« インプラント 33(経営スタイル) | メイン | 「100mの巻物」という人生(1/2) »

2017年8月19日 (土)

「桜田門外ノ変」の検証 (12/25)明治の墓標

石黒太郎の墓標

 井伊直弼大老が開国の決断・実行をして、勝海舟や福沢諭吉らを米国に派遣して種まいたことが、のちに石黒太郎という若者を米国で最新技術を学ばせる機会を与えた。才能ある若者を選抜しての派遣である。しかし、才能があるからといって、業績を残せるわけではない。明治に初期に若くして選抜されて、米国に留学したエリートでも、病に冒されれば、黄泉の国に不本意ながら行かねばならぬ。その前の幕末の時代は、国のためと命を懸けて戦って、挙句に賊軍にされた有為の若者が多くいる。その流された血のお陰で今の日本の繁栄がある。そういう日本のご先祖のためにこそ、我々は精進せねばなるまい。

 石黒太郎は井伊直憲公(井伊直弼公の跡継ぎ)の学友として、井伊藩の名誉と日本の名誉を背負って選ばれて、米国の大学に派遣され学んで、鉄道技師として働いた。当時の侍の気質として、主君のためとして命がけで、業務に取り組んだのだろう。素晴らしい業績を若くして出したが、無理をした咎が、彼の体を蝕ばみ、24歳で彼岸に旅発った。明治の国造りのために戦った若人の戦死である。哀しい当時の若者の姿である。石黒太郎を筆頭にして、米国で学んだ鉄道技師達や他の分野での若者の頑張りがあったから、後年、英国から鉄道技術を導入できて、日本の鉄道技術が発達した。今の新幹線技術はそのお陰である。他の分野でも、同じような頑張りがあり、急速に欧米列強に追いつくことができた。当時の若者には列強から侵略されるとの危機感と、建国への情熱があり、国造りに邁進した。それが出来なかった近隣アジア諸国は植民地にされた。

 

勝海舟の弔文

 石黒太郎のための勝海舟の弔文には、明治初期の若者の姿が浮き彫りにされている。このお墓は天寧寺境内に建てられたが、その後、天寧寺の山上の無縁墓地に移築されて、今は訪ねる人もいない。後面の弔辞文も、置かれた場所が坂壁の際のため、良く見えない状況にある。彼が生きた証が、勝海舟の弔辞の文とそれを碑文に書した鳴鶴の碑文に残る。そのお墓の大きさから推定して、当時の井伊家の代表としての期待の大きさが偲ばれる。

 

馬場恵峰先生を石黒太郎の墓へ案内

 ご縁があり、松居石材商店の松居保行店主に、この石黒太郎のお墓の存在を教えてもらった。私も私のお墓の開眼法要で、馬場恵峰先生を彦根にお招きした時(2015年11月28日)、石黒太郎氏のお墓に案内をした。ご縁の巡りあわせに感謝です。石黒太郎の墓石の彫られた日下部鳴鶴の書体の彫り方を見て、恵峰師はその彫り方の解説をされた。石の彫り方にも高度な技法がある。石黒太郎の墓は無縁の墓として、墓地の山奥のほうに置かれており、訪ねるものもない。石黒太郎の墓の裏面には、勝海舟の弔辞を日下部鳴鶴が揮毫して彫ってある。この墓石は文化財としても貴重であるが、今は捨てられたように置かれている。

 馬場恵峰先生ご夫妻が、石黒太郎の墓石に彫られた鳴鶴の端正で美しい字体をなでるように慈しまれたのには驚きであった。先生の師である原田観峰師は、日下部鳴鶴の字をお手本に日本習字を創業した。日下部鳴鶴は馬場恵峰先生の宗家にあたる。

 

文化財保存の責務

 この石黒太郎氏のお墓は、松居石材商店の三代目、松居六三郎氏が制作された。墓石は和泉石である。このお墓は傘が付けられているので、材質は砂岩ではあるが、森の中に設置されたこともあり保存状態は良い。この墓は当初、松居石材商店の家のお墓の近くに位置していた。この記事は、その裏面の文面を松居保行店主が見て、その拓本を取り、彦根市市史編纂室で解読してもらったことに起因する。石黒家は現在、絶家となっているので、お参りする人もいないので、現在に無縁墓の集積場に集められて、無造作に置かれている。日本の夜明けの時代に、建国に貢献された方のお墓が打ち捨てられているのは嘆かわしい。いわば建国に汗を流したご先祖にあたる方を祭らずして、日本の未来はない。このお墓は歴史の証としても、文化財としても、彦根市の責任で、きちんとした形で保存をしていただきたい。文化財をないがしろにしては、文化国家の看板が泣く。 

 

図1 日下部鳴鶴からの手紙  松居石材商店の松居保行氏蔵

 日下部鳴鶴は、「「知己中の知己」である親友の石黒氏の墓標の仕事で、「謝礼を受け取る気持ちは全くなく、石黒氏の遺族に対してもそのような心配はやめて欲しい」と訴えた手紙である。

図2 石黒太郎の墓石(天寧寺)

図3 石黒太郎の墓石。無縁のお墓が集められた場所にある。

図5 石黒太郎の墓石の撮影準備

  墓石の裏面を撮影するために、松居店主さんに携帯発電機を用意していただき、ライトで照らして撮影した。2015年9月30日

図6 石黒太郎の裏面の弔文

  この弔文を書いた勝安芳とは勝海舟である。学友として名前がある原田要・松永正芳・平岡煕はいずれも鉄道技師である。石黒太郎の鉄道局時代の同僚と思われる。

図6 石黒太郎の裏面の弔文 部分

   日下部鳴鶴の端正で美しい字が彫られている。恵峰先生の字体とそっくりである。

図7 石黒太郎の墓を見る馬場恵峰先生ご夫妻  2015年11月28日

図7 石黒太郎の墓の弔文 原文

図8、9 石黒太郎の墓の弔文 現代語訳   彦根市市史編纂室作成

 

2017-08-19

久志能幾研究所 小田泰仙  HP: https://yukioodaii.wixsite.com/mysite

著作権の関係で無断引用、無断転載を禁止します。

1

2

3

4

5

6

7

8

91

102

コメント

コメントを投稿