原重勝  25歳

 米山休左エ門 藤原兼賢  24歳

 長谷川直吉  藤原辰忠  26歳

 加納傳四良  藤原兼住  26歳

 森甚太良   源 政則  23歳

 杉山庄五郎        28歳

 増田九助         42歳

 吉田彦三良  藤原信可

 九鬼国之助  藤原重隆  17歳

 太田七十良  藤原胤重  40歳

 奥富元三良   

 土屋柳冶良  源 秀敷

 河井富助   藤原長栄

 北村吉五良  藤原義方

 藤田辰二郎  藤原辰広

 藤田彦三良  藤原基教

 多賀重助   藤原美則

 

長州大垣藩戦死六名墓 (白河市松並に)

 鳥居勘右衛門

 川井徳太郎

 松井於莵蔵

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 『大垣ゆかりの南奥羽』より

2018-07-09  久志能幾研究所 小田泰仙  

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