桜田門外ノ変の検証 Feed

2017年9月 9日 (土)

「桜田門外ノ変」の検証 (20)冬夜(改定)

大垣藩と安政の大獄

「冬夜」の碑

 大垣市立図書館前の公園内にあるこの碑文「冬夜」は、勉学に励む当時の大垣藩の藩医江馬家の家庭の雰囲気を伝えている。文面の書もなかなかに名筆である。大垣藩は多くの学者や文人を輩出した「文教のまち・大垣」として全国に知られている。下記の詩は、当時、人生50年の時代にもかかわらず、80歳の父が時代の最先端情報である欧・蘭書を精読している横で、灯火を分け合って、娘(40歳)が中国の古典を読んで勉学に励んでいる様を格調高く漢詩にしている。毎朝の散歩でここを通る時、当時の大垣藩の教育と文化に思いを馳せる。

 

冬夜

            江馬細香

爺繙欧蘭書     爺は欧蘭書の原書を精読し

児読唐宋句     児は唐宋の漢詩を読む

分此一灯光     一灯の光を分かち合い

源流各自泝     物事の根本や時代を遡る

爺読不知休     爺は休みもせず読み続ける

児倦思栗芋     児は飽きて甘物を思う

堪愧精神不及爺   爺の精神力に及ばぬ己を恥じる

爺歳八十眼無霧   齢80爺の眼に曇りなし  (訳 著者) 

 

江馬細香

 作者の江馬細香(多保)(天明7年4月4日(1787年5月20日)- 文久元年9月4日(1861年10月7日))は、江戸時代の女性漢詩人、画家。美濃大垣藩の医師江馬蘭斎の長女として生まれる。大垣藩主の信任厚い藩医、江場蘭斎の長女として生まれ、この時代には珍しく高度な教育を受け、芸術面で才能を発揮した。少女の頃から漢詩・南画に才能を示し、絵を玉潾・浦上春琴に、漢詩を頼山陽に師事する。湘夢・箕山と号すが、字の細香で知られ、同郷の梁川紅蘭と併称された。頼山陽の恋人であった。

 蘭斎は細香が18歳になった頃、婿養子を迎えて家を継がせようとした。そのとき細香が「結婚しないで芸術の道に精進したい」とその気持ちを父に伝えると、蘭斎はあっさりとその願いを聞き入れ、妹の柘植子に婿養子を迎えてしまった。分かりのよい親である。現代でも難しいのに封建時代の話である。

 

頼山陽との縁

 文化10年(1813)10月、頼山陽は大垣藩の江馬蘭斎を訪ねて大いに歓待された。頼山陽は、江戸後期の儒者・詩人で『日本外史』の著者として広く知られている。明治維新の際に、勤王方の若い青年たちに広く読まれ、彼らの士気を鼓舞したといわれる。このとき細香と出会い、お互い好意を寄せる感情を抱いた。彼女は彼を尊敬し、門人になり「細香」という号をもらった。時に彼女は27歳の才色兼備の佳人であった。その後、頼山陽は多保(細香)に、求婚をしたが、江馬蘭斎が結婚には反対し実現しなかった。しかし、彼の才能を認めて娘の入門は許している。結局、頼山陽は別の女性(梨影(りえ)17歳)と結婚した。彼女は父が縁談を断ったことを知り、塞ぎこむ日々を送ったが、気を取り直し、話を戻してもらおうと翌春に上京して頼山陽の元を訪ねたが、彼は結婚した後であった。落胆した彼女ではあったが、その現実を受け入れ、その後、頼山陽が亡くなるまで20年間に7度、従学し、漢詩を師事し続けた。また頼山陽の母に対しても、子のように接した。頼山陽の死後も、彼の妻と姉妹のような交際が続き、ついに一生を独身で終った。頼山陽のような、才能豊かで人格も高く、当代きっての人物に知遇を得ると、他の男性が見劣りするのであろう。

 

安政の大獄

 頼山陽の影響もあってか、細香女史は、早くから勤皇の大義に目覚めて、慷慨国家を憂へた女丈夫でもあったようである。安政の大獄では、頼山陽の妻も牢に入れられ、子息も幕府から追われ、捕縛され斬首されている。

 歴史上の「もし」として、細香女史が望み通り頼山陽の妻になっていたら、安政の大獄で死罪になっていた。井伊直弼大老が統括した安政の大獄での厳しい追求は、彼女の言動を見逃すはずが無い。そうなると女性漢詩人、画家としての江馬細香は存在せず、「冬夜」の漢詩も存在しない。この頼山陽と結婚できなかった不幸なご縁は、彼女の才能を惜しんだ神様のご配慮かもしれない。

 

【江馬 蘭斎】(1747~1838)

 伝馬町で版木彫を職業としていた鶴見壮蔵の長男として生まれる。大垣藩侍医江馬元澄の養子となり、医学の道に進む。大垣藩主氏教の侍医を勤める。養父を師として漢方医として活躍したが、46歳で蘭学を志し、江戸で前野良沢や杉田玄白に学び、大阪・京都よりも早く美濃に西洋医学をもたらした。患者には慈悲深く接し、自らは倹約を第一義として、硯の水さえ井戸水を用いず、雨水を受けて用いた。優れた才知を持って学門に励むとともに、蘭学塾「好蘭堂」を創設し、多くの門人を世に送り出した。

 この時代にあって92歳までの驚異的な長寿を全うした。「冬夜」の書かれた当時、80歳でまだ現役として、西洋医学の研究に励み、若人の指導にあたり、最期まで現役として活躍された。理想とする人生の歩き方である。人生50年といわれた時代、また侍医として誰よりも保障された身分にもかかわらず、46歳から全く新しい蘭学の志ざした。だからこそ、92歳まで活躍されたのだろう。そんな名声を聞いて、頼山陽が江馬 蘭斎のもとを訪ねてきて、細香とのめぐり合いの縁が生じたのである。

 

 江馬 細香、江馬蘭斎に関する肖像画、軸、史料、現物は「奥の細道むすびの地記念館」内の「賢人館」(大垣市船町)で展示されています。そちらをご覧ください。

 

図1 「冬夜」の碑  2011年1月17日撮影

図1 「冬夜」の碑  2011年1月16日撮影

図2 奥の細道むすびの地記念館

 

2017-08-09

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

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2017年9月 5日 (火)

「桜田門外ノ変」の検証 (19/28)大垣本陣

大垣でご懐妊 ---- 井伊直弼公と大垣

  弘化3年(1846年)1月、世子井伊直元公が逝去され、直弼公の身の回りが激変する。重臣の衆議の結果、井伊直亮公の世子として井伊直弼公が内定したので、即刻、江戸に上るようにとの藩主の直筆が早飛脚で彦根に伝達された。「仰山な行列は避け、なるべく軽装で、供廻りも少人数で」との指示である。

 

ご懐妊

 同年2月、井伊直弼公は藩主の指示で彦根を出発して江戸に向った。彦根から江戸の上る最初の宿が大垣宿本陣である。ここには明治天皇も宿泊されたことがある由緒ある本陣である。埋木舎で井伊直弼公の身の回りを世話していた里和が、彦根から大垣に派遣された。ここで直弼公に初めて夜の伽を勤めることになり、お世継ぎを宿すこととなる。後日、江戸屋敷に行き直弼公のお世話をする予定であったが、懐妊が分かったので彦根に留まることになった。生まれた子は愛麿と名付けられた。後年、直弼公の跡目を嗣いで、37代井伊直憲となる。里和は側室としての地位を得ることになる。

 

文化人たちの交流施設

 大垣本陣は、大垣の文化人たちの交流施設としても利用された。「桜田門外の変」の5年前の安政2年(1855年)には、大垣本陣に160名を超える俳人が集い、美濃派道統14世引継ぎ式が行われた。また、本陣役飯沼長矩の子の長侃は、京都で狂言を野村万造に師事して、大垣に帰ってから竹島狂連を結成して、大垣本陣で稽古や公演を行った。長矩の子の長温は、彫刻職人を屋敷内に住まわせ、植物学の開拓者の飯沼慾斎の『草木図説』の出版準備もここで行った。『草木図説』は日本で最初の近代的な植物図鑑である。大垣本陣は、従来の大名や公家、幕府の役人だけの施設ではなく、文化人が交流する施設の役割も担っていた。

 

明治天皇行在所跡

 明治11年(1878年)10月22日、明治天皇は東海・北陸御巡幸のため、竹島町の飯沼武右衛門邸(大垣本陣)に泊まられた。当時の飯沼邸は嘉永3年(1850年)に改築されていた。右大臣大倉具視、参議大隈重信、工部卿井上馨らを共にしての行幸である。付き添う役人は700名余とある。

 

復元された大垣本陣

 大垣本陣は、昭和20年の大垣空襲で燃えなかったので、修復され、現在の姿がある。当時のままの造りと姿が見学できる。何処で調べたのか、遠くの地からの見学者が絶えない。恥ずかしながら、私は本所を知らなくて9月3日に初めて見学して感激した。土日のみ開館で、無料です。町内の方が交代で説明をされている。

 

図1 大垣本陣

図2 大垣本陣模型

図3 昭和初期の大垣宿本陣の姿(大垣本陣の展示パネルより)

図4 明治天皇の玉座

図5 その隣の部屋 当時のままで再現。天井が高い

 

2017-09-05

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2017年9月 4日 (月)

「桜田門外ノ変」の検証 (18/28)

井伊直弼公の寵愛を受けた「志津」

 2015年6月15日、井伊直弼公が大垣宿を経由して江戸に上ったことを、井伊直弼公の伝記や小説で調べ始めた時に、舟橋聖一著『花の生涯』で志津の名に目が留まった。志津は、井伊直弼公が15年間の部屋住み生活を埋木舎で過ごしたとき、お世話をした女中で、直弼公の寵愛を最初に受けた女性である。早世ではあったが女児も生んでいる。

 その「志津」の名と、私の祖母の名が「志ヅ」と同じなのに気がつき、愕然とした。この小説『花の生涯』を20年前に読み、その名を目にしていて気がつかなかったご縁である。情けないが、あれども見えずとはこのことである。

 松居石材商店の松居店主の話では、彦根では名字に「井」を使うのが畏れ多いので、「松井」ではなく、「松居」としているとか。志津も「津」を使うのに気を使ったのかもしれない。

 

志津

 器量よしの志津は藩の足軽秋山勘七の娘で、16歳のとき埋木舎へ上がって家婢となり、その後、直弼の寵愛を受ける身となった。井伊家の慣わしで、足軽の娘では、妻どころか妾にもなれないので、誰か名のある藩士の養女にしてもらって、せめて側室の地位を望みたいと父は焦慮したという。

その後、志津は直弼を取り巻く女性、村上たか女との葛藤の中でノイローゼのようになり身を引く。その後を理和が直弼の身の回りの世話をすることになる。

 

祖母、志ヅ

 祖母はとても美人であった。街を歩くとき、男が寄ってこないように頭巾で顔を隠してあるいたとか言われている。祖父小田成健と結婚して、祖父が43歳の若さで傷害事件のために亡くなったので、6人の子供を抱えて、その後が苦労の連続であったようだ。努力家で能力が卓越していた小田成健は、42歳で大津警察署長に昇格したのを妬まれ二人の小官吏に襲われてそれが原因で、43歳の若さで亡くなった。その履歴が、44歳で桜田門外に散った井伊直弼公と重なる。夫の早すぎる死の後、不幸な人生を歩んだ祖母志ヅと志津とが重って見えた。

 志ヅは道仙の孫で、志ヅの父は道仙の子の文三であるから、文三は井伊直弼公の寵愛を受けた志津の存在は知っていて、あえて名づけたと思われる。そうでないと、この珍しい名前は付けまい。同じ名では差しさわりがあるので、「津」を「ヅ」に変えたようだ。文三は志津の1世代後の人だから、狭い彦根では志津とも面識があったのだろう。重次郎は芸の関係で埋木舎に出入りをしていて志津を良く知っていたのかもしれない。

 祖母もそれを知ってか知らずか、戸籍上での名は「志ヅ」であるが、通常は「志づ」で通していたようだ。当然、両親から名前の由来は聞いていたであろう。だからか手紙や文書では「志ヅ」が出てこない。その理由がやっと分かった。興味深いのは、昭和24年の行政からの領収書の名前に「小田志津」の宛名が見つかったこと。

 

図1 埋木舎 正門

図2 埋木舎 玄関

図3 長野主膳と井伊直弼公 埋木舎

図4 志津と里和 埋木舎

図5 埋木舎 庭より屋敷を見る

図6 埋木舎 客間

図7 埋木舎 座禅の間

 

2017-09-04

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2017年8月27日 (日)

桜田門外ノ変」の検証 (17/28)菩提寺

「桜田門外の変」との関わり

  長松院は彦根を開いた井伊直政公に由緒ある寺であり、観光名所の一つとしても存在する。徳川家の四天王の一人と言われた井伊直政が関ヶ原の戦いの傷がもとで亡くなった時、この地で荼毘に付し、その跡地にお寺を建立したことで長松院が建立された。井伊家の菩提寺としては彦根の古沢町に清凉寺がある。長松院、清凉寺ともに「格地」としての格式あるお寺である。(お寺は格地、法地、準法地、法類で分類される)

 

長松院

 長松院には元彦根藩士の家系のお墓がある。両親の墓と父の母方の祖先のお墓がここにある。また古沢町には母が生まれ育った家がある。父の母方の祖先である北尾道仙のお墓が、4つある北尾家の墓の一つとして、井伊直政公の供養塔の左側から10mほど離れた場所に、単独のお墓として立っている。お墓に刻まれた文字は風雪にさらされて、書いてある文字は読みにくい。2014年当時、私の小田家の墓はその斜め後の1つ通路を隔てた場所にあった。ご縁があり2015年末に新しいお墓に改建した。

 古沢町には、両親が残してくれた借家がある。これは古沢町の清凉寺が土地を市に分譲して、そこに両親が家を建てた経緯がある。いわば井伊家から御恩(禄)を頂いているようなものかもしれない。

 

清凉寺

 清凉寺は禅の曹洞宗のお寺である。観光寺ではなく、禅の修行道場として名高い。清涼寺の名の由来は、井伊直政公の戒名(祥壽院殿清凉泰安大居士)から来ている。佐和山城時代には、境内地には石田三成公の奥方、家老島左近の屋敷があった。

 歴代住職は、井伊家が徳川幕府の重臣としての権勢で全国から高僧を請じたので、悉くその時代における第一流の和尚ばかりであったから、修行道場として名声が高かった。井伊直弼公は、13歳より清凉寺で参禅され、21世道鳴和尚に禅と学問の手ほどきを受けた。そののち17歳から27歳まで、後任の住職師虔和尚に鍛えられ、高僧23世仙英和尚の元で参禅が仕上げられた。井伊直弼公は自分の住居の埋木舎にも座禅の間を設けて修行に励んだ。安政の大獄のさなか、住職と相談して戒名を受け、位牌を生前に作り、桜田門外の変の年の正月には自分の肖像画に歌を書き、清凉寺に納めた。井伊直弼公はここに参拝してから、江戸に発った。井伊直弼大老は、その年の3月3日に桜田門外の雪に散った。

 

恵峰師が清凉寺を訪問

 清凉寺住職の奥様に、松居石材商店の松居保行さん経由で馬場恵峰先生の訪問をお願いした。2015年11月28日、中部国際空港に着いた恵峰先生を米原経由の新幹線で彦根にお連れして、清凉寺を訪問した。馬場家のご先祖が武田家で、井伊家の赤備えとご縁があるからである。ご挨拶だけの予定であったが、客殿で応接を受け、本堂の奥まで案内をされた。私は初めてみる内部の荘厳さに驚嘆をした。将軍家の最側近である最高権力者の菩提寺である。華美ではないが厳かで壮大な造りである。この御本蔵の釈迦牟尼佛は運慶作と伝聞されている。観光寺ではないので、そのお姿は遠くからしか拝顔できなかった。

 井伊家歴代当主が祀られている奥の祭壇に案内をされて、しばしその荘厳さに圧倒された後、井伊直弼公や歴代の井伊家の菩提が祀られている御所の横にある武田家家臣の100以上の位牌が祀られてる部屋に案内された。突然の元武田家家臣の位牌の列を目前に見て、恵峰先生がただならぬ雰囲気で合掌された。私もあわてて合掌させていただいた。これは完全に虚をつかれたご縁の出現であった。佛縁により招かれたご縁であったと思う。

 武田家が滅んでから1582年の今川協定で、武田家の家臣120名を井伊直政公が井伊家に受けいれたという。井伊直政が進言して、勇猛な武田家の家臣をそのまま野に放つと戦国の乱の種になり不満分子を世に作ることを防いだという。知恵ある危機管理方策である。そこから、井伊家が武田家の赤備えをすることを家康公から授けられたという。

 

天童寺とのご縁

 奥の本堂に至る回廊に、中国の絵佛師・王峰が描いた佛画が掲示されていて、いつも長崎に先生宅で見ている作者と同じだと直ぐに気がついた。奥様に聞くと、清凉寺の行寛さんが中国に行ったとき、3枚買ってきて、その内の1枚を1階に飾ってあるという。素晴らしいご縁であった。恵峰先生は、中国の天童寺に6回も参拝されておられる。清凉寺の住職さんも天童寺に行かれたことがあるという。また清凉寺の住職が横浜の総持寺も勤められたこともあるとのこと。先生ともそのご縁に驚かれた。

 天童寺は、遣唐使の着いた港として日本に結ぶつきの深い古都・寧波にある中国の中でも有数の禅宗寺院である。唐の僧方璇が開元20年(732年)に建立された。北宋代以後、高僧が輩出。臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖である道元もここで修行をつんだ。

 2014年6月、恵峰先生は空海が修行をされた清龍寺で、お弟子さん達をつれて写経会をされたのも仏縁である。恵峰先生は清龍寺を13回ほど訪問されておられるとか。寛旭和上管主とも親密である。当時、私も写経ツアーに誘われたが、目の手術の関係で断念した経緯がある。書家で、恵峰先生ほど写経をされた方もおられまい。2015年、私は先生の写経の軸56枚を撮影して製本にしてまとめた。

 

 

図1 清涼寺全景

図2 書は井伊直愛氏

図3 説明看板

図4 客殿

図5 本堂

図6 修行道場

図7 井伊直政公のお墓

図8:馬場恵峰先生宅  2014年11月13日

   頭上に掲げられた王峰作佛画 敦煌57密菩薩

図9 清龍寺 寛旭和上管主に写経を4巻奉納

    2014年6月26日  福田琢磨氏撮影

 

2017-08-27

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2017年8月25日 (金)

「桜田門外ノ変」の検証 (16/28)

(8)代役の指導者を育成  

 彦根藩では藩主の子供は、世継ぎを除いて、養子に出るか、中級武士待遇以下の捨扶持300石で、一生、嫁も貰えぬ部屋住の身でしか生きる道が無い。これは2代目の井伊直孝の遺制である。井伊直孝は庶子であったが、嫡出の兄が病弱であったため、初代の井伊直政の遺領を受け継いだ。2代目の井伊直孝は井伊家の基礎を固めた名君であった。直孝がこのような制度を定めたのは、自分の経歴から、藩主に万一のことがあった場合、彦根藩を背負っていける能力の人材に後を継がせたい。そのために部屋住みの公子として厳しい環境に耐えて、藩を率いて行ける人材に育つことを期待したためである。人間は厳しい試練を受けないと育たないことを直孝は実体験で感じていたのであろう。

 

埋木舎(うもれぎのや) 

 直弼公が直孝の意図をどれだけ理解して生きたかは不明である。直弼公の言動からは、はっきりと認識はしていないようである。同じ肉親ながら、兄は藩主として、目の前の城の中にいる。京都御所の代行も可能な巨大な威厳に満ちた城砦の彦根城が目の前に在る。それに比較して自分は城堀を挟んで、数人の家臣と共に彦根城に比較すると米粒のような小さな屋敷の中で、幽閉のごとく悶々と日々を過ごさなければならない。井伊直弼公はこの部屋住の身を嘆いて、自分の住居を「埋木舎」と名付けた。大名の子でありながら、その持て余る才能を活用できないもどかしさが、ここで土に埋もれてしまった木のようだとの意味で「埋木舎」の命名になった。これは潜在意識に悪い影響を与えたようだ。その今までの鬱積した気持ちが、最高権力者となった時、純粋で過激な業務改革に向かわせたのかもしれない。やり過ぎは、やり足らないより悪い。小さな組織ならそれでもよかったが、日本という組織は大きすぎた。その思いを井伊直弼公は『埋木舎の記』に記す。

 

「これ世を厭うにもあらず。はた世を貪るごききかよわき心しおかざせれば、望み願うこともあらず。ただ埋もれ木の籠もり居て、なすべき業をなさましとおもいて設けしを、名こそといらへしままを埋木舎のこと葉とぞ」(『埋木舎の記』

 

 彼はここで32歳迄、15年間の青春を送った。しかし、直弼公が凡人ではない証に、「なすべき業をなさましとおもいて設けしを」と記述しているように、いまなすべきことを全力で修行として、自己に対し一日4時間の睡眠で足るとして、厳しい自己鍛練を続けた。そして武芸の居合術「新心新流」を創設した。その流義は、「勝ちを保つためには滅多に刀を抜いてはならぬ」といった「保刀」を基本とした。また槍術、柔術、馬術、弓術にも長けていた。禅の道でも、清涼寺へも参禅し、仙英禅師に帰依した袈裟血脈さえも授与された。茶道、和歌、能の世界では達人の域で、国学、書、湖東焼なども修行で身につけた。

 

文化人としての指導者

 井伊直弼公は一見、文武兼備の超人ではあったが、人間的には「茶・歌・ポン」とあだ名があったごとく文化人であり、苦労人で人情に厚い人であった。この文武兼備の能力を得るための人格形成の鍛練が、国難の時の国の舵取りという大役を全うさせたといえる。私の好きな言葉に「なにも咲かない冬の日は、下へ下へと根を伸ばせ」があり、まさに井伊直弼公は、約束もされない明日のために大木を支える根を下へ下へと伸ばして、大きな大木に成長したと言える。

 近年の指導者達を俯瞰すると、私利私欲に走るトップには、自然を愛でたり、精神文化に親しんだ形跡が少ない。指導者には人間としての素養を養う期間が必要である。

 

世の中をよそに見つつも埋木の

    埋もれておらむ心なき身は

                             直弼

 

図1 彦根城に渡る橋より見た埋木舎

図2 埋木舎の門より彦根城の城壁を見る

井伊直弼公は32歳までの15年間、毎日この景色を見ていた。どんな思いで兄の城を見ていたのだろう

 

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2017年8月24日 (木)

「桜田門外ノ変」の検証 (15/28) 主

組織と人生の危機管理

 ある日突然、脳梗塞、心筋梗塞に襲われ、後始末の言付けさえ言えず、旅立たねばならないことを、家系図を作ってみて身近に多く見た。いくら自分の健康に自信があり、身内に名医を抱えていても、心筋梗塞という閻魔様の一撃(ぎっくり腰は魔女の一撃という)には、全く手の施しようがない。井伊直弼公もなまじっか北辰一刀流免許皆伝の腕があったため、襲撃の予告があったが、そのまま江戸城に行列を進めた。井伊直弼大老は、組織として動いているので、護衛は部下に任せるのが上に立つ人の務めである。襲撃側の最初の一撃である短筒の一発が直弼公の腰を貫き、籠の中で身動きができなくなった。いくら腕があっても、後はなす術がない。時代の最先端の武器が、旧態依然たる防衛側の隙をついた。いくら内部を整えても、環境、外部の変化が現状維持を許さない。

 日頃から高血圧という佛様からのメッセージを無視すると、脳梗塞、心筋梗塞に襲われる。高血圧という体の警告が出ているのに、生活習慣を正さない愚かな人間が悲惨な結末を迎える。井伊直弼大老暗殺は、300年続いた泰平に世の歪が噴出して結末である。泰平の歪を直そうとして直弼公は荒療治をしたが、世の末の本質を理解しない暴走徒が、桜田門外の変を起こした。その対処療法として、急激な治療が人間の体を痛めると同じで、江戸幕府の体制も瓦解に進んでいった。

 

己はブラック企業の社長?

 ブラック企業の経営者は従業員の健康を無視して過重な労働を強いる金儲け亡者である。それが原因で過労死になる従業員も多い。その家族が企業を訴える時代となり、問題が顕在化してきた。

 同じ理屈で、体に必要以上の食べ物やアルコールを摂取すれば、胃も腸も肝臓も大忙しで、己の細胞に深夜勤務の過度の労働を強いて食べたものの消化・分解の仕事をしなければならない。体の臓器が超過勤務をしても処理しきれない残物が、体のあちこちに脂肪として堆積される。それが体の閻魔帳である。だからその人の体を見れば食生活の全てが自明である。神佛は食べ物が体に入ってこれば、えり好みせず消化をするするという体のしくみを造られた。そんな大事な体に、ブラック企業のような仕打ちをすれば、病気という罰があたるのも自然界の「理」である。それが最高の結果なのだ。それを「なんで私だけが」というのは不遜である。

 「主」とは「王」座に立つ自分の姿「、」である。それは蝋燭台の炎を象徴している。どんな蝋燭も何時かは燃料が切れて消える。燃えて燈をともしている間に、何を照らすかが人生で問われる。己の体、37兆個の細胞の王として体を支配して、何を食べようと飲もうと夜更かしをしても自由であるが、その横暴な行いは全て自分に返って来る。

 井伊直弼公は主座に座って、決めるべきこと決め、為すべきことを為した。その後に燃え尽きた。それも人生である。

 

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2017年8月23日 (水)

「桜田門外ノ変」の検証 (14/25)

井伊家の存在と彦根藩の位置

 同じ徳川家の四天王と称された4人の大名の中でも、井伊家は特別扱いである。京都の喉ぼとけに突き刺すように位置した彦根藩は、35万石を有し京都の朝廷に睨みを効かせている。当時、琵琶湖に面した彦根は東海道、北陸道につながる要所であった。他の四天王の大名の所領が、10万石程度なのに、彦根藩の35万石とは特別である。そんな深慮遠謀の布石を家康は、天下太平のために徳川創成期に布石をデザインして、結果として260年間の太平の世を創出したのだから、立派な危機管理体制のプランニングである。

 江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は、京都が攘夷対開国派との争いで危機状態になったとき、彦根城を仮の御所にして天皇を移って頂こうと画策した。そんな位置づけの彦根城と彦根藩である。

 

彦根城の歴史

 天守が国宝指定された5城のうちの一つである(他は犬山城、松本城、姫路城、松江城)。1992年に日本の世界遺産暫定リストに掲載されたが、近年の世界遺産登録の厳格化の下、20年以上推薦は見送られている。現在、彦根市は世界遺産登録課を新設して、登録に向けて力を入れている。

 徳川四天王の一人・井伊直政公は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。その佐和山城を、直政は、中世的な古い縄張りや石田三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画した。直政は関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。直政公の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始した。計3期にわたる工事を経て1622年(元和8年)すべての工事が完了し、彦根城が完成した。その建設には長浜城や佐和山城を壊して出た材料が使われた。現在、佐和山城は影も形もない。その後、井伊氏は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った。

 

 私も多くの城を見学しているが、こんなに階段が急なお城は経験がない。当時のままの階段形状である。彦根は第二次世界大戦で空襲に遭わなかったので、彦根城は残った。大垣城も国宝であったが、空襲で焼失した。残念なこと。

図1 彦根城 

図2 彦根城看板 松居石材商店作  文は彦根市市史編纂室作成

図3 城内の階段

 

2017-08-23

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2017年8月22日 (火)

「桜田門外ノ変」の検証 (13/25)戒名

死に装束

 彼は藩主の兄の死によって、彦根藩の領主になり、自分の意志とは関係なしに政治の表舞台に引き出される。それは「桜田門外の変」の5年前である。正に国難来る時である。その時の悩みや不安の心境を、故郷の親しい家臣宛に書状を送っている。その書面と一緒に彼の戒名を自筆で記した紙が同封された。

   戒名 宗観院殿柳暁覚翁大居士

 彼は老中になってから登城の際は、白装束の上に袴、紋付きを羽織っていた。そこに彼の決意が現れていた。死の覚悟はできているという死に装束の決意表明でもあった。彼は死の2ヶ月前の正月に正装した自分の肖像画を狩野永岳に描かせて、自詠の「あふみの海」とともに清涼寺に納めている。

  あふみ(近江)の海 

  磯うつ浪のいくたびか

  御世にこころをくだきぬるか那

 

 その意味は「琵琶湖の磯もいくたびも、激しい浪が襲ってきている。それは正に日本の置かれている姿そのものである。そんな世の中で、私は日本国のため心をくだいている。そして心身ともに砕け散る覚悟がある」である。この歌には井伊直弼公は辞世の歌として詠んだ匂いがする。

 近江の海とは琵琶湖を意味し、井伊直弼公の居城彦根城は琵琶湖のほとりに位置し、近海ににらみをきかす位置にある。その前は豊臣秀吉が長浜を交通の要所として、長浜城にその役目をさせたが、その長浜城を発展的に整理統合して、その建材も流用して使い、彦根城を建城した経緯がある。

 

戒名

 井伊直弼公は大老の就任が決まって江戸の上るときに、覚悟を決めて清凉寺の住職から戒名を授けてもらった。戒名は「宗観院柳暁覚翁」。「宗」は「宀」+「示」で構成され、「宀」は家屋、「示」は神事の意味である。「宗」は神事の行われる家屋、おたまやの意味を表し、転じて祖先や祖先を祭る一族の長の意味を表す。観るとは観音様の眼である。院とは、死後、その方のためにあの世で建てるお寺である。つまりご先祖が見守るお寺の住職との意味である。「柳暁覚」とは、日本の夜明けの暁を夢うつつに悟り、柳のごとく時世に逆らわず身を処する翁との意味である。

 覚悟を決めた人の行動はすさまじい。その2年後の1860年節句の日、桜田門外に白い雪が降る中、自身で人生劇場の幕を下ろしたかのように赤い雪が舞った。日本の開国という大仕事を成し遂げた後での閉幕である。その行列に同行した私のご先祖はどんな思いで、この惨劇を観たのか。

 

人生劇場の演題が戒名

 親は子供にこんな人になって欲しいと名前を付ける。その子供はその名を背負って人生を歩き、死後での修行のため、その人にふさわしい院号と戒名をお寺さんから授かり、来世の仏道での修行に励むことになる。

 テクニカルライティングの修辞上で、文書の大事な要素は結論である。その文書の冒頭の核文(トピックセンテンス)で文書全体の要点を総括する。その文書全体のまとめが表題で、表題はtopic(話題)とpurpose(目的)の入った言葉で表現をする。

 人生も同じである。その人の歩んだ履歴を院号と戒名の1つの名前で表現をされて墓誌に刻まれる。自分はどんな人生を歩むのか、自分の戒名を想定して人生の最終仕上げをするために歩みたい。自分の人生は、自分が創作する作品なのだ。その作品名である戒名(タイトル)にはこだわりを持ちたい。それは人生の生き様のこだわりである。

 

人生の旅

 人生とは師を求め、道を求め、縁を求め、死ぬ場所を探すための旅なのだ。その折々で詩(俳句)を詠い、仕事の足跡を残す。現世では、放浪院の住職として俳句を詠みながら、魂の浄化を求めて佛道を行じて歩く。その現世の仮の戒名が「報労院俳諧虎児」である。それが放浪院徘徊孤爺では寂しい。

 虎児は親から崖下に突き落とされても、自力で崖を這い上る。やっとの思いで崖を這い上がっても、崖の上に生み育ててくれた親の姿はない。虎児は一人で道を探し、一人で歩む。死ぬ時も一人である。後には戒名という痕跡だけが残る。やったことが報われなくとも、名前が残れば生きた証が残る。人生劇場の幕が下りて、その演題が墓誌に刻まれる。

 戒名とは、引導する僧侶の弟子として仏道を歩むために背負う名前である。葬式の時に戒名を付けるのは、緊急的な応急処置である。それではカンバン方式で、必要なときに必要な戒名を手配するせわしい生産方式になってしまう。本来は生前に戒名を授けて頂くのが正しい手順である。何事も飛び込み仕事はせわしない。だから私は余裕のあるうちに、戒名を授けて頂こうと思っている。一生に一度のことだから、準備をしすぎることはない。人生は覚悟を決めて歩みたい。

 

天命の道

 下記の論語は馬場恵峰師が好んで揮毫する書である。人生を覚悟すると、自然に天命に即した人生を歩むことができる。戒名の添え歌の言葉として論語のこの言葉を大事にしたい。

 

 吾十有五にして学に志す。

 三十にして立つ。

 四十にして惑はず。

 五十にして天命を知る。

 六十にして耳順(したが)ふ。

 七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず

[口語訳]

 「私は十五歳のとき学問に志を立てた。

 三十歳になって、その基礎ができて自立できるようになった。

 四十歳になると、心に迷うことがなくなった。

 五十歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できた。

 六十歳になると、人の言うことがなんでもすなおに理解できるようになった。

 七十歳になると、自分のしたいと思うことをそのままやっても、

 人の道を踏みはずすことがなくなった」と。

 

2017-08-22

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2017年8月19日 (土)

「桜田門外ノ変」の検証 (12/25)明治の墓標

石黒太郎の墓標

 井伊直弼大老が開国の決断・実行をして、勝海舟や福沢諭吉らを米国に派遣して種まいたことが、のちに石黒太郎という若者を米国で最新技術を学ばせる機会を与えた。才能ある若者を選抜しての派遣である。しかし、才能があるからといって、業績を残せるわけではない。明治に初期に若くして選抜されて、米国に留学したエリートでも、病に冒されれば、黄泉の国に不本意ながら行かねばならぬ。その前の幕末の時代は、国のためと命を懸けて戦って、挙句に賊軍にされた有為の若者が多くいる。その流された血のお陰で今の日本の繁栄がある。そういう日本のご先祖のためにこそ、我々は精進せねばなるまい。

 石黒太郎は井伊直憲公(井伊直弼公の跡継ぎ)の学友として、井伊藩の名誉と日本の名誉を背負って選ばれて、米国の大学に派遣され学んで、鉄道技師として働いた。当時の侍の気質として、主君のためとして命がけで、業務に取り組んだのだろう。素晴らしい業績を若くして出したが、無理をした咎が、彼の体を蝕ばみ、24歳で彼岸に旅発った。明治の国造りのために戦った若人の戦死である。哀しい当時の若者の姿である。石黒太郎を筆頭にして、米国で学んだ鉄道技師達や他の分野での若者の頑張りがあったから、後年、英国から鉄道技術を導入できて、日本の鉄道技術が発達した。今の新幹線技術はそのお陰である。他の分野でも、同じような頑張りがあり、急速に欧米列強に追いつくことができた。当時の若者には列強から侵略されるとの危機感と、建国への情熱があり、国造りに邁進した。それが出来なかった近隣アジア諸国は植民地にされた。

 

勝海舟の弔文

 石黒太郎のための勝海舟の弔文には、明治初期の若者の姿が浮き彫りにされている。このお墓は天寧寺境内に建てられたが、その後、天寧寺の山上の無縁墓地に移築されて、今は訪ねる人もいない。後面の弔辞文も、置かれた場所が坂壁の際のため、良く見えない状況にある。彼が生きた証が、勝海舟の弔辞の文とそれを碑文に書した鳴鶴の碑文に残る。そのお墓の大きさから推定して、当時の井伊家の代表としての期待の大きさが偲ばれる。

 

馬場恵峰先生を石黒太郎の墓へ案内

 ご縁があり、松居石材商店の松居保行店主に、この石黒太郎のお墓の存在を教えてもらった。私も私のお墓の開眼法要で、馬場恵峰先生を彦根にお招きした時(2015年11月28日)、石黒太郎氏のお墓に案内をした。ご縁の巡りあわせに感謝です。石黒太郎の墓石の彫られた日下部鳴鶴の書体の彫り方を見て、恵峰師はその彫り方の解説をされた。石の彫り方にも高度な技法がある。石黒太郎の墓は無縁の墓として、墓地の山奥のほうに置かれており、訪ねるものもない。石黒太郎の墓の裏面には、勝海舟の弔辞を日下部鳴鶴が揮毫して彫ってある。この墓石は文化財としても貴重であるが、今は捨てられたように置かれている。

 馬場恵峰先生ご夫妻が、石黒太郎の墓石に彫られた鳴鶴の端正で美しい字体をなでるように慈しまれたのには驚きであった。先生の師である原田観峰師は、日下部鳴鶴の字をお手本に日本習字を創業した。日下部鳴鶴は馬場恵峰先生の宗家にあたる。

 

文化財保存の責務

 この石黒太郎氏のお墓は、松居石材商店の三代目、松居六三郎氏が制作された。墓石は和泉石である。このお墓は傘が付けられているので、材質は砂岩ではあるが、森の中に設置されたこともあり保存状態は良い。この墓は当初、松居石材商店の家のお墓の近くに位置していた。この記事は、その裏面の文面を松居保行店主が見て、その拓本を取り、彦根市市史編纂室で解読してもらったことに起因する。石黒家は現在、絶家となっているので、お参りする人もいないので、現在に無縁墓の集積場に集められて、無造作に置かれている。日本の夜明けの時代に、建国に貢献された方のお墓が打ち捨てられているのは嘆かわしい。いわば建国に汗を流したご先祖にあたる方を祭らずして、日本の未来はない。このお墓は歴史の証としても、文化財としても、彦根市の責任で、きちんとした形で保存をしていただきたい。文化財をないがしろにしては、文化国家の看板が泣く。 

 

図1 日下部鳴鶴からの手紙  松居石材商店の松居保行氏蔵

 日下部鳴鶴は、「「知己中の知己」である親友の石黒氏の墓標の仕事で、「謝礼を受け取る気持ちは全くなく、石黒氏の遺族に対してもそのような心配はやめて欲しい」と訴えた手紙である。

図2 石黒太郎の墓石(天寧寺)

図3 石黒太郎の墓石。無縁のお墓が集められた場所にある。

図5 石黒太郎の墓石の撮影準備

  墓石の裏面を撮影するために、松居店主さんに携帯発電機を用意していただき、ライトで照らして撮影した。2015年9月30日

図6 石黒太郎の裏面の弔文

  この弔文を書いた勝安芳とは勝海舟である。学友として名前がある原田要・松永正芳・平岡煕はいずれも鉄道技師である。石黒太郎の鉄道局時代の同僚と思われる。

図6 石黒太郎の裏面の弔文 部分

   日下部鳴鶴の端正で美しい字が彫られている。恵峰先生の字体とそっくりである。

図7 石黒太郎の墓を見る馬場恵峰先生ご夫妻  2015年11月28日

図7 石黒太郎の墓の弔文 原文

図8、9 石黒太郎の墓の弔文 現代語訳   彦根市市史編纂室作成

 

2017-08-19

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2017年8月18日 (金)

「桜田門外ノ変」の検証 (11/25)DNAの伝承

豊田佐吉翁に受け継がれたDNA 

 江戸時代の鎖国から開国への転換は、井伊直弼大老の決断に起因する。時代は幕末の騒動を経て、明治維新を迎える。開国して西洋の文化が入ってきて心をときめかせた若者が、三河の片田舎の豊田佐吉である。佐吉はスマイルズ著『自助論』(中村正直訳『西国立志編』)に啓発された。同書には、紡績機械や動力織機などの繊維機械を考案した発明家についての記述があり、彼の向学心を高めた。自助論は、当時のベストセラー福沢諭吉の『学問のすゝめ』と並び、明治時代の人気書籍であった。1885年4月には「専売特許条例」が公布され、発明の奨励とその保護が打ち出された。佐吉は、これに強い関心を持ち、織機の発明を志すきっかけになった。佐吉の母が内職で夜遅くまで手織りの織機に苦労をしている姿に発奮し、母を助けようと、自動で機織機の矢を動かす発明に没頭した。それが豊田式自動織機の始まりである。その特許を英国に売却した資金で、トヨタ自動車が生まれる。

 

『自助論』

 『自助論』 は、300人以上の欧米人の成功談を集めた成功哲学書である。私も、本書を佐吉の歴史も知らずに、訳者竹内均氏の生き方に感銘を受けて、竹内氏の訳本だからと読んだ。本書は「桜田門外の変」の前年1859年に刊行された。そして明治になり開国で、豊田佐吉が手にする縁が生じた。その100年後、私もその本を手にした。

 訳者の中村正直は、江戸で幕府同心の家に生まれ、昌平坂学問所で学び、佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を習った。後に教授、さらには幕府の儒官となる。幕府のイギリス留学生監督として渡英して、帰国後は静岡学問所の教授となる。教授時代の1870年(明治3年)に、『Self Help』を『西国立志篇』の邦題(別訳名『自助論』)で出版して、100万部以上を売り上げ、福澤諭吉著『学問のすゝめ』と並ぶ大ベストセラーとなった。序文にある‘Heaven helps those who help themselves’を「天は自ら助くる者を助く」と訳したのも彼である。

 

『学問のすゝめ』

 咸臨丸で渡米した福沢諭吉は、見聞した知識で『学問のすゝめ』を著し、1872年(明治5年2月)初編が出版された。当時の若者を鼓舞して、新しい国造りに貢献した。共に井伊直弼大老のDNAを受け継いだと言える。明治維新直後の日本国民は、封建社会と儒教思想しか知らなかった。本書は欧米の近代政治思想、民主主義、市民国家の概念を説明し、儒教思想を否定して、封建支配下の無知蒙昧な民衆から、近代民主主義国家の主権者へと意識改革することを意図した。また日本の独立維持と明治国家の発展は知識人の双肩にかかっていることを説き、福澤自身がその先頭に立つ決意を表明している。本書は、明治維新の動乱を経て、新時代への希望と、国家の独立と発展を担う責任を明治の知識人に問い、日本国民に広く受容された。近代の啓発書で最も売れた書籍である。最終的に300万部以上も売れ、当時の日本人口は3000万人程だから、国民の10人に1人が買った計算になる。

 

トヨタ自動車とのご縁

 そのトヨタ自動車が今あるのは、明治時代初期に豊田佐吉翁が自動織機の発明に没頭し、豊田式自動織機の特許の売却資金で、新事業への展開したことにある。豊田佐吉翁は、トヨタ自動車創業者の豊田喜一郎氏に、「俺は織機で御国に尽くした。お前は自動車で御国に尽くせ」と言い残した。企業・産業を起こすものは、志が必要である。単なる金儲けが目的では、目指す次元に差がでる。御国(公共)に尽くすためには、材料、設計、工作機械、生産技術の全てを自前で国産化しないと、当初の理念が達成できないとの考えから、車作り、人作り、会社のしくみ作りを始めた。そこに今のトヨタ自動車の礎がある。

 国の産業の発展を目的に、全て自分達の手で開発したことから、トヨタ生産方式、カンバン方式、現地現物といった日本のモノづくりの原点、手法が生まれてきた。実際に手を汚し、苦労をしないとモノつくりの技は手に入らない。日産からはそんな開発の苦労話から生まれたノウハウの伝承は聞こえてこない。企業DNAの影響の恐ろしさは、50年後、100年後に影響する。

 

日産との薄縁

 1933年に日産の鮎川義介氏は、自動車工業株式会社(現在のいすゞ自動車)よりダットサンの製造権を無償で譲り受け、同年12月ダットサンの製造のために自動車製造株式会社を設立する。設備も図面も設計者も無償で譲り受けた。鮎川義介氏は、車で金を儲けるため、一千万円を持って渡米して、図面、中古の工作機械、生産技術の全てを輸入し、アメリカの技術者をも連れて帰り、車の生産を始めた。豊田喜一郎氏の志とは対照的である。そして半世紀が経って、その志の差が表れて、日産がルノーに乗っ取られる因果となった。

 トヨタと日産の二つの初代乗用車を並べてみると、技術は未熟ながら純日本文化の繊細な造りこみをした車と、欧米式のがさつな車つくりの差が一目瞭然である。(図2、図3)

 その結果が、主力車であった「青い鳥(ブルーバード)」を籠から放ち(2001年製造中止)、蓄えてきた信用と財産を切り売りし、短期で利益が出たように見せかけ、自社のみが儲かる体制つくりに専念する。そして二人で育てた「愛のスカイライン」はメタボ化して、昔の熱烈な「愛」は冷めてしまった。30年前の私も、ケンとメリーのスカイラインには憧れていた。そこには開発者である桜井眞一郎リーダーの情熱があった。ルノーの拝金主義経営に染まった日産からは、その情熱は消え、魅力的な車が生まれなくなった。それでいて日産のゴーン社長の年俸は10億円に迫り、平均役員報酬は1億円を超え、トヨタのそれの数倍もある。それに対して一般社員の平均給与は、トヨタよりも低い。ゴーン氏はそれを「恥じることはない」と恥さらしに豪語する。何かおかしい。

 

拝金主義の腐臭

 一部の人だけが富を独占して幸せになり(本当に幸せか?)、99%の人が不幸になる社会を、我々は目指してきたのだろうか。この構図は共産中国の党幹部だけが、富を独占している姿に似ている。グローバル経済主義=拝金主義社会である。豊田佐吉翁、豊田喜一郎の顔と鮎川義介氏、ゴーン氏の顔を比較すると、人相学的に興味深い。ゴーン氏の顔は典型的な狩猟民族の顔である。鮎川氏の人相は前者に比較して人徳に薄いように見える。著作権の関係で顔写真を掲載できないので、画像検索で顔を比較して考えてください。

 

DNAの断絶

 2001年から8年間、自分は技術者教育に携わり、新人・中堅技術者の教育の一環として、トヨタグループの産業技術記念館の見学を引率した。この技術記念館は、豊田佐吉が明治44年に自動織機の研究開発のために創設した試験工場の場所と建物を利用して建設された。この記念館は、展示機械が全て動く状態で展示されている世界最大の動態博物館である。

 図6は新会社の新入社員を引率して、遠路3時間の産業技術記念館にバスで行った時の記念写真である。自分にとって若手技術者の成長を祈念した最後の引率研修となった「余分な事は教えるな。技術だけを教えればよい」という成果主義に染まった上司の役員・部長と教育方針が合わず、ある理不尽な事件を機に、私は閑職に飛ばされた。後任者の怠慢で、この講座は消滅した。教育の成果は10年後であるが、拝金主義者の目は、そこまで見ていない。近年は、日産、三菱自動車、タカタ、VWと、自動車業界は創業者の志に復讐されている企業が続出している。

 この産業技術記念館は、全ての人に開放されており、近隣諸国からも多くの人が団体で見学に訪れている。ここに見学に来て学んでいる若者の企業に、前職の会社が段々取り残されていくようで、寂しく情けない限りである。

 

図1 『西国立志篇』  トヨタ自動車75年史HPより

図2 トヨタ初の純国産乗用車トヨダAA型 1936年 (復元車)トヨタ自動車HPより 

図3 日産初の乗用車ダットサン12型 1933年(日産HPより)

図4 豊田佐吉翁の伝記ビデオを鑑賞 (産業技術記念館)

図5 豊田式自動織機の実演に見入る中堅技術者

   美人説明者に見とれている?(産業技術記念館)

図6 最後の見学会

 

2017-08-18

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